第39話  ただ、そばに


(そうや。僕が、ごめん、や)

 僕は、そっと体を起こして、ベッドから立ち上がる。

服の袖と手のひらで、しっかり涙を拭う。

ドアの外では、想子さんが泣いている気配がする。

想子さんをこれ以上、ひとりで泣かせたくない。

ひとりで泣かせた時間の分、想子さんが、僕から離れていってしまう。

そんな気がした。

弟としてでも、そばにいることさえできなくなったら、

―――――僕は、二度と立ち上がれない。


 カチリ。

鍵を開けて、部屋を出る。

ドアの横で、しゃがみ込んでいる想子さんの肩を両手でそっと包むように抱えて、立たせる。

「こんなとこ、ずっと座ってたら、冷えるで」

少し笑いを含んだ声で言ってみる。

いつもの僕の調子を、必死で思い出しながら、言う。


「ごめん。ダイ」

小さな声で、うつむいたまま彼女が言った。

僕は、彼女の肩にのせた両手をそっとその背中に回して、腕の中に抱え込む。こうすれば、涙で赤くなっている目を彼女に見せないですむ。


「ほんまにひどいで、想子さん。イギリスにも相談してるのに、一緒に住んでる僕には、今まで何も言わんとおるって。めっちゃ、びっくりしたやんか」

「うん。ごめん」 僕の腕の中で、想子さんがうなずく。

「高校生に相談してもしゃあない、て思ったんかもしれへんけど、毎日一緒にいてる僕を後回しにしたらあかんやん」

「うん。ごめん。・・・・・・あ、でも、相談してもしゃあない、なんて思ってへん。・・・・・・ただ、いつ言おういつ言おうって、迷ってただけ」

「なんで、迷うの?」

「・・・・・・わからへん。うまくいわれへんけど、なんか、言われへんかった」


 僕は、想子さんを抱える腕にかすかに力を込めて、訊く。

「ほんまに、行きたいの? イギリス」

「行きたいのは、行きたい」

「いつから行きたかったん?」

「大学生の頃から。でも、長期で行くのは不安で、行く勇気なかった」

「そうか。もともと、イギリスは好きって言うてたもんな。・・・・・・行って、何がしたいん?」

「いろんな景色を見たり、街を歩いて、お店眺めたり。博物館や美術館巡ったり」

「うん」

「描いてみたい景色や建物やモノがいっぱいあるねん」

「うん」

「その街に暮らしながら見えてくるものを、絵や文章に表したいなって」

「うん」

「ダイもここから飛び立っていくし、私も、ぼーっとしてたらあかんな、動きださなあかんな、て」

「まだわからんけどな。受かるかどうかによっては」

「何言うてるん。『絶対、受かる』って気合いでいかな」

「まあ、そやけど」

「大丈夫。ダイはきっと受かる。私が太鼓判押す!」

「えらいテキトーな太鼓判やな。想子さんの保証で合格できるんなら、うちの前に、受験生の長蛇の列ができるわ」

「他の人は知らん。ダイやから、保証できるねん。ダイのことは、私が一番知ってるから」


 (ダイのことは、私が一番知ってる?・・・・・・ほんとに? 想子さん)

「ほほう。大きく出たね。・・・・・・じゃあ、僕が、今何がしたいかわかってる?」

「もちろん」

「言うてみ」

笑いながら、腕の中の想子さんを見下ろす。

「腹減った。晩ご飯食べたい」

「え、なんで、わかるん?」 

(想子さんてば・・・・・・まったく)僕は、心の中でため息をつく。

「お見通しやわ」

想子さんが笑う。

そのとき、僕のお腹の虫が、ぴったりのタイミングで、ぐぐっと鳴いた。

(ああ。なんでやねん!このタイミングで)

「ほらな」

ひとの気も知らないで、得意げに想子さんが笑った。

「用意してあるから。食べよ」

「うん。わかった。着替えたら、行くわ」

「今日のメインは、銀鱈の西京焼きやで」

「いいね」


 階下に降りていく想子さんの後ろ姿を見送りながら、僕は、ひそかに胸をなで下ろす。

これまでとこれからの2人の時間を、あやうくすべて失うところだった。

ギリギリのところで、自分を立て直せたことに、僕は心底ほっとしていた。

『どこにも行くな』と言って、これを機に一気に告白してしまう、その選択もないではなかったけど。

 意気地なしと言われても、僕は、今の2人の時間を失いたくなかった。

あと何日、こうして、2人で過ごせるのか、わからないけど。

―――――ただ、そばにいたくて。

 腕に残る、温かな想子さんの気配を、僕は心の中で、じっと抱きしめる。


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