伊勢の姫君   白蛇抄第13話

主膳は今しがたも姫の顔を思い返していた。


伊勢の姫君、かなえ様におうたのは昨年である。


と、言ってももう年が明けようという冬の暮れであった。


新年を迎える日に、二十年振りの奥の間への礼賛がかなう


と、聞かされた主膳の父である総顕は主膳を伊勢に向かわせたのである。



伊勢の藤村是紀が神宮の守であった事もあり、


主膳は年の瀬も押し詰まる日に藤村是紀の元に


守の礼を述べるために立ち寄った。


そこで、是紀の娘であるかなえを見初めたのである。


きりりと引き締まった眼は、是紀の容貌を継いだものであろう。


是紀の顔を女子にするとかくも愛くるしいものになるものだろうか


と、主膳を苦笑させたが、


主膳の瞳はかなえを見詰める為だけの道具に成り代わり、


長浜に帰ってきた今も瞳の奥には、かなえの姿が焼きついていた。


「恋しい・・・」


主膳の胸に沸いてくる想いは詰る所、そういうことであった。


それからと言うもの、主膳は伊勢からの知らせを聞くと、


飛び上がるようにして総顕の前に


「私が参ります」


と、進み出た。


主膳の思いを知ってか知らずか、伊勢の是紀は


あれから、やれ観梅だの桜が咲いたのと事あるごとに、


催し物へ来られよとの知らせをよこす。


主膳も引く手に弓とばかりに、かなえ遭いたさに


是紀の誘いに乗じて馬を走らせるのである。


桜が散り果てると、主膳は藤が咲くのを待ちわびている。


藤村の名通りなのか、あやかって事なのか、


藤村の居室の前に作られた大きな池掘りを囲むように


藤棚がしつらえてあるのを主膳はみている。


いや、見ていただけではない。


「見事でしょうね」


と、藤の咲くのを見てみたいものだと是紀に匂わせている。


藤の誘いがなくとも主膳のほうにはもう咲いたかと


2度3度と伊勢に行く口実が出来ているのである。


一方、是紀のほうの胸のうちはと言うことになる。


昨年の晦日に現れた男のことを是紀はよく覚えていた。


是紀は豪胆さでは右に出る者はいないと言われる程に


名の通った男である。


威圧感を漂わせた是紀が前に座るだけで、


家臣達は身が引き締まるような思いを味わうと言う。


その是紀の前に座ったまま、


主膳は鮮やかな花を見るかのよう至極自然にかなえを見つめていた。


悪びれる事もなく、


臆すこともなく、


是紀という親の前で娘を見つめる若い男の瞳の色がひどく澄んでいる。思いの中に是一つにごった物がない。


物怖じしないと言う事は人の情愛を受けて


大切に育てられた証拠でもある。


素直に慈愛を受け伸びやかに育った若者が、


また人にも慈愛を降り向けられる。


『これは・・・』


思わぬ福の神かも知れぬ。と、是紀は思った。


が、それだけで、かなえを捧げてよいわけはない。


あの瞳の底にあるものは本意であるのだろうか?


ただの育ちのよさのせいでてらいも見せず、


かなえを見ていただけに過ぎない者に


大事な娘をくれてやる馬鹿はいない。


『が・・・良い目じゃ』


それから、主膳の伊勢通いが始まった。


一目見るだけでよい。


かなえへの恋慕が馬を駆けとおさせる。


長浜から伊勢までを馬で駆け通す事が


主馬ともにどんなに酷な事であるか。


なれど旅の疲れ一つ見せず城にあがると主膳はそろりと廻りを見渡す。


お目当ての姫を探すそぶりを是紀は気が付かぬ振りをして、


さりげなくかなえを呼んで茶をもたせる。


是紀の前に座り、主膳は


「遊びに参りました」


と、あっけらかんとした顔でいう。


長浜からここまで遊びに来ましたと言う距離ではない。


真顔で苦もなく言う主膳に噴出しそうになるのを堪えながら、


むこうから茶を持ってきたかなえを手招きする。


左斜めから茶を置かれ、振り向いた主膳の顔が


驚きと喜びを混在させている。


「かなえ様・・手ずから?」


思わぬ近くにいたかなえを見た主膳の瞳が


芳しい者を見る者の物に変わった。


『どうやら・・・本意であるな』


と、思われる。


家同士の繫がりの為に足労をしているのか、


まだ、はっきりとは 掴みきれないのであるが、


かなえのことは好いているらしい。


やや細面で背は高いほうに何とか入る。


細い体の割りに馬をかけとおしてくるのだから偉丈夫な男である。


なによりも見た目よりも肝が据わっている。


胴間声でからからと笑う是紀の様子を窺いながら、


遅ればせに笑いを合わせてくるような奸心な男ではない。


是紀が笑うより先に主膳の方が笑う。


天地清明、一点の曇りのない心は笑いの機微をよく捉え


屈託のない笑い声が、側下にいる者にも楽しげであった。


『いまどきに珍しいほど無垢なお方でありますな』


和やかな性質に魅了されたのか、


かなえの御付である海老名が


こっそりと是紀に耳打ちするほどだったのである。


『かなえ様。かなえ様・・かなえ、かなえ、かなえ・・』


胸の内で恋しい姫の名を繰り返してよべば、


まるで、我が物になったような錯覚にとらわれる。


「ああ」


深いため息をつくと主膳は弓を手に持っていた。


「若さま」


近習の本多伊三郎が慌てて主膳の後を追った。


「若さま。どちらへ?どちらへ参られます?」


主膳は手に持った弓を伊三郎の前に突き出すと


「ちと、腕をならしにいってくる」


弓の稽古を急に始めた主膳の思惑が気になる伊三郎である。


「はい」


供をするつもりの返事を返すと、あっさりと


「ついてこぬでよい」


主膳の肩透かしにおうた。


「は、しかし」


ついてこんでもよいと言われても、伊三郎にも面目もある。


それはそれで伊三郎にはよわりごとでもある。


「私が叱られます」


主膳に食い下がってみた。


「いつまでも、赤子であるまいに・・・」


主膳は苦笑する。


伊三郎は主膳の幼き頃からの従者である。


父の総顕に叱られるというのは伊三郎のいい抜けでしかない。


つまるところは、この年若き、長浜城の嫡男がかわゆくて


仕方のない伊三郎なのである。


だから、片時もお側を離れてはいけない。


私がお守りするのだという思いでこの二十年近く、


主膳の側に仕えていれば、自然とわが孫を見るよりも


あからさまな子ども扱いが拭いきれないのである。


「後を取られる御身。怪我の一つでもあってはもうしわけがたちませぬ」


いつものように主膳を丸め込める言葉を吐いてみた伊三郎である。


だのに、


「父上は私をそんなに粗相者とおもうておられるのかの?」


「ぁ。いや・・けして、そういうことでは」


そうである。若者らしくなってきた主膳である。


そろそろ隠居しても良いかとまで思わせるようになったのか


主膳を総顕のかわりにあちこちと、肩代わりのように


顔をださせるようになっているのである。


「わたしもそろそろ、嫁をもろうても、良い歳になるのであるがの?」


三つ子の守のように主膳について回ろうと言う、


伊三郎をからかったのであるが、伊三郎の方がおおいに悟ってしまった。


さては、若。すいた女子が出来た?


だから、ついてまわる老爺の存在はうっとうしい。


―なるほど―


ゆくりと女子のことをみておりたいか?


鼻の下を伸ばす姿なぞ、みられとうないわの。


―もっともでございましょう―


が、ここが伊三郎である。


そうとわかれば、また要らぬ老婆心ならぬ老爺心がわいてくる。


どこの女子であろう。


いやいや、そんなことより、若は思いをとげられておるのだろうか?


男と女の究極がつまるところ肌を合わせる事であると


判り過ぎている伊三郎には主膳があまりにも純情に見える。


じっと、思いを込めてみつめておらるるだけであろうな。


―ああ。切ない思いをかなえてやりたい―


この伊三郎が替われることならどうにでもしてさしあげように、


なれど、


♪男と女の色恋模様は当のあちきと主さんで見事染めてみささんしょ♪の戯れ歌の文句どおりなのである。


「そうでありましたな」


主膳の嫁を取ってもおかしくないと言う言葉に


おくればせながら伊三郎は言葉尻を合わせた。


もののついでに伊三郎は、


主膳の心のうちに探りを入れてみることにした。


「いわるるとおり、いくつか、嫁とりの話がまいこんでおりますそうな」


「そ、そうなのか?」


主膳が気のなさそうな顔をするものと思い込んでいた伊三郎である。


そこをすかさず、だれぞ城下に思い人でもありますか


と、主膳の腹を割らせてやろうと思っていたのである。


「そ、その中に・・か、かなえという名をき、きかなんだか?」


心持、緊張した面持ちで伊三郎の答えに耳をそばだてる主膳なのである。


「ほう?かなえ様という御名の姫君であらせられますかや?」


「え?」


思わず一心に尋ねるあまりかなえの名を口にしていた主膳である。


「かなえ・・・様というのは?いずこの姫君であらせられましたかな?」


「もう良い」


ひどく顔を赤らめると主膳は弓をとり直した。


と、言う事は、どうやら主膳は本当に弓の稽古に行くだけのようである。


「かなえ様ですな?なにぞ聞き及びましたれば、伊三郎すぐに、若」


「うるさい」


ひどく狼狽する主膳の様子を見ながら、


伊三郎はずいっと主膳の傍らに寄った。


「若さま。女子の事でしたれば、


この伊三郎どんな事でも伝授いたしまするぞ」


子供だ子供だと思っていた主膳の心中に住んだ女子の事も気になるが、


何よりも主膳の思いをかなえてやりたい伊三郎である。


が、


いっぺんに主膳が大人の男であることを伊三郎に認めさせた


その恋こそをかなえてやりたいと言うのは


やはり孫可愛さにさもにたりなのである。


伊三郎に言われた言葉に主膳は


「あ、あほう」


伊三郎をしかりつけた。


そこらの安い女子を抱くような戯れた言葉をかけられただけで


主膳の眼下が微かにびくりと動いた。


穏やかな性格だが腹の底には深い情がある。


その情をうかりと逆なですると


逆なでした自分のうかつさが情けなくなる事がある。


丁度、今の伊三郎の気持ちがそうなのである。


『とんでもない本意であらせられるらしい』


が、それならばなおのことである。


「若。本意なればなおのこと・・・」


伊三郎が言葉を濁した。


本意であらばこそ好いた姫君を間違いなく


若が手中に納めさせてやりたい。


が、伊三郎が言おうとする事は、今の主膳に必要なことであろうか?


「姫様とふたりきりでおうておられるのですか?」


主膳の好意を知らせ姫君も


主膳を憎かれはと思っておらぬ仲なのであるか?と、伊三郎は尋ねた。


「あ。かなえ様は・・・」


またも恋しい姫君の名をぽろりとこぼしながら、主膳は黙った。


かなえ様は、主膳の恋しい気持ちなぞ


つゆ一つも気が付いておらぬ事であろう。


「どうなされましたな?」


「歯痒いことなれど、わしは、かなえ様と二人だけになっても、


なにもいえておらん」


包み隠さず己の心の切なさを伊三郎に問い直してみた主膳である。


「この心、伝えたくもあるが・・もし・・」


一笑に付され取りおうても貰えず、


むしろ心の丈をつとうたばかりに、


かなえ様にさけられることになったら、


と、考えると主膳は恐ろしくていえないのである。


「ふたりきりにならるることがある?」


年頃の男女が一ところで二人きりになる?


それを姫君が許すのであらば、姫の心に主膳はあろう?


単純に伊三郎は考えた。


主膳は茶をたてるかなえ様の細い指を思い出している。


父親の是紀はかなえへの主膳の追慕を知ってか知らずか、


茶の後にそそくさと立ち上がって行く。


「かなえ。主膳殿を・・」


言い残すとなにおかの用事をしに行ってしまう。


忙しいお身体であるのを主膳が行くと煩わせてしまう事は


じゅうじゅう承知であった。


「もうしわけございません」


謝る主膳に、


「何、申し訳ないのはわしのほうじゃ」


と、笑ってみせるのである。


そして、主膳は目指す姫君との馨しいひと時に、


談笑できる喜びに、ひたる。


それだけなのである。


『ふううん?』


伊三郎の脳裏によぎったことである。


主膳は弓を稽古する。


女子は、城下の者などでなく、れっきしとしたどこぞの姫君である。


この所、よく出かけられるところは伊勢の藤村是紀である。


ここまでそろえば、馬鹿でもわかる。


弓の名手である父親のめがねにかなえられたい。


将を射んと欲すれば、先ず馬を射よの言葉どおりであろう?


