理周    白蛇抄第12話

笙をよくする。

ひちりきも横笛にもひいでていた。

理周の住まいは寺の敷地の端の小さな小屋である。

本来、寺男なるものが住まいする小屋に

女性(にょしょう)である理周はくらしていた。

理周が洸円寺の外れに住まうようになったのは、

理周の性が女として機能しだした頃からである。

理周を育ててくれた洸円寺の和尚艘謁も、

理周の女の機能の発祥は当然くるものとして、判っていたことであった。

が、寺の中には男ばかりがうようよしている。

理周は尼でもなければ艘謁の娘でもない。

寺の前で行き倒れた女が連れていた子供である。

母親は直ぐに死んでしまったが、子供には行く宛もないとわかった

艘謁は、一人で食えるようになるまで

面倒をみてやることにしたのである。

女の機能を具有した理周が若い修行僧と同じ屋根の下で、

寝起きを共にする。

どう考えても、互いのために良くない。

修行のじゃまになる。

何かあっては、理周にすまぬ。

理周を若い僧の目に触れぬようにしてやるのがよい。

考えた末、理周に寺の隅の小屋に住まいを移すことをすすめたのである。

幸いな事に理周は雅楽の才に恵まれていた。

着物の合わせに入れられた横笛をふかせた、その最初に、おどろいた。

艘謁は本物の才にであってしまったのである。

寺の宗門とは見当違いな才分であったが、

いずれは一人でくらさねばならぬ。

たっきの伝になるのならと、禰宜に頭を下げた。

これが功を奏したか、ことあるごとに、

禰宜は理周をつかいだててくれたのである。

理周の才分は、艘謁が睨んだとおりのもので、

禰宜の下での法楽ごとがきっかけで、

理周の腕は聞く人のみみにとまることになった。

いまや、雅楽の大御所である硯柳会からさえ、

お呼びがかかるようになってきている。

こうなればなるほど、寺の者にしなくてよかったことである。

きっちり他人としての線を引いておいた事がゆえ、よかったのである。


寺の隅の小屋に、どんな人がおるのかも知らぬ。

寺とは縁もゆかりもないのか、小屋をかりうけて

すまわせてもろうているだけか、

よく判らぬ女がいる。

よく判らぬのは、ことさら、女が笙をよくするせいである。

朝早くから雅な御召しを着込んだむかえがやってくる。

それっきり、女はおらぬようになるのである。

境内を掃き清めていたこ坊主が、出かける理周にきがつくと、

庭帚を動かす手をとめた。

ぼんやり突っ立ったまま、門にきえてゆく理周をみおくっていた。

「これ!」

叱られた声に振り向くと、寺の修行僧の頭角である晃鞍がたっていた。

叱られた事は、どっちであろう?

女性をみていたことか?

掃除の手を休めていた事か?

いずれにしろ、こ坊主はあやまるしかない。


晃鞍はこの寺の住職である艘謁の一人息子である。

この宗派は妻帯を禁じられてはいない。

が、若いうちからどういう徳か、

艘謁の人柄か、寺には修行を目指す徒が集い始めた。

当時の悪天候に食うに食えぬ貧困が生じてもいた。

このせいで坊主にでもなるかと艘謁を頼っただけに過ぎないと

穿ったみかたもできなくはない。

今でこそ静かなたたずまいを見せている伽藍の中も

一時は擦髪がくりくりと並んでいたものである。

この溢れかえる僧の多さに、艘謁は、

寺に隣接された母屋での妻帯をあきらめたのである。

同じ敷地の中で、かたや無念無想の修行。

かたや、女の腹の上で嗚咽を漏らす無想の境地。

煩悩もいきておればこそ。

この煩悩なくして己の生もなかずんば、

煩悩がこそ、ありがたき、人の由縁である。

だが、有在、無在。

形の違いで人の思いを変え行く応召の悟りは頭でわかっていても、

修行の身をいたずらに試すだけであろう。

艘謁はいきおい通い婚を選ぶしかなくなったのである。

妻を黒壁町にすまわせた艘謁は、やがて、一子をもうけた。

これが先の晃鞍である。

年端がよいころあいに晃鞍を寺に向かえ、名も晃鞍と改めた。


晃鞍が十三の歳であったろうと思う。

寺の門の前に行き倒れの女が仰臥した。

小さな手が門を叩き、

幾度と僧を呼ばわる幼い少女の声が響いた。

でてみれば、息絶え絶えの女がへたりこんでいる。

晃鞍は慌てて父親を呼びに堂に入った。

寸刻のちに、女は担ぎこまれた布団の中で息をひきとったのである。

母親の枕元に座る少女は泣き声も上げなかった。

身体の弱かった母親が、いつか逝く。

覚悟がついていた。

何度かこんな覚悟が現実になるかもしれない事をくぐりぬけて、

ここまできたのかもしれない。

その時がとうとうやってきた。

少女は事実を受け止めるだけしかなかった。

何ゆえたびをしていたのか、判らないが

弱い身体をおって、歩き続ける母親の姿は

少女の心の中に祈りを作らせたのかもしれない。

もう・・・。苦しむ姿をみないでいい。

かすかな安堵が少女のなかにある。

「綺麗な顔をなさっておる」

おもいのこすこともなかったのか。

身体をおそう苦しみから、解き放たれた仏の顔は

むしろ、あでやかに見えた。

少女の思いをさっした艘謁は母親が安らかに浄土に旅立ったとつげた。

「はい」

利発そうな大きな瞳が潤んだ。

「母人はほっとしておる。ひとつ、気になったは

おまえのことであるがの・・」

「・・・」

幼すぎる少女がことは心残りであろう。

「わしがみる。あとがことはわしにまかせよというてやったからの」

「はい」

女は、艘謁に心を託すと、みがるになった。

「あがっていきよろう」

「母さまは・・楽になられた・・のですね?」

「そうだよ」

こくりとうなづく少女の頬に、やっと涙が伝い落ち始めた。

透明な雫が次から次あふれかえり少女は声も上げず泣いた。

晃鞍はそっと手拭いを少女の手にのせてやった。

晃鞍は今も覚えてる。

少女は涙を拭うおうともせず、晃鞍の渡した手拭いを握り締めた。

落ちてくる涙が膝に置いた手の甲におちてゆく。

握り締めた手拭いの中に滴れ落ちる涙が手の甲から

次々と線をえがいていた。

震えるような指先に渾身の力が篭っていた。

少女は声を殺して泣いていたのだ。


少女の名は理周といった。

母親の弔いを済ませてやると、

寺の無縁仏の段組にそとばをおいてやった。

はじめ艘謁は、理周を黒壁町の妻に任せる気でいた。

ところが、理周がいやだというのである。

「ここにおいてください」

寺には母親が眠る墓がある。

むりのないことであろう。

歳を聞けば九つ。

もう直に十になるとこたえた。

が、幼くても女子は女子である。

年端が行けば、女になる。

どうするか、まようたが、女子のつややかさを匂わすまでには

幾分いとまがあろう。

今無理に悲しみにくれる少女を母親の側からひきはなすこともなかろう。

気が落ち着けば妻の元にいくといいだすやもしれぬし、

それより先に、どこかよい養子先や奉公先があるかもしれない。

少女の中の女を危惧するのも、いささか甲(かん)走りである。

こうして、理周はしばらくは母堂で、

艘謁や、晃鞍と寝食をともにしたのである。

喜んだのは晃鞍である。

一人っ子であった晃鞍は同門の徒という兄弟こそ指に余るほど居たが、

世に言う、姉や妹という、女兄弟はいない。

母親とも随分早いうちに居をべつにし、

女の持つ柔らかな物腰に餓えてもいた。

庇うてやらねば成らぬという、想いを沸かされるのも

そこはかとなくおもはゆい。

晃鞍は妹をえたのである。


ところが、三年もたったころであろうか。

理周は相変わらず、母堂にすまいしていたのであるが、

突然、居をうつされた。

すくなくとも、晃鞍にはそう見えた。

「理周・・・こわくはないか?」

寺の隅に住まい、理周は一人で煮炊きをして、一人で飯をくうた。

米や野菜をはこびこんでやると、

必ず晃鞍はそう尋ねた。

夜のしじまはひとりではこわかろう?

なんで、父艘謁が理周をこんな寂しい所に一人すまわせるか、

わからない。

「理周がおなごになったからです」

「おまえは、はなから女子じゃわ」

馬鹿なことをいうておる。

「ご母堂に穢れをもちこんではなりませんに」

「ああ」

やっと、わかった。

女子には障りがある。

だが。

「もう・・・なのか?」

「ええ」

「うとましいの」

「はい」

「あ、ならば?」

謡いの場にもでれぬのか?

雅楽のほうはどうなる?

「その時はでられませぬ」

「そう・・なのか・・・」

理周は、わかっていた。

自分が女である事がよくないと。

出来れば、どこかに居を求めそこにうつるべきであったろう。

が、母親が死んで三年。

堪えきった悲しみがまだ胸の底によどみつづけている。


母は・・・ひとりだった。

物心付いた時から、理周には父と呼ぶ人はいなかった。

母はおそらく、道ならぬ恋をして、理周をうんだのではなかろうか。

理周が五つのとき、母が横笛を出してきた。

行李(こうり)の奥から晒しに包み込まれた細長いものを出すと

晒しを開いた。

黒い下糸に銀糸を綾なした小平(こひょう)紋の細い袋があった。

意匠のものめずらしさに理周もいきをのんだ。

その袋の中にあったのが横笛であった。

「お前はあの人ににて、細い、長い指をしている」

理周の父親のものだったに違いない。

理周の才を確かめたかったのか?

「あのひと」の子である理周をみいだしたかったのか?

「ふいてみなさい。ふけたら・・おまえにあげる」

戸惑う理周に

「みててごらんなさい」

母はふえをとると、唇の下に裸管をあてた。

静かな音色が流れ出した。

理周は食い入るように母をみつめた。

じっと、奏でる法を探る理周に柔らかな瞳をむけると、

「やってごらん」

手渡された笛を理周は見たままになぞらえてみた。

かすかな音色がこもり、笛は音をたてた。

「ああ・・」

笛はむつかしい。

手に取ったばかりのものが音をだす事さえできはしない。

笛を初めてみた、理周である。

ましてや、五つのこである。

「あなたにあげます」

母は、理周のそれを吹けたと言う。

「大事なのでしょ?」

あんなにそっと、行李の奥からだしてきた母である。

「だから・・・。あなたにあげます」

笛は父のものなのだ。

母も・・・。

父のものなのだ。

父だけのものだから、母はひとりでいきているのだ。

幼い理周は例えようもない哀しみを理解した。

その日から、理周は笛をふきつづけた。


身体の弱い母だった。

自分の死期を悟った母は突然旅に出るといいだした。

京にゆきます。

それしか、いわなかった。

理周の父親は京の雅楽士なのだ。

たぶん。そう。

けれど、京のどこに住み、なんという名であるかもいおうとしない。

名前も告げないわけさえはなすのも、つらいのだ。

母を見る理周は思いをひた隠す事を覚えた。

たった一言が責めになりかねない。

倣い覚えた堪え性である。

母は一人で何もかもを堪えた。

最後のたびはなんのためだったのか?

一目「あの人」をしのび見たかった母だったのか?

理周の目に父親を教えてやりたかったのか?

今更、理周を父親に託すしかなくなったのか?

父親という人は母に笛を渡すくらいであるから

母の事は本意であったろう。

が、その母にこの理周がおる事をしっているのだろうか?

何も聞かず、理周は母について歩いた。

母も理周に何も言わなかった。

道半ば、京の都はもう直ぐだったのに、母は逝った。

母の墓を見守っていると、理周は思う。

母は「あの人」の側に

少しでも近い場所に行きたかっただけなのかもしれない。

母の死もしらないだろう「あの人」の代わりにさえもなれないが、

理周はもう少し母の側にいてやりたかった。

妻のところにいかぬかという、艘謁にふたたびわがままをいうた。

「理周?」

晃鞍が物思いに耽る理周を呼びかけた。

「ああ?はい?」

「きちんと戸締りをせねばいかぬぞ」

僅かに男の生理が理解できるようになってきている。

晃鞍、十七になる。

男としては晩生かもしれぬ。

「よほど。ここに一人おる方が無用心でいかぬわ」

やっと、理周の立場がわかってきた。

母堂におっても、ここにおっても、

女子であることには代わりはないのであるが。

「よいか。誰がきても、何をいわれても中に入れては成らぬぞ」

なにがあるかわからない。

「わかっております」

艘謁にもくどいほど念を押された事である。

「ふむ」

晃鞍は頷く理周を改めて見なおした。

やたらとほかの修行僧の目に触れぬ方が確かにいいかと思った。

妹は存外、美しい顔立ちをしており、

伸びやかな身体は、華奢な女子のか弱さを色として芳せはじめている。

理性とは別の物がこれを手折りたくなるものなのかもしれぬ。

「眠る前に一折笛をふいてくれぬか?」

それで、理周の一日が安泰であった事が聞こえる。

「わかりました」

「息災でな」

永の別れではないが、

あまり晃鞍も理周の小屋にこぬほうがいいなとおもった。

理周を知らぬものにだれがおるの、どうのと、いらぬ興味をもたせる。

理周が母堂を出たわけを知っているものは慎ましいであろうが、

知らぬものは、晃鞍よろしく、

いっこう何も気にせず、理周を訪ねるかもしれない。

暗黙の了承。決め事になっていて、

だれも理周にはちかよらぬことであるが、

男が理性を押しつぶしたら、破門も追放も頭にありはしない。

「ここを・・でたほうがよいのかの?」

と、いって、外に出ればまたおなじであろう。

よけい、晃鞍の目が届かぬ分、尚に心配なだけである。

それに・・・。

「さみしゅうなるわの」

母の元に行ってくるるのが一番よいのであろうが。

「ふうむ」

理周も艘謁の男の性(さが)をわかっているのであろう。

水入らずの夫婦の場所に入り込む気になれない。

と、いうことであろう。

存外女の方がおとなびるものである。

晃鞍が考えてみなければわからぬ事を

理周は肌で感じ取っているかのようであった。

母を離れに呼びきれなかった父は

理周を離れにすまわす事が出来なかった。

あれはあれで、女房をたてているのであろう。

妻をすておいて、理周を離れにすまわすのは、

別にかまわぬことにおもえた。

が、人の思いはどうであろうか?

とうとう、てかけにしたか?

これをおそれたか?

修行の僧へのあおりと、妻の嫉妬をこうむりたくなかったか。

存外気の小さな男に見えた。

が、艘謁の想いは別にあった。


理周の我侭はそれから、三年を裕にかぞえた。

理周。十八になる。

晃鞍は三つ上だから、二十一。

艘謁のいましめもあり、

晃鞍は朝に理周のところに米、野菜を届けるようになっていた。

「たりておるのか?」

顔を覗かせた晃鞍が見た理周に息をのまされた。

揺楽の誘いがある。

「・・・・」

理周は絹の羽二重に身をつつんでいた。

「ああ」

端正な顔は幾分、寂しさをうかがわせている。

が、それが絹の白糸に凛をうかばさせている。

「は・・花嫁のようじゃの」

「しろすぎますか?」

「いや・・」

よう、におうておる。

「明日はとおくにいきます。はようでるので」

初手から絹をきて出てゆく言い訳をする理周は・・・・

「きれいだな」

「ほんに、もったないような絹」

「う・・うん」

綺麗なのは理周だと言い切れずに頷いた。

晃鞍が様変わりしだしたのは、このころからであろう。

いくら戒の教えをしったところで、実情を知らぬ者の戒は厳しさがない。

晃鞍はまだ己に芽生えた実情さえ、意識していないのである。

無い心に戒めるかせはない。

この頃から晃鞍はやるせないため息をつくようになった。

それが、なんであるか、

誰のせいであるか、

晃鞍は妹を思う想いが、女への限られたものであるとは

およびつきもしていなかった。

出かけた理周に立ち代るかのようにやってきた禰宜が

もたらした報が晃鞍をくるしめるまで。


「嫁にくれ?と?」

尋ね返す艘謁に禰宜はいささか、とまどいをみせる。

「そう・・ではないのだが。まあ・・にたようなものだ」

由緒は正しい。身分も、人品も決して卑しくない。

が、立場上、下賎の者を妻に迎えるわけには行かない。

理周に心を寄せた雲上人は、思い余った。

側女といえばいいか。

男子をなせば、それでも、格は上がり、

衆目の認めるお方さまに遇せられる。

それを頼みに、理周を迎えるしかない。

雲上人に頭を下げられて禰宜はやってきた。

「ふ・・む」

天涯孤独の身の上の理周にとって、悪い話ではない。

普通なら会うこともかなわぬ相手である。

それが・・。

「本意であらせられるはいうまでもない」

「うむ」

「どうであろうの?」

「理周がどういうか」

そこである。

だが、遊び心であるなら、こんな禰宜に頭を下げず、

理周をよびつければよかろう?

―伽を求むー

それで、おわる。

断れる立場でない。

雅楽の進退を量りにかけられ理周に応諾しかない。

が、無体を望まぬ。

このありようが既に本意である。

「う・・む」

「勿体無いようなお心であるに、断る馬鹿もあるまい?」

虫けらほどの価値もないような下々の女の心を、本意にのぞむというか。

「誰・・なのだ?」

「おどろくなよ」

禰宜は耳をよこせという。

艘謁は小さく告げられた言葉に色をなくした。

「ことわったら?」

「そうさせぬようにお前に相談じゃろうが?」

「それでも。いやじゃというたら?」

禰宜は嫌な目をした。

「断りを入れてくるような・・・わけがあるというか?」

つまり、例えば既に深い仲の男がいるのか?と。

「い・・や。それは・・ない」

とぎれる言葉が、うろんげで、なおいやらしい。

「ほんとうか?」

念を押してみたくなる。

「ああ。あれはそのようなおなごでない」

男にほだされるような女子でない。

理周はむしろ、男というものをにくんでいるだろう。

母を独り寂しく生かせ、逝かせた男という生き物を。

「今の言葉。うそでないな?」

「ああ。だが・・」

艘謁には見えていた。

「理周はうんとはいいたくない。それが本意だろう」

禰宜の口から溜息が出そうである。

「無理をいいたくないか?」

「・・・」

「お前がいえば」

頷くしかない理周だろう。

「だからこそ・・・」

いいたくない。

「薬師丸様もおなじようなことをいうておった」

艘謁の瞳がたたみの縁を見詰ていた。

「すいた女子だからこそ、無体はしとうないと」

「薬師丸様が、それで、諦めれるぐらいのお心なら・・」

そういう考え方もある。

諦めれるくらいの気持ちなら、尚、無理はおしつけたくない。

「理周に・・きめさせよというか?」

「できるなら」

考え込んだ禰宜は

「それでも、この事は必ず理周にきいてくれるということではあるな?」

「そうなるな」

案外、理周がうんというかもしれない。

それもたしかめねばなるまい。

「あの、お方だからの」

「ああ」

麗しい方である。

女子なら、声をかけられただけでも、夢のようにうれしかろう。

それが、本意であると懸想をつたえられる。

「まあ、あんずるよりということもあろう?」

「うむ」

「たのむぞ。しかとつたえてくれよ」

艘謁が伝えれば事はなったも同然。

嫌な計算付くを、胸で確かめながら禰宜は重ねた。

「薬師丸様のご母堂をしっておるよな」

「う・・」

「賢壬尼さまだわの」

息子の色恋に加担するとは思えぬが、

長浜の仏道を掌握しかねぬほど、人心に名を馳せた尼人である。

今は京の羅漢寺に風と戯れるかのようにひっそりとくらしている。

「わかった」

艘謁が頷く訳は、いずれのちにはなすとして、

約束は約束になってしまったのである。

ここは、やはり理周に話すしかない。

艘謁の胸の中ではわかっている。

否。

この理周をみるしかないのである。


理周は余呉にいる。

小さな浮御堂が余呉湖の端にたたずんでいる。

山は四方をかこみ、

大きな湖の北に位置する余呉湖をつつみかくしている。

琵琶の湖にくらぶれば、水溜りほどに小さな余呉湖を知るものは少ない。

清閑と水をたたえている湖は山の藍翠を映しこんで、漣さえ立てない。

時折、通り過ぎる一迅の風が湖面に銀色の皴をつくり、

なだらかなみどりを深くのみこむと、

静まり返った水面は一層藍が濃くなった。

「母上をここにおつれもうそうとおもっておる」

羅漢寺にいる賢壬尼は薬師丸の母親である。

「ここに?」

あまりにひっそりとしすぎておりはすまいか?

