法祥 回向せしむるかや  白蛇抄第10話

謎の多い事件が

片付いたを見届けると、

法祥はこの地を後にして行くつもりであった。

立ち寄らなかった家々を托鉢に巡り歩き

夕餉らしき物にありつくと、

件のお堂にて、寝入るつもりだった。

明日も晴れるだろう。

旅立ってゆくには良い朝になる。

腹がくち、静かなお堂の中にねころがっている法祥の耳に

微かな話し声が聞こえだした。

話がこみいってきたのか、小道を避け、

堂へ登る五段ほどの階段に座り込んだのは、二人の男だった。

「何でも・・・それだけではないらしい」

「柊二郎さんとこの墓はあらされていたらしい」

法祥の仕業である事をそのまま、つげてない。

しもうたと、思いながら法祥が聞き耳をたてたのは、

それだけではないらしいという言葉がさわったせいである。

「すると?なんぞ、その木乃伊に関係があるのかの?」

「わからぬ。不知火導師がきておったが・・・」

「ふうん。あっちでは、木乃伊がでてくる。

こっちでは骨がなくなる。何か起きる、前触れかの?」

「東條の姫の事を、いうておったものがおったがの」

「ああ。人をくろうたという、八十姫のことか?」

「木乃伊はの。なれど、柊二郎が事は違う気がするがの」

「ほんに。八十姫は人をくうても、骨はくうまいて」

「それに、何年前のことじゃら。

今の世に八十姫があらわれたりするものかの?」

「わからぬぞ。富士の裾野では、

曽我野五郎、十郎の生首が飛ぶのがみえることがある

というに・・・」

「すると?柊二郎がことも?」

(八十姫の仕業というか?)

幽霊みたらば、枯尾花という。

本当の事を外の男に話してやってもよいが、

柊二郎がところの墓を暴いたのが

この、薄汚い坊主だと判れば、

安堵をとおりこして、

枯尾花に肝を冷やした小心ぶりを

恥じ入らせるだけかも知れない。

そのうえ、何故、墓なぞを暴いたとたずねてこよう。

なにもかもを、はなしきれることではない。

余計にめんどうくさいことになるだけである。

(しかし、木乃伊とは?)

どういうことであろう。

埒のない話を続ける事に飽きたのか、

男の話は今年の天候と作付けの出来を量る物に

かわっていた。

が、

白峰の言葉を借りれば、法祥に元があるゆえに

こんな妙な話も耳にとびこまされるのだろう。

(因果をみるべきかの?)

もう、少しここらにいてみるか。

このお堂がしばらくの住まいになる。

改めてあたりをみまわしたが、

どうせ、寝に来るだけの場所である。

多少の掃除もできぬわけではなかったが、

埃っぽさもそのままに法祥はゆっくりと眠る事にした。


理屈づけることは簡単な事であろう。

が、たとえ奈落の底に落ちようと離れまい、離すまいと

決めおうた男と女は

いとも簡単に死を選び取れるものかとおもう。

心の深みに落ち込んだ男と女が

情痴の限りを尽くさずに置けぬのも何故であろう?

なれ初めおうたばかりの者が忍び合い

乱行をくりひろげるのも、いつか来る別れをしって、

お互いの中に忘れえぬものを

刻みつけようとするせいであったのだろうか?

京の都で取沙汰にされる色恋も様々ではあるが、

知念寺の法祥と武家筋である染木藤ヱ門の娘、伊予との話は

肉欲深きがゆえにその後の話が哀れであった。

知念寺の法祥は八つの歳に宗門をくぐった。

その歳から十余年。

一日たりとも僧侶としてのお行を惰ることはなかった。

が、どうしたはずみであろうか。

法祥は伊予を見たその日から十戒さえ、どこかに忘れはて、

ひがな座禅をくんではいるが、

頭の中は伊予のことだけが思い描かれていた。

その伊予もこれまた法祥とおなじで、

間近に迫る婚礼のことも、嫁ぐ相手の事も一切目に映らず、

己の立場も忘れはて、ただただ、一目見た法祥の姿を

思い浮かべては大きな溜息をついていたのである。

そんな二人が互い恋しさで恋しい人の近くを

徘徊しだすことになる。

犬も歩けばではないが、思う人に行き当たるのも

当然の事であれば、

二人があっと言うもなく、深みに落ちるのも当然の事である。

もともと、許されない仲である。

身分も格式も違う。

その上知念寺の宗派は、妻帯を禁止している。

姦淫も当然十戒のひとつのなかにはいっている。

まだある。

ただでさえ、成らぬ仲であるのに、

伊予の縁談はすでにととのっているのである。

誰に許されようにも、許される事のない、

深みに落ち込んだ二人はお互いを

これでも溶け合わぬかというほどに貪り合うことになる。

なれど、どんなに結ばれても生身の人間が

ひとつになれるわけがない。

二人を一つのものにしている結合が

とかれる朝は気が狂いそうに切ない。

後朝の別れにおいてこうであるのに、

伊予を他の男の所に渡さねばならぬ日が近づいてきている。

どうしても、わかれたくない。

二人の思いがきまると、

石を袂にいれ、二人の手を固く結びつけ荒縄でくくりつけた。

そのまま弥勒ヶ池の深い淵に身をしずめたのである。

だのに・・・。

「どうしたことか、法祥はたすかってしまい、

伊予が一人あの世にたびだってしまった」

その坊主が直ぐ後ろのお堂の中で眠りこけているとは、

よもや、知る由もない。

「ふーん」

どうやら、外の二人は男と女の情痴の沙汰に

話がまいもどったようである。

「東條の八十姫はあの最中に男にくらいついたそうな。

だからの、八十姫を退治するにとうとう、

最後は男と一緒のところをこう、もろともに

えいっと、刀をさしつらぬいたそうな」

話に男の身振りがついた。

「おお・・くわばら。くわばら」

「男と女はほんにあさましいものじゃ」

「ああ、ほんに。それにつけても」

話はさらに柊二郎と比佐のことになってゆく。

柊二郎と比佐の事は村の中では周知のことである。

「良女の墓が荒らされたのは、

柊二郎の不始末を腹に据えかねた者の仕業ではないかの?」

「柊二郎ももう、あっさりと、お比佐ちゃんと

所帯をもちなおせばよいのにの」

「おまえも、そう、おもうか?」

「ああ。あれでは、お比佐ちゃんも気の毒であろう。

柊二郎もいさぎよくないわ。

成さぬ仲の子であらば、なんの遠慮もいらぬことであろうに」

「わしもそうおもう。

お比佐ちゃんをなぶっているだけでは、

よし女さんもうかばれまい」

「まさか?」

「な、なんだ?」

「良女がうかばれておらぬといいたくて、

墓をあばいたのは・・・おまえではあるまいの」

「あほうをいうておれ。そんな恐ろしい事なぞするものか。

それぐらいならいっそ、

柊二郎のところに直談判しにいってやるわ」

「おお。それがいい」

男がぽんと手をうった。

「比佐ちゃんもそろそろ十六。

よし女さんが死んでから・・三年?三年たつかの?」

「ああ・・かの?」

「ならば・・・もういい頃でないかの?」

この男らの話がまとまり、

ひいては柊二郎が比佐を妻に直すことになるのである。


東條の八十姫の塚の前に立つ不知火がいる。

塚の中に眠るのは八十姫だけではない。

八十姫と共に剣を刺し貫かれた康輔が共に眠っている。

乳母の一子であった康輔は

八十姫が人を喰らうことを絶てなくなっているとしると、

八十姫の最後の餌食になるべく、八十姫をかきいだいたという。

康輔を喰らう八十姫と

康輔が共に相抱きあう姿のまま、

歓喜の最中に二人を刺し貫いたのは康輔の母であり

八十姫の乳母でもあった絹女であった。

二人を共に相抱きあう姿のまま葬り去ってやると、

絹女もその墓に被さる様にして自害したときく。

二人の塚の後ろにある御守塚は、その絹女を祭ったものである。

その八十姫が人を喰らうようになったのにも、わけがある。

今を去ること百有余年、昔にさかのぼる。

今はこの地に合戦があったことさえ

遥かな昔語りになっているが、

小さな山城でしかなかった東條の出城にも、戦禍はおよんだ。

先の長浜城主、東條平守はこの城ににげのびていたのであるが、

戦渦にのまれ、やがて、この城も落城の憂目におうた。

もはや、これまでの覚悟がつくと城に火を放ち、

妻子を共に腹を切った。

子供達も、妻であった花耶も常日頃から、

いざというときの殉じ方は心得としておしえられている。

それぞれの懐剣が鞘を離れるとのど輪を貫きとおしてゆく。

断末魔の声さえ堪えるのが武士(もののふ)の子である。

その中の一人。八十姫も懐剣を手に取った。

が、八十姫はおくれをとった。

むりもないことである。

この合戦さえなければ年明けた如月に

八十姫は去るところにかしこすことになっていたのである。

嫁ぐ相手に合ま見えることもなく、

たった十六のみそらで死を自らにあたえるしかない。

婚儀の話が元々になければ

八十姫の手が遅れ迷う事もなかったことであろう。

『一目おあいしとうござりました』

心の中で久遠の別れをつげると、

八十姫の手が懐剣を握り締めた。

やっ、と喉を突こうとした懐剣が

何者かの手により振り払われたのである。

見ればそこに、康輔がいる。

煙と炎が立ち込めだした本丸の中を掻い潜り、

やってきたのは八十姫の乳母の絹女と康輔であった。

本来は姫の伴をしようとやってきたのであるが、

その姫が生きている。

同時に既に一族郎党息果てている姿を見た途端、

二人の思惑がかわったのである。

「姫・・いきのびましょう」

康輔の口をついた言葉より先に

姫が取った懐剣をなぎ払うほうが先立った。

「なにをいう」

「時をまちましょう。

お家再興の血筋をなくさばそれも夢とちります。

姫ひとり、生きながらえているのも

我らが家臣一同の思いとおぼしめて」

「いきよというか?」

「はい」

このごにおよんで、お家再興なぞあったものではない。

が、姫を救いたい、生きながらえさせたいという思いが

甲走った。

口から思いつくまま、なりえることでもないことを

並びたててでも、今は姫の気をかえたかった。

幼い頃から母子共に仕え、

身も心もささげつくした姫を生かせしめたいと思うのは

常法であろう。

「わかった」

決断をゆくりと決めかねているいとまなぞない。

瞬時に答えた姫の身体をひっさらうようだきかかえると、

康輔は

「しっかり、つかまえておってください」

それだけをいうと、脱兎のごとく駆け出していった。

目指すは城の地下に掘られた抜け道である。

これで、助かると思った康輔であった。

が、運命というのは過酷なものである。

抜け道にはいったまま、三人は外に出る事がかなわなかった。

出口の近くには敵兵がうろついている。

元の入り口からの脱出はもっと、不可能である。

選ぶ事はやり過ごす。それだけである。

今は落ち延びた者はおらぬかと、敵方も血眼になっていた。

日が経てば燃え落ちた城もあさられ、

八十姫と思わしき者の骨がない事も白日のものとなった。

思うところは敵もおなじであろう。

八十姫は落ち延びた。と。

探し回る武者がふえるばかりである。

が、八十姫はこの抜け道から一歩も

外にでられずにいるのである。

あげく、飢えと渇きにさいなまれる。

いっそ、あの時死んでいた方が

どんなに楽であったろうかとさえ思わされる。

「康輔」

命を懸けて救い出した姫を

こんな場所でしなすしかないのか?

絹女の瞳が力なく物悲しかった。

康輔はやにわに刀を取り出した。

「南無・・・」

そとにでて、敵の手に係りむざむざ姫をしなせるくらいなら、われらの手で姫を旅立たせよう。

そして、いまこそ、我らも供に姫の後を追い死のうと

言うのであろう。

と、思った絹女は思わず

「南無」

と、唱えかけた。

が、康輔はその刀で己の腕の肉をそぎおとしたのである。

そして、滴り落ちる血をもすすれと言い放った。

これで、飢えを、渇きをしのげというのである。

「康輔」

「はよう・・せよ・・・」

命を懸けている康輔をむだにはできない。

「母者も・・はよう」

「康輔」

「はよう・・・」

「こう・・」

「母者は姫を護らねば成らぬ大切なおかたであるに」

溢れ来る涙を拭う事もせず、絹女は姫のためにも

まず、人の肉を人の血をむさぼってみせた。

「絹女・・・・康輔・・・・・」

いきるためとはいえど、いかにむごいことであろう。

食わせるほうも喰らうほうも、

人知の沙汰をとうにふみはずしているのである。

が、康輔の策は良いほうに転じて行った。

遠い所に落ち延びたらしいと踏んだ敵兵は

一旦捜索をうちきり、円陣をとき、城をあとにしたのである。

やっと、ぬけ路より外に出ると、

絹女は縁のものをたより、そこにみをよせたのである。

が、康輔の負傷はいたましいもだった。

そのうえ高熱を発する破傷風をひろっていたのである。

患部は、やがて、膿み、悪臭を放つ腐れをともなった。

が、康輔は静かに笑うだけだった。

『命をひろうたのじゃ、やすいものじゃ』

腕をひとつ、なくす事を余儀なくされた康輔であった。

腐れが身体の中までを侵さぬうちにと、

残された方法は二の腕の付け根から

腕をきりおとすことしかなかった。

康輔の左の腕はなくなった。


康輔の血をすすり肉を喰ろうたのは

八十姫だけではなかったのであるが、

狂いは姫にだけあらわれてきた。

十六の娘が生きる事をあがなうには

あまりにも過酷な通り様であったのである。

康輔の腕を見る八十姫の心中は

いかなるものであったのだろう。

無残な棒のような腕を見る姫の幼い神経が病み始めた。

己の通りようを肯定するほかなくなってくると、

姫は

「喰いたい」

と、いいだしたのである。

いかにもいとしいものはいとしさゆえに

姫におのが肉をはませるのである。

ならば、それをくろうてやるのが、誠。

こんな肯定なぞあったものではない。

が、病んだ神経はそれをうのみにしていった。


やがて、

羅生門に鬼が現れる。

鬼は屍(かばね)をあさり、その肉を喰らう。

この鬼はいわずと知れた八十姫のはてのすがたである。

鬼が人を食うなぞという伝承はそも八十姫のせいなのである。


八十姫の行状が、いかばかりであったかを知る者が

今の世にいる。

いや。ただしくは今の世にいるとはいえまい。

不知火は組んでいた手を解くと

所在なさげに不知火の後を付いて歩いてきた男を呼んだ。

この男がおそらく八十姫をしっているのである。

おそらくというのも、曖昧な言い方であるが、

それもいたしかたない。

男のほうは、自分が見た女が

八十姫だとはいいきれないのである。

「はなしてみてくれぬかの」

「はあ」

男はよくわかっていない。

まだ、自分自身に起こった事件がふにおちていない。

不知火もよくわからない。

それで、男に自分の身におきた事を話させる事にしたのである。


「私は貴方が見抜いたとおり関藤兵馬というものです」

男は最初に自分から己が関藤兵馬である事を認めた。

この関藤兵馬は、阿波の国主の命をうけ

養蚕の技術を学ぶために砺波の地にやってきてたのである。

三年後その技術を習得した兵馬は、故郷にかえって、

小作の者に覚えた事を伝授するだけが、

残すしごとになったのである。

「『これで、おおでをふってかえれるわい』と、

おもうておったのです」

ところが、京の都にちかずくにつれ、

都の女人にふれもせず、匂いも知らずに

阿波に帰るはいかにも、おしくてしかたなくなった。

夕刻になって長浜までたどり着いた兵馬は

法祥よろしく古びたお堂をその日の宿にする事にした。

干し飯をはむと、兵馬はごろりと床に寝転んだ。

歩きとおした足が棒のように張って硬い。

足をさすり上げながら、もう少しで京だと思うと

この足の張りをほめてやりたくもなる。

そのときである。

「もし・・お武家さま」

堂の戸を開けて入ってきたのは、

不知火の言う所の八十姫なのであろうか?