―なるほど―


「伊勢の姫君であらせられますかや?」


「う・・うむ」


主膳は頷いた。


どうにか成らぬものだろうかというはやる心が溢れている。


「うーーーむう」


伊三郎はうなった。


藤村の愛娘への溺愛は、時折人の口の端に昇るほどのものである。


よほど、主膳を気に入らない限り、


その手中の珠である可愛い娘をくれてやるはずがない。


と、思える。


だが、


そうであればこそ、その是紀の溺愛を逆手に取る事が出来る。


つまり、かなえ様とやらが逆に主膳の所に嫁し越したいと、


是紀にねだる事になれば話はいっとうはやく、けりがつくのである。


だが、だからこそ、


つまるところ、主膳がかなえ様を先んじて


手中に納めれば早いという事である。


と、なると是が非でも話し聞かせねば成らない。


「伊三郎が聞き及ぶ所に寄れば、藤村の許しを得るのは、


たやすうございませんでしょう」


やはり、そうであろうと主膳は俯いた。


「さすれば、あさりと姫君を承諾させた方が成る話だと思いまするが?」


「かなえ様をうんといわせよとか?」


「そういうことでございまするな」


確かにそうであろうと思う主膳ではある。


が、


「どういえば・・よいのだろう?」


どういえば、かなえ様は主膳の婚姻の申し込みに


首をたてにふってくれるのだろうか?


「若。女子には急所がございましてな」


「なんじゃ?」


話が飛び火しているとしか思わない主膳である。


「女子の脆い所を・・若が、責め崩す事がでくれば」


少し主膳は首をひねった。


「どうすればよいという?」


伊三郎の言うとおりにすれば


かなえ様は主膳の妻になってくれるというのだろうか?


一縷の紐にすがる恋する男の真剣なまなざしが、伊三郎を刺している。


「若。心しておききくだされ」


かなえ様の手が茶筅を廻していた。


「どうぞ」


主膳の前に茶の器をが差し出されると、


主膳はほううううとためいきをついた。


「もうしわけございませぬ」


主膳のため息にかなえはわびた。


「あ、いえ」


多分、かなえは主膳がまたもや、場を頓挫した是紀に対して


ためいきをついたのだと思ったのであろう。


「そうではございませぬ」


主膳はいった。


「でも、いつも、いつも・・」


呼び立てておいた主膳をほったらかしにしてしまう是紀なのである。


「いえ、そうではござりませぬ」


強い口調の主膳を見つめなおしたかなえの瞳が


主膳を心配そうに覗き込んだ。


「なにか?おきがかりなことでも?」


「あ」


いえるわけがない。


主膳の頭の中はこの間伊三郎に言われた事が、


そう、まるでかなえの茶筅にかき回される


茶粒のように、ぐるぐると回り出していたのである。


「女子には急所がございます。


そこを責め崩す事ができれば女子はもう、若のものでございます」


伊三郎に言われ主膳は膝を乗り出すようにして、


伊三郎の話を聞きだした。


「先ず、其の急所を攻める前に・・・」


主膳は何を言われるか判らないまま、


急所という意味合いすらもつかめぬまま、


姫君を陥落させえる方法にすがる思いで耳を傾けていた。


「先ずは、姫君と二人きりになれたれば・・」


「どう言えば?」


「いえ。お言葉はいりませぬ」


「え?では?どうせよと?」


「姫君をしっかりかき抱いて」


「え?」


「若の御口で姫君の御口をふさぎこみます」


「な?なんと?」


男という者を知らぬ姫君である。


主膳の暴挙に惑う事すら出来ぬことであろう。


ましてや、あの豪放な是紀の娘に手を出そうなぞという輩が


いるわけがない。


と、なれば、初めて、男という者を知らされて


姫はどうすれば良いかも判るわけがない。


「大人しく、若をうけとめてしまうことでございましょうから・・」


「・・・・」


「姫の着物の裾に手を差し延べて」


「・・・・・」


このとき主膳の顔色はどんな顔色であったのであろうか?


「女子のほとには、小さな小豆が備わっておりまする。そこを・・」


「・・・・」


「そこに触れる事が出来ましたら・・・」


「わ、わしがか?」


「左様でございます。さすれば・・あとは成ったも同然・・・」


「ば、馬鹿な・・そのようなことで・・・」


「伊三郎は、嘘は申し上げませぬ。女子の急所と申し上げました。


そこに触れる事が出来れば、女子はどのような女子でも


大人しく男にしたごうてしまうように仕組まれて、造られております」


「か、かなえ様が?ま・・まさか・・・そのような」


「かなえ様とて女子でござりましょう?」


伊三郎の言う事は本当なのであろうか?


伊三郎ほどの齢の男がまじめにいうのである。


嘘ではなかろう。


が、主膳を疑う事ない、姫の邪気のなさを良い事に、


伊三郎の言う術にすがり姫になにおかしでかそうというのは、


[卑劣]すぎる。


かなえは主膳の葛藤も知らずまっすぐな瞳を主膳にむけている。


その瞳にとらわれると


―心底、愛しい―


尚更深く思わされる主膳である。


それを、欲情と呼ぶにはあまりに潔白すぎる。


が、後の事を思えば、委細かまわず、なりふり忘れて、


その欲情のままに突っ走ってしまえばよかったのである。


どちらかであった。


光来童子に巡り会っていないかなえであれば、


伊三郎の言うとおりの事になったであろう。


古臭い思い方であるかも知れぬが、


かなえの密かな場所にまで触れこめられれば、


かなえももう、主膳の元に嫁ぐしかないと考えたであろう。


また、かなえが既に光来童子に出会っていれば、


主膳の暴挙に屈することなく、断りを与え、


主膳もあえなく敗退をきすることになったのであろう。


いずれにせよ。


事の終結がもっと違う形になりえたのである。


その機会を清廉潔白な主膳自身が握りつぶした。


「どうなさいました?」


「いや・・・」


主膳は取り繕う言葉を捜した。


「かなえ様にも、私が迷惑なのではないかと・・」


つまり、かなえの父、是紀こそが


主膳の来訪を疎んじているのではないかと


この若者が心配しているのだとかなえは考えた。


「そんなことはありませぬ。


父はいつも、主膳殿はまだ来ぬかとよくいっておりますに。


あれほど主膳様主膳様といっておるくせに、来て下されば、


やれ用事があるといってはもてなしもせず、


かなえこそ腹立たしく思いますに、よう主膳様は怒りもせず」


「いえ。そうではなく、是紀様は忙しい身の上。


それは重々承知の上でございますが、


其の代わりにといってはなんですが、


かなえ様が私なぞの相手をさせられて・・・」


「ああ。そんなことを気にやんでらしたのですか?」


主膳はそこはかとなくかなえの心の内を聞きただしてみたのである。


「もったうのうござります。


かなえは主膳様と話をさせていただくのはとてもたのしゅうございます。主膳様とこうやって話をしてみると、


父が主膳殿主膳殿という気持ちがようわかります」


かなえにとって、父親のお気に入りと言う枠から、


主膳をみているにすぎないのである。


でも、


「どういうことですか?」


主膳はもう少し具体的に聞いてみたかった。


「そうですね。主膳様はとても暖かい方だと思わされます。


何かと言うと気性のきつい父ですから、


主膳様の人をくるむような暖かさに父もひかれておるのでしょう」


―かなえ様はどうですか?―


主膳はもう一歩踏み入りたい思いを言葉にするのを堪えた。


―輿入れなされたかなえ様はほんにおうつくしい―


本多伊三郎はため息をついた。


「ほんにおうつくしい・・・・」


もう一度、伊三郎はためいきをついた。


なにひとつ申し分のない姫君である。


若がご執心なさるのも無理がない。


もう一つ言えば、若が選ぶだけのことはある。


「ほんに・・・」


お姿を垣間見たその瞬間、何もかもを得心させた。


若が、夢中になるのも無理がない。と、思った。


その若の思いがかない、姫がこられる。


と、知った時の伊三郎の思いは他の誰よりも喜んだのである。


喜び勇んだ伊三郎がつい。


「本に申し分のない良い姫君である・・が、あれはいかん」


良い姫君であるが一つだけ、けちがある。


―付いてまいった乳母桜がいけすかぬ―


のである。


伊三郎がそういうにはわけがある。


輿入れなされた伊勢の姫君の家中の者の前への


お目見えのご披露と挨拶のときであった。


家中の物が居並び頭を下げている。


其の真中を若の姫が通ってゆく。


こんなとき、いちはやく其のお顔を拝謁したいと思うのは


誰しも同じ事であろう。


ましてや主膳の思いを聞いてきた伊三郎である。


成らぬ事であると思いつつも伊三郎は自制をなくし去っていた。


わずかばかりに顔を上げそっと姫を盗み見たのである。


「あ?ああああ」


伊三郎の胸の中ではどう言い表してよいか判らぬ叫び声が


湧き上がっていた。


それは敢えて言い表すとするならば


「若が本意になるのもむりがない」


無理ないほどの姫君が今、若の奥方に納まってくださるのである。


『若・・さぞかし・・うれしゅうございましょう』


そうであろう。


このように美しく、そこはかとなき優しさが


あふれかえっていらされる。


うんうんと胸の内でうなずかされる伊三郎は


若の喜びのほんの僅かを量り、おのが喜びにしていたのである。


が。


「そこの男は何を見やるや」


鋭い一喝があった。


かなえ様の後につきしたごうた乳母が発した声であると判った。


「は・・」


家中一同の前である。


伊三郎の醜態を暴く心無き乳母の声は伊三郎の身をこごまらせた。


『この思い・・わからぬのも無理はなかろうが、何も敢えて皆の前で・・・』


伊三郎に慢心した思いがあったというのは、あまりに哀れなことである。


申し開きができえる状況ではない。


進退窮まり伊三郎は言葉に窮した。


其の伊三郎は慌てて面をふさいでいたのであるが、


畳を見つめた其の眼下に白い指が見えた。


「え?」


其の指はかなえ様のものであった。


「本多伊三郎様でございますね?」


かなえ様は伊三郎の名前を知っていた。


席順もよく把握していたということである。


そして、伊三郎が若を思う気持ちもよく判っていた。


かなえは乳母の声に引き戻されるように、たたずむと


伊三郎の前に屈っしひざを折り指を突いた。


「かなえと申します。主膳様の元にかしこしてまいりました。


至らぬこと多かれと思いますが、


主膳様をお導き下さいましたように


このかなえの事もどうぞよろしゅうにお願い致します」


と、のたまわれたのである。


かなえの一言で、主膳を思う伊三郎の気持ちが拭われたのである。


満座の中で主膳をお守りしてきた伊三郎であることを


立てきったかなえなのである。


「もったいのうございます」


そんなくだりがあり、伊三郎は


この姫君がいっぺんに好きになってしまった。


異例なことである。


足下の者に、声をかける?


ありえることではない。


ましてやいくら若の・・という思いに逸ったといえど、


やはり分をわきまえぬ非礼でしかない。


なのに。姫君はこんな爺に頭を下げ・・


醜態をかばいだてしたうえに皆の者に


伊三郎は姫にもありがたい方なのだと、


いいあらわしてくだされているのである。


『優しい上に頭の良いかたであらせられる』


そっと乳母やの些細な形に拘る、検量の狭さをたしなめ、


伊三郎には言下に乳母の咎めを許されよともいっている。


「よくできたお方であるになんで、あんなのが乳母やであるかや?」


伊三郎は後に思った。


あんな乳母では


「かなえ様もご苦労な事である」


とも、思った。


あんな乳母さえ優しく許容するお方であらばこそ


また若のお目に留まったのであろうとも思った。


つまるところ、やはり


『若はお目が高い』


のである。


海老名の胸中いかばかりであるか?


