洞の祠    白蛇抄第16話

―序―

黒龍の傍らにうずくまる少女が居る。

白峰の瞳が少女を嘗め尽くしていた。

立ち尽くす白峰に気が付いた黒龍が少女から目を上げた。

「おまえのものか?」

白峰の心に生じた思いを気取る事が出来ず、

黒龍は問われた言葉に僅かに瞳をいこらしていた。

「馬鹿な事を・・・」

人としていかせしめる。何ぞ、我のものにできよう。


「そうか」


白峰とて、男。


黒龍の中にある少女への情愛は見抜けぬものではない。


―そうか―


だから、どうだという?


護るとは我がものにすることぞ。


我がものにされるを無上の由縁とせしめねば。


―略奪あるのみ―


白峰が湧かした心を暴露するわけもない。


―まだ、童。されど、女子―


鈍く光る瞳がきのえをとらえた。


―きのえ―


護って見せよう。


この白峰の思いの丈で、白峰が物になることにこそ

生まれてよかったと言わせてみしょう。


「きのえ」


うんと顔を上げたきのえを覗き込む黒龍を見透かす。


―言うた言葉を仇とうらむなよー


白峰の呪詛が繰り返されているとも知らぬ。


「ばばさまがよびよる」


「かえりとうない・・・」


「ごてをいうておると・・」


「わかったに・・」


むくれた顔さえいとしいはず。


白峰の心の底に見える黒龍が懸想をば、童というてふさぎこんでおれ。


たぎらすことなかれ。なぜならば。その娘。白峰が心をさだめた。


「帰らねば・・・」


「わかっておるに・・なれど・・・」


「なれど・・・?どうじゃという?」


「ばば様は藤太のところへいけというに・・いやじゃというにしつこいに」


「藤太は優しい男じゃに。きのえのことは大事にしてくれよう?」


きのえの瞳が地べたを見たのは、あふれそうな涙をこらえるためだった。


「おまえまで・・そういうか?」


きっと睨みあげた瞳に涙をうかべておりはしない。


「なにを・・おこりおる?」


「いやじゃというておろうに・・・」


「いやじゃというて、とおるものか・・・」


子供じゃのと小さく舌打をするのがきこえたか、


ぶすりとした顔がそれでも、ほころんだ。


「いやじゃ。きのえは黒龍の嫁になる」


「あほうをいうておれ・・」


「子供じゃからか?」


呆れてものがいえぬ。


黒龍は神である。


およそ、人と神は添うことなぞできない。


人は生き物の中でもっとも多くの神との決め事をもたされている。


それは、人が余りに神に似通って生じたせいかもしれない。


「きのえが子供じゃというなら、もそっとまっておれ。


ほれ・・・もう、すこしじゃに」


黒龍の手を掴むと躊躇いも見せず、きのえの乳にふれさせる。


『大人になってきておろう?』


膨らみ始めた胸の弾みが、うれしい。


大人になるという事は黒龍の嫁になれるということだ。


自分で定めた決め事に近づける証にふれさせる事にてらいもないきのえである。


それぐらい子供という事なのである。


横で見ていた白峰がふきだした。


邪気ない夢は、初めて近寄った大人の男を見知ったことから生まれた憧れでしかない。


―きのえ。いずれ、わしがおまえに大人の男の情愛をそそぎこんでやるわー


そのときこそ、きのえも真の大人になる。


そして、白峰の女になる。


「きのえ」


呼ばれた少女は白峰をふりむいた。


「ほら」


白峰の指に赤い糸がからんでいる。


「あやとりか・・・?」


「そうだ・・・おしえてくれ・・・」


きのえはおずおずと白峰の側ににじりよった。


「かえらねばなるまい?」


優しくさとすと、


「おまえにこれを一巡り教えてやったら、帰るに」


少女の指が器用に糸をからめた。


「厠、からじゃ・・」


「厠からか?」


川からのとりてをおそわったばかりである。


「ああ・・。いかぬに。蛙に成る。おまえでは取れまい?したからくぐらせて川にせねば・・・」


「こうか?」


白峰の指先を見詰る必死な瞳がいとおしい。


「そう、指をつけたまま・・」


心持、唇がとぎる。


夢中になるときはこうだ。


―かわいい-


「離すなよ。ゆびをつけたままじゃに・・あ」


白峰の指に緩んだ糸が移った。


「そっと、そっと、引きとおすに、ああ・・それでよい」


少女の指が川になった綾取りをとらえる。


細く長い指が華奢にそっと、白峰の手の糸を取り返す。


「厠にもどったろう?」


少女の指先をみつめる。


糸を張った手がゆるまない。


変形の厠をとると、やはり蛙になる。


「見ておけよ。こう、とるに・・」


きのえの手の中で菱の実になった糸の潜り先を探り、糸を潜らせた白峰の手の中で糸がよれた。


「ああ、へたくそじゃなあ」


白峰が絡めた糸を手に取り、解き寄せてわらう。


きのえと白峰のやり取りを見詰る、黒龍の瞳は優しい。


白峰は黒龍を見詰返す。


―仇というなよー


決めた心を、翻す気はない。


きのえを我が妻にする。


何故、ここまで幼い少女に惹かれるか自分でも判らない。


だが、それでも、この心、本意。


そうと定めたは白峰が先。


黒竜は白峰の情念にきづくにうとすぎた。


疎すぎたのは己の思いは宥めるに必死だったせいかもしれない。


手の中に残ったきのえの胸の弾みはすでに少女を脱出しかけている者のものだった。


この手を蠢かしてしまいたいのかもしれない。


少女に何をもとめようとしているのか。


黒龍は己のさがの溜息を聞かぬことだけに、尽力をかたむけているに較べ

既に白峰は少女の中の、女を我が手でひきだそうときめていた。


これだけを見れば既に黒龍は白峰にきのえを譲るべきであったのかもしれない。


「洞の祠 ―黒龍の抄―」


祠の中に敷き詰められている御影石の中央は湧き水がたまり、池の様相を呈している。

池の中央に一段高い御影石の台座があった。

きのえは暗い祠に瞳を馴染ませ、台座に目を凝らした。


何かがいる。

誰かがいる


見えた事を確かめる為にきのえは池に足を踏み入れた。

池の底は浅くなだらかに台座のある中央に降っていた。


中央の台座に手をつくと、えいっと池の底をけり台座によじ登った。

御影石の平面は広く、人が五、六人は裕に寝転んでいられる。

その中央に男が片肘をついて上がってくるきのえを見詰ていた。


「おまえ。祠の神かや?」


きのえは自分を見つめる男に尋ねた。


とたん。


男はぎょっとした顔を見せた。


「おまえ。わしがみえるのか?」


みえるもなにも。

頷く少女に男はさらにたずねた。


「どう、みえる?」


「男の人じゃ」


黒龍が映している人の姿のままにみえているというらしい。

神の姿を見る事が出来る者は数少ない。

そんな中でも童が良く神の姿に触れるのは心に邪気がないせいだろう。


綺麗な心を持っている者だけが真実の姿に触れられる。

少女がもしこの神の姿を異形の者として、映し出したとしたら、

少女の中にかげりがあるせいである。


が、あんずることがない。


少女の心は一層無垢なものだった。


「さむうないのか?」


御影石は暗い祠の中で一層、冷え切った塊でしかない。

その台座の上に寝転ぶ男は体がひえぬのだろうか?


「さむうはない」


それよりも池の中に足を踏み入れた少女が、

春の雪解けの湧き水の冷たさに震えているようだった。

こっちへくるがよいという黒龍の言葉にすなおによってくる。


少女を包んでやるように抱きかかえると、


「おまえはあたたかいの」


と、自ら体を寄せ付けてきた。


疑いもない。


暖めてやろうと言う黒龍の心を真向こうから悟る。

よほど大事に育てられた娘であろう。

疑心のかけらも見せない幼い童心のままに伸びやかに育てられている。


「おまえは村のものか?」


祠の外に小さな村がある。


「そうだ」


「とうさまは?」


「おるよ」


「かかさまは?」


「か.かさまは」


僅かに言い淀んだ。


「おらぬのか?」


「かかさまは、きのえが小さなうちにやまいでしなされたそうな」


どうやらそれが自分の名前のようである。


確かめてみる。


「きのえというか?」


「うん」


頷いた。


「かわいらしい名じゃの」


「そうか?平仮名できのえとかくんじゃ」


「だれにつけてもろうた?」


「とうさまじゃに」


「とうさまか」


「うん」


きのえ。江には川の水も寄せ来る。流れ落ちた末は海の波も寄せ来るが「江」。


きのえ。気の江。


この少女の心良い無垢な気に幸いが流れ集まり、

またそれに魅せられ心を寄せ来る者がいる。


「良い名じゃ」


「ほうかの?」


「どうした?きにいらんか?」


「男のような名じゃに」


「はは?」


「なんでわらう?」


少女の聡さが手痛い。


「おまえの性は男勝りじゃ。おうておるわ」


むっと少女が黒龍をにらみすえた。


「ほら、みろ」


神を恐れもせず果てには平気でにらみすかす。


「わ、われは」


少女が黙った。


「なんだ?」


聞いてみると


「われの夢をしっておるかや?」


「さあ?なんだろう?」


とわずがたりに少女は語りだす。


「われは花嫁になりたいに」


「なるほど」


こんな夢を持つ少女のどこが男勝りなのだといいたいのだ。

それなのに名前は男のようだとむくれている。


「花嫁か」


「よかろう?かわいかろう?きれいじゃろう?」

白無垢の花嫁の姿をどこで垣間見たのか、少女の憧憬があふれ出す。


「そう、じゃの」


ふと少女の先を読んだ。

少女の夢がすぐにかなうものか。


少女の夢をかなえる物が誰か。

教えてやろうかとついと読んだ。


その読んだ先に黒龍は・・・。


黙った。


不幸と言う筋合いではない。

むしろ、人の世で言えば紛れもない幸運と言われる筋合いかもしれない。

だが、黒龍は読んだ事を少女に告げる事が出来なかった。


何故なら白烏帽子の花嫁の横に並ぶ男がこの世のものでなかったから。

そして、見せられた先を黒龍も信じられなかったから。


『わしがこの童の夫になる?』


一笑に付した世迷言に出来ないのはなぜだろう。


既にこの少女の無垢さに魅せられているせいだとは認めがたく、

かといって自分の予見が外れているとは思いがたかった。


『わしがこの童に・・惚れる?』


どう見ても十二,三。


子供も良いところである。


見っとも無いをとおりこして、既に信じられぬ領域である。


「たわけておるわ」


「なん?」


「なんでもない」


呟いてしまった独り言がうとましい。

黒龍はもう一度小女を見詰なおした。


痩せた細いからだ。

背こそ人並み以上に高いがどこにも女を匂わすかけらもない。


そんな、少女に、そんな子供に、己がほたえくるう?


信じようがなくて、黒龍は笑うしかなかった。

第一、己に関る事は読めない。

少女の無垢な憧憬が黒龍の心が映り込んだとしか思えない。

少女の夢をかなえてやりたいという心が妙な読みを生じさせたのだ。


「なにをわらいよる?」


「いんやあ」


「なんじゃあ?」


「わろうなよ」


「う・・うん」


「おまえが、このわしの花嫁になるというから・・・」


「さだめをよんだかや?」


「いんや。そうではない。そうではないから、おかしゅうて・・・」


「おまえの嫁か?」


「そうじゃ」


おかしくておかしくて黒龍は笑った。


だが、少女は少しばかり、かんがえていた。


「運命がそうゆうなら、なってやってもいいぞ」


黒龍を見詰返した少女の瞳の中の決心は既に定まっていたと言って過言でない。


少女の心を登り詰めさせるとも思わず、明かした戯れでしかなかったと

言い訳するに、少女の方が真摯すぎた。


この真摯さにいずれほだされると気が付かぬまま黒龍は少女の出入りを赦した。


いや。


知らずの内に少女に惹かれた黒龍は既に断る心をうせ果てていたと言うべきかも知れない。


「おまえは?」


やっと、少女は黒龍の正体をたずねた。


「わしか?」


くすと笑い


「龍、じゃというて、しんずるか?」


「う・・ん」


本人がそういうならそうじゃろう。


「だが。などか?」


人の姿でおる?


「長きものは、これがらくでな」


これを人の姿と思うは人の常である。

神の姿を人こそが擬えている。これが本来である。


そうとも知らず神に順ずる黒龍の姿を人の倣いというが既に笑止である。


が、どちらでも良い。


「おまえがわしの本当の姿を見たらおそろしゅうて、よう、側にもよってこれんわ」


「そうかの?」


小首を傾げた娘は既に黒龍への恋の繁茂に落ちている事さえ知らぬ。


この先、二人の運命を大きく変える者が現れるまで、


既に恋の術中にいることさえ知らぬほど、


きのえという存在は黒龍には子供にしか見えなかった。


「ああ・・いやじゃあ」

祠の黒龍のところにきのえがやってくると途端に溜息を漏らす。

「どうしたという?」

「婆さまがうるさいに」

「どう?」

うるさいという?

「藤太がところによめにいけというんじゃ」

「藤太か?」

黒龍はすぐさまに藤太の人柄を読んだ。

「よいではないか?」

「よいものか」

「良い男じゃ。何よりも優しい男じゃ」

「優しいがよいか?優しいがよいならおまえの方がたんとやさしいに」

「わしは」

「やさしいに・・・」

そうかもしれない。

だが、おそらく藤太の優しさとは種類が違う。

「おまえが事を誠にたいせつにおもうてくれるわ」

「おまえはどうじゃ?」

何故いちいち黒龍をひきあいにださねばならぬ?

「わしは・・・」

きのえを得心させる言葉に戸惑った。

「そうじゃの。わしは、藤太のようにおまえを女子として優しくおもえん」

「女子?」

やはり、そうといなおされたか。

「女子と言うは、己の子を育ませたい相手じゃ。

胤を植える為に傷を与えても我が物にして護りたい。これが女子に寄せる情じゃ」

「おまえは・・・。きのえが子を孕めぬ子供じゃとおもうておるか?」

「い・・や。いずれ、おまえは女子になれよう」

藤太の女子という、嫁になれよう。

「わ、われは、おまえが子をはらみたいに」

花嫁への憧れは、見知らぬ男への恐れにいびつに曲がってしまったようだった。

「心配すな。藤太は本に優しいおとこじゃ。おうてみればよいわ」

「違う。きのえが本意は・・・」

黒龍にむしゃぶりついてくるきのえをなだめた。

「そういう事は藤太にしてやることぞ。

さすれば藤太がおまえの夫になってよい男だという事がよく判る」

「ち、ちがう・・」

「ちがいはせぬ」

「おまえ・・・」

唇をかんだ子供が口をへの字に曲げて泣き出した。

わがままがとおらぬ。

思いついた自分だけの明案がとおらぬ。

大人の男はきのえの恋慕をこけにして、

本気で断りもせぬ。

「黒龍のおおばかたれ!」

なにがくやしいといって、童にしかみてもらえぬことである。

「わしは、ばかたれか?」

「ちごうたら、まぬけじゃ・・・」

「やれやれ・・・」

完璧に子供相手の黒龍でしかない。

だから、なおさら口惜しくて涙がこぼれるというに、

このばか者はきのえのあたまを撫ですさるだけだった。


それでもきのえは洞の祠にかよう。

「黒龍」

呼ばわれた男はむくりと起き上がる。

池を伝いあがってくる少女の足が凍えているのがいたいけで、

黒龍は袖であしをふきあげてやる。

「つめたかろうに」

だが、それでもくるなとはいえない。

この世でただ、一人黒龍の姿を映す人間である。

綺麗な心である証を持つ少女の存在を疎む事はできはしなかった。

「黒龍」

へちゃりと胸に甘えてくる。

少女の恋慕は憎くはない。

答えてやることは出来ないが、いずれ少女にもあきらめがつこう。

ほんの少し背伸びした恋だったと少女が気が付くまで、

黒龍は妹を思う



のようにきのえを見詰るだけだった。

「黒龍・・・」

「ん?」

「おまえは・・・おかしな気にならぬか?」

「おかしな気?」

「きのえは・・・おまえに・・・」

何おか言おうとした言葉が止まり、きのえは瞳を閉じて黒龍の胸にすがった。

「こまったものじゃのう」

それを藤太にぶつける事を恐れて一等最初に出会った異性の優しさに惹かれている。

どう、この幼い妹を得心させればよいのか?

男と言う者は優しい者じゃという事を疑わせたくもない。

きのえの抱擁に逆らいもせずかといって受け止めもせず

黒龍はきのえのすがるに身体をまかせていた。

「のう、藤太におうてみぬか?」

「いやじゃ」

藤太に会えば見えてくる。

現の世に、人としての生き様を重ねる相手がだれであるべきかはっきりとわかる。

「まだ・・・いやか?」

「ずうと、いやじゃ」

「ふううむ・・・」

よわったものだ。

きのえのさいわいを邪魔立てする者が誰あらぬ自身である。

「あまり、ごてをいうておると・・・」

ここに来させぬ様にするぞと言う言葉を黒龍はとめた。

きのえが・・・こぬようになる。

それはそれで、寂しい事だとふと黒龍は思った。

だが、このままでよいのだろうか?


弥生の花見月を映す琵琶の海は静かに夜をのみこんでゆく。

祠の中に湿った空気が流れ込むのは来訪の印である。

直垂を濡らしてやってきたのは白峰だった。

「白か?」

「ああ」

黒。そうだと冷たい微笑が口元に浮かぶと男ながらも

惚れ惚れする美しさに背筋が張り詰める。

「なんだ」

「女子にうつつをぬかしておるらしいの?」

「おなご?」

「かようてきておるらしいの?」

ここにかようというほどに姿を現すのはきのえだけである。

だが、あれを女子と言う特別な者に見えるのがおかしくて黒龍はふきだした。

「なにをわらう?」

「うわさをきいて、みにきたというか?」

きのえが事を黒龍の女子と思ったのも可笑しいが、

白峰という、およそ人の事なぞに無関心な男が噂ごときに

ここにわざわざ現れると言う事が不思議を通り過ぎて可笑しく思えた。

「ざんねんじゃの」

「なんだという?」

白峰が何故あらわれたか?

黒龍という存在に一目置いている。

この世において、白峰の自尊心をくすぐる存在は同じ長き者である龍しかない。

他のどこの神がうらやむほどの絶世の美女を手に入れようと

とんと興味をしめさなかった白峰が黒龍の想い人と聞いた途端腰が浮いた。

「あやつなら、どんな女子を・・・」

興が走ると一目見てみようと思った。

ところが、

「白峰。噂がさきばしったようじゃ」

とも。

「わしが懸想するようなものでないわ」

とも。

訝しげに聞く白峰を黒龍は笑った。

「おまえ、十二、三の子供にわしがほんきになれるとおもうか?」

「子供?」

「何で、そんな噂が流れたかさえわからぬわ」

「子供・・か・・・」

「おおよ」

噂が流れるには流れるだけのわけがあろう。

黒は子供といいわけしてみせているだけかもしれぬ。

この目でどこまで黒のいいわけが本当のものかみてみぬことには。

考え込んだ白峰に黒龍が笑った。

「ほれ。噂をすればなんとやら・・お嬢がきたわ」


「黒龍」

呼ばわる声は確かにこどものものだ。

「ここにおる」

うっすらと目がなじんできたか、答えた黒龍に

「誰か?客人かや?」

邪魔になるなら帰るしかないのか?

心もとない問いかけが幾分寂しげである。

「かまわぬ。くるがよい」

きのえがあらわれると、白峰は目をこらしなおした。

白峰の様子を見ていた黒龍は

「いうたとおりじゃろう?」

子供でしかないという。

白峰が瞳をこらしたのは子供だということをたしかめたせいではない。

「人間ではないか?」

「そうじゃが」

「わしらがみえるというか?」

白峰がおどろいたのは、女子が人間であるということだった。

神と称される者同士の色恋かとおもっていた。

「人間か・・・」


およそ人と神が交わる事は許されない。

神の所作であるとしてもなのである。

天は人を愛で、人の姿を神に似せて造った。

人と人を結ばせ、異形の血を継ぐ事を疎んだ。

人を護ろうというのが先かもしれない。

人と人でないものが交わるのを天は許さなかった。

だが、それでも抜け道が生じる。

天が愛でた人であらばこそ、人でない者が焦がれる。

掟を破る不心得者があらわれる。

情念のほむらを燃やす心ねをあわれにおもうたか、

天は七日を許すという。

これが人と人でない物が交わる限度である。

いずれこれを超える思いを持つ白峰である。

人と人でない者が交わるが七日ならば、

神という白峰が人であるきのえを人でなくすことで

我が妻にすると言う根底を覆す願をかけるのである。

この先にきのえを渇望する白峰の願が成就するか、

どうかは白峰の誠のありようでしかない。

が、大の男がなりふり構わぬほどに、幼い少女にほたえくるう。

黒龍はもとより、当の白峰とて予測できなかった変転であった。

「なるほど」

何がなるほどだと黒龍は白峰をみた。

「七日でわかれるは・・つまらぬわの」

黒龍が本気にならぬは子供だからでない。

相手が七日で別れねば成らぬ人間だからだ。

「たわけたことを」

「本気になるがこわいか?」

直ぐに来る別れが本意になるをためらわせるか?

「ちがうというておろう」

あくまでも子供でしかない。

「おまえもどうかしておる」

その見方はあんな子供に女子をさぐるということだ。

戯けを通り越して、異常な嗜好ではないか?

「よいかもしれん」

ふざけているとは思えぬ白峰の返事は、

この時点ではまだ、黒龍が思うほどに

きのえが子供ではないぞと言おうとしているに過ぎなかった。

よってきた少女をまじまじと見詰ていた白峰を少女が見詰返した。

「おまえ・・・」

わしがみえておるのか?

問いたださずに置けなかった。

少女が白峰にくれたのは一瞥だけである。

この白峰の麗しさに目も留めず、

全ての者がみせる、はっと息をのむ白峰の眉目への賛美がない。

黒龍の側ににじり寄ると、客人の目をはばかりもせず、寝転がる黒龍に背をよせた。

その所作にけれんみもない。

黒龍もいつもがそうであるがごとくのようにじっと少女の背を支える。

その姿に男と女の痴話がない。

雛鳥を羽の下に暖めるようである。

「名前をなんという」

物憂げに少女は白峰を見詰返した。

「きのえ・・・」

「おまえ。わしがみえるのか?」

「おまえも神か?」

わざわざ見えるのかとたずねるくらいだからこれも神なのだろうときき返した。

さとい答えでもある。

きのえの答えは黒龍が神であるという事を既にわかっているという事である。

ならばこの白峰も見えるという事は嘘ではない。

「おまえの目にわしはどううつっておるのだ?」

「一目でこの世のもので無いとわかるほどの美しさじゃな。気の毒に・・・」

「え?」

気の毒じゃというか?

この白峰にたじろぎもせず、むしろ血を凍らすほどの美貌を気の毒なものとかたづけるか?

「おまえを好くものがおるまい・・・」

「え」

「あたら美しいだけがとりえじゃ。冷たい気性がそこまで己を磨いたかと思うと一層気の毒じゃ」

あったばかりの男の性分を見抜くと、外観にとらわれない。

外観にとらわれないから性分を見抜けると言うべきか。

「これ・・」

黒龍がほうけた顔の白峰を見るはこれが初めてである。

どうやらきのえに圧倒されている。

きのえの口をしかりつける黒龍に

「われはおもうたとおりをいうただけじゃに」

はむかうように口を返したが、白峰を振り返ると

「きつい事をいうてしもうたか?」

神であるものだ、己の性分なぞわかりきっておる。

きついわけなぞあるまい?と、瞳が動く。

むしろ、この美しさで人を恐れさせ、外界との接触を断っておらねばならないのだろうとも思う。

で、なければ人は直ぐ神に願い事ばかり言い募る。

甘い顔を見せる神がかなえる願い事なぞ薄っぺらなものだ。

誠に高い神は人の真摯を求めて強面の畏敬を作る。

「おまえは・・・どこの神だ?」

「白峰山をしっておるか?」

黒部と長野を結ぶ立山連山の厳壁の中で一等高い山がある。

「山の神か?」

黒龍は水辺に住む。

時にこの琵琶の湖に身を沈めるくらいだ。

だから、黒龍は水神さまだ。

「いや。黒と同じ水神だ」

「おまえも龍か?」

きのえがいぶかった。龍なら水のある事が必須である。

だが、直ぐに思いついた。

山にも湖はある。沼もあろう。

『黒が龍であることもしっておるか』

白峰はきのえの物事を受け止める柔らかさに驚いた。

「わしがなにかわかるか?」

「と、いう事はおまえは龍ではないということか」

呟くと考え始める。

「水神じゃというたの?」

もいちど確かめるとうーんと考える。

『これは・・・これは・・・』

瞳を見開いて考え込むきのえの唇の先が軽くとんがり、些細な事に真剣に集中しきっている。

『えらく・・・可愛いではないか』

改めて少女を見詰なおした白峰である。

神仙樹の果実をおもわす。

白い実に薄く桃色をさす。

産毛が少女を柔らかにつつみ、

穢れを知らない証に、産毛が一つもくずれおちてない。

つうと張り切った皮をむけば、下には果汁を含んで、果肉が甘い香りをただよわせるようだ。

愛くるしい顔立ちが黒龍の言うとおりまだ幼い。

だが、幼さの下に触れれば開花する女子がいる。

これを子供だと言うか?

大人になり始めている少女が口を開いた。

「いもりか?」

「い・・いもり?」

「ちごうたか?」

沼の水の中にもいる。山の僅かな池にもいる。

黒い腹を水の中で翻し泳ぐいもりは不気味な美しさがある。

黒い肌に描かれた緋色は万壽紗華の赤より紅い。

いもりの腹に見る紋様は曼荼羅を見るようで恐ろしい。

こんな小さな生き物が曼荼羅を負うかと怖ろしい。

畏敬の紋様の不気味な美しさが男とにていた。

思いついた事がちがうといわれ、きのえはまた、かんがえこんでいた。

『白峰山の名を出してもわしをしらぬというか?』

何も知らない。

無垢な少女だからこそ、黒はそれを大切に思うらしい。

だが、白峰が見つけた少女は違う。

あの項の細く美しい事。

たわわに実る前の果実をもぎとり、

思い惑う少女は男を強いられるとも気が付かず、

白峰の項を舐める舌にふうと瞳をとじてしまう。

気が付いたときには、

白峰の腕の中で女を咲かされる。

『わしは・・・今何をおもうた?』

唇を尖らせている少女の横顔をみつめかえした。

『わしが?』

ちらりときのえが白峰をみた。

指をたて、唇にあて、まだ、おまえの正体を明かしては成らぬぞと示した。

判じ物に夢中になっている。

確かにこどもなのだ。

だが、白峰の瞳が留まったままだった。

きのえの所作に白峰の胸がどくんとなった。

きのえのいうなよは、白峰の鼓動をだれにも言うては成らぬと聞こえた。

誰にもいわず、我だけに伝えよ。

きのえの中の女がそう、囁いた気がした。

きのえの中の女はそれを最初に見つけ出した男を憎からずと、さらに女を見せ付けるようだった。

『わしが・・もぎとってしまいたい・・・』

きのえの底の女がはっきりと白峰に男をみせつけ、引き出したとも知らず、

白峰も知らせず男の恋情は隠密に蠢きだしていく。

嗅ぎ取った女に胸の中でささやきかえす。

『おまえだけにつたえてやるわ』


「水じゃろう?蛙?たがめ?鮒?鯉?山魚?山椒魚?