が、兵馬は女人の美しさにほうけ顔のまま

目を見開いていただけであった。

兵馬はここはお堂ではなかったのかと思った。

この美しい女人はどうみても、下々の育ちの者にみえなかった。

いずこの姫であろう?

が、こんな古ぼけたお堂にやんごとなき身分の姫が

はいってくるわけがない。

が、姫かと思う女人は間違いなく兵馬の目の前におり、

あまつさえ、兵馬に言葉をかけているのである。

兵馬は自分が居るのはお堂のはずがないとさえ

おもえたのである。

どこかの御殿に迷い込んでいたのだ。

兵馬の惑いがかくも錯覚を起こすほどに

女人はこの世の人とは思えぬうつくしさであった。

やがて、女人は旅の途中である事を兵馬につげた。

自分もこのお堂を仮の宿にしようとはいってきたのであるが、そこには既に兵馬がいた。

「私もここをおかりしてもかまわぬでしょうか?」

端に先に入っただけの兵馬である。

お堂は兵馬の物でなければ、むろん誰の物でもない。

兵馬に断りを入れる必要もないのである。

が、兵馬はとっくに気おされている。ようよう、

「どうぞ」

と、だけ返事を返した。

「一人でこのようなところに寝入るのも

心細くおもっておりました」

女人は兵馬の真向かいに座った。

やがて、女人は膝を崩し身体を傾け床にふせこむと、

静かな寝息をたてはじめた。

兵馬は囲炉裏に粗朶をくべ火をおこしはじめた。

堂の隅には薪がつまれている。

ここがつかわれていたときのままなのであろう。

夜盗か何かがひそんだのか、

兵馬のように一夜の宿に借り受けたものがいたのか。

囲炉裏のなかにはそう古くない消し炭があり、

火をたいた後がのこっていた。

春とはいえど、夜は冷える。

兵馬のせめてもの女人への心配りであった。

身体がぬくもると眠気は身体の芯をときはなたれ、

兵馬を包みこんでいった。


ぱちぱちと火のはぜる音が微かに聞こえる。

どのくらい眠り込んでいたのか、判らぬ事であったが、

兵馬はふと、目覚めた。

兵馬がふと、めざめるのも、むりはない。

兵馬の身体をさする女の手がある。

「え?」

兵馬の驚きの声に女人は兵馬の覚醒を知る。

と、

兵馬の抱擁を求めるかのように

女人は兵馬にすがりついてきたのである。


兵馬は女人を見たときから、

既に不埒な思いを起こすことさえなかった。

それほどに女人の美しさは気高く、

兵馬の心に一つ屋根の下に男と女がいると

どうなるかなぞという、

下世話な思いさえもうかばせなかったのである。

が、どうしたことか、

願う事さえ思いつかなかった女人との抱擁を

むこうから求めてきたのである。

あわてて、兵馬は女人をかき抱く事になる。

女人は抗うこともなく兵馬の手をうけとめている。

口を吸い、胸をまさぐりだす兵馬に女人は身をあずけている。

女人の身体の重さが確かな女の存在を兵馬に感じさせている。

「か・・・かまわぬのか?」

今更たしかめることではないことであろう。

「いとしくおもうてくださりますか?」

むろんである。

肌を馴れ合うからいとしいのか、

いとしいから、肌をなれあうのか。

いずれにせよ。

女人の中には男の愛撫を望む女が息づいている。

兵馬は着物をはだけ、

ただの男と女である場所をかさねあわせはじめた。

「ああ・・・」

女の声はいとおしさを生む。

「いとおしいぞ。ほれ、このように・・」

女を喘がせる道具を蠢かせてゆけば、

兵馬にも、やがて、いとおしさはかえされてくる。

故郷を出てからこの三年。女に触れた事がない。

ただでさえ、兵馬は無我夢中になる。

その夢中の相手もさっきまで、見ているだけの高嶺の花だった。

それが、兵馬の傀儡になりはてている。

兵馬の中に夢かと思う高揚があがり始め、

それがどくどくと波打ちだした。

「おおおお」

思わぬ雄たけびを上げた兵馬である。


兵馬の話はまだ続く。

「それで・・・あきたらず」

兵馬は再び女人に挑んだ。

同じ高揚をやりすごし、女人を明け方までせめさいなんだ。

「が、いつの間にか、私はねいってしまったのです」

と、兵馬は思い込んでいたのである。

兵馬は朝になって、驚いた。

「あの騒ぎでしょう?」

お堂の外がやけに騒がしい。

女人は何時の間にやら姿をけしていた。

外の騒ぎに先にお堂を出たと見える。

兵馬も外に出ると、人だかりが覗き込んでいるものを

見に行った。

「それがわたしだなんて・・・」

人々が覗き込んでいたのは

―木乃伊だった―


井戸が枯れたのが元で不知火が村長(むらおさ)に呼ばれた。

風水事は陰陽師に聞けとばかりに飛び込んできた

村長におされるようにして、

新しい井戸の場所を探った。

地水の流れが変わっている。

不知火はどうした故かと思いながらも、

とりあえず村人の願いを先になすことにした。

そして、大きな水脈の変化の基点である、場所を示した。

村のはずれになるが水はこんこんとわく。

まずはその場所を。

村人が頷くとすぐさまに井戸をほりはじめることになる。

ところが、土を掘りはじめてまもなく、

地震のまえぶれではないか?

と、水脈の変わった由縁を危ぶんでいた

不知火の元に知らせが届く。

またしても不知火は村にひきつれられ、

井戸を掘れと指し示した場所に戻る事になった。

井戸を掘りかけた後もそのままにして、

くぼみの中にはこもがかぶせられてある。

村人の震える手でこもがめくられると、

はたして、

―木乃伊ではないか―

こもの中には木乃伊である。


村人は当然おおさわぎである。

ものみだかい野次馬があらわれ、

ひとだかりをつくりはじめている。

みた事の驚きをふれてまわるのも、

知り合いにおしえてやらねばならぬのも、人の倣いである。

人の口がさらに野次馬を呼び

木乃伊見物の人は増えてくる一方である。

兵馬はその最中に木乃伊をのぞきこんだのである。

「うわっ」

木乃伊なぞ見た事がない。

異様な姿である。

干からびた皮が骨に絡みつき、

痩せさらばえた死に際の婆のようである。

いや、それよりももっと、おぞましい。

が、兵馬にはふとわらいがおきた。

木乃伊の死に姿はまるで、

交接の最中さながらを思い起こさせる無ざまな体躯のまま、

ひからびているのである。

よくよく、みれば木乃伊の陰茎も

その最中の時に突然干からびたかと思うように、

うわむいていた。

それが可笑しいのである。

死ぬ間際まで、もよおしておる位なら、

死なずとも、思いを果たせばよかろうに

と、兵馬は欲深き木乃伊の様をみつめた。

死ぬる前まで、男はこうなのかと哀しくもある。

だが、兵馬はそうではない。

先程まで麗しき女人を腕に絡め、

生きている事を謳歌していたのである。

「間抜けな木乃伊だとおもってみておりました」

こんな間抜けた木乃伊を何時までも、見ていても仕方がない。

兵馬はその女人をさがそうとした。

「そのときでした」

印綬を唱えていた陰陽師、不知火。

そう、今、兵馬が話をしている

この陰陽師である不知火が口を開いた。


「木乃伊の名は関藤兵馬。

兵馬がこの地に埋められたのは

今をさること・・六十年前」

立ち去りかけていた兵馬は耳をそばだてた。

自分と同じ名前の木乃伊。

だが、関籐という名前はそんなにあるものではない。

おまけに下の名まで同じである。

不知火の瞳が兵馬をとらえた。

「この木乃伊はまだ、己が死んだ事を知らずにおる」

村人の中でさざめきが起きた。

「うかびやらず、おのれがしんだともしらずに、

そこらをうろつきまわっておる」

「不知火さん。そいつはなにかとんでもねえことを

やらかしていませんかね?」

柊二郎の墓を暴かれた事を聞き及んだ男だった。

墓荒らしは不知火のいう木乃伊になった男が

うろつきまわった挙句の仕業とかんがえたようである。

「いや。その兵馬には、これといった存念を感じぬ」

わるさをするようではない。

「あるといえば」

不知火は木乃伊の男根をちらりとみた。

「女子の中にいきはてなかった、情欲だけだろうの」

「それを果たすためにうろついているということですか?」

ならば、早々に家に帰って女子達をまもらねばならぬ。

妻や娘が心配になってきた。

「いや。どうやら、それを・・・」

と、不知火は木乃伊の一物をいう。

「たたせたままにした女子だけが、

兵馬の情欲をはらせるようである」

「はあ」

ならば、一安心である。

が、

「しかし、その女子というのも、

既に死んでいるという事ですよね?」

いきていたとしても良いほど婆あになっている。

いずれにしろ、兵馬の思いははたされないということになる。

どうやら、男は兵馬が成仏できぬ事を

あわれみだしたようである。

「そうではあるが、それより先に

兵馬は自分がしんでいることさえ、わかっておらぬのだ。

それをおしえてやらねば、成仏の成にもたどりつけぬ」

再び不知火の瞳が兵馬をとらえると、

「だろ?」

と、間違いなく兵馬に笑いかけた。


「すると・・・」

兵馬は不知火にといかけた。

「あの木乃伊が私ですか?

あの木乃伊が私ならここにおる私はだれです?」

まだ、判っていない兵馬である。

兵馬の目には自分の身体は実像である。

「両方ともおまえだ」

突然あらぬほうを向いて喋りだした不知火を

人々は振りかぶった。

「不知火さん?誰とはなしおる?」

「兵馬じゃよ」

不知火の返事を聞いた者は不知火の目線を追い、

視線が焦る場所をみさだめようとする。

その場所と思わしき所にいたものは、

あわてて、あとずさりしてゆく。

不知火の視線が自分を追わぬと判るとほっと胸をなでおろし、

兵馬の霊が自分についておらぬ事を確信する。

不知火が視線を宛てた場所だけが

ぽかりとすきまをあけてゆく。

兵馬の姿を追う者は不知火だけである。

皆はまるで兵馬が見えないかのように、

不知火の視線を手繰って、兵馬をみようとしていた。

どうやら、不知火のいう事が本当の事に思えた。

「その木乃伊を堂の中に安置して、はよう、井戸をほれ。

後の事はわしのしごとじゃ」

お前らはお前らの本来のことにもどれ。

不知火は一喝すると人の輪をくぐりぬけた。

兵馬は不知火の後を追った。

何故自分がしんだのか?

六十年も死んだ事を知らずにおったというか?

いったい、どうなっている。

麗しき女人を抱いたのはついさきほどのことではないか?

判らない事だらけである。

兵馬は不知火の後を付いて歩く。

不知火は兵馬を目の端に留めながら

八十姫の塚までやってきたのである。


ここにおいて、やっと話の振り出しに戻ったのである。

話し終えた兵馬に残る疑問に

今度は不知火が答えねばならない。

「得心できるかの?」

ふん、ふん、ふんと兵馬はうなづいた。

自分は既に死んでいる。

と、考えるしかない事態である。

が、死んでいる自分が、自分は死んでいると思う。

思うという事自体は生きている人のようである。

が、生きている人であれば、生きていると思うであろう。

死んでいると思うという事が

すでにやはり死んでいるのだなと

兵馬は何度も自分に頷いたのである。

「それで一体、私はなんで、しんでしまったのですか」

自分がしんだわけさえ、おぼえていない。

「それだがの」

ややつらそうな不知火である。

「お前はどうやらこの塚の八十姫の怨霊に

とりころされたようにおもえるのだがの」

「八十姫?」

「八十姫は人の血をすすり

人の肉をあさるようになってしもうたのじゃ」

「はあ?」

「八十姫は、男にその身をだかせておいて、

男が極楽をあじおうとるときに、喉笛にくらいついて、

あっという間に血をすすってしまう」

「ひ?」

「きがついたときには、本当の極楽におることになる」

「す・・ると」

「ああ。おまえが最後におうた女人が八十姫だったのだろう」

「なんと」

浅はかな夢をつかんだものである。

間抜けな木乃伊どころではない。

「私はあの女子を抱いているうちに血を吸われていたのにも、

気が付かず息絶えたと。こういうことですか?」

「うむ」

「ならば。何で、私は木乃伊になぞなったのです。

その八十姫が私をうめた?」

「干し飯のようなものだったのではないかの?」

「え?」

わかりにくいことである。

「百舌の早餌というのをしっているか?」

「はい」

百舌は冬を越すための食料を確保する習性がある。

木の枝に捕らえた虫や蛙をつきさしておくのである。

その餌をとるために今、食うためでなくとも獲物を狙う。

取った獲物をさっさと木の枝に突き通す様と

冬に備える構えの早さをいう言葉である。

「つまり、そのようなものだ」

「それで、木乃伊にさせたと?」

「そうだ」

「あとで、私をくらうために?わたしは早にえにされたと?」

「血をすすられておったのに、

お前は、肉一つくらわれてなかった」

「ああ」

なんということであろう。

女子は初めから兵馬を早にえにかけるつもりであったのだ。

「血をすすってしまえば、木乃伊にしやすい。

飢えは凌げるわ、にえはできるわ」

「私は・・いなご・・・ですか」

例えていった言葉も虚しい。

「いや。お前は阿呆なすきものだっただけじゃ」

もっと、始末がわるい。

少なくともいなごは女子の色香に狂い、

命を落とすあほうはせぬだろう。

「私は」

こんな事で死にたくないといいかけた兵馬であった。

が、いいかえた。

「死にたくなかった」

「ふむ」

「後悔先に立たず。いまさら、せんないことですが」

「うん」

どう、慰めようもない。

やおら、口数が減る不知火に

「しかし、何故、六十年もたっていたのですか」

兵馬の中では時間の観念は途切れずにつづいていたのである。

なのに、現実は六十年のときがたっている。

「お前が眠っていたと思うておった時が

六十年だったのだろう」

「それまで、私はどうしておったのですか?」

「うむ」

「木乃伊の中で眠っていたのですか?」

「いや」

「でしょうね?私は確かにお堂からでていったのですよ」

「うむ」

なにをききたいのであろうか?