横笛の手を休めた理周は、怪訝そうに薬師丸を見た。

「京の都も殺伐としすぎていて、母上にはかなしそうだ」

きいたことがある。

京の都には子を喰らう鬼女があらわれると。

むろん。もともと、女は鬼ではない。

子供を山犬に食われたのが、元で女の気がふれた。

どこをどう、かくれるのか、鬼女をとらまえる事が出来ぬまま、

幾人の母親が、戻る事ない命に涙をからし果てた。

「羅漢の里でも・・・子を食われた」

「それで?」

悲しい菩提を供養するつもりだったのか?

鬼女の心をなだめたかったのか。

法要を象った式典がとりおこなわれた。

賢壬尼の心を慰める前に、この地に清浄を落とす。

賢壬尼が悲しい心残りをここで祈ってやる前に、

敷き詰める禊が雅楽奉納であった。

「そうなのですか」

賢壬尼は薬師丸の母であるが、

薬師丸をうみおとしたのは、本妻である琴音より随分先のことであった。

今、理周も賢壬尼と同じ運命を歩むかもしれない岐路に立っている。

判っていても、親子は同じ過ちをくりかえすものなのだ。

同じ過ちをくりかえして、

薬師丸は父の思いを、母の思いを解するしかないのかもしれない。


賢壬尼の立場はすでにお方さまであった。

あとから定められた婚儀の席に座った琴音が

賢壬尼という存在を知るわけもない。

むろん、そのときには賢壬尼はまだ賢壬尼ではない。

蓬(よもぎ)とよばれていたときく。

薬師丸の父の心を占めていた女性は、

また、実質上も、既に本妻の遇をえていた。

苦しんだのは琴音である。

が、もっと苦しんだのが蓬だった。

同じ女子。ゆえに女子の幸せがわかる。

この立場が逆であったら、どうであったろうか?

心一つで嫁いできた男に渡すものがない。

男が受取らぬ心を抱いて妻という名の傀儡に徹する苦しみは

いかほどであったことだろう。

蓬は、出家を決めた。

身をひいて、尼になり、薬師丸の父のさいわいだけを祈る。

この事が、長浜の人心を打った。

己のさいわいだけを祈る輩(やから)の多い中、

己の身を捨てた蓬は袈裟御前さながらとまで謳われた。

琴音こそが深く頭を垂れた。

母をなくし、残された薬師丸を嫡男とする。

これにあたわざることのなきよう。

心に念じこんだ。

やがて、蓬は名を賢壬尼とあらため、

薬師丸の元服を見届けると京の羅漢寺に身を移した。

それから十年余。

賢壬尼の京のすさびをおもう心痛があわれで、

薬師丸は居を移すように何度か言葉をかけた。

「余呉になら・・」

若き日に薬師丸の父に話された小さな湖が目に浮かんだ。

二人でひっそりといきるなら、余呉の湖さながら、

山々が二人をかくしおおしてくれるだろう。

成らぬ夢をそっと、口の端(は)にのせた薬師丸の父に

由縁の地であった。


「理周はもう何年になる?」

雅楽の席に座る幼い少女の横笛の音が澄んでいる。

横笛だけかと思った少女は次々と楽器を習得していったが、

相変わらず薬師丸は理周を呼んでは笛を確かめる。

寂しい笛の音が薬師丸の心に染み入ると

不思議な想いにとらわれた。

少女を笛の音ごと抱きとめてしまいたい。

幼いと言うべき頃からの理周をしっている。

この寂しさはなぜだろう?

そして、この寂しさに心が揺り動かされるのは何故だろう?

薬師丸藤堂戒実。

母の悲しみを知っている。

繰り返しては成らない過ちを戒める。

心を追っては成らない。

父の失態をくりかえしてはならない。

少女の寂しさを抱きとめては成らない。

抱きとめられない薬師丸ほど悲しい者はない。

寂しい笛の音は薬師丸の心に沈みこむように流れ出した。

諦めているはずの心がもたげてくる。

何度、煩悶を繰り返した事だろう。

「その寂しさごと渡しなさい」

口にだしかけた言葉を何度のみこんだことであろう。

繰り返しては成らない過ちを、

心のまに歩もうと薬師丸に決めさせたのは理周である。

「理周は父上にあってみたくはないのか?」

何度か理周に合ううちに、理周が抱えている生活もしった。

薬師丸に問われるままに母の死を、

寺の隅に一人で住みだした事も理周は話した。

薬師丸にふっと湧いた思いが、

薬師丸の底にある理周への恋慕を己が目にあからさまにさせた。

もし、理周の父の身分がわが事とつりあう者であれば、

理周を妻にむかえられるのではないか?

理周の答えは甲斐がなかった。

父は雅楽師であろうという答えは

薬師丸の心を実にむすぶものでなかった。

が、一旦見知った己の心を欺けるわけがない。

理周が欲しい。

理周に己の心を与え尽くしたい。

これが心を包む一巻。

たった一つしかない心をさらけ出せずに、薬師丸はさらに思い悩んだ。

何をしてやれる?

母のように、理周をお方様にしてみたところで、

理周がたどり着くところはやはり寂しさなのだ。

この物狂おしさは父の血がわかすのか?

恋慕の果てに父から受け継がれた血を疎みもした。

だが、賢壬尼は余呉になら行くといった。

賢壬尼の中には変わらず父を恋う想いがある。

母はそれだけでしあわせだったのではないだろうか?

ならば、もし理周がこの薬師丸をのぞむなら、

それはそれで、かまわないことであるはずだ。

理周の想いにかける。

何もかもを理周にゆだねよう。

そう決めると暗澹とした心が初めて晴れた。

「理周は・・・嫁にゆかぬのか?」

そろりと薬師丸の心がうごきだした。

余呉の湖(うみ)は静かな暗闇の中に在る。

湖のほとりの一夜の宿は大きな庄屋の家である。

理周の笛の音が途絶える事を仲間達は祈っていたのか?

それとも、途絶えぬことを祈っていたのか。

理周の笛の音は暗い湖面を渡り、水面(みなも)にただよいつづける。

笛の音はものうく。

夜の闇が深さを増してゆくだけだった。


「よ・・よめにゆくのか?」

晃鞍は余呉から帰ってきた理周に尋ねた。

「どうすれば・・・」

正しくは嫁に行くのではない。

昨日の夜にひとつとて、

やぶさかな想いを滲ませなかった薬師丸を考えてみても、

薬師丸からの申し出を艘謁から聞かされたときには、

狐につままれた気分だった。

「き・・・きのうは」

理周はその薬師丸と一緒だった。

判っていることであるが、改めて問い直さずに置けない晃鞍である。

「そう・・なのです」

昨日の薬師丸を見ている限り、こんな申し出が

既に成されていた事さえ微塵だに感じさせなかった。

ゆえに一層不可解なのである。

「すると・・・?」

もう既に約束はかわされたものなのか?

その身体で証をたてたことなのか?

晃鞍には理周の惑いが見えない。

嫉妬が目を狂わせ、狭い疑心だけにとらわれている。

同じ頃同じ事にもがく男がほかにいることさえ晃鞍は及びつかない。

「いくのか?もう、きめたことなのか?」

薬師丸が理周をもうもぎとったのか?

薬師丸の手におつることをえらぶのか?

枝を離れた果実は落ちるしかない。

この晃鞍の手でなく、薬師丸・・・。

もがく心は何にもがいているのかさえおぼろにする。

理周の女をもがれた事をもがくのか?

薬師丸の手に落ちる事をもがくのか?

「私は・・・」

男など、うとましい。

ましてや疎ましい生き物でしかない男に恋を知らされる事もない。

「ただ・・」

いつまでもこのまま、ここにいてはいけない。

いつか、どこかで、自分を変える風が吹く。

それが、今なのかもしれない。

風に身をまかせるか?

成ってゆくこと、そのままに身をまかせ、

風に身を投じ、ふきながされてゆく。

これが自分の運命。

そう、きめてしまっていいのか?

翼のある鳥は風を自由にあやつる。

翼をたたむか?

繋がれた鳥は風切り羽があっても、もう、二度と飛べはしない。

「ただ?」

「いつまでも、このままではいられない。それだけはわかっています」

「このまま?」

「艘謁は私を本当の娘のようにおもってくれております。

晃鞍は兄のよう。孤児(みなしご)の私をここにすまわせてくれて・・」

晃鞍の耳はもう、理周の言葉をきいていなかった。

「わしは・・理周には・・兄か?兄でしかないか?」

理周をもぎとられることより、

薬師丸の手に落ちることより、

鋭い痛みをあたえて理周のたった一言が晃鞍の胸を断ち割った。


理周は耐えた。

晃鞍の手は理周の女を求め

優しい兄は今、理周に屈服を要求していた。

流れ落ちる破瓜の印が晃鞍を安堵させていた。

「わしのものだ」

晃鞍は何度もそういった。

「理周。妻(さい)になれ。わしの妻になれ」

違う。このままではいけない。

どんなに望まれても晃鞍は理周には兄でしかない。

首を振る理周を羽交い絞めにして晃鞍は理周を頷かせる事に必死だった。

「理周。これは・・どういうことだ?」

理周をいためる動きを大きくして、

晃鞍にとって女でしかない事を理周に教える。

痛みは理周の臓腑をえぐる。

晃鞍を憎む気にはならない。

が、理周の心は晃鞍になびかない。

「理周は・・晃鞍の妹です」

「違う」

「晃鞍は理周の兄です」

「違う、違う」

兄なら妹にこんな痛みを与えてまで

自分のものにしようとは思いはしない。

「晃鞍・・・」

理周はこらえつくした。

悲しい習性(さが)が理周をこらえさせた。

ただ、成すがままにまかせ時が過ぎ行くのを待つ。

晃鞍の抑制が生じてくるのを待つしかなかった。

失った代償は大きい。

が、理周は晃鞍をまった。

「理周・・本意なのじゃ」

晃鞍の言葉は理周に届きはしない。

「ずっとまえから・・こうしたかった。理周とこうなりたかった」

理周の沈黙は晃鞍の心を受け入れたせいではない。

だが、抗う事を諦め、晃鞍の蠢きを受け止める女は

確かに晃鞍の物になったかのように思わせた。

男は本懐を遂げるまで、正気ではない。

いつの間にか理周は悟っていた。

流れ落ちる涙は兄をなくしたせいである。

なのに・・・。

「理周、わしがおまえを護ってやる」

悲しみを一人で堪える理周をしっている。

洗いざらした手拭いに落とした理周の涙が

十三の晃鞍の心に植えつけた罪である。

「泣くな・・わしが・・護ってやる」

悲しい刻を労わり抱えてやれなかった晃鞍の痛みが

言わせる言葉を確かに理周は兄の言葉と聴いた。

「理周・・本意じゃに」

本意になどなってほしゅうなかった。

ただ一人、理周の女を意識しない男だったはずの晃鞍も

己の恋情に負けた。

「理周・・いかぬの?なあ?いかぬよのお」

薬師丸の所にいけるわけがない。

晃鞍の心を知らされ、この有様を拭うて、いけるわけがない。

「どこにも・・いきませぬ」

晃鞍は、晃鞍のものになると聞き終えたのかもしれない。

晃鞍の元にも行かない。

どこの誰のものにもならない理周はたった独りだった。

ここを出てゆくしかない。

晃鞍の理周への恋情を受け止めきったあとは、ここを出るしかない。

それが理周の出した答えだった。

誰のものにもならない。

すなわち理周にはもう寄る辺がなかった。

『兄さん・・・兄さん』

理周は晃鞍のあって欲しかった姿を胸の中で何度も呼んだ。

妹として、最後に尽くせる事は晃鞍にあらがわないでおくことだけ。

晃鞍の思いの始末を最後まで受けとめるだけだった。


息をのんだのは艘謁である。

堂に姿を見せぬ晃鞍。

嫌な予感がした。

理周を女子としてみているのは、自分だけではない。

直感が理周の元へ走らせた。

扉を開けた艘謁の目に飛び込んできたのは、男と女の絡みだった。

晃鞍?

理周を抱いているのは晃鞍である事は既に判っている。

艘謁が思った事は、理周を抱く者がだれか?ではない。

理周が男として受け入れる相手が晃鞍なのかということである。

男はすぐさまに女の顔を見詰め一瞬のうちに判断を下す。

理周の悲しい諦念がその顔に浮かび上がっていた。

「晃鞍」

静かに呼ばれるまで晃鞍は

理周の住まいへの侵入者に気が付きもしなかった。

ゆっくりと、振り向いた晃鞍のまなざしには思いつめた物があった。

「晃鞍・・」

じっと、まなざしを艘謁にむける。

「これが、本心です」

だから、親と言えど、邪魔立てをするな。

獲物を手中に納めた蜘蛛は獲物を抱えても、にげまどうだろう。

ここで無理に理周を引き離せば蜘蛛は諦めるだろうが、

どこに行ってしまうやら。

理周を思う前に艘謁はやはり父である。

「晃鞍、あしきにはせぬ。理周と少しはなしをさせてくれぬか?」

男と女でしかない有様を露呈させている最中の二人を

認めるしかないだろう。

だが、

「薬師丸のところへは、やらぬ」

「わかっておる。理周はもう・・やれぬ」

艘謁の目にも理周の破瓜の血がおびただしかった。

哀れな娘は男の陵辱にたえきったまま、瞳を塞いでいた。

「ならば」

理周をくれ。

わが妻にせよ。

既に成りえた身体だけの事でなく、形をも晃鞍はのぞんだ。

切ない恋情がいたい。

若ければ己もこの姿であったろうと、思うと

艘謁は晃鞍は責める気にはならなかった。

「だから。理周と話させてくれぬか?」

若い牡はしばらく考えを手繰っていたが

「かならずや」

父が力添えをしてくれる。

それを信じると、理周の身体を離れた。

むこうに行けと言う父の目をうけると晃鞍は衣服を直し、外に歩み出た。

理周を我が物にした自信が晃鞍をうなづかせた。


晃鞍がそとにでると、艘謁は言葉を捜し黙り込んだ。

己の理周への心より先に息子が与えた始末をどうあやまればいい?

惑う艘謁が言葉を選ぶより先に理周がいった。

「判っておりました」

理周は微かに頷いた。

「貴方が私の居をここに移したときから

貴方こそが私を女としてみているのだと」

「理周?」

「私をここにおいてくださり育ててくださった貴方にかえすことは

せめて・・」

女として嘱望したい理周を堪えていた艘謁の男に返す事はひとつ。

「ば、ばかな」

うろたえる艘謁の手は己の心に反して理周の胸元に手を伸ばしていた。

「ぬぐうてください」

陵辱を与えた晃鞍を。

陵辱を与えさせた理周を。

男の痛みを知らされた悲しい理周を。

「わしは・・」

「よいのです」

愛と呼ぶには遠すぎるかもしれない。

父を知らない理周は痛みにもがく自分を慰めたがる艘謁の心に

父を求めたのかもしれない。

「ば・・ばかな」

「わかっております。貴方が一等最初に私の中の女を恐れた・・」

「理・・理周?」

父親のふりに徹せられる相手に理周が幸せを求めるなら、

艘謁は己を騙しきれたかもしれなかった。

「な・・なんで・・晃鞍なぞに」

一番、理周を取られたくない相手は晃鞍だった。

親と子。似て、非なる男がいる。

己に似た男で有らばこそ、赦せない。

「理周・・」

拭うてやる。

陵辱の痛みでしかないと言い切った晃鞍だからこそ、

ぬぐうてやる。

晃鞍を拭いきれるのは、この艘謁だという理周であらばこそ、

ぬぐうてやる。

「おそろしかったか?」

「はい」

理周のほほを伝う涙をぬぐってやると、艘謁は着物をはだけた。

己の一物は確かに理周の女を求めている。

けして、この心に順じてはならないと戒めたものは既に力をうせていた。

男はけして、欲望だけで動く者ではない。

が、悲しい女に愛を教える術はやはり・・。

「あ・・」

艘謁の与えた痛みに理周が声をもらした。

「理周・・こらえぬでよい」

いつも、いつも、何もかもにこらえた理周だ。

「悲しいというがよい。つらいというがよい。痛いといえばいい」

理周は首を振った。

「あまえるがよい。泣けばよい」

辛い痛みに耐える理周が、これを最後にでてゆく。

艘謁には判った。

艘謁にすがる女になれるなら理周は思い切り泣き叫び、

晃鞍の耳にも届くように、自分の女が艘謁に埋められる事を

あらわしてみせただろう。

だが、理周は堪えた。

堪えて艘謁を受け止めた。

「わしは理周を・・女にしてやれぬ」

だのに、艘謁の男に応える理周がいる。

抱かれているのはわしだ。

ぬぐわれているのはわしだ。

九つの理周に既に女を見た艘謁である。

十三の歳の初潮になし崩してはいけない理周の女を知った。

十八。わが手に抱いた理周はけして、自分の物にならない。

これは。晃鞍も同じなのだ。

だれをなぐさめるでなく、艘謁はただ、ただ、理周を抱いた。

返す手が別れに成る。

永遠の諦めを知らせる理周は自分が女である事を如実に語って見せた。

還せる術が諦めである。

けして、男は欲望だけで女子を抱く者でない。

同じ事を親と子はして見せた。

一方は理周をとらえるため。

一方は別れを惜しむため。

だが、けして、男は欲望だけで女子を抱かぬ。

いとしい。

この思いで何もかもを拭うてやりたかった。

最後の理周は悲しいほど綺麗だった。


「でていった?」

艘謁に告げられた事実は腑に落ちない。

理周ではない。

何故、父が理周を黙ってでていかせた。

晃鞍が、したことは理周をおいつめただけであるのか?

項垂れる晃鞍に艘謁は言葉を選びながら話し出した。

「理周は男をうとんでいたとわしは思うておった」

えっと小さな声が晃鞍の喉で飲み込まれた。

「しかし・・違った」

晃鞍は父の言い出す言葉を待つ。

「あれは・・・自分が女である事をうとんでいた」

男という生き物がいる限り

いつかは理周は理周でなく、女という生き物にならざるを得ない。

「あれは・・・。母親の生き様がこたえていたのだろう。

どんなに悲しかろうと女であった母親があわれだったのだ」

母のように、想いをもつ。

これが女である事の悲しさ。

男という、片割れしか女にはいないのだろうか?