どんなにか、主人を御守りいたそうという思いにおいては


伊三郎に引けを取らぬものがあるのが海老名である。


見も知らぬ、寄る辺のないものばかりの土地に、


とついで来たかなえである。


ほんのわずかでも、かなえを軽んじられたくない。


海老名の想いの裏には、かなえが光来童子に攫われた痛みがある。


主膳様とても知る由もないことではあるが、そのことが引け目である。


主膳様に乞われて、かなえ様はきてやったのである。


引け目がそのような虚勢を張らせてしまうのである。


誰一人にも明かせぬ海老名の心根であるが、


ゆえに、かなえ様を毛先一つでも軽んじるような挙動を、


海老名は見逃しに出来なかった。


蟻の穴一つからでも楼閣は崩れる。


海老名が主を思うばかりに、


同じ立場の伊三郎の心情を思い量れる事は出来なかった。


無論。


伊三郎とて海老名の心底の不安なぞ判る由もなく、


さりとて判って貰っては困るのであるが、


海老名と言う乳母への評価はきつい物になったのである。


その海老名の昨日である。


産土神の前での寿ぎの儀式を終えると、宴は夜を徹する。


頃合を見て、寿老人は花嫁と花婿を場から下がるように告げる。


控えの間に下がるかなえに海老名は付き添った。


かなえが迎える初夜の仕度を整える為である。


綿烏帽子を担ぎはずさせ、白絹の緞子の内掛けを羽織取り、


胸元の懐剣を改めて白のうち合わせの胸元に差し込みなおした。


そして、海老名は二の腕を捲り上げると、


肘の一寸下を自らの小束でさした。


かなえは呆然とした面持ちで海老名の不審な行動をみつめていた。


「海老名?なにをしやる?」


深く刺したわけではないが海老名の腕に血が滴り、伝い落ちてゆく。


指の先に流れ落ちる血を海老名は小さな肝袋に受け始めていた。


「破瓜の印が・・・・いりましょう?」


「あ・・・」


その為に海老名は己に傷をつけたのである。


人に見咎められる場所に傷を残すわけにはいかない。


物事に聡い人間に見咎められた何を悟られるか判ったものでない。


袖の中に隠れる傷場所を選ぶと、


海老名はかねてから用意してきた肝袋の中に


滴り落ちる血をあつめたのである。


「これを・・・」


差し出された肝袋をかなえは受取った。


隠滅のすべなど考え及びもしなかったかなえである。


(そんなことをせぬでもよかったものを・・・)


主膳という男がかなえにとって初手でないことを主膳に咎められたら、それはそれでよかったのである。


主膳を、


己を、


欺いて生きるよりは、出来るなら、咎められた勢いに乗じて


「かなえには、命を懸けた人がおりました」


と、いいのけて、せめて己の心に殉じることができるなら。


だが、海老名はかなえの心をみぬいたのか


「主膳様が苦しみましょうから」


と、付け加えた。


かなえがかなえの心のままに何をどう暴こうが、


かなえがおのずから望む事である。


だが、事の事実を知れば苦しむのは主膳であろう?


だが、それを知って心が変わる主膳であれば


よほどかなえにとってその方がよい。


が、そんな主膳ではない。


それならば、よほど何もかもさらけ出した上で、共にいきるほうが・・。


と、かなえも考えてみたことである。


が、海老名が己を傷付けてまで、護ろうとするかなえであるならば。


明かしてはならないことなのである。


「わかりました」


かなえは頷くしかなかった。


破瓜の印という、醜い虚実を身体の中に仕込むと


やがてかなえは上臈の声に呼ばわれ、主膳の待つ、


部屋に付き添われていった。


暗い廊下を手燭の明かりで歩み続けると、上臈は歩を止めた。


「この先は・・かなえ様お一人で」


上臈はもう、動こうとしなかった。


かなえが歩みだし、主膳の居室の戸を開くのを見届けるために、


じっと立ち尽くしていた。


「主膳様がおまちしております」


かなえにとって寄る辺の人である主膳が


すぐそこにいるのですからと、


上臈はかなえを促した。


戸を開けはなったかなえがゆくりと部屋の中に入ると、


身体の向きを変え、ひざを曲げ戸を閉めなおした。


もう一度、ゆっくりと立ち上がると、明かりの漏れてくる奥に歩み寄り、開かれたふすまの向こうにいる主膳の姿に再び、


ひざをおりかなえは深々とぬかずいた。


「主膳さま。かなえでございます」


かなえが頭を上げるより先に


「こちらへおいでなさい」


主膳に呼ばれた。


主膳を前にかなえは三度ひざを着いた。


指を付き、頭を下げると


「一旦、偕老同穴の契りを奉れば、


御心の変わらせることのなきように


末永くかなえが事をおたのみもうしあげます」


夫婦の事始の心緒をいう。


返す言葉は主膳も同じで


「一旦、偕老同穴の契りを奉れば其の心、


終生かなえ様に灌ぎまつりますれば、


信女になりても、かばねになりても、主膳がものと思し召されよ」


交わす言葉は定まっており、一種の祝詞のようなものである。


かなえが顔を上げたのは主膳の手に引き寄せられたせいである。


かなえは懐の刀をぬきだすと主膳にささげた。


何か事があれば、その刀で己の胸を刺し貫くことになる。


落城の憂き目にあい、主膳の後をおうこともありえる。


其の刀には、かなえの運命と命が載せられている。


懐剣を主膳に預けるという事は、


かなえが命を主膳の手に預けるという事である。


かなえから差し出された懐剣を主膳はしかりと掴むと


「かなえとわしは、これからは両刃であるぞ」


と、告げた。


かなえが苦しむ事があれば主膳も苦しむ。


返す刃で主膳が苦しむ事があればかなえも苦しむ事になる。


同じ運命を歩む事になるのである。


まだ、一心同体といえるほどの重なり合いが出来た夫婦ではない。


が、それでも、一旦、夫婦になったその時から、


夫婦という運命の流れにのまれてしまうのである。


「はい。いくひさしゅう・・・」


かなえの瞳から、落ちる物があった。


童子に誓いたてる言葉であった筈である。


童子と共に生きる筈であった。


(前世のこと・・・)


諦めることにしたはずなのである。


諦めるしかなかったのである。


父、是紀の言うとおり、己の手で運命を選び取った筈である。


だから、かなえの誓いの言葉は、主膳一筋の物でなければならない。


が、


この涙をなんとすればよい?


(夢をみさせてもらったではないか?)


あの、七日七夜が一生であった。


そして、いまここにいる、かなえは


童子に言われたとおり強く生きおおさねばならない。


かなえが落とした涙を主膳が拭った。


「ように、この主膳の元にまいられた」


伊勢の地で育ち、豪放な是紀の慈愛を受け、


伸びやかに育った娘が主膳一人を頼りにするしかなくなったのである。


父と別れ伊勢の地を後にしたかなえの寂しさごと


全て主膳が包んでやるしかない。


「かなえ様が事は、主膳が命をかけても御守り致します。


だから・・どうぞ」


泣いてくれるなと主膳は言う。


「はい」


かなえはそのまま主膳に抱き寄せられた。


かなえの口を主膳の口でふさぎこむと、かなえの白絹の帯紐を解いた。


胸元が緩み、かなえの白い乳房があらわになると、


主膳は白檀を焚き染めた紗さの寝間の床にかなえを引きこんだ。


主膳は頭の中で伊三郎に教えられた事を何度も反復していた。


(女子のほとには小豆がございます)


その小豆に触れられれば・・・・。


主膳はかなえの白い胸をもみしだきながら、


かなえの白絹を取り払っていった。


裸身のかなえと己を羽二重の上掛に包み込むと、


主膳は伊三郎に教えられた場所を探り始めていた。


ここかと思いあたったものに触れたとき


「ぁ・・」


かなえが小さな声を漏らした。


主膳は確信を持つと、その場所になんども指を滑らせていった。


我を忘れさせる疼きにかなえが逆らえるわけもなく、


堪えきれず声を漏らした。


「かなえ・・」


やんごとなき姫であるかなえがみせた所作は


伊三郎の言うとおりであった。


恥じ入る事さえ、忘れかなえは主膳の胸にすがってきた。


主膳は指の動きを止めることなくかなえをまさぐりつづけた。


かなえが声を殺すこともできずにいる。


かなえの知らなかった一面に主膳は魅せられはじめていた。


そして、主膳はやがて、衣を脱ぎはじめていた。


―若がおいしい物を見たときに御口につばがわきましょう?