「私が死んだその時に私が身体から

すでにぬけでたということでしょう?」

「う・・む」

「自ら抜け出た私が何故にその記憶がないんです?

何故、死んだとわからぬのです?

なぜ、六十年もときがたってしまっているのです」

不知火にも、判らなかったことである。

だが、一つおもうところがある。

あるから、ここにきたのである。

八十姫がこの塚に埋められたのは、

正しくは百二十年前の事である。

そして兵馬が八十姫に取り殺されたのは、六十年前である。

そして、六十年経って、兵馬の木乃伊があらわれたのである。

これらは六十年毎の出来事である。

暦でいえばそれらはすべて、甲午にあたる。

八十姫は己が殺された甲午の年にだけ、

この世にあらわれるのではないか?

だとすれば、八十姫はにえにした兵馬を

喰らいにあらわることであろう?

六十年後に兵馬を喰らうために

六十年兵馬を封じ込めたのは、八十姫ではなかろうか?

なぜ?封じ込めた?

簡単であろう。

八十姫が人の肉をくらう。

その、大本には、自分をいとしいと思ってくれる心根が

必要なのである。

兵馬は自分で明かしたとおり、八十姫により

「いとしい」

と、口にださせられている。

間抜けな男に、身体を与える代わりに

いとしいという言葉を吐かせる。

その言葉が八十姫の呪縛に落ちる呪文でしかないとも知らず

兵馬はいいつのってしまったのである。

言い募った男が六十年後。

いとしい思いをだかえさせられて、木乃伊の中に戻る。

さすれば、その肉をくらうことができる。

八十姫の手はずはこういうことではなかったのだろうか?

ところが、期せずして、水脈の変化により、木乃伊が先に掘り出されてしまった。


肉体を揺り動かされた兵馬が目覚める。

本来ならば、八十姫が木乃伊を掘り出し、

兵馬を目覚めさせその身体に魂をもどして、

たぶん、交接を与え、その最中に

兵馬をくらうはずだったのではないか?

だが、兵馬はすべてをしった。

そんな兵馬が。

「もう、お前が八十姫の手におちることはなかろう?

そうなると、八十姫は新しいにえをさがすことになろう?

そのほうがきになるのだ」

「はあ」

だが、この男は未練を残している。

己の死を知った今も成仏しないのはそれゆえである。

八十姫の中に放ちたい物がこの男を成仏させないのである。

たったそれだけである。

だが、どうしてやれる?

八十姫にあえて食われると覚悟させて、

八十姫とまぐわせるか?

兵馬が覚悟がついたとしても、

たぶん、八十姫は兵馬の事はままならぬと

あきらめをつけておろう。

厄介な陰陽師が後ろにいる兵馬なぞ、

さっさとみきりをつけ、新しいにえを捜すに違いないのだ。

その確証をみにきたのである。

八十姫は一旦は塚にもどるだろう。

不知火の読みはあたっていた。

餓えた怨念をだかえ、八十姫は確かにここにいる。

だが、不知火の法力で、塞げる相手ではない。

ただ、八十姫の目論見を 読むしかなかった不知火である。


やはり、不知火は澄明の前である。

「どうしたものだろうの?」

相変わらず着いてきた兵馬も座卓を前に座っている。

「はあ・・」

澄明事、ひのえに溜息が混じる。

白銅の狂いがおさまったばかりであるのに、

またも、存念事である。

「その人は?」

と、ひのえは兵馬を見ながら、

思い立ったようにその男に茶を注いだ。

兵馬はいきているときの、習いのまま、

ついと茶碗に手を伸ばした。

が、つかめない。

「そうでしたな」

とうに肉体はない。

いや。あるが。

あんな干からびきった木乃伊に戻るくらいなら

死んだほうがましである。

いや。それもとうにかなっていることである。

「お気持ちだけちょうだいします」

むだとわかりつつ、茶を出してくれたひのえの気持ちだけを

うけることにして、客人気分だけはあがなえた兵馬である。

「八十姫の仕業だろう?」

不知火は兵馬を顎でしゃくるようにさししめした。

確証はない。

「おそらく」

ひのえの推察もそのとおりである。

「わしもそうだとおもって、八十姫のつかにいってみた」

「おりましたか?」

「ああ、いたにはいた」

不知火の言葉尻だけで、既にさっするものがある。

「うごきだしそうですか?」

新しいにえをもとめにである。

「なんぞ、ひかけられる相手がおらぬか、

うかがっているようだ」

「よくない・・・ですね」

「どうすればよいとおもう?」

「・・・・」

白銅の狂いの時、身動き一つ取れなかったひのえである。

何らかの変転の法があるとわかっていても、

たぐることすらできなかった。

そして、見かねた白峰がうごいたのである。

この場合も何かが動き出すのを待つしかない。

成るに任せるしかない。

天地の御霊、つまり自然が許さぬものであれば

いずれ、決済はつく。

自然はいずれ八十姫にさにわを与える人間を

えらびだしてゆく。

問題は御霊が決済をつけるのがいつになるかである。

それまで、八十姫の禍をうけるものをつくらぬように

するしかない。

やり過ごすだけの年になるか、

八十姫を駆逐する年になるかは自然にまかせるしかない。

どちらかに成るだろう事が見えていることは、

左程、気に成らない。

それよりも、

「水脈がかわりましたね?」

「ああ」

「そのことの方がきになるのですが」

何がおきてくるか?

自然のもたらす変化は人々の生活をくるわせる。

当然ながら、ひのえの生活にも支障はきたしている。

「井戸がかれました」

ひのえの村でも、代わりの井戸をほっている。

が、水脈が薄い。

生活をしてゆくには十分ではある。

が、日照りが続けば田を潤すほどの水量は

ないということになる。

「湧き水もないというか?」

「ええ」

湧くほどの濃い水脈でなくなってしまっているという。

なにかあったら、水争いさえ、おきかねない。

「我田引水・・・か」

自然は人心に警告をあたえようとしているだけであろうか?

「こやつもそうだがの」

自分の欲望のままに女子を引き寄せ、

死を引き寄せたばかものである。

そのばか者。いや。

兵馬は首をかしげてきいていた。

「私はばちがあたったということですか?」

己の心のありようで、結果は変わってくるものであるが、

兵馬の場合、己のありようのせいで、

自らが制裁を加えてしまったといっても過言でない。

「はあ」

八十姫が悪いのではない。

己の煩悩のせいでしかない。

「だてに高野山は女人禁制にしているわけではありませんな」

と、突飛な事をたとえにして、己の運命を享受しようとする。

僧侶といえど、おとこである。

へたに女子なぞに目をふられて、煩悩を沸かしたあげく、

どんな制裁をうけることになるか。

「君子危うきにちかよらずですな」

と、妙にかんしんしている。

自分の立場もわすれはて、のんきなおとこである。

「そんな事は、生きているうちに考えることだったな」

論語なぞを口にする男だからそれなりに学があるのだろう。

だが、折角の学がありながら役にたてなかったのは、

賢い男でない証である。

「はあ・・・」

「ほんにおまえは、あほうよ」

どうやって、この男を成仏させてやろうか、

と、考えている不知火なのに、

安気に死人を楽しんでいるこの男をみていると、

勝手にさまよっておれと、いいたくなってくる。

が、ほうっておいたら、

この男はずっと不知火の側にいそうである。

迷惑なはなしである。

「綺麗な女子なら幽霊でもいいが、あほうのうえ、

むさくるしい男となると、お前はどこにも行き場がないぞ」

少しは死人らしく成仏する事でも考えたらどうかと、

兵馬を脅しつけた不知火の言葉に

ひのえがはっとした顔になった。

「どうした?」

心ならずもまだ不知火はひのえに惹かれている。

心に留まった女子の顔色は不知火も直ぐに気が付く。

「いえ」

「はなしてしまえ」

「はあ」

少しのためらいをぬぐいかえるように促すと、

不知火はひのえの言葉を待つ。

「じつは・・」

ひのえの元で起きた井戸の柊二郎の話がはじまった。


「白銅が、妬くか・・」

と、不知火はすこしわらった。

だが、

「妬くような男でなければとうの昔に

おまえをあきらめておっただろうの」

そうであろう?

おめおめと、白峰のことでひき下がらなかった裏には、

我が物にするという強い心があったせいであろう?

その強い心の裏側で白銅が

己の嫉妬に苦しんだのは当然であろう?

逆をいえば、その心があらばこそ、

白銅はひのえをあきらめなかった。

嫉妬はいやがおうでも、

いかにひのえを己一人の者にしたいかを

白銅につきつけてくる。

白銅は故にこそ、あきらめなかったのであるが、

男から見れば当り前の感情も女子にはそうではないらしい。

「それは、もうよいのですが」

と、ひのえは心持顔を赤らめた。

それがどういうことであるか

不知火は気がつかぬふりをして見せた。

「私が身動きが取れなくなっていた時に

白峰が遣ったおとこがいるのです」

「ふ・・む」

とりあえず聞くしかない。

「その男も・・そうなのです」

「どういうことである?」

「はい」

ひのえがいうことである。

男は法祥という僧である。

法祥が後ろに女子を抱いているのは読めた。

その、女子が兵馬と同じ幽霊であった。

「なんと?」

「ええ。不知火の先の言葉で、

法祥もまた存念を抱えている事におもいあたったのです」

「ふ・・む」

確かに存念がらみ事ばかりがたてつづけにおきている。

ちらりと不知火は兵馬を見た。

そして、

「因縁が因縁をよぶか?」

「ええ。絡んだ糸を解かれたがるものが、

どうしても、網にからめられてしまう」

「ふ・・・む」

つまり、これらの存念が結集してくるということは・・・・。

「我らにさにわせよということかの?」

「かもしれません」

またも、かむはかりである。

だが、いったい、どうすればいい?

事態はなお複雑になっただけである。

(法祥か)

が、すくなくとも、この目の前にいる兵馬よりは

真面目な男である。


その法祥である。

木乃伊が出たと聞いて、早速足を向けると

そのお堂に入ってみた。

「・・・・」

なんともはや・・・。

男の欲情が哀れを通り越し、ぶざまである。

木乃伊のひからびた一物には

女子の中にいき果てたいという情欲がとどこおっている。

死しても尚、情欲を示す物があわれなものである。

哀れな男の情念を見ていると、法祥はふと思いがうかぶ。

(伊予)

法祥の前に現れるようになった伊予の霊である。

が、どうしたわけか、あれほど求め狂うた女であるのに

法祥の身体には何の兆しも起こらなかった。

(伊予・・・)

法祥がもし、伊予を求める事が出来れば

伊予は法祥の心に得心して、成仏できたのかもしれない。

幽霊になっても、なお法祥の女である事に

伊予は存念を昇華できたのかもしれない。

が、

伊予を死においやった己の欲望が、

法祥を打ちのめすほうがさきだった。

(抱いてほしいか?伊予?)

そうすれば伊予はこの世から姿を消す。

法祥への思いも風に飛ぶ塵のように胡散霧消する。

死してもまだ、法祥の女である事を掴みたいのが

伊予の本音であろう。

が、それをすれば、法祥を思う自分を失う事になる。

執心無縁になれぬゆえ、幽霊は存在できる。

(伊予)

この木乃伊のようにあっさりと

情欲にからめとられていれば、

伊予をだかずにおれなかっただろう。

(お前は幸せなおとこかも知れぬの)

黙して語らぬ木乃伊の方が

案外、あっさり昇華できる思いに絡め取られているだけ

幸せなのかもしれない。

それに比べ・・・・。

なくしたくない伊予であるのに、

求めつくす気にならない法祥である。

よほど、その方が酷い。

伊予にとっても、

おのれにとっても・・・・・。


いつまでも木乃伊と向かい合っていても仕方がない。

法祥はお堂の外に出た。

「お坊さま」

よびかけるものがある。

「なにかな?」

「いえ」

不知火にいわれて木乃伊を祭りに来た僧なのかと

おもったのである。

だとすれば、ねぎらいの一つも言わねばならぬ。

それだけであった。

「ん?」

「あ、いえ」

どうも、むこうが不知火の事を言い出さぬ。

という事は不知火の手はずのものではないということである。

陰陽師が弔い事を僧に任せる事が、たまにある。

どうせ、同じ般若心経。

魂が浮かばれれば肉体の始末は

どちらまかせでも良い事かもしれない。

忙しそうにたち歩いていた不知火が、

肉体の始末にかかわってられなかったのだとおもった。

が、そうではないらしい。

ならば元の仕え事にもどるだけである。

死んだもののことより、

自分ら生きている者のたっきにかかわる

井戸を掘る事が大事である。

法祥に一礼をすると男は井戸を掘る仲間の所にもどった。

(井戸?)

法祥は男のあとを追った。

「なんでしょうか?」

「いや、井戸をほっておるのだの?」

「ええ」

可笑しな事を聞く者だと男は法祥を見ながらも、うなづいた。

「こんな場所に?わざわざ?」

「しかたないでしょう?

