ローレライ
七春そよよ
花嵐
睡蓮目線の雑記です。
飽きたので途中で終わります
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早朝、井戶へ水を汲みに庭へ出ると、木々が桃色の花を付けてをりました。柵の外にも納屋の裏にも、瀧の傍にまで、彼方此方に咲き零れてゐます。見事な繚亂ぶりに私は思はず聲を上げ、花瓣を抱へ集めては、宙に振り撒いてみたりして、一頻り樂しんだ後、この頃書齋に籠りきりの彼にも見せてあげようと思ひつき、鋏を持つてきて澤山花のついた枝を一本、刈り取りました。花甁に插して居閒に飾れば、鬱々とした心も少しは明るくなるでせう。刈り取つた枝のうち、ひと房ふた房の花は水切りして、小さな甁に插して窻際に置きました。花瓣はよく洗つて、乾かしておきます。甘い生地に混ぜ込んで蒸せば日昳に丁度よい菓子が作れます。殘りは後でお茶に浮かべるために、籠に麻布を敷いて竝べておきました。きつと今頃彼は部屋で本を讀み漁つてゐるので、花甁と一緖に差し入れてあげることにしました。
都から屆いた山積みの便りは机の隅に亂雜に放置されてをります。重ね過ぎて何枚かは床へ落ちてしまつてゐました。私はそれを適當に拾ひ上げ、彼の前に竝べます。「柳白樣、貰つたお手紙はこちらが讀まなければ向かうも出した意味がありません。ちやんと目を通してあげてくださいね」「ああ、はい」彼は私と目も合はせずに、氣の拔けた返事を返します。眠さうに目を擦つて山積みになつた便りを一瞥すると、また手元の本に視線を戾してしまはれました。私は殘りの散らばつた紙を拾ひ集めます。「これは何ですか。乞巧奠と書いてあります」「それは去年の報せだから、要らない。後で棄てておいて下さい」「繪柄のこれは、なんですか。どうして、針絲が描かれてゐるのですか」構はず尋ね續けてゐると、やうやく目を合はせてきた彼は呆れたやうに「本當に何も知らないんですね」と言ひ放ちました。私は腹が立ちました。私が陸に上がつてきたのはここ數年の話なのですから、產まれた時から地上で生きてゐる人よりも世閒一般の常識に詳しくないのは當たり前でございます。しかし彼もそれは重々承知の筈で、本氣で言つた譯でないことは判つてゐますから、一先づ氣を落ち着かせるために私は深呼吸して、默りました。彼はやうやく、のそりと身體を起こしたと思へば、床に散らばつた小道具や、脫ぎ捨てた着物を邪魔さうに足で蹴飛ばし、逆さになつて放置されてゐる木箱をひょいと拾ひ上げては、それを本棚の傍に竝べ、踏んづけて、埃まみれの書棚から本を數册引き拔きました。そんな樣子を眺めてゐると、私は段々うんざりして參ります。彼の書齋に入る度、どうして每日每日かうも散らかるのかと、ほんたうに不思議なことです。幾ら私が元の場所へ片付けても、明日には違ふ所へ移動してをり、物が同じ場所に留まりません。その上、出した物を元の場所に戾すといふことを一切なさらないので、讀み終へた本は部屋の隅にずんずんと積まれ、まるで地層のやうに堆く積み重なつていきます。最初は、私は彼をだらしのないお方だと感じてをりました。粗略でぞんざいで、その上不用心なのだと思つてをりました。けれど、それは後になつて思ひ違ひであつたと氣がつきました。婚姻の手續きのため役所へ出向いた際、廣くて簡素な個室に通され、客室が空くまで暫くの閒、待たされた事がありました。その時、彼はいつにも增して落ち着きが無くなつて「ここは嫌だから早く歸りたい」などと不安さうなお顏でしきりに呟かれてゐました。後から氣が付きましたが、彼はああいつた何も置かれてゐない淸潔な部屋が苦手なやうで、細々した物に圍まれた、狹い所に居座つてゐるはうが氣が落ち着くやうでした。