蛍、かわにな?鮎?亀?」

あてずっぽうに並びたて始めたきのえにくびをふり

「どれもちがう」

白峰はきのえのひとみの奥に住む女を刺し貫くように瞳を覗き込んだ。

「あ」

きのえを見る白峰の瞳の底に異様な妖しさがある。

『まるで、蛙をにらむ蛇のようじゃ』

ぞっとする思いを抱き込んだきのえがきがついた。

「へ、蛇か?」

「よう・・・わかったの」

きのえの逆撫でされた思いにきがついた白峰は胸のうちでにやりとわらうた。

きのえが白峰を蛇だと気が付いた裏は

きのえが自分を蛙だとおじけさせられたからだ。

きのえの中の女が白峰の前で蛇ににらまれた蛙同然といってみせた。

上っ面のきのえはその恐れが何に起因するかさえつかめない。

男を知らぬ少女が気が付くわけもない。

だが、いずれ、きのえの中の女が白峰に屈服する事だけはたしかなことだった。

だが、その前におおきな邪魔者がいる。

上っ面のきのえは黒龍をしたっているとみえた。


少女は帰ろうともせず、やがて黒龍にもたれかかったままうつらとねむりはじめた。

「おまえの側が一等きにいりのようじゃの?」

「うむ。それでよわっておる」

「などか?」

「とつぐあいてがおるに、いうことをきかぬ・・」

嫁ぐ?みよや。他にもきのえを見定める者がおるのだ。

「端からあおうともせず、ここに逃げてきおる」

「おまえがよいのだろう?」

「子供のいう事じゃに、直ぐ変わると思うてみておるのだが・・・」

初めて異性と意識した相手に子供は直ぐに嫁になるとか、嫁にするとかいう。

「たしかにの」

あんちゃんのよめさんになる。

父様のよめになる。

成らぬ事だとは判らず、知った感情をどう表してよいか判らず童はよく口にだす。

それは恋とは違う。

だが、他にあんちゃんを、父様を好きだと言う感情の言い表し方が判らない。

きのえもそうだという。


注意深く言葉を選んだ。

言霊をしかせるためにも。

「そうまで、慕われておるなら、かまわぬでないか?」

おまえの手で女にしてやれ。

「ば・・ばかをいうておれ・・」

童と言えど人である。

人である上になおかつ童だ。

「そのきはないか・・・」

むっとした黒龍である。

「わしをこけにしにきたか?」

「いや・・・」

白峰が腹のそこでほくそえんだのは無理はない。

人だというて、童だと言うて、己の恋情に目をそむけた。

この言霊が本意でなかろうとも大きな亀裂を作る。

運命と言う糸にこより切れない端糸を作る事になる。

「まじめ、じゃの・・」

女子との結びを堅い物とかんがえておれ。

女子は男の片割れだ。

それを、知らぬ男にきのえは宝の持ち腐れでしかない。

―あとでうらむなよー

「どうしても、きのえの心にこたえてやれぬか?」

「なんどいったら・・わかる?」

「かわるというか?」

「ああ」

きのえの心はいずれ変わる。

「そうだの」

きのえの心が変わらせる相手がたとえ、わしであろうとて、その言葉、うらむなよ。

白峰の奥底にきずきもせず、言霊を確実な物にさせられているとも知らず、

黒龍は己の底を偽った。


それから時はたつ。


相変わらず、きのえは黒龍に背をもたせかけている。

柔らかな後れ毛が黒龍の目に映る。

かぐわしい少女の香にふと黒龍は瞳をとじてしまいそうである。

「あいかわらずだの」

ぬっと現われる白峰もいつもの来客を通り越し二人の友人のごとくである。

黒龍の胸にはぐくまれてゆくきのえへの情愛を見ぬふりをして、

きのえと黒龍の間に立ち入る隙を作ってきた白峰である。

「白峰。することがないかのようじゃの?」

黒龍の元へ来る、三度いや、二度に一度かもしれない。

兎に角、よく、顔を合わせる。

黒龍の唯一の友であるらしいと、考えるときのえも白峰をいやなめでみることもない。

「きのえ」

呼ばれてきのえは白峰をみなおす。

「なんじゃ?」

薄い笑いを下に隠しそっときのえの耳元で小さくたずねる。

「まだ、嫁にしてくれぬか?」

「うん」

頷いたきのえに安堵しながら、白峰はこそりとつぶやく。

「良い法があるのじゃがの」

あくまでも、きのえの味方を演じるが、

白峰はきのえが思い余って黒龍を説き落す法を知りたがる事をもくろんでいる。

「黒に聞かれては、法にならぬに、しりたければ、こそりとわしのところにこや」

「うーーん」

何度かきのえが一人で白峰の元にくるように、さそいをいれた。

だが、其の度にこの長い返事である。

きのえにすれば、法に縋って黒龍を振り向かせるは虚義でしかない。

だから、いつも、考え込む。

黒龍の嫁にしてやるという言葉を聴きたいはやまやまである。

どんなにそう、いわれたいか。

なれど、法ときくと黒龍の真意からではないと、いつもためらわれる。

かといって、ことわるといえぬところが、女心の妙である。

「まあ。よい・・・おまえのこころしだいだ」

きのえが誰をすこうがしらぬ存ぜぬだが

当の本人がどうしてもと沿いたい云うなら教えてやってもいいがと、

みかねた末の助言でしかないとあくまでも、興もないふり。

「う・・・ん」

黒龍がふりむかぬ限りきのえはいつかしびれをきらして、白峰の元を訪れる。

そこは白峰の聖域である。

何人たりとも、白峰の許しを得ずに入ることは叶わぬ場所である。

その場所にきのえをいりこませれば・・・。

白峰の心のままにふるまうことができる。

ゆくりとその時をまつだけである。

きのえをみそめて、三年。

もぎ取らねば惜しい色をなしはじめた少女の香が黒の意識をくるわさぬとも限らぬ。

(もはや・・・限界か)

白峰の欲情を抑えておくのも、

黒の目にきのえをふれさせておくことも・・・。

動かねばおけぬ、絶好の機会が廻ってこぬまま、時が満ち始め、

水時計から、艶やかな雫がしたたりおちそうである。

「困っておるんじゃ」

きのえがそっとうちあけはじめた。

黒龍は白峰の側ににじり寄り、なにおかはなしこむきのえをみていたが、

話にくわわらぬほうがよいらしいと、腕を枕に転寝を決め込んだ。

(せいぜい、ふかいりせぬことと避けるが良い)

白峰は黒への一瞥で黒龍の思いを読み取ると黒の底の決めにほくそえんだ。

「なにに困っておる?」

「う・・・ん」

いくばくか言い渋るのは言うてもせんないと思わす黒龍の拒絶のせいである。

いくら、黒龍にいうても、きのえを嫁にしてやるとはいわぬ。

それだけならいつものことである。

藤太の所へ行けもいつものことである。

だが、

「ばっさまがいうておるうちはよかったに」

「どうしたという?」

「父さままでが、とうとう・・・」

藤太の所へとつげといいだした。

これを黒龍に言えばいっそう、

「それみたことか」

と、ばかりに黒龍もくちずっぱくきのえを拒絶するだけなら、まだしも、

「もう。ここにきてはいけない」

とまで、いわれそうである。

黒龍に相談してみても、らちがあかぬを通り越し、

きのえの恋の窮地を招く役にしかたたない。

「あんばかたれが:・・・」

黒龍をなじるきのえの瞳から涙が落ちてくる。

『ばかたれだな』

確かに黒龍はきのえのいうとおり、ばかたれだ。

欲して止めさせぬ女子への情に目を瞑るおおばかたれだ。

薄桃色の少女の心を柔らかな肌ごと包む至福に惑わされぬはおおばかたれだ。

思うてみるだけで、喉は飢えにひりつく痛みを知らせ、

この場で少女を抱きよせてしまいたい誘惑に抗うがどんなにくるしいことか。

だが、黒の馬鹿さ加減できのえは黒のものにならずにすんでいる。

このうえもなき、おおばかたれである。

「きのえ。藤太のところへいくはいやか?」

何度も言ってきた事である。

だが、何度言っておっても、心底の思いはきのえをすなおにうなづかせた。

「いやじゃ」

「そうか。ならば、行かぬですます法があるが、どうする?」

白峰の問いにきのえは今度はうなづいた。

「おしえてくるるか?」

「ああ・・だが」

白峰はちらりと黒龍をぬすみみた。

『黒龍にしられてはいけない』

白峰がそういったと思ったのはまた。きのえも同じ事を思ったからである。

父勝源のいいつけにそむいてまで、運命をかえてまで、

黒龍の側に居ようとしたと知られたら、やはり、黒龍はもう来るなというだろう。

くるなといっているうちはいい。

きっと、黒龍がもうここにいなくなる。

自分の勝手で父にまで逆らうきのえとなれば、

それを黒龍は自分のせいだと考え、自分さえいなくなればと、

ここから、きのえの前から姿を消す。

「明日。おまえがとこにゆく」

そこでこっそり、嫁に行かぬですむ法を教えてくれときのえは自ら白峰に懇願した。

「わかった」

きのえがことは神の嫁女にする。

こうすれば、たしかにきのえはもう、藤太のところへいかずにすむ。

だが、きのえを藤太の所に行かぬで済ます法を敷けるのは、白峰ばかりでない。

けして、きのえを騙すわけでない。

きのえにいわれたとおり、藤太の所へ嫁に行かぬ法を教えるにすぎない。

それが黒龍でも出来ると言う事を伏せ、

白峰の其の体と心できのえを藤太の所に嫁に行かずにすまさせる。

『どのみち・・・』

白峰は胸のうちできのえにつぶやいた。

『おまえが黒を諦めて、藤太のところにいくというたら、宣託するばかりだったわ』

―その娘。白峰大神が所望する、差し出せー

そして、苦悩する黒龍との争いが始まる事だろう。

人としていかせしめたいきのえを何故神格のおまえがてにかけたいか?

この黒龍が諦めてねじ伏せて見ないようにしたきのえへの恋はなんだった?

ただ、ただ、きのえを人としていかせしめたいためだけでないか?

こんなことなら、いっそ。

白峰は黒龍をもう一度見詰めなおした。

腕を枕に転寝の黒は白峰を疑う事もせず、軽い寝息を立てる。

白峰を信じている黒の姿を目に焼き付けると

『これが最後だ』

と、おもった。

明日を過ぎれば、どのみち、黒との争いがはじまろう。

宣託の結果も同じ。

きっと、諍いはさけられぬ。

どの道同じ。

宣託との結果と違う事といえば、間違いなくきのえを手に入れたあとに争いは始まる。

それだけの違いだった。

だが、そのことこそ、この二年、きのえをまちこした白峰の執念の結実である。

明日からは友でなくなる、いや、今、この時から決別ははじまり、

きのえを選び取った白峰でしかなくなった。


やってきた娘はおずおずと白峰の前に座るともう話は

どうすれば黒龍の嫁になれるかと、いうことになる。

「あれも・・・神といえど男にちがいわない」

きのえがその意味合いをさっしたか、僅かに頬を染めてうなづいてみせた。

「けれど、黒龍はきのえがことを女子とおもうておらぬ」

いくら、黒龍とて、男であっても、きのえを女子と思わぬ男は

男としてきのえに対峙してこない。

「吾はもう、こどもでないに・・・」

いつまでも、そこにきがつかぬふりをしているだけなのか、

それとも、きのえに女子としての魅力が皆無なのか?

「いや、御前は・・子供のまますぎる」

白峰に告げられた言葉の裏に罠がある。

気がつくわけもないきのえは、素直にうなづいてみせた。

「どこが、ままなのじゃ?どこがいかぬのじゃろうか?」

それを正せば良いと、白峰が教えてくれるとひたむきにしんじるのは、

ただただ、黒龍への恋慕がなさせるわざである。

「そうじゃな」

ちりりと胸がひりつかぬでもない。

「おまえは男の心が判らぬ。これがいかぬ」

「男・・・の心?」

しばし考えこんだが、わかるわけがない。

「どういうことじゃ?」

問い返した言葉を白峰は猛りを開放するきっかけにする。

「こういうことじゃ」

きのえの驚きを声にさせることもなく、白峰は若い牝の身体をくみしいた。

「な?なにを?」

「男と云うものが何を望むか、判っておらぬ。黒とて、男ならこうする」

「それは・・」

どうかこうかもない。

黒の気持ちの中にいっさいきのえに対峙する男の気持ちはない。

むしろ、この白峰こそが女としてのきのえをのぞんでいる。

と、白峰はいっている。

「いやじゃ」

おろかにも、白峰の諮りにかけられたときがついた時にはすでにおそい。

「いやじゃ」

離してくれと許してくれと懇願しだすきのえの言葉は白峰の耳に届かない。

「どんなに逆らわれ様と、それでも、好いた女子にこうせずにおけぬ。それが男なのだ」

黒龍には白峰の勝手のかけらひとつさえ、ない。

「おまえは・・吾の事がすきじゃというか?」

いまさら、この白峰から逃れる事が出来ないと悟った娘は白峰の言葉を手繰る。

「黒龍がことは、いくら思うても無駄か・・・」

あふれてくる泪は黒龍との決別を迎える心のためか、身体のためか。

どの道、白峰のものにさせられるこの身体なら、

せめて、無理をおしてでも我が物にしたがる、

白峰の恋情があることを喜ぶしかないのかもしれない。

解き放たれた着物の紐が離され、肌蹴られた裾の中に男の素肌がすべりこんでゆく。

堪えた苦痛が、己のはやったふるまいを嘗め尽くす。

『黒龍。おまえのいうとおり、どうせ、吾がお前の物になれるなら・・

大人しく藤太のものになるべきだった』

だが、その後悔さえせんない。

「おまえが黒をあきらめたとて、藤太のところにもいかせぬ」

心をよんで、まだ、きのえの想いまでくじる。

『いずれ、こうなるしかなかったということか・・・』

白峰の願うとおり諦念をかこちだしたきのえの肌にはそれでも、悲しい震えがおきる。

「七日七夜。これだけが、こちらから強いれる異種婚の限度。そののちは、お前の意志による」

きのえが望めば白峰との間は特別な物として存続する。

「こののち、おまえはこの白峰をのぞむしかなくなる」

七日の間にきのえを白峰の繁茂に落としこむ。

それが出来ると思うのは白峰の恋情の丈深さのせいだけではない。

きのえにいさぎよく、諦める事を選ばさせるしかない特異な物が

確実にきのえをつらぬきとおしている。

黒龍の元に帰る事が出来なくなる身体になるのは、

ほんの一瞬のすきがみせたたやすさでしかない。であるのに、

黒龍の元に帰る事は未来永劫かなう事でなくなる。

強かなさざめきできのえを嬲る白峰の蹂躙が心より痛く身体をかきまわす。

紅の色より赤き印が白峰を染めると、いじわるく、きのえにくぎをさしたくなる。

「初手の男が、わしじゃった事がきのどくじゃな」

性戯にろうたけた男といいたいか。

女とてこんな男を初手に知れば、後のほかの男との交渉はただ、

白峰を追慕させるだけの助けになる。ほうっておいても、きのえは白峰を求むる所になる。

だけでなく、七日を過ぎきのえが他の男を求めようと、

神格の白峰にめでられた女なぞを思うことすら、畏れ多くていけなかろう。

神罰もこうむりたくない、人間の男はこの先きのえを白蛇神の巫女としてまつりあげ、

人としての生業をうばうだけである。

いずれにしろ、きのえの進路は閉ざされ、この先にかえれる場所は白峰しかない。

『めんどうなのは、黒だけだ』

きのえが白峰の言葉をまにうけて、黒龍をあきらめているうちはいい。

だが、黒龍の本心が噴出した時きのえの恋情をくいとめることができるかどうか。

男を知った体と云う恥辱なぞ、黒龍の恋火にあおられれば、

一瞬のうちに色を変えむしろ、

ゆえに一層、きのえの身体の芯に或る物狂おしさを自覚させるだろう。

そうなった時、阻むに阻めぬ一対の炎の融合に泣き狂う己の姿が浮かぶ。

「なんとしても・・・」

黒龍が引くしかない、きのえを作る。

そのためにも・・・。

黒龍にとって、諦めていた筈のことをやりのけずにおけない白峰に徹する。

「たとえ、この身三千世界の芥になっても、お前をはなしとうない」

きのえの虚ろな瞳に白峰が映る。

男が震えている所なぞ見た事がない。

「そんなに・・・きのえが・・・」

欲しいかとは問えずきのえは白峰を映す瞳を閉じた。


村中は大騒ぎである。

昨日の夕刻に姿を見たきり勝源のところの娘が夜更けても帰って来ない。

探し回る勝源の顔色が蒼白になっているのをみると、村人も

「藤太がところへいったのでないか」

と、からかい半分では勝源を安心させる事が出来ないわけがあると悟る。

「いやだといってはいたが・・・」

もう七日もない祝言の日を前にきのえが姿をくらますとなると、

やはり理由はそれしか思いつけない。

ぼそりと呟いた勝源の不安であるが

「それでも、娘心と秋の空。

気が変わってこっそり藤太にあってみりゃあ、それ、そこは男と女。

頭じゃ馴れない仲になりってこともあろう?」

まして、祝言を控えている男と女である。

世に言う確約を得た二人が堪えきれず忍び合ったとしても、

親さまも大目に見るしかないというところにいる。

「そうであろうか?」

「そうであろう」

きのえにはこの親に似合わぬ、勝源の温和さからは信じられぬような、芯のきつさがある。

よほど、このきつさで藤太を見初めれば、あとはわき目も振らず深みにおちることになる。

「きのえのことだ。ありうる」

いわれてみれば、そうかもしれない。

あれが、ちょくちょく姿をくらましては、夕刻遅くになって返って来る事がつどあった。

それも藤太にあっていたということなのかもしれない。

「だが、それなら・・・いやだなぞというわけが」

「勝さんよ。あんたみたいな親だからきのえはいえねえんじゃねえかい?」

男勝りの気性は幼い頃から。負けず嫌いで

田の稲を刈る手のちいささに比べ積み上げられてゆく稲束の数の多さが

きのえの気性をよくあらわしていた。

「だからな。誰にも負けねえよなきのえが藤太にゃまけましたとはいいたくなかろう?」

「あ?」

「わかるか?」

「ああ・・・」

野卑に言えば藤太の持ち物に『女』として泣かされるきのえになったということである。

「嫌だ」はこんな自分をしられたくないきのえの虚勢でしかないと言う事になる。

他人様の方がえてして事実を見据えることができるものであるが、

この場合もそうなのかもしれない。

そうであるならば、ひと隣村の藤太の所まで

夕刻になって足を伸ばしたきのえが帰って来れるわけがない。

「朝には帰って来るだろうよ」

若い者の気持ちが判らぬ無粋な者になるのは、父親ゆえであろう。

娘の『女』の部分を、見たくないのはどこの父親も同じであろうが、

ゆえに娘達はこっそりと逢瀬を繰返す。

これも世の常であり、その内に留め置かれなくなった情念が時を構わず場所を構わず

ふきだしてくる。

もうすぐ伴になれるとならば、一層情恋はたけりくるうものである。

「そう・・かな?」

「ああ。きのえももう、子供じゃねえんだよ」

朝まで待つかと勝源は不安を諫めるしかない。

どのみち、女子は他所の男にさしださねばならぬもの。

生まれた赤子が女と知った時に、男親なら誰でも腹をくくることである。

その覚悟の時が現実にやってきていささか、取り乱した。

こう言う事になるか。

「娘と云う者は急に女子にかわるものなのだな」

ぽつねんと呟いた勝源の胸内は

藤太の所に行っておればよいと思いながらもやはり複雑である。

行っておらぬきのえであってくれれば良いとも思う。

が、そうなれば、きのえの言葉『嫌だ』は真実になり、

きのえはどこに行ってしまったのかと不安になる。

「そうだな。藤太のところだろう」

不安を拭うのはそうと認めるしかない。

そう認めるしかない不安の裏で『女』になったきのえを容認せざるをえない。

「そうだな。藤太のところだ」

同じ言葉を自分に言い聞かせ勝源は朝をまつことにした。


「いやじゃ・・・」

なんど懇願しても白峰に穿たれた物から、離れえない。

「きのえ・・・無駄じゃ。蛇の物は果てるまで離れぬ」

いつまで続くか判らぬ蹂躙がきのえを苛み、悲痛な泣き声が喉を虚しく通り過ぎてゆく。

「父さ・・まが案じて・・おる。帰して・・・くれや」

「心配すな。勝源には、知らせをやる」

きのえの一計はあっさりと握り潰される。

白峰という神格の面倒さがここにもある。

わざにでむかなくとも、勝減の夢枕に立つか、朧の姿を降臨させ神託をつげるか。

どちらにせよ、きのえを抱いた手を緩めずにすむ事だけは間違いない。

『どうしても、七日をとめおくしかないのか』

ほんの一時の辛抱と高を括った交わりも恐ろしく長い。

是が七日の間に何度くりかえされることか。

白峰の実に嬲られつくされる七日により、

きのえの中の黒龍への思慕は完負なきほどに叩き潰されることになる。

『こ、までされて、黒への操のたちようもあるまい』

その「こ」はいま、始まったばかりでしかない。

押さえつけたきのえの身体を弛めても、既に抜け切れぬ物がきのを捉えている。

ゆくりと、たぶ実を蠢かし、白峰の物になったきのえをその身体に教え込む。

「辛抱しやれ。すぐに・・・」

ようなるといわず白峰はきのえをみつめた。

初めての異物がきのえの中に今まで知らなかった感覚をしらせる。

それは、たとえ、どんな女であろうと、

どんなに拒もうとも主の意志に拮抗する女の身体の不思議である。

わずか、半刻の間の連動にさえ、

きのえの表情にこの不可思議に屈服する物が表れることを見逃すまいと、

白峰は緩やかな蠢きを崩さぬまま、きのえを見詰続けていた。

『喩え、初めての事であろうと、身体が女に成る以上、なった証しをみせてくる』

ふと、きのえの苦痛を訴える声がよわまる。

証を見せだしたきのえの身体は、じきに掌を返したように白峰の挙動に喘ぐだろう。

大きな鎖から解き放たれたきのえと知った白峰は

確実に我が物に落とし込むための穿ちを与えつくす。

己の身体が己を裏切りだす。

裏切った身体がいずれきのえを支配する。

支配されずに置けぬほどのきのえを作るためにも、

白峰は甘言を囁き、きのえの魂ごとほだそうとする。


布団の上に端坐したまま、勝源の一夜が明けた。

夜が白む頃まで、身体を布団に包ませたまま、きのえの事を考えていた。

きのえは藤太の所に行ったに違いないという作三右門の言葉を

信じようと努めるのだが、どうしても、腑に落ちない。

言いたい事をはっきり言わずに置かぬ性分のきのえである。

親の目を盗んで藤太と深い仲になっていたとしても、

すでに許された仲であれば、

むしろ堂々と「いやでもこうでも、藤太の所に行くしかない自分になった」

くらいはつげてきそうである。

だが、作三右門の言う事も一理ある。

女と云う別の生物になったきのえが、

男に組み敷かれる自分をみせるのは、藤太だけになるわけである。

『組み敷かれた女』という今までなかった部分を知った事を

他のものにけどられたくないと思うか、

むしろ、結ばれた喜びとしてけどらせるくらいのきのえになるか。

実際の所、勝源にはわからない。

判らない以上、作三右門の言う事にも一理あると思える。

とにかく、夜が明け、きのえが無事と判れば、それでいいわけである。

もう、七日も過ぎればどの道、藤太の元から帰ってこなくなる娘である。

「さては、こっそり藤太め。夜這わってきていたか?」

親に密かの睦事を既に繰返してきているのなら、

尚更、表面は気のない素振りを取り繕うきのえになるかしれんと思い巡らせた勝源が

やっと睡魔に捕まる自分を許した。

ほんのわずか。うとうと、まどろんだ事と思う。

一条の光が瞼を刺し、つむった目の中にまで閃光がうごめき、

まどろんだままなのか、夢なのか、判らないまま、勝源は覚醒を覚えた。

尾を引くたまゆらが目の中を幾筋もはしりさって、うかびあがって、ながれてゆく。

不思議な感覚のまま、勝源は光をみつめていた。

光がまばゆさを失い始め日向の明るさにかわると、

目の奥に黒い点が浮かびそれがだんだんおおきくみえてくる。

勝源にちかづいてくる点影がやがて人の姿と解ると、

勝源の意識の一方が「どうやら、これは夢枕だな」と教え始める。

黒い影に白いもやが掛り始め、黒い姿を取り囲むように渦を巻き始める頃には

「降臨・・・」

つまり神おろしだと勝源にもわかる。

「いったい、どこの神が、何の用で」

と、いぶかるより先に白いもやは大きな白い蛇の姿を象り黒い影を、

つつみはじめ勝源の目の中に人型として、姿を見せた。

「白蛇神?」

この辺りの神ではない。

村の外れの湖にせり出す洞の祠の水神

近在に住むものの守護神として、まつられているが、

この水神の正体は黒い龍だといいつたえられている。

勝源は息を飲みこむ自分の喉の音を聞いた。

確かに自分が覚醒しているとしか思えない聴覚とは、裏腹に

目の中の男はすさまじい麗美をもち、とても、現とはおもえない。

だが、男いや、白蛇神は勝源の前に立って居る。

凍りつくような美しい神が憂いを含んだ顔で勝源をみつめている。

この神に憂いを含ませるのがほかならぬ自分なのではないかと思ったとき、

白蛇神の低い声が勝源の胸の中で響いた。

「きのえをば、藤太にかせることは、まかりならぬ」

―なぜ?―

勝源が胸内で答えを探るより先に声がひびいた。

「そなたの娘。きのえは今日よりこの白峰の寵愛をうくる」

な・・・なんと!

白峰というは、白山連邦、白峰山の主神ではないか?

だが、なぜ、そんな神がこの琵琶のほとりの小さな村にあらわれる?

いや、それより、なぜ、きのえを?

勝源の驚愕を見越してのさきの憂い顔だったのかとしると、

一層に勝源は神に娘を差し出さねばならぬことが口惜しい。

「なぜ・・」

なぜ、もうすぐ嫁ぐ娘を横からひっさらうまねをする?

それが神のすることか?

きのえが人としてごく普通に生きることを阻むも神ゆえ傍若無人で負かり通せるというのか?

白峰は勝源の心を読み取るときのえの片一方の事実をつげた。

「きのえは藤太がところへかすことをのぞんでおらぬ」

「ならば?」

自分で口に出すことさえ、震えるほどに悲しい。

「きのえは、お・・」

神をして、お前呼ばわりする事に勝源はすこしためらったが、つづけた。

親の許しも得ずに娘をひっ攫うものは、神といえど崇める必要なぞない。

「きのえがおまえをのぞんだというか?」

勝源が藤太を選んだのはきのえの性分をよく知っているからだ。

罷り間違っても、きのえはこんなひややかさをもつ男なぞ好きはしない。

藤太の明るく温厚な性格がきのえの負けず嫌いをじんわりとうけとめ、

きのえに安らぎをおぼえさせる。こうみぬいた勝源である。

すくなくとも、自分勝手な感情をきのえに強いているとしか見えないような男に

あのはねっ帰りの娘が惹かれるとはとうてい、考え付けない。

勝源の言葉と胸の思いをみとった男が浮かべた笑いは

どこか自嘲めいているくせにやはり冷ややかなものであった。

「父親だけあって、よく、しっておいでである」

妙に慇懃にいわれると、事実は逆なのだと皮肉られている様にさえ聞こえる。

「たしかに、藤太の性分は」

父親だけあって、合う合わぬより、むしろ、きのえがどういう性分を好くか掴んでいるといえる。

『藤太は黒めと相通じる物を持っている』

藤太の性分を好くだろうきのえ。

つまり、黒に惹かれるきのえを認める事が出来るのは、

既にきのえを手に入れた余裕がなせるわざである。

「藤太の性分だけをいえば、親父殿のいわされるとおりであろうが、きのえは・・」

気の毒と云う目の白峰に告げられる事実はまた、勝源の胸をしめつけることになる。

「いずれにせよ、きのえは人の物になれぬ

白峰がきのえを奪い取った相手は藤太なぞと云う人間ではない」

「ど、どういうことだ?」

きのえはすでに別の神に?こういうことか?

されば。神同士の間に立たされてきのえは玩具の如く奪い合われていたというか?

「きのえを・・きのえをなんだとおもっている?貴様らの・・」

欲を拭わせる道具か?それが、神のなすことか?

きのえをぼろ布のように嬲ったのかと訊く言葉を出すことさえ胸が苦しい。

「いや。きのえは放っておけば、黒龍の元で一生、未通女のままで暮らす事になる。

黒龍におもわれもせぬまま、巫女の如く一生を送るきのえであるよりも、

そこは親父殿とおなじ。女子としていきてほしいものよ」

「黒龍?だと?」

「どのみち、人間風情がたちうちできぬ相手よの」

暗に同じ神だからきのえを奪い、

女子としての生き様を知らせる事が出来るのだといっている白峰である。

「待て。お前の言い分では黒龍がきのえをとらえていたようにきこえぬ。

きのえが勝手に黒龍におだをあげていたとするなら、何ゆえ、お前が横からかすめとれる?」

「この白峰がこらえきれなくなったほどに『女』を匂わせ始めたきのえに

黒龍が欲をいつ滾らせるか判らないではないか

きのえがのぞんだとて、黒龍の一時の寵愛に、わたさねばならぬか?」

黒龍に弄ばさせて棄てさせるくらいなら、

きのえを振り向かせるために、自分がきのえをうばったという。

「すると」

神が人間に交わりを強いれるのは、七日を限度と聞く。

きのえのこの先はきのえ次第できまることであるが、

「きのえは巫女として、お前に仕えるしかないということか」

勝源の呻きを聞かぬ顔で白峰はつげた。

「七日七夜。きのえを妻に召す。七日があけたのち、

きのえを返すが、きのえのさきゆきが

白峰の物となるしかないことを違わせる者がおれば・・・」

白峰も自分の脅しを口に出すはさすがにためらった。

だが、なんとしてもこの先もきのえがほしい男は

卑怯としか言えない策を敢えて口に出すことを選んだ。

「あふり」

何と言う事を言い出す神であろう。

人間の女子ほしさに同じ神からきのえを奪い

この先、きのえの方から白峰を求むる以外、交情をもてない掟をさかてにとる。

あふりなぞあげられては、被害はきのえだけのことですまなくなる。

稲つくりも漁もあふりの毒に侵され村人のたっきの道も奪われる。

村長として、きのえを差し出す道しか残されないだけなら、まだしも、

きのえにこんな男を求めて生きよといわねばならぬ。

それだけでない。まだ・・・ある。

『藤太・・わしが、お前に託したかった娘はもう・・』

どう、つげればいいのだろうか。

村長同士の寄り合いで教えられた男は、

きのえの婿に相応しいと推し進められたとおり勝源の目にかなった。

きのえよりむしろ、勝源が気に入ったといっていい。

男親がたいそうきにいるような男だから、まちがいがないとおもっていた。

だから、いくら、きのえがなんといっても、添うてみれば変わると信じていた。

三年も前。藤太はまだ、十九だった。

「まだ、十三のねんねだが、三年もすれば嫁にだせよう。おまえ、貰ってくれぬか」

と、訊ねた親ばかぶりをわらいもせず、藤太は

「親父さんとこの、娘なら間違いない。良い娘だろう」

と、はにかんだ。

その約束を果たそうという矢先だった。


朝になってもやはり、きのえが返ってこぬ。

勝源はやはり、夢のお告げを信じるしかないのかと思う。

白蛇神の存在さえ知らなかった勝源にはその神の居場所もわからない。

手繰る術は奴が口に出した同じ神格である『黒龍』に頼るしかあるまいとおもうが、

あれほど先行きまでを言明した白蛇神が七日を過ぎぬうちは、きのえを返しはすまいと思う。

が、いかんせん、口惜しい。

「嫁取りの日まできまっておった娘を神ゆえと何の無体をつうじさせられる?」

勝源の胸の中の憤りは黒龍にもむけられてゆく。

「白蛇神のものにならないなら、黒龍が物になるしかないといいおったな?」

藤太の者になれぬというということは、もともとは、黒龍の存在のせいであり

白蛇神はその確約をかえたにすぎないといった。

と、なれば、この事件のきっかけは黒龍に始まると言う事になる。

「村人を護るのが水神のつとめではなかったのか?」

その水神がきのえに不埒な思いをもったゆえ、

白蛇神も神としての常軌を逸する事を己に許したと言う事になる。

神に魅入られるがきのえの運命なら

その神が白蛇神であってもよかろうという安易な許容を植えつけたのは黒龍ゆえだ。

素性もわからぬ神の横暴は仕方がないとも思える。

だが、黒龍はこの村の外れ

七尾つづらの山を抱く入り江の先端の祠に大事に祭ってきた。

朝の漁に苗代の水に何かにつけ水神の加護を信じ、供物をささげた。

胸の中にいつも、崇めつづけた、いわば同胞のような存在である。

この同胞の挙動が,あさましくも人間の女子に懸想かけていたという。

「許せぬ」

と云う、思いとともに、勝源は洞の祠に足を向けると

居るか居ないか判りもせぬ水神に向けて憤怒を表した。

「きのえをかえせ。わが手に返せ。お前のせいで、きのえは蛇なぞに・・」

ぽたりと泪が落ちた。

人として生かせしめたかった愛娘の人生は踏み潰され、巫女という形の生贄になる。

―いまさら、なにをいうてもせんないー

憤りを口にすれば尚更引き返せない事実だけが胸に迫ってくる。

「藤太・・がとこにも・・やれぬ体にしおってから・・」

それだけで飽き足らずきのえのこの先を差配する。その白蛇神と、

「おまえも、おなじものよの」

いくら、なじってみても、くだらぬ者はくだらぬ。

「きのえ・・・を・・」

もうどうにもならぬ。

たとえ、白蛇神から、きのえを取り戻したとて、運命は神の寵愛を受ける娘と魂に刻んでいるのだ。

「だが、せめても、御前なら、諦めもしよう。

幼き頃からのきのえを見守り続けた守護の神がきのえに懸想するは、まだしも。

なんで、この地の者でない神なぞに。お前がなんで、きのえを護れなんだ・・・」

苦渋だけが、勝源の胸を穿つ。

しんと静まりかえった祠の中さけんでみても、ただ、己に返って来る言葉が胸の中をすさばせる。

「きのえは・・・」

無垢なまま、藤太に渡したかった。

似合いの夫婦になると思うておった。

「・・・・・」

拳を握り締めると、勝源は洞の祠をあとにした。

白蛇神に望まれた娘は、今其の契りを強いられ、あと、六日を過ぐるをまつだけ。

その思いだけで六日をすごすのだろう。

だが、其の後も・・・。

運命はきのえを差配する。

「なんで、おまえが・・」

神なぞに魅入られねばならぬ。

どうなじってみても、覆せない事実だけが勝源の前に披瀝する。

「さしだすしか・・ないのか?」

それだけはできぬ。

藤太にすまぬとおもう。

人と人の約束を無に返す、神の横暴をせめて、勝源だけはゆるしはしない。

洞の祠を出た勝源の目の中に明るい日差しが差し込む。

目が痛いのはまばゆさのせいだ。

きのえを神の恣意に屈服させられた悲しみのせいではない。

「きのえ。おまえさえ、望まなければ活路はある」

この七日。白蛇神が手を下せるのはそれが限り。

人の心で運命を覆す。

神の恣意なぞ、どこ吹く風にできる。

勝源は「あふり」と唱えた白蛇神に立ち向かう自分になるしかないと思った。

たとえ、いかなる被害が生じても神の横暴を許せばこの世は人のままにならぬ。

こんな事があって、いいはずがない。

天の捌きをかけて、勝源はたちむかう。

神より強いものは人の心であり、天である。

天は人の心に乗りうる。

一介の人間が秘めた反心は、地上を揺るがす事になると知らず、

勝源の瞳からあふれる潮は血の色にも見える決意そのもになりかわった。


「なんということを・・・」

洞の祠に現われた勝源の言葉で黒龍はきのえに何がおきたかを理解した。

と、同時に黒龍の心に湧いた物をそのまま言葉にするとこうなる。

「藤太にやるなら、諦めもしよう。

このまま白峰なぞに渡すため己が心をふさぎこんだのではないわ」

確かにきのえを求むる心がある。それは事実である。

だが、それもきのえを人としていかせしめたいと思ったゆえふさぎこんでいた。

それを良い事に・・・。

「白峰、よくも・・・」

どれだけの思いできのえを人として生かせようとしたか。

知っておるはずの御前がした事は、畜生よりも堕ちる。

「許さぬ」

だが、それよりも、

「きのえ・・」

こんな事になるならばいっそ御前の気持ちを受止めておけばよかった。

幾度と。何度と。

御前と一つになれる機会はあった。

御前の望みをつぶしたのは。

「白ではない。このわしじゃあ・・・」

泣き叫んで抗い、諦めたきのえの姿が目に浮かび、黒龍の後悔は峻烈な痛みを伴う。

きのえの暗く沈んだ悲しみを思うとき、その淵からきのえを救い出せるのは自分しかいないと思う。

さらに、救い出すより先に、黒龍ははっきりときのえを欲する自分をつきつけられた。

「わしが、自分の気持ちを偽ったせいじゃ」

きのえに見せられる真実は喩え、今からでも遅くない。

きのえ。せめても、御前の思いから逃げたわしがしてやれることは・・・。

ふいと黒龍は龍の姿に変わると空をめがけた。

天空より、白峰の居所を探し、きのえを取り返すときめた。


空に舞い上がりきのえの気配に感覚をとぎすまさせる。

だが、白峰の手中にとらまったきのえは白峰の結界のなかにいる。

かけらほどの気配も感じ取れない。

だが、きのえの昨日の痕がある。湖とは反対側の山の中に入った途中で

きのえの気配がこつぜんときえている。

ここで、白峰が虚所の棲家をきのえの眼に幻惑としてみせ、

虚所のなかにはいりこませたきのえをどこかに攫ったにちがいない。

きのえを捜す手立てが塞ぎこまれたと知った黒龍は天空界に昇りあがった。

「ほおう?」

ひさかたに眼にした黒龍をさそくに見咎めたのは八代神である。

目差す相手がそこに居る。

「八代神。白峰はどこにおる?」

「はて、はて・・白・・・」

尋常でない黒龍の顔を見詰めた八代神は口ごもった。

「どこにおる?おまえなら、わかろう?」

教えぬならお前から八つ裂きにしてくれるわとでもいう、憤怒がみえる。

「さて、なるほど・・・」

黒龍の元に足を伸ばしていた白峰を知っている。

黒龍を慕う人間の娘がいる事も知っている。

そして、白峰の性への欲が強い事も知っている。

黒龍が側にちかづける娘はさぞかし美しい魂を持っていると思える。

そして、黒龍がただ事でない形相で白峰をさがしている。

事柄を並べ立ててみただけでも、八代神にも、白峰のしでかした事が見えてくる。

「娘をさらっていったか?」

黒龍の瞳に火がみえる。

「おまえのものにしておらなんだのだろう?」

いくら、白峰とて黒龍の物になった娘をさらいはせぬ。

誰のものでもない娘を白峰が先立って手に入れたとしてなんの責めもできぬ。

「嫁入りがきまっておったわ」

「人間のところだろう?」

人の世の輪廻の中ではまだ、とりかえしがつく。

今のえにしがきえはてても、次の転生でその縁をかえすことができる。

「だから、神の恣意が先にまかりとおるというか?」

人の一生はみじかすぎる。

未来永劫続く輪廻転生の中で一度くらい神にそめられたとしても、

それは小指にとげが刺さったくらいのもの事にすぎない。

むしろ、長き命と云う思いの中に生きる神がその思いを果たしきれず

悔恨の情を持ち続ける事ほどの苦渋はない。

「白峰の思いのほうが大事だというか?」

「そうはいっておらん。だが、こんなささいなことひとつで、

あれが祟り神にでもなってみろ。

人間界に及ぼす禍は娘ひとりの一時の今生の問題だけですまなくなる」

ぎろりと黒龍はめをむいた。其の口から出てくる言葉は呪詛にもつながる。

「それで、代わりにわしが祟り神になればいいというか?」

「なに?」

お前。今更。娘を白峰に取られたいまさらになって、本気になったというか?