理周は一生、笛をふいていきてゆこうとさえおもったことだろう。

が、十三の理周は既にこの先の自分に女が用意されている事を悟った。

悟らせたのは艘謁だろう。

理周を自分の側から離した。

理周の中の萌え芽でしかない女を追う男がいる。

艘謁は、たった十三の理周に対峙する自分の中の男が恐ろしかった。

理周は聡い娘だった。

今更ながらにそういえる。

理周は艘謁の底を知ると素直に堂をでた。

だが、その時にはっきりと理周は、自分が女でしかないことも悟った。

「理周はどこにもいかぬと、いうた」

晃鞍の声が震えていた。

「そうだ。そのとおりだ。あれは女である自分を託せる相手が

おらぬのだ」

つまり、晃鞍は理周にうけいれられたわけでない。

「うそ・・だ」

「うそではない。あれは自分の女を誰にも渡せないのだ」

身体という、女を抱かせる事をいくら赦しても

理周の心は女になろうとしない。

女の心になりきる事を理周はおそれていた。

理周は理周だけでありたかった。

「わしも、お前も・・結句。理周を女としてしか見ていないのだ」

「父上?」

今、父は何を言った?

「わしもお前も理周という、女の身体をなめあげることしかできない・・男なのだ」

「ど、どういう・・ことです?」

「薬師丸にだかれても、お前にだかれても、わしに抱かれても、

理周は自分の女をうとむことしかできない。

女にならせたい男の勝手を理周はうけてみせはするだろうが、

心の中で、己が女である事をいっそうにくむだけなのだ」

だれも理周の心をつつむことができない?

男に愛される自分が、女である事を喜び、

女に生まれてよかったと思わされる男を心に住まわす事が出来ない?

「ぁ・・兄でしかないというか?

ここまで来て、それでも兄でしかないと言うか?」

いや。それさえ、失った。

そして、とっくにこの父は娘を失っていた。

すでに、娘としてさえ理周を見る事が出来ない男がいた事を

晃鞍にさらけ出していた。

「理周は・・どこに?」

「わからぬ」

首を振るしかない。

雅楽の仲間をたよりにはすまい。

あるいは同じ強要を受けるだけかもしれない。

それに。

「薬師丸様のところへもゆきたくない・・だろう」

薬師丸の手の届かぬ所をさがすことだろう。

すると、理周はどうやってくってゆく?

いや、それより、やはり、どこへゆく。

行く当てさえない理周。

「私が・・理周をおいつめなければ・・・」

理周が薬師丸をことわったとしてもここにいられた。

「なった事をきにやむな。これが結果なのだ。

九つの理周を拾ったときから既に仕組まれていた結果なのだ」

「そんな言葉で私が・・」

「癒されようが、傷ついておろうがかまわぬ。

だが、これが結果なのだ。理周は出てゆくときをむかえた。それだけだ」

「執心でしかないと?」

「やぶさかだがの」

「え?」

「理周には、お前もわしも同じ。男でしかない」

ちらりと、晃鞍を見ると艘謁は一気につげた。

「理周はお前と、わしの、執心を見事に拭いきった吉祥天女だった」

「あ・・・あ・・・」

女煩を侵した、同じ血の繋がりはまた同じ女を犯さしめた

と、いうことであった。


晃鞍は恐ろしい事実に胸を塞がれていた。

父を責めるなら、またおのれもせめられよう。

理周に男として対峙したのは、自分である。

理周、哀れ。

女としてしか望まれない自分になって見せるしかない。

晃鞍を受け止めるしかなかった理周がまた、艘謁を受け止めるしかない。

やりきれない。

いっそ舌をかんで死んでしまいたい思いを引きずりながら

理周の小屋に入った。

悲しい痕が残ったまま、理周はいなかった。

押入れの行李をさぐっても、あたりをもう一度念入りに

見渡しても理周の横笛だけがなかった。

もう。理周の笛の音さえ、聞こえなくなる。

たたみに手を突くと

晃鞍は大きく手を広げた。

このあたりに理周はよく座った。

いなくなった理周の幻さえもつかめない。

晃鞍は慟哭を押さえようとはしなかった。

理周の女を感じ取った確かな喜びと引き換えに

理周を失った己のおろかさに、

みじめったらしく、見栄を張る必要もない。

大声を上げ、おもいきり、晃鞍は自分を憐れんだ。


いつのまにか、雨は降り注ぐ。

琵琶の岸辺に立つ、理周の肩もすっかりぬれそぼり、

こ糠の雨は、髪に絡みつくと珠を結んだ。

額を伝いおちた雫は顎をなぞり、理周の泪に溶けた。

いっそ、しんでしまおうか?

湖はおいでと波を引き、来るなと波を寄せた。

母はしあわせだったとおもう。

死ぬ事さえこわくなかっただろう。

理周には母のような想いという浄土もない。

この世に生き、この世を去る間際まで、母は寂しい女だった。

一度(ひとたび)生を手放そうと考えた理周は、

母ほどにも幸せな自分でない事に気がつかされた。

寂しさだけの哀しい女であっても、母は女であった。

理周の身体を舐めた男。

理周が彼等にとって、女でしかないこと。

兄を失った時、同等に理周を女と見る父を捨て去る。

理周は女でしかない。

彼らは理周を女としかみない。

貴方達の望んだ事はこれなのですよ。

彼らの望んだものがなんだったかをみせつけることだけだった。

そして、理周の心の中に父も兄もいなくなった。

いたのは、これ・・・。

足首まで伝う破瓜の滴りがまだ、とまらぬ。

理周の心の傷がしみだしているようである。

うずくまるまい。

惨めに泣くまい。

寂しくなぞない。

立ったまま、理周はあしくびをみた。

女である事を見せ付ける血の滴りがおそろしい。

障りを迎えたときよりもっと疎ましいおそれがある。

そっと、足を踏み出した。

湖の波で足をあらってやろう。

立ったまま、理周は波に足を洗わせた。

だが、それがよかったのか、わるかったのか。

理周はそのまま沖に向かうように見えた。

「理周さん?」

入水するわけなぞわからぬが、

理周を背中から抱きとめ岸辺に引っ張り上げた男がいた。

「何をなさる?」

死ぬ気なぞありはしない。

理周はほうけた顔で男を見た。

見られた男も気が付いた。

「ち・・ちごうたのか?」

それにしても、夕刻迫る浜に一人ぐしょぬれになった女が

湖に足を入れていれば誰でも、すわっとおもう。

冷たく青ざめた顔の理周が、死を掴もうとしていなかったとしても、

死の方が理周を掴んでいたであろう。

「どう・・して?」

尋ねかけた不知火は理周の足元を見た。

理周の素足がみえた。

湖から引いた時足駄がぬげたのだ。

ひょいと湖に足駄をみるつもりであった不知火の目がとどまった。

血がおちてくる。

不知火の見ているものに気が付いた理周は

不知火の目から悲しみの痕を庇うようにかかがみこんだ。

かがみこんだ理周の身体がゆれ、意識がうすらいでゆく。

「理周さん?」

理周に何があったか悟った不知火はであった。

どういうてやればよいか、惑うまもなく理周の様子に異変をさっした。

理周は沈み込んでゆく意識の中で不知火に担がれる自分を感じた。

理周の意識を消す高い熱があった。

それは、現から逃げえない理周に与えられた加護におもえた。

屋敷に理周を連れ帰ると不知火は澄明を呼んだ。

式神というものほど便利なものはない。

大方の事情を知った澄明は着替えを携えて不知火の元に現れた。

「理周さん?」

陵辱に晒された女は、病に逃げ込むしかなかった。

精神をくたびれさせた理周の身体は熱にうなされていた。

生死を彷徨わせることで、

もう、一度生きる事をえらばせようというのである。

「のさりです・・ね」

神の試練。いや、生きる事への執着を与える神の慈愛といっていい。

「むこうにいってください」

濡れそぼった着物は既にぬがされ、

不知火の夜着をどうにかまといつけるように着せ掛けてはあったが、

理周の身体の傷をどう、手当てすれば良いか。

女子の身体なぞにたじろぐ年齢でもない。

それどころか、新町で女子をよく知る不知火ではある。

が、それは、女として求める女子のことであって、

こういう場合はしらぬ。

ましてや、陵辱の後。

同じ男に触れられたくもなかろう。

かといって、濡れた着物のままではいかぬ。

迷っている場合ではないと、素裸にして布団の上によこたえた。

それでも、出来るだけ理周に触れぬようにと

乾いた不知火の襦袢にくるんでやるしかなかった。

細い身体の中心から赤い痕が滲み散るように襦袢にしみだしていった。

「むごいことを・・・」

夜着を重ねると布団をかけてやった。

手拭いを湿らせ、額においてやって、

澄明を待つしかなかった。


程なく澄明は隣室をでてきた。

「手数をかけさせたの」

「いえ」

「どうかの?」

「ここ、三日四日。熱が下がれば人心地をとりもどせるでしょう」

痛い傷がある。

「なってしまったことは・・・とりかえせませぬ」

そうであるが・・・。

不知火を見詰た澄明がふとほころんだ。

「だいじょうぶですよ」

優しい男である。

雅楽の席で見かける少女を不知火も澄明もしっていた。

むろん、理周もこちらをしっている。

「それで・・このことは・・」

理周の父である洸円寺の艘謁にしらせないほうがよい。

読んだわけでない。

陵辱の痕をだいて、湖に飲まれかけた理周である。

艘謁の元に返れないということであろう。

さすると、理周をなぶったのは、寺のものか。

あるいは艘謁か。

理周は不知火に考え付かせる事が出来る、女の身体をしていた。

細い身体に女がいる。

哀れにもそれを掴み取ろうとする心に負けた者がいる。

「ええ」

誰にもいいはしない。

「おちついたら・・・」

「はい?」

「おまえのところで・・・」

理周をみてくれぬか?

理周を拾い上げたのは自分である。

当然行く当てもない理周の落ち着き先を考えてやらねばならない。

新所帯の澄明にたのみたくはないが、

いかんせん。不知火も男である。

「あ。ああ」

不知火の懸念が可笑しかった。

「不知火はそのような男では御座いませんでしょうに」

「わしがおもわんでも、理周がおもうわ」

不知火が男である以上、理周は恐れをおぼえるだろう。

「そうでしょうか?」

「お前は、初手からおなごじゃから・・・わからんわの」

「はい?」

初手から白峰の男を抱ける女子だった。

男に抱かれる女だった。

「わしが・・」

「なんですか?」

不知火が言いたい事が見えない。

「つまり、わしが抱いても、お前は女になる。そういう類なのじゃ」

ほほを染めて一気に言い放ったが、澄明には、わからない。

女子には二種類ある。

一つは不知火が通う新町の女子。

澄明の類はむしろこちらに入る。

身体ごと心ごと女になって男を受け止める事に得てる女である。

一方で、女になれない女がいる。

賢壬尼もそうであるかもしれない。

もっと砕けた言い方をする。

「男が要る女と要らぬ女がおるのだ」

さらにいおう。

「男に抱かれたい女と拒む女がおる」

「はあ?」

「男によって己の女をしらされる。それが無常の喜びになる女と」

「わかりました」

端にいいかえてみているが、早い話。

男の一物が要るか、要らないか。

「私は淫乱な性をぐゆうしておると」

「あ、いや・・そうではない」

ことばをにごしていると、

「不知火は女子にほれた事がない・・そういうことです」

「な・・・」

暗に新町に通う事を揶揄されている。

「女子に惚れるという事は、だかれたい女子をもとめることです」

その男に応える女は二人をつなぐ、男の品物さえもいとしい。

「ふ・・ん」

理周の相手が自分の女子で受け止めたい相手でなかっただけでしかない。

「だったら、なおのこと」

理周をここに置くわけにはいかない。

「不知火は・・」

言いかけて、黙った。

「なんだという?」

「理周を欲望で抱く女子にはしないでしょう?」

「そうだが」

話が振り出しに戻った気がした。

「だったら。理周の傷を癒せる事になると思います」

「はあ?」

「それとも、理周が居たら、新町にかよいにくいですか?」

「ば、ばかもの」

澄明のいう事が少し読めた。

男が女を見れば、一物を宥める対称にしかみない。

どの男にとっても女はそうだという思いが理周にあるということである。

「あたら・・美しくうまれてしまったばかりに」

男の瞳の底はいつも、理周の女をねめつけまわしていた。

裏を返せばその美しい理周に女を捜さない不知火である。

男の好いたらしさはさっさと、新町でひねりつぶす。

「ふうん」

「だから・・余計な心配をなさらなくていい」

むしろ、不知火のさばさばした欲望の肯定と昇華は理周を安らがせる。

澄明にはそんな気がしてならなかった。


理周がいつ、目覚めてもよいように不知火は粥をたいた。

初めは硬い粥を炊いたが、理周の熱はさがらなかった。

起きる事も叶わぬとわかると、理周のために炊いたかゆをたいらげ、

新たな粥は緩めた。

手拭いを替えて、額を触るがどこからこんな熱が出るのかと思う。

熱っぽさは唇をかさつかせ肌もかわくようだった。

水差しの水を口に含ませてやるが、理周は水を飲む意識さえなかった。

不知火は理周の鼻をつまみ、僅かにあけた理周の口に水差しを

そえてみたが、理周は力なくむせこんだ。

戸惑うたが、不知火は理周に口移しで水をあたえた。

不知火が塞ぎこんだ唇は理周の唇から水をおとすことなく、

僅かづつ嚥下されるのがわかった。

理周の嚥下を確かめながら、水を注ぎ込んでやる量を加減し、

理周の口の中に水をおとしこんでやる。

僅かな水分でも、理周の息がらくになったようにおもえた。

繰り返し湯のみいっぱいの水を飲ませるために

不知火は酷く無理な格好と術を課せられたが、

しばらくは理周の熱っぽさがひき、

静かな寝息が規則正しく聞こえていた。

「水をわすれずに。それと、たべれるようになったというても、

何日もたべれてないようでしたら、重湯から・・」

澄明が言い残したあと、くどには米がおいてあった。

ようよう、気の付く女子だと苦笑して、

まずは全粥を炊いてみたが理周はおきなかった。

不知火は理周の側を片時も離れず、手拭いをかえてやり、

たまに水を飲ませてやる事ぐらいしか出来ない。

澄明がのさりだと言い切ったのだから、よもやのことはないが、

身体中をほてらす熱の高さがつらげにみえた。

雨に打たれたのがいけぬかったのだろう。

梅雨月の雨は身体に悪い。

外気は生暖かく雨はぬるい。

寒さをかんじさせないまま、雨水は体温を奪う。

徐々に身体がひえる。

気が付いたときには、身体が芯からひえきっているのである。

その身体で、もし、湖の深みに足を取られでもしていたら・・・。

考えただけでも、おそろしいことになっていたのである。

「勘違いではなかったという事か」

あのとき。ほうけた目で不知火を見た理周がうかぶ。

「まあ。すってのところだったわの」

独り言を呟き理周の額の手拭いをしめらせなおした。

変わらず熱は高い。

理周の側でたたみに寝転ぶと不知火も仮眠をとった。


三日目の朝。不知火は五分粥を重湯にかえた。

「これは・・こたえぬの」

粥は量が多くても直ぐに腹が減る。

昨日の五分粥もさらに腹が減るだろうが、

理周がおきてくれぬと、この重湯も不知火の腹に収めねばならない。

むれた空気に晒された昨日の粥を、病人にくわせてはいけぬと、

不知火が粥をくった。

が、どろりとした重湯はいささか。

腹に入れば同じことと思うが、いい加減、茶漬けでもよい。

かたいおめしがくいたくなってきた。

やれ、おめしをくわせてもらえるかどうか、

そっと、理周の額にてをあててみた。


額に当てられた手が、暖かい。

理周の感触は人の手に触れられたぬくもりをとらえなおす。

「おや?めがさめたか?」

覗き込んだ男は薄目を開けた理周の覚醒に喜んでいた。

喜んだ男は理周の回想などにかまっておらぬ。

「はらがへっておろう?くえるか?おきあがれるか?」

なにがどうなってこうなったのか。

考えるより男の言葉に頷く方がさきだった。

「よし」

男はすぐさまに立ち上がると粥。

いや、重湯をよそった器を持ってきた。

「三日も何も喰わずにおったのだ、急に腹に物を入れると、

今度ははらがいとうなって、ねこむわ」

更々とさじをこぼれるような、薄い重湯を理周はすくった。

あたりをみまわす、理周のさじが止まるのを見ていた男は

「とにかく・・くうことだ」

理周を促し、つと、たっていった。

重湯をすすりきる頃に男は戻ってくると、

湯呑をさしだした。

「飴湯じゃ」

ほんのりと甘い香りがただよう。

口に含むと湯は飴を包んだ笹の香りもとかしこんでいるのがわかった。

理周は男の名前をおもいだそうとしている。

「わたしは・・貴方にたすけられた?のですね?」

「ぅ。まあ。すってのところだったわの」

「いえ・・私は、三日も・・たおれていたと」

湖からひっぱりあげたことだけでなく、

この三日の看病をいっているのである。

「ぅ・・まあ・・そういえるかどうか」

不知火のした事は水を飲ませてやった事と、

手拭いをあててやったことだけである。

礼の言葉を出しかける理周に

「それはまあ・・いいのだが・・・」

不知火は理周の思い出したくない事に触れる事に

すこしばかりためらった。

「洸円寺には・・知らせておらぬのだ」

躊躇った言葉が理周のわけを察している事がうかがいしれた。

「しらせてよいものかどうか。判断つきかねたのだが。

艘謁殿は心配なされておろう?」

どうするのか?

その答えは、理周には今後の進退も問うものである。

艘謁は悔いておろう。

艘謁の手を離れると、理周は横笛をだいた。

横笛を抱いて、小屋を出た。

理周を止めることさえ、思いつかぬかのように、艘謁は理周をみていた。

「ここにおれ」

いえぬ言葉である。

ここにおって、

妾になっておれ。

とめれば、そういう事になる。

誰の?

艘謁の?

晃鞍の?

それとも、ふたりの?

理周は己の女をあざ笑う。

畜生道におちましょうか?

男の心を二度と、うけとらぬ傀儡ができあがり、

いきているのは、女子である肉の部分だけになる。

理周は落ちてくる涙をほほにかんじた。

何のためのなみだなのか。

父子が見せた「獣」へのあわれみか?

獣の欲をあがなう牝でしかなかったことへの憤りか?

それとも、なくし去ったものへの追悼か?

「どこにも・・いくあてがありません」

迷う心のまま理周はすがるしかなかった。

「ここに・・・おいてください」

やはり、艘謁にはしらせられないということになる。

「どこかにおちつくまで・・」

どうすればいいのだろう。

どこかで金を稼ぐにしても、艘謁に知られたくない。

どこか、知らない土地にいくにしても、理周には路銀さえない。

雅楽の伝は理周の居場所を知らせる。

艘謁はともかく、晃鞍が知らぬ顔をしてくれるわけがない。

「しばらく・・で、いいのです」

とにかく、しばらくはこの男の好意にすがるしかない。

「わしは、かまわぬが。理周さんはそれで・・・よいのか?」

不知火には理周が居場所と引き換えにどこかで、

男に身をゆだねる事を覚悟しているように感じた。

だから、不知火はわざと問い直した。

理周は理周で不知火のいう言葉の底に感じる意味合いに

覚悟をといなおされていると考えた。

「はい」

「理周さん・・・」

「はい」

「貴方は自分だけでなく、私を馬鹿にしている事

わかってらっしゃるのだろうか?」

「あの?」

「何かを与えられたら、何かで返さなければならない。

これは不遜です。ただ、受取る一方これに甘んじて見せる。

これが感謝。与えられる自分である値を素直に認める」

「あ?あの」

「女子などいくらでも。たるほど余っている男に

女子をわたしてみたところで、礼にはならぬ。

こういえば、わかりますかな?」

「は」

「女子を見れば抱く事しか考えぬ男だと私を見ている事は・・・」

「あ」

「自分の女がそれだけのおなごでしかないともいっておられる」

「あ・・・」

「それだけの女子がそれだけのあつかいをうける。

これは当然の結果でしょう?」

自分のまいた種?