女子のほとも、おなじでございます―


それが主膳のじつうをかなえに与える合図である。


と、伊三郎は言った。


伊三郎の言葉をなぞりかえさずとも、


既に主膳の男の物がかなえにどうしたいかを教えていた。


いかほど惜しくもある。


様変わりするかなえをもっとみさだめていたい主膳ではあった。


が、かなえにあらぬ声をあげさせてしまうほとから、


粘っこい汁があふれ始めていた。


伊三郎に教えられたせいではない。


主膳の狂おしい激情が、そこにはいりこむ事を要求していた。


声を漏らし続ける、かなえの身体に被さると


主膳はかなえの身体の中に己のじつうを貫き通していった。


「かなえ・・かなえ」


この世に身もあらぬと言う、喘ぎに飲まれていたかなえだからこそ


やすやすとじつうを貫き通せたのである。


伊三郎が言った事はほんとうのことであったのである。


おしこごめられ、かなえは主膳をおとなしくうけいれていた。


『これが偕老同穴のちぎりか』


恐ろしく心地よいちぎりである。


主膳のじつうの動きにかなえの中でこりっとした拒絶があった。


が、かまわずさねを蠢かして行くと、ゆるりとした、


したたりが溢れてきていた。


『あ・・』


主膳はかなえの破瓜の印にきがついた。


さぞかしつらいことであろうとおもいつつ、


主膳は自分の動きを止められなかった。


そして、不思議な気がしていた。


あの密かな場所に触れえたときかなえは声を洩らしたのである。


が、血のおつるような痛みをこらえることができるのか、


かなえはおとなしくしていた。


痛みに声を洩らさぬかなえが、


快さに声を洩らしてしまっているのである。


男と女の密かごとは不思議な事であった。


―女の睦言は、喘ぎになってしまうものであるらしい―


主膳は己の快さに抗うことなく、かなえの中に睦言と共に果てていった。


「仲のよいことであらせられる」


庭を巡る新しい夫婦の姿は愛らしい。


主膳がつきそうようにして花がほころぶ庭木をかなえに見せている。


その姿を伊三郎は見つめていた。


「この木にのぼっては・・ようしかられた」


ひともと大きな枝ぶりの木の側にくると主膳はかなえに言った。


「伊三郎さまにですか?」


「おおよ」


総顕は大様な男である。


男の子であらば、怪我のひとつもするわと笑って見ているのであるが、伊三郎の心配は際限ない。


『あの木からおちて、頭でもうたれたら・・・』


そうおもったら、もう、いけない。


跳んでいった木の下から、いたずらな子烏に


矢のようにかあかあとわめきちらすのである。


「わしも、伊三郎の口煩いのには随分閉口したものだ」


いやだといえば、伊三郎は己の身の重きもかえりみず、


木によじ登ってでも主膳を引き摺り下ろす気で木に足をかけ始めていた。


「伊三郎におちられてはかなわぬから、わしもおりたものだが・・・」


それにも懲りず木に登ると必ず伊三郎はやって来た。


「どこで見ておるのか、おらぬと思って隙を縫って登りおるのに


すぐにかけつけてきおる」


果てには小言を繰り返される。


「後を取る御身。もしものことがあったら


伊三郎は腹をきって御詫びするしか御座いませぬ。


若は、伊三郎の生死をかけても、木に登りとうござりまするか?」


おおげさなことではある。


が、そうだとでも言い返せば、伊三郎はおんおんと泣き出す事であろう。


「じゃがの・・。それでも、登ろうとする所を、みつかってしもうてな・・」


と、主膳は木の下にかがみこんだ。


「かほどに大切な御身である事がお解かりいただけませぬのか?」


伊三郎は涙声になった。


情けない面持ちをして見せたかと思うと


「若が悪い訳では御座いませぬ」


と、いいだした。


「この木がここにあるのがわるいのです」


「あ?」


子供心にもそれがどういうことを言いあらわすのか、主膳にも判った。


伊三郎はこの木をひききろうという算段になっている。


よしんば主膳がこの木にのぼれなくなっても、


先を考えた伊三郎は辺りの木を見渡した。


「ああ。わかった・・・」


庭の木と言う木を残らずなぎ倒してしまう気でいるのである。


主膳も是には参った。


「わかった。もう、のぼらぬ」


一旦口に出したことを翻す事は武士の魂を汚す事である。


腹をきるに値するほど恥ずかしい事であると、


教え育てられているのである。


だから、逆に主膳も伊三郎に叱られても叱られても


まだ、登るつもりであったらばこそ、うんとはいわなかったのである。


が、流石に伊三郎には根負けしたのである。


ついにうんといわされたのである。


「わしのせいで、すってのところで


きられるところであった木なのじゃが、切られずにすんだ」


主膳は木の根片をなで上げた。


主膳の話をきいていたかなえは、


「海老名のようでございます」


答え、微かに笑った。


「お互い。苦労した様であるな?」


お互いが、従者の小言をくぐりぬけてきた身の上なのである。


「はい」


かなえが笑った。


が、海老名の心労につきあたるのである。


海老名に苦労をかけさせている自分であることを


承知しているかなえであった。


「どうしました?」


かなえの顔が沈みがちに成るのである。


だからこそ、主膳は庭を歩こうと


かなえを明るい陽の下に誘いだしたのである。


「いえ・・」


「さみしゅうなられておるの」


豪奢な父の元を離れ、とついで来てからのかなえは


ひどく落ち着いて見える。


が、あの夜にかなえが泣いたように、


変わってしまう生活に、自分に、


まだ、慣れ切れぬ寂しさがつきまとうのであろう。


「いえ・・そうでは・・」


「ならばよいが」


主膳の物になった「女」が、


かなえを物静かにさせてしまっているだけなのかもしれない。


伊三郎の言うとおり、あのことにより主膳に従う女が生じ、


かなえはその女に牛耳られているのかもしれない。


なぜならば、主膳にだけ見せる女がいる。


主膳により恥じ入るほどに無様な女を露呈させられるかなえなのである。


そのかなえをしっている主膳である。


かなえをそうさせる主膳である。


かなえは恥じ入る己をひたかくしにするが余り、


口数も少なくなっているのかもしれなかった。


そんなかなえであれば、昼と夜の違いに


主膳はいっそうかなえに現を抜かす事になる。


どこか、離れてしまうようなかなえの昼の様子に、


主膳は尚更かなえが我が物であることを確かめずに置けなくなる。


だから、ますますかなえはおとなしく、物静かになる。


そして、夜には間違いなくかなえであることを主膳に知らせる。


「ほんに・・仲がよろしい」


夜毎にかなえの元へわたる主膳を含めて伊三郎は、言っているのである。


伊三郎が呟くと、ふと後ろの気配に気が付いた。


伊三郎がみゆる夫婦を、同じように眺める者が他にも居たのである。


『乳母桜殿ではないか・・・』


お披露目の後に海老名を見たのは今日が始めてである。


気に喰わぬ乳母桜ではあるが・・・。


若の大事な姫君の乳母である。


「この前は無礼をいたした」


伊三郎は海老名の側によると素直に詫びた。


「あ。いや」


海老名は僅かに狼狽した。


伊三郎はかなえ様のお姿に心を打たれてしまっている。


こんな、むさくるしい爺に手を付きあそばされたのである。


ならばこんな乳母桜の一人や二人なんどでも、詫びて見せようでないか。


かなえ様ほどのお方がそうなされていて、


主膳の従者である老爺が子供のように意地をはって見せるなど


無ざまな事である。


かなえ様にとって苦労な乳母であると思ったことを裏返せば


伊三郎の挙動一つで若の人柄に傷をつけるだけである。


こんな乳母桜と同じではなるまい。


考え直させられた伊三郎であった。


無論。海老名への評価は、変わってはいない。


が、それにつけても


「立派な姫君であらせられる」


伊三郎は心底から思っていることを口に出した。


「おや?お前様でも、判る事はわかるのでありますな」


いけ好かない男への口のききようがいかにもこ憎たらしい海老名である。


「なに?」


「分を弁えず、己のほしいままに姫を盗み見ようという輩には、


判らぬ事であろうと思っておりましたゆえな」


「分を弁えぬのは御前様であろう。


姫が見咎められるならまだしも足下の物がしゃしゃり出て、


挙句姫君に頭をさげさせるようなことをさせてしもうたではないか?」


「元はといえば御前様の非礼のせいであろうに?


あげあしをとるのも、ほどほどになさいませ」


海老名も実は痛かったのである。


が。かなえの取った態度に海老名は姫の覚悟の程を知らされたのである。


『良くぞご成長なされた』


胸を撫で下ろさせられたのである。


だが、あの非礼な男は許せない。


その男が姫の姿にやっと己のいたらなさをきがつかされたのであろう。


詫びてきた以上がどこまで本意であるのか?


己の保身のためでしかあるまい?


少しつついてみれば男は早速口を返してきて、


海老名の落ち度を取りざたにして話をうやむやにするように見えた。


「確かにわしがいたらなんだとは思う。


が、御前様は家臣である前の分を弁えておらぬようであるがの」


「家臣の前?」


「女子であろう?女子だてらの分際とは思えぬがの」


「女子の分際を弁えぬ女子に怒鳴り上げられるような男が


御前様であるわな?」


ああ言えばこう言う。


口の減らない女子である。


「そのあたりが災いして、行く場所ものうて姫についてまいったか?」


行く場所。すなわち嫁に行く場所である。


「御前様のような技量の狭い男なぞにはわかるまい」


主を思う気持ちに男も女もない。


ただ、女子は亭主を得ればそれが主になってしまうのが定めである。


ならば、かなえ様に御仕えする事を出来なくさせる亭主なぞ


いらないのである。


男は妻を娶ってもそのまま主に仕える事はできる。


が、女子はそうは行かぬ。


自分の事を何もかもを振り切れるほど、


かなえ様は海老名にとって大切な方だっただけであるが。


男と女の立場の違いがある。それも判らないか?


「男の小煩いのは、救い様が御座いませぬぞ」


どちらが揚げ足を取っているのか判らなくなってきていた。


むっとした伊三郎はとうとう厭な言葉をはいた。


「姫君もお前様の尻拭いにご苦労な事であろうな」


確かに海老名が些細な事に拘らねばあんな場所で


こんな輩相手にかなえの頭を下げさせる事はなかったのである。


「・・・・」


―おや。だまってしもうた―


伊三郎は、言い過ぎたと思った。


どうこういっても、女子が身一つで、姫のためを思い


こんな見も知らぬ地に付いてきたのである。


男でもなかなか、出来る事ではない。


一族郎党に別れを告げ、長年住み慣れた土地を後にして


姫のためだけに尽くし生きる。


女ながらあっぱれなものである。


その心根を判ればこそ姫も敢えて頭を下げたのである。


伊三郎の主膳を思う気持ちがかなえ様に判ったのは、


逆を言えばこの海老名の誠の尽くしがあらばこそなのである。


海老名の主を思う気持ちに頭を下げたかなえ様であらばこそ、


伊三郎の気持ちにも頭を下げたのに決っているのである。


「ちと・・・いいすぎた」


伊三郎は再び詫びた。


「何。つい。姫を軽んじられてなるものかと思いこしすぎたのが、


いけぬかったんじゃ」


「あ・・・」


「それゆえ、


御前様のような阿呆に手をつかされることまでさせてしもうて・・」


「あ。あ」


愚かであった。


確かに乳母桜の言うとおりである。


姫一人かしこしきたるに迎え入れる者が


かろきに扱うような態度を見せれば、


姫への忠誠も怪しい物であるが、


もっと言えば姫の嫁し越す相手である主膳の存在も不安になってくる。


頼る主膳もあてにならないのであろうか?


主膳とて家臣に軽んじられておるから、


姫まで軽んじられるのだろうか?


成り立つ不安である。


若の大事な姫君をそこまで落とし込みかけた自分であったのである。


「す、すまなんだ。御前様のいうとおりじゃ。


わしは、あほうじゃった。なれど・・主膳様はけして・・」


海老名は伊三郎の言おうとする事がわかった。


「わかってくるるばよいわ。何。主膳様は何度とのう、


伊勢に参られておる。あのご気性であるから・・・


御前様のことを慌てて叱り付ける様な御方ではない」


「そ、そうじゃあ。わしは・・おまえのいうとおり。


若の黙って堪えられるお姿にいつもいつも、


あとで気がついておる、うつけものじゃ」


「藤村の是紀殿はよう即刻に叱る方であらせられたゆえ、


海老名もその習いが身についてしもうておるようじゃ。


郷にいればということもある。


短気を控えねば、御前様の言うとおり姫に苦労をかけてしまう」


海老名の言葉が胸に、耳に、痛い伊三郎である。


「いや・・それは・・・わしじゃ」


「いやいや・・私がたらなんだのじゃ」


「ゆずらぬ・・・のお?」


伊三郎は呆れた。


「は?口煩い男は・・・」


言いかけて、海老名は黙った。


伊三郎が言葉を継ぎだしたからでもあった。


「譲らぬのは、わしも同じじゃろうが。


御前にどうしてもゆずらねばならぬの・・・」


「は?」


「ようも、あの姫君をおまもりしてくだされた」


「・・・・」


「若のところにまで嫁しこせるほどの姫にならせられるまで、


病一つさせぬように苦労であったろう?」


「あ・・?」


「かなえ様を頂戴できて、若はほんに喜んでおらるる。


それも是も、御前様が・・・」


「もう良い。そんなことをいわれてしもうては・・・」


「そうじゃの・・」


二人は再び庭を歩く夫婦に目をやった。


「ほんに・・雛のような」


「ほんに」


―海老名殿・・初めて意見があいましたの―


伊三郎は再び、庭に降り立った夫婦雛を飽くことなく見つめていた。


だが、雌雛を見つめる海老名の瞳の中には、


伊三郎にも誰にも言えぬ不安があった。


「成りえたのであろうか?」


かなえは確かに海老名の言うとおりに破瓜の細工に応じた。


だが、かなえは主膳をうけいれたのだろうか?


確かに仲睦まじそうに見えるお二人ではある。


主膳殿は優しい御方である。


かなえが拒めば主膳は時を待つことを選ぶことであろう。


かなえもかなえで


童子との睦事の果ての懐妊を望んでいるのではないだろうか?


それが、はっきりするまでは、


主膳に身体を触れられたくはないのではないか?


睦事もないままの懐妊では・・・


主膳の胤でない事はすぐにあからさまになる。


いや。あえて、離縁状をまつつもりなのであろうか?


それとも、童子の子を孕んでいたならば、


海老名が一番恐れたようにかなえは身二つになるのを待って


生れ落ちた子と共に相果てようというのであろうか?


だが、ここで無事に生まれ落とすためには


主膳との睦事がひつようになってくる。


しかし、それでは、どちらの子であるか?


それとも、生れ落ちた子により


かなえは生きる運命を定めようというのであろうか?


神王の定めに従ったかなえはこの先の自分の運命も


なるがままに任せる事に決めたのであろうか?


いずれにせよ、かなえが童子の子を孕んでない事を祈るしかない。


懐妊という不安を除けば主膳との間に睦事がある方が良いに決っている。


それは、少なくとも


かなえが主膳と生きることを選んだということであろう?


頭の中がわれそうである。


どう望めばよいのかさえ考え付かないのである。


あの時、童子の腕を解き放つとかなえは地べたにたった。


その顔のすがすがしさは、何一つ悔いを残さぬ物と見えた。


さすれば、子を孕む事を望む普通の夫婦の様に、


かなえが童子の精をうけたと考えるべきであろう。


なにもかもを与えつくされ望まれつくされた故の


潔い別れであったのであろう。


そして、かなえは生きる望みを子にかけたのではないか?


で、なくれば、かなえはあの場で死んでしまおうとしたのではないか?


主膳の元に嫁ぐ前にかなえは、神王の理により


たとえ、死に切れずとも、そうしたのではないか?


『神王。是紀殿の理を受けたもうならば、どうぞ。


かなえ様に子が宿ってなきように』


海老名は祈るしかない。


何をどう考えてもかなえの事が不安で仕方ないのである。


もし主膳を拒んでいるのであれば


もし、主膳を受けているのであれば


どちらにせよ、まとわり付くのは童子との間での懐妊である。


『主膳様。あなたの深き思いでかなえ様を、


無灯明地獄から引き上げて下さりませ』


主膳のよこで微かに笑うかなえが見える。


主膳ならかなえをかえられるだろう。


『だから・・どうぞ。


神王・・童子の事は、本当に前世のことにしてくださりませ』


今生に前世が胤をおとすことはありえないであろう?