不知火導師がここしかないといわれたのだ」

「ここしかない?」

「とにかく、そこら一体の井戸がかれてしまったんだ。

必ず当たる所を急いで掘るしかない」

ここが必ず当たる場所であるということらしい。

そんなことより、

「井戸がかれた?と?」

「ああ」

うるさそうに法祥に返事をすると、

男はもう、これ以上手を止めていたくないとばかりに

井戸のほうに歩みだした。

木乃伊なぞを掘り出したばかりに

井戸掘りも人の波に押されままならぬのである、。

それでも、この僧が不知火導師の手はずとおもって、

手を止めた暇さえくやまれる。

「ああ。すまなんだ」

男の背中に侘びを言うと法祥は考え込んだ。


水脈がかわった。

この長浜の地水は琵琶の湖(うみ)を基縁にしている。

京はどうであろう。

東山三十六峰に降り注ぐ慈雨が山肌に染み入ってゆく。

やがて、雨は京の平地の地下深く集積し湧き水になる。

もといが違う。

法祥は首を振った。

法祥が思ったのは弥勒池のことである。

池というより沼である。

その、沼には今も伊予が眠っている。

沼は広く深い。

淵に落ちれば死体もあがらぬ。

藻が繁茂し、入水した人間を絡め

二度と浮かび上がらせないはずだった。

だが、手をくくり石を抱いて、あいだきおうて、

共に死出の旅路にたった伊予だけを弥勒池は飲み込んだ。

法祥、一人が何故うかびあがったのか、

くくりつつけた荒縄の先には伊予はいなかった。

(寿命ではなかったのだろう)

法祥をかくまい隠遁を勧めた禅師はいった。

伊予はこれが寿命だったというか?

己を責めては成らぬと禅師はいった。

法祥との事がなくても、伊予はいずれ病を得てでも、

短すぎる寿命を全うする事になった。

むしろ、法祥は伊予の運命に巻き込まれ、

死を与える片棒を担がされた。

法祥には罪はない。

仮に病でしんだとしても、

病をうらんでもしかたないことである。

伊予という娘の運命をはかなんでやるしかない。

禅師の言葉に法祥は、伊予を思った。

弥勒池の雑魚を取る猟師が池に浮かんだ法祥を拾い上げ、

禅師に預けたのは法祥が擦髪の僧であったせいでもある。

漁師は、法祥の行く末を考えた。

一人生き延びた、法祥を親はもとより、

この世の定法が赦すわけがない。

せっかく、命拾いをしたこの男を

役人の手に渡してしまえば、つまるところ自分も罪人である。

生き延びるには生き延びるわけがある。

それをみさだめさせてやらねばならぬ。

漁師は法祥を禅師にあずけると、

片割れの女をさがすことにした。

もう、しんでいるだろう。

法祥の腕に残った荒縄は池の水をとっぷりと

すいこみ乾いたところはなかった。

入水して、随分時がたっていることがわかる。

心中とわかったのもこの荒縄のせいでもある。

ひとり冷たい水の底にいる女があわれであった。

竹ざおをもちだし、池の底をつついてみた。

手に伝わる感触は腐敗した落ち葉と泥だけである。

淵にとらえられたか。

淵は深い。

こんな竹ざおなぞ、池の底にも届きはしない。

七日を待った。

沈んだ人間は一度は水表にあがってくるという。

この世への未練を吐き出し、からっぽになった心が

やっとこの世に別れをつげるのだ。

だが、女は浮かんでこなかった。

娘の死を知った親が、人を増やし

池の底を捜させたが結果は同じだった。

漁師も親の元によばれる。

「ともにしんだ男も・・・」

法祥が寺からいなくなった事もわかっている。

伊予も帰ってこない。

探し回る両親をみかねて、

その法祥と伊予がしのびあっていたことを

この期に及んで明かすしかない。

二人を知るものはおおかった。

ならば、何故教えてくれなかった。

結納もすんでいる。

ただのからだではない。

詰め寄る父親の元にしらせがとどいた。

(心中?)

まさとおもいつつ、飛び出した。

池の端に揃えられた草履は伊予のものである。

揃えて置かれた男物は僧都のこしらえである。

「ともにしずんでいるでしょう」

父親の無念が痛い。

が、だからこそ男が生きている事を口には出せない。

「・・・・」

娘の命を奪った男はまだ、死しても娘と共にいる。

情けない思いを堪える父親が気の毒であった。


法祥が生きながらえたと衆目の知るところとなるのは、

法祥が弥勒池にたちよってからこの地を逃れたせいである。

旅姿の僧が念唱する。

やけに念入りなことよと、窺い見たものは

その顔が法祥であることにきがついた。

そして、法祥は流浪の僧になった。


伊予の未練が死体さえもうかばせなかった。

漁師が伊予の亡骸が上がらぬと教えてくれた時、

法祥の胸はいたんだ。

「とむろうてやれ」

禅師は法祥にいきろといった。

もぬけのようになった心と身体のまま法祥は北をめざした。

側に人がおらぬようになると、心はくらやみになるとみえる。

禅師がおる御坊堂はよかった。

だが、この堅田の浮き御堂は波が攫う音だけを寄せてくる。

水の音は伊予のさそいのようであった。

「いま・・・ゆく・・・」

立ち上がった法祥の前に伊予が現れた。

これが最初で伊予は時折法祥の前に姿を現すようになる。

手を広げ伊予は首を振った。

「いきろと・・・いうか」

手を合わせ拝むのは法祥であったろうに、

伊予の姿の中に法祥がいた。

「いきろ・・と?」

伊予の姿が消えた。

法祥が死への思いを絶ったせいだろう。


長浜の地に留まった法祥は水脈の変化をしると、

弥勒池も渇水するのではないかと考えたのである。

伊予の亡骸がみつかるのではないか?

だが、地水のもといが違う。

弥勒池がかれることはなかろう。

法祥は溜息を付いた。

何故、自分がこんな事をかんがえるのか。

伊予がうかばれる事をのぞんでいるからか?

伊予の亡骸が現れるという事は、そういうことではないか?

己の手によってでなく、伊予がうかばれる。

これなら伊予を自然とあきらめられる。

己の手で回向せねばならない?

出来はしない。

伊予を失いたくない。

法祥の体から女人へのほたえさえ

うばいさっていった伊予である。

(お前だけがわしの女だった)

生きる気力をなくし去った男は欲情さえおぼえぬ。

それでも、幽霊になって法祥の側にいる伊予をなくしたくない。

けして、欲情のはてではない。が、伊予をもとめくるうた。

だが、今、生身の伊予でない伊予をもとむる気持ちにならない。

(生きている時にはあれほど明かした思いが

のうなってしまっている)

法祥はきびすを返した。

哀れな木乃伊が成仏していない。

成仏させてやろうか。

それが一番いいことなのか?

それとも、執心を持ったまま、

女子を思っている方がしあわせか?

伊予がどうであるかを量る気持ちで

木乃伊の思いに考えをはせてゆくと、

法祥はこの男の霊に合って聞いてみたくなった。

白峰大神はいった。

想いだになくしとうない。

この木乃伊もそうか?

伊予もそうか?

おのれもそうか?

うかびもせず、思いを抱いている方がいいか?

思いを奪い去り、成仏させる権利がこちらにあるものか?

あちらは、成仏しなくてよいものなのか?

死ぬという事は思いさえすてねばならぬものか?

執心一切無縁。

思う事は生きているあかしか。

白峰。お前は思い一つでいきおおしている・・・か。

法祥は木乃伊の男の霊を手繰った。

「ん?」

みょうなことである。

木乃伊の男はあの女陰陽師の所にいるではないか?


白銅がつかさどるのは青竜である。

不知火がつかさどるのは玄武である。

共に水のものである。

だから、白銅もあらたな水脈を探る事にかりだされている。

ひのえの側に白銅がいないのはそういうわけであるが、

不知火の救援を求める者が不知火をさがしている。

「飄々としているのは良いが、

こんな肝心な時におらぬではないか」

文句の一つを言うと、男は不知火の屋敷をとびだしてゆく。

動静を見守っていたひのえであるが、

ここまで、不知火を捜しに来る者がいる。

「ここにおります」

男は水に関ることであるのだから

玄武の不知火にはなすべきだろうとおもいつつ、

このさい、同じ陰陽師であると、はなしだした。

「いえ。井戸は捜してほしいのですが」

くちはばったい物言いである。

「なんだという?」

玄関先に不知火が顔をだしてたずねた。

「八十姫の塚から水がふきだしているのです」

「え?」

「どういうことでしょう?

枯渇もいやな気分がするのに、塚なぞから、水がふきだす、

木乃伊はでてくる。柊二郎さんとこは墓をあばかれる。

あげく、塚が」

語音通り水につかってしまっている。

「ほ」

男のしょうもない戯れにひのえはふきだしかけた。

が、

なにかある。

男の憂いも無理がない。

「わかりました」

そのすぐ後、男の後ろからぬっと顔を出した法祥である。

ひのえの元には不知火、兵馬はもとより、

あとから来た法祥。

兵馬は数のうちに数えれる者かどうかは判らないが

この3人が集うことになった。

込み入った話はこの際省く。


いつのまにか、法祥は話をきくがわになっている。

兵馬に会いに来ただけであるのに

可笑しな事になってしまったものである。

「八十姫がらみか」

木乃伊の男の想いを納所させられる相手が八十姫であれば、

そこいら一体が井戸枯れだというのに、

八十姫の塚では逆に水がふきだしているという。

「どうする?」

やれやれと不知火は頭をかいた。

「もう一度・・・みにゆくかの?」

不知火には水が噴出す気配がよみとれなかった。

こんなところに水脈があっても仕方ないと

端から思っていたせいもある。

八十姫のほうに気をとられていたせいでもある。

「やめておけ」

どうせ、途中の道のりで不知火を捜す者に掴まってしまう。

目的を遂行できないのはめにみえている。

「それよりも、先に井戸探しをてつのうてやらねば」

法祥のいう事はもっともである。

「う・・む」

渋々声の不知火の返事をきいていた法祥は名乗りをあげた。

「わたしがいきましょう」

不知火はひのえに眼で問いかけている。

(だいじょうぶなのか?この男、あてにできるのか?)

どこまでの法力があるのか?

さにわを許されるもののひとりであるのであろうか?

ひのえにかかわらせたのが、そも、このためであるのか?

が、確かにひのえはこの男にたすけられている。

ふうと、溜息を付くと不知火はたちあがった。

「とにかく、井戸探しをかたづけてくる」

法祥をよこめでみた不知火にきがつくと、兵馬が慌てた。

どうも、誰も自分の事なぞ眼中にない。

このままでは捨て置かれそうである。

「あ、まってください」

と、不知火を追いかけようとする兵馬の声に

法祥の声がおいついた。

「あなたは、ここにいてください。

私はあなたにあいにきたのです」

やっと、法祥の本来の目的をはたせそうである。

「え?」

みも知らぬは、あたりまえであるが、

そんな男がなんのようじがあるという?

「あの・・・」

「あの人のところに帰るのはいつでもできましょう?」

「はあ」

「八十姫の塚のところにいきがてら、

私の話をきいてくださいますか?」

「八十姫・・で・・すか?」

抱ける女子ならもう一度あいもしたい。

が、知らずに着いていった八十姫の塚の前で

きかされたことが、そらおそろしい。

「だいじょうぶですよ」

陰陽師もこの僧、法祥もひかえている。

八十姫が手をだしてくるとは、おもえなかった。

「不知火さんもそういってましたがね・・あっ」

その不知火がさっさとでていってしまった。

「嗚呼・・・おいていかれてしもうた」

ぐずぐず迷っている兵馬を待っているほど

のんびりした男でないのは不知火も法祥もおなじだった。

「いってまいります」

と、法祥はひのえにあたまをさげると、傍若無人にも、

「こい」

と、兵馬を飼い犬か何かのようにどなりつけた。

「えらく、態度がちがいますな」

どうせ、死んでいるのだから下手にたてつくのもこわくはない。

が、しぶしぶ立ち上がった兵馬である。

どうやら、法祥はこの覇気に押される兵馬の性格を

見抜いてのことのようで、

「はは・・・すまなんだ」

と、快活に笑って、素直に頭をさげた。

「はあ?」

妙な坊主である。


「よく、わからぬお方だ」

兵馬は思った事を口に出した。

死んだ事は今までの習慣をかえる。

相手の顔色を見て、当たり障りのない事をいう。

こんなことは生きている人間の

上手く世の中を渡ってゆこうという術でしかない。

「わしもそうおもう」

伊予への心が自分でも色あせているように思える。

なぜなのか?

わからぬことなのである。

「私にききたいことってなんですか?」

兵馬は法祥の頷きの下にあるものにきがつきもしない。

「おまえは、成仏したくないのか?」

いきなり問いかけられた言葉に兵馬は考え込んでしまった。

「成・・仏・・ですか?」

法祥も問い直されるとは思いもしない。

だが、考えてみれば当り前かもしれない。

この男はまだ、自分が死んだ事をしったばかりである。

「そうですねえ」

やけにのんびりと兵馬は答える。

「わたしは・・・・」

考えている。

「これといった思いも残っておりませんし

こんな男ですから別にこの世に残る必要もないでしょう?」

「はあ?」

「いや。そりゃあ。少しは功名心もありましたよ。

でも、養蚕なんて、あれは胸がむかつくにおいがする」

蚕の繭から絹糸をとる。

絹糸をとる前に蚕を繭ごとゆでる。

この悪臭たるもの、へきえきするのである。

「これといって、くいたいものもない」

「・・・」

「着たい物もない」

つまり、衣食住には、不遜はなかったという。

「だが、成仏できておらぬだろうが?」

執心がなければ、この世におらぬはずである。

「え、ああ」

既に不知火にいいあてられている。

「女子はどうだ?」

法祥は兵馬の核心をついてきた。

「ああ・・・それですか」

兵馬はまたしても、考え込んだ。

「あの女子のこと・・・ですな?」

八十姫の事である。

悪くはない。

女子としてだけ考えたらむしろ極上の部類に入る。

「想うておるのか?」

「え?」

法祥は己の煩悶をかさねてといかけている。

が、兵馬は

「女子としてですか?」

尋ね返すのである。

「お、女子としてでなければ・・どう、想うという?」

法祥がばか者といいたくなるのを堪えるのが

せいいっぱいであるのに、

「それは、私も男でしたから」

肉欲を埋める相手と、真に想う相手は違うときがある。

「なんと?」

純情を絵に描いたのはどうやら法祥である。

「抱く相手とて、まあ、それなりにいとしくなければ」

事はできぬだろう?と、兵馬は賛同を求めてくる。

だが、全てを知った今。

肉欲を晴らすためにせよ、真に想いをかけるにせよ。

己をにえにしようとした八十姫に

想いをかけられるわけがない。

「すると・・お前が残している思いというのは・・・」

照れくさそうなわらいを浮かべて兵馬は

「どうも、すきものの虫がないているようで・・・」

自分の心根を悪びれずに暴露する。

「は」

虚を突かれたというのだろうか?