「きのえはわしをのぞんでおった」

いうてもどうにもならぬ悔いである。

だが、黒龍を望んでいた娘が白峰の恣意を受けさせられる事は陵辱いがいのなにものでない。

「どんなにか、つらかろう」

「おまえの苦しみはわからぬでないが、白峰にすれば、お前を思う娘と知っての上、

これは、それでも、娘をふりむかせたかったということになる」

よほど、白峰の方が真剣かつ必死であったということになる。

「取られるにはとられるだけのわけがあるものよな」

黒龍。おまえのうかつのせいでしかない。

とられた後になってしもうたといって、駄々を捏ねているだけにすぎない。

八代神はふいとその場をさろうとする。

「まて」

この上何をいうことがあろう。

八代神は冷たい一瞥をあたえるしかない、その顔をふりむけなかった。

「ひとつだけ、ききたい。きのえの先を読んだ時、何故あの娘がわしの女雛になるとでた?」

「なに?」

女雛。つまり妻という。

黙り込んだ八代神はうでをくんだ。

黒龍が嘘を言うはずがない。

だが、それならば、なおさら・・

「それを知って何故素直に・・」

きのえとの運命を享受しようとしなかった?

「人だぞ。人の子だ。許しては成らない結びつきではないか?」

「おまえ・・・」

馬鹿だといおうと思った。

天は地に住むものを天空に住む者の姿に似せてつくった。

天と地。この隔たりの中、そこに住まうものは生きていく時間も寿命もちがう。

だが、この地に住む者の場所に天空に住むべき者を介在させている天である。

この逆はありえない。

天に住むものの中に人をいれることはない。

すなわち、神が人の世に触れざるをえないのは、地界を作った天のおもわくがある。

「天は己が愛でた地の人型に、是を映し観た天空人の血をながしこんでみたい」

左程に天空人の存在を地上に移しこむ機会をのこしておきたがった。

「そのあらわれだったということになるか・・・」

きのえと黒龍は天の思惑であったと考えられる。

この定めは変えられるものではない。

いくら、親の理があろうと人と人が結ばれる事を阻む。

が、この定めの前提である天空人との融合という中に、黒龍でなく、

白峰が混ざりこんだとしてもこれは、天の思惑の範疇になる。

「のう、黒龍。あきらめるしかないと。これしかゆうてやれぬ」

だが。

「天がお前をなざしてきたとならば、この定めを覆す白峰はいわば逆賊。

天の思いとお前の思いが一致する今、それがおそろしい」

う、と俯いた黒龍である。

「争いは四方にひろがる。天がめでた人の生き様まで酷いものにかえるとしても、

それでも、今のわしにできることは・・・」

きのえへの情愛をさらけだすことしかない。

「人々を窮地に立たせ、天はお前に何をみさだめようとしているのだろうか?」

「情。是だけが己の勝手になる思い。

この情の尊厳さにきずかなかったわしをして、天は人の世に説きたい」

「ふむ」

白峰の居場所を教えても、張り巡らされた結界の中に入る事もできない黒龍であろう。

「天空人として、人に寄せる情がいかなるものであるか、

天の思惑で作られた地上人へ、知らしめるかくごというか?」

「おお」

「辛いぞ」

「覚悟の上」

「泣くぞ」

「今より、くるしいことなぞない」

「そうか」

八代神は地上を覗くと、しずが岳をゆびさした。

「なれど。お前の取り返すものはきのえの身体でない」

「う・・」

八代神の言う事は酷い。定められた七日七夜。

この後のきのえの心を取り戻すしかないということである。

きのえの心が、黒龍への追慕をなくすしかない(七日七夜)を与えられる。

身体だけを取り戻したとてこの七日七夜が与えた変化はきのえの心をどうかえているか。

「あれは、わしをゆるさないということか?」

「あたりまえだろう?」

おめおめ。他の男の手に渡す事しか選ばなかった黒龍の情の持ち方でしかないに較べ、

必死にきのえを求めた白峰である。

二人の男をひきくらべてみても。

「おまえにあいそをつかしているだろう」

「そうかもしれん」

その心から取り戻さねばならないと言う事になる。

身体などいくら、白峰に奪われたとてなんぞ、こだわることもない。

だが、きのえの心。

「いまさら、ほえづらをかく覚悟なら必死にみじめになるしかあるまい」

「うむ」

のた打ち回るほどの怒りと嫉妬ときのえへのくるおしさ。

是を甘んじて受ける以外きのえへの真を見せるてだてもなく、

「わしは、いまさらながら、きのえがこいしい」

この思いにしたがうしかない。

「まあ・・いってみるがよい」

門前に打ちふすこじきのように惨めに白峰の行為が与える暫悔をきく。

「あれの心をうけとらなんだ、わしが受ける懲罰だとおもうておる」

眉をかすかに動かして哀れむをふせ、八代神は頷いた。

「この先。神が一人の女子をうばうという愚かさがくれる悔恨はてひどいものになる」

「覚悟の上」

「人が死ぬぞ」

黒龍はぐっと瞳を閉じた。

「それも、いとわぬ」

「修羅の如き、生き様のはて女子を得て、むなしくはないか?」

「それもきのえに見せる真である」

黒龍はくっと上を向いた。

きのえの思いを踏み潰し続けた自分である。

女子一人を護る事もできず、黒龍神とあがめられても、虚でしかない。

一介の男でしかない情に真摯に生きてみせる事もできず、

「生きていても甲斐がなかろう?」

何よりも尊ききのえといってみせる。

この黒龍の証でしかない。

「思い、ひとつ」

それに生きるに人も神もなかったと気が付いた今、

黒龍は無明地獄に落ちる沙汰をも選ぶ覚悟とみた。


勝源の夜は悲しい。

藤太にどう告げればいい。

考えては、軒を出るがやはり、藤太のところに行くに行けない。

ぼんやり、外を眺めてみては、考え直そうと家にはいり、

やはり、どうにもならぬと外に出て藤太の所へ行くしかないと軒下で立ちすくんでしまう。

其の勝源が眼にしたものは正に異様な光景としか言いようがない。

黒い闇の中にもっと黒い塊が蠢いている。

「?・・!」

其の場所はしずが岳にまちがいがない。

勝源が見たものはしずが岳の尾根に浮かぶ大きな黒い塊だった。

漆黒の夜の闇の中。さらに黒い塊が闇の中を蠢く。

黒い塊の中から炭火のような赤い光が発せられると黒い塊の姿をなぞらえてゆく。

「黒龍?」

そうだ。黒龍がしずが岳の尾根の上をうねっている。

きのえがあそこにいる。

黒龍は白蛇神の元に辿りつき気炎を上げている。

「とりもどすつもりでいるというか?」

だが、それが無駄でしかない証拠に黒龍のうねりはしずが岳の地に降立つことがない。

「結界をはっている」

白蛇神は結界の中にきのえを閉じ込めている。

神である黒龍さえ寄せ付けぬ白蛇神の結界の敷き詰めように、勝源は己の無力をしるばかりである。

「藤太・・が、ああも、できはしない・・・」

黒龍のうねりは入れぬ結界の周りで蠢くばかりである。

だが、そうまでして、きのえを取り戻そうとしている黒龍を見たとき、やっと、勝源の胸が空いた。

(黒龍。お前にきのえの先をたくしてもいいのかもしれない)

同時に藤太への告知に決心がついた。

藤太には、普通に、人間の女子とくらせてやらねばなるまい。

赤黒い炭火のいこりを身体から発するほどに、

神が思いかけるきのえを藤太のところにやっても、この先、ろくなことにならない。

きのえの幸せのために選んだ男を、男の幸せのためにあきらめるなら、これもよしだろう。

「黒龍。お前の思いのいくばくか、しったきがする」

一刻たっても三刻立っても夜が明けても、勝源の眼には結界の前でのた打ち回る黒い龍の姿があった。

「わしよりも・・藤太よりも・・お前がくるしんでおる」

ひょっとすると、きのえよりあの黒い塊は苦しんでおるのかもしれぬ。

怒りをぶつける事も叶わず、きのえを取り戻す事もできず、きのえへの思い一心で

黒龍は白蛇神に張り付いているだけである。

其の尾根を舞う黒龍の足元できのえは白蛇神の陵辱に落ちている。

「くやしかろう?」

「かなしかろう?」

愛する者を奪われた黒龍の虚しい挙動は、諦め切れないきのえへの思い、

そのままに止む事がなかった。

「・・・」

勝源の口がへの字に曲がった。

「黒龍。もう・・よい」

それほどまでにきのえを思ってくれていたお前だからこそ、

白蛇神もきのえがほしくなったにちがいない。

それを、せめても仕方がない。

「もう、よい。お前の気持ちは、よく、わかった。おまえのせいではない」

きのえという娘が持っていた因縁。宿業。それだけでしかない。


―うっとおしいー

山中の祠の中にきのえを連れ去った白峰は周到な結界をはり、結界の気配さえ消し去った。

だが、その結界の周りを黒龍がうろつきだした。

(天空界に帰って、おそらく八代神にききただしたにちがいない)

白峰の居場所を教える教えないは八代神の勝手でしかない。

黒龍との諍いも怨みもとう昔に覚悟の上。

そんなことよりも、今このきのえを手中に納めるべき、七日七夜の潤房の時に

うるさき蝿のように結界の上を飛び回る黒龍がうっとおしい。

(女々しい・・・)

きのえの泪もかれはて、今はただ、白峰の恣意に従順になるしかないと

諦念したきのえに黒龍の思いを気取らせてはならない。

「きのえ」

よんでみたとて、返事があるわけがない。

黙りこくったきのえに白峰はささやきつづける。

「きのえ。白峰は一時の欲でおまえをほっしたのでない。

この先、お前にこそわしをのぞまれたい。それだけでしかない」

つつと落ち来る涙もいとしい。

その涙のわけもよく判っている白峰である。

「黒に、そう・・いわれてみたかったの・・・」

声をあげ泣き始めたきのえの思いを腕に包みながら、

白峰はきのえを手中に納めたと感じた。

―こうほどにおもわれたかったー

白峰の想いをきのえは是としていることはまちがいがない。

あとは、黒龍への思いを過去のものにさせるだけ。

きのえの身体にはすでに引き返せない陵辱がある。

この陵辱を、きのえが寵愛と受止めたとき、心もひきかえせないものになる。

「きのえ。本意じゃに。おまえを見初めてこのみとせ。

白峰の心はおまえにしかない。この先も白峰にはおまえしかおらぬ」

きのえを貫く物で、心までつらぬくしか法がない。

いかに真意でいかに夢中でいかに待ち焦がれ

いかにしても我が物にせずにおけない己の猛りを見せ付けるしか法がない。

「つらいか、つらいだろうが・・きのえをわがものにしたい」

切ない吐息はきのえの涙を乾かす。

「白峰・・」

ここに来て初めてきのえが白峰の名をよんだ。

有頂天に成る程の嬉しさをかみ締めながら白峰はきのえを覗き込んだ。

「なんだ?」

限りなく優しい思いを込めて、しずかにきのえに問い返す。

「おまえは・・黒龍の気にも沿わぬきのえがことを・・」

後の言葉葉は泪で詰った。

「何度でも云うてやるわ。黒には子供でも・・白峰にはそうはおもえなんだ。

お前がみとせかけて黒に懸想しておっても、白峰は一時とてお前をあきらめることはなかった」

「そう・・」

そう。白峰はけしてあきらめはしないというに、きのえは黒龍をあきらめてしまった。

それは、白峰の暴挙のせいじゃない。

ここまでして、白峰がきのえを求むるという。

白峰にとってそれ程の「女」であるきのえが、黒龍にとって、何の価値もない。

黒龍をふりむかせることさえできない。

こんなつまらないきのえに白峰が本意だと言ってくれるほど、

きのえはそれでも、黒龍に振り返られない己がみじめになる。

こんなきのえに大の男が見栄も外聞もすて、己の欲のままにふるまう。

「黒龍をとりみださせることさえできない」

「うん?」

「なのに、おまえは・・」

損なわれた自信が白峰の必死の暴挙によっていやされてゆく。

「きのえ?おまえ。わしのものに、なってくれるというか?」

「・・・」

黙った事がきのえの肯定になる。

女の弱さは悲しい。

想っても想われぬものを思い続けてゆく事が出来るのは、

手を思うことで自分を思う男がいない寂しさを宥めることができるからだろう。

ところが、じっさい、自分を想う男の存在があらわれたとき、

片恋を通すことで寂しさが埋める必要がなくなってしまう。

きのえも丁度、是に似た思いだったかもしれない。

片恋の寂しさにしがみついていなくてもよくなったとき自分の抱えていた寂しさが

予想以上に深いことを知らされる。

と、それを埋めてくれた白峰の存在がいっそう大きく感じられてくる。

物寂しさを宥められただけと気がつかぬまま、

女は「新しい男」に心の場所をあけわたしてしまう。

「きのえ・・・」

頬を摺り寄せてくる男の髪をなで上げて見せたきのえの所作は既に女の物だった。

思ったより早く「女」に陥落したきのえにせしめたことに白峰の気焔は燃え立つ。

「この七日。お前は白峰の物ですごす。だが、その先は白峰がお前の自在になる。

七日より後、白峰はお前の物だ」

くるりとあけた瞳が不思議そうだった。

「きのえの物?」

「そうだ。お前がお前を白峰にくれたように、白峰もお前に白峰をわたす」

男と女のまぐわいを契りとも言うのは、こんな心の取引を指すのかも知れないと、

きのえはうなづいた。


勝源は七日が明ける日までしずが岳を見詰めていた。

片時も離れず黒龍はきのえのそばにいようとしている。

白峰への怨みつらみや怒りでなく、

きのえに一番近い場所に居るしかない哀れな男の恋情にみえる。

勝源が軒先でしずが岳を見詰め続けている事に気がついた村人に

「何をみていなさる」

と、訊ねられるまで勝源の眼にしか黒龍が見えていない事に気がつかなかった。

「みえないか?」

たずねかえしても、村の男は不思議そうに首をすくめた。

きのえが神隠しにあってから、勝源は山ばかり眺めている。

噂どおりなのだと村人は腹の中で頷く。

「藤太がの・・」

その噂を聞いて山の中にはいってみたそうだ。

きのえを隠した神がきのえと山に居るに違いないとおもった。

だが、山にはいって、暫くもしないうちに、気分がわるくなって、悪心がおきた。

このまま、進めば山の中でたおれてしまう。

藤太は直感して、山をおりてきた。

「きのえがことは諦めるしかないとしても、親父さんが気の毒じゃと云うておったそうな」

「そうか」

言葉少なく頷いた勝源の眼はかわらず山の一点を見詰め続けている。

「どこの神がさらっていってしもうたんじゃろうな?」

「わからん」

だが、藤太の悪心は黒龍の悲しみが撒いたもののせいだ。

黒龍は、自分でも知らずの内にあふりを落している。

本当ならば勝源は白蛇神の宣託のとおり、きのえを差し出す用意をしなければならないのだろう。

白蛇神が定める拠地である、長浜に社を建立させた後には、きのえをおくりださねばならない。

だが、勝源は夢枕に立った白峰の要求と長浜に社をたてさすというこの話を誰にもはなすきはない。

なぜならば、きのえを渡すきはないせいだったが、一点のかげりをかんじる。

きのえ自身が応諾せぬうちから、社をたてさせようと考える物だろうかということである。

是が非でも我が物にする。

この先も我が物にすると決めた白蛇神の先走りが無理を通せる物として社までたてるとかんがえさせたのか?

それとも、きのえが白蛇神の物になると心をさだめたせいなのか?

きのえが望むなら仕方がない。

だが、そうでない物を安受けあいしてわざわざ、きのえをくれてやるばかもない。

だいいち、きのえが白蛇神をのぞんだなら、黒龍もあきらめて、山からはなれるだともおもう。

黒龍も結界のなか、きのえの真意がつかめないのかもしれない。

だが、一番きのえの真意がわからないのは勝源である。

「とにかく、返ってきたきのえに本心をたしかめてからだ」

事の発端は結局きのえでしかない。

そのきのえの真意を知らずに、白蛇の言う事にへいつくばってなるものかと、

藤太にも本当の事は言わず「白紙にもどしてくれ」と伝えた。

むろん、がてんがいかぬ藤太はわけをしりたがった。

「神に攫われた」

そう答えた時初め藤太は怒った。

「わしがきにいらんようになったんなら、そういうてくれ。

きのえがわしをいやじゃあというなら、しかたがない。

だが、そんな嘘でわしが事を追い返すは勘弁してくれ」

突拍子もない嘘だと思った。

きのえには他に好きな男でも、おって、祝言まじかになって、男と出奔したんだろう。

事実をいうては、娘ひとり、、言う事をきかすことができなかったという親の沽券にかかわる。

藤太はそうかんがえたのだろう。

「嘘でこんな事をいうものか」

勝源は両手で顔を覆った。

指の隙間から流れてくる物が嘘でないといっている。

「な、なんでじゃあ?」

よほど、他の男とねんごろになっていたほうがよい。

そんな、女いらんわと諦めがつく。

ところが、神の勝手?

きのえのうらぎりでない以上、諦めるに諦められない。

他の人間の男ならたちうちできようが、神相手では指をくわえてみておるしかない。

「おやじさん?」

勝源は膝を正し藤太の前で頭をついた。

「神はあふりをくらわすといいおる。命あってのものだねとおもって、

なかったこととおもってくれぬか?

わしが息子にしたいとおもっておったおまえじゃ、

嫁の成り手はたんとおるともおもう。だから・・」

―きのえがことはなかったことにしてくれー

これが一番辛い伝え事なのだ。勝源の肩も腕もふるえていた。

「おやじさん。俺はきのえがことはよう、知らん。

ゃがのう。おやじさんをみておっておやじさんの娘ならまちがいはないとおもうておった」

藤太が惹かれた勝源の人柄はきっと、むすめのきのえにも流れ込んでいる。

「それが、証拠に・・」

ぐと唇をかんだ藤太である。

「それが、証拠に神をも魅了したんじゃろうが?

そんなきのえを俺なんかにくれてやろうと云うてくれた。

父さん。俺はそれだけでもありがたいとおもっておる」

「そうおもうてくれるなら。きのえとは、なにももなかったんじやとおもうて」

あきらめてくれという勝源に藤太はくびをふった。

実際なにもなかったことが、いまさらになって、くやまれる。

「俺が、さきにきのえをとっておったら、こうはならなかったのではないか?」

「それは・・」

わからないことである。

「俺は、親父さんの人柄に惚れてきのえがことをもらおうとおもったに。じゃから」

その勝源が藤太を見込んでくれた。この恩情をかえすことがきのえをめとることだとおもっていた。

「じゃから、俺はおんしらずにはなりとうない」

人の情をありがたいと思う藤太だからこそ、きのえをやりたかった。

眦に湧いてくるものを落すまいと勝源はぐいと眼を閉じかっと見開いた。

「わしとお前はほんの親子にはなれなんだが、おまえのその気持ちだけで、

親になれた以上に思えて貰えたとおもいおる。ありがたいとおもうておる。じゃから」

じゃから、きのえのことは気にせずとも良いという勝源の前で藤太はうなだれた。

『そうは行かぬ』

藤太が胸の中に神に攫われた娘を救い出したいと思いがおこりのようにかたまる。

時を経て、此処から千年先の事になる何代もの生まれ変わりの後の世、

蛇神が見初めた娘をすくいだす一人の男の芯になる思いが此処に生じるのである。

『親父さんが、よろこんで、神にきのえを差し出したいというなら、ともかく』

藤太が事が無念で仕方がない様子は、勝源の苦しみだけをあらわしている。

『きのえをさしだしたくないのだ。だからこそ、攫われたというたにきまっておる』

神に見初められた事を喜んでおればおのずその口先からちごうて来る。

『それを知って::俺はどうにもしてやれぬのか::?』

無念の思いが胸を断ち割り臍下丹田、魂にまで響く亀裂をつくる。

魂にまで、刻み付けられる無念を抱えた藤太とは知らぬ勝源は最後に

「達者でな」

と、別れをつげた。


その藤太が山にのぼったという。

「ようも・・・」

黒龍にしろ、おまえにしろ、憎き神であるが、白蛇神にしろ、きのえがことをようもおもうてくれる。

自分の娘がなにゆえ、こまで人だけでなく神にまで思いをかけられるのか、よくはわからない。

しずが岳に眼をやれば、勝源の眼の中で黒い溶岩の塊が蠢き、うねるたびに亀裂から真っ赤な熱焔が吹く。

怒りと苦しさと悲しさだけがいまの黒龍のすべてでしかない。

「きのえ」

いっそ、誰の物にもなってはならないのだと。

お前が与える物は業と苦しみでしかないのだと。

わが手で、帰ってきた娘をくびり殺すしかないのかと考えそうになる。

あわてて、めをつむり、耳を塞ぎ、記憶を藪に伏せ、勝源は家に入った。

「勝源」

婆がにじりよってくる。

勝源の顔をみると、小刻みに首をふる。

「なんねえよな。なんねえんだよ」

婆が念仏のように繰返している言葉の意味はよくわかっている。

神の手に落ちた娘はさしだすしかない。

勝源に諦めろという。

親である。なにもいわずとも、勝源の顔を見て、勝源の心中をさっするとみえる。

「なあ。なんねえんだよ。なんねえんだよ」

どうにもならない。どうしょうもない。何も打つ手はない。

勝源の腹の底をみすかしている。

どうにかできないか。

これをもっといえば、今はあの哀れな黒龍にきのえを返してやりたいともいえる。

この思いをほりさげれば、白蛇神なぞやりたくはないということだけかもしれない。

神にわたすしかないなら姑息なまねをしくさる白蛇になぞくれてやりとうない。

どうにか、それだけは回避できぬか。

なんぞ、法がないか。

この勝源の思いを婆はみすかしている。

父親の感は、黒龍を良しとかぎ分け、白峰を悪しと見限る。

これはあながちあたっていないことではないが、神が争いあっていると知らぬ婆は

ただただ、きのえを攫っていった神に逆らう事、従わぬ事に畏れ、祟りをあんじている。

『我が子可愛さで、婆までがきのえをあきらめろというか』

その自分もきのえかわいさで、あふりをおこすという白峰にさからおうとしている。

だが、それも。

きのえが白蛇神の方がいいと言い出せば変わる物でしかない、親の勝手な憤怒でしかない。が、

『とにかく、きにいらない』

白峰のやり口が逐一癇に触る。

己勝手なやり口できのえをかすめとり、無理矢理わがものにし、

はてには、この先のきのえをさしだせとおどす。

「きのえがおまえなぞになびくわけがない」

きのえが返される日まで、勝源はそう信じていた。


七日目の朝が過ぎ七夜が過ぎた。

勝源は玄関の前にでて、しずが岳をみあげた。

黒い塊が一点にむかいおりてゆく。

白蛇神がきのえを伴い結界からいでくるのだろう。

『黒龍。うばいかえしてくれ』

いつのまにか、勝源は黒龍に祈っていた。

『そして、この手にきのえを返してくれ』

きのえを思うおまえなら、勝源のきのえを思う気持ちもわかろう。

きっと、黒龍ならきのえをかえしてくれる。

かってな願いを込めて勝源はいのるしかなかった。


黒龍が降りた先に白峰がたちつくしていた。

「黒か」

黒龍を見咎めた白峰は皮肉な言葉で牽制をあたえる。

「祝いにきてくれたか」

白峰はきのえを我が物に勝ち取った余裕をただよわせる。

「ちがう」

否定はしたものの、黒龍に焦燥が浮かぶ。

あっさり、白峰は喜びをみせている。

このさいわいをおまえもよろこんでくれるだろうという。

つまり、きのえにとっても、さいわいになったということなのか?

白峰に『お前に渡さぬ』とでもいわれれば、きのえの中に黒龍への思慕が残っていると判断できる。

ところが黒龍の予想を覆す白峰の喜びに上気した顔をみると、

邪恋を仕掛けたのが白峰でなくなり、まるで黒龍のようにさえみえる。

かてて、きのえのなかには、とっくに黒龍への思いなぞなくなって、

二人は昔から通じ合っていたいたようにさえみえる。

―きのえをかえせー

と、いえもしない白峰の状態に黒龍はきのえの姿をみるしかないとおもった。

「どうした?」

きのえを捜す黒龍の目を追いながら白峰はきずかぬふりでたずねる。

黙り込んだ黒龍に

「きのえか?」

と、たたみかけると、不意に白峰はわらった。

「黒。今更、きのえに本意だったというつもりはなかろうの?」

「いや」

言葉がにごった黒龍に白峰は止めを刺すかのようにいいはなった。

「きのえはもう、おまえのところにゆくことはない」

白峰一人の断言に引き下がる黒龍ではない。

「きのえの口からいわれるまでは、しんじられぬ」

「ほおおうう?」

思ったとおり黒龍は白峰といさかうかくごでいる。

「きのえのくちから、きかせてやりたいが、むりだな」

「とりつくろえぬということか?かたるにおちたな」

きのえがじかに黒龍に合えば本心が白峰のものでないといいだす。

こういうことだなと、黒龍は白峰をねめつけた。

黒龍の瞳を面白そうにながめながら、白峰がいいかえした。

「今更己の心に気がついて哀れ取り乱し盲なっておるようじゃの」

「なんだと?」

「きがついておらぬか?」

あたりを見上げ白峰は手をふりかざした。

「我らにはなんでもないこの瘴気。黒、お前がいまさらきのえを失って、

おとしたものであろうが、この瘴気の中にきのえをたたせるわけにはいかぬだろう?

それさえ、思いやれぬほど、己の闇にほたえまわったか?」

「あ・・・」

「それとも、我が物にできぬなら、きのえをいっそ殺してしまおうとかんがえたか?」

「う・・・」

返す言葉がない。

「女子に惚れた事がない男はあわれなものよの。わが心だけが大事でしかない。

そんな男ときがついたきのえが、白峰の心をうけとうなるのは当り前の事だろう?」

ぶるぶると震えながら黒龍は拳をにぎることだけが精一杯だった。

「黒、其の拳、どうするつもりだ?きのえの心を奪った白峰を打つ気か?

きのえの心に答える価値もない男のめめしさはみぬふりか?」

女々しい。確かに女々しい。

だが、この女々しさをみせても、きのえに合って確かめるしかない。

白峰と対峙していても拉致があかない。

「白。お前になんと詰られようがわしはお前に言われても信ずる事が出来ぬ」

「ふん?きのえにあうというか?」

「きのえに、おうて、じかに聞かれては困るか?」

きのえの本心はやはり、違う。白峰のものではない。どうしてもそうおもえる。

だが、黒龍の思い巡らしを察した白峰はくすりとわらった。

「困るの」

「そうか。ならばなお、おうてきいてみねばなるまい」

きのえの本心を確かめればきのえは黒龍のもとにかえってくるということではないか。

「わしが、困るというのは、七日七夜の理をいうておる。

この理を使行する権限がお前にもあるということをいうておる。

きのえがいくら白峰が物になっておっても、神格のおまえはこの理を使行することができる。

たとえ、其の後にきのえが白峰のもとにかえるとしても、

どこの男が惚れた女子を他の物にわたさねばならぬ」

「ば、馬鹿にするなーーーー」

黒龍の怒声がひびきわたった。

「きのえに己の欲をすりつけたのはおまえのほうではないか」

荒々しく詰る黒龍にむけた白峰の眼は静観そのものでしかなかった。

「世迷言をいうておれ。今の今までお前は何をしておった?

この白峰の結界がなければお前の瘴気にやられてきのえは死んでおったわ。

己のよくづくでしか動いておらぬ男がきのえにおうて、その欲をすりつけぬ?