海老名は深く手を握ると主膳の姿に手を合わせた。


かなえが主膳の元にとついでそろそろ三月をむかえる。


「若!!」


伊三郎は真っ先にかなえの懐妊をしらされた。


伊三郎は


「おめでとうござります」


頭を下げた。


「いや・・なに・・そうじゃの」


伊三郎の入れ知恵のおかげでもある。


主膳が照れた笑いを浮かべるのも無理が無い。


―あれほど、夜毎に通わせられる、御執心ぶりであらば―


「早くも・・父にならされますか?」


無理のないことである。


ゆくりと歩く、かなえを気遣うように海老名はついてまわっている。


もしかすると・・・。


おめでたであるのではとうすうす伊三郎も感じてはいた。


「わしの方が、さきに気がついてな」


苦笑しながら主膳は言った。


女子に障りがなくれば、きがつきましよう?


主膳をからかう言葉を伊三郎は飲み込んだ。


それほどに毎夜のごとく主膳はかなえの元に行ったのである。


が、主膳が言う事は違っていた。


「何ぞ、ひどく、むかむかするのでな」


「はああ・・なるほど」


男つわりなのである。


伊三郎も聞いた事がある。


女房を溺愛する男は親身になるあまり


男つわりになるという話を、である。


是が、不思議な事で女房が懐妊に気が付くより先に


亭主の方がげええと吐き上げ、女房に向かって


「さては孕んだの?」


と、いいあてるそうである。


夫婦というのは、どこか知らぬ底の所で繫がっているものらしいと、


伊三郎は不思議な話を得心したのであるが、


それが今、現実。主膳に起きているのである。


が、かなえのつわりを主膳がかたがわりしてやるとまではいかぬようで、


「つわりが・・きついようでな」


と、主膳はいう。


とうの本人でない主膳が青ざめて吐き気を催すのに、


かなえがいかばかりであるのか。


あおざめながら、主膳の心はかなえのことばかりをおもうている。


「わしがこうであるに・・。女子のかなえはさぞつらかろうに」


伊三郎にいうのである。


しかし、女子のことであらばどんなことでも伝授しますぞ、


とはいったものの、伊三郎には男つわりなぞという経験が無い。


どうしてやることもできないのである。


半ば呆れ、主膳のかなえを思う心の深さによって起きる


夫婦の不思議さに驚かされていた。


「あまりに・・思いが深きゆえにでござりましょうなあ」


と、いってはみたものの、


主膳は己の苦しさをこれっぽっちもかえりみては居ない。


―かなえがつらかろう―


それのみなのである。


その心の深さが主膳に男つわりを引き起こさせるのである。


『かほどに・・思えるものであろうか?』


只の夫婦でない。


誠の夫婦というのは、こうなのであろう。


伊三郎は主膳の情の深さにまたも頭を下げるだけであった。


主膳がかなえの居室にあらわれると、ごろりと畳に寝転んだ。


「まだ、さむうございましょう?」


かなえは主膳に打ちかける物を探しにたちあがろうとした。


「かまわね・・さむうはない」


心配そうにかなえが覗き込む。


「ほんに・・かまわぬ」


「でも」


「それよりも」


主膳はかなえの腹に手を伸ばした。


この間からのつわりが治まったと思ったら


今度はさらし帯を巻く日になるといわれ


戌の日を選んで産土さまからさらしの帯を主膳自ら頂いてきている。


「わしは・・おなごのこがよい」


かなえの腹を軽くなぜさすりながら主膳は言う。


「え・・」


こういう場合、男がよいと言う物であろうと思っていたかなえである。


代を継ぐ子が先に生まれるのを希望するものであろう?


父の是紀はなかなかおのこを授からなかったものだから、


何人か側女をおいた。


そして、男ができぬとうなったものである。


だから、初めから女子がよいと言う主膳が不思議に思えた。


「わしはかなえがいとおしい。


生まれてくる子がかなえにようにた女子の子であらば、


わしはどうおもうだろう?」


子であるだけでいとおしい存在が


これまたいとしいかなえと同じ女子であらば、


主膳の胸の中にさらにどんないとおしさをくれるのであろうか?


「どうにも、姫のようなきがしてならぬし」


「お名前を考えおいてくださいませ」


主膳の思いに静かに頷くとかなえは主膳の思いに沿っていた。


「おお。そうじゃの」


まだ、半年近く先のことではあるが、


それまでの主膳の楽しみがもう一つ増えた。


「かなえのように平仮名がよいかな?


かなえのようにやさしい子だろうから、そのほうがよいだろうの?」


「どうぞ・・ご随意に」


「そうじゃの」


かなえが言い出せなかった言葉を主膳は呟いた。


「この世に生を受けて父が贈るいっとう最初のものであるしの。


ようにねって考えてみる」


「よろしく、おねがいします」


かなえはそっと頭を下げた。


かなえを思う気持ちがいかほど深いか、


さらに青ざめて男つわりをやりすごす主膳をみていると、


腹の子は主膳の子なのだと思わざるをえなかったかなえでもあった。


『前世のことなのだ。


うまれかわったのに、たまたま前世の記憶が残っていただけだ』


今生の夫にそっと手を伸ばすと、かなえはもう一度尋ねた。


「ほんに、さむうはございませんか」


「かなえ・・」


主膳は気が付いた。


「おまえがさむいのであろう」


立ち上がると、主膳は押入れを開け、


柔らかな肌あわせの布団を引きずり出しかなえを包んだ。


「わしも・・ほんとうはさむい」


かなえに打ちかけた肌合わせに主膳もはいりこんだ。


かなえをそのままね転がせると、主膳は


「くたびれるのであろうに」


かなえの身重をきずかった。


二人が一つのはだあわせにくるまり、


うららかな昼下がりは二人の軽い寝息で過ぎていった。


この頃から、海老名はひどく傍若無人な態度を見せ始めた。


上臈が寄ってくると、さも気に入らないという顔を見せる。


「そちらのやり方があるのでしょうが・・・」


一言言うと、かなえに着せこませる着物一つから


「襟の開き具合が、よくない」


いちゃもんとしかいえない些細な事まで


けちをつけ海老名自らやり直すのである。


「海老名・・」


かなえがいさめようとしたとき海老名の悲しい瞳に気が付いた。


それで、かなえはすべてを悟った。


海老名はかなえの出産を一人で牛耳ろうとしているのである。


他の者を寄せ付けないために、


海老名一人でのかなえの出産に向かうために、


布陣を牽いているのである。


それは、


「どちらの子か。わかりませぬ」


このたびの懐妊を海老名に告げたせいである。


時期的なことから考えると、


確かに主膳の子やら光来童子の子やら、判断は付きかねた。


―もしも、鬼の子が生まれたとき―


それを考えて海老名は、事の露呈を拭おうとしているのである。


鬼の子が生まれたなら、かなえは不義を盾にして、


命を果たそうと思っていた。


主膳の子であるなら、事はなだらかにすすんでゆく。


が、そうでない場合もありえる。


鬼の子であり、皆の前でそれがさらけ出されば、


かなえは即座に死を選ぶ事になる。


海老名はその死をくいとめようとしているのである。


其の為に、海老名は一人で子をとりあげようとしているのである。


海老名の切羽詰った覚悟は、


この長浜城で嫌われ者になることさえ、ものともしていなかった。


『海老名・・・』


「古くからつきしたごうたものです。


皆にかなえを取られるように思えてしかたないのです。


どうぞ、年寄りの我侭と思って、おいかりなさらぬように・・」


他に海老名を庇う言葉が思いつかずかなえは上臈に頭を下げた。


「かなえ・・さま」


従を庇うかなえの優しき心に、何を抗う事がいる?


「老い先短き者よとわらうて、ゆるしてやってください」


とんでもない。


そんな人を詰るような気持ちを持っては、


かなえさまの心のありがたさに神罰がくだりまする


上臈はかなえの優しき心に涙ぐんだ。


そして、かなえの産み月も近くなってきた。


どうするか?


どうなるか?


生まれ来る子を見てみるしかない。


が、鬼の子だったら、どうする?


海老名が、考えることは恐ろしい事しかない。


産声をあげる前に赤子をくびり殺してしまうしかない。


かなえには、死産だったという。


主膳には、死産の上、かたわだったと言いぬけて、


みせたくなかったという以外ない。


が、かなえは子供の姿をみせろというだろう?


どう、きりぬける?


が、それより、この手で赤子をくびりころせるか?


思い惑う海老名に居室の外の気配が、厭なおぞけをかんじさせていた。


(光来童子・・か?)


いかな諦念を託った鬼といえど、


己の子を孕んでいるかもしれないかなえのことを


手のひらを返したように忘れはてることなぞありはしないだろう。


様子をみにきたか?


それとも、この海老名の策略を読み透かし、


己の子であらば、かなえ諸共攫って行こうという心積もりなのか?


神王の理が結収した以上できぬことではないかもしれぬ。


海老名はそっと、障子を開けて、外をうかがってみた。


途端。黒い影が走ったように見えた。


光来童子なのかもしれない。


近頃、伊吹山に外つ国の者のようなうす青い目の色をした鬼が


住み着いたらしいと、伊三郎が噂をしていたのを小耳にはさんでいる。


かなえの幸せを見届けるつもりか?


かなえ恋しさか?