あてがはずれたというか。

兵馬には好いたらしい男心しかないのである。

法祥はあきれはてた。

よくも、こんな不埒な思いでこの世にのこれるものである。

「しかし、坊さん。貴方は何で、そんな事を?

それを、わざわざ聞くために私にあいにきたのですかな?」

よくもいったものである。

言われた法祥はぅっとたじろいだ。が、話し出した。

「お前、成仏したくないのか?したい・・のか?」

「ああ・・・それ・・・」

死んだと知ったのはついさっきのことである。

「この世では・・・」

いや。兵馬にとってはこの世があの世で、

あの世をこの世にせねばならぬのであろうが

まだ、なってない。

「死んだ人間は成仏せねばならない。

それが、やっと、わかってきたので・・・」

成仏しなければ成らないと判った途端に

そうしようと思えるものであろうか?

「ふむ」

「だいたい、そんな事は坊主である貴方の方が

良くわかっているのではないのですか?

それとも、成仏させるべきかどうかも判らないで、

闇雲にお経をとなえてただけなのですか?」

死人を愚弄するような問いかけにいささかはらがたってくる。

兵馬は精一杯の皮肉を言ってみたに過ぎない。

「実は・・・そうなのだ」

法祥は素直に白状した。

「え?だったら。本当は例えばこうやって私みたいに

宙ぶらりんで彷徨っていても構わない?

なのに、無理やりお経をきかせ

引導をわたしていたというのですか?」

それでは殺生である。

いや、既に死んでいるのだからそうではないが。

「お前が生きているのは・・・まあ、一つの思いのせいだわの?」

生きているというのとも違うが、法祥のいう事の意味はわかる。

「はあ、まあ、そうですな」

一応、異論はない。

「わしはその思いをなくさせてよいものだろうかと

考えるのだ」

「存在理由というやつですな」

こ難しい言葉を知っている男である。

確かにこの思いという物が幽霊をこの世に存在させる。

思いこそが存在の理由である。

「それで?」

あっけらかんと聞きなおす兵馬である。

成仏しないという裏に、

思いをなくしたくないという気持ちはないのだろうか?

伊予の思いを探るように兵馬に尋ねてみたが

兵馬はむしろ、八十姫を抱けば成仏するだろう

と、おもっているようなのである。

思いをかなえてしまえばもう、そのおもいさえなくす。

そして、成仏する。

裏をいえば兵馬は思いをなくしても構わないというのである。

それほどに成仏したいものであるのかと思うて問えば、

しなければならないらしいから

すると言う非常に曖昧な考えである。

「・・・・・」

なにをこたえられよう?

兵馬の言うとおり、

成仏させて良いかどうかなぞに煩悶する必要はない。

こんな奴は思いをさっさと晴らしてやって

存在を消滅した方が早いようにさえ思える。

「だいたい、なんで、坊主がそんなことにこだわる」

死者へ引導を渡すのがもともとの生業ではないか?

この生業に疑問を抱いていては坊主なぞやっていられまい?

四の五の考えておらず自分の事をやってればよいでないか?

死者は死者の運命をひきうけるだけである。

兵馬の憤りが伝わってくると、法祥はつぶやいた。

「はなさねばわからぬの」

「なんです?」

悪い男ではない。

むしろ気の優しい男である。

法祥の言葉のうらに

何かのわだかまりがあるのもきがついている。

「わしにも、お前のようにわしを思うて

成仏できぬ女子の霊が・・・」

言葉を選んだ。

が、どういいかえてみても・・・。

「とりついておる」

「はああああ?」

「わしはその女子を成仏させてやるべきか

どうか、きめかねている」

「なるほど・・・」

だから、この坊主は兵馬の心根をきいてきたのだ。

「ふううん」

兵馬は腕を組んだ。

考え事をするときの癖は死んだ今も変わらない。

ややすると、兵馬は腕をほどいた。

「私なら成仏させてやりますな」

「え?」

「私ならそうします」

兵馬は同じ言葉を繰り返した。

「なぜ?」

「考えても見なさい。

思いを残すという事は苦しいものですよ」

「お前も・・・苦しいのか?」

そうは見えない。

「いえ。それは、この世でその思いを果たせるならよいですよ。けれど、思いを果たせないまま、

だかえている時がながくなれば・・・・」

「なれば?」

法祥は兵馬の言葉の中に己の方向を見定めたい一心である。

「いずれ、貴方は年老いて行く」

「うん?」

「貴方のこの世の生き様を変えさせたのは自分ではないか?この思いはくるしい」

「あ」

「私の存念はどうも、八十姫に向けられているようですが。

姫には既に人生はない。

強いて、私が姫に心をよせるとしたら、

人の肉を漁るほどに餓えた心のかなしさにでしょう」

「つまり・・・どういうことだ」

そのこたえをききたくない気がする。

「貴方こそが・・・存念をだかえている。この姿はつらい・・・」

伊予が、いずれ法祥の姿に苦しむ。

「その姿を見させてやれぬように

してやるべきではないですかな?」

だから、成仏させろというか?

「それは。いずれさきのことであろう?」

「そうですがね」

「ならば、今の女子の思いは・・」

「どうしてやれるというのですか?」

法祥を思う気持ちをどうかえしてやれる?

返されぬ思いを抱いてただ法祥を思ってこの世にいる?

「むごくないですか?」

「わしも・・おもうておる」

「それが、かえしですか?」

返しに成っているなら、それで、成仏するであろう?

「思わせたまま、この世にいさせて・・」

女子に自分を思う思いがあることだけに

満足しているだけではないか?

童の甘えにも似た法祥の心根ではないか?

兵馬の言葉が痛い。

「だから・・・わしもまようておる」

兵馬は一旦くちをつぐみかけた。

「貴方がいつまでも思うておるから・・いけないのですよ」

法祥がすっぱり諦めてしまえば

女子も法祥の行く末の幸いを祈るしかない。

なのに、あたら、法祥がいつまでも、女子に未練を残している。

ひかかる取っ手があるのもいけないが

ひかける鉤があるのもいけない。

兵馬は取っ手があることよりも先に

鉤をなくしてしまえといっている。

「わしの・・・わしこそ思いをなくせというか?」

法祥の慟嚇を兵馬は軽くいなした。

「思いを失くす事なぞ、あなたにはできないでしょう?」

「・・・・」

「だからこそ、その女子に思いをなくさせることが

できない」

「・・・・」

「貴方が拘るには拘るわけがある。と、おもってました。

でも・・」

「でも?」

「女子が思いをなくしても、

貴方の思いはいき続けるでしょう?」

「あ」

兵馬が何気なく言った事は法祥の値を揺るがした。

天上天下唯我独尊と釈迦は誕生したその直ぐあとに

のたもうたという。

釈迦の説法が己の信仰のもといであるというのに、

釈迦がこの世に生まれたときに発した最初の教えが、

法祥におちていなかった。

「大事なのは・・・わしがどうおもうかか?」

兵馬の一言が法祥のうろこを教えた。

「生きている人間はそうでしょう?」

死んだ人間が己がどう思うかなぞもう不必要である。

死んだ人間は己に対して何も思わなくなる。

己に対して何か、思う阿呆が

この世で幽霊なぞになるだけである。

「だから、私はさっさと存念を晴らさねばならないとは、

おもうのですがね・・・」

兵馬の存念を晴らせる相手がわるすぎる。

おまけにこの存念もくだらぬ色狂いの範疇に過ぎない。

「むつかしいです・・な。」

下らぬ自分の存在のもといをわらってみせるが、

兵馬は自分にかこつけているだけである。

死んだ人間が生きている者のように

この世におるという事じたい、すでに下らぬことでしかない。

法祥の女子の思いに値を見てやることすら

いらぬ仇でしかない。

真に思うなら天に上っても、

その思いをいだきつづけてみせろといいたい。

捨てねば成仏できぬような思いを抱いて

地上に留まっている事ほど笑止な事はない。

口には出さぬがひどく達観した男である。

ゆえに自分も成仏せねばならぬとはおもうのである。

が、この好いたらしい思いを宥めることができるのが、

八十姫なのである。

「むつかしい・・・あいてですな」


その難しい八十姫の塚の前に二人はたどりついた。

山際の裾野に抱かれるように窪地がある。

窪地は杉の木立にさらに囲まれている。

窪地にふみいってゆく。

杉の木立の枝振りがしんなりとした陰をおとしていた。

水の匂いが揺らめき、

水にわかされた土の匂いが起ちこめていた。

「土砂崩れのときのようなにおいがするな」

呟いた法祥の足駄が水をふくみだしていた。

眼前が既に水溜りをつくっている。

水溜りというより、池に近い水量である。

水面の真中にこんもりとした土饅頭がある。

水の中に浮かぶ島のようである。

それが、八十姫の塚であった。

塚の一箇所で丸い肩がなでられている。

そこから水がわきだしていた。

すでに濁りをなくし清い湧き水になっている。

池のよどんだ水に透明な湧き水は澄んだ墨流しを描いていた。

「ふううん」

法祥は目を瞑った。

八十姫がいた。

と、思ったのも、束の間。気配がきえうせた。

「どうやら・・・動き出したか」

法祥の呟きが意味する事は兵馬に身震いをおこさせる。

「にえをみつけたということで?」

新たな木乃伊ができるのか?

それとも、肉を漁られた死体ができるのか?

「お前のよい話し相手ができるかもしれぬの」

同病相哀れむ相手であるか?

法祥の戯れ言葉は手痛い。

「男はあほうですから・・・」

いくらでも八十姫の謀略におちる男は居るだろう。

あほうになりきれぬ法祥ゆえ、

いつまでも、女子が成仏できないのだとも、いっている。

「やりきれぬわ」

兵馬の先覚も一理ある。

が、法祥はやはり、伊予をなくしたくないのである。

「ここにも、哀れなおとこがおるわ」

法祥はつっと、手を掲げると胸元でにぎった。

法祥の口から漏れてきたものは回向経であった。

「なんです?」

法祥の回向経が終るのを待っていたところをみると、

兵馬には、わからないらしい。

同じような立場。

死んだ人間同士である兵馬なら

判りそうな事がみえないとなると、

やはり、兵馬は死にきってないということになる。

「八十姫に肉をくらわせ、あいだきおうたまま、

己ごと刃を貫かせた男がおる」

「ここに・・・ですか?」

「ああ」

ここに居るというのだから

男は成仏していないということであろう。

「で?回向はきいたのですか?」

「いや」

長い事唱えていたというのに無駄であったという。

宥められない心のせめても癒しの足しにはなっただろうが。

「水をわかせたのも・・・そやつだ」

「どういうことですか・・・」

法祥の瞳の中に潤む物を見た気がして

兵馬の言葉尻は尋ね事でなくなってしまった。

八十姫の成仏を心から願う男がこの塚のなかにいた。

八十姫の怨行をいたみ、自らを八十姫に喰らわせた男は、

業火の中から八十姫を救い出した愛姫を

己もろとも刃の露にした。

が、従者、康輔の心も甲斐なかった。

八十姫は怨亡の思いをだに、捨てきる事が

できなかったのである。

康輔はくるしかったろう。

八十姫の飢えを、渇きをみたしてやれぬ。

八十姫の飢えを、渇きを癒してやりたい。

康輔の思いは天地の脈絡を動かした。

水は地脈を縫い、康輔の思いに招じて塚にあふれ出た。

これで、塚に留まった八十姫の心に変転をあたえられる。

康輔の心に八十姫は淑望をおぼえるはずであった。

なれど、八十姫の心は潤いはしなかった。

あがなう事の出来なかった姫の渇きが

康輔を打ちのめすだけだった。

たすけてくれ。

康輔は祈るしかない。

己の成仏なぞ、顧みる事はない。

思いは一心に八十姫の哀れが救われることだけを

祈り続けていた。

「たすけてくれ、と、いうておる・・・」

姫をすくうてくれ。

心の闇から姫をすくいだしてくれ。

康輔の執心は一切己にはない。

法祥の瞳は雫に溢れた。

「かえりましょう」

兵馬は法祥に尋ねた。

ここに居てもせんないことである。

だが、法祥が居たいなら、気が済むのをまっているだけである。

「うむ」

遅い帰りを迎えに来られ叱られた童子のように

項垂れたまま法祥はうなづいた。

「そうしよう。あの女陰陽師につげてやらねばならぬしの・・」

法祥の足駄はすっかり下草に染み入った水をすいこんでいた。

「あるきにくいのお」

涙を浮かばせた事を照れるのか

いくばくか陽気におどけてみせると

「おまえはいいの」

ふわふわ地面を浮かび歩く兵馬を笑って見せた法祥である。


「それで・・・いかせたというか?」

帰って来た白銅は不知火のつれてきた兵馬のことやら、

兵馬をおってきた法祥のことを聞かされた。

八十姫の塚から水が吹き出た事を

既に白銅も村人から伝え聞かされたのであるが、

井戸を定める事をさきにしたのである。

加圧の薄い水脈に、これ以上、井戸を増やせば

水が上がらぬようになると見定めると白銅は帰路に着いた。

帰って、ひのえに八十姫の塚の湧き水のことやら、

表上に出でた木乃伊の事を話そうと思っていた。

が、案に相違して、既にひのえは全てを知っていた。

知っているには知っているだけの事がおきていたのである。

知っていただけではない。

深い因縁が絡んだ寄り合い所帯が

解因を求めて動き出していたとしか言いようがない。

ひのえの口から聞かされてゆく事に

白銅は少しばかりの怪訝を感じた。

「だいじょうぶ・・・なのか?」

法祥が八十姫の塚にいくことがである。

「大丈夫でしょう?」

八十姫の網にかからぬものだろうか?

白銅はふと思った。

「八十姫は自分を仮にでも

いとしいと思うてくれるものでなければ、

その術界におとすことはできません。

不知火もそうですが、よもや、法祥も

その手におちるとはおもえません」

「ふむ・・」

人の肉を、血をすすりたいだけの八十姫を

いとしいなぞと思うわけがない。

「ほたえくるうことはないというか?」

「ないでしょう?」

不知火にはそれなりの分別がある。

だから、彼は新町にわざと通って

身におきる欲情をすすいでいる。

そんな男がおなごほしさに狂うとは思えない。

法祥はどうであろうか?