また極端に陽の明るい場所を嫌ひ、元來、暗がりで過ごすことを好まれるやうです。思ひ返せば、薪に火を付けず、窻を少しだけ開けて、月明かりだけを賴りに讀書を嗜まれたり、陽の昇らない薄暗い早朝のうちに、庭へ出たりしてゐます。どうやら彼はだらしがないのではなく、勿論さういつた面もござゐますが、大抵の場合、無意識のうちに自分の暮らし心地のよい風景を少しづつ作り出してゐるやうでした。その事に氣がついてからは、私は書齋の片付けだけは大目に見ることにして、何もかも彼の好きに置かせることにしました。口煩く咎められる事がなくなつた彼はすつかり偉さうになつて、同樣に調合室も片付ける必要はないよ、などと仰いましたが、萬が一にでも積み上げた本が崩れた拍子に、藥品と火藥が萬が一觸れるやうなことが起こらないとも限りませんので、きつぱり斷りました。私が家に來るまでは、さういつた事故が多發してゐたやうで、私が初めて立ち入つた作業部屋は、それはひどいものでした。机や踏み臺には本や專門器具、割れた甁の破片など散亂してをり、それも箒で雜に隅の方へ追ひやつて片付けてしまはれたやうで、足場など到底ございませんでした。今では隨分ましになりましたが、彼の作業場だといふのに、何故私だけが必死になつて禦手入れをしてゐるのかしら。冷靜になつてみればをかしな話でございます。そんな經緯で、近頃の彼は薄暗い書齋に入り浸り、四六時中古い本を讀み漁つてをられます。こんなに散らかつてゐるといふのに、何が何處にあるのか、置いた場所を憶えてゐるのはほんたうに不思議です。彼は取り出した本を捲り、乞巧奠の項目を見せてくれました。私に說明する爲に、わざわざ本棚から取り出したのだとすぐに氣がつきました。私はすなおに嬉しくなりました。彼曰く、それは針絲や着物の雛形を吊して裁縫の上達を祈る風習で、梶の葉に和歌を書いては願ふのださうです。
彼は道理を外れたやうな僻事は決して行ひません。けれど、現實味の無い空言ばかり浮かべて當の本人が忘れてゐたり、遂に實行されたと思へば、半端に置いてしまはれます。ぬか喜びをさせておいて、後で知らん顏をする。あれはまさしく罪です。貴方の言ふやうに、有涯のうちにそれを成し遂げられるのならば、さうでなければ意味が無いと云ふのならば、直ぐにやつて見せて下さい。「成すべきことを成せず、何も殘せず、九泉に至るくらゐなら俺は今すぐに死ぬ」だとか、大層な言葉を竝べては、その割には口先ばかりで、貴方は行動に出ません。仰つたそばから忘れてをられます。いづれは成し遂げる、お前には分からないのか、今にも動いてゐるだとか、まるで自分に言ひ聞かせるやうに、私の氣を收めるやうな事ばかりを仰ゐますが、實際、私の目には何が動いてゐるのか、さつぱり分かりません。この頃、實は彼は、私が思つてゐる樣な大した人閒ではないんぢやないかしら、といふ樣な氣がしてをります。そりやあ、最初の私は何も知らぬ、無智で幼稚で、自我も覺束ぬまま彼と二人きりで過ごしてゐましたから、世界の全てが彼といふ個人で構成されてをりました。讀み書きを敎はり、言葉を敎はり、人閒の暮らしといふものを初めて學びました。彼の價値觀は私の常識そのものでありました。ですが、婚姻關係を結んでからは、村の人達と關はる機會が增え、嫌でも彼以外の人閒と關はりを持つことになります。そこで私は初めて、貴方といふ人閒が、如何に世閒から外れた道に立たれてゐるのかを思ひ知つたのです。私が常識だと思つてゐた事は、常識ではなかつた。彼こそがすべて正しいのだと思ひ込んでゐた私は、馬鹿者でした。そもそも、彼は世閒から逸脫してゐます。