光来童子が大台ケ原をでて、


伊吹山に居を構えたことだけは確かな事であった。


ならば、なおさらのこと、鬼の子がうまれでたならば、


いやがおうでも、くびり殺すしかない。


鬼であるだけで、赤子の命一つとて顧みられないほど、


かなえとは成っては成らない仲であることを


無残に子の屍で見せ付けるしかない。


―許されよ―


海老名は有り得るかもしれない結末を胸の奥深くに固めた。


春になる。風のにおいが変わり始めていた。


夕方遅くに出産の兆しが現れると海老名は産所に、


こもりきりでかなえについている。


初産でもある。


そんなに早くは生まれはしないと海老名も判っていた。


夜遅くなってきてから、刺し込んでくる痛みに


かなえがもがく間隔が短くなってきた。


やがて、海老名が取り上げたみどり児は高い産声を上げた。


―おなごの子であらせられる―


海老名は赤子の身体を洗いながら、すみずみを見定めた。


指も五本、瞳の色も、髪の色もかなえそのままの漆黒である。


頭にそっと湯をかけ、さわってみた。


角になりそうなふくらみも無い。


主膳様の子であろう。


あろうとしかいえない。


赤子の面差しはどちらにも似ていない。


かなえの幼い頃をそのまま、引き継いでいた。


―かなえ様かや?―


赤子が瞳をしっかりと開けているのを覗き込むと、


海老名は不思議な錯覚にとらわれた。


かなえの傍に赤子を置いてみせると、


かなえはうっすらと目を開け我が子に触れた。


―かなえ様がかなえ様と、おる―


海老名の錯覚も束の間、かなえの声がこわばり始めていた。


後産である。


えなが体の外に排出されるのである。


赤子をそっと抱き上げ、小さなおくるみのまま、


畳の間に敷かれた布団に寝かせつけた。


「乳はもう少し待てよ」


海老名は、赤子に諭すとかなえの後産の始末に立ち上がった。


が、かなえの様子がちがう。


―え?―


後産の動きではない。かすかな陣痛がある。


―まさか?―


かなえの腹をなぞりさわってみた。


―あ―


もう一人いる。


双生であったのだ。


なるほどと海老名は頷いた。


しかし、この双生の片割れの出産が長引いた。


かなえの腹から出とうないとでも言うように、


赤子はいきみにあらがっていた。


―かなえ様―


かなえの悲痛な叫びが、弱弱しくなってきている。


第一子の出産でかなえの出血もおびただしいものがある。


夜っぴいての陣痛がかなえをよわらせてもいた。


―このままでは―


海老名はかなえの腹の上をぐうと押し、


かなえのほとの中を手で触れて診た。


―もうすこし―


産道は開いているのだ。


なんとしてでも生まさしめる。


海老名の手に赤子の頭が触れた。


微かな不安が走った。


―今の手触りはなんだ?―


頭の辺りにざらっとした硬い感触があった。


通常みどり児の頭はおどりこと呼ばれる空洞があって、


柔らかい物である。


「かなえ様。いきむのです。あ、後産です」


恐ろしい不安に、海老名は双生であると、


次の子を生み出すのだとは言い切れなかった。


「は・・・い」


かすかに答えながら、かなえの意識は遠のいて行きそうであった。


ゆっくりと赤子が体の外にではじめてくると、


かなえの意識はとおのいた。


海老名は赤子を手繰るようにひきだすと、


足を持ち逆さにつるし尻を叩いた。


―息をしていない―


鬼の子ならそのまま死なせればよいはずであろうに、


海老名はいきとしいけるものであれば、


誰でもが、そうするであろうことに突き動かされていた。


尻への兆着に、赤子の意識が開いた。


大きく息を吸い込むと弱弱しくあったが、産声をあげた。


海老名は盥に産湯をつかわせると、赤子の体を洗いはじめた。


うっすらと瞳を開けた赤子のその瞳をのぞきこんだ。


―青い・・・―


そっと口の中に指をいれて、押し開いてみた。


―歯?―


固い感触が指に当たる。


―指はどう?―


細く長い指が、明らかに違う。


頭を慌てて、弄った。


―やはり・・・―


角がある。いや。正確には角の萌芽である。


―鬼の子であるのか・・・―


ならば、先の子もそうである。


―なんで、それでも、人の姿をつがなんだ―


さすれば。


自分もこんなことをせずにすんだ。


―おまえをこの世に生かせ・・・―


海老名は赤子の細い指をみた。


親指を内に巻いてしっかりと握り締めている。


親を思う子は親指を握ると言われている。


葬式の列に行きかうときにも死人の魂にふれて


親様に厄禍が降りかからぬようにと親指を握ると教わってきている。


うまれたての赤子はもうその法をえて、


親様を思うから、親指を握るのだと言う。


―鬼の子でなければ・・―


同時に、それでもかなえの子である。


命をかけた子を・・なぜ、鬼であるばかりに・・・。


生ある者を埋める権利がどこにある?


だが、海老名がしなければだれがやる?


深い畏れがある。


畏れを振り払い、かなえの意識がさめぬうちに


無かった事にするしかない。


大きく息を吸い込むと、海老名は赤子の首を締め上げようとした。


「海老名老。ならぬ」


突然の声に海老名の動きはとまった。


「誰じゃ?ここにきては・・」


胸の中の鼓動が止まったかと思うと、早鐘のようになりだしていた。


何もかもがあからさまになる。


「海老名老。我に渡せ・・」


聞き覚えの無い女子の声のほうを見てみると、


明り取りの小窓の所に女子が立っていた。


何時の間にやら空はしらみ、


女子の姿を海老名の瞳にもくっきりと映し出させていた。


―女鬼?―


どういうことであろうか?


童子の采配か?


童子自ら現れれば海老名は迷うことなく


赤子を殺しはてることであったろう。


かなえを連れ去りはせぬ。


子が我子であるなら貰い受けよう。


それで女鬼をつかわせたか?


―そういうことか?―


かなえにも立つ瀬が出来ている。


さきの赤子が人の形であるのだから、


ますます、この赤子を闇に葬るしかない。


―救いに来たか―


海老名は手早く赤子を洗い、おくるみに包みあげると、


産着をかぶせこんだ。


子を渡そうと、赤子を抱き上げた。


海老名の所作を逐一見ていた女鬼が立っていた小窓側から


戸のほうにゆきかけるようであったが、


「海老名老。裏門からいでて衣居山に捨つれ」


いうと、女鬼の姿が小窓から消えた。


―何を・・今つれていってくれるでないのか?―


が、海老名の困惑はすぐに晴れた。


「海老名殿・・いかがであるや?」


戸の外からの声は伊三郎である。


海老名は抱き上げた子が静かであるのを確かめながら


「また、御前様か?」


やってきた伊三郎のせいで女鬼は策をかえざるをえなかったのである。


「いや・・それが」


上臈さえところばらいをかけているというに、


この伊三郎はぬけぬけとやってきたのである。


「きになって、しかたない。


わしが来た事は若にも内緒にしてくれねば成らぬ・・」


「姫であらせられる・・」


「え?」


伊三郎の手がごとごとと、戸をあけはじめようとしている。


しん張り棒をかってあるのだから開くわけがないが


「まだ、後産がすんでおらぬ。


母子共にお連れ申すまでまっておれ。無礼であろう?」


「あ・・」


つい、喜び勇んでの愚挙は、あいもかわらずである。


が、


「姫なのじゃな?若が望みの通りなのじゃな?さすが、かなえ様・・・」


かなえへの賛辞を忘れずに付け加える念の入れようだが、


嬉しさは本意である。


声が、上ずり、はずんでいる。


「一刻後には、おつれもうせように、それまで、まちやれ・・」


「おうよ」


伊三郎が離れてゆくのを確かめると、


海老名は懐から抜き出していた墨筆を棚から下ろした。


赤子を託す墨書を書き始めていた。


かなえの後産も残っている。


大急ぎで思うままにかきしたためると、


海老名は赤子を抱いて、裏門を出た。


先の女鬼がかんぬきをはずしておいてくれていた。


門番も女鬼がうまくおびき出したのだろうか。


どこかに姿をいなされていた。


老体に鞭打つと言うのは、まさにこのことであろう。


赤子を抱きながら海老名は走った。


薄明るさがはっきりすれば人も動き出す。


それまでに、衣居山にたどりつかねばならぬ。


―救われた―


かなえも、赤子も、我もである。


程よい場所に小さな社があるのを見つけると海老名は赤子をおいた。


女鬼が待っているかと思ったが、いなかった。


女鬼が来てくれるのを待った方が良いのかもしれなかったが、


かなえの後産がある。


「よい。ゆくがよい」


海老名の後ろで声がした。


海老名は声のほうにてをあわせると、すぐさま元きた方にはしりだした。


裏門に辿り着くと今度はかんぬきがおろされている。


「あけぬか」


「だれじゃあ?」


声の主を正す門番である。


「海老名じゃ」


「なに?」


あわてて、門番はかんぬきをはずして、海老名を迎え入れた。


「なんじゃあ?」


「産土様に知らせにいこうとするに、おまえはどこにおった」


門番はそれで、戸が開いていたのかと得心顔になった。


「と、いうことは。おお。どちらであらせられたや?」


「ひ、姫・・じゃわい」


息をつきつき、返事をすると、海老名は産所に駆け戻った。


海老名は悲しい事をいわねばならない。


かなえが二人目に気がついておらぬ事を祈りながら、


海老名は産屋の戸をあけた。


かなえはうっすらと瞳をあけ、側に蠢く小さな命をみつめていた。


海老名は押し黙ったままかなえのあしもとにたった。


かなえのはらをなぞり、


「もういちど・・」


いきむ事を要求した。


海老名の手に赤い塊がおちてきた。


えなは役目をおえた事にほっとしているかのように生温かく、


柔らかい優しさを残したまま、桶の中にとぷりとおとをたてて、落ちた。


「もう・・ひとりは?」


かなえはやはり気が付いていた。


海老名はかなえの瞳に立ち向かうしかない。


かなえのそばによると、


「おこころして、おききくだされ」


かなえの瞳が暗く沈んだ。


その瞳に告ぐ言葉を捜す海老名は己の罪に手を合わせるしかなかった。


これが、幸いな誤解になった。


かなえは死産だったとおもったのである。


「産声も・・あげなん・・だの・・ですか?」


かなえの思い違いに乗じるべきである。


「双生は・・・忌みごとです」


死産で良かったのであるという。


「そう・・で・・すか」


朦朧とした意識が覚めかえる中、海老名をさがした。


傍らに赤子がいる。ほっとする束の間。


・・もうひとり・・。


赤子を寄せてくる海老名をさがした。


臥せりこんだままのかなえをおいて、海老名がいない。


かなえが悟った事は、忌み。


この事実だった。


双生である事を知った海老名はこれを隠しおおす事に奔走しているのだ。


捨てることはあるまい?


かなえの知らぬところで、里親をさがしていた?


鬼のこだったら、


海老名はどうしていただろう?


心ある禅師を捜す。


さがして、鬼の子をたくしたのだろうか?


ところが、双生である。


双生ではあったが、傍らに眠る子は間違いなく人のこである。


海老名はさぞかしほっとしたことであろう。


海老名はほっとしたことであろう。


そして、双生と露呈せぬうちに、子を預けに行った。


ここまではかなえは考え、もう、一人にあきらめを就けるしかなかった。


が、死産であったという。


「ど・・どちらだったのです?」


男だったのか?


女だったのか?


「もしかして・・」


かなえはことばをのんだ。


鬼の子だったのではないか?


かすかな、疑いがある。


「主膳様によう似ておりました。あまりに似ておられて・・」


いかに、子の死に顔が父の運命をも、忌みさせるようであった。


「おみせするのがつろうございました」


海老名の心中もわからぬではない。


「それでも」


一目みせてほしかった。


せめて、いたいけなむくろを抱いて、母の別れをつげてやりたかった。


「むごう・・ございます」


土に返すしかない赤子を目の中におぼえこませる。


「海老名はかなえ様がおきづきでないなら・・子は一子。


そう、いいぬけようとおもっておりました」


何も知らぬまま姫だけを抱くしあわせであってほしかった。


「そう・・です・・か」


「かなえさま。そのとおりなのです。子は一子。


そこにあられる姫のみ。姫がため心つよういきて、姫がため・・」


判りましたとかなえはうなづいた。


なにもかも、闇の中なのだ。


もう、一人は夢だったのかもしれない。


そう、信じ込ませたい海老名の奉心に殉ずるしかない。


死んだ子をどこにほうむりさったのか?