「あれには・・思う女子が居ます」

八十姫の正体をしって、なおかつ己に思う女が居て、

これまた八十姫の術界に落ちるとは思えなかった。

「そうか・・・ならばよいのだが・・・」

「それに・・」

「なんだ?」

「塚に行くと言い出したのは法祥です」

成るに任せるというところであろう。

「そうか」

こんな事を話していた白銅とひのえの元に

その法祥が帰って来た。

後ろに兵馬を引き連れての帰参であることは

いわずもがなである。

「どうでした?」

ひのえは法祥に白銅の存在を誇示するかのように

目をくばせてみせた。

「ああ・・・ご亭主殿ですな?」

法祥は一礼を返した。

井戸の柊二郎の一件より

この女陰陽師の夫なるものに逢うのは初めてである。

白銅の狂いはあからさまにされてないことである。

が、正気の白銅の姿を法祥に見せしめる事が、

ひのえの深き礼を指し示していた。

『よかったの』

ひのえに胸のうちで応えると法祥は

「八十姫は今しがた塚から姿を消しました」

このたび、一番問題になる八十姫の行動を告げると

その後ろから現れた康輔の事を話す事にした。

「その男が水脈をかえたのです」

「そうですか」

説明されなくても康輔が八十姫にどんな因果のある男かは

よみとれる。

「つらかったですね」

ひのえは康輔を見た法祥の思いを宥めようとしていた。

「い・・や」

と、言葉が詰まった法祥である。

この女子は何もかもわかっているのだと思った。

思ったとき、この女はたった一言で法祥の思いをいいあて、

法祥の思いを慰めようとしているのだと判った。

「あ・・・いや」

「ご苦労さまでした」

辛い者に応えながら、見定めをして来た法祥を

心の底からねぎらっていた。

ひのえの言葉が柔らかく温かい。

「あ・・・いや」

法祥は不覚にも涙をおとした。

寂しい心である。

思う人が霊に成ってしまっている。

たどり着けない思い。

あがなえない思いは法祥の裏側を苦しめている。

ひのえはその法祥の裏側の思いをあさりと抱き包んでいた。

陰陽事などにつかさどるにしては優しい・・・女子過ぎる。

法祥はしかりと涙を拭いなおした。

法祥の涙する姿は二度目である。

大の男が立て続けに涙するわけが判らぬ。

「なんです?」

兵馬はいぶかる声をあげる。

「あほう」

「はあ?」

判らぬ者には判らぬ。

だから尋ねるのだが、それを一言で阿呆もなかろう?

きょとんとして、法祥をみつめているが、

その瞳の中には優しい光がある。

「どうなさいました?」

わけがわからぬまでも、

ここにも、優しい男が法祥を案じていた。

「おまえは、あほう・・じゃ」

「はあ?」

「塚の男がお前をすくうてくれたのがわからぬか?」

「え?」

話してやらねばわからぬらしい。


「塚の男は康輔という名であるがの。

先にも言ったとおり、八十姫の行状を見かね

己を食らわせてやる事にしたのだろう」

それで、八十姫の狂いがおさまるわけもない。

「それが・・・わたしをすくった?」

「まあ、訊け」

康輔は八十姫にその身を差し出し、

いとしいといいつのったことであろう。

その言葉は嘘でない。

が、本来なら下僕である康輔が姫に言える本心ではない。

康輔が本心を存分に姫に吐き出したには、わけがある。

その思いで姫を抱き包み

共に姫をあの世につれさろうとしたのである。

姫の行状を見ているのはあまりにも酷い。

姫の狂いはもはやどうにも成らぬと判ると、

八十姫を静める方法はただ一つしかなかった。

残された方法を選ぶしかない。

覚悟を決めた康輔は八十姫を抱いた。

そして。

母を呼んだ。

「もろとも、つきころしてくれ」

絹女は康輔の今わの際の思いをかなえてやるしかなかった。

これで、すべて、もとどおりに成るはずだった。

落城の際、本来は死んでいたはずの

おのれらの運命どおりに・・・。

が、八十姫は次の甲牛の年にこの世に現れた。

そして、そこにいる兵馬を血をすすったのである。

康輔の思いやいかなるものだったろう?

八十姫のその姿こそを潰えるために

姫に死を与え己も共に散じていった。

それも、むだなことでしかなかった。

八十姫に与えられる肉体は既にない。

渇き、飢えをいやしてやれぬものか。

康輔の思いは姫の哀れな飢えに集積してゆく。

が、やはり、肉体はない。

どうにか。

この康輔の思いが地脈を変えた。

自然が与えられる物は乾きをいやすことだけであった。

その水脈の変化を康輔が

兵馬の木乃伊の下に届かせようとするのは

当たり前であろう?

渇きをいやしてやる。

この自然を動かした康輔の思いが八十姫の慟願を開き、

己の罪深き心に粛清をきたす。

べき、であったのだろう。

が、八十姫はかわらなかった。

が、康輔の陰徳で兵馬の木乃伊は八十姫より先に

掘り起こされる事になった。

にえを求める事を塞ぎ八十姫の心に変転の兆しを

求めたかった康輔の思いこそが兵馬を救ったのである。

「はあ?」

「わからぬか?」

「はあ」

「なんで?」

「いえ。そのまま私は何も知らず八十姫にめざめさせられて、思いをはたし、食われてしまったら

あっさりと成仏できたのではないですか?」

「う・・・」

そういう考えも成り立つ。

「お前の中にある。哀れな女子はどうなる?」

「それは、八十姫が人を喰らう夜叉になったと知ったから

生じたおもいでしょう?」

「ふむ・・・」

言い返す言葉を法祥は考えていた。

「ならば、何も知らずにくわれたほうがよかったか?

思いをはたしたほうがよかったか?

己さえよければそれでよいか?」

こんな思いで、にえにかかり、成仏する?

なさけなくないか?

「ふうん。姫を救う思いになって死んだらどうか?と

いうことですかな?」

つまるところはそうであろう。

「そうではないか?己の死さえ値にしてやらぬか?

自分で死をえらんでみぬか?

どういう思いで死ぬか、

これを康輔になろうてみてやれぬか?」

「なるほど」

ここにいたって、

やっと兵馬は救われたという意味を考え直しだした。

八十姫をどんな思いで抱くべきかは判った。

だが、実際にはそれはどうすればよい?

兵馬の成仏への路はいま閉ざされているのだ。

それは、どうすればよい?

言い換えれば真の意味でどうすれば姫をすくえる?

そういうことになってくる。

「う・・」

法祥はとうとう言葉をなくした。

「わからぬ」

素直に言うしかない。

法祥の言葉に兵馬はふっとためいきをつくしかなかった。

二人のやり取りを黙って聞いていたひのえと白銅であった。

救いきれぬ闇に居るのは法祥のほうである。

だが・・・。

その救いを定めるのもまた法祥自身である。

どんな思いで女子を抱くか?

法祥自身にもわかっていることであろうに

法祥は踏み出せない。

なくしたくない。

この執心こそ地獄である。

が、この地獄に救われたひのえである。

白銅の思いこそがひのえをすくったのである。

同じ地獄でありながら何と言う違いであろう。

ひのえは法祥を黙ってみているしかない。

己の幸いを言うてみてもこの場合法祥には当てはまらぬ。

白銅も黙る。

なくしたくない。

この思いがここにひのえをいさせている。

ひのえをいかせしめている。

こんな幸せな男が何をいえる?

己達の恵まれためぐり合わせに二人は、

頭をたれさせられている。その姿に

「おお・・」

やっと、法祥は気が付いた。

「いつまでも、ここにいてはいけませんな」

新所帯のふたりである。

気の回らぬ事であったと法祥は腰を浮かせた。

「こい」

兵馬をよぶ。

「はあ」

どうも、一方的に兵馬の行動まで差配する気で居る法祥である。

「わかりましたよ」

法祥の心の闇も気にならないでない。

兵馬はしばらく法祥に、

この場合もとりつくということになるのであろうか?

謎だなと考えながら立ち上がり、兵馬は法祥のあとに従った。

二人が帰るとひのえは

あわただしく夕餉の支度に取り掛かった。

「また、小松菜か?」

「はい。沢山あります」

ふんと鼻を鳴らして、白銅はてつないをするきである。

「大根も・・」

「まかせておけ」

春の大根はとうをたちかけている。

薄く半月にすると味噌煮にすることにして、

「魚がくいたいの」

白銅のねだる言葉にひのえは干魚をみつめた。

「いや・・やはり・・いい」

これも木乃伊である。

気がうせた。

「明日。もろこでももとめましょう」

琵琶の湖の小魚である。

「それを、甘露煮にしましょう」

うんと頷いた白銅の喉がなったようにおもえた。

「鯉こくもよいな」

卵を抱いた雌の鯉の腹の丸みが思い浮かぶ。

「そうですね」

水に染みらせて、柔らかく解いた丸麩を

小松菜の煮物にいれてゆく。

大根と小松菜。今日の膳は二品である。

「なるほどの」

麩が戻るとひのえは水を絞るためにまき簾でおさえていた。

「一旦水を出さねば味がしみぬわの」

妙な事に関心する。

した事のない台所事は何を見ても新しいらしい。

「もっと、簡単に作っておるものかとおもっておった」

「いいえ」

難しい事ではない。簡単なことである。

「ように、工夫してつくるものなのだ」

しきりと関心して見せたが

作り上げた夕餉はあっという間に白銅の腹に治まった。

「うまい」

を、連ねる白銅の口の中に菜はきえてゆく。

くちると、こどものようなもので、

「ねむい」

で、ある。

むろん。この「眠い」は、ひのえを誘う常套文句である。

「すこし、はやいようですよ」

井戸掘りでくたびれたからだである。

湯船に移す水もたきつけを終えている。

「身体をあらいませ」

さっぱりと身体を流してからよこになればいい。

「そうするか」

うーんと延びをすると白銅はたちあがった。

くどの左手にしつらえられた風呂に入り込む前に、

くどに置かれた水がめを覗き込んだ。

水は亀に汲み置いてある。

先ほど使った水などはしれたものであった。

僅かに亀の内縁を乾かすほどにつかわれていただけである。

炊事にはことたりるであろうが、

明日の湯は裏の井戸からというわけに行かなくなる。

白銅はここから一番近くの井戸を思った。

手桶では、何度、往復せねばならないだろうか。

荷車をあつらえにいかねばならぬ。

明日の算段を決めると、やっと、風呂場にはいりこんだ。


半刻あとにはふとんの上に転がりながら

なんぞかを話しているふたりがいる。

「お前は・・木乃伊をみにいったのか?」

かぶりをふってみせて、ひのえがたずねかえした。

「白銅はいってみたのですか?」

「それどころではないわ」

井戸を掘る場所を見定めるだけではない。

少しは様子も見に回らねばならない。

行きつ戻りつしながら、最後の井戸をさだめて、

かえってきたのである。

「すると・・・今頃、不知火は・・・」

「井戸掘りもてつだわされておろうの」

人の事なぞかまわぬようにみえて、

あれで、結構めんどうみがよいのである。

おそくまで、一刻も早くと井戸を掘るものをみぬふりして

かえってくることができないだろう。

それに、慌てて帰ってみた所で一人身の不知火である。

家の帰ったとて、ひとりである。

一人ならまだいい。

へたをしたら、兵馬が待っているかも知れない。

勢い帰る気もうせるものかもしれない。

「それでは、法祥が兵馬をつれていってくれたのは・・・」

「不知火にはおおだすかりでなかったかの?」

「ふふ」

ひのえがわらうと、白銅も

「わしもたすかった」

「はい?」

何をたすけられたという?

「あんな者をおいてゆかれては、わしも・・・おちおち・・」

白銅の手が伸びてくるのを両手で包むと

「それでも」

話を元に戻す。

「どうした?」

「井戸は、もう、もとにもどらぬものでしょうか?」

どこの家でもこまっているであろう。

しばらく、白銅は考え込んだ。

白銅の様子に

ひのえも口先だけに登らせた不安が

まだ、続くのかどうかを考え直していた。

「いずれ、元にもどろうの」

ややすると白銅が浮かびを口にした。

「そうですか」

「うむ」

多少白銅の顔付きがくぐもっていた。

「白銅が思った事は私とおなじことでしょうか?」

かるく、目を細めて白銅はひのえをみる。

相通じるとでもいうのであろうか?

似通った洞察をするのは、二人の性がなじんできているせいでもある。

「たぶん・・・」

「どう、おもいました?」

「うむ・・」

白銅が話し出した事は、白銅の顔付きをかえてゆく。

さらに悲しげな顔になるのを見詰ながら

ひのえは自分と同じ事を推察した白銅の思いが痛かった。


「法祥が塚に行った途端に八十姫がきえうせたというたの?」

「ええ」

やはり、白銅もその事を一番にきにしていたのである。

「八十姫はせいておろうの」

獲物をさがす。

思念にひかかる者はいないか?

女子に餓えた男がいないか?

「が、男供はそれどころでない。

井戸を掘るのに必死であろう?

女子事にうつつをぬかしているばあいではない」

それも康輔の計算にはいっていたのであろうか。

八十姫の喰らう相手が見付からない。

木乃伊がでてくる。

塚が水をふきだす。

陰陽師が動き出すのは目にみえている。

「そして、不知火がいった」

「はい」

「たぶん。この男でもと八十姫はおもったことだろう」

だが、不知火は甘い男ではない。

かと言って後ろについてきた兵馬は事の全てをしってしまう。

今更どんな手管で兵馬をおとしめることができよう?

いとしいなぞという思いを露ほどに

沸かさせる事はなくなってしまった。

「臍をかみ、じりじりした思いを抱きかかえている所に

今度は法祥がくる」

「はい・・・」

この先の読みである。

この先の読みは聞きたくない。

同じ推察でない事を祈りながらひのえは耳を傾けなおした。

「ところが、お前のいうた通り、法祥には思う女子がいる」

「・・・」

「八十姫はあきらめるしかない。だが・・・」

「はい」

「法祥の女子は、幽体であろう?」

「は・・・い」

「これを使わぬ手はない」

「そのとおりです」

「それに気が付いた八十姫は法祥の女子をとらえにいった」

「そして。八十姫は女子を牛耳って、法祥を・・・?」

八十姫は女子に融合し、法祥をさそう。

女子にはいとしい思いをかける法祥であろう。

が、融合された八十姫にもその思いはかかる。

八十姫が法祥をくらうことがかなう。

それが二人の読みであった。

「法祥がどうするかの?」

女子を成仏させる事をえらびきれない法祥が、

伊予の誘いにのるだろうか?

伊予を抱けば融合された八十姫も

伊予と共に成仏させられてしまう。

あえて、法祥は伊予をだくだろうか?

が、その時は法祥のむくろも、ころがることになる。

伊予も成仏する。

法祥もやっと、伊予を追える。

そして、八十姫も成仏する。

やっと、康輔の御霊は静かに目をとじれる。

康輔のために集積した水は

これで、本来の流れにもどることになるのではないか?