たわごとにおどろされて、きのえにあわすわけにはいかぬわ」

「いかぬ?お前に其の裁量をうごかすことはできぬだろうが」

「確かに。一度はきのえを返さねばならぬ。だが、

すぐに我らはひとつのものになる。そう、きのえがのぞんでおる」

黒龍の喉がぐるると動き、荒々しい声をおさえこむと抑揚をつけずに白峰につげた。

「きのえにじかにきかねば、しんじられぬというたであろう」

「好きにするがいい。だが、もし、お前がきのえに七日七夜の理をつこうてみろ。その時は」

「『その時は』は、なんだという?」

天地を裂く争いがはじまるだけでないか。

黒龍の思いにかくごがみえる。

「そこまで、きのえにほれてくれておるか?」

その女子が哀れにも白峰のもの。

「まあ、よかろう」

いくら、黒龍が思いをはたそうとしても、

きのえに拒まれれば一層虚しくなるだけである。

白峰も黒龍と云う男が女子に無体が出来ぬたちとみぬいている。

きのえが黒龍にほだされはせぬという自信にくわえ、

黒龍には無体はできぬという予測が白峰に余裕をつくらせていた。

祠の中に入る白峰をみとどけると、黒龍は空に舞った。

白峰はきのえを球い結界の中に閉じ込め、きのえを送り届ける。

あふりの舞った地界からきのえを護り、

勝源の元におくりとどけるまで、七日七夜の理が完遂しない。

きのえを包んだ球い結界を大事に抱いて空を舞う白峰が

やがて、勝源の元におりたつまで、黒龍は白峰をみつめつづけていた。


「かえってきた」

外の気配は異様にひややかで、あの夢枕にたった白蛇神のものとわかる。

家の外に飛び出した勝源はきのえを地に立たせる白蛇神の姿をみた。

「き、のえ」

白蛇神の陵辱に晒された娘の胸中を慮る勝源はきのえの顔を伺い見るしかない。

「確かに渡したぞ」

勝源にいいながら、白峰はきのえをみやる。

「いいな?」

なんの念をおされたか、きのえは白峰にうなづいてみせた。

そのきのえの横顔から白峰への感情をよみとろうとする勝源にきのえはゆっくりとふりむいた。

「かえりました」

振り向いたきのえの顔は我が家に辿り着いた子供の顔でない。

父親を慕う娘の顔でもない。

どんなにかつらかろうと案じた哀しい顔でもない。

「心配をかけました」

むしろ、勝源を労わる言葉まで吐くと、きのえは白峰をふりかえった。

「帰りや」

云われた白峰はうむとうなづくときのえをみた。

勝源は白峰の其の眼をみつめた。

―男の眼でしかないー

「男」のものでしかない直視を受けとめるきのえはすなわち、その男の「女」の態である。

二人の沈黙の間に勝源が入るには入れないやりとりがみえる。

冷たいばかりに見えた白峰のまなざしが柔らかい物になり

きのえを総包みにみつめあげると、ふっと、その姿がきえた。

―どういうことだ?ー

今の様は。

が、あふりをあげると脅すような神である。

きのえも従ったふりをしていただけなのかもしれない。

勝源はやっと、自由の身になったきのえとて、

白蛇神の気配がきえさるまでは本当のきのえをみせれないのだと考えた。

しーんとあたりが静まり返り冷たい気配もきえさると、勝源はきのえをよんだ。

「父さま」

きのえがまだ幼いときに、

勝源はきのえの母であり、おのれの妻である、静江をなくした。

それから、いくたびか、後添いの話はあったが、

きのえの母だけをたいじにしている勝源をみせたかった。

だから、今もってひとりみのまま、婆とふたりできのえをそだてあげた。

そんな親子の絆がある。勝源にとって、きのえが手中の珠であるなら、

きのえにとっても勝源は何物にも変えがたい親様なのである。

「きのえ」

ひとこと、よんだ勝源の手の中にきのえがすがりつくと、大きな泣き声がもれた。

「きのえ」

すまなんだ。

どうしてやることもできんで、すまなんだ。

助けてやることもできず、すまなんだ。

勝源の喉がゆれ、うめくこえになる。

「きのえ。かんにんしてくれ」

娘は勝源の胸の中で首をふった。

「きのえが父さまのいいつけにそむいたんじゃ。藤・・」

しゃくりあげながらもきのえはあやまった。

「父さまはきのえのことを、藤太が嫁になってほしいと思うておったんじゃろう?

じゃのに、もう、きのえは藤太に顔向けできん体になってしもうた」

本当に叫んでみたい名前は藤太ではない。

だが、辛い諦めをつけたきのえの胸の中に在るのは黒龍への怒りでしかない。

恋した男のあまりのつれなさはむしろ、憎しみを生み、それが、逆光のごとく、

きのえの幸せを祈った父にも、その父の選んだ男、藤太にも、

今更のごとくすまなかったと思わせるのである。

「きにすることはない。藤太もわかってくれたわ」

「きのえは」

「もう、いうな。わすれてしまえ。いいな?なにもかも、すんだこと。

この先、お前に、父も勝手なおしつけはもう二度とせぬから」

どうせよといえばいいのだろう。

きのえのこの先を望む白蛇神がいる以上、

藤太との事は無論、他の人間の男とも、ならぬ事と諦めるしかなかった。

『父がなんとかして』

だが、委細。法も術も思いつきはしない。

ただ、ただ、白蛇神のおもいのままにさせてなるものかとそれだけしかない。

「父さま。きのえは、白峰神社の建立ののちその社にはいる覚悟をしております」

一番畏れていた決心をきのえ自らが口にした。

「まて」

それがさっき白蛇神がきのえに念をおしたことだったにちがいない。

だが、

「きのえ。おまえはいま。おまえの身の上をはかなんで、

白蛇神のいうとおりにするしかないと思い込んでおるだけだ」

もう少し日が経てば、きのえも己の本心とむきあうよゆうができてくるはずである。

「性急に考えを決めるのは、今のお前ではなかろう?」

とにかく、まずはゆっくり身体を心をやすませてやらなければならない。

勝源はやっと、きのえを家の中にうながした。

「婆がまっておる。朝飯をくうて、少しよこになって、な、

それから、ゆっくり、身の振り方をかんがえよう。他に法があるやもしれぬし、

おまえもおちついたら、違う考えを持つかもしれん」

とにかく、白蛇神の物になるしかないという考えから目をそらせてやらねばならない。

「さ。婆に無事な姿をみせて、よろこばせてやってくれ」

「・・・・」

こくりと頷いたきのえを背をおして、勝源は戸口にはいると、

玄関の先に、しゃがみ込んだままの婆がいた。

「なにをしおる」

「わわわ」

いかぬ。婆は白蛇神の姿をみて、肝をつぶしている。

神の姿を目の当たりにして畏敬と惧れの念にとりつかれている。

恐れおののいた婆が何をいいだすか、わからない。

勝源は婆の頬をぴしとはたいた。

とたん。現実の痛みと云う物はありがたいものである。

「おのれ。勝源。親さまにてをあげるとは、なんたることや」

自身の怒りが先になれば正気である。

「婆。親さまにはむかう婿はどうである?」

勝源の謎賭けに目が開いてほしい。

はたして、

「確かに神といえど婿なれば」

正しくは婿なぞと認めていない勝源であるが、娘を無体にひっ攫って、

婿になる契りを与えるなぞ、今の勝源同じく親様の頬をひっ叩く暴挙でしかない。

これにきがついたとたん、とうのきのえがめにうつる。

婆の正気はすぐさま、きのえへの情にかわる。

「ああ。よう、かえってきたの。は、はよう、上がれ。

お前の好きなもろこをやいてあるに、さ、さ、はよう」

「はい・・」

婆の情になきだしたきのえの頭をなぜると婆はわらった。

「なに、男の一人や二人になにされようが、どうなとな?

大事なのはきのえが誰の子を産みたいかじゃわい」

「え?」

単純な言葉の中に真実がある。

この先のきのえの流れをかえる一石が投じられたときのえも、

勝源もその言葉を開いた婆もきがつきもしない。

が、勝源は婆の言葉に別の意味の危惧にきがついた。

『まさか。孕まされて・・・』

あの白蛇神の自信の裏がそれなのかもしれない。

勝源はもう少し様子を見なければならない事態に直面していた。

孕んでおったら、否が応でも

白蛇神に渡さなければならないのか?

なんという、卑怯な手でこの先もきのえの心をしばりつける。

七日七夜が開けても自由になれない。

孕んでないと判るまで、きのえの心情を白蛇神からそらす事が出来ない。

『口惜しやな』

だが、勝源は成ってみぬうちから、あれこれ思いめぐらす事はやめることにした。

「きのえ。さあ、たべようぞ」

きのえを促せば婆もさまに膳のしたくをはじめる。

いつも通りの生活の規律に戻してゆく事が最善の策に思える。

湯気の立つ味噌汁がはこびこまれ、婆の言ったもろこも香ばしいにおいをたてている。

「とにかく、まずは、くうことだ」

うなづいたきのえが箸をとった。

形だけはいつもの三人の生活になった。

あとはきのえの心底を日常にもどしてゆくだけである。


膳をきれいにたべおえたきのえがぼんやりと茶をすする。

「すこし、よこになってきたらいい」

勝源の提言に素直に頷いたきのえがふせこむと、

どんなにか精神がくたびれはてていたのだろうか、夕刻をすぎても泥のように眠る。

娘の疲労がこの安息でいくらかぬぐわれてゆくとおもえた。

夕刻をすぎてもきのえは起きてこない。

「まあ。よいわ」

よほど、心底、くたびれていたのだろう。

きのえの蹂躙の傷を癒すだろう睡魔こそ今の勝源にはありがたい。

ところが、家の中の束の間の安泰とはべつに家の外に妙に重苦しい気配をかんじる。

勝源は白蛇神がきたのかといぶかりながら家の外にでて、重苦しい物の正体を見極めようとした。

そとにでてみれば、きのえの眠る部屋の外に黒い塊が見える。

『黒・・龍?』

で、ある。

勝源に見抜かれていると気がつかぬのか、きにならないのか、

黒龍はうずくまったままみじろぎひとつうごかさなかった。

『おまえ・・』

白蛇神の周りをあれほど執拗にまとわりついた黒龍である。

ときはなたれたきのえの側にへめぐってくるのもふしぎではない。

「・・・」

かける言葉がとどくかどうかより、なにをいっていいのか。

自分の気持ちの中にこの地の祭神である黒龍へ、守護を当てにする自分がいないでもない。

自分の気持ちの色が諮り事のようにも思えると、白蛇神とさして、変わらぬ自分にきずまりにもなる。

『きのえへの思いは真らしいの』

それだけは本の事にみえた。

夢は深い傷痕を塞ごうと甘く柔らかな手当てを連れて来る。

きのえの夢の中で黒龍はきのえに追いすがる。

「本意じゃ」

多くは語らないが黒龍の心だけがうれしい。

「きのえは子供なんじゃろうが?」

すねてみせても夢は、きのえの痛手を埋め尽くそうとする。

「なにをいうておる。お前の事は」

それが証しに黒龍はきのえをうばいつくす。

黒龍にとって、自分という男を重ねられる女がきのえでしかないとみせてくる。

黒龍とむすばれた、今。

―それこそ、きのえが欲しかった―

さいわいの思いがきのえを包み、きのえの現はふさがれてゆく。

夢の中に逃げ込んだ精神があわれである。

現実は夢の幸いに程遠い。

この現が夢としることが、傷をいっそうえぐらすことになるというのに、

夢はきのえのなり得なかった先をみせて、一時の安らぎをあたえる。

「黒龍」

夢で呼んだ声に耳澄まされてきのえは、現実をとらえなおし始める。

傍らに眠るはずの黒龍がいない。

―なぜ?いないー

霞が掛った意識でどこにいったのだろうと考え出すと、

きのえの中で覚醒し始めた物が『黒龍がここに居るはずがない』と教えだす。

―なぜ、いるはずがない?―

自分でぼんやり訊ねた問いかけに、自分がこたえだす。

『白峰となにがあった?』

―ああ。ああ。そうだったー

すると、さっきの事が夢で・・・。

現実はのがれられない苦しみを与えてくれる事実をひらひらとふりかざして、

きのえをつつもうとしている。

―そう。そうだった―

黒龍は・・・。

黒龍こそが、きのえを白峰に追いやった元凶でしかない。

「おまえに、そんなに、すげなくされさえしなければ・・」

恋しい男だったはずの黒龍こそが憎い。

恋しい故に許せない。

泪が落ちてくるのは恋しいという色を身体の中から搾り出すせい。

雫の中に恋しいをつめこんで、流しきってしまえばきっと、この苦しさも消え去るだろう。

だのに、涙はあとから、あとから、湧いてくる。

『こんなに、恋しいというかや?』

―お前はばかじゃ。いくら、おもうてみても、どうにもならなんだ。

挙句、いくら、思うてもどうにも成らん身体になって―

上を向いたきのえの瞳から落ちる物が眦を伝い耳を沿い、うなじにまでながれてゆく。

髪までぬらし地肌にしみこんでゆく。

きのえの元に戻ろうとするかのように地肌にまとわりつく雫は

止まる事をわすれているかのように、きのえの瞳から次々とわきたってくる。

しんと布団の中、声をしのび、ひとり。きのえ、ひとりの悲しみに立つことをゆるす。

その時

「き・・のえ」

耳を疑る声がする。

だれとたずねずとも、誰の声か判るきのえの全身は黒龍の気配を探り始める。

「きのえ」

きのえは黒龍の気配を現実に物と知るが、みじろぎもみせない。

胸の中には突き刺すようないたみがある。

だれよりも、黒龍にしられたくないきのえになった痛みが胸に差し込む。

自分の鼓動があらあらしく、きのえの耳にひびく。

「きのえ。起きておろう?返事をしてくれぬか」

黒流はきのえが静かに泣いていたのも知っていたにちがいない。

きのえは声もださず、布団の中でくびをふり、強くくちびるを結ぶと布団の奥深くにもぐりこんだ。

「きのえ。きこえておろう?」

今更。なにを?

たけりくるって、なじりつけたい思いを堪え、きのえは耳をふさいだ。

「きのえ。きいてみたいことがある。でてきてくれぬか?」

すでに耳をふさいだきのえに黒龍の声はとどきはしない。

「きのえ」

八代神のいうとおり、きのえはこの黒龍をにくんでいる。

『おうてくれるまで、わしはあきらめん』

自分の心に従うと決めた今。黒龍はきのえにひれ伏すしかない自分の恋路と覚悟しきっている。

『きのえ。ずっと、まっておる』

きのえの部屋のそと。

黒龍は其の場所にすわりこんだ。


朝になって、そとをみて驚いたのは勝源である。

きのえの部屋の戸張の外。達磨のように座禅を組んだ黒龍がいる。

百夜通いどころの決意ではないらしい。

きのえは黒龍を察してか、戸張をあけようともしていない。

むりもないことであろう。

夜這いの如く、きのえの身体をむさぼりにきたかと、きのえも黒龍をおそれているのだろう。

だが、忍び込もうと思えば神のすることである。

どうとでもできよう者が外にへいつくばっているというところに黒龍の本意がにじんでいる。

「おまえ。やはり、きのえの心を解く気でおるんじゃな?」

思わず呟いた勝源の言葉に黒龍がふりむくと、わしが、みえているらしいのと小さな目礼をしてみせた。


白蛇神は黒龍が先にきのえをみそめたと言っていた。

その黒龍がきのえに本意でないようなくちぶりであったが、

しずが岳を舞う黒龍をみておれば、それも白蛇神の勝手な言い草とさっしがついた。

だが、白峰の元に行くときのえはいった。

勝源には黒龍の思いこそが本意であるとしかみえぬのに、きのえは黒龍に会おうともしていない。

これは、きのえが、我が身を恥じての故と思えるが、

黒龍もきのえの身になにがあったかを承知の上で、きのえにあいにきている。

勝源が何をこだわる必要があると、思うのは、大切な人間をなくした痛みをしっているせいでもある。

きのえが己一人のつまらぬ感情にこだわって、真摯にきのえを思う黒龍をなくしていいのだろうか?

勝源がいままで、見る事も出来なかった黒龍が見える事も、

きのえへの思いが勝源と一脈通じるものがあるせいにもおもえる。

その、黒龍はきのえにとって、本当に失くしていい存在なのだろうか?

これさえ、きずかぬまま、白蛇神の元にゆくのなら、黒龍とて、ひっしになろう?

つまり、うらを返せばきのえの心底の思いは黒龍にある?

ここをたしかめねば・・・。

勝源はもう一度家に入るときのえの部屋にはいった。

案の定きのえはおきていた。

「きのえ。おきておるのなら、ひとつききたいことがある」

うんとうなづいたきのえをたしかめる。

「きのえは黒龍と夫婦約束をしておったのか?」

勝源から、意外な名前を聞かされたきのえは、勝源が何故黒龍の名をだすか、

不思議に思いながらも、勝源の言葉を否定した。

「きのえが勝手に黒龍をおもうておっただけじゃ」

「おまえがか?黒龍のほうからでなく、おまえがか?」

きのえの言葉がうそでないとしたら、ふにおちない黒龍の行動である。

こくりと頷くきのえの瞳からなみだがあふれそうになる。

「きのえが勝手に黒龍をおもうておった。なれど、

黒龍はきのえがことを藤太のところにゆけというばかりじゃったに」

「あ?ああ」

やはり・・・。黒龍の思いは真といってもよかろう。

人であるきのえ。

勝源が娘に託した幸せ。

本来かかわりならぬ神はきのえをひととしていかせしめようとしたにちがいない。

「そこに、白峰があらわれて、きのえがこと・・・」

黒龍から掠め取らずにおけなかったということらしい。

白峰も白峰で本気であることはまちがいはないのだろう。

「きのえ。おまえに何があったかなぞ、いさい、きくきはない。

いまのおまえにききたいのは、お前の心はどこにあるかということでしかない」

くびをかしげたきのえに勝源はじんわりとたずねる。

「きのえは本意に白峰がよいというておるのか?

黒龍がことへの懸想はのうなったのか?」

「のう・・なった・・」

こたえてみせた、きのえの歯切れの悪さがきにかかる。

「ならば、なんで、黒龍におうて、はっきり、そういわぬ?」

「え?」

勝源は昨日の夜に黒龍が外からきのえをよばわったことをしっているようだった。

きのえが、戸惑いを見せているうちに勝源は戸板のまえにあゆみよった。

「なんで、ここをあけて、きちんと断りをいれぬ?」

勝源がいうと、雨戸はするりとひらかれ、部屋の中にひかりがさしこむと同時に

との外にうずくまる黒龍の姿があった。

おどおどと、きのえの瞳がゆらぐ。

「なぜ、とをあけぬか?おまえは、黒龍がそこにいることをしっておるからだろう?」、

「父さま?」

「いまのお前は黒龍に向かい合えば断りをいれぬばならぬ。そうかんがえておるから、

あうにあえなんだのでないか?自分の心をよう見定めてみてくれぬか?」

いいはなつと勝源はきのえの目の前で再び雨戸をしめた。

ふたたび、そこは暗いへやにもどった。

「まるで、今のお前の様なこの暗さではないか?暗闇を見詰めた眼にそとはめにいたい。

が、明るい物をほしがるおまえは、

わずかなろうそくのあかりさえおおきなひかりにみえておるのでないか?」

本当はそとの黒龍がほしい。だが、自分を卑下するきのえは暗闇の中に落ち、

一縷の光を白峰に求めているだけではないかと勝源がいっている。

「おまえももうこどもではない。じぶんのこころを見定める事くらいできるだろう?」

そして、おまえのこころがみえたとき、自分で戸をあけ自分できめてゆけ。

それがいいたくて、勝源は雨戸をしめた。

いいたいことを言い終えた勝源はきのえのへやをでた。

一人、暗い部屋のなかできのえはうずくまる。

『黒龍。お前が、今更・・・本意だというかや?』

それは、きのえもよくわかっている。

だけど、勝源に言われた意味もふくめ、きのえは黒龍がゆるせないでいる。

ゆるせないけれど、たしかに自分からあまどをあけて、

黒龍に白峰のところに行くと告げたくないのは、それで、黒龍をうしなうからだ。

失いたくはないが、ゆるせない。

赦せないのは、いっそう、こんなきのえを打砕いて、

無理矢理でもきのえを我が物にしようともしないせいもある。

白峰がみせる必死のかけらもない。

黒龍はきのえにすまなかったという悔恨だけでしかない。

そんな物なぞで、なにがぬぐえるという?

白峰に無理矢理とられたものは、黒龍にはぜがひでもほしくはないものでしかない。

黒龍にとって、きのえはそんな程度の女でしかない。

きのえという女の機軸に対峙して来る黒龍でない事がきのえをさらに否定する。

『おまえには欠片ほどの必死さもない』

黒龍と一つにむすばれたいと思う女心さえあさましく思えてくる。

黒龍の潔癖さかもしれないが、結局、女として対当に扱われない寂しさはみじめさだけをうむ。

に、較べ、白峰はきのえがのぞまぬかもしれぬというのに、きのえと共に暮す社をたてさせている。

自分を望む男の必死さがいとおしくみえてくる。

ついぞ、応えてやりたくなるというに、黒龍はこのみとせ、きのえになにひとつこたえようともしなかった。

『赦したくない。もう、これ以上、おまえにほだされたくはない』

だのに、何故一言黒龍に別れをつげようとせぬ?

『未練でしかない』

自分の気持ちをきりかえるためにも、きのえの成すべき事がみえる。

戸口に近寄るときのえは黒龍をよんだ。

「きのえ?」

きのえの声に黒龍はとぐちにちかよった。

「きのえは白峰のものになる。お前が、うろつくは、めざわりじゃに」

つめたい別離の言葉をなげかけられても、黒龍はたじろぎもしなかった。

「きのえ。それが真の心なら此処をあけて、わしが目の前でいうてみせい::」

黙りこくったきのえだった。

が、それでも意を決っして、戸を開け放とうとしたきのえの側に既に黒龍はたたずんでいた。

「おうてくれる気ならば・・・」

黒龍には板戸一枚くぐりぬけることなぞかんたんなことでしかない。

きのえの前に立った、黒龍をしると、きのえはついと、下をむいて黒龍の瞳をさけようとする。

「なぜ、さける?」

「なぜ?」

さけてきたのは、おまえではないか?

きのえの唇がわななく。

「きのえ。わしが胸がどんなに張り裂けそうか、判っておって、白峰の所にゆくというか?」

「苦しい?黒龍?苦しいというのは、どんなにしても

我が物にして見せようとした男が言う言葉じゃに。

お前は、白峰に先を越されて、口惜しいだけじゃに」

「きのえ。お前・・」

きのえがいうことはあながち、うそではない。

「そうじゃな。今更おまえが大事だと気がついたわしがくやしい。くやんでもくやみきれん。なれど」

黒龍はきのえをみつめた。

「身体のことなぞに拘って、おまえを、なくしとうはない」

「きのえは、白峰の事を身体だけを求めた男じゃとおもうておらぬ」

つい、このまえまで、こんな女びた言葉さえいえなかった娘がへいきで、さが事をくちにする。

「ならば、わしはどうじゃという?おまえの心をもとめておらぬといいたいか?」

「黒龍。おまえがいまさらきのえの心をもとめてどうなろう?」

口惜しい言葉をくちにするしかないきのえになる。

「きのえの心は身体ごと白峰にわたしてしもうたわ」

「きのえ。おまえは・・・」

今のお前の心は身体にひきずられている。

前のお前は、心にひきずられ、この黒龍に『おかしな気に成らぬか?』と、とうてみせたではないか?

きのえ。身体の結びが心をひきずるなら、心が伴う体の結びはお前の底の心をひきだすことができるのか?

『いっそ・・このまま・・おまえを・・』

黒龍の臍が固まろうかと思う矢先にきのえはつぶやいた。

「たとえ、こころがなかろうが、きのえは白峰の子をやどしておるかもしれぬ」

この先共に暮すしかない運命を与えようとした、白峰である。

「白峰がきのえを抱くということで、きのえと共に歩む先をつくろうとしていたとおもうと、

お前がいうたことは、きのえをすてたことではないか?」

藤太のところへいけと、なんどいったことであろう。

言い訳する言葉もなく、両手で顔を覆うしかない黒龍になる。

「おまえ、ひとりが苦しいと思っているか?きのえは・・・もう、おまえのことなぞ・・・」

お前のことなぞ、もういいのだといおうとする声が震え、きのえの喉がつまると、瞳からしずくだけがおちてくる。

「きのえ、何を言われてもしょうがないとは思う。だが」

黒龍はきのえの涙のかおをその胸によせつけた。

「おまえはわしのかたわれになってしもうておる」

その証がいこる。

「どんなにか、おまえがこいしかったか、おまえはしるまい」

そのほたえを。一つになりたいという希求をぶつけることを恐れた。

『きのえ。もう、えんりょはせぬ』

そんな遠慮で白峰におまえを奪われ、心まで渡されるなら。

白峰の暴挙を真摯と受止めるおまえなら、黒龍のいざなぎことで、おまえの心をとりかえしたい。

思いの丈をこめて、黒龍はきのえにいどみかかった。

「いや・・」

抗う声に屈する黒龍でなくなっていたが、きのえはさけんだ。

「いま、おまえにだかれて、もし、はらんだら、それは、どちらの命になるに?」

「あ・・・」

虚を突かれた態の黒龍の身体をおしのけると、きのえは寂しくわらった。

「もう、どうにもならぬ」

なにもかも、何もかもが、後悔におえる。

これしか、ないのか?

だが、すぐさまに黒龍はきのえをとらえなおすといいきった。

「白峰の子をはらんでおっても、おまえの本意はわしにあろう?」

きのえの泪をみた。きのえが本心黒龍にのぞまれたいといっていた。

「あやつの子をはらんでおってもかまわぬ。白峰の子ごと、わしのものにする」

どうしても、なくしたくないきのえときがついた今そんな事くらいで怯んでどうする。

「黒龍?」

「おまえはわしのかたわれじゃというた。おまえがわしをいやじゃと云うても、

わしのきもちは、もうかわらん。いいな?」

念をおされ、きのえはうなづくかわりに黒龍の胸にすがりついた。

黒龍の行為は一方できのえに白峰とのことをむしかえさせる。

哀しい記憶がきのえをつつみこむ。

「きのえはおまえを・・うらぎっておる」

「いかほどのことという?」

すんだこと。その後悔なぞもうする必要はない。

「あれはきのえとむすばれるためのしれんでしかなかったとおもうておる」

白峰の事がなかったら、きのえへの心を押し殺し藤太にやってしまうところだった。

あのままの黒龍なら、それでいいと、自分を偽り続けようとしただろう。

白峰のおかげで::きのえへの心のままをさらけ出す事が出来たと今はいえるきのえが側に居て、

確かなむすびをひとつにしている。

「きのえ」

焦がれた思いが猛りをゆさぶり、今、きのえは黒龍のものになる。


白蛇はあたまをもたげた。

「なにゆえ?」

きのえの元にちかよった黒龍がきのえにして見せた事が白峰につたわってくる。

わずか、一日。

簡単には、きのえをとりかえせまいとたかをくくっていた。

『黒・・・よう、やってくれたの』

だが、七日七夜。この契りはしきつめられる。

「きのえとおまえの七日なぞ、とりかえせぬことではない」

それには、きのえが再び白峰をのぞまねばならぬ。

逆にこのまま、きのえが黒龍をのぞむかもしれない。

だが、白峰にはその不安はないといっていい。

「この七日で・・黒、おまえがしることは、さぞかしつらかろう」

きのえ。おまえの身体は執拗なほどの白峰の寵愛をうけている。

その身体が見せる反応はことごとく、白峰に咲かされた女をかたどる。

其れを見る黒龍は悲壮な物になる。

きのえを諦めるしかないつらさのほうがよほどらくなものになる。

おまえもみじめなものだろう。


白峰の予測の通りと言ってもいい。

きのえに通じた物の蠢きにきのえは、かくもあっさりとあえぎをみせる。

それが、逐一、きのえを嬲った白峰の所作にきのえがいかなる応えを見せたかを

かたりだす。

「き・・の・・え?」

きのえにゆめうつつをあたえているのは黒龍のはずである。

だが、きのえは快さにあらがう。

「いや・・だ・・」

抗う声が甘く陶酔をつたえる。

伝えた口が呼んだ男の名が黒龍ではない。

睦事は白峰とだけの悪夢として、なかったことにしてしまいたい。

きのえの中から、隔離してしまいたいはずの記憶をさませる、同じ睦事は白峰にかさねってくる。

だが、そのかさねごとは、きのえの身体を甘やかに浸食している。

陶酔すればするほど、その快感がきのえの身体に白峰を意識させる。

「いや、ううん・・・」

心は白峰を否定しながら、快さがきのえをつつむとき、きのえの意識は白峰にあたえられた陶酔をほしがる。

「どこまできのえをおとしこみおってから・・」

きのえの意識を快楽の傀儡になりはてさせるほど、白峰はきのえの身体に己をたたきこみ、白峰をおぼえこませた。

「きのえ」

黒龍に抱かれながらきのえは白峰にあえぐ。

だが、これもむりもない。

精というものは思いにまでとけこむものである。

思いをわかすは、血のなせるわざである。

この血の中に精を混在させ溶け込ませたとき、思いは精にそめられる。

きのえにとって、初手の男であった白峰により、きのえは破瓜をうける。

破瓜の傷跡から精がきのえの血にとけこんでゆく。

そして、きのえの思いは白峰の精にそめかえられてゆく。

このことは、獣が如実に明かしている。

たとえば、純粋な白猫に黒猫がかかる。

是が、白猫にとって、はじめての交尾である。

ところが、この交接は甲斐を得ず白猫は子を宿さずに終る。

次の春に白猫は仮に純粋な白猫と交尾し子をやどしたとする。

生まれてくる子猫は白猫だけのはずである。

で、あるのに実際、生まれてきた子猫の中に黒い子猫が存在する。

これをみて判ることは、黒猫の精が牝の白猫の血の中にとけこみ、

黒猫の性にそめられたという事実である。

思いと云う物をもたない獣は牡の精の影響を地に溶け込ませたまま

毛色の違う子をうんでみせるが、思いを持つ人はおのれの思いをそめかえさせられてしまう。

まして、神なるものの異種の精が人の血に混ざりこんだことであたえる影響は

きのえの如く態をみせることになったとしてもなんらふしぎではない。


天に舞い上がる黒い龍の姿を見送るきのえの胸の中は哀しい。

自分の取った失態を覚えているだけに自分のこの先の運命がわかる。

やっと、心を晒け、結ばれた黒龍から与えられた快淫は確かにきのえの身体を酔わせた。

だが、その快淫がするどく高まり始めた時きのえの意識は白峰を思い始めていた。

一身が快淫を追従し始め、あえぎを露呈せざるをえないきのえになるころには意識さえもが、快淫を追う。

その時だったと思う。

意識が遠のくような高みに酔い出すと、身体と一体になった意識が白峰に抱かれていると教え始めた。

その快さを、与えてくれる当の白峰に訴えずにおけなくなると、うわごとのように、

白峰をよんだ。

快淫の波がひいてゆくと、現実、白峰になぞだかれていない自分ときがつく。

きのえは自分がしでかした失態を悟ると

「・・もう・・だめだ・・」

と、黒龍に告げる事以外残されていなかった。

「自分でも、自覚があるのか::」

俯いた黒龍だったが、さまに顔を上げなおしきのえをみつめた。

きのえが自分の取った行動にきがついていないのなら、黒龍さえ耐えればいい。

知らずにやっていることなら、きのえの意識が覚醒したときにこ

の黒龍にいだかれたことだけをよろこんでいられたことだろう。

だが、きのえの中に自覚がある。

「きのえ。お前の言うとおり、お前に懐妊があるか、まつことにしよう・・・」

情けなくもきのえが白峰の名を呼んだとき黒龍は萎えてゆく己をしらされた。

だが、きのえの中に精を解き放たずにすんだ事はかえって、黒龍にはよかったといえる。

一つに、きのえが白峰の子の懐妊がありえるかもしれないと意識する分だけ

身も心も白峰に従属されているといえる。

この状態がさらにきのえの中に白峰を浮上させる拍車をかけるとも考えられる。

いま、きのえと無理矢理七日七夜を通じてみても、白峰を拭い去る事さえできない。

それどころか、いっそう、黒龍の行動がもとで、白峰に束縛されるきのえを作る。

ならば、懐妊がないとしって、このさきの『白峰との縁』を考えなくてもよいと

なったほうがよかろうとおもえる。

実際、黒龍の換算によればきのえが孕む時期とは思えない。

障りを隠し祠に現われるきのえであったが、かすかな匂いと、

へばりついて甘えてくるきのえの体温が妙に芯熱があるように感じる時があった。

それが、障りであるなら、きのえはもう、七日もせぬうちに次のさわりを迎えるはずである。


黒龍は天に昇っていった。

目指すは八代神であるが、

はたして・・・。


黒龍を眼の前に八代神は渋い顔をしてみせただけである。

「もう・・・。どうにもならぬわい・・」

黒龍の目論見がきのえとのことでしかないとをみぬくと、

かける言葉はそれしかないのである。

「なにゆえ。断言できる?」

ねめつける黒龍の瞳を間向こうからうけとめると、

八代神はほううと、ため息をつく。

「おそろしいほどの惚れようじゃわい。

いまさら、おまえには、どうにもできぬ」

白峰が本意だという。

それは、いまさらながらであるが、

黒龍とて、同じ。

「後手にまわったら、それで、らちが、あかぬというか?」

「そんな、単純なことではないわい」

白峰がかけてきた願はすでに、八代神の差配の折のなかにある。

「なんだという?」

黒龍のおぼこさが、うんだ後悔をさらにふかめるだけでしかないが、

八代神はいうしかないと思う。

「亜奴は・・・七日七夜だけをのぞんだわけではない」

それは、つまりどういういみであるのか?