理周は自分の掘った穴に自分を落としこんだだけ?

不知火の言葉は理周の生い立ちさえも見切っているかのように

深く心の臓をついた。

「わたしは・・」

母をにくんでいた。

父さえ知らぬ子に母はどこまでも、女としてしかいきなかった。

追いすがる子は、母をとらえる男の影をにくんだ。

憎んだ以上にもっと、その影のものでしかない女という生き物が

また自分も同じである事を恐れた。

「わたしは・・」

その憎むべき女をいためつけてやりたかった。

身と皮のように離れない女が憎い。

どれほど、うとましいものであるか。

女がうけとめれるものは、

浅はかな男の欲望だけしかない。

そんなものしか、受け止めれない女が自分の裏表に一心同体にすまう。

「理周さんは、受け止める事がへたくそなのだ」

呟いた不知火に再び、理周はふいをうたれた。

この人は人の心を読むのか?

疑問がやっと理周に男の生業(なりわい)を気付かせ、

陰陽師不知火の名前が頭に浮かんだ。

「理周さんは。無償で愛される事など、この世にないと思っておられる」

「・・・・」

「すべからく、貰ったものは返さねばならないとおもっておらるる」

そのとおりだった。

艘謁に拾われたときから、それを借りだとおもった。

いつか、借りは返す。

だが、それが間違いだったと不知火はいう。

本当の親子の情をかんがえてみればいい。

育てられた恩を親に返す子などおりはしない。

子はまた、自分が親になり

子をいつくしむ事で親の恩に報いるだけである。

契約のように、恩をもらい、契約のように恩を返さねばならぬ。

既に赤の他人であろうとする契約をかわす理周は

いっぱし、一人で生きる大人の女だった。

艘謁が理周に女を見たのは、この心の翳りのせいであろう。

母親の生き様は心をゆだねる事に、

見返りを求められないことだとも理周に教えていた。

人を愛したら、寂しい。

理周に相応える愛なぞあることがわかるわけがなかった。

母の寂しい生き様は、理周を戒めた。

心を渡したら。

心を求めたら。

寂しさが理周を鵜呑みにする。

形だけの情しか受けられない理周こそ、

既に寂しい人間になってしまっているともきがつかず、

かたくなな心を解きほぐしたい男はかたちにとらわれるしかなかった。

からだという器から理周に入り込もうとした男は、

男でしかないことを理周にみせつけられた。

「まあ・・・おりたければここにおればよい」

それは無償である。

理周が何かの形でかえそうとせぬことである。

ただただ、不知火の恩を受ける一方だけでよいという。

「でも・・・」

一人で生きてきた。

肩肘をはって、己を立たせるのは己しかない。

強いほど張り詰めた意気地は病一つさえよせつけなかった。

誰かの厚意を貰いっぱなしにする考えはした事がない。

今は返せぬ理周であってもいつか返す。

ふと不知火がためいきをついた。

「身体が癒えたら、めしをつくってくれ。それで、どうだ?」

「そんなことぐらい、させてもらいます。当り前です」

それでは、返しにならぬという。

「かといっての。貴方のいうことは自分をいためつけるだけだ。

不知火も男だから抱いてくれと望まれればそうもしてやるが」

不知火が望めば理周は身体を投げ与えるだろう。

心のない傀儡なら不知火にはいくらでもいる。

傀儡より始末が悪い。

心に深くえぐられる傷にたえる理周がみえる。

それが、嘘でない証に不知火の言葉一つに理周の顔が沈んだ。

「あほう。どうして、そうやって、自分の心を偽り、きりきざむ?」

「は・・い」

不知火のいうとおりである。

人の心に甘える事が出来ない。

「心配すな。わしも男じゃが、女子がほしゅうなったとて、

心の通わぬ女をてごめになぞはせぬ。

世の中には欲は欲として、ぬぐうてくれる今天女がおるに」

なにをものぐるいして、望まぬ女子に女である事を強要せねばならぬ。

男の欲なぞ、小気味よく拭い去る新町の女子らは明るい。

身体を通り過ぎてゆく男たちのことさえ、憎みもしなければ、

己を怨む事もない。

「吐き出したら心にもかからぬような欲に己をなげうとう

と、言う考えをあらためられよ」

「はい」

小さく頷いた理周の瞳が潤んだ。

雫が落ちてくるのを袖口で拭きかけて、やっと気が付いた。

「この・・着物は?」

じぶんのものではない。

が、女物である。

妻がおられるのか?

てっきり独り者だと思わされていた。

男はそういう風体と匂いをしていた。

「ああ」

答えかけた不知火は戸口の物音に気が付いた。

「それを着せてくれたひのえがきたわ」


不知火の感はやはり、たがわなかった。

「どうですか?」

顔をのぞかせた澄明は風呂敷つつみをもっている。

着替えの着物をくるんでいるところをみると、

今日当たり理周が起き上がれるとふんでいたのであろう。

「あ・・あの」

理周がとまどうのは無理もない。

この人が不知火の今天女なのだとおもったからである。

こんな、綺麗な人がいるというのに、

自分はなんということをいってしまったのだろう。

「熱はさがりましたね。不知火は粥を炊いて・・」

理周に尋ねかける澄明の横から不知火が寸を入れなかった。

「重湯にしたわい」

「怒らなくてよいでしょうに」

どうやら、腹がへっているらしい。

白銅とは違う意味でこれも子供のような男である。

「あの」

理周は不知火に答えを求めた。

「この方が先ほど話していられた・・今天女さま?」

うろたえたのは不知火で

噴出したのは澄明である。

不知火のうろたえぶりで、澄明が読めた。

たぶん。不知火の事だ。

「わしは新町にいく男だから、心配せぬでよい」

理周の不安をとりさってやったのであろうが、

流石に女をかいにゆくとはいえなかったのだろう。

女郎を天女と言い換えた不知火がおかしい。

口元を押さえ込んで笑う澄明を待つ。

「あの?」

何か、おかしなことをいったのだろうか?

「理周さん。私をおぼえておりませぬか?」

まじまじと澄明を覗き込んだ。

「あっ」

澄明。陰陽師白河澄明である。

「おなごのかたであらせられたのですか?」

「わけあって・・男をよそおっておりました」

「そして。今天女・・・」

不知火が男の欲を拭うてくれるといった。

理周がして見せた事は、形は同じかもしれない。

が、その心の奥は天女にも程遠い。

また、吹き出しながら澄明がたした。

「私は白銅の天女です。不知火の天女は新町にたくさんおります」

「ひのえーーーー」

言いたくもない負行をさらしておるというのに。

天女が何者かまで、いうてくれるな。

「あっ、そういう・・ことですか」

「でも、心配なさらなくて良い。

不知火は大事な女子ほど不埒になれなくて、

そうなのですから・・」

「誰か・・想われる人がおらるる?」

考えてみるべき事であった。

そんなひとがいて、理周がここに居てはいけない。

「それならば、惚れた女子に不埒になれないというて、

新町にはいきませぬでしょう?」

矛盾した事を問いかけられて、理周は黙った。

不知火には澄明が不知火の気持ちを知っていると思えた。

ならば。

不知火はひらきなおった。

「おもうてもどうにもならぬ相手ということがあろう?」

一緒になれない。

共に歩めない。

ひとり、想うことしか赦されない。

理周の母もそうだった。

「寂しい・・ですね」

「思いはなくしとうないが、

男の身体というのはどうにもかってなものなのだ」

思いをかさねられない。

ならば、欲は欲としてだけで昇華させねば、想いまでなくしそうである。

「惚れた女こそだきたい。なれど、欲は欲でおなごをほしがる」

どうにもできぬ男の弱さをさらけ出して見せた不知火であるが、

澄明の策略に乗せられている事に気が付いている。

なにを謀っているのかわからぬが、

澄明は不知火を使って理周に何かをしらせようとしていた。

そうであろう?

このあいだの澄明は「不知火は女子に惚れた事がない」と

、いいきっておるのに、

今度は惚れた女子が居ると言明してみせる。

ともかくも、不知火の役目は果たせたのであろうか?


戸口まで立ってゆき澄明を送り出す時不知火はたずねた。

「なんで・・きがついた?」

不知火の底に塞ぎこんだ澄明へのおもいにである。

「不知火が・・ひのえとよぶから・・」

「あ」

うかつであった。

ひのえ。

澄明の名前をそう呼ぶのは、ひのえという名の女をみているせいである。

「さとかったの」

「いささか」

「まあ。よいわ。とうにあきらめておる」

「わかっております」

で、なければ。

「新町になぞかよいますまい?」

「たわけ!」

軽くからかい流してくれた澄明が帰ってゆくと、不知火は居間に戻った。

起き上がってきた理周が居間にやってくると、たずねた。

「私にも陰陽事はできませぬか?」

女でも陰陽師に成れるらしいと澄明を見た理周は考えた様である。

「それで・・かえしたいというか?」

それもある。

が、澄明を見ていると、不思議な感情にとらわれた。

例えようもなく暖かい。

地の底から身体を温められるような。

陰陽師というのは人をこうも包み込むものかとおもった。

むろん。それは不知火にもあった。

女でも陰陽師になれると知った今。

横笛や、雅楽以外のものに惹かれる自分をいた。

横笛が父を慕う、こもとであるときがつかぬ理周は

陰陽師に惹かれる、こもとが暖かさに餓えた心と、

きがつかぬまま、

不知火に頭を下げていた。


さらに三日。

若い身体はああも細いというのに見事に元に戻る。

理周が家事をよくこなす。

「てなれたものだの?」

十三のときから・・・何もかもを一人でこなした。

なれどころではない。

声をかけてみるものの、不知火が落ち着かない。

女っ気のないところに突然、女がすまいだす。

不知火にとって、

目下、女は新町で特別な事をいたす相手だけが女であったのだから、

見た目が同じ女であれば、不知火の意思に反して、

男が騒ぐのも無理がない。

「いかぬのう」

呟いたひとりごとにさえ、女がふりむく。

「どうなさいました?」

「なんでもない」

とは、いったものの、これが自分かと思うほど、女子を意識させられる。

「夕刻に出かけてくる」

どうも、たまっておる。

たまったものを始末せねば、これはこれで、理周に向ける目が汚くなる。

「理周もゆきます」

陰陽事とおもったのであろう。

てつないと倣いをかねて、ついてくるという。

「い・・いや」

「じゃまになりますか?」

「そうでない」

「ならば・・」

しかたない。

「し、新町にいくから・・・」

欲がたまったのは、理周のせいもあると気がつかれてはいけない。

まして、どこになにをしにいくかなぞ、知られたくなかった。

が、仕方ない。

「ぁ・・失礼しました」

いや。失礼というのとは・・・。

余計な弁解はやめた。

「遅くなるから、きちんと、戸締りをして、先にねておればよい」

ここ三日。不知火よりあとには眠らぬ。

無意識のうちに男である不知火を恐れるのか?

弟子か何かに成ったつもりの敬意からなのか?

不知火がおきておればいつまでも、針仕事を捜してでも起きている。

これはいかぬと、ふとんにもぐりこむこともしたが、

布団の中でねつけれぬのは不知火である。

ふすま一枚向こうの部屋の理周の寝息が聞こえれば聞こえたで寝苦しい。

聴こえねばきこえぬで、生きているのだろうのと心配になる。

寝息が聞こえて安心しているのやら、いらついているのやら、

さっぱり判らぬ。

どうも。いかぬ。

妙に女を意識させられていた。


「お妙ならふさがってるよ」

ここしばらくのなじみの女に先客がいると、遣手婆がいう。

「いや。お妙でないほうがいい」

お妙は店で一番若い。

年のころも理周とおなじ。

なんだか、やましい気分になる。

「節がおろう?」

「はあん?」

どうおもったのか、不知火は年増女郎の名を口に出す。

だけど。

「そりゃあいい。お節が喜ぼう」

節はそろそろ、年季も明ける。苦界暮らしもおさらばである。

「あたしゃ。小料理屋でもやりたいんだけどね」

お節がいうのに、

「で、そこでなにをくわすんだ?」

いいかえして、節をくらったおぼえがある。

「いまさらになって、抱かれた男が懐かしいなんていってやがるんだよ」

遣手婆の声を背中に受けながら、それで、喜ぶか、と苦笑する。

女郎はかなしいものである。

死ぬほど辛かったお商売が、からだになじむ。

馴染んだ体は堅気に戻ったところで元に戻りはしない。

折角年季が明けたというのに、古巣に舞い戻ってくる女も多い。

借金のかたに身を売られ、年季を終え、

やっと掴んだ堅気の生活も既に肌にあわぬものになっている。

男の仕掛けた手管はむごいものである。

その酷い事をするために不知火はここにきたのである。

酷いほどにこころよい逢瀬を求めに来たのである。

「わしも悲しい男じゃの」

つぶやく不知火は後ろから手を取られた。

「ぬいさん。おみかぎりだったじゃないかえ?」

久方ぶりに呼ばれた男のあだ名をよんでみせ、

はやくと、弐階の節の部屋をめざして不知火をひっぱってゆくと、

もう、二人は部屋の中である。

「やだよ。せっかちだねえ」

肌襦袢から紅い御こしがみえると、もう不知火は節をひいていた。

胡坐で座り込んだ不知火の腰をまたいだ節を

不知火の芯棒にむけて引き落とす。

「ひさしぶりだよお」

不知火の肉塊をのみこむ。

節の身体はすでに不知火のいきなりの直情を

すんなりのみこむしたたりがある。

硬い肉の侵入を味わうと節の身体が動き始めた。

「あ、あ・・どうしちまったんだよ?」

酷く張り詰めているくせに不知火はうごこうとせず、

節の巧拙にまかせている。

「いやだ・・よ」

身体の芯が火照り、肉棒がほとに触れる部分の

小さな感触がたかまってくる。

その感触をたかめるためか。

すでに高まったものをあじわいつくすためか。

止められぬ動きを恥じ入る事もなく

節は不知火の腕に支えられながらゆれうごいた。

「こころよいか?」

たずねてみせるが、節の声は陶酔にふれるばかりだった。

しばらくは、節が自在に泳ぐ事を許していた不知火だったが、

節の足を背方でくみあげさせた。

接触をゆるませぬようにして、節をくみしくかたちにかえる。

節もいよいよ、不知火に与えられる蠢きが大きなものにかわるとしると、

組んだ足をはずさぬようにして、不知火にしがみついた。

ふとんが節のせにあたり、あお向けに成った節の胸のさきを

不知火の指がつまみあげると、

ぐうとちからをこめた。

鋭い疼痛はほとにとどく。

「ああああ」

疼痛さえ中空彷徨うような快さとして

受け止められるような身体になってしまっている。

堪えられずに声をもらし始めた節に不知火の動きは遠慮会釈なかった。

しばらくは痴態のままに節を堪能していた不知火が果てそうになる。

「いかぬわ」

不知火はうごきをとめて、高揚をやり過ごした。

不知火らしい。

さっさと己の欲だけをぬぐえばよさそうなものであるが、

それでは女が苦界に身を沈めた甲斐がなかろうというのである。

できうるかぎり、共に楽しもうではないかというのは

女郎に精通した男の粋なのか?

はたまた、お商売の煩わしさを少しでも取り除いてやりたいという、

妙なやさしさなのか?

いずれにしろ、今度は不知火が仰向けにねころがりはじめた。

馴れ合った仲のいわずもがなである。

寝転んだ不知火の上に重なると節はゆくりとうごめきだしていた。

ゆるい動きは浅い快さを不知火に返していた。

不知火の上で節は、それでもあがってくる高揚にたえかねている。

「あああー。やだ」

「なんだ?きゅうに」

素面のまなざしで、節が気乗りのなさをみせていた。

「だって、ぬいさん。なんか、かんがえてんだもん」

節を素面にさせたのは不知火だった。

「やっぱ。妙ちゃんのほうがよかったんだろ?」

「いや」

「じゃあ・・なんだよう」

答えようとしない不知火に

「つれないねえ」

一くさり文句をいって、不知火からはなれようとした節をおさえた。

「きいてくれるか?」

真面目な面構えに変わる不知火である。

「ど、どうしたんだよ?」

「まあ・・色々と。おもうところがあってな」

「う・・うん」

少し肌寒さを覚えた節は上掛けをひっぱりあげた。

「はなしてごらんなよ」

肢体をつないだまま、深い仲の女の情がからんだ。


女を拾ったという。

そこから、不知火の話が始まった。

「手篭めにされて・・死ぬつもりだったんだろう」

「ふん」

どうせ、女はいつか男にやられちまうんだ。

それが遅いか、早いか。

自分がのぞむか。のぞまないか。

男を知りきった節には今では、どちらも大差ないことである。

「それが・・わしの屋敷におる」

「はあ・・」

「手篭めにされた哀れな女子じゃと思うに・・どうも」

わかった。妙な気分になるのだ。

それがもうしわけなくもあり、

自分の男に嫌気がさしてくる。

そのくせ、身体にはしっかり、しゃっちょこばる部分がある。

「そりゃあ。むりないよ。あたりまえじゃないか」

「そりゃあ・・そうなんだが」

理周には割り切れない男の生理を身体で理解する女は簡単にうなづく。

「だからって、ぬいさんがその女に

なにかしようなんて、思うひとじゃないんだしさ」

実害がなければ、何をどう思っても男の勝手じゃないか。

「男がいやだっていうんだろ?

そんな女に限ってごろっとかわっちまうんだよ」

男をうけいれるだけでなくなり、男をほしがる女にかわる。

「それってさ。いやだの、しのごのってさ。

これは何にも知らない女のわがままだよ」

「へ?」

「だってえ・・」

節は腰を僅かにゆすってみせた。

それだけでこえをもらしかけ、

「こんなに・・きもちよくなるもんなんだよ」

女の良さを知らないだけ。

世間知らずの議論じみたものでしかない。

「いずれ、かわっちまうんだもの」

変えさせようとした男はけして、悪くない。

むしろ、男が女を変えちまうべきで、

「こんなの・・男じゃなきゃ・・おしえられないよ」

蠢かされた不知火に喘ぎだした節が証明する。

「悪いのは・・変わらない女のほうさ」

だから。

不知火が男である以上

女を変えてやろうとする事こそが正義である。

は、おおげさであるが、ゆえに、

「おかしな気に成らないなら、ぬいさんの方がまちがってるよ」

男である以上、不知火の反応は当然である

と、節は、揺らめきながら言った。

「ふうう」

不知火はまだ、ためいきなのか?

「なんだよ?どうにかしちまいたいなら・・・かまわないじゃないか」

「ばかな」

「ふん。それであたしを当て馬にしてるんなら同じじゃないかえ?」

「え?」

そうなのか?

そういうことなのか?

そう・・・かもしれない。

仮に節のいうとおり不知火だけの欲をはたしたとして、

理周のこころはどうなる?

「心がふさがれておるに」

「ばかいってんじゃないよ」

節の目がきつく見開かれていた。

「え?じゃあ。きくよ。あたしは誰かにほれちゃあいけないのかい?」

節の言いたい事が判らない。

「どういうことだ?」

「あたしはこんなお職だよ。

身体を開いて、どんな男にも抱かれるんだ。

男にやられちまった女は心をふさぎこまなきゃいけないかい?

誰かに惚れる心をもっちゃあいけないかい?」

それこそが不知火が理周にいいたいことだった。

「いいかい?女なんてもっとつよいもんだよ。

身体と心なんて、べつくだてなんだ」

「節?」

「ぶん殴って、押し倒してでもやってやりゃあいいんだ。

みえてくるんだ。そしたら・・・みえてくるんだ」

なにがみえてくるという?