水脈の変化が康輔にきざしているのなら、

康輔の魂がやすらになれば自然は元にもどろうとする。

と、白銅はひのえの井戸の心配にこう、読んだのである。

そうなるのか?

それがいつになるのか?

法祥の顔がうかぶ。

あの男は己をむくろに変える事をえらぶだろう。

でなければ、白銅の狂いの時に白峰に使われることは無い。

心根のおくで、人を助けたい法祥なのである。

いくら因縁が似通っていた所で

この心がなければ救いに関る事は出来ない。

己さえ救えぬ法祥は自分にうちのめされ、

人を思うことから目をそむけようとしてきていた。

この法祥の底を読んだ白峰である。

白峰が法祥の歯止めを取り去った。

転がり出した車輪はやがて、

己を救う方向にわだちをむけてゆく。

運命。いや宿命の輪軸がまわっているかぎり、

法祥は己を救うしかない。

それが・・・今?

「八十姫がらみだな」

笑った法祥こそが、絡みのもといでしかなかった。

溜息になりそうな息を堪えるひのえの手に

預けた右手を解くと白銅はひのえの胸をさぐってゆく。

「生きているという事は、こういうことかもしれぬの」

あがってくる呻きの元こそ快い。

ひのえは己が生きている事に身をゆだね始めた。

魂を結びつかせるからだの融合は時をわすれさせ、

侵食をむさぼりあわせる。

魂をかさねあわせられぬ

死人(しびと)との交接はかなしかろう。

競りあがってくる恍惚の波の中、

ふと、伊予の涙をみたきがした。

今、白銅と溶け合うとき、ひのえは、

確かに生きている。

そう、思った。


堂に戻った法祥は火を起こし始めた。

堂の中に放り捨てておいた托鉢の鉢に米をつぎいれ、

そのまま竹筒の水をそそいだ。

米を洗うにも外の井戸も枯れている。

致し方ない。

米を掴んだ手がふと兵馬の分もつかんでいた。

「私はいりませんよ。貴方がそれだけ要るならべつですが」

見咎めた兵馬が口をはさんだ。

「そうだったの」

「べんりなものですな」

鉢がそのまま鍋になる。

「あとが大変だがの」

火にすすけた鉢を洗わなければならない。

だが、水はない。

飯は粥。

米の分量に対し注ぎいれた水が多いから、兵馬にもわかる。

焦げ付かさねば空になった鉢は拭い取るだけでもよいだろうが、

「どうするんです?」

擦り砂というてがある。

「なるほど・・」

「強い鉢ですな」

よい香りがしてきて、米は粥に変わる。

「くうぞ」

くわない兵馬であると判っていても、遠慮が起きる。

「どうぞ」

喰わねば生きてゆけぬのも、面倒くさいことにみえる。

法祥が粥をすするのを見ていた兵馬であるが

「私はそのあたりで横になります」

「え?」

法祥は粥をすする手を止めた。

「なんです?」

喰わねばならぬ人の習いを止めて「え?」と、

ほざくのはなにごとであろうか?

「お前でもねむるのか?」

言われてみれば

「ああ。そうですね」

喰う事が要らぬ身体に眠る事が必要なのであろうか?

法祥が不思議がるのも無理はない。

「だけど。何だか神経がくたびれました」

生きているもののように思いを沸かしている兵馬である。

気はうごいているのである。

動けばくたびれる。

当然の図式である。

この場合。

身体を休めるというより心を休めるということなのであろう。

生きていた時の習いのまま、身体を休める事で、

心のくたびれを癒そうとするのは

死んだばかりの男に他の方法がわからぬせいであろう。

身体を休め眠りに着く行動をしてみるしかないようである。

が、果たして、本当に眠れるものなのだろうか

と、思ってみている法祥である。

兵馬はごろりと横になると二、三度寝返りをうった。

はたして。

思いなおして粥をすすり上げる法祥の耳に

まもなく軽いいびきがきこえだした。

どうやら・・眠れる・・らしい。

死人でもない。

生きている人間でもない。

いびきの音はやがてぐうううと篭ると当たりは静かになった。

思わず法祥は兵馬の口元に手を当てかけた。

息をしているのか?

それほど静かだった。

しかし、既に死んでいる人間の生死を確かめるのは

愚か事でしかない。

「よう・・わからぬ」

生きていた頃の習慣がまだ、兵馬を差配している。

それで、法祥もつい、生きている人間のようにおもわされてしまう。

伸ばしかけた手を引っ込めながら苦笑を堪えた。

兵馬の眠りを妨げぬ、はからいだった。

鉢を空にすると法祥は竹筒の水をわずかに注いだ。

鉢についた粥のぬめりを取るように木杓子で撫で、

さらりとしすぎる重湯を飲み干すと

懐の沙羅紙をだして、中を丹念に拭うた。

どうせ、もう少しここにいる。

鉢のいぶりはあとにする。

どうせ、明日もすすけてしまうだろう。

鉢から放り出した米を横目で見て、

托鉢に歩かなくても良い事を確かめる。

すすけた鉢のままでかまわぬわけである。

法祥も横になる事にした。


薄ら寒さを覚え法祥は目を覚ました。

横になっただけのつもりであったのに、

いつの間にやら、寝入っていたのである。

囲炉裏を見れば、薪が燃え尽き、埋ずみ火になっていた。

太い薪が燃え尽きているところからして、

長い事眠っていた様である。

溜息をついて、薪を取りに行った。

兵馬は先に見たと同じ格好で眠っている。

さむくもないらしい。

寒くもない男が目をさまして、

法祥の代わりに薪を継ぎ足しておいてくれるわけもない。

いや。それより先に薪もつかめぬかと考え直して

「いかぬ。つい、人がおるとあてにしてしまう」

兵馬を人とはよべぬが、

己の人恋しさはここにも現れる。

どこかで自分に心配りを見せてくれる者がほしい。

だが、こんな男の寂しい心は埋めたくはない。

けして、人に思いをかけてもらえるような己ではない。

が、無性に人恋しいときがある。

伊予の思いは法祥を現実には充たせない。

ついとたって茶を入れてくれる。

寒くないかと上(うわ)をかぶせてくれる。

現実に形にならない日常をあきらめたからこそ、

二人で死の道行きをえらんだ。

さすれば、何もかもにあきらめがつく。

その時は法祥一人生きのこる事なぞ夢想だにしなかった。

生き続けていれば、諦めたはずの思いがもたげだしてくる。

伊予の、というだけでなく、

ただ、ただ、人のぬくみに触れたくて仕方がない。

法祥の寂しさを埋める人のなさけが

法祥にかたぶけられるのを願う己がいる。

だが、それは赦されない。

己が赦さないのである。

ゆるすことができないからこそ、伊予を抱けない。

伊予のぬくみを求めてしまえば、

伊予はこの世からきえうせる。

かといって、他の女子をもとめたとしたら。

伊予の苦しみがみえてくるようである。

己の飢えを充たすためにだけに、

人を求める心があることさえ赦したくない。

だが、現実には伊予を手放したくない。

我侭勝手な思いでいる事を赦している法祥である。

その自分がまだ、生きている人間からのぬくみが

欲しいなぞと、どの口でほざける。

せめても、伊予をもとめれば、伊予はきえる。

だから、この人恋しさはどうにもできぬものだと判っている。

わかっていながら・・・。

つい、兵馬の些細な心配りをねだっていた。

「ふうう」

生きたいと思っているのだろうか?

思う心が飢えを生む。

伊予への思いが薄れたようにみえるのは、もう・・・。

己一人の人生を歩みたい法祥に替わり始めたせいか?

ならば、いっそ、伊予を成仏させてやればよいではないか?

この世の名残りを全てはきださせ、

伊予を抱いて、抱いて抱きくるわせてみせて。

その際(きわ)に回向経を念じてやれば良い。

だが・・・。

「できぬ」

法祥なのである。


埋火が薪をいぶらせ、やっと大火(おおび)がわいた。

これで安心して横になれる。

横になろうとした法祥は肩肘を突いたままみじろぎをとめた。

「伊予?」

決って伊予は法祥が死を意識した時に現れる。

今しがたの法祥の思いの裏側に

伊予を追おうかという迷いがある。

法祥の底の迷いが

伊予の法祥にかける生きろという願いを震わせるのであろう。

囲炉裏をはさんだ法祥の前に伊予は座り込んだ。


伊予は座ったまま軽く膝をくずしだそうとしている。

哀愁を帯びた瞳が酷くなまめかしく、

法祥をさそうようにみえた。

「生きろというか?」

先の法祥の思いを伊予は感じ取ったのだろうか?

この伊予をだいてしまえ。

この伊予を失くして、法祥だけの人生になってしまえ。

もう・・かまわないのだ。

成仏してもいい。

伊予の心はそうさだまったのか?

「おまえは、もう、わしへの想いも要らぬというか?」

伊予への思いをなくしたくがないために

心寂しさを赦さない法祥であった。

伊予を失くしたくないから、

どんなにか伊予をかきいだきたい思いを堪えたか。

押さえつけた思いは欲情する身体をも変え果てた。

これが法祥の本当である。

けして、伊予をだきたくないわけがない。

この手にふれ、想いを、身体をかさねあわせてしまいたい。

だが、その瞬間伊予はこの世をきえさってゆく。

送る言葉は悔いであろうとも、もう回向経しかなくなる。

なくしたくない。

法祥がこの思いに拠ることが出来たのも、

ひとえに伊予の中にある法祥への想いをこそ

なくしたくないからであった。

伊予の想いをこそ、なくしたくない。

たとえ、この世において、

法祥にぬくみを与える事が出来なくても良い。

「想うていてくれ」

にじり寄りそうな伊予が己自身に抗うように首を振った。

「いまも・・お慕いしております・・なれど」

ぐっと眉間をそばだてると、伊予は法祥に手をさしのべてきた。

「抱け・・と、いうか?」

どんな男であろうと、

恋しい女子の思いをかなえてやりたいものであろう。

法祥の心の色は伊予への恋しさだけを映し出し始めていた。

伊予の手をつかんだ。

その身をひきよせると・・。

「なりません」

求めてきたはずの伊予が

法祥をおしやると喉奥から凛とした声をひびかせた。

あれほど押さえつけた

伊予への欲情を解放しようとした、法祥こそ哀れなものである。

「なんで・・・・?」

断食を解いたものが目の前に馳走を並べ、

くえといっておいて、それをとりあげる。

こんな酷い仕打ちはない。

それをあたら無理やりに喰えば、

断食をした所信をこそ、問われる。

情けない浅ましさを法祥自身に見せつけて、

伊予への思いの真偽をとうて見たかったのか?

「まだ・・あなたが、きがついて・・・ない」

喉の奥から声を振り絞るようにして

伊予はさけぼうとしていた。

が、

小さな声が喉の奥で鳴っているだけだった。

「?」

やっと、法祥は気が付いた。

おかしい。

これは伊予ではない。伊予であるが少し違う。

「要らぬ邪魔を・・・」

はっきりとした声が響くと、

声を発した伊予は驚いたように口を手で覆った。

「伊予?」

伊予を牛耳切れなかった八十姫が

邪魔だてをしてきた伊予を思わず詰ったのである。

「伊予?」

法祥の声もむなしく伊予が消えた。

八十姫の意思で伊予ともどもきえさったのか?

伊予が法祥を護る一心が

八十姫ごとである己を去らせたのか?

いずれにしろ、伊予が消えた。

丑三つ時を過ぎた頃に兵馬はむくむくと起き出して来た。

この世の人が考える幽霊の倣いも

その身におきているようである。

「おや?」

眠っていると思った法祥が膝をだかえ

飄然とあらぬ方向をみつめている。

「どうなさいました?」

「あ」

兵馬の声にこたえようとした法祥の顔がゆがんだ。

「今度は何を・・泣きなさる?」

「伊予があらわれた」

「伊予というのは、貴方に取り付いているといった

女子のことですか?」

「ああ」

「ふうん」

法祥が涙を流すのはなぜであろうか?

兵馬が考えつく事は

「回向してあげれたのですな?伊予さんは成仏なされた?」

伊予をとうとう失くし去った法祥の惜別の涙か?

「いや。伊予はこの世にいる」

「では・・・」

なんで、泣きなさる?

同じ言葉を繰り返して聴かれるのもつらかろうと思えて

兵馬は暗黙に言葉を濁した。

「伊予は、成仏するきになっておる」

法祥への思いも消え去る。

「わしを想う者がおらんようになる」

伊予にこそおもわれていたい。

それがあらばこそ、伊予の示したとおりいきてこれたのだ。

伊予を、伊予の思いをなくしさって、

「何のためにいきる?どうやって生きろという」

「な、なにをいわるる」

法祥がまるで、死ぬといっているように聴こえる。

「違う」

なにか、思うこととむきあうとほうけた顔になった。

大丈夫か?

くるうたかとおもえる。

が、こんなときこそ頷きながら、

現実の世界に戻してやらねばならない。

「なにがですかな?」

そっと元に戻す引き手をからめてゆく。

「あれは伊予でない。伊予に何かあったのだ。

で、なければ、伊予があんな事を言うはずがない」

「どうしたというのです?落ち着いてはなしてごらんなさい」

「う・・うん」

童子のような返事をかえすと、法祥は涙をぬぐうた。

涙をぬぐうということは

多少でも自分を意識できるということである。

なら、だいじょうぶである。

少なからずほっとすると兵馬は法祥をうながした。

「いうてみなされ。心が軽うなる」

優しい言葉である。

救わねばならぬ側の法祥の方が宥められていた。

情けなくもあるが、その言葉にすがらずに置けなかった。

「伊予があらわれての」

「はい」

「あれが、わしを・・あれの方が、わしをさそうんじゃ」

「それで?」

「伊予の思い通りにしてやったら、あれはおらんようになる。それでよいのかというて」

「伊予さんは構わないとおっしゃった?」

「そうだとおもった」

法祥も本当の最後だと覚悟した事であろう。

最後と思えばなるほどに

伊予をだきおおしてやるしかないことであろう。

「でも、先ほどそうではないといわされておった?」

「ああ」

法祥は指で目頭を押さえていた。

「あれは、おそらく、八十姫に差配されてしまっておる」

伊予の異なる声のわけをずぅぅぅっと考えて

座り込んでいた法祥である。

思い当たる事をつなぎ合わせて見たくはない。

が、考えれば考えるほどに結論は同じ所にいきつく。

八十姫が伊予と融合したのだ。

正しくは八十姫が伊予に取り付いた。

と、いうべきかも知れない。

「それでは?」

「いずれ、伊予が人を、くらおうとするだろう」

「な、なんと」

兵馬は憤怒の果てにやはり涙をみせていた。

「な、なさけない・・・」

阿呆の男をたぶらかしているうちは、まだよい。

たとえ、姫との快い逢瀬の見返りが死であっても、

歓楽は享受されている。

だが。

法祥を想うがゆえにこの世に存在する伊予を

己の道具にする?