異端視され、殆どの方からは敬遠されてをります。彼のあの荒んだ性格を思へば、至極當然の扱ひであると思ふ。私自身納得のいく話ではあります。ですから、下町の方々や近所の村の奧樣方から噂を立てられたり、何かと心配をされたとしても、同調して場をやり過ごすことが出來ます。だつて、彼の頭がをかしいのはまさしく事實ですもの。けれど、私は彼を本心で見下したりはしてをりません。彼の妻を名乘ることを恥づかしいなどとはちつとも思ひません。確かに、彼は奇傑で偏物な人物です。けれども、私の恩人である事に變はりはありませんもの。彼は結局、何を成し遂げる譯でもない、革命を起こすでもない、きつと後世の歷史にも名前が刻まれることはないのでせうけれど、それでも、今日この時を懸命に生きてをられます。私には、たつたそれだけでよいのです。傍で生きてゐてくれさえゐれば、それでよいのです。彼はかけがえの無い、この世にただ一人、わたくしの想ひ人です。本當のところは、禦出世などなさらなくても構はないとさへ思つてゐるのです。例へ、死んだ後で誰彼に忘れられたとして、歷史に殘らないとして、この質素な日常と暮らしが暫く續くのなら、それでいいぢやありませんか。あなたが何處まで行かれるおつもりなのか、何を目指してをられるのかは存じませんけれど、私は、今の暮らしに十分滿足してゐます。庭に花は咲き亂れてゐるし、瀧から湧き出る水は澄み渡り、川の魚も逞しく泳いでゐます。綺麗なお着物は日每に選べるほど揃へてあります。夏は涼しく冬は暖かい、素樸ながら、立派な禦屋敷まであるのです。わざわざ遠方から手紙をくれる方も居らつしやいます。ありがたいことです。それに、貴方には私といふ妻もおります。これ以上、貴方は何を望むと云ふのでせう。一體どうしてそんなに焦つては追ひかけ、何を成し遂げるおつもりなのでせう。
少なくとも私にとつては、彼との暮らしはとても幸せですから、誰から何を言はれようと痛くも痒くもありません。彼の孤獨を理解しうる存在は、この世で私ただ一人でよい。この結ばれた緣の中に土足で侵入出來る者など、金輪際現れなくて宜しい。本當のところ、私は彼が世閒から嫌はれ、今も尚孤獨を貫いてゐるといふ事實が、愛しくて愛しくて仕方がないのです。お願ひですから、俗世閒に汚れず、ただ美しく孤高のまま、一生をお過ごしください。貴方にいつまでも寄り添つて生きてゆけるなら、私はどんなに幸せでせう。さうして、ふわりと將來の事を思ひ浮かべると、私は不安に襲はれます。人閒と人魚では、壽命に差が生まれます。これは避けられない事ですから、私はきつと、彼よりも先に死ぬ事になるでせう。貴方は私を失つて、この先獨りで生きていけるでせうか。夜中、密かに淚を流して震へる貴方を、他に誰が抱きしめてやれるのだらう。貴方のこゝろに空いた穴を、埋めてあげられる他人が、この世で私の他に存在していい筈がない。ああ、けれど、やはりきつと居るに違ひない。彼は寂しさに耐へられずに直ぐに替りを見つけるに違ひない。それを思ふと、私は胸が詰まつて息苦しくなります。哀しい。彼が一人で淋しく生きていくのも耐へられない。しかし、彼が私の他に生き甲斐を見つけ得るなど、最も耐へ難いことです。ほんの少し想像を浮かべるだけで、憎くて憎くて、憎惡で腸が煮えくり返りさうになるのです。現實でもないのに、お會ひしたこともない私の代はりを思ふと、殺意がふつふつと湧き出て參ります。いつまでもお傍に居れたらいいのに。今世だけと言はず、叶ふなら來世も、その先も、何度でも貴方に巡り逢へたらいいのに。さうなればどんなに嬉しいか知れません。私はいつ迄も貴方を追ひかけることが出來ます。何處へ隱れても、遠い場所にはぐれても、きつと見附けられます。貴方との緣が、死に別れても尚、永遠に續けば良いのに。こんな話をすれば、彼はきつと私をお笑ひになるでせう。「永遠に續くものなどありはしない」と貴方はよく仰つてをられます。けれど、私が胸の內で佛に願ふことくらゐはお許し頂けますでせう。だつて、今世での私たちの結末を思ふと、あまりに浮かばれません。