節がなきだしていた。

「安っぽい女郎だって、本気で惚れられたいんだよう」

「節?」

不知火に節の言いたい事が見えた。

理周を手篭めにしてまでほしがった男。

それでさえ、自分にはかけてもらえない愛の形なのだ。

男は欲を拭うためだけに節を抱く。

欲をぶつけられ、節の奥底に生じた思いは

「愛されたい」そのひとことになる。

愛されたいという思いを自分にみせつけられ、

節の中で愛されたいという女こそが真実になった。

このいとしい女を、いじらしい女を、可愛い女を知った。

節は自分の中の女をだきしめてやる。

身体を通る男も知らない、節しか知らない女は節の宝珠だった。

「わかっちゃあないんだよ。どんなに女がかわいいもんか」

誰でもない。自分こそが女のいとしさを抱いてやれる。

この強さにたつまで、女はなににでも、心ふさがれる。

「甘っちょろい、女こそ、欲にぬぐわれりゃいいのに」

欲を拭われ続けた女だけが、この真実にめぐりあう。

「おかしなもんだよねえ」

不知火が節を抱きよせた。

節の中の女に届きゃしないだろうが

「だいてやる」

不知火に惚れもしないし、不知火も惚れやしない。

だけど、節は

「ありがと」

そういって、不知火の動きにかさねあわせていった。


「切ないよお・・・ぬいさん。ねえ。せつない。せつない」

節があらがう。

「節・・かまわない・・から」

「やだ・・やだ・・やだよう」

「いいんだ・・節・・放してやれ」

上り詰める事を抗う節に杭をうちつづける。

「あ・・あああああ」

高みだけの女になる。

高みを味わう、女がかわいい。

緩めない不知火の動きに、節が熔けた。

節も同じ。

高みに熔けこめるこの女の感覚がいとしい。

節は相変わらずかわいい。

「かわゆいの」

らしくもなく不知火が囁いた。

惚れてしまいたくなるほどかわゆいのに

「よう、ほれてやらん」

いいんだよって、節はくびをふった。

だって、ぬいさんは節の中の可愛い女を十分にみせつけてくれる。

節の中には愛されるに十分な可愛い女が居るから、いい。


その頃、理周である。

かんぬきを落として、居間にすわりこんでいた。

人気のない部屋は広く、不知火が活けた花だけが

行灯の灯りにぼううとうきあがってみえた。

不思議な人だとおもう。

男のくせに理周よりもよほど器用に花を活ける。

それよりも、もっと。

不知火には惚れた女が居ると澄明がいった。

惚れた女がいながら、新町に通うといった。

新町の女の事を天女だともいった。

欲がありながら、理周の女は要らぬと叱り付けた。

このどれもが、不思議。

晃鞍は理周に惚れた?

惚れた女を、抱く事でわがものにしようとした。

不知火はあきらめておるといった。

欲をなげうちたい女子はほれておらぬでもよいという。

晃鞍は、欲をも理周になげうった。

惚れておれば無体も構わぬか?

不知火は惚れておらばこそ、新町で欲をすすぐという。

惚れられぬ女はどこまでいっても、男の欲をすすぐ道具か?

「惚れておる」と晃鞍は理周を道具にした。

いずれにせよ、女は態のいい洗い水。

だのに、不知火はさらけだした。

男は困ったものだという。

困った男をすなおにみとめると

「惚れておらぬ」と、女子を道具にする。

なのにちっとも、わるげがない。

わるげのある男はせいぜい「すいておる」「妻になれ」と

大儀を振りかざして、

おのれのわるげを正当なものにみせかけた。

よほど、抱きたいとそれだけの方がほんとうらしくて、

理周もそれだけの痛みに泣けた事だろう。

不知火にとって、新町の女子が天女なのはほんとうだろう。

抱きたい男を受け止める女は天女だろう。

理周が受け止めた男は、欲を隠し、理周を淫婦におとした。

いまごろ、不知火は天女の腕の中か?

理周がみずからを淫婦に貶める事をしかりつけてくれた男は

いまごろ・・・・。

男に渡すものは真心ばかりではない。

そのままに欲を受け止める。

それが天女。

でも、それは不知火が綺麗だから・・・・。

だから、不思議。

欲にまみれきって苦笑して新町に行くといった不知火なのに、

綺麗。

だから、不思議。

「不思議な不思議な」

呟いた理周は、不知火が帰ってくるようなきがして、耳を外に傾けた。

じいいいいと鳴くのは、けら。

人が通れば、なきやむだろ。

朝までかえってこぬのかな?

何だかすこし、こころもとないのも、

不知火が優しいから?

広い部屋がものさびしいのも、

不知火があたたかいから?

けらのこえは変わらず、地鳴りのように唸っていた。


「ぬいさん」

うとうとしかけた不知火は節の声にびくりとてをうごかした。

「ああ。ねむっちまって?」

「おきておる」

不知火の背をさすりながら、節は情夫(まぶ)のようだなとおもう。

「拾った女って理周さんだろ?」

「え?」

不知火がしっかり目を開いた。

「なんでしっておる」

「言わないでおこうかとおもったんだけどね」

「なにを?」

「あのさ」

不知火の目をのぞきこんだ。

「ぬいさん・・どうおもうかなってさ」

「だから、なにを?」

大きくいきをすると、

「洸円寺の晃鞍が捜し歩いてんだよ」

行く当てのない理周が一等簡単に身を沈められる場所。

女郎屋。

売れる物がない男は、精一杯稼ぐか。川原のおこもさんか。

「なるほどな」

酷い目に遭った理周であるのに、

不知火に返す礼を女で返すと考えるもといはここかもしれない。

どのみち、不知火を頼らねば苦界に沈むしかない。

―どうせ。理周―

「ばかものが・・・」

追い詰められた理周が覚悟し、なげうった心があわれである。

不知火の瞳に光るものがあった。

「やだ・・ぬいさん」

節は小さな溜息を付いたが黙った。

ぬいさんは、理周にほれちまったんだ。

きがついたけど、節は黙った。

ぬいさんはそれに気が付いてない。

だから、黙った。

「それだけじゃないんだよ」

更に話があった。

「艘謁もきたんだ」

晃鞍が妹を探すのもわからないでない。

「おなじなんだよ。おなじにおいがするんだよ」

「な、なにが?」

「いいかい?よくおきき。あたしゃ、おどろいたよ」

艘謁は銀の袋をだした。

「理周が来たらわたしてくれってさ」

おかしい。

「だろ?なんで、艘謁がこそこそ、金を算段する?」

「・・・」

「それだけじゃないよ。なんで晃鞍がここに来た事をしらない?」

親子がべつべつにうごいている。

「そりゃあ。女将の信用には驚いたよ。

ここらいったいの女郎屋の実権は女将が握ってんだ」

だが、それにしても、理周を止めきれず、多すぎる金を理周に渡す。

「ねえ。ぬいさん。考えられる事は一つだろ?」

うなづくしかない。

うなづくしかないのである。

「理周さんは・・・父と子に」

「いうな」

「ううん。みておやりよ。みておやりよ。理周さんは・・・あの父子に」

「いうなああああああああ」

理周の痛みが辛い。

ききとうない。

「卑怯だよ。ぬいさん」

「いうな」

「にげてるだけじゃないか。

本気でほしがった晃鞍親子ほどでもないっていうのかい?」

「節?」

「すきにおしよ。あたしゃ、どうせ、女郎だ」

女郎のいうことなぞ、まにうけてくれなくていい。

「いや・・節がいうことはおうておる」

「ぬいさん」

何で、こんなに素直にまけちまえるんだろ?

「それでも・・わしがつらい」

「ばか・・だよ」

いつのまにか、理周に心砕く男になってしまった。

「ばかだよ。心をあけはなってるから・・・」

「ははは」

「はいりこまれちまったんだよ」

「ばかな・・」

「ばかだよう」

「節」

狂おしい欲情は理周が故。

出会ってたった七日。

理周は不知火の中で。

「できぬ。ならぬ」

再び逃げ惑う男の弱さを受け止めた節である。

「どうしようもない。恋がぬいさんをひっつかまえちまったんだ」

「ちがう」

「ちがわない」

「ちがう」

ちがう。

この狂おしさは。欲でしかない。

「ふ・・」

笑って節は取り合わない。

そうやってごまかせれるのもいまのうち。

どうしょうもない恋はいずれ、不知火の身体にまといつき

がんじがらめにみうごきをおさえる。

「だろう?」

欲をぶつけ、節にあまえてみせる。

「だろう?」

いくらでも、節を喘がせれば良い。

不知火の涙ももがきも見届けた。

心と身体は別くだて。

そういうたであろう?

自分に頷くと節は不知火の躍動に身を任せた。

毒にも薬にもならぬおんなだが、

それゆえに不知火の欲をたたきつけられた。

理周は毒か薬か

きつい毒だと想う。

あの寂しさごとどうにかしてやりたくなる。

男には制しきれない毒を含んだ女は

結局男のどうにかしてやりたいという思いを腐食させる。

上っ面の身体しか舐めれない事にきずかされた時、

理周のどくは身体をまわる。

心を受取らぬ女は、

死にかけたふぐだ。

毒にとらわれた男は理周の身体をなめたことを後悔しながら、

届かぬ理周の寂しさにもがきくるしむ。

しらねばよかったとおもう。

理周を。

父子の痛みが、不知火にうかぶ。

が、それを拭ってやれるのは、

こころを受け止める理周の姿であり、

理周に確かな愛を渡せた男の息吹きだけであろう。

はてきった欲情に眠りを覚えた節の身体をはなしてやると、

不知火は屋敷に帰るため身繕いを始めていた。


それから・・・・・


「理周」

いつのまにか。理周をそう呼ぶようになっていた。

「きいてよいか?」

不知火の前に座った理周は神妙な顔になる。

「あの?」

「いや、そうかしこまらんでよいに・・」

なんだろう?

「いや。ここに来たときに・・横笛を持っていたろう?」

「ええ・・」

それだけは理周のものなのだ。

「だいじなものだろう?」

とうぜんである。

「ならば・・なぜ、ふかぬ?」

「あの?ききたいことって?」

「そのことだがの?」

何を聞く事がほかにある?

理周はわらいだしそうになった。

この人のことだからもっと難しい事を聞くのかと思った。

理周がふえをふかぬわけだって、とっくに察していると思った。

「ん?」

「だって・・」

「なんだ?」

「笛を吹けば、ここに理周が居るのがしれてしまいます」

不知火は、はははと笑った。

「それでふかぬか?ふきとうないか?」

出来る、できないでない。

理周のこころをきいている。

この人は、いつもそうだ。

「ふきとうございます」

素直に心を見せた。

「ふけばよかろう」

「でも」

それで、理周のいどころがしれれば、

艘謁が来るかもしれない。晃鞍だって。

・・・薬師丸だって。

なにをいえばいい?

どんな風にあえばいい?

「いらぬしんぱいをするな」

不知火は理周の恐れを笑い飛ばした。

「お前が心配するものがきたら・・そうだのお」

「?」

不思議な不知火。なにをいいだす?

「わしの嫁に何の用事かのといってやるかの?」

「え?」

「さすれば、お前も安泰。奴らもほっとするだろう?」

「え?」

「くちうらはあわせよ」

「は、はい」

不知火の心はありがたい。

皆、理周の幸せこそをねごうている。

理周に汚い悲しみを見せない。

皆。理周の幸せをねごうている。

信じられないけど、

不知火が言うと信じたくなる。

だから・・・うれしくて、

理周は涙を零した。

「なにを?なく?」

「ううん」

子供みたいに首を振って

理周は微笑を浮かべて見せた。

「貴方は・・やさしいひとです」

「なんじゃ?」

どこでどうなってそういう言葉が出てくるのやら?

「さっそくじゃからの」

不知火が身を乗り出した。

「ふかぬか?」

「はい」

理周は部屋においてあった横笛を取りに行った。

やはり。うれしい。

笛はすき。

理周がもどると、

不知火が真面目な顔で

「よろしく」

きかせてくれと、頭を下げた。

「はい」

裸管にふれるもひさしぶり。

大事なこもとをかなで始めた理周に、

不知火は瞳を閉じて、己を耳だけにした。

澄んでいる。

澄んでいるが物悲しい。

『理周・・・』

ふと、節の言った言葉がよみがえる。

『父子ふたりに・・』

何故、節がそうおもったかわからぬ。

なぜ、不知火がその言葉を信じたかわからぬ。

「みてやってくれ。めをそらすな」

節が言おうとした事を塞ぎこんだ。

節の言葉は呪縛のようだった。

不知火は笛を吹く理周を読んだ。

悲しい事実は節が気取ったとおりだった。

「・・・・」

ひのえを想う白銅の言葉がうかびあがる。

―好いた女子のことはきになる―

白銅がひのえの心をよもうとしたのはこんなところか?

ひのえへの心も色あせる。

つかめぬ女より、理周は確かにそこにいる。

手を伸ばしたくなる不知火が居る。

「よもや?」

ばかな。

恋ではない。

かぶりをふる不知火の耳に届く笛の音は淋しい。

だきよせたくなる心を抑えたい。

「理周。でかけてくる」

今度は理周はついてくるとは言わなかった。


「なんだよ?また?節なのかい?」

節はもうすぐ足を洗う。

「おしくなったかえ?」

にやにや笑いながらも、遣手婆は節を呼ぶ。

「あら?」

すこし、節の皮肉が入る。

「あたしなんかの相手をしてていいのかい?」

だまって、節の手を引いた。

「ぬいさん?」

「いいから」

『そうだね』

手をひかれ、節は二階に上がった。

あいかわらずのいきなり。

「ぬいさん」

誤魔化したい心を、ぶつけられぬ欲情を、

替わりにいくらでもうけとめてやるさ。

やすいもんさあ。

「なあ。節はなんで、父子だとおもった?」

やっぱり、気に成るのは理周の事。

突然、話し出した事がなんのことか?

節がすぐに判ると思い込んでるくらい、

心の中を占められているのにもきがついてないんだろうか?

なんのこと?

わざとといなおして、

不知火のこころをみせつけてやろうか?

「最初は晃鞍だと思ったんだ」

なんで?

「女子をさがしていたよ。ちがうかい?」

不知火が理周を読んだか聞いたか判ってる節だった。

「おうておるが。ならば、艘謁がさがしておったは?」

「娘だよ」

ならば、それで、何故ふたりにとおもえる?

「感」

溜息を付いたが

「いいよ。黙っていたって話したっておなじだものね。

艘謁が、捜してたのは自分が犯した娘への償いだろうね」

節がいう事は矛盾がある。

娘を捜していた艘謁ではないではないか?

「あたしがここにくるときにさ」

節は艘謁の様子からだけ、判断したことでない事を話そうとしていた。

「とっつあんは・・娘より守りたい物があるんだ」

自分の至らなさで借金を抱え込んだとっつあんには

金を返す算段がなかった。

「うるしかないってさあ・・・」

節の声が泣き声になった。

「うるんだよ。うるんだけどさあ。てめえの女房はうれないんだよう・・」

節を売る。

父親が節にみたものはなんだったろう?

「え?どこのだれにくれてやってもいい。

あたしの中の女はそんなもんなんだ」

節の話はよくあることだ。

だけど、どの娘も親さまを救うためだと

自分をしんじこむことにしている。

悲しい運命をみないことにして、

綺麗な天女みたいな気持ちで苦界におりたつ。

「だいとくれって、いったんだ。とっつあんにそういったんだ」

「え?」

「がらくたみたいに弄ばれるこの先にみをおとすだけなんだ。

なら、とっつあんだけが節をまっとうなきもちでだいてくれる男だろ?」

親子である。理周のような仮の親子ではない。

「で・・できぬだろう?」

「そのとおりさ」

てて親はこ汚い男の手に節を渡す事を選んだ。

「だあれも、あたいにまことをくれるやつはない。

誰一人とっても、欲しかない。せめて・・外道でいい。畜生でいい。

だいてほしかったんだ。

とっつあんだけが・・あたしに詫びていたんだ・・」

その手にだかれることで、節は夢を信じていこうとしたのかもしれない。

「いいんだよ。わかってるんだ。

そんな事を話そう何て思ってるんじゃないよ」

「ん」

「理周さんもね。同じじゃないかなって思ったんだよ。

父親に綺麗なものを貰いたいってさあ。

それで、兄の事を赦そうって思ったんじゃないのかなってさあ」

「だ・・けど・・」

「そうさ。実の親子ならやっぱ抱きゃあしないよ。・・できないんだ」

「ふ・・ん」

鼻にかかった声が湿っている。

求めた心がさらに理周を苦しめた?

「ばかだよねえ。悲しくて切なくて、どうしょうもない。

救われるわけないって堪えてるはずなのについ、てをのばしちまう・・」

理周のことをいうのか?

節のことをいうのか?

「ぬいさん・・だいとくれよ・・」

節を・・・。節の中の理周を。

抱いてやるしかない気持ちをそのままに。

心は重ねなくたって、ちっともかまやしないから。

「節・・・」

「やだねえ。何とかしてやろうってのはあたしじゃないだろ?」

悲しい話をしたのはぬいさんがはじめて。

だから。ぬいさんはやさしい。

だから。

節に戸惑ってしまう。

「きいてくれただけでいいんだよ。

こんなことだれにもしゃべれやしないもの」

あてうまでいい。

理周に心を砕くぬいさんをほんの少しだけかすめとって、

節もすこうしだけ、やっぱりおんなでよかった。

そうおもえるから。


溜息混じりに帰る夜道は、暗い。

ここより暗いのは、理周の淵だろう。

なんで・・そうなる?

だが、翳りを拭う者は理周自身だ。

何故。かほどにこらえる?

悲しいほどに、諦めている。

何故、愛される自分を求めてやれぬ?

なにもかもを諦めている。

節の半分でもいい。

愛されたいんだよう。

その心さえなくしたのか、

はなから、あきらめてたゆえか。

陵辱は理周の心をえぐりはしない。

自分にいいきかせて、

理周は、心など求めない。

一つもきずかぬふりをして、

なにから、めをそらす?

『とっつあんだけが・・まことだろう?』

節の言葉の裏にある意味。

これは理周の境遇を知っている女が

わざわざ、不知火に見せた大きな穴。

艘謁に父を求めたか、理周。

成りえなかった親子。

「・・」

成れるわけがない。

理周の心に父はない。

ない父に、甘える術も、求める心もどうあるべきか。

『理周・・おまえ・・・』

深淵は女であることでない。

―護りたい女はてめえの女房さ・・―

父親の中にある女への思い。

父親が女を愛する愛しかた。

理周がこれを見ておらぬ。

素直に女への愛を信じさせられる誠は、

父親だけが持つ男が見せられる。

「おまえ・・・」

母を愛する父を見ておらぬ。

女を愛する父を見ておらぬ。

いつか、父のような愛を貰おう。

思えるわけがない。

父のない理周。

子にさえ、なれない理周が抱く深淵は深すぎた。


「京にゆかぬか?」

新町から帰ってきて四、五日目の夕刻だったろうか。

不知火が理周を呼んだ。

「京?」

何のために?

理周の心を見ていた不知火である。

―京になにか?―

言い出せない言葉を飲み込んだのは、

既に不知火が理周の生い立ちも陵辱も、考えも、思いも

全て読んだ上なのだと思ったからだ。

「いこう」

何故、簡単に理周をうなづかせられるのだろう?