かなえはきくことさえやめた。


なかったことにする。


なんど、心を塗りつぶす事になれてしまったことか。


「乳をふくませてやってくだされ」


傍らの赤子がどんなにいとしいものになるか。


それを導き出す赤子の意気を知らせるしかない。


僅かに身体を傾けた、かなえの乳を含んだ赤子はしっかりと乳を吸う。


「いきておらるるのですよ」


「はい」


「精一杯いきておられるのですよ」


死んだこの事などに思いを馳せている場合でない。


かなえの胸の中には、かなえが護らねばならない命がある。


何一つ出来ない赤子なのに、生きるための最初の吸引は強く、雄雄しい。


せいいっぱい乳を吸い、精一杯貪欲に生きようとしている。


「いきて・・ください」


海老名のかなえへの言葉になった。


飽かず眺めている主膳である。


半刻、傍らに伊三郎は墨を磨っては筆をなめさせ待ち受けている。


まだ、名前がきまらぬのである。


赤子の名前を決める。


いいだしては、主膳はかなえと赤子を眺める。


ふやあと泣き出した赤子を抱くとかなえが乳をふくませる。


かなえが綺麗だった。


やさしくて、柔らかい、かなえが


もっと柔らかいものをそっと抱き寄せる姿は


―綺麗だった―


「主膳様・・」


催促するわけではない。


が、名前を決めると言い出したのは主膳である。


飽かず眺める主膳同様。


伊三郎も母子を眺めるが、これまたなみだがうるんでくる。


―おしあわせでございまするな―


母子の姿は麗しい。


それが主膳のしあわせなのである。


それが、主膳のものなのである。


もう、しばらく墨を磨る日が続くかもしれぬ。


主膳は姫に極上の名前を選ぶあまり考え付かないでいる。


墨が乾き始めると吸口から水をたらした。


半紙の僅かな湿気も乾き床の敷布の上でそりかえりそうである。


「勢がよい・・」


主膳がつぶやいた。


赤子が乳を飲む。


その姿に勢いがある。


「ああ。そうだ。勢がよい」


かなえが主膳をそっと見た。


「かなえ。勢・・。勢にきめよう」


「せい?」


「ああ」


伊三郎の筆をひったくると、半紙に―勢―とかいてみせた。


「そうだ。勢。生きる事への勢い、人を愛し、己を愛してゆく」


赤子は無心に乳を吸う。


「勢いのある生き様が・・みえてくるようじゃ」


「勢・・」


確かに乳を吸う赤子の力強さを感じながらかなえは繰り返した。


「伊勢の勢でもあるしの」


通いつめた恋の縁。


伊勢の名はまた主膳には特別な思い入れがある。


「ほい。ほい」


伊三郎は赤子をあやすように主膳の握り締めた筆をよこせと促す。


渡された筆に墨を含ませると


達筆である。



したためた。


白紙に三枚、勢の名を書くと一つは床の間に、


一つは勢の元に、残る一枚を持って


「海老名老。ついてまいられよ」


老は余分だが、


「どこに・・・?」


「きまっておろう」


さあ。それからがめまぐるしい。


城中の人という人の目に見せる。


伊三郎は命名紙をずいと押し出すだけでよい。


海老名はすぐさまに


「勢姫さまであらせられる」


と、かぶせてゆかねば成らない。


最後門番の所まで行くと。さらに伊三郎がいう。


「これからが本番じゃ。ゆくぞ」


おまけに


「走るぞ」


「老体・・無理をなさるな」


門番に門を開けさせると、途端、伊三郎は韋駄天かと思う。


「ま、まちやれ」


追いつくのも、敵わぬ。爺のくせに妙に早い。


「はよう・・報じようぞ」


伊三郎がはしって行く先は、産土様である。


「はよう、お伝えして加護をえねばならぬ」


「もう・・いっておるわ」


落ち着いて答えて見せたが


「それは、まだどこのだれべえかわかっておられぬだろう。


勢様とお伝えして、確かに・・」


そこまで、産土様も阿呆ではあるまいにとおもいつつも、


名こそ綾なす。


呼ばれ呼ばれて名が染みてゆくように、産土様の加護も名こそあれ。


ひいひいと、息をつきながら海老名もやがて走り出した。


勢様が這い、歩き、やがて走るやんちゃ盛りまで、


走る事ももうあるまいと思っておった。


だが、伏兵という者はどこにでも居る。


「どうも・・この男にくわせられる」


ぶつぶつ、つぶやきながらも、こやつより歳であってなるものかと、


海老名も必死の形相になった。


産土神社の森に入り、堂の扉を開ける頃には、


ぜいぜいという声しかない。


三拝九拝で祭壇に命名紙を差し上げると、やっと、伊三郎が一息ついた。


「やれ・・安心」


信心こそ、加護に叶う。


「産土様」


海老名も勢様の加護を祈った。


そのあと遅くに用事があると海老名は外にでた。


仮の名もない。


光来一子としたためると、産土様の加護を授かりに行った。


姿こそ違えども、かなえの子である。


ましてや、あれほど、


かなえが欲した童子の子としか言い様がない姿である。


鬼の子の証を身に呈していたばかりに、捨てざるを得なかったが、


それでも、かなえには勢ととも、


どちらも愛を注ぐ子であったはずである。


「お許しくだされ。海老名の策を。海老名の罪を。海老名の嘘を」


ただ、ただ、あの女鬼に祈る。


光来童子に、祈る。


「おゆるしください」


かなえに決していえない心のうちを吐き出すように何度も唸った。


強くならねばならない。


海老名一世一代の大見栄はきり続けなければならない。


それから、二人の間に子は授からなかった。


嫡男がうまれぬは、まだしも、子さえ授からぬ。


主膳の待てよ待てよも功のないものになってゆく。


とうとう、家臣一同が詰め寄った。


主膳の気持ちは判る。


判るゆえに数を頼みにするしかなく、


かつ、誰か一人に苦言を呈さす事は困難と思えた。


誰か一人に言わせるを白羽の矢とはいわねど、


矢に当たったものも気の毒でもあり、


一人、二人の言上を主膳は聞き入れまい。


既に何度かお耳を借りている事なのだ。


結局、主膳は耳を貸すだけでおわるのである。


勢姫さまのあと、懐妊の兆しさえないまま十年近くの年月が流れている。


むしろ、嫡男のない、十年を家臣もよう辛抱したというべきであろう。


が、このまま、ほうっておくのはならぬ。


嫡男がうまれずともかまわぬのではないか?


だから、のらりくらりと逃げて、側女の一人ももとうとなさらぬ。


重臣の愚痴を聞いて、辛いのは伊三郎である。


家臣のいうとおりである。


主膳の心はかなえ様にしかない。


これが下々の身分であれば、おのこがうまれぬとて、


血筋が絶えようとて、主膳の好きになさればよい。


だが、たった、一つの我侭が赦されぬときが切羽詰ってきていた。


「伊三郎も連名なのだぞ」


主膳の我侭はすでに赦されないところまできている。


これをしっていただくためには、


家臣一同、誰一人の名も漏らさぬ訴状である。


重役が並び、主膳の元に詰め寄った。


主膳の決心がうながされ、幼き頃の主膳のように、今も


云と、一度言えば事をたがえる事は出来ない。


応諾しかない訴えをつめよられ、主膳はきっと、


「長い事心配させた」


と、あやまられることだろう。


そして、かなえ様にどういうのだろう。


仲の良いのは相変わらずで、勢姫が生まれてから直ぐあとからは、


武家には珍しい同衾を敷いている。


側女を持てばいやでもかなえ様の床の横が空になる。


いやでも、判る事である。


それでも・・・。


成った事で事実を知らせる主膳ではない。


どういうのだろう。


どんな、顔でしらせるのだろう。


かなえの父。


是紀には幾人か側女が居り、かなえにも、幾人かの異母兄弟はいる。


大家の習いはわかっていることであろうが。


いまもって、かなえ一人の主膳である。


ふと。


「かなえ様の方が肩身をせまくなされているやも知れぬ」


そうであろう。


とついで間もなし、この伊三郎に頭を下げたお方である。


むしろ、主膳の愛着と子の授からぬわが身との板ばさみで


かなえさまの方が・・。


伊三郎はついと立ち上がると


「わしが、かなえ様のほうにたのんでくる」


主膳が今まで言われた事をかなえさまの耳に入れるはずはない。


かといって、主膳の心を突き放すように、


側女をもたれよとかなえ様が言えるわけもない。


が、こんどこそ、進退窮る。


主膳を押してやらねば、どうやって主膳は己を繕う。


かなえ様にすがるしかない。


その方がかなえ様も助かる。


この事実をさらけてくださるように・・・。


けして、不実でないという事を。


勧めるかなえの心も、他の女子の元に行かねばならぬ主膳も


けっして不実でないと。


この伊三郎しか、言上できぬ。


臍を固め、廊下を歩く。


板ずれが伊三郎の心のようにぎしと鳴いた。


それから、幾日も経たなかった。


側女。男子を生めば間違いなくお方様になる八重が入城した。


健康な女を選りすぐった。


教養。


性質。


修養。


人よりは秀でている。


選ばれた女はさる、公家のおとしだね。


噂されている通り気品もある。


『わしは・・種馬ではない』


いくら上等な牝馬であっても、主膳の心は悲しい。


昼の間に引き合わされた。


「今宵にはおわたりなされるよう」


近習がそっと囁いた。


夜には中空高く満月が舞い始める。


それだけが救いであった。


満月の夜に女子は子を孕みやすいという。


これとて、飽かずかなえに試した事である。


が、甲斐がなかった。


かなえを不遇に落としてしまいたくなかった。


あっぱれ。女子の本懐。男子をなしてこそ妻。


かなえにこそほしかった言葉であるに。


諦めざるを得ない。


「八重と、申します」


顔を伏せた女子をちらりと見た。


これといって曳かれるものもない。


うかない気持ちのまま、


「夜に参らせ・・」


夜にはわたる。


どちらにせよ。せめて満月が救いである。


それだけを告げると主膳は席を立った。


「もうしわけございませぬ」


近習は、冷たい主膳のさまにあやまりをいれるしかなかった。


「いえ。主膳様の愛妻ぶりは・・城下にも」


自分が選ばれたわけもわかっていた八重だった。


夜の帳が下りる。


それでも、主膳が動こうとしない。


かなえの側にうずくまったまま何度も決心をうながしている。


かなえにどういおう。


なにをいっても、かなえを責める言葉に聴こえるだろう。


とうとう、かなえのほうがおきだした。


眠っているふりをしている間にそっとぬけだして行かばよいものを、


主膳はちっとも、動こうとしない。


「主膳さま」


膝に額を乗せて、軽い眠気が襲ってくるのに身を任せ、


現から逃れ始めようとしていた主膳だった。


「どうした」


いつまでも、主膳がかなえの傍らに眠らぬせいで


とうとう目を覚ましたのだと思った。


そうなると、ますます、八重の元になぞいけるわけがない。


「八重様の元へ・・おわたりくださいませ」


かなえの口をついて出た言葉が意外すぎた。


誰がかなえにいらぬことをいうた?


ご丁寧に女子の名前まで。


八重の元へいけといったかなえも辛かろう。


が、


「かなえが言う・・のか?かなえが・・行けというのか?」


かなえは首を振った。


行けといいたくはない。


己の心からの問題ではない。


主膳の自分に寄せる思いを見れば見るほどに


どの口でそんな事を言いたかろう。


けれど。


「主膳様のお体はかなえだけのものではありませぬ」


「かなえ?」


心一つはいかほどに自由でありとても、


身体、立場まで、かなえとて、わが心のままにならないように、


主膳もまた同じなのである。


身体と立場だけのことというてくれるか?


この心はかなえ一心にそそがれるものでしかないというてくれるか?


「かなえ」


引き寄せたかなえの瞳を覗き込んだ。


「主膳のこの思い・・かなえ様だけのもの」


下僕のようにかなえへの忠節を言わずにおけない。


いかにいとしい。


だからこそ、証のようにかなえを抱いてきた。


だが、今日を限りにそれは証ではなくなる。


言うしかない。


言葉しかない。


かなえこそ命。


この思いは、もう、言葉でしかあらわせられない。


そして、この主膳の狂おしさに自らが苦しむ事が


かなえへの証でしかない。


「かなえ」


かなえをひしとだきしめた。


「八重様も女子。望まれぬ苦しさ・・」


かなえの言いたい事はわかる。


一歩違えばかなえの心を手に入れられなかった主膳だったかもしれない。


あの弓を引けたのは正に千載一隅。


かなえを迎えられなかった苦しさを考えれば、判る。


八重はみしらずの男の、それも子を成す道具になろうとまで


覚悟を決めてきたのである。


望まれぬ苦しさはいかばかりであるか。


形だけでも功を成すならまだしも、触れられもせず、心さえ、元にない。


「むごい・・男じゃ」


「八重様は全て・・承知の上・・ゆえに」


何もかも判った上でやって来た八重は、


この男子のない夫婦を救いに来たといっても過言でない。


「その八重様の心を・・」


せめて。形に頂くしかない。


それが主膳の出来る返しでしかない。


「・・・・」


なにをいえばいい。


かなえとの間に男子さえおれば・・。


言うてもせん無い事であり、言えばかなえを責める事になる。


「だから・・」


ゆけというか?


いって、八重を抱けというか?


主膳はたたみに額をする。


零れ落ちそうな涙をこらえ、


やがて、主膳は笑った。


「身体だけ・・しか・・やれぬ」


「はい」


部屋を出てゆく、主膳を黙って見送ると、


かなえはひざまづいた。


「八重様」


御免。こんな言葉で到底語りつくせない心の底。


「かなえは・・」


かなえこそ・・鬼です。


かなえの心はいまも・・・。


なのに、主膳の優しさにうもれ、


今まで・・いきながらえてしまった。


八重様。手を合わせかなえは祈った。


どうぞ・・主膳様をおすくいください。


無情なかなえをお許しください。


膝をおったかなえは長い間二人を祈っていた。


かなえが主膳と決別できたのは、この時かもしれない。


かなえが、この時まで生きおおせたのは主膳を悲しませたくない、


それだけだったのかもしれない。


八重の元に主膳はわたった。


が、


それきりである。


哀れなるは八重であるが、


その後、主膳はどうしても八重に寄り付きもしない。


「たしかに」


伊三郎は聞くべき筋でない事と十々に承知しながらも八重に尋ねた。


主膳との間にことがあったのか?


