わたしたちの婚約解消『絶対阻止』計画

午前零時

第1話 婚約破棄

 品のよい調度品で飾られた王城の一室で、カップがソーサーにぶつかる音が乱暴に響いた。年頃の淑女としては少々はしたない行動も意に返さないで、ディアナはカップの中の紅茶とよく似た琥珀色の瞳で対面に座る男を睨みつける。


「これは、どういうことですか殿下。今日の昼頃まで時間が取れると言っていたのは殿下ご自身ではございませんか。それを反故になさるおつもりで」


 ディアナからの言葉を静かに聞いていたウォルフは空のカップをコーサーに置くと、眉間のしわをいつもより深くさせながら答えた。


「早朝のうちに使いを出したはずだが──」

「わたくしは聞いておりません」

「……そうだったか。それは申し訳なかった」


 ほとんど間を置かずに答えるディアナに、ウォルフは小さく息を吐いてから亜麻色の髪を後ろに払ってから頭を小さく下げる。ディアナは相当腹に据えかねていたのか少しは冷静になっても王族の頭一つでは機嫌が直った様子はない。


「それでも、事は変わらん。急用故、今日はあと少しで失礼させて頂く」


 ウォルフが黒髪の侍女に淹れてもらった茶を飲むのを遮るように、言葉を続けた。


「今日だけのことではありません。最近はずっとこんな調子で」

「それは、──」

「わたくしは殿下が暫く王城で暇をもらったと聞いていたから、領地に戻らず父と屋敷に留まっていたのですのに、これでは何のために帰らなかったか分かりませんわ」

「……こちらは未だ用が出来るかもしれん。今からでも帰れるの──」


 ディアナは膝の上で手を痛いほど握りしめる。自分の顔に熱が集まっていくのを感じながら彼女は怒りからか悲しみからか声を上げた。


「そうじゃないッ……そうじゃ、ありませんの。どうして教えて下さらないの。今日も、先週も用事が出来たというだけ。それだけで、貴方はわたくしには何もおっしゃらない」

「これは、対外秘に関するものだ。誰にだって言えん」

「わたくしは貴方の婚約者なのよ」


 ウォルフはその言葉で弾かれたように視線を上げたが、何も言わない。ただ、その鋭い目つきで一度は目を合わすも、逃げるように視線を手元のカップに落とした。

 ディアナは婚約の証でもある胸元の碧水晶が埋め込まれたペンダントに触れていた。彼女はそれを掴み、証を立てるかのように話す。


 「わたくしは貴方の妻として相応しくなれるように努めてきた。それまで以上に礼儀と作法を厳しく身につけさせられた、それ以外の勉学も。乗馬だって辞めさせられた……それなのに。まだ、わたくしは、相応しくないと言うの」


 ウォルフはディアナの震える瞳を見ながら言葉を探すように口を開けた。


「相応しいか、そうでないかの問題ではない。外に他言できるようなことではないといことで、君がどうこうという話ではない」

「……殿下も、そう思っていらっしゃるのでしょう。わたくしは王妃の席に相応しくないと」


 ウォルフはその言葉を聞くと目を見開き、辺りを確認した。


「誰がそんなことを言った」

「ご自身は何も言わないくせに、わたくしにはそれを求めるのですか」


 ウォルフは腹立ち気に息を吐くと念を押すように言う。


「いいか、ディアナ。どこの誰がそんな下らないことを言っていたのかは知らないが。そんな風聞なんぞ気にするに値しないし……父王陛下も兄上もいらっしゃる時からこれから先の妃の話をするもんじゃない」

「それは。結局、貴方は相応しくないと思っていらっしゃるのでしょう」

「私の意志はどうでもいいい。分かっているのか、ディアナ。外で自分が未来の妃などとは決して口にするなということだ。」


 『妃に相応しいよう』そうやってこれまで努めてきたディアナにとってウォルフの言葉はこれまでの自分を否定ように聞こえてしまった。 

 ウォルフは年の離れた兄である王太子に子がない現在、王国内において事実上の次期王太子であると目されている。それはディアナだけでなく王国の諸家においても同様であり、彼の婚約者には相応しい家格と振る舞いが求められてきた。

 その中で、自分の一部を押し殺してでも努力を重ねたディアナに、彼の言葉は大きく響いてしまった。


「そうですか、どうやら。わたくしは本当にあなたに相応しくないようですのね」

「どうするすもりだ」


 ディアナは椅子から立って「リズ」と侍女の名を呼ぶと、彼女に茶器の片づけを命じる。そのまま、ウォルフに背を向けると首に手を回してペンダントの金具を外し、それを机の上に置いた。


「殿下。こちらは貴方に返しておきますわ」

「……預かっておく」


 ディアナは返事をまるで聞いていない様子で少し乱れたハーフアップの茶髪を整え、ウォルフの方に小さく礼をすると廊下に続く扉へと歩き去った。


 ウォルフは出て行った背を無言で見送った後、ぼんやりと机の上のペンダントを見つめていた。リズが茶器の片づける音のみが部屋に響く中で、ウォルフがはたと何かに気づいた様子で少し冷えてしまった茶を飲み干す。茶の礼をリズにすると、ペンダントを懐に入れてウォルフも部屋から出て行った。


 時の頃は昼よりすこし早く、窓から差し込む日の光は良く磨かれた茶器を照らしている。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 


 主人の言い付け通りにリズが茶器を片付けていると、ノックの音が聞こえる。彼女が「どうぞ」と入室を促すと、赤毛の男が良い匂いを漂わせるバスケットを小脇に抱えて入ってきた。


 彼は少しバツの悪そうに短く刈り上げられた襟足を撫でると、首に手を当ててもう一方の腕で愛想笑いを浮かべながらリズの方でバスケットを差し出す。リズはバスケットの方をちらりと見るも、そのまま片づけを続けていた。


「あのぉ、リズさん。ちょっとお時間あります?」

「今は、片づけがありますので。ロイ様は、そちらに掛けてお待ちを」

「はい……えぇと。あの、何か手伝えることは──」

「掛けてお待ちを」


 言われるがままにロイは先ほどまで主人たちが座っていたものとは別の背もたれのない椅子に腰掛け、バスケットを抱えながら待つ。少しすると、片づけを終えたリズが台を持って来て、私物の茶器に二人分の茶を淹れた。


「これは、炊事のお姉さま方から頂いたものなんですけど」

「美味しそうですね。頂きます」


 ロイが持ってきたバスケットの中には王侯用の料理に使った食材の切れ端や豚肉の燻製ベーコンが挟まれているバゲットサンドが五つ入っていた。リズは早めの昼食としてそれを食べる。ベーコンの塩味がレタスと肉に効いてちょうどよい塩梅であり、早々に一つ目を食べてしまう。リズはカップの茶を一口飲んで、台を挟んで座るロイに話しかける。


「聞いてましたか」

「聞いたというか、聞こえたというか。お声が中々大きかったもので、番をしていた俺の耳にも入ってきましたね。あ、でも。俺以外は聞いてなかったと思います。」

「そうですか」

「それで、今回は何が原因で……」


 ロイが恐る恐る聞く。


「いつも通りです。王子殿下の言葉足らずと秘密主義」

「いや、でもそこは。そちらにも多少手心を加えてもらいたいとも言いますか」

「でも。今回ばかりは、いつも通りという訳にはいかないかもしれない」


 リズは先刻まで主人が居た椅子を見ながら言う。


「このままじゃ。婚約の解消もあるかも」

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