変転。

兆し。

変わり目。

不知火という男は理周の中の物を問う。

問われた事は理周に強い決心を持つことだと諭されている気がする。

逃げぬ事だといわれ、目をそらすなといわれている気がする。

「わかりました」

「横笛をわすれずにな」

ああ。やはり。そうだ。

京は父の都。

横笛は理周が父の子である唯一の証。

父が誰か判っているというのか?

判っていて、理周にどうしろと言う?

「みさだめぬか?」

察したのか、不知火はにっと笑って言った。

「なにを?」

「なにかを・・」

「・・・」

「なにをみさだめられるか。おまえにしかわからぬことだろう?」

そうではあるが。

「夢に描いた者がくずれるかもしれぬ。

だが、いいかげん。理周にはそれが必要であろう?」

現実でないものを、見ないで来た。

だが、それは、いくら綺麗でもまほろばであろう。

いくら、汚くても現をみて生きろと、不知火は言う。

恐れが小さく首をふらせる。

「理周・・いつまで・・とじこもるきでおる」

恐れだけ取り払えば何の事はない。

台地を踏みしめる強い娘になれるのだ。

理周の気弱さを、その腕でくるんでやり、

とりはらってやりたい不知火になるのをおさえながら、

「理周。もう・・お前はおなごなのだ」

一人のおなごを父に晒せるかどうか?

何かを父から貰うのではない。

父から与えられた性を掴み取っている自分かどうか?

それをみせられるか?

「おな・・ご?」

「もう・・いいかげん。たちあるけ」

「は・・・い?」

一歩先の理周の姿を言う。

笛を吹かぬか?といった時もそう。

現実の理周の戸惑いなんか聞いては居ない。

どういう思いでいるべきか?

笛は見やすかったけど。

「仕度を整えたら・・ゆくぞ・・」

支度(したく)なぞ、ありはしない。

構える心さえ、何にかまえればよいのか?

それでも、不安がある。

父は理周をしっているのだろうか?

母は父にとってなんだったのだろうか?

理周の存在を知ったら父はこまるのではないだろうか?

母に対する父の想いは・・・?

現実を知らぬ方が良かったものに成るかもしれない。

それどころか、理周のことどころか

母のことさえ覚えてない事かもしれない。

自分に問う理周は己の側面にきがついている。

『私は父に自分を認めてほしいのだ』

会うだけなら、一目見るだけなら、

不知火の言うように父なるものに逢って、

自分がなにを想うかを見定めるだけなら

父が自分を知ろうと知るまいと、構う事ではない。

父の中で覚えても居ない事なのか?

それが怖いのだ。

それが怖くて目と鼻の先の京にいるだろう雅楽師のことさえ

知ろうとしなかった。

胸の中に作りこんだ偶像を捨て去る事になるのなら、そうしてしまえ。

理周は理周なのだと不知火はいいたいのだろう。

父を求めるのでなく、

どんな父であろうと、対峙できる理周になれと。

それが・・・父を父にすることであり、

己を娘にすることである。

そして・・・。

女子として生きてゆく事を掴み取れ。

母の寂しさに、

父のない事に、

脅えない女になって見せろと。

そうかもしれない。

本当はこの世に生を与えた父を見るのではない。

よき良人と共に、ふと父の前に姿を過ぎらせ、

父が己を知ろうが知るまいが

『理周はしあわせにいきております』

と、胸の中で父に思いを贈る側になれる。

それが、ほんとうなのだろう。

―不知火。貴方は随分先のできもしないことまでの、

私のあり方を示唆する―

不知火は物思いに耽るかのような理周を見ていた。

「理周、笛をみせてくれぬか?」

呼び覚まされた子供のように不知火を見詰返したが、

「はい」

さまに理周は立ち上がった。

袋ごと横笛を渡すようにと、理周の前にてをのばす。

渡された袋から既に逸品である。

笛を抜き出すと、不知火は掌(たなごころ)に受けて眺めた。

思った通りこれも品がよい。

理周が吹くより以前に使われた笛は

前の持ち主がどんなにか大切に扱ったかさえも、みてとれる。

「良い品じゃな」

雅楽師なら、この品をてばなそうとは考えはすまい。

「母に贈ったというたな?」

「はい。それを理周が五つの時から・・ふいております」

「これを見ておると・・父親の思いがみえてくるようだ」

理周の母と父。この二人にどんな経緯があったのかわからない。

だが、何らかの理由で添い遂げられぬとなった時、

男はこの笛に心をたくした。

入魂に近い品を理周の母に贈る事で、男は別れを享受した。

そう、思えた。

理周の父・・・。

「理周はいくつになるというたかの?」

不知火はなにをおもうのか?

「十八です」

「お前の母はいきておればいくつであった?」

「三十七、八かと・・」

理周の父親もそう、変わらぬ歳であろう。

横笛を入れている袋の黒い小平紋はいかにも若者らしい。

わしが三十二。

もう少し上で、若い頃から上等の笛を持てる男。

京の雅楽氏。

思い当たる者がいる。

だが、大物過ぎる。

逢うどころでない。

見ることさえ難しいかもしれない。

まあ。ままよ。

京の近く。山科の陰陽師、藤原永常がおる。(くわしくは、邪淫の果て・邪宗の双神を参照)

理周の笛をもつと不知火は裸管に下唇を当てた。

笛は甲高い音を立てて空を裂いた。

―ひいいいい――

くちびるをはなすと

「ふけぬの」

不知火が笑って理周の手に笛を戻した。

理周の心の裂け目に笛の音は高すぎた。

鋭く笛の音が刺してきた。

刺された傷あとに、確かに不知火を感じる。

いつのまにか、

笛より高く、不知火が理周の中に居る。

自分の胸の中にしみた音が不知火をみせつけている。

戸惑うより先、

高い音が耳にいつまでも残った。


夜半すぎ寝苦しさに寝返りを打つ不知火が

触れた者は理周の背だった。

『おい?』

理周がいつの間にか不知火の布団の中にもぐりこんでいた。

「どうした?」

背中の震えが、理周の涙を語っていた。

「・・・・」

判らぬでもない。

父との邂逅がどうなるか?

おそろしくもある。

かなしくもある。

普通の娘であれば、

こんな思いに降られる悲しみも知らない。

不知火はそっと理周の背中を抱いた。

「おうてみようぞ」

「はい」

なくしたくないものこそは、

精一杯堪えて堪えて生きてきた自分かもしれない。

わしがおる。

いってやれぬ言葉を飲み込んで

理周の背中を引き寄せ不知火は胸を当てた。

暖かい。温もりが理周を包むと理周はさらに泣いた。

こんな、温もりがほしかっただけだ。

望んではいけない。

堪え続けた理周をいともたやすく

不知火はいだきこんで、温もりをあたえてくれる。

『望んでも・・いいのですか?』

たとえ、父がおのれをしらなくても、

それがあたえられるものでなくても、

理周がのぞんでもいいのですね?

声を上げ泣き出した理周を不知火は自分に向けた。

自分に向けると、もう一度しっかりと、理周を包んだ。

『不知火三十二。男というより父であるべきかの』

娘のか細い声が、

理周は愛しいと確かに不知火に教えていた。


永常の所である。

不知火がつれてきた女性をふむふむと頷いてみていた永常である。

「雅楽師ですか?」

あれから比佐乃と一樹は落着した。

大きなおなかを抱えた比佐乃を連れ戻ると

つい、この間玉のような男の子を生んだ。

大輝と名づけたと不知火に聞かせたが

「あ。澄明がかかわったのだ。うまくゆく」

と、すんだことでしかない。

「それよりも、たのみがある」

長浜の陰陽師が女子を連れて、頭を下げる。

弥勒が池の法祥ではあるまいが、ならぬ恋に出奔をはかったか?

判らぬものは、本に男と女のなれそめである。

どう見ても、親子ぐらい歳が離れている。

不知火が惚れるも無理はない。

浮世離れした美しい女性である。

それがよくもまあ。

風采が上がらぬ。一言で言えばそう。

もさもさ。そんな男に・・・。

選んでも選びはしない。

蓼食う虫も好き好き。

げに判らぬものは、男と女よのお。

憶測に過ぎない事をとくとくと感心しているというか、

あきれているというべきか。

「何を考えおる?」

不知火の声に永常は我に返った。

「さて?たのみとは?」

「雅楽師にあいたい」

「だれ?どこの?」

そんな事くらいなら自分でいけば良いでないか?

難しい顔をしている不知火をみると、

そうもいかぬかと、半ば得心させられた。

「この女子のてて親なのだが」

永常はこの女子を見詰た。

「雅楽師ですか」

親探しか。

かけおちではないのか。

不知火には残念であったろうが女子にはよかった。

こんなむさくるしい男にはもったなさすぎる。

もったなさ過ぎる女子の顔をよくよくとみつづけていた。

「まさ・・か?」

よく似た瞳。細い体つきも、寂しげにも見える口元も。

「おもいあたるものがいるか?」

不知火にも見当はついているという事である。

「ああ・・ああ」

「我らではつてがなかろう?

かといって、屋敷に娘で御座いと名乗るわけにもいかぬ」

「むこうはしらぬのか?」

おなごのことをである。

生まれた事もしらぬということもあるまい。

どういう、いきさつで子をすてたか、判らぬ事である。

おもてだって、会えぬということなのだろう。

「わからぬ」

理周の胸元の袋をださせると、

「これを見れば娘だとわかろう」

怪訝な顔になった永常である。

「笛をなさるか?」

おなごにじかにたずねたが、不知火が答えた。

「長浜の雅楽師、理周をしらぬか?」

「女子の雅楽師がおるときいたことがある」

それが。これか。血のなせる業(わざ)であろう。

「あの方に会う法をかんがえておったが。

娘さんが、いや、理周さん?・・が、雅楽師ならよい案がある」

つと身を乗り出した不知火の耳にとどきだした言葉が、

理周の顔を暗くしずめていった。

羅漢寺の尼が居を移す。

雅楽奉納を最後に羅漢寺を去る。

ここにあの方がよばれるだろう。

むろん、尼の子は、長浜の薬師丸である。

と、成れば、当然、

「しっておるのではないか?」

だが・・・当然、薬師丸も来る。

「これをつてに・・」

理周を見て、いいかけた永常がこまった。

俯いた理周の顔が上がってこない。

「どうした?」

不知火がきずいた。

まだ・・・。なにかある。

永常を振り向くと、不知火は手短に話を治めようとした。

「つまり。そのつてで奉納にくわわればよいというのだな?」

「そうだが・・」

理周の様子が、それも難しい事のようにおもわせる。

「わかった」

この先の理周の事は不知火がきく。

外に出ようとする二人を、永常が止めた。

「わしがおって、はなしにくいなら」

永常がそとにでてゆく。

どうせ、ここに泊まるつもりで永常をたよってきたのでもあろう?

「わしは、妻と離れにいくから」

孔雀明王が邪魔になるやも知れぬが、

とくと女子の心を聞いてやるがよいわと、

永常が席を立った。


「さて・・どうかの?」

俯いた顔の理周の上からかけた不知火の言葉はやけに厳しく聞こえる。

「わたしは・・」

「はなしてみろ。わしはよまん。自分の口ではなせ」

「は・・い」

「私が晃鞍に・・」

不知火の方がぐっとつまりそうである。

どの言葉を選ぶか?理周。

「私が晃鞍の男に晒されたのは、

薬師丸からの申し出があった、そのすぐあとでした」

晃鞍の男をひじり出させたきっかけである。

が、理周はそれを言おうとしているのではない。

「薬師丸の申し出というのは?」

「・・・・」

理周の口元がゆがんだ。

「お方様になれと・・」

呈のいい言葉の綾である。

早い話が妾になれ。

妻には出来ぬ。

男子を産まねば、理周はどうなる?

産んだとて、どうなる?

「賢壬尼の二の舞ではないか・・」

「ええ。それはあの方もよくよく迷った上での・・」

申し出であったと言うか。

「その話を聞かされた・・晃鞍が」

申し出を聞かされた直ぐ後だと理周は言った。

「それで・・洪園寺をとびだしたか?」

理周はかぶりをふった。

「晃鞍の虚を艘謁がしりました」

そのあと、さらに艘謁か?そういうことか・・・・

「わたしは・・」

ききとうない。

耳を押さえたくなる理周の言葉を不知火は耐えた。

「艘謁の男に恩義をかえすだけでした」

陵辱の傷もいえぬ女子をなぜ、ここまで、おいつめさす。

「どこかで。父を求めておりました」

節の言うとおりだった。

だが、当ては外れた。

艘謁にではない。

理周の中が艘謁の男を拭っただけだった。

「そうか」

ふうと深い息を吐いて、不知火は今の理周に戻る。

「それで、お前は薬師丸の事をあきらめたということか?」

「え?」

おかしなことをいう。

こんな身体になった女子を、

口を拭うて、さしだせというか?

「かまわぬことでないか?」

「え?」

「お前が薬師丸を望んでおったなら、それでかまわぬ」

のぞんでいただろうか?

否。

「わしが薬師丸なら、そんな事でお前の心までなくしとうないの」

例えて見せたけど、それは不知火の本心に近い。

「あの・・」

「のう。理周。

わしは自分の思いこそを大切にすべきだと思うておる。

出来ない。出来るではない。

自分がどう思う。それを自分がだいてやれないでどうする?」

「薬師丸がことはすいておりませぬ」

慌てふためくように、不知火の言葉を抑えた。

「ああ。あ。そうか・・」

拍子抜けしたが、どこかでほっとしている。

「そうでなく。ゆえに、断るようになれてよかったとさえ、

おもっております」

それが自分の思いである。

晃鞍の事がなければ艘謁の事もなかったろう。

晃鞍にあの時、理周は尋ねた。

―どうしようか?―

薬師丸の申し出をどうしようかと。

心を偽って理周は承諾を選ぼうともしていた。

だが、迷い。

この迷いが、また晃鞍を男にさせたのだろう。

理周がいかぬといえど、いくといえど、

自分の思いさえ揺れ動くものでなかったら

晃鞍は、豹変しなかっただろう。

でも、あのままのあいまいな理周でことなきをえていたら、

どうしていただろうか?

結局。理周は薬師丸に自分をなげうった?

どのみち、自分を偽った。

偽った心は、結句薬師丸の手を陵辱とうけとめるだろう。

けっかは・・おなじだった。

「つまり。理周がことの申し出がどうなっているか・・か?」

艘謁はどう、申し開きをしたのであろうか?

薬師丸の申し出を断ると姿をくらませたというか?

薬師丸をおいつめるだけであろう?

なれど、本当の事をいえるか?

母の二の舞、繰り返させても薬師丸が望む女を

横から父子二人で犯し果てました。

いえるわけがない。

これを考える理周は薬師丸にどう、顔を合わせればよい。

さらにはっきりことわりをいれねばならぬのか?

それとも、すでに傷ついた薬師丸をみねばならぬか?

いや。それより、奉納の席に理周をだしてくれといえるわけもない。

まして、どの顔をして、理周は薬師丸に逢える?

「ふむ」

一大決心をして長浜を出てきた理周である。

父に逢おうと決めた分だけ、憔悴もおおきい。

「おうてみるか・・・」

「え?」

「薬師丸におうてみよう」

出来る。出来ぬ。でない。

己の心のまに思いを伝えてみよう。

「わたしは・・どういえば」

薬師丸の申し出を断るのが、理周の心であるなら

「わしが嫁になったとでもいうておけ」

「はい?」

「理周には好いた男がおった。

そういうておけば晃鞍も艘謁も安泰じゃろう?」

「でも・・」

薬師丸に嫁に行かぬのかと聞かれた理周は、いかぬといっている。

「阿呆。いちいち、本当の事を答えねばならぬものか・・」

「はい?」

「それは・・好いた男にだけにしておけ」

「ああ」

薬師丸が好いた男でないのだから、

理周が本当の事を答える必要がない。

こういう理屈を理周に言うておるのだ。

なるほど。

どうも、杓子定規で一辺倒。

「ゆうずうがききませなんだ」

「そこが理周のよいところだがの」

はははと愉快そうに笑う不知火の瞳がやさしい。

「おうて、あたまをさげよう」

「はい」

だが、そううまくいくものだろうか?

「亭主にあたまをさげられて・・聞かぬ男でなかろう?」

薬師丸ではすくうてやれなかった深淵を救える男。

理周が心を打ち明ける男。

理周を護る男。

これをしれば、薬師丸が本意であれば、必ずやうんといい、

理周へ寄せた心を不知火に託す。

事実はでっちあげだが、

「わしが夫だというたら、薬師丸はなくかの?」

飄々として、粗野。

薬師丸と較べても見劣りという言葉しか出て来ない容貌。

歳もくうておる。

「理周の目を疑われるの?」

が、

「こんな男がよいというなら、いっそ、あきらめもつこう」

笑う不知火に理周は首を振った。

『そんな事はありません。貴方は理周を平気でひっぱりあげてくれる』

「まあ、辛抱しろ。その内、本当のよい男があらわれるわ」

少しさみしげだったが、

「まあ。薬師丸もそう、思うのと、同じだろう。

問題はお前がさいわいであるということだ」

いうと、席を立ち不知火は永常の離れに出向いて行った。

薬師丸の羅漢の里での宿を知ろうというのである。

既に薬師丸がきているものか?

羅漢寺にじかに投宿しているのか?

山科から羅漢寺まで八里。

明日、朝はよう出れば夕刻にはつこう。


出立する二人を見送る夫婦はためいきをつく。

「綺麗なお嬢さんなのに・・」

見かけではわからぬ不幸をしょいこんでいきてきたのであろう。

もの寂しい匂いが、つきまとう。

不知火はそれをふきとばしてやりたいのだろう。

『父にあえるといいの』

帰りはきっと、明るい娘が顔をみせてくれるだろう。

永常ははなむけがわりに道中の加護を祈った。

「ふう」

溜息を付き玄関をくぐる永常を妻女は怪訝にみた。

「どうなさいまして・・」

「いや。羅漢の里にまで現れた鬼女のことを・・」

「ああ」

永常は話せなかったのだろうと、妻女は頷いた。

「あやつなら、ひょっとして、すくえるのではないかとおもうたが・・」

「それどころではなさそうですものね」

少女の項の細さが一層寂しさを物語っていた。

不知火が心をくだくのがわからぬでない。

「いわぬほうがよかったのですよ」

「そうだの」

どこかであてにしてしまっていた。

かすかな不安を抱きながら、永常はたたきを上がったが、

「ちゃでもいれぬか」

妻女をふりかえった。

妻女がくどへゆくのをみとどけると、居間へはいった。

梅雨のひぬまに、菖蒲がさいておろう。

雨戸を開け放てば、眼前は薄曇の外になった。


ふらぬだろうの。

おちぬだろうの。

雨を気にしながら不知火と理周は夕刻近くには羅漢の里にはいれた。

羅漢寺の奉納は二日後。

賢壬尼を迎える仕度もあろうが、

余呉に連れてゆく算段もあろう。

薬師丸ももう、羅漢の里にはいっているのではないだろうか?