「はい」


項垂れそうになる顔を伊三郎に向ける八重は確かに嘘は言ってない。


だが、子種を孕む道具としてしか八重を見ようとしない主膳である事も、


同時に八重を沈ませている。


「お心までいただこうとは・・・」


思っては居ない。


だが、そのあとの主膳のふるまいは悲しい。


八重と肌を合わせたあとの主膳は、そのまま、湯殿に向かった。


冷めた湯はもう水といっていい。


不浄を洗うがごとく、主膳のみずごりが長くきこえた。


そして、主膳はもう、現れなかった。


その一度で八重の懐妊をいのったか。


水ごりはいのりであったか?


主膳の祈りがききとどけられたと判るのはそれから二月。


伊三郎は、少し悲しかった。


八重の懐妊で主膳が嫌々に八重と向き合うことはない。


男さえ生まれれば、主膳も取り合えずは安泰。


だが、男がうまれれば・・かなえ様は・・・。


そして、孕み道具としての八重は・・・。


愛されておって立つ瀬がない。


立つ瀬があって愛されない。


かなえ様も八重様も・・・お互いの姿になみだされる。


どちらが不幸であろう。


不器用な男でしかない主膳である。


かなえ様に上手く甘えて、八重様にも、


心一つ分けてやればよかろうに、裏か表しかない。


こんな不器用な男の妻になったかなえ様も、


やがてお方様になられるだろう八重様も、


どちらも、主膳様は不幸になさっている。


それでも、八重様の主膳を思う心がいじらしい。


きっと、それは、かなえ様もわかってらっしゃる。


かなえ様は昔からそういうお人であらせられる。


「ふううう」


出てくるものはとめようとしていなければ


尚更、お構いなく伊三郎の口を沸かす。


「はああ」


何度目かのいうにいわれぬ重い思いの溜息に


「うるさいの。男がはあ、はあ、ひいひいいうておるな」


咎めたのは海老名であった。


「おや」


海老名を見れば伊三郎はその近くに勢様がおろうと、目をほそめだす。


海老名が面白くなさげにさらに咎めるかのように尋ねる。


「だれをさがしておる」


聞くまでもない事をわざわざ聞くにもわけがある。


「きまっておろう・・せ」


勢様といいかける伊三郎に海老名の返す言葉にけんが篭った。


「お前は、男のもりをしたいのであろうが?


勢様に何のようだてがあろう?」


「う・・」


判った。読めた。


八重の懐妊を知ったな。


知って、文句の言える筋合いでないのを判っているからこそ、


この爺にあたってきおるな。


「す・・すまぬ・・の」


伊三郎がどうにもしてやれぬ事である。


海老名の胸中を思うとせめて、伊三郎が謝って宥めるしかない。


「いや。そう・・ではない」


気取られた事にうろたえ、


伊三郎の謝罪が尚の事、あきらめるしかない事を如実にさせる。


「すまぬ。だがの。お前様より辛いはかなえ様であろうに。


お前様がよう側について、お心をはれさせてくださらねば・・」


「い・・伊三郎殿?」


「懐妊のおめでたき事となりとて、主膳様のお心はかなえ様のもの。


八重様には誰もおそばで心なぐさめるかたもない」


「う、うん」


「どんなにか。かなえ様がおしあわせか。


おまえがおろう。勢様がおろう。


ましてや主家のおこころがあろう」


「・・・」


「わしぐらい・・よかった。よう、孕んで見せた


と、八重様をほめてやりたいわな」


「狭義じゃった・・・。すまんかった」


「いや・・」


首を振った。海老名の気持ちは判る。


男さえ産んでおれば、かなえも主膳も踏まずにおけた運命であろう。


「せんないのおお」


男が生まれておれば


悲しい八重も、主膳も、かなえも、海老名も、伊三郎もいなかった。


男さえうまれておれば。


「せんないわのお」


呟きをほそめた伊三郎である。


この男も辛い気持ちを堪えているのである。


言うてもせんない。


伊三郎の呟きが胸の中でこだまする。


あれから、子さえ宿らぬ。


一口に十年といってみたところで、


この十年の間にかなえと主膳の結びが


いかにくりかえされたことであろう。


なれど、子が宿らぬ。


宿った子は・・・光来の子のみ。


この事実を知るものは海老名だけであるが、


ゆえにいいきれる。


かなえの心は今も光来にある。


かなえの中に落とされた光来の精はかなえの血に溶け込んでいる。


血は思いを変える。


変わらぬ思いがいったん染め抜いた血を変えようとさせぬ。


相重なり合う物が今もかなえを差配し、


かなえこそが思いを差配する。


主膳の血を、精を受け止められぬ身体に塗り替える事で、


かなえは童子を護ろうとしている。


どんなに主膳が望んでもかなえの身体は主膳の胤を受け止めない。


感覚や、感性や喘ぎはさも主膳のものであるかのように反応を見せるが、


かなえの底は今も童子の物でしかない。


かなえはこの事実にきがついているのであろうか?


気が付いているとすれば・・・・。


勢が誰の子であるかも考え付いている。


かなえは八重の懐妊を聞いても、


いや、それより既に八重が側室に納まると知っても、


顔色一つかえず心乱す事さえなかった。


かなえは主膳の寵愛を受けながら、


七日を共に過ごした光来の夢にふれていただけだったのであろうか?


かなえの心に主膳への執心はない。


有るのは、あまりにかなえを思う主膳への侘びなのかもしれない。


勢が誰の子であるか?


かなえがもしきがついているのなら・・・。


恐ろしい思いに身震いが起きる。


主膳は八重の元に寄り付きもしない。


八重の女としての悲しさを、かなえは一番知っている。


運命のこよりは思う人に逢うことさえかなわなくさせた。


思い一つだけがかなえの真実になった。


この思いさえ心の奥底に沈めた。


悲しくさみしい。


このかなえの心が八重を知る。


自分さえおらねばとも思おう。


もう、居なくなっても構わないのだとも思おう。


主膳の心を支える人が現れたとも思おう。


かなえをまよわすのは、勢だけである。


その勢が光来の子なら・・・かなえは・・。


かなえは勢に何をみる?


母に残される子のかなしみではない。


この心一心。


光来こそ命。


明かしてみせる恋の生き路。


命なぞ要りはしない。


明かしてみせる。


この命かけて恋得た男こそ、かなえのすべて。


その男の子である。


―みせてみしょう。―


海老名は慟哭を押さえきれずにわなないた。


かなえの心が見える。


気がついてはならない事にきがついていてくれるな。


祈る心が手をも震えさす。


主膳の子と信じたかなえがして見せた生き様は


くずれようとしているのか?


伊三郎の言葉は海老名の表面をなで払い奥底を振るわせる。


いうてもせんない。


せんない。


いくら、のぞんでも、かなえの血は光来のものなのだ。


十年という年月があかしてみせた光来とかなえの恋。


こんなことなら。破瓜の印とて誤魔化すでなかった。


神王の理が結実したその時に、


かなえを光来の元におくりだすべきだった。


かなえ・・は。


かなえは、もはや己のために生きる事を諦めていた。


己を思う人の心が痛かった。


それに逆らわないこと。


海老名の主膳に託す思いにかなえは詫びた。


詫びていきとおしたとしか思えない。


「誰のために・・・」


生きてゆく術は悲しませたくない、それだけのかなえだったに相違ない。


かなえは、きっとしぬ。


いつか、死ぬ。


そのときこそ、自分のためだけをつかみとるのだ。


「かなえ・・さ・ま」


こころのまにまにを・・思い浮かべてみるたび、


いつも、かなえは


主膳がため、海老名がため、勢がため、生きる事を選んだように思う。


死を選び取る事だけがかなえの心でしかないのか?


悲しい現に海老名はふと瞳を閉じた。


瞼に浮かんでくるのは、階を抜け出たかなえである。


自由奔放。


心のままにいき、


海老名にぺろりと舌を出して見せたその瞳こそ輝いていた。


何ものにも縛られぬ事のない恋に生きていた時だったのだろう。


「海老名が・・・・何もかもをとりあげてしもうた?」


明るくくったくないかなえが変わったのはそのころであろう。


会いたい人に会えない。


かなえの心が今更にくるしい。


唇をゆがめ零れ落ちる涙を堪えたい。


海老名が何もかも・・・とりあげてしもうたのだ。


伊吹の山は深い。


用事を取り付くろい、海老名は城をでた。


目指すところは、伊吹の山。


住み着いた鬼。


光来童子を捜す。


「いでませえええ」


「光来童子いーーーーーー」


「いでませえええええ」


声を枯らし、呼び続け呼び求めた童子は現れない。


「いでませえええええ」


頂上は近い。


なれど、海老名の声にこたえる童子はない。


「どうせよという」


八重は一子をうんだ。


子は男。


主膳はその名前を一穂と定めた。


実りは一つ。


それで終わりにしてくれ。


主膳の痛々しい想いが刻まれた名より、かなえが気に成る。


かなえは己の存在を無にかえそうとしよう?


かなえを救えるものはもはや、童子しか居ない。


「いでませええええええ」


声の限りに叫んだ伊吹の山の頂上にたちても、


依然と光来童子は姿を現さなかった。


「かなえ様が、しんでよいというのかあ?」


恐ろしい切迫感がある。


成らぬ。成らぬと首を振るのに童子はあらわれぬ。


「そうまでして・・かなえ様のあかしがほしいかあああああああああ」


海老名の慟哭が澄んだ空気の中にひびきわたる。


「前世。そう、きめごとになされるかああああああ」


虚しい。


虚しい叫び。


海老名はうずくまる。


あきらめねばならぬか?


それとも、思い過ごし?


かなえさまは生きおおしてくださる?


ぽつねんとうずくまる海老名を夕暮れが包み込み始めた。


信じるしかない。


かなえさまは決っして、しんだりなさらぬ。


童子が生きおおせとつげた。


とおり、かなえは生きるしかない。


光来童子への恋に殉ずる為に、


かなえが出来る唯一の事はいきおおすことしかないはずであろう?


海老名も信じるしかない。


だが、山を下りた海老名を待ち受けていたものは過酷な運命だった。


「きがついておりました」


その夜にかなえは海老名に告げた。


「な?なにを・・」


「勢は童子のこです」


「なにをいわされる」


「双生の子は悪童丸といいます」


「え?」


「いきておりました」


「え?」


「かなえはいきてゆきます」


どこでしった?


何で知った?


海老名さえ知らぬ子の名前を何故しっている?


悪童丸。


確かに書いた。


この子、悪童なりて・・。


どこの親が我が子にこんな名をつけよう?


いきて、いきおおしたことを知らしめる名前こそ、


あの女鬼が与えた物に違いない。


そんなことより・・。


かなえさまはいきおおすといってくれた。


海老名はその言葉に安堵していた。


だが、心の色を表す言葉が


時に、告げる人と聞かされるものとでは意味合いが違う事がある。


まさにこのときがそれだった。


かなえは童子への想いに生きるといったに過ぎない。


小さな誤解。


そして、大きすぎる生き様の違いを見せられるのは


直ぐあとのことだった。


かなえはとんだ。


童子と生きられるならあそこより落ちてかなえは死にます。


天守閣は広げた童子のかいなに飛び込んでゆく踏み台に過ぎなかった。


「童子・・・」


こころ一つを童子に染め替え長きの裏切りをすてさり、かなえはとんだ。


童子・・。


童子・・・・。


童子・・。


かなえのこころは一つに染まっていた。


幸せの頂上は、直ぐそばにあった。


かなえを抱きとめた童子のかいなはかなえの夢だったのか現だったのか。


けれど、確かにかなえは童子だけのものになった。


かなえさま。かなえさま。


海老名がかなえを呼ぶ。


振り返ったかなえは向こうを指差した。


「海老名。あの方がかなえの殿御です」


「綺麗な・・・青磁の様な瞳」


「はい。あの瞳の中にかなえをうつしてくれるのですよ」


「おしあわせなのですね?」


「はい。それだけで・・・」


夢の中のかなえは、幸せそうだった。


夢を見させてくれたかなえに、海老名はそううといった。


「かなえ様は光来様だけのものですよ。


海老名とかなえさまだけの真実。誰にも内緒だけど・・」


かなえの菩提に手を合わせ海老名は立ち上がった。


「勢様に琴をおしえてあげませなんだな?


かなえさまは母親失格でございますよ」


海老名に出来る事なら、何でもさせてもらおう。


そして、いつか、かなえさまがどんなにしあわせであったか。


その死は決して逃げではない。


おおきな証である事を勢様に告げえる事が出来る日が来る事を


海老名は祈った。

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