黒龍のとまどう目をのぞきこむと、

「七日七夜。七重八重。輪廻転生の末。きのえを妻にすると願をかけてきた」

「七重八重?・・妻に・・?」

黒龍の知らぬ所である。

およそ、神が人を妻にすることなぞできないのである。

それが、ゆるされないからこその七日七夜がある。

が、白峰はきのえを妻にすると、願をかけたという。

「七日七夜。これをきのえが死してのちの転生のたびに八度くりかえせば、

九度目の転生ののちにその魂は神格に値うものにかわる。

神の寵愛の真が人の魂を神の域にたかめる」

「な?なんだと?」

「そこまで、白峰が己の真を量りにかけておる。

かんがえてもみよや。九度の転生・・・。千年はかかろうて・・・」

その間に白峰が自分から交わりをもてるのは、

七日七夜を九度。

そのうちの一度はすでに終わっているといっても良い。

「気が遠くなるほどの長い時をはかりにしても、

きのえを妻にするという白峰の真がいかばかりのものか、

わしはじっくり、みせてもらおうとおもっている」

「信じられぬ・・」

白峰がなにゆえに、それほどに、きのえに本意になるのか。

「亜奴は冷たい男じゃあ。が、一度思い込むと

そこが、蛇の性。執念深い・・・」

「それで、おまえは、白峰の願をうけたということなのだな?」

「わしがなにか、しっておろう?」

人の世において、閻魔といわれる八代神である。

「わしは、人の生き死にをきめるのではない。

わしは、人の生き様を計る役を負うておる。

人の世に介在した以上、白峰も同じ。

その生き様をはかりにするが、願の返し・・・。

返しができぬば、遠慮なく白峰を握りつぶす・・・」

己の存在をかけて、きのえを追うという白峰であらば、

「その願、見とどけぬわけにはいかぬ」

「・・・・・」

「かんがえてもみよや。千年はながいぞ・・・。

それでも、きのえを欲する白峰におまえが、かてるわけがない」

「・・・」

「後手でありとも、ふんでみたいと思うかもしれぬが、

これは、早い者勝ちじゃ。いさぎよく、あきらめよ」

「・・・・」

いおうとすることを先にくちに出され鋲をうちこまれると、

黒龍は言葉もでない。

「おまえは、残りの七日七夜をきのえと昇華するしかあるまいて・・・」

八代神の告げる事実は黒龍の模索をくずしてゆくだけである。

「そして、おまえが、身をひけ・・・」

苦しい選択を選べと八代神ははっきりと宣告した。


だが・・・。

「いくら、法がありとても、まちごうておる。

人を人として、生かせしめぬ事が出来ぬは、

白峰もわしも同じなら・・・」

つぶやいた言葉が黒龍のうなりにかわった。


まちがいなく、白峰と黒龍の争いになると

八代神は瞳を伏せるしかなかった。


「勝源!!」

血相を変えて村長の勝源の元に

走りきた男は

震えながら、

琵琶の湖の上空を指さした。

「どうしたという?」

ゆっくりと腰を挙げ

外にでてみただけで、

勝源の目に飛び込んでくる

琵琶の空は

おどろしいほどの

暗雲を立ち込めている。


「勝源。空がおかしいだけじゃない。

あの空からふわふわした、煮凝りのようなものが

陽炎のようにあたりいったいにおりてきて・・・」

その陽炎を受けた生き物が倒れているという。

「どこかに逃げようとしていた鳥も陽炎にあたると

空からぱたりとおちてきおる」

「瘴気だ・・・」

「瘴気?なんだ、それは?」

「あふりというたら、わかるか?」

「なに?」

あふりは神が発する怒りの毒素のようなものである。

自在にあふりをあげることもあるし、

怒天、髪をつきぬけて、神自身も気がつかぬうちに

あふりを撒き散らすこともある。

「と、いうことは・・・神が怒っているということか?」

「そうだ・・・・」

「勝源・・・・」

男はいくつかの報せを搾取している。

「そりゃあ・・・きのえにかかわることじゃあないのかい?」

勝源はうなづくしかなくなる。

「そうだ・・・」

男は自分の推理を口に出すぶしつけをわびながら

勝源に尋ね返してみた。

「それは、つまり・・・。

きのえを差し出せということか?

もし、そうならば・・・・」

きのえを差し出せばそれで、事がおさまるのじゃないか?

村長であるならば、

みなのためにもきのえをさしだしてくれないか?


だが、そんなむごい言葉を言うのも辛い。

勝源をせめる言葉を吐くのも辛い。

いいあぐねるが、やはり、このままでは人の命に

この先のたっきにかかわる。


男の心を読んだか

勝源は首を振った。

「きのえは・・・とうに・・・さしだしておる・・」

実際は白峰がうばいさったといっていい。

「あの場所であふりをあげておる神は

きのえをさしだせといっているわけではない」

かといって、その争いがきのえにかかわりのないことではない。

「神は・・・・きのえをうばいあっておる」


勝源に告げられた事実に男の顔色が

いっそうさめてゆく。

「な・・?すると、あれは・・・

神があらそっているというのか?」

「そうだ。きのえをさしだそうにも・・・。

どちらにさしだしても、事はしずまらない」

「な・・・なんということに・・・」

争いを鎮める方法がないということになる。

どちらかが、きのえをあきらめるまで、

争いがつづくということになろう。


「神が命をかけて争っている。

あふりもさぞかしおおきいことであろう」

どうすればいいか。

どうすれば、琵琶の湖を、空を、生き物を。人々を、作物を・・・

まもればいいのだろう。


うずくもり、かがみこむ、勝源は土に額をこすりつけた。

勝源が臥して拝んだところで、

争いの最中の神をとめることなど、できはしない。

それでも、それでも、

もう、勝源に法が無かった。

祈り、拝むこと以外、なす術が無かった。

長い間、頭を垂れていた勝源だったが

ふと、ふいっと、顔をあげた。

上げた顔が空の一角を凝視すると、

勝源はゆっくりとたちあがった。

言葉をなくしたまま勝源を見守り続けた男が

声をかけるより先に勝源が先に口を開いた。

「都に行く」

「都?都にいって・・どうするきでおる?」

勝源の唐突な言葉の中に切羽詰った思いが見える。

男にも、悟ることが出来たのは、そのせいかもしれない。

「天子様におうてくる。

天子様ならば・・あれらをいさめられるかもしれない」

天子様。

文字通り、天の直系である。

神代の昔から、天は人の誠に力を沿え

大和の国に人型の天を分け落とした。

それが天子様。天の皇子。

人の誠の雛形になれかしと、

天が人の世に置いた天子様の思いを動かすことが出来れば

天もすめらぎの誠をあだにはせぬ。

天はいつも、人の誠を量る。

いわば、天子様には、天の守護があり、

夜闇を引き裂いて争う神より、よほど、格が上であろう?

その天子様がいさめてくだされば、

あれらも、和にならざるを得ないはずだ。


勝源の考えたことは確かに的を得ている。

だが、

「て・・天子様が・・あってくださるものか」

「そうだろうか?

人を、民を、思い、いつくしむ天子様ならば、

この有様を知ればすぐさまにうごいてくださろう?

ただ、この有様をおきかせするものがおらぬだけだ。

お聞かせするに・・しのびない。

あまりに、しのびない。

人が苦しむも平気で神が争うを、

さぞかし、お嘆きになるであろう。

そして・・」

勝源の声が低くこごまった。

「その神の争いの元凶は・・・きのえ・・だ」

勝源のこごまった声の奥に悲壮なものがみえる。

「勝源・・?

おまえ・・・」

口にだせない。

まさか、おまえ、きのえをば、殺す気であったのではないか?

神をあらそわす元凶・・。

それさえ、なくせば、神があらそう因がない。

かくなるうえは、きのえを殺すしかないと

空を見上げ地にひれふし、きのえをころさせないでくれと

勝源は神にいのった。

だが、争いはしずまらず、

もはや、きのえを殺す以外活路がないと覚悟した勝源に

きざしたものは、

天子様の存在であったのだろう。

会えぬかもしれない。

会えるかもしれない。

そんなことよりも、

天子様という一縷の希望を見出し

勝源が子殺しをせねばならぬと思いつめた考えから

ときはなたれたなら、

そのほうが、大事である。

だが、もしも、男の類推した事が勝源の頭に微塵も無かったら

いらぬ知恵をつける事になる。

あるいは、きのえを殺せば簡単に解決するではないかと

おしよっていくようなものになる。

だから、

男は黙り、近江の湖の惨状が

天子様の耳に届くことだけを願った。


旅支度を調えようと家にたどり着いた勝源の耳に

婆さまの金きり声が届いてきた。

「きのえ・・はやまってはいかぬに・・」

婆さまの声できのえの一心を察すると

勝源は婆さまの声のするきのえの寝間に急いだ。

寝間に足を踏み入れると

案の定、きのえの錯乱がみえた。

肩で大きな息をしながら、帰って来た勝源にすがる目をしてみせた

婆さまの手には、きのえから、今しがた取り上げたと思う

小さな束があった。

「きのえ・・・。おまえが、死んでも争いはおさまらぬ。

お前が死んでしもうたら、あれらは間違いなく、お互いを憎み

どちらかが死ぬるまで、争うだけじゃ。

それで、事が治まるなら、わしもあるいは、おまえをわが手にかけようが・・。

争いに勝ちて、残されたどちらかの神の心の中の悲しみと憎しみは

ぬぐうことは出来ない。

それは・・・つまり、

神が命絶えるまで、あふりを上げ続けるという事に他ならない。

神が命絶えるまで・・この世は、この近江の地は、地獄のさまになる。

お前の死は無駄死にであるばかりでなく

この地に地獄の沙汰を招じいれるてつないをするだけになる。

それでも、死にたいなら・・死ねば良いが・・。

それよりも、争いをいさめる法を考えてみぬか?」

婆さまに小束を取り上げられ悄然のさまのまま

板土間の上に突っ伏していたきのえが顔をあげた。

「争いを?いさめる?」

そんなことができるのだろうか?

「わしはこれから、都に行って、天子様におうてくる」

天子様に?

天子様が・・おうてくれるだろうか?

きのえの不安をかぎとると、勝源は

「思い一心でお願いすれば、きっと、道は開ける」

と、自分にもいいきかせた。

「だが・・。その前におまえの思いを尋ねたい。

神が争うほどになったは、

ひとつにお前の思いの在所が定かでないせいであろう?

争いを錦の御旗でいさめるにも、

肝心のおまえの思いが定まらぬでは

天子さまにも、さにわのし様がなかろう?」

「吾の思い・・・」

呟いたきのえの顔には戸惑いしかなかった。

「なにを思いまどうておる?」

勝源に問いただされ、きのえは我が胸うちを改めて

覗き見る。

「吾は・・・」

複雑すぎる、胸の思いをどう纏めればよいか。

一言、どちらかの神といいきるにいいきれない、

定めるに定めきれない酌情の憂いがある。


「吾は・・・」

一番の不安は白峰の子を宿しておらぬかである。

たとえ、そうでなくとも・・・。

きのえの中に埋めこまれた白峰への発心は

いつ、火を噴くか判らない。

黒龍に抱かれた歓びの最中に吹き出た白峰への

発心がきのえをがんじにからめる。

この状態の吾が黒龍をば懸想するといえるだろうか?

それに、

「天子様がさにわなさるというは・・

あるいは、どちらかの神を討つということでしょうか?」

一言、吾が黒龍を望むと告げれば

白峰は邪恋の徒になる、と、こういう事だろうか?

邪恋の徒を討つという大義があらば

天は天子様を持ってして白峰を討たせるに殉ずる、と、

こういう事だろうか?

「きのえ、それもわしには判らぬ。

天子様がどんなお知恵をおもちになるか、

どんな、思いをおもちになるか、

下賎のものには推量およびつかぬ。

神の域、天の域に通じるお方であらばこそ

みえるものもあろう・・」

あるいは、黒龍を選ばば、白峰の討伐にあいなるやもしれぬ。

言下にふくまれるものが、

きのえの心をせめぎわななかせた。

「・・・・」

己さえ心迷わねば・・。

己さえ黒龍を振り向かせようと

あざとい奸心をもたねば・・・。

すべてが、己の弱さ。

誠の心を捨て去って姦計に頼り

黒龍をば、求めようとした己のあさはかさのせいで、

こんな阿呆のきのえに、誠の思いをぶつけたにすぎない

白峰を死においやる事など、できない。

一言、黒龍といえば、

吾は悔いても悔いきれぬ罪を背負う。

それならば・・・

いっそ、

白峰を選び・・

吾の思いなど・・・。

吾の思いをわが身にかえて殺してしまえばいいのかもしれない。


されど・・・。

黒龍とて・・。

どちらかを択べば・・どちらかが

天子様に討伐されるやもしれぬに・・

きのえの裁量がさだまるはずもなく

勝源の問いにきのえは黙り込むしかない。

「定まらぬかや?」

きのえの沈黙はつまり、そういうことになろう。

琵琶の湖のほとりの村長の娘のただの一言で

神の命を絶つやもしれぬ。

神選びの裏側に神殺しという重すぎる責荷があれば

きのえとて、口にだす決断もつけきれまい。

これが、普通の婿選びでもあらば・・。

勝源の苦渋が口元を歪ませる。

まだ、十八。

娘という雛が妻になり、母になり、女としての人生を歩み始める。

人して、ごく平凡につつましく、ありふれた、平穏な日々を・・

なぜ、きのえだけがおくることができなくなる?

成ってしまったことは、今更取り返しがつきもしない。

無駄な悔懇だとわかっていながら、繰言のように

無念が浮ぶ。

人として、幸せな道をあゆむ筈だった、

歩ませてくれる筈だった藤太まで見初めた勝源の

きのえに寄せた情愛さえ、いまや水泡に帰し、

あわれ、娘は己勝手に思いをたたきつける神を顧みて

沈黙を護らざるを得ない。

「き・・きのえ・・や」

用心深く小束を勝源に渡しながら婆さまがきのえを呼んだ。

うろんげに婆をみつめるきのえの

その目の中をのぞきこんだのは、

もう、きのえが自害を考えないと確かめるためだろう。

「きのえ・・や。

男と女にの・・神も人間もありはしないわな?

ならばの、おまえも相手を神じゃと考えんでも良いわいな。

おまえもおなご。

おなごの本心だけ、みつめればよいに」

婆の言う事はひどく簡単である。

簡単だからこそ核心をついている。

裏を返せば神がとりあっているものは、「女」である。

その神を択ぶのは

[正義][大儀][憐憫]などという類いの

もろもろのあくたのごとき飾りや考えではない。

言い換えれば神も[男]として択ばれてこそ・・であろう。

「どちらかを択んだらどうなる、こうなる。

こんなことはどうでもよい。

お前はおなごとして、どちらを択ぶか

その気持ちを言わずとも良い。

天子様にだって言わずとも良い。

だいじなのは、おまえが本心をさだむることじゃ。

勝源の言いたいことはそこじゃに」

くいいいるように婆さまをみつめていたきのえの口元がかすかに開いた。

「お・・」

婆もきのえの口元をみつめ、きのえが語ろうとする言葉を待った。

「女子・・の・・本心?」

女子の本心・・。

婆は簡単に言うけれど、きのえは戸惑うばかりである。

白峰への情は女子ゆえに湧き出るものではないのか?

必死にきのえを追う白蛇神をにくからずと思うようになってしまうのは

女子のさがが生み出す女子の本心ではないのか?

黒龍とて・・黒龍とて・・

結局、きのえという女は睦み事に翻弄されるただの淫猥?

きのえの惑いを見透かすと婆は笑い出した。

「ふたりの男とちょっと、深い仲になったが、どうじゃという?

それで、思いがさだまらぬかや?

それはのお・・

きのえが今しか、見ておらぬからじゃ

相手を見て

自分をみておらぬからじゃ」

婆さまの言いたいことがきのえには見えてこない。

判じ物を解こうにも

今・・事実・・2人の神は争うばかり。

今を見ず、先を見ろといわれても、見れるわけが無い。

「おまえはの・・まだまだ・・小娘でしかないわ・・」

婆の口はきのえをあざけてはいない。

むしろ、小娘でしかないきのえのおぼこさを喜ぶかのような

笑みがこぼれていた。

女の本能に引っ付かれるは、あるいは過酷な事でもある。

過酷な心根に捕われきってないは幸いともいえる。

おなごの本心がおなごを牛耳ってしまっていたら

きのえはさっさと残酷な選択を平気でやりのけていただろう。

小娘では・・わかりえもせぬ

女の本心を婆は一言で紐解いた。

「きのえ・・

おまえ、誰の子供を生みたい?」


婆の一言は真理である。

悠久の時の流れの中に

およそ、生きとし生けるものは

己が生きた証を刻み付けることは出来ない。

だが、ただ、ひとつの例外がある。

それが血である。

愛するものと愛されるものが融合し

血が受け継がれ

未来永劫、伝えられていく。

生命の起源が母であるならば、

母が護り、伝えてゆくものこそ

血である。


己が生きた存在の証である

血の継承を望むとき

女はより尊い愛をつかもうとする。


業とも欲ともいえる

女の本能は己の存在を量りにかける。

時に命をかけて子を産む女だからこそ、

「誰の子を産みたいか」

この答えが究極を見せ付ける。


くっと引き結んだ口元は

答えを胸の奥に秘めた証拠であろう。

きのえは、婆の言った口に出さぬで良いの言葉に押され

素直に自分の心を覗きこめた。

呵責も懺悔も悔恨ももたず、

むしろ・・わきでてくるというが正しい。

産着の中のつぶらな瞳を覗き込む男の姿は

黒龍しか、居ない。

憧憬がそのまま、溢れかえり

ひたむきで、無垢なきのえの思いが蘇ってくる。

吾は黒龍の花嫁になる。

この思いはいつだってきのえの心に根を張っている。

それを・・

実をつけようとする樹木を根っこごと

とりはらおうとするには

心ごと、

心という地面にはえた樹木をとりはらおうとするには、

心ごと・・・、

どこかに葬るしかない。


そんな事などできるはずがない。

できるはずが無いから

きのえは先刻死を掴み取ろうとした。

心をだに、なくしたくないばかりに・・・。

死だけがなにもかもを解決してくれるように思えた。


己の心のありさまも

神の争いも・・・。


だが、

勝源に諭され

婆さまに知らされた。


生きておればこそ

開けてゆく。

生きてゆかねば、

命はつむがれぬ。


「誰の子が欲しいか・・」

今、白峰の子を宿しているきのえでありとても、

黒龍は

間違いなく、きのえを望む。


それが・・

あの争いの姿。

命をかけて証をたてようとする黒龍を捨て置き

死ぬるは

婆さまの言うとおり

早まった事でしかない。


たとえ、今、白峰の子を宿そうとも

己の心まで、縛られてなるものか。


琵琶の湖の生きものたちにあふりをあげおとす、

おろかは黒龍とて、熟知のうえ。

むごいほどの冷徹さで掴み取るものの価値を見据え、

黒き神はきのえに懸想のあかしをみせているというに、

なんで、

なまはんかな酌情におのれをゆさぶらせねばならない。


きのえ本来の勝気な性がその瞳に強い意志の光を宿らせる。


押し黙ったままの娘の瞳の中に

生き抜いてゆくものだけが持つ確かな輝きがもどってきたと

判ると勝源は立ち上がった。


「今から・・行く。明朝には、都にはいれるだろう」


勝源が急ぐのも無理が無い。

「今なら・・・風が良い」

琵琶の西岸に向かって風が流れている。

あふりを掻い潜ろうにも、昼間には湖が暖まり

上昇した熱気が空に逃げ

熱気が逃げた場所をめがけ

比叡おろしの余風が流れ込む。

目に見えぬ空気の流れにのり

あふりはところかまわず降りてくる。

それが夕刻になると

湖が冷え出し、暖まった気流が戻ってくる。

勝源のいう風が良いとは、

気流の変わるわずかの隙をいう。

海で言えば、丁度凪にあたる。

気流の凪のまに琵琶街道をつっきってしまえば

あとは、どうとでもなる。


山を越え難波津の都まで

いくら急いで夜通し歩きとおしても、

朝までいけるかどうか・・。

難波津までは四十里近くある。

舟を出すしかないと覚悟をきめると

勝源はみのをひきだし、あふりを防ぐための

油紙を身体にまといつけた。

風がかわらぬうちに争いの下を潜る抜けしかない。

とるものもとりあえずというが

乾し飯と竹筒にいれた水といくばくかの路銭を受け取るいとまさえ

おしんで勝源は湖の岸に走った。

幼き頃から慣れ親しんだ櫓である。

よほど、歩くより早く、湖のわずかの汐のながれも熟知している。

よっぴけば、星をたよりにいくも知っている。

はずみをつけ、ぐいっ湖面におしだした舟にのれば

勝源のすがたは婆の目にもきのえの目にも

またたくまに小さくなっていった。


「父様は夜通し、舟をこぎなさるんじゃろうか?」

そうするしかあるまい事をわざわざ口に出して

たずねるきのえの手は父、勝源を拝んでいた。

「きのえ。勝源の思い・・仇にすなよ。

おまえが一番さいわいであるためなら勝源はどんな苦労もいとわぬ。

その思い・・無駄にすなよ」

「はい」

勝源の無事をいのり、

勝源の情にひれ伏し

きのえは勝源の舟の方向に手を合わせ続けていた。

「きのえ・・屋敷にはいろう。

風が動き出したら・・ここまであふりが来ぬともかぎらぬ」

見上げた空に

たちこめるあふりの中で

黒き神龍と白き蛇神が大きくうねり、

身体をぶつけ

互いに相手を地べたに叩き落そうともがきあらそっていた。

「きのえ・・見るでない。

見れば、おまえの心がふれる」

そうだと思う。

必死にきのえを追った白峰が憐れになる。

きのえの心が定まった今、

黒龍の刺傷はきのえを取り返す代償といえよう。

だが、

白峰は憐れ。

傷の痛みを癒すものがない。

刺傷をあがなうものがない。

心の痛みを癒す「成就」は来ない。

それでも、

きのえに満身の思いをよせ、

命をかける・・・。

見れば・・・心がすまなさにふさがれてゆく。

「今は勝源の無事だけを祈ろうぞ」

促されて歩み出したきのえが小さな声をあげた。

「あっ」

「どうしたんじゃ?」

いぶかし気にたずねた婆に

「来た・・」

婆もおなごである。

かてて、

安堵の色をみせたきのえの顔付きで来たものが

何か、判る。

なるほどと婆は得心する。

血の中に思いが溶け込む。

きのえの迷いよどんだ思いは血の中に溶け込み

よどんだ水が流れを作らないのと同じように

きのえの身体の中で血にとけた思いもよどんだ。

それが、

きのえの迷いがふっきれたゆえに

水が流れ出し・・浄化が始まり、

良くない思いが悪濾として体外に排出されてゆく。

浄化のはじまり・・。つまり・・、

きのえに障りが訪れたのである。


明朝・・。

湖をつっきたのが功を奏し

勝源の姿が朱雀大路にあった。

大津の岸まで休む間もなく艪をこぎ続け

舟をつけた暗闇の岸で干飯をはんだ。

竹筒の水をぐいとのむと、ゆっくり、休むをおしみ、

月あかりをたよりに小道を昇った。

大道に出たとき勝源は胸をなでおろした。

その道が琵琶街道である。

このまましばらくいけば、

京へはいる山道と難波津を目指す叉路にでる。

立ちっぱなしで艪をこいだ腰は鈍い痛みを訴えていたが

歩くに難はない。

しゃにむに歩きに歩きつづけ、

都はずれとおぼしき村に差し掛かったとき

辺りが白み始めた。

どこの家でも朝は早くから竈に火を入れる。

白い煙があちこちの家からわきあがるをみれば、

勝源の気がいっそうせきだし

もう、あと、わずかを歩くは辺りの見通しがききはじめると

小走りにちかいものになっていた。


朱雀大路にたつと、

勝源は大きく息をついた。

天子さまがお住まいになる青陵殿は朱雀大路のどんのつまり。

どこか、寺社の手水でも使わせてもらって

些少の身なりを整えよう。

往来が賑わいをみせはじめると

どこから、こんなに人が集まり

どこへ急ぐのかと思うほどに都のたっきの栄えが勝源の胸を打つ。

百姓の作る米が人々の糧になり、この賑わいをささえている。

だが、

近江の勝源の村辺り一帯・・・

米はおろか・・・作物さえ・・あふりに侵され

今、あふりがとどまっても、秋のみのりに期待できない。

それでも、一刻も早く、まずはあふりをとめねば、

間違いなく・・・・。

考えるも恐ろしい。

飢えをしのぐものがなく、

孕んだ子にも光を見せずに闇に葬るしかなくなる。

子曳きはまだしも・・

力の無い弱いものは病を拾い

婆や爺は足手まといになると嘆き

口減らしと己の首を絞る。


左右を見回しながら朱雀大路をあがる勝源の鼻に

線香のにおいがきこしめ

寺のありかをおしえていた。

手水をかりたいと境内を掃き清める小坊主に頭を下げると

応諾にあずかり、勝源は手を清め、口をゆすぎ、顔を洗い

手水の水で頭を撫で付けた。

かがみこんで手水を使うその勝源のうしろに立つものがいた。

「そなた・・湖北からきたかな?」

気配無く忍び寄った者の突然に声に驚きもしないのは

勝源がもっと恐ろしいものを見てきているからだ。

やわらげにふりかえると

勝源は疑問をそのまま・・突然の声の主に尋ね合わせた。

「なにゆえ・・私どもが湖北からきたとわかりますか」


洗った顔を手ぬぐいで抑えながら勝源はその声の主をうかがった。

ざんばらと肩口におとした髪は男のものにしては、長すぎるが

それも、また、神の気を拾う者のしるしであろう。

加持、祈祷の神事をつかさどるものか?

だが、それが、なにゆえ、寺の御手洗の老爺に声をかけてくるのか?

だが、男は勝源の問いにこたえなかった。

「帝は昨日の朝、南に向かって出立なされた」

「え?」

男は勝源が天子様にあおうとしていることもみぬいていた。

だが、そんなことよりも・・。

「天子様が?清涼殿におられぬ?」

それも、近江とは真反対の南にむかった?

そして、それをおいかけようにも、すでに一日の遅れがある。

「うむ・・む」

情けなくこうべをたれる勝源になる。

己が困った時だけ・・天子様にすがろうという身勝手な思いゆえに

かくも、天子様の民を思う気持ちと呼応しない。

己の身勝手をたしなめられるみせつけであるにしろ、

勝源も此処で身をひるがえすわけにはいかない。

一日の遅れとはいうものの、天子様においつき、近江までおつれもうすに、

期日は三日の遅れにあいなる。

もう一日、早く・・悔いてもせんない事を悔いていても事は始まらない。

一刻も早く

追いかけて・・いかねばならない。

わざわざ、知らせをくれるために男があらわれたのだと察すると

勝源は男に一言礼をのべ、竹筒に水をくんだら、南にむかおうと決めた。

「そこもと・・の知らせありがたくちょうだいする」

頭を下げた勝源が歩を進めようとしたそのときだった。

「待たれよ」

またも、突然の声が響いた。

突然の声の主はどうやら、この寺の住職らしく、墨染めの衣が

ゆらり、ゆらめいていた。

話に突然割って入ってきた住職が勝源に用事があるとみてとったか。

もともと、近在の神子とは、またあとで、話ができるのだから、

住職の用事は勝源にあると判じたのであろう。

ゆっくりと頭をさげた神子がその場を立ち去るのを見送った住職が

やっと、口を開いた。


「さきの男・・は?あなたの・・・?」

住職の知己かと思っていた勝源に意外な伺いである。

「いえ・・。こちらで初めて・・」

逢った男でしかない。

「ふ~む・・」

住職は訝し気な溜め息をついた。

「あの男はあなたになにか話していましたが、さしつかえなければ、

なにを話したのか、教えていただけませんか?」

勝源になんの差し支えもあるはずは無い。

だが、住職があの男のことを、妙に気に掛けるのが不思議である。

「かまいませんが・・。なにゆえ?」

たずね返した勝源の目の中で住職が再び、う~~んと、唸った。

唸りながら住職は勝源に伝える言葉を選んでいた。

「お知り合いかと、思ったのですが・・。そうでないのならば・・。

驚きなされるなや」

一端、言葉を留めて住職は勝源の腹づもりを確かめた。

勝源も些少のことに驚きもしない自分を判っている。

ふむと深く頷くと、はたして・・・。

「先ほど、小坊主が慌てふためいて、私どもの元にきましてな。

『御手洗場所で、旅のお方が独りで喋っていなさる』

これは、いかぬと私どもも慌てて、こちらに走り来て

御手洗をみれば、貴方が先の男とはなしておられる。

どうも、小坊主には、まだまだ、見えぬのでしょうな。

貴方は何らかの神の気に触れていなさる。

ですから、

さきの男は貴方の神から使いなのだろうとさして、気にとめずにいたのですが・・」

確かに勝源は神の気に触れている。

きのえの事があってから、今まで、見えなかった黒龍神や白蛇神が

見えるように成っている。

神の気に触れたせいで、

難波津の何らかの神の気も拾ってしまうようになったのかもしれない。

だが、

「私には、あの男を遣わせた神の正体がわからない。

そして、遣わされた貴方も判ってらっしゃらないようだ。

それでも、神が使いをだすような、委細が貴方におありなのであろうと

考えてみたのですが・・」

これも、住職の推量のとおりである。

「確かに・・おっしゃるとおりです」

勝源の肯定に委細は尋ねる気はないらしく、

「ですが、あの男に・・・妙な邪気を感じていけません。

ですので、あの男がなにを話したのか、

あるいは、貴方もあの男の邪気にきがついておられるのか、

そのあたりが、さしでがましいと思いつつ、お尋ねした次第です」

「邪気?」

確かに妙なひややかさがあった。

こちらの問いに答える暖かいはからいは見せなかった。

それも、神の使いと聞けば、一種尊厳がましく振舞う習いのせいかと、見逃しても居た。

邪気・・?

と、いっても、あの男が話したのは、天子様が南に向かわれたということだけで・・・。

あ?あるいは、あの男は白蛇神の使い?

天子様にさにわをさせまいとて、でまかせをいって、

この勝源をば、南においやるつもりだったかや?

さなれば。

「どうやら、私の邪魔をしようとしたのでしょうな。

天子様が南に出立なされたとふきこんできおりました」

先ほどの感謝の念も何処吹く風の如くに変心して、

白蛇神の狡猾な諮りをあざ笑いたくなる。

目の前の住職がそうだ。

いくら、諮り事を企てようとも、こうやって、あっさり暴かれる。

誠と真だけが、立っていく。

これでこそ、筋目だ。

おおきな天の加護を得ていると確信すると、

いっそう、天子様にあえる。これも間違いなくはたせることだと、思えた。


ところが、住職が言う。

「いや・・。その男の言う通り、帝は昨朝、南に向かって御行なされている」

男は事実を告げたに過ぎない。と、いう事になる。

「それでは、やはり・・」

勝源の加護にはせ参じた神の使いという事になる。

「いや・・」

住職は自分の勘を信じたい。

と、いうよりも、その男が真にこの男を加護するものであれば、

不審を抱く住職をもってしてわざわざ、この場に遭遇させるが、おかしい。

神はかりの物事は神子の如き男が現れたことでなく、

住職がこの場に立ち会ってしまった事にある気がする。

「貴方は帝に会いに行かれるつもりなのですよね?」

邪気を感じる男は帝の御行を伝える。

これは、目の前の男の目的に一致する。

住職も、勘が狂うたかと、引き下がろうとするが、

我が心の内が、どこか、なぜか、しっくりこない。

「貴方は、一刻も急ぎ、帝を追いかけようとなされておると

見受けましたが・・・」

言いながら我が言葉に、はっとするものがある。

帝を追いかけさせるが・・その男の企てなのかもしれない。

「どうにも、気になっていけません。

一刻を争う所を呼び止めた上に、遅くなるついでといっては、なんですが、

貴方が男から話を聞かなければどうされていたか?

一度、その通りにうごいてみてもらえませんか?