おそらく、ご母堂、賢壬尼のすまう、羅漢寺に投宿なさろうと、

永常は言った。

里へ入り、人の口を頼れば

確かに高貴なかたが羅漢寺にはいったをみたという。

小さな沼を通り過ぎれば、羅漢寺への一本道だと教えられたとおり、

沼の脇を通り越せば、果たして寺の造作がみえてきた。

「ここらは沼や池がおおいの」

「ここいらまで、琵琶の湖の水が、あったなごりなのでしょうか?」

摂津へ抜ける水路がひらかれ、湖は水を引いたと聞く。

夕間暮れがにじみよる。

「いそごう」

足を速める二人にぴしゃりと小さな雨粒がおちた。

「ふってきたわ・・ゆくか」

永常の加護が効いたか。

寺の門前に立った途端、土砂降りの雨に変わった。


雨を突いて現れた二人連れを、どうしたものかと世話女が尋ねる。

「薬師丸様におあいしたいというてもおるのです」

雨の中、断るのも気の毒であり、こちらの風体もわるい。

「戒実。お前にあいたいと・・」

賢壬尼は息子を振り返った。

「私に?はて・・・誰であろう?」

「長浜からいらせられたと」

女はつづけた。

「男の方は従者かと、女子の方は年のころ十七、八・・綺麗な」

「痩せておって・・胸元に黒い笛の袋をさしておらなんだか?」

「ああ」

言われればそう。

笛を入れておったのかもしれぬ、細い袋が胸元にあったような。

「理周だ」

呟くより早く薬師丸は立ち上がると本堂の濡れ縁に飛び出していた。

理周への申し入れは確かに伝えられている。

が、返事は

「考えさせてくれとの由。もう少し日を与え下され」

急ぎはしない。

迷うた気持ちのまま、居場所のない理周がやまれず、薬師丸にすがる。

そうならざるを得ない事であろうが、

それでも、仕方なくでは薬師丸も辛い。 

隅に処せられる先もありえる。

どの顔で無理に理周を引っ張れるものか。

理周にそれ相当の覚悟がなければ、母の二の舞。

理周の意気地にまかせたのだ。

迷うも自由。

この先に、断りの一文字しかないかも知れぬが、それも理周にゆだねる。

「待とう」

返事を返した薬師丸の元へ、その理周が来た。

それも、わざわざ、京のはずれ

羅漢の里。母である賢壬尼のおるここに。

と、いうことは・・・。

「理周か?」

濡れ縁を走り、広い階(きざはし)の段の前に立つ理周を見た。


薬師丸の声に振り向いた理周の手が、

側におる男の袖を掴もうとするかのように見えた。

『え?』

不安げな理周が頼り、縋るのはこの薬師丸でないのか?

薬師丸の声に顔をほころばせ、

「逢いとうなってしまいました」

例えばそのようなことをいって、薬師丸の側に駆け寄る。

従者の男は二人の姿に背を向けて、

若き想い人達の抱擁をやり過ごしてくれる。

「理周」

理周が高い声で自分を呼んだ。

「薬師丸様にお逢いできる処遇では有りませぬが・・

お願いがあってまいりました」

凛と通る声が震えているようでもある。

逢えない処遇と、理周が言った。

だが、お願いがあるとも言った。

足元の踏み板を見詰ていると、涙が落ちそうである。

理周は薬師丸の元に来ない。

だから、お逢いできない。

おそらく二度と会うつもりはなかっただろう。

だから、薬師丸の喜びをけすことにうろたえ、

従者の袖さえ掴もうとした。

理周も辛い。

辛いのは承知の上で、それでも、『お願い?』

き、と顔をあげると、

「なんだろう?薬師丸にできることであらば・・なんでも」

薬師丸は理周しか要らぬ。

だが、望めぬものならば、望みはしない。

理周が望む通り。

それをかなえてやるが、薬師丸の心。

「いうてみよ」

細く潤んだ瞳を開けなおし涙を堪えると

「ここではなんだろう。中にはいればよい。中で聞こう」

促された理周が従者を振り返った。

どうしよう・・。

どう迷ったかは知らぬが、

理周の背を押すような従者の深い頷きを見た理周の背が

ぴんと強いものになった。

『そ・・そういうことか・・』

男ならさっしがつく。

従者の袖に触れかけたのも、薬師丸が考えたこととはほど遠かった。

いや、既に従者という言い方さえ間違っていたのだ。

理周の心が女を呈している。

安心して心を委ねらるる男に、委ねる女を生じさせている。

『女になったか。理周・・・』

事実であるが事実でない。

が、真実に成ろうとし始めている事を気取ると

「ついてこや」

二人を手招いた。


深々と頭を下げる理周である。

「薬師丸様には愛顧を顧みぬ・・」

続く言葉を薬師丸が受けた。

「いわぬでよい・・」

薬師丸の申し出は理周には雅楽師としての愛顧としてしか考えられぬ。

わざわざ、もう、断りを入れぬでよい。

先に見せたお前が心、読めぬうつけではない。

「それより・・たのみたいことというておったの・・・」

「はい」

「きかせてみや」

「明後日。ここで開かれる雅楽奉納のお席に理周を・・」

簡単なことであるが、

「それが・・ために長浜からここまで?」

雅楽師としてか?

賢壬尼の二の舞奉じる気でおった、薬師丸への侘びか?

はたまた同じ宿業繰り返しかけた理周だからこそ、

賢壬尼の心をなぐさめられるか?

親子の因縁をおもうたか?

「父に一目あいとう御座ります」

「あ?」

あいたいもなにも、誰かもしりませぬ。

今さら、おうてどうなります?

むこうも理周の事は知りますまい。

余呉の湖(うみ)の前で理周はきっぱり、関らぬ気がないといった。

その父に会いたい?

心の変転は何にきざしたか?

薬師丸が尋ねたら理周は心をみさだめたことであろう。

「私の不知火に寄せる思いが

父を求めるものとは別のものである事を見定めに参りました」

ほんの二、三日前に理周の思いは

既に、理周も知らぬところで変転を遂げている。

いつの間にか女として不知火を嘱望している。

それを気がつかせないのは、父に餓える心である。

餓えた心を充たそうと決めた時既に理周は不知火を男としてみている。

それに気が付かぬまま、理周はここにきた。

理周を知らせるのはいずれ

薬師丸であろうが父親であろうが構う事ではない。

「父がわかったということか?」

「はい・・」

「あさっての雅楽師の中におる。そういうことだな?」

幸せを掴んだ女は父にその姿を見せたくなったのやも知れぬ。

つい、さき。

理周が訪れたとわかった薬師丸の心もそう、騒いだ。

『母上・・理周です』

自分の選んだ女を。自分の心を占めた女を。

特別な女性であると母に見せたかった。

はかなく散った想いであるが、

さいわいというものを親様に分け返すが子の勤め。

『母上。戒実はまだ当分親不孝をいたします』

理周に親孝行させる元になった男を改めて見た。

柔らかな人柄の底に厳しい物が見える。

双眸に宿る光が生半可な感情に流されぬ男を見せている。

だが、理周を見る瞳は優しい。

厳しさと裏腹の優しさで理周を包み、

いつの間にか理周を強い娘に変える。

この男は理周の何もかもを引き受けた。

深い瞳が、理周の全てをとらえている。

厳しくて優しくて厳しい。

理周が全てを包むに相応しい。

護る。

瞳にはそう刻まれている。描いてあった。

この心に殉じてこそ、

理周は父の思いに、存在に対峙せねばならなくなる。

『たいしたお方だ』

薬師丸の悲しみなど些細。

些細にしてしまえるほど理周を変え理周の中の父を変えた。

「そちらはなんという・・」

遅ればせながら名を尋ね二人で奉納の席に座ればよいと協賛を示す。

「不知火と申します。陰陽事を少々」

「え?陰陽師?長浜の四天王。玄武を護る不知火・・か?」

らしくない姿は元々だが旅支度であるから、

いっそう陰陽師には見えない。

本人が名乗りを上げても信じてもらえるかどうか怪しい。

が、薬師丸は唸った。

「ならば。こちらもたのみがある」

理周の邂逅が終えた後。

母賢壬尼の心残りをはらしてほしい。

委細話された事に気が急いてもいかぬだろうと

陰陽師の性質なるものを見抜いてか。

理周をちらりと霞み見ると、

「万事うまく、そのあとでいい」

我らが去ったあともそのことまでも含め、ここに寝泊りをすればよい。

いうと、

広い本堂の端で布団を敷きこむ世話女をみた。

「我らは奥にはいる。このものらに整えてやるがよい」

つけたした。

「布団は一組でよいわ。どうせ、いらぬ」

薬師丸は確かに二人を夫婦とみなした。

違うともいえず、面映いが仕方がない。

「ゆこう」

薬師丸は食事の支度が整った粗房を指差した。

「ご膳はむこうでいただく」

今、気が付いた。人気がなさ過ぎるのではないか?

「薬師丸様・・おひとりなの・・ですか?」

「あの方はお輿に乗るのも好かぬというて、歩くという。

伴連れでぞろぞろ歩くのもいやじゃという。お陰で私ひとりの御守だ」

「荷物もございましょうに」

「それがの・・ほとんどない・・」

替えの衣を二つ、三つ。

「私に持たせればおわるらしい」

質素に暮らしている。

あとは羅漢寺のもので済ませているという事である。

「薬師丸さまほどのかたが・・」

従者もつけず、荷を担ぐ?

「はは。母には勝てぬ」

父とは、逢う事もない。

せめて、父に代わり母の息災なき姿を見届け思いを聞いてやりたい。

「私には我侭な人です」

こそりとわらってみせたが、

せめても父に甘えられぬ母の思いを汲んでやれる事を喜んでいた。

夕餉を終えると、二人は本堂に戻った。

物静かな尼は理周と薬師丸の間の何かを感じ取っていたものの、

尋ねようとしなかったのは、

薬師丸への思いやりか不知火への配慮だったのか。

「ゆっくりとおやすみやす」

京言葉に様変わりしているのも、

土地に人に溶け込もうという、沿うて行こうという、

尼の思いの末に思えた。

「優しいひとですね」

そして、強い人なのだ。

心だけ薬師丸の父にあずけ、後の世を独り。

「お前の母もな・・・」

「はい」

素直に頷く。

縋る人のない寂しさを心一つで立て通した。

縋る心を知らなかった理周には、

寂しさだけが大きく口を開けた邪鬼にみえた。

野放図なほど明るい不知火にこころがゆるまされ、ほっと。

気が付いたら心がしなやかになっている。

これもすがっているのだ。

いつの間にか不知火に支えられている。

これをなくしさってしまいたくはない。

なくし去った後はきっと、他の何者にも埋められぬ事を知る。

何者かで埋めようとする方がよほど淋しい。

やっと、母の思いが見えた気がした。


が、とんでもなく不知火がためいきをついた。

「よわったの」

世話女がまにうけおってから、本当に布団は一組しかしいておらぬ。

くすりと理周が笑った。

「理周。また・・なきましょうか?」

「あ?」

泣いた理周であらば、不知火は弱りもせず

一組の布団の中に抱きかかえてくれた。

「ははは」

そうだの。こだわることもない。妙に意識するからおかしい。

「せまいかの?」

高い天井を見詰平らに眠る事になった。

「貴方が一緒だと心強い・・」

「わしは・・・こまる」

「はあ・・・めいわくですか?」

「ねごとはいう。はぎしりはする・・」

「う、う、うそ?ほんとうですか?」

「うそじゃ・・・」

べっかんこをしてみせて、蝋燭の火を消した。

だけど、男、不知火本当に困った。

はよう、事を済ませて新町に駆け込まねばならぬ。

男の身体はままならぬ。

寝返りも打てない状況の自分に苦笑し、そっと理周を窺った。

静かな寝息がふかい。

理周。案ずるな。

父はきっとおまえを忘れた事なぞありはしない。

寝顔に語りかけると不知火も眠る事に神経を集中させていった。

そう、つまるところ。なにもかんがえない。何も意識しない。

眠る事は一種無我の境地であるな。

そう考えたあとの不知火にこそおおきないびきがひとつ。

「うがっ」

一声でおわったけど・・・。

舟をこぐような底鳴りの寝息は理周には聞きなれた子守唄だったようだ。


朝早くから、本堂は線香くさい。

朝の経を上げる尼の声にも、気が付かず

ぐっすりと眠る二人はせまい布団に包まっている。

寝返りを打った不知火が慌てて、おきだすまで

賢壬尼はゆっくりと朝の祈りを唱えた。

理周の眠りを妨げないように布団を抜け出した不知火が

賢壬尼の側に来るのを、待って合掌をすると、

不知火も本尊に向かい手を合わせて見せた。

「突然おしかけて」

詫びの言葉を賢壬尼は手で二度空を切っておさえた。

「どこで、またわが身。いいっこなしにしまひょ」

深く頭を下げて頷く形をとって礼にすると、

「西園の泡沫(うたかた)が、雅楽を始めたのは・・」

西園の泡沫。つまり理周のことである。

西園の落とした泡沫と、謡い方のうたかたを合わせて言うている。

「笛を五つの時にと・・ききましたが」

「同じ・・どすな」

理周の父。西園は公家の血筋である。

その公家の屋敷の雑用を世話する女が居た。

丁度、羅漢寺の世話女と同じで、

事があったときだけに

近所の女衆がちょいとてつないに来るという手合いである。

西園はてておやである公房とこの世話女との間に生まれた。

薬師丸とよく似た状況である。

違う事は薬師丸が嫡男であった事であり、

賢壬尼があえてお方様の遇を捨てた事である。

世話女との間に生まれた子を屋敷にいれることなどままにはさせぬ。

妻女の意気があれるのも無理はない。

妻女も既に子を幾人か得ており、当然嫡男も居る。

が、西園の事は人の知るところ。

無碍にも出来ぬ。

夫の背に公家の犬畜生といわれたくもない。

孕むだけ孕ませて、女子を捨て去るのは女房おそろしさ。

これも言われたくない。

考えた末、西園を引き取ると、さる所へ預けた。

わかったふりの出来た女房を演じるには、ここまでが限度だった。

預けられた所は神官の元。

子がなかった宮司は喜んで西園を迎えた。

ここで、西園は雅楽の目を開く事になった。

だが、名こそ公家の血筋であるが、与えられた位置は流離。

流離でありながら、気ままは出来ない。

笛一つ。

着る物一つ。

公家の血筋に恥じぬものであった。

が、何の自由がある。

赦される事は、嫡男を離脱する事のみ。

あとなぞ継がぬという事だけは、赦されたが妻帯も妻女の手の内。

出来るなら、西園の血は絶やしてしまいたい。

この先もし自分の子に後を告ぐ子が出来ねば西園が

いつ浮上してくるか、わからぬ。

怨念にも似た思いは己の出生をも、疎む事になる。

これは理周にも似ているかもしれない。

その矢先、修行の地で、知りえた女を

我が物にする思いに逆らえなかった。

女に何もかも話した。

生きている事さえ赦されないせまい境遇。

添い遂げる事も出来ない。

それでも・・。

求めずに置けない。

女は黙って西園を受け止めた。

何もかも赦される己。

西園は恋に落ちた。

これが理周の生まれたわけである。


「きいておられたのですか?」

西園からである。不知火の問いに

「似た者同士・・話しやすかったのでしょな」

答える賢壬尼にさらに問う。理周の事は?

「戒実から聞かされたときにすぐに・・わかりました」

西園寺の恋の果て。

「あれも・・どんなによろこぶか」

賢壬尼は涙を抑えなかった。

「よくも・・女手一つで誠をつくしてくれた」

拝み参らせ。

「苦しかった事と思います」

ぽつりと呟く不知火の目に西園の悲しい姿が浮かぶ。

それを晴らすが、理周の姿。

「よくぞ・・おつれくだされた」

「いいえ」

不知火の振る首に賢壬尼は手を合わせた。

西園の心の闇は理周が拭う。

理周の心の闇は西園が拭う。

「女子の愛がいかに大きいか・・よう・・理周をうんでくれた」

それが西園の心であろう。

穿ってみれば賢壬尼が見せ占めた誠でもある。

「は・・い」

「ありがとう」

「いえ。私はそれを理周にきがついてほしい。それだけで・・」

手を合わせ不知火を拝む尼である。

「もったのうござります」

首を振ると賢壬尼は微かに微笑んだ。

「理周が戒実でなく貴方をえらぶわけですね」

「え?」

「いえ・・なんでも・・」

賢壬尼はわが娘になり損ねた理周が

布団の中から起き出してくるのを目の端に止めていた。


透き通るような笛の音が流れ出し、雅楽の終焉が告げられ、

ひとしきり高い笛の音が尾を引くと座が静まり返った。

深々と頭を下げた戒実である。

「長浜から余呉へつれもうそうとおもっております」

賢壬尼の先行きを告げるとにこやかに微笑んだ。

「長浜のすみびとも心を砕き

賢壬尼をむかえてくれようとしております」

理周を振り返ると

「賢壬尼を迎える心の理周がきてくれております」

と、理周を呼んだ。

かしこまる理周と諸人に

「理周の心栄え・・・おききくだされ」

笛を促した。

理周は胸元の横笛を抜いた。

西園は理周の横顔をみつめつづけ、

抜かれた笛の袋に目をさらえつづけていた。

やがて、静かに理周の笛の音が流れ始めた。

西園の瞳が大きく見開かれ、やがて静かに伏せこまれた。

理周が吹いた曲は母から何度も教えられた音階である。

西園が忘れるはずはない。

ただ一人、理周の母のために作った謡である。

溢れてきそうな涙を堪え西園は理周と自分しか知らぬ謡の曲をならべた。

理周は並べ吹かれ始めた西園の音に笛を止めた。

静かな曲が流れてゆく。

音階が変わり始めてゆく。

理周の主旋律をならべよと西園が吹く。

深く息をすうとと理周は主旋律を重ね合わせた。

親と子の心が重なり合った。

確かに父である。

確かに娘である。

泣くまい。

貴方の娘。理周であると張り叫ぶ言葉はこの笛の謳い。

とめるまい。

かの恋うる人の誠に答えるは、貴女に捧げたこの謡い。

奏で続け、重ね合わせる心がすべて。

父なのだよ、と、

娘なのですよ、と、

笛はないた。

哀愁をおびた笛の音はしずまる。

座は静まり返っていた。


やっと笙をもった男が西園を振り返った。

「よくも・・・あわせられたものだの」

天才は天才を知る。

ためいきひとつもつかせぬ賞賛はまだ座を静まらせていた。

西園はかるく、くびをふった。

「理周が私にあわせてきたのだ」

理周があわせてきた。

そう。

逢わせに来てくれたのだ。

私は・・・生まれてきてよかった。

私は・・・生きてきてよかった。

ただ一度、西園の心を生かせた女子は

再び、西園に光明をみせた。

「いきていて・・・」

西園が瞳にあふれるものを隠す事もなく、

理周を見詰ると、深く頭を下げた。


坐が開かれ今日を最後に賢壬尼は羅漢寺をさる。

戸口近くに座りなおすと賢壬尼は人々を送り出す。

「達者で」

「息災で」

「さみしゅうなります」

様々な言葉が賢壬尼に降り注ぐ。

外へでる人の群れの中で西園はたたずんでいた。

「西園様」

賢壬尼の前に座ると、西園は賢壬尼の手をとった。

握り締めた賢壬尼の手に涙が落ちてゆく。

「あなたの・・」

采配なのですね?

