4章 光の向こう側

第1話 それは小さな世界を創る

 冬の気配もすっかり濃くなり始め、息もそろそろ白くなるだろうか。朝ベッドから出るのが辛くなるだろうかというころ。


 「煮物屋さん」のご常連で、毎週日曜日の遅めの時間に来られるお客さまがいる。いつも溌剌はつらつとされていて、大きな声で笑う、とても気持ちの良い女性だ。


 今日は日曜日。そろそろ21時になるだろうか。佳鳴かなるは厨房に置いてある小さな置き時計に目を走らす。


 そのタイミングで、「煮物屋さん」の開き戸が開かれた。


「こんばんは!」


 鼻を赤くして元気なご挨拶とともに入って来られたのは、先述の女性のご常連、高橋たかはしさんだ。


「こんばんは、いらっしゃいませ」


「いらっしゃいませー」


 高橋さんはせかせかとベージュのコートを脱いで壁のハンガーに掛け、千隼ちはやから温かいおしぼりを受け取った。


「あ〜お腹ぺっこぺこやぁ。ハヤさん、まずは「カナディアンクラブ」のハイボールください! お米とお味噌汁はいつも通り締めにいただきますね」


 カナディアンクラブは、カナダのオンタリオ州ウィンザーの蒸溜所で育まれたカナディアンウイスキーである。カナディアンウイスキーの先駆者とも言われる、多くの国で親しまれているウィスキーだ。爽快ですっきりとした味わいと、ほのかな甘みを持つ逸品である。


「はい。かしこまりました」


 この高橋さん、とても良く召し上がるお客さまで、まずはお酒を飲みながらお料理を楽しまれ、その後に白米と味噌汁を召し上がられるのだ。


 細身でスタイルの良い方なので、佳鳴はどこにそんな量が入るのだろうと思ってしまう。しかし美味しそうにたくさん召し上がるのを拝見するのはとても気持ちが良い。


 カナディアンクラブでハイボールを作ってお渡しし、続けてお料理を整える。


 今日のメインは豚肉と長芋の煮物。彩りはほうれん草だ。


 豚肉はロースの塊肉を買うことができたので、贅沢に厚めに切り、軽くお塩を振ってフライパンで香ばしく焼き付ける。


 長芋は半月切りにし、こちらも厚めに切ってある。火を通すとほくほくになる長芋のお陰で煮汁にほのかにとろみが付き、豚肉に良く絡む。味沁みも良く、柔らかな旨味が口に広がるのである。


 小鉢はタラモサラダと青ねぎたっぷりの卵焼きだ。


 タラモサラダは明太子を使った。マヨネーズは控えめに、明太子のぷちぷちと刺激的な辛みを活かす。


 水分をしっかりと飛ばすために粉吹きにしたじゃがいもは荒く潰して、じゃがいものほくほく感も残す様にしている。だから和え衣は少し強い味でも大丈夫なのだ。隠し味として、じゃがいもが熱いうちにバターを落としている。


 青ねぎの卵焼きには濃いめに出したお出汁を少々加えているので、青ねぎの爽やかなアクセントがありながらも優しい味わいである。


「あ〜っ、ハイボールが沁みるぅ。この煮物、白いのが長芋ですよね?」


「そうですよ」


「長芋のこんな食べ方、私初めてです!」


 高橋さんはさっそく長芋をおはしで割り、口に入れる。そして「へぇ〜」と目を丸めた。


「ほっくほくやぁ。あ、でもそっか、串かつの長芋もほくほくですもんね。長芋って火を通すとこうなるんですよね。美味しいです! 豚肉も美味しいです!」


「ありがとうございます」


「タラモサラダとか卵焼きとか、こういうのも作るんって地味に面倒やったりしますもんね。だから嬉しいです! ここで食べたら確実に美味しいの判ってますから!」


「ふふ、ありがとうございます」


 高橋さんの称賛に、佳鳴は笑みをこぼす。こんなことを言っていただけて、料理人冥利に尽きるというものだ。


「あ、高橋さん、お預かりしていたフライヤー、終わりましたよ」


「ほんまですか!? ありがとうございます!」


 千隼のせりふに、高橋さんはぱぁっと満面の笑みを浮かべた。その中にはきっと安堵も含まれている。


「ほんまに助かりました! そう数を刷った訳や無いんで、ノルマも多くは無かったんですけど、実際問題、どこに配ったらええんやって話で。会社で配っても限度がありますから」