それで、何も変わらなければそれで良し。

そうでない場合があるような気がして、ひどく気がせいてしかたがないのです」

住職の不安は的を得ている。

事実、行けば判る事が青陵殿で待っている。

だが、人の身でしかない勝源に判るはずもない。

かろうじて、徳の厚い住職を伝手に勝源への神はかりである。

そして、青陵殿へいけば、

勝源の到着を祈り、神はかりをおこさせた人物と逢えるのである。


その勝源は・・、先ほどの男から感じた印象と

目の前の住職から受ける印象とを量りなおしていた。

すくなくとも、目の前の住職は暖かく、勝源を親身に案じている。

目を瞑れば、住職の姿が柔らかな日向の黄ない色に重なる。

先の男・・・。

薄もやの朝霧の冷たさが勝源の肌に乗る錯覚さえ覚え、

清廉潔白な白とは程遠い、おぼろの霧のようにぼやけてかすみ、

男の正体をひた隠すような曖昧な白である。

住職さながら、勝源も自分を信じる。

「あいわかりました」


勝源の応諾に深く頭を下げた住職が顔を上げた時、

もうそこには勝源の姿はなかった。

青陵殿を目指し寺社の門を抜ける勝源の背に

黒き龍の影がみえた。

その影により勝源が黒龍の加護を受けていると知らされると

住職はいっそう、安堵と確信をもった。

なぜならば、

青陵殿の元々のあざなが青龍殿であったから。

代々の帝は、天文敦煌を習得した陰陽師を抱えている。

この陰陽師の守護神が青龍で、難波津に遷都したのも

青龍からの啓示があったと伝え聞く。

都の守護、あるいは、帝の守護を奉じる青龍であるが、

古の都の頃から、四神への信奉は厚く

特に青龍は天地を結ぶ神として崇められる。

一節に青龍がその手に持つ宝玉は人の魂とも

人の世の誠を映しだすともいわれる。

青陵殿の屋根には龍を象る瓦が掲げられ

いっそう、青龍の加護を象徴していた。

その龍と同じ・・黒い龍もまた、多く、水神として崇められ

事実、住職の眼前の御手洗の水盤にも、丹念な黒龍が掘り込まれている。

青龍と



弟というには、格が違う神であるが、

人の世の和をたっとぶ神であることに違いは無い。

黒き神が正体をみせ、その姿で先の神子が黒き神とは別のものであると

住職の五感が教える。

黒龍の姿のある御手洗の場所も奇遇であるが、

勝源が龍神の加護のある青陵殿を目指すのも、不思議なえにしである。

「ふむ」

勝源への加護を祈り、住職は御手洗の水神の彫り物にひしゃりと水をかけた。


走りきて、青陵殿、表門。

通称、朱雀門の前で勝源は戸惑う。

来てはみたものの、門番ふたり、無言で相対して起立している。

何をどういえばいいか。

目指す天子様は此処に居らされぬ。

されど、住職の言うとおりが処し方であろう。

迷った言葉をそのままにつたうしかないとずいと門番に近寄った。

門番はただ、たちつくしたまま、ぎろりと勝源に一瞥をわたすだけである。

「天子様に合わせていただきたい」

門番の無言は勝源の願いの無法を説く。

なんの伝もなく、己を明かすものひとつない。

一介の老爺、いや、無礼千万を平気で押すは狂い人と思われたが関の山。

門番はいかにも、暖簾に腕押しの如き、手ごたえがない。

何をいっても、無駄か?

されど、これで、誠に天子様が殿のなかにおわしますれば、

勝源、このまま、ひきさがるだろうか?

否。

神子の言葉を聞かなかったものとして、成し得る事をやってみねば、みえてこない。

勝源はぐうと身をせりだし、門番を押しのけて中に入り込もうとした。

当然、不審な老爺の愚挙を押しとどめる門番ができあがる。

「天子様にお会いして、どうしても、聞いていただかねば成らぬことがある」

老爺の必死の形相を見て取ると門番がかすかに首をかしげた。

気狂いではないように見える。

なれど、不審な者は天子様が此処におられぬを知らぬと見える。

と、ならば、

他国から入ってきた者。

いっそう、身元があやしく、是が非でもおいはらわねばならぬ。

「成らぬ。成らぬ」

老爺をおいはらう語気が荒くなり、警邏棒を握る手にいっそう力がこもる。

「成らぬと、いわれて引き下がれるものなら、元から此処には来ぬわい」

頑として聞く耳持たぬと大言する勝源である。

天子様の門番たる者が力弱き老人のごて口ごときに、力づくで処すわけにもいかず

押し問答の如き、小競り合いがしばらく続いた。

その途中。

「あっ」

と、一方の門番が声を上げた。

上げた声が勝源の耳を奪い、勝源の目の中に映った門番の姿も別の男に代わった。

門の奥、むこうから、祀り装束の男が近寄ってくる。

それが、門番に声をあげさせた元であるようだ。

「白河さま」

寄ってきた男をそう呼ぶと、この老人を何とかしてくださいと言わんばかりの

困憊と哀願の瞳を注ぐ。

「客人だ。失礼のないように・・」

やってきた男にいわれた中身が、門番に意外と困惑を生じさせる。。

そうであるならば、ちゃんと、教えてくださっておけばと、

なじりたくなる思いをかみころして、門番は態度を豹変させた。


白河さまと呼ばれた男に案内されるまま、勝源は青陵殿の客室に通された。

い草の匂いも新しき部屋に渡るための張り出し廊下にさしかかると

男が勝源を振り向いた。

「私は貴方が此処にいらっしゃるのをお待ちしておりました。

道中さぞかし苦労でありましたでしょう」

心底から発する言葉にはねぎらいの情がこもる。

勝源のめどうが此処に来るだけであったならば、勝源の肩も軽くなろう。

が、天子様は此処に居られぬ。

妙な経緯から

住職と己の勘を確かめに来た此処で、祀り装束の男は勝源を待っていたという。

ならば、これが、神子が勝源を邪魔だてした委細につながるのだろう。

「待っていたとおおせになられましたな?」

「いかにも」

厚い戸板の前に立ち止まると男は勝源に中に入れと手招きした。

十畳ほどの部屋の真ん中に猫足の卓がおかれ、

「まずは、ゆっくり、おくつろぎください」

男は勝源に足を伸ばすように勧めると男はわが身の素性を明かしはじめた。

「私は、天皇家に代々、御仕えする陰陽師、白河の筋の者です。

この度、近江の湖上で、神が争い

民、百姓、漁師はもとより、湖の生き物、田畑森林の作物、樹木

あふりにより、甚大な被害を被り、帝はこの報せにとるものも、とりあえず

急遽、伊勢に御行なされたのです」

なんと?

天子様は近江の惨状を知っておいでだった。

されど、

「伊勢?に?」

近江とは真反対である。

勝源の疑問はさもありなんと男が深くうなづいた。

「普段は、伊勢に三種の神器を奉納しております。

これは神代の昔から、天皇家と天が繋がれている証として

天照神を祭る伊勢神宮に奉納されているのですが

これを拝借するに、やはり、帝自ら出むくしかないのです」

「三種の神器・・」


勝源の呟きを目の前に端座した祀り装束の男、白河柳廠がうけとめた。

「八坂瓊曲玉。八咫鏡。草薙剣・・天叢雲剣とも呼ばれておりますが、

八坂瓊曲玉は帝の神意を高めると共に破邪の守護を司ります。

八咫鏡は正邪を映しだします。

この鏡に映しだされたものを、見ることができるのは天意に叶うものだけと聞きます。

そして、

草薙剣。

邪悪な心根を持つものは、たとえ、神であろうと、貫き通す正義の聖剣です」

「すると・・・」

天子様は近江に参られて、黒白の神をさにわ・・あるいは、征伐される心づもりである。

こういうことになるか。

「ふむ」

勝源の悟りを手にとるように見透かすと

「ゆえに、貴方をお待ちもうしておりました。

私の読みのなかに、貴方の来朝は筋の事になっておりました。

帝が近江に登られる法を考えあぐねていた私には

まさに天啓。

あなたが、此処へきた法で、

あふりを落とす神の下をかいくぐり

帝を近江の争いの地に無事にお連れ申すことができる。

こう、かんがえました」

つまり、帝を近江、奥琵琶まで、あないせよ。こういう事になる。

「喜んで・・受け賜わります」

天子様にあいまみえれるか、神々へのさにわを天子様が受けてくださるか。

成るか、成らぬか、どころでない果報に勝源の瞳から雫がぽたりとおちた。

「帝もいそぎ、帰られよう。

本来ならば私が同道するのですが、貴方を待っておりました。

祭壇の前に、そう、ほんの先程まで、貴方の無事と、

帝の無事、祈り奉じていました」

勝源は怪訝な顔をしていたに違いない。

それは、先の門番が思った事に同意である。

『ならば、何故、門番に尋ね来るものがいると教えておかなかったのだろう』

勝源の不可解を読み取ると柳廠はくすりと、笑った。

「天は人の誠を量ります。

誠があらば、道が開けてゆく。

事が事だけに作為や故意をさしはさめませぬ。

故に帝も随身もつけず、お一人で、伊勢にむかっておられるのです」

人の心はむろん、この先さえをも見通す男だからこそ、

言うに言われぬ。

結果がわかった上で動くはたやすい。

それでは、塩が甘い。

甘い誠に天の加勢はよれる。

そして、さらに言えば、帝のさにわも草薙の剣も神々の争いに

役に立たぬ。

役に立たぬところか、草薙の剣にいたっては、琵琶の湖の底に沈む事に相成る。

神々の争いの真の解決は千年先の物事になる。

勝源の誠が今の世の争いを、鎮める事に相成るが

勝源が、いや、ただしくは、勝源の娘が被る宿業がすさまじすぎる。

人の分をすぎ、倫道を外れる法でしか、解決が出来ない。

柳廠は近江の父娘の因縁を解く法を読んだ。

無駄になると思う、天皇の近江への御幸もひとえに千年先への布石。

草薙の剣がこの先の近江の父娘の輪廻転生の宿業を納所する鍵になる。

だが、事が判った人間が理でなく、法で動けば

天は先の運命を読んで現世の渡りに楽を選んだとみなす。

故に柳廠は自然、なるままに任すしかなかった。

どうせ、成る事と誠を尽くさねば定めが変わる。

定めをかわらせぬためにも、

知った上は知ったらしき振る舞いと更に深き誠が要る。

その深い理由もまた、勝源に言うに言われぬことなれば、

苦しい言い訳をしてみせた。


「天子様が随身もつけあそばさず、独り、伊勢にむかわれた・・」

天が加勢を与えるに、天が動くに、そこまで、人の誠と侭を量る・・か。

「もしも、私が門でひきかえしていたら?」

「おそらく、貴方は、帝をおいかけなされたでしょう。

ですが、帝はお一人。

貴方は随身行列をめあてに沿道の人々に尋ね、

随身行列の物々しい大尽など、みかけていないと答えられて、

方丈寺であった男にたばかれたと、ひきかえしてくるでしょう。

そして、改めて、もう一度ここに来て、

どうなされていただろう?」

成らなかった事を仮想してみても、わかるわけが無い。

「帝を朱雀大路のはずれまでお護りして、見送った後に、

私は此処に帰ってきて

貴方が此処に来ることだけを祈り続けていました。

思い一心、それが通じる事だけを信じておりました。

帝もまた、三種の神器を身につけるしかないと判断した裏に

死をも、覚悟なされている。

其れを忘れ無きように。

帝が動くは民を思うがゆえ。

あなたもまた、同じ。

人を思い、娘を思う、その心に天がのる。

帝というものは、天の直系だから、天を動かせるのではないのです。

帝というものは、この国のどこの誰よりも、深く民を思う。

その御心に天が乗るのです。

その深き御心は孤の生き死にを超越しておられる」

勝源の胸に慟哭が沸く。

縁もゆかりもない、民が不幸であるだけで、何の負責もない天子さまが心を砕く。

そして、勝源はきのえの親として、娘のさいわいを願い、そのためであらば、わが身などいらぬと思っている。

だが、それは、親であれば当たり前の心情であろう。

で、あるのに、

親でもない天子様であるのに、その御心は親の如きである。

「帝を近江までお連れ申すためにも、なにも考えず

今はとにかく、体をやすめてください」

慟哭を抑える勝源ににこやかに笑いかけると

「私は帝の無事を祀祈しております。

あなたは、体を休めるがお役。こう考えてください」

再び、説き伏せられて、勝源も今は其れが大事と思わざるを得ない草臥れが体の芯からあがってくるのを意識する。

「お顔の色もすぐれませぬ。

飲まず食わず、寝る間もおしんで、此処にきたのでしょう?

その思い、天はうけとっております。

食事までまだいとまがありますから、まずは・・」

立ち上がると奥の襖をあけた。

四畳ほどの小部屋があり、そこが、寝間である。

押し込みの夜具を自ら敷きのべると、

「さあ」

と、勝源を促した。


泥の眠りから勝源を引きずり起すざわめきがよもやの察知を確かにする。

静かな軋みが勝源の部屋に忍び入り

「帝が帰られた」

柳廠に告げられた。

慌てて、飛び起きた勝源は板戸から漏れさす日の光にしばし、まなこを瞬かせた。

「あまりに、よく、寝入っておいでだったので・・」

そのまま、勝源の草臥れを癒すが良いと柳廠は勝源を捨て置いたようだ。

そのままが翌日になって、朝早く・・帝が帰還された。

伊勢からよっぴて、走らせた馬の荒い息が勝源の耳に届いてくる。

静かな邸内に湧き上がったざわめきよりも野太い馬の息が、帝のせいた思いを語る。

柳廠が踵を返した。

帝の下に参じる柳廠を追いかけ、勝源もしたがった。

「帝は夜通し、馬を走らせ帰還なさったに相違ない」

一刻も早く、近江へ行く。

そんな帝を安全に近江につれもうす大役が今、始まる。

馬の荒い息がまだ、静まらず

全身が汗をほとばしらせ、熱い血潮が葦毛の駿馬の足先にまでめぐり

一昼夜を駆け通した葦毛の躍動が止まった今、

その体からもうもうの湯気がたぎっていた。

そのさまを見るだけでどんなにか、駆けに駆けとおしてきたか、判る。

で、あるのに、

柳廠を見つけた帝は

その傍に付き従った勝源の姿で出立の術がととのっているとみてとると、

「柳廠・・急ぎ・近江にいこうぞ」

これも、伊勢にむかうと同じに性急だった。

帝の命を受けた柳廠は勝源にたずぬる。

「いかに?」

だが、勝源は首を振るしかなかった。

怪訝な顔の柳廠と帝を交互に眺めおえると

勝源はありのままの事実を告げ始めた。

「あふりをやり過ごす刻限は夕刻近く。逆算して、津から船をこぐにしても、

津からでるのは、深夜・・丑三つ時をすぎこしてから・・。

津まで、またも、馬を使えば、猶予があります。

どうぞ・・天子様も・・また・・その駿馬もひととき、体を休めてください」

ちらりと柳廠を見つめた帝が柳廠のうなづきを得した。

「わかった。では?」

「正午を一刻すぎたのちに、ゆっくりと・・」

夜道を走る難儀は勝源もじゅうに承知している。

「あなたは・・無論・・?」

馬は扱えるのだろうと、言下にたずねる柳廠に勝源が微笑んだ。

「裸馬に、神馬に・・童の頃からの倣いです」


伊勢に独り向かった天子様である。

勝源の予測したとおり夜闇の舟にのりこんだのは、

柳廠と天子様・・ふたりだけだった。

伴を連れ立ってみたとて、空にめがけて打ちはなつ弓矢が

争う神の御元に届くはずも無い。

たとえ、届いたとて、それが、神体をつらぬくことはない。

多勢に無勢も烏合の衆。

つれだって、あふりの毒にたたられるだけの徒労。

ましてや、神の域に立ち入れるのは、現人神しかおるまいに、

その天子様が始めから武装の徒士で警護をかためていれば、

神々も聴く耳をかたむけまい。

褒章紙につつんだ鏡を自らの懐に収め、

草薙の剣を背に拝し、勾玉を首に提げると

天子様は夜闇のむこうをこらしみつめたまま、微動だにしなかった。

津を出るときには中空高き月が艪の雫を銀の色に染めるほど冴え渡っていたというのに、

もっと、明るいはずの朝の光は、湖面を叩く艪の雫をにび色に染めただけだった。

陽高く天空最頂に上る頃には、舟のへさきから望む、竹生島があるとおぼしきあたり一面、どんよりと、うすぐもり、硫黄のもやの如きあふりの飛沫が視界が遮り、島の所在さえさだかにみえない。

天空に月かとおもう、日輪の輪がぼんやりうかんでみえる。

「あれが・・・あふり・・・」

思った以上に広範囲に舞い上がり、おちくるあふりに

柳廠の額から、冷たい汗が吹き出る。

「風がよかったのでしょう・・。おもったより、早く・・きてしまった。

しばし・・風が変わりだすまで、ここで、待ちましょう」

あふりが届かぬぎりぎりのきわにて、舟が流されぬように艪をあやつりながら、時を待つ。

右手はるか、長浜の町並みがくっきりと輪郭をきわだたせる。

それが、あふりをあける風の凪の始まりだと勝源が告げると

柳廠は黙想の呈で帝に印綬を結びはじめた。

「あれが・・?」

竹生島のあたりの空の上、大気の淀みがずわりと、動いた気がした。

「おみえになれますか?・・」

柳廠の印綬がそうし始め、帝の目も、神の姿を拾い始めた。


風の凪を待って舟を漕ぎ出したきのえが双神に叫ぶ。

「黒龍・・吾の心さだまりてや。

  白峰・・手を引け・・。

吾の心はお前に・・傾かぬ」

あらん限りの絶叫も神の争いをいさめはしない。

むしろ・・・。

火に油を注ぐだけ。

きのえの姿をみとがめた黒龍に白峰のあざけりがあびせかけられる。

「きのえに庇うてくれと・・いいそえたかや」

嘲笑に屈する黒龍でもない。

嫌な罵倒をあびせかけたくもないが、

白峰のあざけりを押さえつける一言を返してみせる。

「おまえは・・庇うても、もらえなんだの。

お前の意地と執心はきのえの心をくだきもせぬ」

横恋慕の一人相撲でしかないと、

いまさらにみせつけられれば、後は退くしかあるまいと諭すに

「いまさら・・。

きのえがかほどにお前を想う・・

その一途さに魅せられたのが、そも、はじまり。

益々・・気に入った・・」

邪恋でしかないのは、始めから覚悟の上。

いまさら、それが、どうだという。

きのえの更なる覚悟でおめおめ諦めるなら、

始めから・・

「この想い、翻せるものなら、きのえを・・抱きはしない・・」

姑息で卑怯で未練。

それは重に承知。

それでも、大の男がなりふり構わず、きのえを欲する。

その姿こそ思いの塊。

見せ付けるに

退くに退かれぬ思いの丈が絡みつく。

ただ、それだけのために、徒労になりとても、この争いから、退く気は無い。

いや、徒労にさせはしない。

諦め、退くのは黒であり、

惨めな負け犬は自らきのえの元を去る。

未来永劫・・・。

きのえに近づくことを赦さない。

「きのえは・・白峰大社にはいる・・

閨の睦言は女の本音・・

きのえは白峰にすがる・・女。

そうだろう?」

白峰の返しは黒龍にはもっとも、痛い。

手中の珠を穢された悔しさと嫉妬。

己のうかつさ・・・。

そして・・事実。

白峰を呼んだきのえの喘ぎが生々しく蘇ってくる。

「おまえは・・すでに、きのえが白峰のものと知らされて・・

すでに、負けをみとめておろう?」

黒龍との結びも白峰を模索させ、

やがて・・白峰を重ね

白峰に抱かれる幻惑に陶酔するきのえになる。

「それでも・・・お前の思い・・誠としてみせつけるその思い、

もう・・きのえが十分に解している。

もう・・良かろう・・」

この先・・無理にきのえをもぎ取っても

繰り返し見せ付けられる白峰の刻印に黒龍はもがくだけ。

そして、

七日七夜とはいうが・・・。

たぎりを解消するたびにうける苦しみから、

逃げ出すだけになる。

七日七夜・・きのえをもてあそび

あげく、逃げ出す・・。

それこそ、きのえを穢し、貶める行為にすぎない。

「黒・・・傷は浅いうちなら癒える・・・

手を引け・・・」

「たわけ」

口論でおさまる相手で無いからこそ

地にあふりを落とすを構わず、身を呈し争う今になった。

どちらかが、死ぬか

退くか・・

このふたつにひとつしかないに、

いまさら、このたわけの亢奮にのった己もたわけと想う。

「風の凪・・きのえがいま、そこにいる・・

いまだけ・・あふりを散らすな・・」

中空に静止したまま、

愛しいものにあふりの飛沫をとばさぬようにするだけが、

一時の停戦のわけだった。

きのえが立ち去らねば争いの決着がつけられぬとならば、

きのえはずっとそこにいる。

「あまいの・・」

体ごとぶつかってきた白峰に虚をつかれ、

黒龍はともに湖になだれおちた。

水中戦にもちこめば、きのえとて、口を挟めぬ。

きのえから遠くはなれた湖面に落ちた双神はあふりを水にとけこませ

きのえの眼前はるかむこうにあまたの魚が白い腹をみせ、浮び始めていた。

「むだ・・か・・」

争いはどちらか一方をはっきりと選んだところで、おさまるものではない。

むしろ・・・

琵琶の水さえ・・おどろしい様相にかえるてつないをするだけ・・・。

『父さま・・・はよう・・天子様をおつれもうして・・』

祈りは願いになり

願いは祈りに通じる。

いままさに、きのえの父は天子様を琵琶の湖にお連れ申していた。


水しぶきを上げて、双神が琵琶の湖(うみ)におちた。

波がしぶき、勝源の舟をゆらし、柳廠も天子様も舟縁をつかみ、かがみこんだ。

勝源ひとり、舟中にたちて、双神があらそっていた元の空の下をこらしみていた。

きのえの声がかぼそく聞こえる。

争いを止めようと風の凪に争いの下に舟を繰り出しているに違いない。

「黒龍。白峰を必ずや・・討ちや」

きのえの心定まった援勢の声は勝源をいくらか、安堵させていた。

舟の揺れがじんわり静まると勝源の横顔に柳廠がたずねた。

「娘御・・な?」

波間に届いたおなごの声の如何を柳廠は悟っている。

「左様です」

この争いの元凶。

神が子供のように取り合っているものが、この勝源の娘。

「争いを諌めようとしたのでしょう・・が、

おなごの浅知恵。

男が争うということがいかなることか、わかっておらぬ。

目の前のさまで、己の進言ぐらいでは争いが諌まらぬと知りて、

己の心のままを言い放つしかないと、悟ったのでしょう」

己の心を覗き込めば、黒龍への思慕しかない娘は

白蛇神の姦計に卑しめられた。

無垢・・穢れを知らぬ娘の心は歪み

己を責めて、黒龍への思慕さえ振り捨てようとした。

それだけでない。

神の争いの元を己で断ちかけもした。

その娘が今、心のままに黒龍を掴みなおそうとしている。

神と人の結びが邪道であるは、重々承知であるがゆえ

それでも、娘の思いを活かしめたいと思うは・・親の身勝手過ぎるとは想う。

ましてや・・。

この争い・・・あふりのすさまじさ。

万象をまきこんで、それでも、なおかつ

きのえの心を汲んで、望みを叶えて欲しいというは、

親として以上に人として

あまりにも、身勝手すぎるから、勝源は願い出る言葉をなくしていた。

「黒龍が娘御の本意なるやな?

白蛇は邪恋の徒・・

こういう事になるか?」

天子様ははっきりと物を分ける。

色々、複雑な思いがきのえにはあろうが

きのえの心が定まった今、いっそう、簡単に言えばそうなる。


「まずは・・・」

いきなり、征伐もなかろうと、柳廠は帝を促す。

「呼んでみましょう・・」

双神は今、湖の底。

荒縄をなうがごときに組んでほぐれて、組み争いのさなかである。

身を屈め舟板に諸手を着いた柳廠の後ろに天子様が立ち

懐の褒章紙から八咫鏡を取り出すと両手で高く掲げ上げた。

その天子様の前で柳廠はひたすら祈る。

「帝がおわしまする。

ひれ伏し、額づきて、礼を尽くされよ」

天照大神は鏡にて招じる。

素盞嗚尊は剣にて、招じる。

月読尊は勾玉を似て、招じる。

天空の神、三柱をひかえる帝の前に、よもや、姿を現さぬおろかもできはすまい。


柳廠が祈る。

寸刻もせぬうちに波間が割れ、

双神が浮かび上がった。

双神の目にも舟上にたつおのこが

日嗣の皇子であるは八咫鏡をもてる事にて証だておろう。

だが、

額づき、ひれ伏すと思った双神はただ、胡乱気に帝をみつめただけだった。

いや、

見つめるだけで終らず、

「小煩い・・」

「仲裁のつもりならば、無駄だ」

口をそろえて、帝をおおうとする。

「愚か者が・・。日嗣皇子にそのような口をきくは

天照大神への不敬に通じる・・。

天罰・・おそれぬか」

双神は柳廠の憤りを鼻先でわらうだけである。

『なにゆえ?・・なにゆえに・・。

天照大神をも、畏れぬ?』

柳廠の疑念が柳廠に瞠目を招く。

「ふ・・」

柳廠が双神の心奥を読もうとしていると察すると

一層の余裕の笑みをうかべたのが白蛇神だった。

『読むが良いわ・・・』

神と呼ばれるものの奥を読むは、命を削る作業である。

されど・・・。

今、白峰は反古を解いている。

そのおかげで、

普通ならば、柳廠の気がふれてもおかしくないほどの

精神高ぶる作業がやすやすとかなった。

叶ったが、白蛇神を読み量った柳廠は呻くしかなかった。

「な・・なんということを・・」

事の成り行きを見守りながら、艪を操っていた勝源が

柳廠の呻きに不穏を感じ取った。

「柳廠さま?」

帝も青く褪めた柳廠の顔色に動じた。

「柳廠?如何に?」

自分が読み下した事実をどう、告げればいいのか。

それより・・

告げてよいのか・・。

惑心の柳廠とみてとると、勝源はおのれの臍をさらけだすしかなかった。

「お話くだされ。

きのえがことは・・双神の争い静まらねば

我が手で・・。

その覚悟の上で・・天子さまに一縷の望みをかけた・・

それだけの・・分を超えた父娘であると・・判っております・・

ですから・・このうえ、なにをきこうと・・」

促され、柳廠は勝源を見つめ返した。

見つめ返した目で帝を振り返ると

「その白蛇・・・八代神に・・願をかけております」

「八代神?・・・」

己の祖神しか知らぬか、帝は首をかしげ

「願?」

勝源は白峰がかけたという「願の如何」を聞きとがめた。

「八代神は人の世の・・阿吽の時を掌る神・・

ひらたく申せば・・閻魔・・」

「あ?」

言い換えれば、双神のうしろに、閻魔が居る。

「それで・・か」

それで、平気で日嗣皇子を侮蔑し、

仲裁も無駄と豪語した。

「御中主のおわします天界と別区だての地界を牛耳る閻魔は

目の前の異種の類いの神が昇る天空界にすまい、そこで、八代神と呼ばれています。

天空界は天界と人間界の中間に位置し、八代神はそこで、人が生まれる時に魂を差配し、

地界におりて、人が死ぬ時にその魂をさにわします」

柳廠が帝に話すをきく勝源の顔が引きつり、歪み出す。

「その・・・八代神に・・人の魂を差配するという八代神に・・

いったい・・どういう願をかけたという・・」

おぼろげにであるが、想像できる。

その想像・・が当たっていないことを願うしかない勝源である。

「娘御・・を九代後の転生のあかつきに・・

神格にむかえいれ、妻神にする・・・」

「やはり・・・」

魂を差配する八代神に願をかけたというのであれば、

転生の後のきのえをも手中におさめようとするは必定であろう。

だが・・・九代・・後?

千年はかかろうて・・

二代は?

三代は?

これをすておいて、九代後だけ・・?

ありえまい。

この先・・きのえは生まれ変わるたびに、白峰大神の陵辱にさらされ

巫女として生きる・・輪廻転生の定めになる?

「黒龍?おまえ・・もしや、それをも、止めようとして・・

この争いに身を投じたかや?」

黒龍は己をみやった勝源に深く頷いてみせた。

「勝源・・・吾はきのえを人として幸いに生かせしめたかった。

なれど、それを打ち砕いたのが、この白蛇。

人々がどんなにあふりにたたられようとも、まげてはならぬものがある。

たとえ・・八代神が願を招じ入れたとしても・・。

それは、変える事が出来るはずだ。

そのためにも、皇子よ。・・邪魔だて・・なされぬな」

天子様をして、子供のように諭してみたが、

諭された天子様は大きく、頷いた。

「逆賊は・・間違いなく・・その白蛇神なるや。あい、わかった」


湖上に浮かび上がった双神の姿にて、きのえは父、勝源の帰りきたるを悟り

勝源の元へ舟を操りだした。

「おや・・きのえにみつかってしもうた」

争いの決着をつけるためにも、

きのえの介在も今は邪魔でしかない。

「行くぞ」

争いの余波が被らぬ湖の底。

きのえや勝源達がたちいられぬ、湖の底にもぐりて、

今日こそ、決着をつけようという双神の意見があうのを見ていると

あらそわずとも、解決できそうにさえ見える。

だが、双神両雄、お互いに死を決しての争いの覚悟が

良友の如き、意見の一致を見せているに過ぎない。

いまにも、水の底にもぐりこまんとする双神に柳廠が再び待ちをかけた。

「待たれよ。日嗣皇子の御言葉・・聴き申せ」

「いや・・」

無駄だと黒龍が首をふり、勝源を振りかぶった。

「この争いが決着したのち・・吾はきのえを望む」

きのえの臍が固まった以上、勝源に異論はない。

ましてや、きのえの輪廻転生の輪をたちきろうとする黒龍であり、

なおかつ、きのえを人としていかさしめたいという黒龍の決意は

この先、きのえの転生ののちも、白蛇神がしいた因から、

きのえの生まれ変わりを護る因になる。

争いの必定を悟ったのは、勝源だけでなく、柳廠も帝も同等であるが、

それでも、言葉でいさめられぬものかと思うのが、柳廠であり、帝であり、勝源であり、

なによりも、きのえである。

「白蛇神よ。おまえの思いの誠も吾は解す。

なれど、どの世においても、無理は、ひずみを産む。

無理をおしても、勝源の娘御を望む・・その気持ち・・

よほどに、深いと吾も言おう。

されど、されど、歪にもがくは、誰あらん、勝源の娘御ではないか?」

できるなら、その思い静めて、愛するものの心に平安を与えよ。

それこそが、誠の愛ではないか?

帝が説いただすことは、真実であろう。

真実ゆえに白蛇神の顔が歪んだ。

「吾もな・・きのえを苦しめたくは無い。

なれど、この心・・証みせるしかない」

証見せるしかなくなったのは、黒龍の諦めの悪さのせいでしかない。

元々にあれほど、何度もきのえに男として対峙せぬといったのは、

黒龍である。

その黒龍が己の言葉を反古にして、今更、きのえを望むというが

この争いの元でしかない。

己の心見定めぬものの為に

己の心見定めたものが退く必要がどこにあろう。

「されど・・その娘御の心・・白蛇神よ。おまえにあらずば・・」

身を引き、乙女の幸いを祈るが本道であろう?