「いいえ」

理周は自ら貴方に会いに来た。

拭う涙の手をそっと後ろの席に座ったままの理周にむけた。

「かたわらにおるのが」

言われずとも察っせられる。

もさもさした男だが、優しい瞳をしている。

「しあわせでおるのですな?」

「みせたかったのでしょう」

「・・・・」

父親といえる自分でない。

理周の生まれた事すら知らなかった。

だが、娘はこの男を父と思うてくれる。

「母人は九つの時に・・・」

賢壬尼の悲しい言葉尻でわかる。

「それから・・・ずっと・・ひとりで?」

「苦しい事もずいぶんあったとおもいますよ」

それでも、この西園をうらみもせず。

もう一度、西園は理周を見た。

見た瞳がはらはらと涙を落とさずに置けない。

再び理周を見詰た西園の手が理周をおがんでいた。


広い堂はがらんとなる。

立ち上がった理周は西園が去ったあたりをまだ、みつめていた。

不知火がそっと、理周の背を叩いた。

とたん。

理周の瞳から雫が流れ落ち、不知火は胸の中に理周を抱いた。

「父さまです。理周の父さまです」

『そうだ』

解けきった心はなおも、理周の胸に繰り返す。

父さまなのだ。

父さまだ。

理周の父さまだ。

父さまなのだ。

どの言葉にも変えられない事実だけを理周は叫ぶ。

父さま。

父さま。

父さま。

理周は・・・・。

横笛を握り締めた。

この笛だけが理周の思慕を知っていた。

笛を吹くことだけが、理周に父のある事を教えた。

見ぬ父はいかなる事も教えてくれなかったが、

今日こそ、理周は知った。

貴方こそ・・・理周の父。

理周は・・・生きてきてよかった。

胸に包んだ女がやがて、静かに不知火の胸を離れた。

『よかった』

不知火は口にださぬ思いで理周を見た。

理周の基底が温かく、晴れやかな物に成り代わる。

『よかった』

不知火の顔色こそ、理周を悟らす。

ここに、理周の幸いを心底から願う人が居る。

父さま。

ふと、不知火の笑顔が父にかさなった。

『そうなのだ。やはり・・・・そうなのだ』

気が付いた心は二重に理周を支えだしてゆく。

「かたづけましょう」

足元の座布団をつかみ取ると目の前の茶飯事に身を移す。

生活し、生きてゆくための日常の些細な事が、たいせつなことになる。

理周の基底は深く根付いた愛に立ち始めていた。

『父さま・・・理周は幸せ・・です』

座布団を高くだかえ、眼前が見えなくなった不知火を

押し込みに先導してゆくと、

「貴方はよくばりです」

声を立てて理周が笑った。


端座する薬師丸である。

不知火は礼をすると薬師丸の前に腰を落とした。

法要の前に言い出した薬師丸の頼みごとを聞く事になった。

「羅漢の里でも子を食われた」

京の都の羅刹。

鬼女の噂は聞かぬことでもない。

だが、この静かな里にも鬼女が業をおとしていったという。

「賢壬尼は子を失った母親の悲しみもさながらに・・」

鬼に成り代わった女こそが救われねばならぬという。

「なるほど」

多くの母親が子を亡くしたというに、

鬼女の心は瑣末であり、癒える事がない。

「ところが、居場所すらつかめない」

賢壬尼は鬼女を宥めたい。

女子であらば、きっと、子を亡くす母親の苦しみはわかろう。

解るはずの女子が何ゆえ子を喰らう?

心の深い闇を拭い去ってやりたい。

それいがい、消え果た命にあがなえる法要はない。

「それが心残りなのだ」

だが、どうしょうもない。

と、諦めていた。

思いを祈りに変え、賢壬尼は羅漢の里をあとにする事にした。

「ふううううむ」

法は一つ。

六ぼう星をしく。

そして、不動明王の金縛り。

どこの陰陽師でも考え付きながら、実行しなかった最大のおそれ。

それは鬼女が霊を映す台への影響である。

六ぼう星を敷いた中天に台を置く。

台に鬼女の生霊を憑依させる。

三点に立つ護摩の火は、鬼女をしめあげ、台の中で身動きを封じる。

反三点の天の位置に陰陽師総画が立つ。

地点の二人も居る。

だが、これが、もししそんじたら。

生霊に支配され、鬼がふえるだけである。

そうはさせまいと思える相手こそを守れる。

護りえぬ者を台にはできぬ。

台も選ばれしものである。

だが、だからこそ、どこの陰陽師が自分の愛する者を台にできよう?

「どうにもできませぬか?」

薬師丸の瞳が痛い。

母、賢壬尼の心を思う子の思いが痛い。

「できぬことではない」

やっと、口を開いた。

不知火にはすでに台は居る。

地点にたつ二人の守護。

これも、目算がある。

一人は賢壬尼。

もう、一人は理周の父。

子を思う。人を思う。

理周を守護するに足りる心根がある。

付け焼刃の印綬をさずけるが、心ほど強いものはない。

必ずや二人は守護になる。

だが。

「ならば・・・」

「しそんじたら、理周と言う名の鬼女ができる」

「え」

薬師丸は言葉を飲み込んだ。

不知火がいうことは理周を台にするという事だ。

・・。できぬ。させられぬ。

理周を道具になど、できぬ。

「ほかに法はないのか?」

「あればとっくに。あまたの陰陽師を悩ますこともなく、

今頃鬼女は仏道に帰依しておるわ」

「理周でなく・・例えば・・わたくしでは?」

不知火が首を振った。

「あれでも、理周は陰陽道の傘下。普通の者よりも・・台にふさわしい」

「・・・」

「それに・・」

護るにふさわしい。

うつけでなければ解る。

命掛けえる者こそ護りえる。

ゆえにおそろしい。

万にひとつ。

狂いが生じた時がおそろしい。

『ひのえ・・。おまえは・・なぜ、この恐ろしさにゆるがない?』

救いたい一心。

この心に神が乗る。

天が乗る。

『ひのえ。わしは狭義だ』

堂の向こうに、理周が見えた。

賢壬尼を相手に何をはなすか。

柔らかな微笑が明るく咲いている。

「くるわせはしない」

あの微笑をあの面差しから逃させることなぞできるわけがない。

「くるいはしない」

この不知火の守護は真だ。

弱い思いに降られた陰陽師たちをあざ笑うかのよう。

「まがいもの・・でないこと。己にたたきつけてようにみせてくれよう」

不知火。理周に想い参らせ。

認めさらえた心が、鋼になる。

『ひのえ・・・。こういうことか?』


夕方の空はむせてくるしい。

護摩をたく不知火は薬師丸に念を入れる。

護摩をけしさることのなきよう。

夕刻にあらわれた西園はことのつぶさに驚嘆を見せていたが

不知火を信ずる娘を信じた。

六ぼう星が描かれてゆく。

頂点に立つは不知火。

左右の地点に立ったふたり。

賢壬尼と西園は一心に唱えるべき印綬をうけた。

護摩がいぶり、それぞれの配置に人が立ち、

六ぼう星の中天には白絹の理周が立った。

「天知る。地知る。我知る。

げに恐るべきは人の身なりて人を喰らう。

白日の元に現される者。

りくぼうの輪廻にとらわれる。

汝の名やいかに?汝の想いやいずこ?」

理周の中に呼び込まれた鬼女が生霊が口を開きだした。

「などか、我だけが苦しまねば成らぬ?」

「何にくるしめる?」

こごまった声に問い直す事は、

鬼女が何ゆえに人の子をくらうかということである。

「われの子は山犬にくわれてしもうた」

「それで、人の子をくろうてなんとしょう?」

「おまえになぞ、わかるものか。

あのこがどんなにくるしんだことだろう?」

我が子だけが喰らわれた恐ろしさに苦しむのではない。

「みんな。おなじじゃ。

あのこだけひとり、地獄のくるしみをあじわうでない」

人身御供であるまいに。

「それで、子は救われるか?

己の母親が自分を喰らった山犬と同じになって、

それで、こがすくわれるか?」

「わかるものか。亭主が死んで、

あの子だけがわれのささえであったというに」

「馬鹿な。それでいいわけなぞたつものか。

お前が喰らった子の母親のきもちはどうなる?」

「われとおなじじゃろう?」

同じ不幸を背負い込む同胞(はらから)をつくりたいだけ?

それだけなのか?

常軌を逸した思いの創痍がある。

言葉だけはまともな事を喋っているが、

気が触れた女の正気さでしかない。

「亭主が、お前の姿を見てどう思おう?」

「亭主?亭主がどこにおるという?

この世のどこにおるという?我一人おいて・・」

よほどに苦労したのか、女の目にあるは現実の夫の有無でしかない。

あの世の亭主なるものの心がどうあろうかより、

女にとってこの上もない支えであった伴侶をなくした現実こそが

創痍であった。

「それでも、それでも、いきてきたのに。

なんで、われの子をくらわれねばならぬ」

この世に神も仏もない。

あるのは深いかなしみのこころだけである。

己の中に巣食うこの苦しさから、女はにげようとしていた。

だが、にげえるわけがない。

自分から逃げられるわけはない。

女は心を宥める。

不幸なのは、われだけでない。

不幸なのはあのこだけでない。

雛流し。精霊流し。

人型でなく、女は自分の境遇を

人に与える事で僅かな癒しをえたきがした。

「おのれのためだけではないか?」

責める言葉が不知火の口を突き出した。

―いかぬ―

鬼女の感情をあらぶれさせては、理周が身体をのっとられかねない。

「なにをいう?」

理周の形相がひきつまったものにかわりはじめていた。

不知火は女を宥めれる言葉をつかみ出せないまま、

黙り込むしかなかった。


そのときだった。

「おまえがいうこと。よう、わかる」

西園の声が響いた。

むんと理周の顔が西園に向けられた。

「すまぬかった。おまえを、子をまもってやれず・・・」

西園が言うは理周の母への悼みである。

理周の不思議な顔が瞬時、くずれさった。

「ぁ・・あんた?あんたなのかい?あんたなんだね?」

女は西園にかけられた言葉に己の亭主をみた。

「ぁ・・あんたあ・・あんたが・・あんたが」

西園は女のそばにあゆみよっていた。

危険なことである。六ぼう星がくずれる。

「すまぬかった」

女の手を取る西園の瞳から雫が落ち理周の手を濡らした。

「あんたさえ・・いてくれたなら・・」

「わしをゆるしてくれ」

女が首をふった。

首を振った女が不知火を向いた。

「ほどけたよううう」

女の言葉が消えると、理周が地べたにくずれおちた。

慌てて不知火が理周に駆け寄り活をいれた。

「不知火導師。

あの方は良人を亡くしたことで

もはや、いきておるまいとおもっておりました。

なれど、たった一人の良人の血を継ぐ子を護っていこう

と、きめておったのです」

その子が山犬に食われ夫の死と重なり、女は均衡をくずした。

「父さ・・いえ、西園様の言葉であの方は

逆恨みをしてもどうにもならない本意にきがつかされた」

「すると?」

「ええ。もう。こをくろうたりしませぬ。

あの方はやっと心を静かにさせられたのです」

それは、また、理周自身であったかもしれない。

「母は幸せだった。貴方のつまであり、子を得られた事、

幸せだったのだといっておりました」

女がか?理周の母がことか?

両方であろう。

西園の手が理周の手を深くにぎりしめていた。

「わたしこそ・・・」

「父さま・・・」

六ぼう星の真中で父娘はいだきあった。


永常は不知火をみつめている。

脇に座る娘のほほの色は最初にここをおとずれたものとは

雲泥の差になっている。

首尾はどうだったか?

きくまでもない。

「お茶になされまし」

永常の妻女が盆を運んできた。

「ようございましたね」

妻女の目にさえ事の解決が良きものだった事がみえる。

「はい」

素直に妻女にうなづける。

「都の見物はなさらないでおかえりですか?」

「長浜には、不知火導師を待っておられる方が

あまたいらっしゃるでしょう」

「そうですね」

陰陽師の生活は自由勝手のように見えて、そうはいかない。

「祭りもとどこおっておりますし・・」

妻女も永常の留守の時には、

一日の終わりに結界をはりなおすことさえある。

永常が不知火と共に庭に降り立つのを、

目の端で捕らえながら妻女は理周にそっと尋ねた。

「不知火様とも?」

深まるものがあったか?

「いいえ。いえ、はい」

「まあ?どちらですの?」

「理周の心が」

不知火を深くとらえこんだという。

「そうですか・・・」

桃色の頬の娘が不知火の深き心を受ける事はじきのことであろう。


永常はぽつりとつぶやいた。

「じつはの。都には鬼女が・・」

こんなことを不知火にさらけて、どうする。

やはり・・いうまい。

「おったのだが・・」

話をごまかし始めた永常に

「理周とわしで解きほぐした。

正に「おった」とむかしのことになっておるわ」

「え?」

いつのまにやら・・・。

「あや?さすが、不知火殿・・すばやい」

頭を下げだす永常に

「理周がおらばこそだ。礼をいうなら、理周」

短く言葉を切ると、不知火は皐月の植え込みの前に座り込んだ。

「永常殿。これはいかん」

どうやら剪定鋏がいるらしい。

ひょいと伸ばした不知火の手が鋏をよこせといっていた。


剪定を始めた不知火と

不知火の枝枝の選択を見詰る永常を

女二人が見守っている。

今頃、賢壬尼と薬師丸も旅の空の下であろう。

薬師丸にも、随分無理を言うた。

せめてもの返しに賢壬尼の気がかりもはらせた。

理周の心はかげひとつなく、澄んだ心は双眸に照りかえり、

瞳の奥底は楽しげに皐に傾く不知火を映しこませていた。


長浜に帰り着いて、七日もすぎたころだろうか。

不知火の元に女が尋ねてきた。

「ぬい、・・いえ、不知火さんは?」

「おりますが」

婀娜っぽい姿が玄人であることをうかがわせる。

理周の胸に湧くのは女への嫌悪感ではない。

悋気。それさえ、通り越した焦燥が募る。

理周の目の前に不知火の新町の天女がたっている。

理周は不知火の天女にもなれぬか?

「おまちください」

自分でも顔色が沈んでくるのが判る。

「だれぞ、きたようだが?」

居間の不知火が理周をみかえした。

「はい。おなごのかたです」

「おなご?」

いぶかりながら不知火はたちあがった。

玄関先に出てみれば居るは、

「節ではないか?」

「ぬいさんとは、おてんとう様の下で

合うことなぞないとおもってたんだけどね」

「ふむ。で、なんぞ?」

肌を合わせた女である。

情が移ってないといったら嘘になる。

「いえね。年季が明けて、

黒壁町の外れに小料理屋をひらくことにしたんで、その後挨拶とね」

「挨拶と?」

「ちょっと、御祝いと、たのまれものがあってさ」

「お祝い?ああ、店を開く?別にわしになぞ、構わ・・」

「いやだねえ。ぬいさんの・・」

馴染んだ名前をついよんでしまって、女は口を塞いだ。

「さっきもやっちまったのに・・」

奥に居るだろう理周を窺ってみながら

「とうとう、年貢をおさめちまったってきいたもんだから」

どう、噂が流れたのか知らないが、

不知火が理周を娶った事になってしまっているらしい。

「ふむ」

まあ、よいか。噂は噂だが不知火には事実に近い。

「でね。晃鞍がきたんだよ。

今度は親父さんにいわれてきたんだろうねえ」

「え?」

「理周さんにあわせろとか、そんなことじゃないんだ。

女将に預けた金を理周にわたしてやってくれないかってね」

「はあ?」

「女将も聡い女だよね。ご自分でお渡しになれないのなら、ってね」

「なるほど」

事の事実を女将は長年のかんでさっしているということであろう。

「だから、あたしがさ。ぬい・・ぁ。

不知火さんとこに届けてやるよって、あずかってきたんだ」

「それが・・・たのまれごとか?」

「うん」

薬師丸から艘謁にもれたのだろう。

理周が寺を飛び出し所在を隠しているのは

薬師丸の申し込みがせいであらば、

艘謁の心労を取り払ってもやりたい。

おまけに、あの男のことである。

理周と不知火の仲を認めてやれとの口ぞえくらいしぬけているだろう。

「なるほどの」

「はい」

ぬっと出されたこ袋が女の手には重い。

二の腕をはり詰めさせるほどに筋が立つのを見ながら

「また・・たいそうな」

多過ぎるほどの銀の小粒をうけとった。

「よほど・・・後悔してるんだよ」

「だろうの」

だが、理周がこの金をうけとるだろうか?

「どうしょうもないものねえ。

すんじまった事はもう、なんにも、かえしようがないのにね」

節は金にしか変えられぬ艘謁親子を悲しいものだと思った。

「でも、せめて・・そうするしか・・・。

自分の愚かさを慰める術がないんだろうねえ」

「ふむ、わかった。とりあえず・・うけとろう」

重い。重い。袋である。

「しかし、よう、くすねるきにならなんだの?」

「えへ・・」

節は銀を一枚、袂からぬきだした。

「もらってるよ。つかいの駄賃だって、

黙ってようとおもったんだけどさ」

「ふ・・・」

「こんな。大金さわっといて、知らぬ存ぜぬなんて、

それこそ人間じゃないだろ?」

「だな」

「やっぱり、ぬいさんならそういって許してくれると思った。

じゃあ、確かにわたしたよ。あっと、これは内緒だよ」

銀一枚を指に挟んで見せると、節は

「三日もしたら、店を開くよ。ご新造さんをつれて・・」

はたと言葉をとぎらせた。

「そうもいかないね。もとは女郎って解ったら悋気が気の毒」

うふふと袂を押さえて

「あんまり・・・いじめちゃだめだよ」

不知火のほたえがいかほどか。

よく知ってる女が言うのは、不知火には痛くもある。

「あほう」

「ああ。そうだ。妙ちゃんが寂しいっていってたよ」

「・・・」

「あたしもね・・じゃあね」

すっぱり足を洗った女は心だけ潤わせる事だけで満足できる。

節の寂しいは抜けきった明るさになった。

いつかお妙もそういえるさ。

不知火はもう一度銀の重さを量るようにもちあげてみた。

寺社仏閣の新造がまかなえるのではないかとさえ思えた。

居間に座り込む理周の前に不知火は袋を置いた。

「たぶん。有り金全部」

「あの?」

「晃鞍と艘謁のせめてものわびといえばよいだろうか」

「今の方が?」

「ああ。おまえにあわせるかおがなかったとみえる。

頼まれたというておった」

「でも・・あの・・」

言い渋る理周をのぞきこんだ。

「なんだ?」

「あの方は・・あの・・。ぬいさんと」

「わしの知り合いでもある。が。それがどうした?」

心持胸が早鳴るのはふたりともである。

「し、新町の・・」

きずかれたくない事であったが理周はかんづいていた。

理周とて問い詰めたくない事である。

が、金のことなぞもう、どうでもいい。

晃鞍の事も艘謁が事もどうでもいい。

「また・・あいにゆかれるのですか?」

「いや。それに節は年季が明けたに・・もう、女郎ではない」

腹をくくって事実を伝えた不知火だが、

「そんな事はきいておりませぬ」

理周の声が悲鳴のようにさえ聞こえた。

「節さんに会いにゆかねど・・・新町にはゆくのですか?」

確かに理周の瞳は悋気の色だ。

節の言うとおり気の毒なほどに。

「理周・・・」

「答えて下さい」

引き詰まった顔が不知火の答え次第では

ここを出てゆくしかない哀れな女の恋情をあらわしていた。

『理周・・そういうことなのだな?』

理周の心に確信が持てた。

触れるだけで泣き崩れ落ちそうな理周の恋にどうこたえてやろう。

理周の手を引きよせ、

『わしは男として、理周がほしい』

そういおうか。

『新町なぞにはにどといかぬ。理周がわしの天女じゃに』

ああ。浮いた科白一つが似合わぬ男に相応しい言葉がみあたらぬ。

なれど。

男不知火いわねばならぬ。

「理周。とうの昔にわしの心はおまえだけしかみておらぬ」

筋書き通り理周を引き寄せた不知火は胸の中の理周にさらにほだされた。

「お慕いしております」

麗しき天女が今正に不知火のものになる。

男に生まれてよかった。

喜びを知らしめる女の名を不知火はよびかえす。

「わしは理周のものじゃ」

不知火三十二。梅雨が明けそうな水無月吉日。理周に陥落。

                           おわり

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