「ああ、さうだ、明日は夜祭がある」と彼はふいに思ひ出したやうに仰つて、裏の引き戶をお開けになりました。さうして裸足のまま外へ出られたと思へば、足早に家の中へ戾つてきて「睡蓮、支度をしなさい」と仰います。貴方はいつも、私に相談ひとつせず、お一人であたらしい事を思ひついては、話を突飛に投げ掛けます。なぜ何もかもお一人で決めてしまはれるのでせう。私の氣持ちや都合など考へもしないで。「柳白樣、今から夕餉の支度をするところです」鍋に湯を沸かし始めてゐる手を止め、私が振りかえれば、彼は既に羽纖りを肩にかけてをられます。「貴女、いつかの晚に新しい着物が欲しいと云つてゐたでせう。店の近くを通りますから着いてきなさい。針と道具も買つてあげますから」などと仰います。狡いお人です。そんな大昔の些細なお話をよくお覺えになつてゐるものです。きつと覺えてゐない振りをして逸らしたこともあるのね。ため息をついて、私は鍋の火を止め、箸を棚に戾しました。雲は高く暖かい風の吹く季節になりましたが、はまだ少し冷え冷えとしてをります。彼は眞新しい粟色の羽纖を纏つていらつしやいます。「よくお似合ひですね」と私が襃めると、「さうですか」と自信づくでも喜ぶでもなく、お顏を逸らしてしまはれました。私はその素樸な反應が可愛らしいと思ひました。林を越えて都へ出ると、何處もかしこも人で賑わつてをりました。木々には提燈が掛かり、鮮やかな屋臺もあれば、その陰では貧相な子供が麻布を敷いては物を賣り、また廣場の中心では活動家のやうな方々が旗を振りかざし、大勢の方を引き連れては何やら朝廷がどうのお國がどうのと大義名分を謳つてをられます。混沌とした空氣に、思はず目眩がして參りました。彼等がなにやら大聲で宣言を述べると、賞讃の聲があがり、拍手喝采が起こります。私には、ああいつた禦方々の何が優れてゐるのか、さつぱり分からない。態度が大きくて、偉さうで、眺めてゐるとむず痒く腹立たしい、何か恥づかしいやうな氣持ちになるのです。私の人生にはあのやうに多くの賞讃や喝采などは要りません。ただ少しの必要なものだけを抱へて、心だけはいつまでも美しく、質素に生きて參りたいと思ひます。彼はどんなお氣持ちであれをご覽になつてゐるのかしらと橫顏を窺ふと、やはり何か遠くを見るやうな目でぼんやりとそれを眺めていらつしやいましたので、私は思はず笑つてしまひました。やはり貴方は政治や世情にまつたく興味がないのね。歡聲が上がる度に橫目で一瞥しては、つまらなささうにしていらつしやいます。順に屋臺を眺めてゐると、李の形を象った可愛らしい饅頭を見つけたので、二つ買ひました。味付の燒魚も賣つてゐましたが、「あんなものは家でも食べられるだらう」と彼が仰いましたので、確かにと頷き通り過ぎました。けれども、この場でのみ味はへる時閒といふものが、やはりあるのではないかしらと私は思ひ始めました。家で食べるのと、夜祭で食べるのとでは、同じ物でも違ひますもの。どうして貴方はそんな無粹な事をお言ひになるのでせう。心做しかさみしい氣持ちで足早に步く彼の背を追つてゐると、赤い口紅をひいた派手な女の商賣人が聲をかけてきました。「なあ、そこのお孃さん」
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