「おなごの本心は閨のさなか・・」

天子様は清廉潔白で恋も知らずば、おなごも知らず、

褥をともにしたおなごの心の襞がどう変転するか、

委細、想像するも出来ぬと見えた。

「おのれ・・吾を侮辱するは赦すとしても、

勝源の娘御の心の在りようまで、

姑息な手段で、変えようという、おまえの心の何処に誠があろう」

怒り心頭に発する帝をゆくりと、ねめつけて、

白蛇神は口の端に甘い笑いを含んだ。

「肌をあわせてみてこそ、男と女・・この域を解すに、

まだ、青き帝・・何がわかろうて・・」

のう、黒龍・・。

で、なければ、お前ほどの男が身も世も忘れ

前言を翻し、きのえにわが男を知らせようとすまいて・・。

勝源の舟にたどり着き、へさきを寄せ来たきのえを白峰が覗き込んだ。

「きのえ・・黒にいだかれようとも、我が名をよんだであろう」

白峰がかけた言葉に虚をつかれ、

きのえは己の醜態を思い返し、うろたえた。

足下に否定できぬ、きのえの狼狽が勝源の胸に痛みを覚えさせ

黒龍の瞳は、苦々しく、白蛇神をにらみ返していた。

どういう事情でこの、まだ幼さを残す勝源の娘御が

双神の想いに翻弄されることになったのか、判らぬことなれど

哀れに神の領域に生身の人間が触れて

一心取り乱し、我を見失うはしかたがないことであろう。

ましてや、何年も生き越し、閨事の暦は人間の比ではなかろう。

そんなろうたけた男の潤房に、初なおなごを諮りいれ、

それをもってして、誠であるとほざく神がどこにあろう。

帝の怒りははっきりと、征伐の志を固め

一方で勝源は悲しい事実に黒龍に頭を下げるしかなかった。

たとえ、黒龍が白峰を討伐したとしても・・・、

きのえにきざみこまれた白峰の潤房の記憶はけすことができない。

きのえも、心をだに、黒龍に向けるとさだめてみても、

身体に刻み込まれた記憶に斬悔の思いで暮すだけになるやもしれぬ。

その公算が強いと伺われるきのえのうろたえぶりに

いっそう、勝源の顔が上がろうとしなかった。

「勝源・・それでも、我はかまわぬ。

我が欲するはきのえの心・・・。

この先のことは我ときのえで乗り越えること・・気にすな」

勝源に声をかける黒龍を白峰が遮った。

「勝ち越すつもりでいるは、笑止。

なれど、きのえは・・渡さぬ」

その一言が決戦の再開の警鐘である。

再び、波間にもぐり始めた双神に日嗣皇子は背におうた草薙の剣に

手元に手繰り寄せた。

「素盞嗚尊よ。我が心に加勢せよ。

この白蛇神、天照大神をもおそれぬふるまいにて、

天地神道よりはずるるをも、恥とせず、

傍若無人の行いで子女を誘惑し、

狂導を壮語し、天地神明の理をも、覆し、

勝源親子の悲しみも、

単に娘の身を案ずるだけのものなら、まだしもや、

人心万民、万象にあふりのわざわいをもたらすさえも顧みん。

我、天照大神にかわりて、このもの、成敗す」

わが身は勾玉主の月読尊にゆだね

舟板から身をはずませ、大きく振りをつけると、草薙の剣を白蛇神めがけ、なぎつけた。


帝がなぎはらいし草薙の剣は帝の手を離れ

確かに白蛇神の眉間に突き立ったとみえた。

だが、それも束の間。

白峰大神の不敵な笑いが湖上に高く響き、

ずいっと身体をくねらせたその刹那、草薙の剣が白峰の眉間からするりと

滑り落ち、舟上より見守る勝源達があっと声をあげる間に

白峰が身体をゆすりて、つくられた波しぶきの中に落ちていった。

「あ・・・」

よもや、聖なる剣さえはねかえすとは柳廠以外、予想だにしていなかった。

波しぶきの中、草薙剣の刃が銀色の光を弧に螺旋させながら、

もはや、人の手ではどうにもならない深みにおちていった。

事の成り行きは茫然自失の呈をあたえるだけで、

帝も草薙の剣をなくし去ってしまったことに嘆くよりも

白蛇神を討つ手立てさえなく、

勝源の娘御を因縁に飲まさせるしかない定めを突きつけられていた。

「柳廠・・」

帝はどうにか、ならぬかと柳廠を振り返った。

柳廠はただ、ひたすら、念じていた。

『黒龍・・・草薙の剣・・・おまえが拾い上げよ』

黒龍と呟く柳廠に帝は黒龍が一縷の望みになったのだと考えた。

白蛇神が波の間にもぐりこみ出すと黒龍も後をおった。

「黒龍・・必ずや・・白蛇をば、成敗せよ・・」

祈りという加勢を

念という加護を、黒龍にささげるしかない。

「柳廠・・急ぎ・・禊して、黒龍を奉じようぞ」

帝の考えに柳廠は首を振るしかなかった。

「黒龍に勝ち目がみえませぬ・・。

九代の転生の・・契り。八代神との願掛けが効いて・・います・・」

つまり、それは、

白蛇神が願を成就させるか、どうかだけを、八代神が見定めるという事である。

願をかけた以上、白峰大神の身の保全は図られる。

九代・・・およそ・・一千年。

この時まで、白峰大神が心変えずに居れば、勝源の娘御を妻神に直す。

もしも、途中で、白峰大神が変心したら、八代神が白峰大神を握りつぶす。

白峰大神を成敗するものは、白峰大神自らの心の在り様でしかなく、

さにわできるものは、八代神だけである。

己の存在をかけ、一千年の時を賭けて、勝源の娘御をのぞむ白峰大神の誠を量るためにも、

八代神は白峰大神の身を護る。

それが、草薙の剣が白峰に立たなかった理由である。

「そ・・それでは・・・黒龍とて・・白蛇神を・・討つことができない?」

「お察しの通りです。黒龍が・・白蛇神を討つ事ができるとしたら、それは、一千年のち・・」

それでも・・へたをすれば、黒龍のほうが、命たたれるやもしれぬ。

命たたれねば・・・この争い・・一千年でも・・続く?

さすれば・・琵琶の湖は?

近江の民は?

この地は?

あふり・・で、滅びさるだけ?

そんな馬鹿なあふりをあげさすだけの願かけを八代神が受け入れた?

いや・・。

正しいことであるが・・、

黒龍のその思い、正義でしかないが、それでも、

黒龍が勝源の娘御をあきらめておれば・・・。

この・・あふり・・は・・無かった。

あるいは、あふりの元凶は黒龍・・と・・

八代神がわにいわせれば、そうなる。

そう考えれば・・八代神と白蛇神の立場で見れば

逆賊は・・むしろ、黒龍。

『黒龍・・・おまえの・・命・・きえはてても、白蛇神は結局、勝源の娘を妻神にする。

いっそ、今を退いて・・一千年後のために・・何かしら・・手立てをこうじる・・。

そのほうが・・』

だが、その進言にもはや、耳を貸す黒龍でもない。

命・・たたれるが先か・・。

いや・・。

このあふりが続く様をみれば、黒龍への加護や加勢の祭壇を作るどころか

一刻も早く・・黒龍が討たれることを望みたくなる。

あふりが溶け込んだ湖水をのみこんだ魚が白い腹をみせて、幾多となく浮かび上がった。浮かび上がった魚で双神の居場所がわかるほどである。

「むごい・・」

いっそ、黒龍・・潔く死なん・・。

仁理を外れたものの無法であるのに、おろかにも、仇な想いを沸かせてしまう、むごい様をこれ以上みていては、いけない。

「帝・・何かしら・・手立てがあるやもしれませぬ。

一度は・・勝源の屋敷に・・ひきあげましょう」


白峰大神を追って水中にもぐりこんだ黒龍の胸中には

ひとつの思案がある。

柳廠が推量したように、白峰大神の願はもはや記章になっている。

この争いに勝ち目がないのは、元より覚悟の上であるが

それでも、運命の歯車をひとつ、ずれさせれば、

願という因縁を容れた桶の箍がはずれるやもしれない。

で、なくとも、黒龍を想い暮らしたきのえの真実を思えば

命ひとつかけて、せめて、思い、返して見せてやりたいと想う。

だが、万が一、思いみせるだけのみで、あえなく、死んでしまったら

きのえの運命が発動する。

九代のちに、きのえは白峰大神の妻神になる。

これだけは、赦せない。

赦せるものなら、今、此処で争わず、運命に沿ってゆく。

あるいは、今のきのえを無理やりにでも、妻神にするなら、まだしもといえる。

九代のちのきのえの転生は何も知らないまま、

無理やりでもなく、

己の意識のないまま、木偶のように、白峰大神の処遇になる。

そして、なによりも、もう、きのえは人として、生まれこない。

人をして、妻神に処すに、このような、抜け道があるとは知らなかったが、

それとて、

きのえが本意に白峰の妻神になりたいと願って居ればこそ。

きのえが本意は吾にあり。

その吾をしてさえ、妻神におさめてはいかぬ、

人として生かさしめようと、心をだにくびりころしてきたに、

なんぞ、白峰がきのえの人生を、運命を我が勝手にせねばならぬ。

憤りが八代神に向かいそうになるをふりはらい、

動き出した願をいまさら、ほじくっても、どうにもならねば、

ただ、万が一のため、願の成就を打ち砕く手配だけはせねばならぬと想う。

柳廠が黒龍に念じた「草薙の剣」も、ひとつ。

いずれ、因縁からの解脱を助ける。

もうひとつ。

いや、もう、一人というべきである。

藤汰。

白峰に連れ去られたきのえを案じ、賤ヶ岳に登ろうとして、

あふりにたたられた藤汰。

元々、勝源がきのえの婿にと定めていた親の理を担う男である。

その悉くを打ちこわしたのが、白峰でしかない。

神の敷いた因は神が解き

しかるのちに、

元の定めに戻すしかない。

ただの、白峰の横恋慕であれば、それもせずに、きのえと

共に暮す夢を歩めた。

だが、願が掛かった今、

九代のちの事も図らなければならない。

黒龍が今生、きのえをとりもどせたとして、

そのまま、神のものにしてしまえば、それが、因縁。

繰り返し巻き返し・・神のものになる。

その因縁の歯車をひとつ、入れ替える。

それが、藤汰。

きのえとの七日七夜の理が完遂した暁には、親の理を通らせる。

すなわち、きのえは藤汰の妻になり、人として生きる。

この雛型も歯車のずれ。

九代の成就の刻には、大きなずれをおこす素になる。

千年後には、草薙の剣も白峰を通す。

きのえを真に想う人間がその剣をもつ。

『柳廠・・・藤汰を・・護らせ・・』

柳廠のうしろに立つ青龍が黒龍の願を完遂し、

千年後・・藤汰は長浜の陰陽師・白銅に転生し、青龍を奉じる事になる。

(余話なれど、この千年後の藤汰/白銅の活躍が白蛇抄第三話白峰大神に収められている)


勝源の屋敷に戻るためにきのえの舟を我が舟にゆわえつけ

きのえが乗り移ってくるその様子を、伺い見つめていた。

どこまで、柳廠の話を解したか、わからないが

黒龍のこの先の安否がうかがい知れぬことだけは、聞き及んだはずである。

きのえがなにを思うか。

勝源のきがかりが、勝源の瞳に暗い影を落としていた。

柳廠はきのえと勝源の面差しを黙って見つめていた。

『この娘・・死のうとしている・・』

あふり事の解決のために、白蛇神にその身を殉ずると黒龍につげてみても、

もはや、黒龍も諦めて身を退くことも無い、と、理解している。

かといって、このまま・・生きていれば、白蛇神のもの。

されど、万が一、黒龍が勝ち越したとしても、

多くの被害のうえにきずかれる結びに、のうのうとのることもない。

どちらの神が死んでも、その犠牲のうえでの暮らしも虚ろなものでしかない。

ただ、今の思い。

黒龍への思いとあふりをとどめさすこと。

できうれば、双神の和解。

このみっつ・・。

そのみっつを一挙に解決するが、己の死だとかんがえている。

「娘御よ。八代神の願のなかにおらば、死さえ我が物に成らぬ。

はやまるなというより、死ぬる事もままならぬゆえ・・

なんぞ、法をたぐろう」

やはり、柳廠の見越したとおりである。

「死・・も吾のままになりませぬか・・」

愛するものが死に行くさまをみとどけるしかないのか?

愛するものに死を与えた男のものになるしかないのか?

いったい、あふりはいつまで、続く?

あまたの嘆きと不安がきのえをつかみ、

きのえは舟板に手をついた。

「八代神との願を反古にすることは・・?」

哀れである。

哀れであるが、柳廠は事実のままを告げるしかない。

音にできない否定は柳廠の首を横に振らせた。

「・・・・」

きのえはうずくまったまま、無念の瞳をいまいちど、双神の沈んだあたりにむけた。

あふりが気泡をつくり、浮かび上がった湖上ではじけ出している。

はじけ出した気泡の中から淀んだ蜃気楼のもやがあふれ、

水に溶け込めきれぬあふりのよどみが勝源の舟に近づき始めていた。

「勝源殿・・もはや、ここもあやうい。いそぎ・・」

舟をだせと言われるより先に勝源の手は艪をこぎだしていた。

何ぞ、法をたぐってみても、皆目、術がないとしても、

いま、ここで、あふりの毒にたたられて死んでは、元も子もない。

あふりにおいやられ、舟は、いそぎ、波間をすべりだした。


陸にあがり、やしきまで、ほうほうの呈でにげまどい、

はしりきたる、四人の姿を婆が戸口でてまねきをしていた。

「まずは・・はよう・・屋根の下に・・」

屋敷に入り来ると、柳廠はさまに東の間取りを乞うた。

東間の部屋で端座した柳廠だったが、

これもまた、さまに立ち上がると勝源を呼ぼうた。

「勝源殿・・・藤汰・・という名前・・がうかばされます。

なにものでしょうか?」

「藤汰・・」

その名前に勝源は呻いた。

「なにぞ・・・仔細がおありのようですね?」

柳廠が藤汰の名前をうかばされるにも、なにかしらのわけがあるとおもった勝源であるが、

まずは、その仔細をいわねばなるまい。

「藤汰は私がきのえを娶ってもらおうと決めていた男です」

「と、いう事は・・許嫁・・と?

それは・・すでに決まっていた事ですか?

それとも・・・、勝源殿の腹積もりだけのことですか?」

着物を掴んだ勝源の手がわなわなと震えていた。

「藤汰は、応諾しておりました。日取りも整っていたものですが・・

きのえが・・」

何と言えばよい。

きのえは、親に逆らって、黒龍と情を通わせ、藤汰がことを反古にしていた。

それを白蛇神にひっさらわれた・・。

きのえさえ、勝源のいう事をきいておれば、あるいは、こんな事態なぞなかったやもしれない。

わがまま勝手な娘の立つ瀬なぞ、どこにもない。

だが、すべてをありのままに言うしかない。

「きのえが・・黒龍をば、懸想し・・藤汰がとこに嫁ぐをごてたる間に白峰が・・」

柳廠が辛気に事実を告げ始める勝源をさえぎる。

「いや・・私がききたいのは、そういう事ではなく、

藤汰との婚儀・・これがすでに親の理として発動されていたか、

どうかなのです」

勝源に説明しながら、柳廠は藤汰の名前を浮ばせた元主を探っていた。

「この藤汰の名前を浮ばせたのは、私の護神である、青龍をつたってのことと思えます。

と、なると、おそらくは、黒龍の報せ。

私が類推しますに、これが、親の理より、八代神の願が先立ってしまったなら・・

今・・一度・・・」

今一度、親の理を発動させよというが、黒龍の暗示だとは思う。

思うが今更、親の理を発動させて・・どうなるのか?

わからぬまま、柳廠も口をつくに任せた。

「どういう結果になろうと、今一度・・親の理を通す・・

その結果により、

先の定めに一石投ぜる・・・」

八代神との願のせいで、藤汰と婚儀せよという親の理は白紙にされた。

親の理が通らないどころか、

親の理自体がないのである。

これをあえて、もう一度、なんらかの形で親の理を通させた時

願があける時に親の理が生き返る。

親の理がきのえの転生を因縁から解脱させることができるかもしれない。

と、こういう黒龍の差し金と思える。

つまり・・例えば、黒龍が討たれ、白峰にきのえを差し出すしかなくなっても、

形だけでも、藤汰に嫁取りさせると親の理をしけば、

それが、鉄壁になる。

くずせない理が通る雛型を今、作れといいたいのだと思う。

だが・・その理を通すことができるのだろうか?

「そうであるなら・・親の理になっていたはずです。

ですが・・・、再び・・藤汰に・・いまさら・・きのえを娶らすことはできますまい。

それに・・白蛇神は・・きのえをがんじがらめにするつもりでしょう・・」

「いや・・七日七夜の理から、先は娘御の意志で事が動きます・・」

それでは・・

黒龍が討たれれば当然、きのえは白峰を否定し、藤汰の嫁になるかもしれない・・。

だが、おそらく、ありえぬこと成れど

白峰が討たれれば、黒龍も七日七夜の理ののちに、藤汰にきのえを渡すというか?

だが・・どちらにせよ、玩具のごとく、男と男の間を渡らせられるきのえが哀れである。

「勝源殿・・形だけでも良いと・・つたえきおります。

なんらかのかんがえがあるのでしょうが・・

それよりも、問題の藤汰なるものの意志はいかほどのものでしょう?」

白蛇神に穢され、黒龍の根を含まされ、ぼろぼろになったきのえを

嫁にせよ・・なぞと、どの口がさけていえよう。


その肝心の藤汰であるが、

藤汰は玖珂沼に身を沈めて賊ヶ岳の中腹でうけたあふりの毒を中和させていた。

あふりの毒はいわば、強い酸のようなものである。

この毒を体外へ押し出すために沼に漬かっていた。

イオン化傾向の図式で、体の表面からの浸透圧を利用し、

徐々に中和がすすむ。

体内からは灰汁をすすり、アルカリ物質による、中和を促し

あふりがあたらぬように、屋根囲いをつくり、もう、何日も、沼に漬かっていた。

玖珂沼は落ち葉が体積したはての腐葉土が主な成分であるが、

朽ち葉の堆肥は、かすかなぬくみがあり、これが、中和を一層高進させ、

朽ち葉の活性ガスと腐葉酵素がさせていた中和を促進させていた。

沼に中和能力があると、気がついたのは、藤汰自身である。

あふりの毒におかされ、ほうほうの呈で山をおりた、その途中の玖珂沼が

今まで見た山中の様相と違っていた。

沼の周りの小立はさすがにしなびれ、うなだれていたが、

沼地のなかの雑草は活き活きと、緑の葉をもたげていた。

あふりの毒を中和できると、わかるとはいずるようにして村までたどりつき、

村長に沼に身を沈める算段をはなし、灰汁と屋根をてにいれた。


藤汰の今の様子はこのようなものであるが、

勝源は握った手を見つめながら、

「それでも・・・。藤汰という男はきのえの身を案じ、賊ヶ岳に登った・・。

誠の思いできのえをみてくれる・・」

どれほどこんな男にきのえをあずけたかったであろう・・。

だからこそ、

いまさら、きのえを娶ってくれなぞといえない勝源である。

「だからこそ・・」

勝源の思いが痛々しいほどに響き、

問わず語りに胸のうちがさらけだされてくる。

「だからこそ、黒龍が・・わざに、伝えきているのではありませんか?」

きのえを娶れといわない勝源だからこそ、言わせなければならない。

「今とて、戦いのさ中・・。其れであるのに、伝え来るは、よほど、大事・・。

娘御の今ひと時にこだわっていてはいけない。

形だけでも良いというくらいです。

とにかく、理を発するが因縁を解く鍵になるのでは?」

「う・・む」

不可解なまま、勝源はうなづくしかない。

いっぽう、

腑に落ちぬ伝えが黒龍からだと聞かされたきのえの胸中には

小さな得心がある。

黒龍はきのえへの思いを明かすためだけに、戦い、そして、敗れる。

敗れ去った後に白峰大神の願をどこかで、回避し、

成就を覆そうとしている。

だが・・・。

それは・・間違いなく黒龍が死ぬ。

この身、黒龍と共にというても、どうにもならず、

この身、白蛇と共にいうても、やはり、黒龍は死ぬるまで戦う。

きのえを欲しがるものはふたつ。

この身はひとつ・・。

どうにもならぬ事なれば、いっそう、無理が通らぬをなげくしかなくなり、

「この身・・ふたつ・・あらば・・」

悲しい溜め息とともに、

できるわけもない解決の法がきのえの口からもれた。


「え?」

きのえの言葉を聞きとがめたのは勝源である。

「きのえ・・?

いま、おまえのいうた言葉・・。

それ・・お?え?ああ?」

浮かび上がってきた糸口はじっさい、成ることなのか?

勝源は驚嘆の声をあげながら、

糸口を言葉に戻すために、

その糸口がこよりだした解決法が実行可能のものなのかを

あわて、柳廠にたずねたく、あせれば、いっそう、呂律がたたず、

「柳廠様・・」

勝源が正した言葉のあとに、何が続くかと

柳廠も勝源の話の順序立てを待った。


「八代神と話すことはできますまいか?」

勝源は何を考えているのか?

柳廠は言葉を返すをためらった。

八代神を呼び出すことはできぬことではない。

だが、神が掛けた願は覆せない。

あたら、この事実を確認するため、八代神を呼べば、

呼んだ分だけ、言葉になった分だけ、定めはいっそう深く刻印される。

だが、柳廠も再三言い募っている。

願は覆せないと。

そのことは、勝源も不承なれど、得心しているはずである。

それをあえて、八代神に直に話す・・とは?

「勝源殿?何をお考えです?」

柳廠の問いに勝源の瞳は柳廠のまなざしからにげた。

「八代神・・に・・」

直接、話したい。と、こういう事らしい。

だが、それは、柳廠に先に話せば、柳廠が反対して、

八代神をよばないと言い出すと考えているように見える。

「私に話せない・・と、おっしゃってる・・のですね?

それは、私が聴けば、反対する・・ような事だからですか?」

柳廠の言う通りである。

だが、

「天子様のお言葉も通じない。

草薙の剣も刃が立たない。

争いは四方を巻き込み、

黒龍は死・・ぬか・・

きのえの運命は白峰に操られ、

この先、輪廻転生の度に・愛するものとの仲を裂かれ、

愛するものを目の前でなくす・・。

この因果が今・・埋められている。

どこか、どれか、ひとつでも、どうにか、せねば・・・」

運命の歯車は回り続けるだけ。

「どうにか・すると・・いっても・・」

いったい、勝源はなにを思いついたというのか?

話そうとしない勝源の心奥を読むしかない。

「話してくださりませぬか?」

勝源に言葉の上っ面だけを合わせながら、柳廠は勝源の心を読んだ。

勝源の奥をそ知らぬ顔で読み下すことが出来ず、柳廠は唸った。

「勝源殿・・それは・・」

まさしく邪道といってもいい。

禁術といってもいい。

人には人の分がある。

その昔・・お日様を呼び返した男の話があったが、まさに今の勝源がそうである。

柳廠が勝源を読んだと判ると、勝源は辛気に言葉を足して言った。

「うつ術もない今・・こう・・する以外・・ないでしょう」

「勝源殿は・・・それで・・」

宜しいのですか?と、たずねてみても、

勝源の言うとおり他になんの方法もない。

「きのえに・・せめて・・今生・・幸せな夢をみせてやりたい・・

それが・・本音かもしれません・・」

そして・・それが、せめても勝源がきのえに渡せる因果。

愛するものと結ばれる。

この因果を敷くと

愛するものを失う。

この因果を敷くと・・・。

この先の運命の変転はここで、分岐できるものなのかもしれない。

「わかりました。八代神がおりてくるか、どうか・・。

それも、定かではありませんが、

八代神が勝源殿の願いを受けるか、どうかも・・わかりません。

ですが・・。

やってみましょう」


勝源の奥底をみきわめ、八代神を呼ぶといってはみたものの、まだ、問題は有る。

相手は八代神である。

地界の統括者である。

この統括者をよぶには・・・。

柳廠は帝を見つめ返した。

柳廠の瞳の色を悟ると帝は頷いた。

「神おろしであろう?よりしろが要るのだろう」

低級な生霊や、神、狐狸の類いなら、誰が神おろしの台になっても

降りてこよう。

だが、相手は地界の統括者、閻魔ともいう八代神である。

凡庸な台では、神の気にふれて、気が狂う。

尚且つ、位の高い神であらば、なお、凡庸な台には、おりてこない。

天照大神。

素盞嗚尊。

月読尊。

三柱の天の神を後ろに控える日嗣皇子ならば、

神の位と同位である。

日嗣皇子を八代神の台にすえられれば、

気も触れず

八代神もいやがおうでも下りてくるしかない。

だが、よりしろという巫女の如き、扱いを帝に呈すは、

柳廠にとって、苦痛以外のなにものでもない。

「帝・・」

これまでに、柳廠の陰陽の術を見てきている帝でもある、

よりしろに叶う人間が自分しかないと判る帝でもある。

柳廠の心を察っすると、天子様は自らよりしろになるとおおせられた。

「柳廠・・。かまわぬ。

勝源を救うてやれもせず、

争いも止められず、

娘御を定めの中にのみこますしかないのかと、

吾も情けなく、ふがいなく、思っていた。

勝源の苦しみ、思うてみれば、

よりしろになるくらい・・簡単なことだ」

神代から伝わる草薙の剣も失せ、

天子様への転嫁がどう現れてくるか、この先のわが身の不安ひとつも省みず

天子さまはただただ、勝源の心痛だけをおもんばかっていた。

「私が・・お連れもうさなければ・・」

草薙の剣をなくす事もなかったといいかけた勝源に

天子様はゆるりと微笑んだ。

「勝源に呼ばれる前から、ここに来ると決めていた。

それに、なにかしらの案は勝源だからこそ、沸くものであろう?

私が此処に来るようにしむけられた本当の理由は

よりしろになるがためだったかもしれない。

そう考えれば、草薙の剣が湖に落ちたのも

なにか、人智でははかりしれない神のはからいがあるやもしれぬ。

成るにまかせてみる事で、開けてゆく時もある」

まさに因縁通り越すの基本理念が此処で言霊となり、勝源やきのえ達の魂に刻み込まれ

千年のちに発動されてゆくのであるが、それは後の話。

「成るに任せる・・・」

勝源のしようとしていることは、成るに任せぬ事であろう。

だが、直接、手をくだすは白峰大神であったとしても、

神殺しの片棒を担ぐ・・この責苛を負ったわが身はまだしも、

きのえの魂に刻まれる大罪は、白峰大神の妻になれば、帳消しになるものだろうか?

ありえない。

どんなに、八代神との願が後ろ盾にあるにしろ、

負荷はいずれ、どこかで、拭わされる。

まして・・、八代神・・

龍神を葬り去ってまで、願を通そうとする、得手勝手に目を瞑る?

どういう腹づもりでいるのか、これも、

聞きただしたい。

成るに任せるに、程遠く、人の分際を越えた行いであるも、重に承知であるが、

今はただただ、平穏な琵琶の湖を、平安な人々の暮らしを取り戻さねばならない。

『思いのまま・・に、任せるも・・又・・成るに任せる・・の一縁やもしれぬ』


「それでは・・」

柳廠が六芒星を調えようと、辺りを見渡した。

護摩を焚くための焚器も要る。

懐には御幣を忍ばせてきていた。

勝源ときのえと柳廠で上三角の頂点にたち、

護摩を人型にかえるとし、

六芒星は、本来ならば、天地遮る物がない場がいい。

だが、あふりの災いを考慮すると、

六芒星の敷き場所は・・屋敷の中の土間を使う以外ない。

柳廠に算がたつと土間に降り立った。

「ここで・・」

と、六芒星を描く位置を帝に告げた時だった。

「それには・・およばぬ・・・」

日嗣皇子自ら台になるというに、

さすがの、八代神も一考したようである。

自らの姿で降り立つと

日嗣皇子に深々と頭をさげた。

「御皇子さまをして、台になどさせては、

天照大神以下、こもごもの神に顔向けできなくなる」

よぼけ、老いさらばえた、か細い身体がはっきりと

柳廠の目の前に出現しても、

それが、先の声の主、八代神であるとは、俄に信じがたく

柳廠はもとより、帝も勝源もきのえも、

老人が八代神であると理解するにしばし、時を要していたが、

納得すると、途端に怒りがわいてくるのが勝源である。

「天子さまを台にするは、己の身がかわゆうて、取りやめにさせたが

きのえが事は己の身を削らすこともなくれば、

神々の私欲を満たすに、投げうるかや!!」

八代神を畏れもせず、詰問した勝源の憤りに

「わしは・・情に脆いのでなあ・・」

八代神はふっと自嘲めいてわらい流すと

「だいの男が身も世もすてて、きのえがほしいという。

その思い・・はるかに黒龍をば、こえておる。

きのえさえ、その意に沿えば・・果報でしかない」

「おのれ・・。よくも、そんな口がきけたものだ。

きのえの心はどうなる?

きのえが心をば、顧みてやれぬほどに・・瑣末でしかないというか?」

勝源の罵詈をはすかいにかわす八代神だったが、

おおきな溜め息をついた。

「いわぬが花ということもあろうて、

わしもいわぬですましたかったがの・・。

勝源・・それをいうなら、わしもいわざるをえない」

八代神の思惑のうしろになんぞある。

八代神の含めた物言いに勝源も乗りかかるしかない。

「何を言うというか?」

「勝源・・おまえとて、きのえの心顧みず

藤汰がとこに嫁がせようとしていたでないか?

そのおまえになんぞ、わしをなじる権利があろうや?」

なんだと?

八代神の言い分にいっそう、勝源の怒りがわく。

「馬鹿をいうでないわ!!

吾はきのえの親じゃ。きのえの親がきのえの嫁ぎ先を決めようとするが

どこが、まちごうておる!!」

「まちごうておるよ」

勝源の無知でしかない。

無知から湧き上がる暴言は赦すしかない。

無知をしらせて、なおかつ、暴言を吐かば、問題は別であるが・・・。

「勝源・・は肉体の親じゃ。

血の親じゃ。

わしは、その肉体という入れ物に魂を吹き込んでやる。

それが、お役じゃ。

すなわち、わしは、魂の親じゃからな・・」

「え?」

思ってもいない事実を告げられた勝源には言葉がでない。

「魂を差配すると、そこの柳廠にいわれなんだか?

わしは、いわば・・おまえの親でもあるに・・

ききわけのない事をいうて、親を困らせるな・・」

なんだと?

なんだと?

親だと?

親さま?

元親さま・・・?

混迷の勝源に一筋見えるものがある。

親さまは、子の必死な願いを聞き届ける。

それが、白峰大神の願。こういう事であろう。

子は親に頼むしかない。

頭を下げてお願いするしかない。

親の気が変わらねば・・元がかわらねば、筋が通ってゆかぬ。

「な・・ならば・・親さまだといわれるならば・・

勝源・・一世一代の願いがあります」

手のひらを返す態度の変換も、きのえが事をおもうばかりで、

勝源の今に、無様も、恥も、なかった。

そして、願い出るしかないと思った今

八代神が最初に言った

情に脆いが意味する心理がみえた。

白峰の暴挙を赦した理由でなく、

勝源に子として、八代神の情に訴えて来いと暗喩してみせたのである。


「きのえをば、元とおり・・。藤汰がとこに・・」

これが、黒龍に示唆された、親のそもはじめの理である。

だが・・・。

八代神の顔は渋い。

「勝源・・・。それは・・元親のわしが、反古にしてしもうておる。

きのえが、白峰のものになる願はもはや、定め。

元に戻らすに・・元がもう、違うてしまうておる」

勝源の苦渋を眺めながら、八代神はきのえに目を向けた。

きのえを見つめる、その八代神の瞳から、勝源に暗じる腹蔵が勝源に沸いてきた。

『定めを変えず・・抜ける道はきのえ・・が、言うた事・・しか無いと言わるるか・・』

「ならば・・・」

勝源の喉仏がぐびりと蠢いた。

言いたくない、最後の決断。

だが・・、もう、この法しかないと、八代神も暗下に示唆している。

争いを・・いさめるだけの・・法。

八代神とて、魂の親といえど、やはり、黒龍の元親である。

その命。潰したくないは、定法であろう。

いずくか、開ける。

黒龍のその伝え。それを頼みに、勝源は喉の奥の塊を吐き出す決意を固めた。

「きのえ・・・の魂をふたつに分け・・

ひとつは、黒龍に・・・。

ひとつ・・は・・白・・峰・・に・・」

何が悲しゅうて、可愛い娘を人身御供の如きに扱い、

物のように、ふたつに・・裂いて・・

分け与えねば成らぬ?