 高橋さんが心底ほっとした様に笑みを浮かべると、少し離れた席から声が上がった。ご常連の男性、赤森あかもりさんだ。


「高橋さん、俺もフライヤーもろたで。絶対に観に行くからな!」


「わぁ赤森さん、ありがとうございます!」


 赤森さんの活きの良いせりふに、高橋さんは笑顔を投げた。


 この「煮物屋さん」で、高橋さんが所属される小劇団の公演のフライヤーをお預かりしていたのである。それをお会計の時にお客さまに手渡ししていた。


 ハガキサイズなので店内で場所をそう取ることも無く、お客さまも受け取りやすかった様だ。


 劇団員のおひとりがデザイナーさんで、その方が制作を手掛けられたのだと言う。確かに素人臭さのまるで無い、格好良いフライヤーだった。


「もう来週なんですねぇ。練習はどうですか?」


 佳鳴が聞くと、高橋さんは「順調です!」と元気に応える。


「まだまだつたないって解っちゃいるんですけど、皆一生懸命です。少しでもええもんを観てもらうんやって。お話そのものは著作権の切れた名作の現代版アレンジですから、オリジナル脚本よりは馴染んでいただけるやろかって思うんですけど」


「そうですね。取っ掛かりがあれば、ご覧いただきやすいでしょうしね」


「それはそれで、ご覧いただく方との解釈違いとかもあるかと思うんですけど、そこは違いを楽しんでいただきたいです」


「奥が深いんですねぇ」


 高橋さんは舞台俳優さんなのである。ご本人は「そんな大げさなもんや無いですよ」と謙遜けんそんされるが、1度舞台に立てば、そしてそれを継続されているのなら、もう立派な俳優さんだと佳鳴たちは思っている。


 高橋さんいわく、これは「クラブ活動」の延長の様なものなのだと言う。毎週日曜日の夜の2時間ほど、梅田のスタジオを借りてストレッチや発声練習をされているのだ。


 そして本番は1年に1度。発表会の様な感覚なのだそう。舞台と客席の境があまり無い様な小さな劇場をレンタルされる。


 お客さまからいくばくかの入場料をいただくが、それは全て経費に消えてしまう。それどころか持ち出しもあるのだそうだ。それでも公演というモチベーションはやはり必要で、そのために尽力されている。


 気楽に活動をされてはいるが、決してふざけていたり手抜きをしている訳では無い。皆さま、楽しみながら真剣なのだ。それは高橋さんのお話からも伝わって来る。


 年に1回の本番前、その週だけは毎日練習をされるのだと言う。


「来週は毎日練習です。せりふを覚えたりは個人で家でも出来ますけど、合わせるのはそうも行かへんですからね。本番まで少しでもええもんにしたいですから」


「私たちも拝見したいんですけど、お店がありますからねぇ」


 公演日は来週末の金曜日の夜、1回こっきりの公演である。


「思い切って休みにしてまえば? あ、高橋さん、私たちも観に行くからねー」


 門又かどまたさんが言い、さかきさんと並んで高橋さんに手を振った。


「ありがとうございます!」


 高橋さんは門又さんたちにがばっと頭を下げる。


「そうですねぇ」


 佳鳴はふわりと笑う。


「ふふ、そんなことを言われたら揺らいじゃいますねぇ。前の時も拝見出来ませんでしたからねぇ」


 高橋さんがこの「煮物屋さん」のご常連になられてから、今回が2回目の公演なのだ。前回の時もフライヤーをお預かりした。


 まだ「煮物屋さん」に来られ始めたころの高橋さんが、フライヤーの束を手に大きな溜め息を吐かれていたものだから、佳鳴がつい声をお掛けしてしまったのだ。


 するとフライヤーの配り先にお困りだとおっしゃるので、「煮物屋さん」でお預かりすることにしたのだった。


「でも店長さぁん、まだ1週間もあるからぁ、今からやったらお休みするって言っても大丈夫や無ぁい?」


 榊さんの言葉に佳鳴は「そうですねぇ……」とうなってしまう。


 高橋さんの公演を観たいのは本心なのである。劇団のことを話される高橋さんは本当に楽しそうできらきら輝いてらして、そんなにも打ち込めるものがあるのが羨ましい、そして素晴らしいと、微笑ましく思っているのだ。


 だから劇団員の方々もきっと同じ様に頑張っておられて、なので公演は素敵なものになると思う。高橋さんは素人丸出しだなんておっしゃるが、大事なのは技術だけでは無い。高橋さんたちはプロでは無いのだから。


 大事なのは演じる方も見る方も楽しめることだと、佳鳴こそ素人ながらもそう思っている。


 そんな佳鳴の気持ちを千隼も知っているので、千隼は「たまにはええんちゃうか? 姉ちゃん」と軽く声を掛ける。


「ここ始めてから月曜以外の休みって無かったやん。今からチラシとか貼って周知したら大丈夫やって。たまには週末休みにしようや」


 千隼にも背中を押され、佳鳴は心を決めた。


「じゃあそうさせていただこうかな。申し訳ありません皆さま、来週末の金曜日はお休みをいただきますね」


 佳鳴が言ってカウンタの向こうに頭を下げると、お客さま方は「はーい」「楽しんで来てね〜」と暖かい言葉を掛けてくださった。


「店長さんとハヤさんにも来ていただけるなんて、ほんまに嬉しいです! がんばりますね!」


 高橋さんは本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、佳鳴と千隼も笑顔を返した。

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