勝源の苦渋が喉を詰まらせ・・滂沱の雫が頬を伝い降りた。

「勝源・・よう・・・言うた」

八代神の手の甲に落ちるものがある。

重々に承知である。

勝源の胸中・・張り裂けんばかりの思いを、

押さえに押さえ・・

ただ、近江の人々の安泰のため、

双神の争いを宥めるための最善の方策。

我が子を渦中に追い落とす勝源の決断がいかに悲しくくるしいものであるか。

八代神は承知である。

定めを変えず・・黒龍を救い・・白峰も譲ることが出来る、解決策は

きのえの来世を大きく、変え、

一人は黒龍の・・元で、幸いに暮らすであろうが・・。

もう、一人は・・白峰の人身御供である。

「き・・のえ・・」

後ろに立ち尽くすきのえをふりむいた勝源に

きのえは、ただ・・それでよいとうなづいて見せた。


「きのえ・・勝源・・まことにまことじゃわのう・・・」

親子の底に流れる思いはただただ、琵琶の海を

近江の人々を護りたい。

そのために、わが身顧みず・・。

「この・・願い・・立ちますか・・?」

大きく頷いた八代神にほっと胸をなでおろす勝源には、

悲しみと安堵がいりまじり、

明暗共有の勝源の表情をかすめみながら、

きのえは、八代神のまえに一歩、進み出た。

「近江の人々は安泰ですね?

双神の争いは終りますね?

黒龍は・・黒龍は・・死にませんね?」

深く頷いた八代神に全てをゆだねるしかない。

悟った娘は喉の奥から沸いてくる嗚咽を堪えるために

固く口を引き結んだ。

『・・そして・・吾は・・・約束通り白峰大社の巫女になる・・

黒龍・・あれが・・今生・・おまえと交わした最後の言葉

最後の・・黒龍・・』

湖にもぐりおちた黒龍よ。

叶わぬ事なれど・・おまえに・・勝ちて欲しかった・・。

胸の中で黒龍に決別を告げるたきのえだった。

「きのえ・・」

愛し子を見つめるまなざしで八代神はきのえをみつめると、

「きのえ・・・。

おまえの・・この先・・あまりに・・悲しい・・」

結句。

白峰の思うまま・・。

「せめて・・今生・・

夢をみせてやろう・・」

勝源ののぞみをすくいとったか、

八代神の恩情か?

きのえの実(じつう)に、うたれたか・・

八代神はきのえの今生だけは、幸いにすると確約してみせた。

「勝源・・いずれ・・元親の理・・通りた時・・

親の理・・復活するやもしれぬぞ・・」

藤汰との縁が再び結ばれる。

それは・・・黒龍が・・きのえの分かち身を手放すという事でしかない。

きのえの一方は・・九代のち、白峰大神の妻。

もう一方は、黒龍のものであろうが・・・。

きのえを人として、生かせしめたいと唸った黒龍が、

伝えてきたとおり・・

親の思いを汲んで、おそらく・・・来来世には、きのえの分かち身は

藤汰にゆだねられる。

黒龍は・・そこまで・・勝源の思いを・・・おし量った。

親が選んだ婿ほど、幸いにもっとも近く、もっとも、きのえにふさわしい。

ただただ、きのえのさいわいを願う黒龍だから、

すでに、この分ち身の解決を見越していたのかもしれない。

「父さま・・」

悲しい決別を固めたきのえにとって、今更に来世も今生もなく、

伏せた瞳の隙間から、八代神が消え行くをみていた。


今生・・の、夢・・とは、いかなる事になるのか、

思いはせるより、深い悲しみが親子を包んでいた。


八代神が消え去るや、いなや、柳廠は屋敷の外へととびだした。

柳廠の挙動につられ、天子様も勝源親子も外へ飛び出していった。

柳廠が手を翳し見つめるはるか、琵琶の海の沖に、

まばゆい光の珠が伸び上がり天地一条にたちあがると、

二つの光の珠が線状に伸びた光の塔に沿って、螺旋を描きながら

空に向かって登っていった。

「八代神が・・双神を天空界に連れ戻している・・」

何をどう、話したか、人の身が介在すべき事ではないし、

介在できる域でもない。

『黒龍・・』

まばゆく蒼い光が黒龍。

きのえには、判る。

『黒龍・・』

さらばといえば、もう、二度とあいまみえぬ事を

確約するようで、きのえは・・ただ、ただ、祈った。

『いつか・・・』

いつか、いつか・・・どこかで・・・

再び会える。

きのえの来世の分かち身の一方は、白峰のものかもしれぬが・・

もう、一方は、黒龍のもの。

せめて・・それだけが・・救い。

来世には、今のきのえの記憶など、なにひとつなかろう。

黒龍と結ばれるさいわいの深さも知らないかわりに、

白峰とえにしを結ぶ宿命の結末も知らず・・

あるいは、白峰に心をときめかす一方になりえているやも知れぬ。

いまのきのえの悲しみを継ぐことはないだろう。

それで、いいのだろう。

苦しむのも、悲しむのも・・きのえひとり。

それでいい。


双神が天空界にのぼりきると、光の塔がきえ、

どんよりと垂れ下がった雲にすきまができ、

あたりに、柔らかな陽光が輝返され始めた。

「浄化・・・がはじまっています・・」

あふりの毒が拭い去られ、中和され

どんよりと、あつぼったい雲がちぎれだし、

塵が砕ける如く、雲が霧散していくと、

湖の上空から、陽のひかりが、あふれはじめた。

「終息です・・」

何もかも、終息したとはいえないが、双神の争いはいさめられ

琵琶の海に、近江の地に平和が戻ってくる。

なにもかもをせおいたった、きのえという幼さを残す娘御に

かける慰めの言葉も

励ましの言葉もみつけられず、柳廠は

屋敷に戻り、しばしの睡眠を提案するしかなかった。

眠りだけが、悲しみと、張り詰めた精神を、いくばくか癒すことができるから。

柳廠の提示にしたがって、勝源は黒龍が昇りきった空の一角を見つめ続ける

きのえを呼んだ。

「きのえ・・・屋敷に戻ろう」


泥の眠りに落ちるは、ひとまずの、解決を得た安堵がなせるわざであろう。

勝源の屋敷に戻った四人は、婆さまがしきつらねた床にもぐりこむと、

あとは、食事はどうするのだと問いかける婆さまの声も遠くにかすんでいった。


何刻、寝入ったことやら、

定かではないが、勝源は、ふと、目が覚めた。

傍の布団の中に柳廠も、天子様も寝入っている。

夢などでなく、

本当に双神の争いに終止符が打たれたのだと勝源は

改めて、外にで、琵琶の海の上空をにらみつけてみた。

そこには、

神の姿はない。

あふりが、舞い狂う澱みもみえない。

穏やかに晴れた青空も、澄んで高い。

どうやら、朝ぼらけのさまであるなと、勝源は頭をかきながら、

それでも、まだ、寝入っている天子様と柳廠を起さぬように

足音を忍ばせて、屋敷内にはいりこむと、

きのえの寝間をのぞいてみようと思った。

双神の争いは終止符をうったが、

終焉と引き換えにきのえの宿命がはじまってゆく。

黒龍との決別・・。

白峰大社の巫女になるしかないのだろう。

きのえは、どんな思いで・・いるだろう。

つかの間の安息という眠りに浸ることが、できたのだろうか?

できたとすれば、それが、きのえの、最後の平和・・になったということ・・。

だが・・。

本当にこれで、おわるというのだろうか?

だいいち、黒龍は、七日七夜の理を完遂していない。

黒龍が・・再び、きのえの元を訪れれば、

白峰が邪魔だてをし、またも、黒龍が・・あふりをあげるのか?

それとも・・・?

八代神がいった、夢を見せてやるは、

白蛇神の邪魔立てを介させず、すんなりと、黒龍の七日七夜の理を

完遂・・させてやるという事か?

それも・・また、きのえが哀れである。

諦めたものに、再びの別れを呼び寄せるだけの情交は、

深く、苦しい、思い出を、刻むだけ。

「きのえ・・?起きておるかや・・?」

板戸をあけて、きのえの寝間をそっと、伺った勝源の身体が

硬く、固まってゆく。

「きのえ?」

寝間に居る筈のきのえの姿がない。

勝源のように?

琵琶の海の争いがのうなったを確かめにいった?

ならば、

そこで、きのえにあおう?

勝源はきのえの布団の中に手を差し伸べてみた。

今しがた、ぬけだしたとほど遠い・・ひややかさが、

冷たく刺すような、白峰大神を思い起こさせる。

「ま?またも・・さらっていったというのか?」

ありえない。

八代神との確約がある以上、白峰も愚行に、はしるまい。

と、なると?

黒龍が?

いや?

きのえが・・黒龍の所へ?

『洞の祠に行ったか?』

無念を忍ぶだけになるに・・。

黒龍ももう、居らぬだろうし、

降りてくることもなかろうに?

それとも、八代神のはからい?

洞の祠に、行こうか、行くまいか、まよってみたが、

やはり、きのえの無事だけは、たしかめねばならない。

と、

ふたたび、外へ飛び出した勝源をみつけた、ひとりの村人が声をかけた。


「きのえは・・まだ、かえってこぬかや?」

虚をつかれたといって、良い。

何故、きのえが居らぬをこの男が知っているのだ?

きのえ・・が屋敷から、でてゆくのを見たという事か?

双神の争いに終止符がうたれたさまは、この男にも、見えていたと、いう事か?

争いの終ったあと、あふりがおちこらぬを知った男は、

外にでて、野良仕事でも、しておるところにでも・・

きのえがどこかに行くをみたというか?

「きのえ・・を、見かけたかや?」

刹那に男をおしはかりて、尋ねた勝源の問いに

男のほうが怪訝な顔になった。

「何を言うておるか・・。

きのう、きのえがおらぬようになったと大騒ぎしたおまえに、

藤汰がとこにいったのではないかと、いったのは、わしのほうじゃ。

その時にも、わしは、知らぬというたでないか?

同じ事を・・たずぬる・・んん?

勝源・・おまえ、きのえかわいさで、ぼけてきおるな?

藤汰がとこに、くれてやらねばならぬに、はよう・・、諦めて・・・」

「おまえ・・・?」

何も知らぬわけがない。

きのえを取り合って、双神が争いを起していたのだから、

きのえもまた、双神の辱をうけているのだから、

いまさら、藤汰にさしだせる娘でなくなっている。

それとも?

勝源に兆すものがある。

黒龍が再三、念をおした、

―藤汰がとこに、きのえをやるという、親の理を発動させよ―

それを、いわさしめるための・・

黒龍の使いか?

「黒龍・・きのえは、藤汰がとこにやる」

またも、男の顔が大きくゆがんだ。

「黒龍?

勝源?なんのことぞ?

水神さまに願をかけてまで、藤汰がとこにやらねば、

嫁に出すにだせない、

そうまで、だしたくないか?」

勝源を軽く揶揄する男だが、

たわけを言うて勝源をからかっているようにはみえない。

「なにをいうておる?

双神があらそいて・・わしは、天子様をおつれもうすと、

おまえにいいおいて・・」

男の顔が呆れ顔から、心底、勝源を案ずるものになると、

「勝源?おまえ・・?

大丈夫か?

きのえがおらぬようになったというて、頭がおかしゅうなったか?」

「なに?」

「そうしん・・が争うている?

それは、なんのことじゃ?

天子様を呼んだ?

勝源・・おまえ・・」

ほとほと、あきれはてた狂いだと、おおきな、ため息をつく。

「藤汰がとこに・・嫁にださば、来年には、おまえも爺やになろうに・・

しっかりせねば・・」

真顔で案ずる男に

むしろ、勝源も自分が不安になってきていた。

『わしは?

夢でもみていたのか?

天子様をおつれもうした夢、

双神が争う夢?

ばかな・・』

馬鹿でない証拠は屋敷に居る柳廠と天子様である。

だが、目の前の男は朴訥ゆえに、

いっそう、嘘などつく男でない。

だが、この男に天子様をお連れもうすといいおいた。

この男に双神がきのえを取り合っているといった。

なのに、この男は知らぬさまを呈す。

男と勝源の言い分があまりにも、食い違い

つじつまの合わぬ異様さが、勝源に畏れを感じさせていた。

「もう・・よい」

どういうわけか、判らぬが、なにかが・・変わっている。

これは、八代神のしわざなのであろうか?

勝源は屋敷に戻り、柳廠にたずねみようと考え、踵をかえした。


屋敷に戻った勝源であるが、

神を相手にどれだけの疲労困憊があろうとおもわば、

柳廠を起すに忍びないとやはり、足音を忍ばせ、戸をあけたてた。

が、

あにはからんや。

かまちの続き間に柳廠が端座していた。

「勝源殿・・なにか・・が、かわっておりますね・・」

柳廠にも、つかめない変化がなんであるか、

勝源はいっそう、首をひねった。

「きのえ・・が・・おりませぬ」

「娘御が?」

「洞の祠にでもいでむいたかと、外にでたれば、

前の時に、きのえが、藤汰のところにいったのではないかと

言うた男がおって・・

それが、双神の争いも知らず・・

おまけに・・」

勝源は男が言ったことを思いなおしてみた。

「腑に落ちないは・・・。

きのえが居らぬようになっていたことをしっておって・・

なおかつ・・昨日・・言うたように・・と・・

あ?」

勝源が気がついたことは柳廠も推し量っていたことだった。

「その通りです・・。

おそらく・・前の時・・。

つまり、

娘御がいなくなった時・・まで、時がまきもどされている・・のでは?」

「時が巻きもどっている?」

「八代神の・・采配でしょう・・」

時がもどっている?

それは・・どういう事になるのだろう?

すくなくとも、今の時点で時が巻き戻ったことをしっているのは、

柳廠と、勝源・・・。

「娘御の定めはかえられぬものなれど・・

今生の夢を見させてやると・・八代神がいいましたな?」

「それが・・これか?」

いったい・・なにが、どうかわるというのであろう?

そして・・今、きのえはやはり、白峰の元にいるということか?

「おなじ・・事のくりかえしにさせぬという事になるのだろうか?」

ぼそりと、呟いた勝源に柳廠は

「おそらく・・」

そういいおくしかできなかった。


相変わらず、きのえは黒龍に背をもたせかけている。

柔らかな後れ毛が黒龍の目に映る。

かぐわしい少女の香にふと黒龍は瞳をとじてしまいそうである。

「あいかわらずだの」

ぬっと現われる白峰もいつもの来客を通り越し二人の友人のごとくである。

黒龍の胸にはぐくまれてゆくきのえへの情愛を見ぬふりをして、

きのえと黒龍の間に立ち入る隙を作ってきた白峰である。

「白峰。することがないかのようじゃの?」

黒龍の元へ来る、三度いや、二度に一度かもしれない。

兎に角、よく、顔を合わせる。

黒龍の唯一の友であるらしいと、考えるときのえも白峰をいやなめでみることもない。

「きのえ」

呼ばれてきのえは白峰をみなおす。

「なんじゃ?」

薄い笑いを下に隠しそっときのえの耳元で小さくたずねる。

「まだ、嫁にしてくれぬか?」

「うん」

頷いたきのえに安堵しながら、白峰はこそりとつぶやく。

「良い法があるのじゃがの」

あくまでも、きのえの味方を演じ、

白峰はきのえが思い余って黒龍を説き落す法を知りたがる事をもくろんでいたのは、

前の時。

このたびは、八代神とのとりきめがある。

「黒に聞かれては、法にならぬに、しりたければ、こそりとわしのところにこや」

「うーーん」

何度かきのえが一人で白峰の元にくるように、さそいをいれた。

だが、其の度にこの長い返事である。

きのえにすれば、法に縋って黒龍を振り向かせるは虚義でしかない。

だから、いつも、考え込む。

黒龍の嫁にしてやるという言葉を聴きたいはやまやまである。

どんなにそう、いわれたいか。

なれど、法ときくと黒龍の真意からではないと、いつもためらわれる。

かといって、ことわるといえぬところが、女心の妙である。

「まあ。よい・・・おまえのこころしだいだ」

「う・・・ん」

黒龍がふりむかぬ限りきのえはいつかしびれをきらして、白峰の元を訪れる。

そこは白峰の聖域である。

何人たりとも、白峰の許しを得ずに入ることは叶わぬ場所である。

その場所にきのえをいりこませ・・・。

前のときは、白峰の心のままにふるまうことができた。

「困っておるんじゃ」

きのえがそっとうちあけはじめた。

黒龍は白峰の側ににじり寄り、なにおかはなしこむきのえをみていたが、

話にくわわらぬほうがよいらしいと、腕を枕に転寝を決め込んだ。

「なにに困っておる?」

「う・・・ん」

いくばくか言い渋るのは言うてもせんないと思わす黒龍の拒絶のせいである。

いくら、黒龍にいうても、きのえを嫁にしてやるとはいわぬ。

それだけならいつものことである。

藤太の所へ行けもいつものことである。

だが、

「ばっさまがいうておるうちはよかったに」

「どうしたという?」

「父さままでが、とうとう・・・」

藤太の所へとつげといいだした。

これを黒龍に言えばいっそう、

「それみたことか」

と、ばかりに黒龍もくちずっぱくきのえを拒絶するだけなら、まだしも、

「もう。ここにきてはいけない」

とまで、いわれそうである。

黒龍に相談してみても、らちがあかぬを通り越し、

きのえの恋の窮地を招く役にしかたたない。

「あんばかたれが:・・・」

黒龍をなじるきのえの瞳から涙が落ちてくる。

『ばかたれだな』

確かに黒龍はきのえのいうとおり、ばかたれだ。

欲して止めさせぬ女子への情に目を瞑るおおばかたれだ。

薄桃色の少女の心を柔らかな肌ごと包む至福に惑わされぬはおおばかたれだ。

思うてみるだけで、喉は飢えにひりつく痛みを知らせ、

この場で少女を抱きよせてしまいたい誘惑に抗うがどんなにくるしいことか。

だが、黒の馬鹿さ加減できのえは黒のものにならずにすんでいる。

このうえもなき、おおばかたれである。

「きのえ。藤太のところへいくはいやか?」

何度も言ってきた事である。

だが、何度言っておっても、心底の思いはきのえをすなおにうなづかせた。

「いやじゃ」

「そうか。ならば、行かぬですます法があるが、どうする?」

白峰の問いにきのえは今度はうなづいた。

「おしえてくるるか?」

「ああ・・」

「明日。おまえがとこにゆく」

そこでこっそり、嫁に行かぬですむ法を教えてくれときのえは自ら白峰に懇願した。

「わかった」


やってきた娘はおずおずと白峰の前に座るともう話は

どうすれば黒龍の嫁になれるかと、いうことになる。

「あれも・・・神といえど男にちがいわない」

きのえがその意味合いをさっしたか、僅かに頬を染めてうなづいてみせた。

「けれど、黒龍はきのえがことを女子とおもうておらぬ」

いくら、黒龍とて、男であっても、きのえを女子と思わぬ男は

男としてきのえに対峙してこない。

「吾はもう、こどもでないに・・・」

いつまでも、そこにきがつかぬふりをしているだけなのか、

それとも、きのえに女子としての魅力が皆無なのか?

「いや、御前は・・子供のまますぎる」

白峰に告げられた言葉の裏に罠がある。

気がつくわけもないきのえは、素直にうなづいてみせた。

「どこが、ままなのじゃ?どこがいかぬのじゃろうか?」

それを正せば良いと、白峰が教えてくれるとひたむきにしんじるのは、

ただただ、黒龍への恋慕がなさせるわざである。

「そうじゃな」

ちりりと胸がひりつかぬでもない。

「おまえは男の心が判らぬ。これがいかぬ」

「男・・・の心?」

しばし考えこんだが、わかるわけがない。

「どういうことじゃ?」

問い返した言葉を白峰は猛りを開放するきっかけにする。

「こういうことじゃ」

きのえの驚きを声にさせることもなく、白峰は若い牝の身体をくみしいた。

「な?なにを?」

「男と云うものが何を望むか、判っておらぬ。黒とて、男ならこうする」

「それは・・」

「いやじゃ」

「いやじゃ」


離してくれと許してくれと懇願しだすきのえの言葉は白峰の耳に届かない。

「どんなに逆らわれ様と、それでも、好いた女子にこうせずにおけぬ。それが男なのだ」

そして、ここから、白峰の策略を以前の結末と大きくかえるいがいない。

「きのえ・・わしからみて、お前がおなごじゃとなればの・・

黒めは・・嫉妬をおぼえ、

そこで、はじめて、己の恋情を知る・・」

「白峰?」

「おまえが、わしに捕われ、なんぞ、悪戯されたと思うだけで、

黒の気はくるいそうになる・・わ」

「白峰・・おまえ・・きのえでなく、黒龍に気がつかせるために?」

「あたりまえだ・・」

ゆっくりと、きのえを放すと、

「おまえの抗いは黒龍にとどいておろう・・

すぐに・・とんでくるわ。

その時にしっかりと、黒龍の心・・みせてもらえる・・だろう・・」

今生・・だけの・・黒龍との結びであるとわかっていても、

きのえを放すは・・いかにも、淋しい。

「きのえ・・」

「うん?」

呼んでみたきのえの瞳は黒龍が駆けつけるを待つ乙女のものである。

来世は・・我が物になるきのえであり、

いずくには、我が妻。

判っていることでは、あるが、やはり、きのえを黒龍に渡すは・・

淋しい。

いっそ、やはり、前のときのように・・この身をきのえにきざみつけてしまおうか・・。

葛藤が恋情に采配をあげるまえに、

「黒・・はやく・・こい」

『このままでは・・・きのえ・・恋しさに・・狂いそうだ・・』

白峰の心の波動ときのえの悲鳴が黒龍に流れ込みだす。

「きのえ?

白?

おまえ?

きのえに・・なにをした?」


まさかとは思う。

八代神が時を戻した元々の理由はきのえがこめた条理。

来世には、魂をふたつにわかちて、きのえの人生を

一方を黒龍に

一方を白峰に

分け与えると定めた。

この条理に応諾するしかなかったのは、きのえの覚悟の深さ。

近江の地を

近江の人々を護るため。

わが身をふりきった、きのえであるから・・・。

たとえ、黒龍が争いに勝っても、きのえは黒龍のもとに戻らない。

おおくの犠牲のうえに培われたさいわいのうえに座れるきのえではない。

だからこそ、わが身ふたつに裂く因縁を記章した。

白峰が・・勝ったとしても、きのえの思いは同じ。

多くの犠牲をかえりみない白峰のものにならざるをえない不幸をあじわいながら、

悲しい思いを刻み付けた魂が転生ののち、またも、白峰の願により、

白峰の手中に収められる。

刻まれた悲しみが白峰をいとい、九代・・そのくりかえしのはて、

最後には、白峰の妻神におさめられる。

こんな、理不尽をまま、指をくわえてみておれる程、

きのえを思うておらねば、

黒龍も争うことも無かった。

結句。

きのえの脱却は魂をふたつにわかつことしかなかった。

悲壮な覚悟をつけたきのえの思いをくみて、

八代神が吾らにきのえの提示した案をしいた。

吾らはそれをうけいれるしかない。

さもなくば、

八代神にその魂ごとにぎりつぶされ、その身は抹消される。


それは、白峰とて、わかっている。

そして、八代神はきのえの覚悟にほだされ、

今生のさいわいを確約した。

それも、白峰はわかっている。


だから、よもや・・である。

だから、まさか・・である。


ありえないことであるが、

ならぬことであるが、

それでも、白峰がきのえをば恋いうる思いまで

なくしたわけではない。

せめてもと、

わずかとも、

きのえの心をつかもうとなにをしでかすか・・。


不安と恐れと嫉妬にさいなまれ

黒龍は韋駄天の如き、疾風をまきおこし

白峰の元に参じていた。


白峰の前に立つ黒龍は呆然の呈である。

きのえは寝転がる白峰の胸に背を預けている。


その昔

その場所は黒龍のものだった。

心たゆとわせ甘えてくれたきのえを

何度も払いのけた自分が招いた結末であるが、

我を失っていてはならぬと、黒龍は

きのえに呼びかけた。

「きのえ・・・」

呼びかけた黒龍の膝が崩れ

薄目をあけた白峰の前でその頭が深く下げられていた。

『白・・・きのえを・・・返してくれ』

黒龍の慟哭がほとばしりそうになる。

ぐっと、喉にあがってくるものをこらえ、

もう一度、きのえを呼んだ。


「きのえ・・・」

黒龍を見据えたきのえの瞳は哀しくも冷ややかである。

「戻ってきてくれ」

黒龍の言葉にかぶりをふるきのえの姿をじっと、見守ることしかできない黒龍の喉は

哀しい苦しみがかくもあると深き痛みを与えていた。

「いやじゃ・・・。

おまえはきのえなどいらぬ」

白峰を振り返るきのえの瞳が柔らかい。


その瞳もかって、全身全霊で己に振り向けられていたものだった。

なにもかも、

なにもかもを、偽った。

人として・・生きこさせてやらねばならぬと・・・

自分の気持を偽った。

それを今更・・・返せ・・もどれ・・と・・・

どれほど、きのえの心を踏みにじった自分であったか、

今更・・言える自分ではないが・・・。


それでも・・・。

「きのえ・・・おまえ・・を」


どういえば良い?

おまえが要る・・・

おまえに居てほしい。

「きのえ・・」

黒龍が求むるままの心を口にのせはじめようとすると、

きのえは白峰の胸の中に顔を埋めた。

「おまえのように・・・

己の心を偽って・・きのえをば、見捨てる男によう・・もどらぬ」

引き結んだ口元の端にこぼれおちる涙がのる。

その涙をみせぬように、きのえは白峰の胸にいっそう顔をうずめ

「きのえがこと・・・まことに想うてくれる・・白の・・」

白のものになる。

地べたにぬかづいた頭の下の手の中で嗚咽をこらえた

黒龍はちぎれ・・・て、雲散霧消していく己の幻影をみた。


きのえの顔に浮ぶ慟哭をみとがめられまいと、

白峰の胸に顔をうづめるきのえの小さな肩がふるえている。

まちがいなく、きのえは己の心を偽ろうとしている。

それは・・・。

黒龍への憤りのせいばかりだろうか?

きのえの思念は過去に戻りながら、

それでも、なおかつ、男と女の一線を越えた白峰への情に差配されるものが魂に刻みつけられてしまっているのだろうか?

いずれ、白峰の妻。


「きのえ・・」

こっちをむいてくれ。

そればかりを祈り、黒龍は再び、

きのえの背に深々と頭をさげた。

土下座の呈が白峰の目に痛い。

あるいは、また、己の姿でしかない黒龍であり、その黒龍から、

今、きのえを奪うは無理でしかない。

おそらく、白峰に抱かれながら

黒龍をおもうきのえができあがるだけ・・・。

その思いがきのえの転生の魂に因を生じさせる。

今、この時の巻き戻しを活かすも殺すも白峰の裁量ひとつ。

きのえの底にうずもる黒龍への恋慕を昇華させ、思いを残させない。

これは必須であろう。

八代神とて、きのえが九代の転生の間に

黒龍への思慕が魂からわきたたされる苦悩をあじあわせたくない。

こう、考えたに違いない。

だから、今、きのえに諦念をかこさせるためにも、このきのえをば、黒龍に渡してやる。

それが、永久にきのえを我が物にするための

あるいは・・・・。

あくぬき・・ということになるのかもしれない。


だが、わが胸に顔を埋めるきのえは、

いかにも、意固地である。

可愛さ余って憎さ百倍とは、よく言われるとおり。

愛すればこそ、

つれなくされた恨みの思いが深くなる。

その恨みこそが、黒龍への恋慕の昇華を阻む。

どうすれば、その恨み・・

恋慕の裏返しと説き伏せて

きのえのかせをはずしてやることができるか・・・。


いずれ・・・我が物。


確実にしきこまれていく因が結実するまで、

幾多の困難はある。


今、一度、黒龍に返すは苦しいことではあるが、全身全霊、我が物に治めきるに、

わずかな、時。

この先・・・九代の繰り返しはどれほど、長いか・・・。


それを思わば大事の前の小事。

この先、黒龍の余波をうけないためにも・・。


わかたれていくきのえの魂に黒龍という沁みをつけないためにも・・・。


「きのえ・・・」

白峰に呼ばれ、きのえの顎は白峰の胸の中で

こくりと頷かれた。


「黒めは、みとめられぬようだ・・」


ずいと手を伸ばしきのえの肩をつかむと、


「おまえがわしを選んだ・・これをまのあたりに見せるしか、術がない・・」


肩においた手をきのえの衿あわせにすべりこますと、


さすがにきのえも白峰の意図を解した。


「ここで、黒めにしらせてやるしかあるまい?」


あまやかな吐息がきのえの条理の紐を解き始める。


『ここで?黒龍の目の前で?』


できるわけがない。


だが、それを断れば黒龍を許すに等しい。


きのえの迷いをみきると白峰は衿あわせの奥深くにその手をさしのべた。


小さなとがりにふれるをうけいれるほどきのえの心はまだ、戸惑っている。


黒龍はきのえを見つめるばかりである。


きのえがつきつけてくる別離の宣言をうけいれるしかないのなら、


目の前で繰り広げられる別れの儀式をみとどけてやるしか、


きのえに返せるものが無い。


目の前の今のきのえの知らぬことなれど、


きのえは、その魂をふたつにわかたれる宿業をせおう。


それも、これも、すべて、己が己を偽ったせい。


その悪業を人間の・・それも、この若きおとめごに、


それも、おのれが、一番愛する大切なきのえにかせた。


その贖罪をぬぐうことなどできはしない。


だから、せめて、きのえがどんな形でも


この黒龍にわたしてくるものをうけとめてやるしか、


きのえの心にこたえてやれなかった自分をわびる術が無い。


覚悟をきめた黒龍が坦々と腰をかがめ、二人の前にて正座に組みなおした。


『逃げ帰ることがなかっただけ・・よしにするか・・。


されど、黒龍・・このごにおよんで、うばいかえそうともせぬかや?』


それでどうする?


白峰との情交を見届けて、それで、どうするや?


きのえのことをそれで、あきらめるか?


黒龍の真意もさながら、己のこの先の運命をしらぬきのえにとって、


黒龍の選択は不可解を通り過ぎ・・


異常の窮みに見えてくる。


『それとも・・黒龍、おまえ・・そういう愛欲の性質かや?


藤汰がとこにいけというたも、そういうことかや?


きのえが、ほかの男に抱かれるをみて・・・』


あとの思いがわいてくれば、いっそう惨めに成る。


白峰の手がきのえの乳房をもみしだきはじめると、


きのえは、その手にわが身をあずけた。


「黒・・血がふきだしておるぞ」


白峰の言葉にきのえは黒龍を振り向いた。


「あ・・・」


黒龍の双のまなこから赤い糸筋がしたたりおちている。


みたくない。


この命はてても、きのえがほかの男の思いをうけとめるところなど、


見たくない。


それでも、黒龍はしっかりと目を見開いて、きのえに対峙するを選んだ。


その苦しみが


目を開けと、己にかした苦しみが赤い泪をしたたらせていた。


「黒龍?」


「きのえ・・おまえの心のまま・・わしは、それをうけとめるしかあるまいて」


未練がましい所作であり、


未練がましい口である。


わかっていても、それでも・・・。


「それでも、それでも、わしはお前が好きじゃ・・。


もう、この心だけはいつわるまいて・・」


赤い泪がいっそうあふれていった。


「黒・・」


心・・偽るまいて?


違う・・心・・を、偽っておるのは、このきのえじゃに・・。


白峰の手をつかみあげると、きのえは白峰の胸にその手を戻した。


きのえをなくした手でわが胸をなで上げると白峰が悲しく微笑んだ。


「行くがよい」


その心、その恋情・・もやしつくして、


遺恨なくし、


来世にこの胸に戻ってくるが良い。


「さらば・・」


ひきぎわのよさだけをみせつけるが、せめてもの


白峰の情愛。


「さらば・・」


ちいさくつぶやいた声がきえぬうちに


早く、この場を逃げ去りたい。


黒龍が覚悟したと同じ思いがこの白峰をうちのめす。


二人の抱擁をみてしまわぬうちに・・


早く・・・・。


白峰がさっていったあとには、


二つの塊が一つの塊にとけあっていた。


時をまきもどした八代神の真意がどこにあるか、わからないまま、


黒龍は1千年先の救いの奇跡への礎石をしいていた。


きのえの心をとりもどした黒龍はしばらくのち、びわの海へ落ちた、草薙の剣をとりにいく。


その剣こそが、


この先の宿業からきのえをすくいとる宝珠になる。


          -終わりー

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