同じ女ではないか?

いとしさに拘る八十姫であらばこそ、

伊予の心を思えば幸いをいのることはあっても・・・。

それが犬畜生にも劣る浅ましい我心である。

「おのれさえ、くちればよいか?

それほどに外道になりさがれるか?」

兵馬の目には悔し涙があふれていた。

「伊予の最初のにえは・・・わしじゃ」

「あ」

言葉が出ない。言葉を失った。どういえばよい。

「あれはそれをとめようとしておる。

そうに違いない。だから・・」

「どう?」

「抱けというのだ。己の思いを失くしてもよい・・・」

法祥の声が涙につぶれだした。

「伊予はぁ・・・じょう、成仏すると、覚悟し・・した。

伊予は、八十姫もろとも

成仏するきでおるんじゃああああああ」

死んだ者の事なぞどうでも良い。

「ぁ・・ぁ・・貴方は、あなたは、どうなるんです?」

「伊予ひとりでいかせはせぬ。とりくらわれてもよい。

心だに、心をだに伊予を想うて、ともに・・・」

成しえなかった死出の旅に

今度こそたとうという気でいるのである。

「伊予があわれじゃ。

あれほどわしに生きろというた伊予が

わしをくらわねばならぬ。

こんなことならもっとはように・・・」

「ちがいます」

兵馬が言える事はそれだけだった。

こんな事は伊予が望んだことでない。

いまとて、きっと、伊予は法祥にいきろというている。

悪いのは八十姫である。

悪いのは落城に散る運命に逆らった康輔である。

なにゆえ、そやつらの付けを法祥がはらわねばならぬ。

伊予を成仏させる事一つとて、

何ゆえ法祥の思いが定まらぬうちから強いてくる?

どこにそんな権利がある?

伊予が法祥が自然と諦める時をうばえる?

「どこに・・・そんな権利があるという」

「伊予・・・」

泣き崩れる法祥の背に手をあて、兵馬は考えていた。

『どうにかしてやれぬか。どうにかしてやれぬか』

それだけであった。


思いは天かける。

兵馬の後ろを木立が家が森がとびすさってゆく。

兵馬のその姿を見るものがいれば、

人魂が中空を飛んでゆくのに

腰を抜かさんばかりにおどろいたことであろう。

兵馬が行き着いた先はあの女陰陽師の寝間のなかだった。

「おや?」

自分でもふしぎである。

先ほど法祥の背を抱いていた兵馬である。

どうにかならぬか?

そう想った時この女陰陽師の顔が浮かんだ。

あの人なら・・どうにか・・・。

思った時には兵馬はもうここにきていたのである。

いったいどうなっているのかより、

これてよかったことがさきである。

「おきてくだされ」

白銅に添うように眠っている女陰陽師をおこすのさえ、

気にならない。

兵馬の気はせいていた。

「おきてくだされ」

二度呼ばれ、ひのえはがばりとはねおき、布団の上に仰臥した。

「ああ・・たいへんなのです」

まだ目がしばたたかれているが、

兵馬を見ると、いぶかりもせず

「どうしました?」

と、たずねてきた。

「八十姫があらわれました」

「そうですか」

兵馬に較べあまりにも悠然と答えるひのえである。

「そうですか?って、あなた・・ねぼけてらっしゃる?」

「いいえ」

無論正気である。

ざわざわ枕元がうるさくて白銅も目をさました。

「や?兵馬か?どうした?」

兵馬にかわってひのえが

「どうやら、法祥のところに、八十姫があらわれたようです」

白銅に説明する口調はしっかりしている。

寝とぼけてはいないとはわかった。

「やはり、法祥の女子をのっとっておったのか?」

今度は兵馬が聞かれた。

「え?はい、はい。そうです」

どうやら、八十姫の行動はこの二人はすでによんでいたらしい。

読める二人なら法祥を救う算段もついておるのだ

と、兵馬は考えた。

「なんですか?判っているなら教えておいて下さらねば

私はもう・・・どうすればよいのかと」

兵馬にせめられ二人は顔を見合わせた。

「安心ついでにおしえておいてください。

で、どうやって・・法祥をすくうんです?」

「どう、いう意味の「すくう」ですか?」

暗闇の中兵馬を見透かすようにして、ひのえが尋ねた。

「え?どういういみって?それは?」

妙な事を聞かれたものである。

どう考えて、どう返答すれば良いか判らない。

「思いが救われる事ですか?

執心から救われる事ですか?

ただ、単に命を救われる事ですか?」

「ええええ?」

命が救われることが単?

それではむしろ思いが救われることの方が

大事なようにきこえる。

「可笑しな事をいわされる」

「いいえ」

「いや。おかしい。第一、いきておってこそ、

思いもかえられましょう?

命ながらえる事こそすくいでしょう?」

「それで、死んだらどうなります?

救われぬ思いを残し、成仏できずにおりますか?

転生さえ出来ぬかも知れぬ地獄に

おちてしまったらどうします?」

「は・・あ。なるほど、今の世だけの命にこだわるなと」

どうも、常人の考えとは常軌をいっするものがある。

「それならば、命より先に思いを救えということですかな?」

言って、兵馬は気が付いた。

「それはつまり・・・法祥は」

思いが救われるなら命に拘るな。

つまり、法祥には死しかないといっていることではないか?

「ばかな。陰陽師が人の命ぐらい。

命ぐらいでしょう?

命ぐらい。そうでしょう?

その命ぐらい救えぬ?

助けられぬ?こういうのですか?」

ひのえと白銅は無言で頷いた。

「馬鹿な。馬鹿な馬鹿な馬鹿な。

そんな馬鹿なことなぞ・・ある・・もん・ですか」

兵馬はおいおいと泣き出していた。

「残念な事だが宿命にはさからえぬ」

「宿命?八十姫に食われる事が?

そんな勝手な宿命があるもんですか?」

法祥が伊予に取り殺されるならまだわからないでない。

死しても怨むどころか生きろと思いを寄せられる男が

何故、縁もゆかりもない八十姫にくわれねばならない?

こんな理不尽がまかり通って、おまけに宿命?

「手に負えないと判って、

そんな事を言ってごまかすきだな?」

どうしても信じたくないのである。

信じられないのである。

「だったら、もっと手に負える陰陽師でも

探してつれてきています」

「嘘だ。嘘だ嘘だ。

それじゃあ、あの人が余りにも可哀想じゃありませんか」

「兵馬。それで、おもいがすくわれるんじゃ」

「うそだああ」

思い切り叫ぶ兵馬のすがたがきえた。


兵馬が行った先はどこあろう。


不知火はくたびれ果てた身体を屋敷まで

どうにか、はこびいれた。

自分の身体であるのに、重い物体に帰している。

女達が炊き出した握り飯が夕餉であり、夜食になった。

たいまつに照らし出された地を村人と共に掘り続けたれば

ようやく水は湧き出した。

にごった水が次々沸いて、わききり澄んでくるのを

見届けるまでもない。

不知火は夜おそく。

いや、もしかすると朝早くかもしれない。

やっと家路に着いた。

「おらぬの?」

ほっとすると、不知火は布団を放り投げるように

床に敷き詰め、泥のついたからだのまま、

文字通りへたばった。

くたびれたからだが泥睡を呼ぶ。

だが、不知火を身体の芯から眠らせた深睡は

かくも快い目覚めをもたらす。

「なんと?」

目を開ければもう朝である。

熟睡がくれたものは、明らかな覚醒と爽快感である。

おきてしまえば、もう一度、惰眠をむさぼるのもおしい。

見れば泥の付いたからだのままである。

「朝風呂もおつなものだ」

庄助気分はぐうたらもんの代名詞である。

「いや。いや。みそぎ。みそぎ」

いいなおして、不知火は湯殿に向かいかけた。

「ほい、水がないわ」

ひとりものの哀しさである。

なければないでよいの高くくりで、くみおきもわずかである。

井戸から湯殿に通したといも井戸枯れでは、

秋の素麺流しの店屋のように滑稽である。

「しもうた」

こうなると余計に身体をあらいたくなる。

思いつくところは白銅のところである。

ひのえのことだ、湯を沸かす水を汲み置かぬへまも

やっておるまい。

残り湯でよい。

馳走になろうと不知火は着替えを出してきて

風呂敷に包み込んだ。

早すぎるかなとおもわぬこともなかった。

が、ゆくりと歩いて白銅の屋敷にたどり着けば

よい頃合になっていよう。

かぽかぽと歩く不知火は兵馬の事を考えている。

どうやら、昨日は法祥にひっついたままになったのであろう。

法祥に邪魔者を押し付けた後ろめたさもあって、

尚更兵馬の事を考えさせられている。

兵馬の成仏もであるが、あの木乃伊をどうするか?

成仏すればただでさえ要らぬからだであるが。

成仏しなくても要らぬ身体である。

いっそ荼毘にふしてしまおうか。

衆人のさらしものにしておくのも、あほげている。

衆人の物見高い嬌心を煽るだけ、罪つくりである。

荼毘にかけようか・・・どうしよう。

よもや、兵馬があの木乃伊の身体でも要るなぞ

と、いいだしはせぬだろうな?

いや。もっと、はっきり。

必要になってくる事はよもやあるまいな?

考え付かない事である。

なぜならばひのえがかかわっている。

あの女子は何をどう変転させるか?

定法なぞで、はかれぬことをやりだす。

先走りになってしまうならまだいい。

燃え尽きた木乃伊の前で

これで兵馬は救われぬようになってしまったなぞとでも、

言われた日には目もあてられぬ。

ひのえに問うか。

どうせ、行く先もそこである。


顔を出した不知火にひのえがまず言った事は

「朝餉はまだでしょう?」

だった。

うっかりしていた。

夜遅くに握り飯を三っつもほうばったものだから、

さほどはらがすいておらぬ。

それで、何も気にせずやってきてみたが、

白銅の屋敷は味噌汁のいいにおいと

香ばしい干し魚のやけるにおいがたちこめていた。

「一緒にたべましょう」

うえてはおらぬが、やはり食欲はそそられる。

「よいのか?」

どうせ、二人分しか作っておらぬであろう?

ありがたい申しでではあるが。

「たるほどありますに・・・」

近所のおかみ連の奉仕はつづいている。

柊二郎が比佐を嫁になおしたのも、

この女陰陽師のしわざからにちがいない。

長い間の懸念を晴らしてくれたひのえに感謝をあらわすのか、

比佐への祝いのお裾わけのつもりなのか、

とにかく今は山のような小松菜である。

それを、今日は揚げを入れた味噌汁にしてみた。

「ふうん」

かってしったるものであるから、居間にあがりこむと

白銅がゆくりときがえをしている。

「おお」

不知火の来訪に声をあげたが・・

「きたないの?」

ところどころ、泥が跳ねついている不知火をみた。

「そうなのだ・・それできた」

「ああ」

一つ返事で白銅は湯をわかしてやるきである。

「いや、のこりゆでよい」

「残り湯しかないわ。だが、せめて

あたたかいほうがよかろう」

「それはそうだが」

「まあ、まかせておけ」

屈託なく笑うと白銅は舌を出した。

「台所をてつのうてやらぬで、むくれるかもしれぬ

そのほうはたのむの」

「え?」

ひのえの機嫌を左右できるのは白銅しかおるまい。

男が台所に立つものかと怪訝なおもいがするが、

「だったら、わしがゆをわかす。

お前がひのえをてつのうてやれ」

「ふ・・む」

返事はしぶったこえである。

「どうした?」

「いや、けっこう、台所というは簡単にみえて、そうでない」

「ははあ、いやけがさしてきたな?」

「まあな。やはりあれは女子の領分じゃ。

ひのえの方が簡単じゃと笑う事がわしにはむつかしく」

「なんじゃ?」

「随分、七面倒くさい」

喰う手間を思えば作る手間の方が

どんなにわずらわしいことであろう。

「うどんをつくった」

なにをいいだす?

不知火は白銅をみる。

真面目な顔が不知火をとらえる。

「直ぐ食えるものかと思うたら、塩でこねて、

踏んづけてたたきつけて」

「は・・ん?」

「ねかせてやらねばならぬという。

お前、湯抜きをしっているか?」

「なんだ、それ?」

「うどんは稲荷じゃ」

揚げを載せるうどんである。

「いよいよ喰えると思う頃には

今度は揚げを湯抜きしてあじをしみさす」

「しらぬの?」

「稲荷のうどんはつくらぬか?」

「うどんもつくらぬが」

「ふん?」

小ばかにされた。

「あげは?」

独り者の暦の長い不知火である。

自分で煮炊きをすることは当然あろう。

「しょうゆに浸して煮るか、焼いてくう」

「湯抜きは?」

「だから、なんだそれは?」

「揚げを煮る時は湯抜きをするものなのだ。

わしもしらなんだ」

「はあ?」

「それぐらい、手間がかかるのが本当なのだ」

「采と一緒ににてはいかぬのか?」

「いけなくはなかろうが・・」

台所のこむつかしさを不知火に話しても無駄とわかると、

白銅は風呂の湯をわかしにいった。

だが、直ぐに白銅は帰ってきた。

「おまえの汚い格好に察しが着いたらしい。

もう湯が沸いておる、はいってくればよいわ」

なんだかふきげんである。

「なんだ?」

白銅の不機嫌をとうてみたのであるが、

「もうめしもできておる。はよう、はいってこい」

「なんだという?」

「しらぬわ」

面倒くさいといいながら白銅のてつないを

あてにされなかったのがしゃくにさわるらしい。

これ以上、くだらぬ夫婦の感情に付き合っていると、

犬にも劣りそうで不知火は

「いただいてくる」

と、湯殿に向かった。


烏の行水とはいうが、朝餉を前に

自分を待っている二人を思うと烏にならざるを得ない。

間の悪い時を選んだ己の足りなさを悔やんでも仕方ない。

だいたい一人身の男は食いたいときに食い。

眠りたい時に寝る。

思い立ったが吉日のごとく、主眼はじぶんである。

万事がお気楽な不知火にくらべ、どうも、夫婦者は困る。

どちらが事であろうや?と、

示唆してやりたくなる不知火であるが、

それでも、出来うる限りにさっさと体を洗うと

風呂を出て膳の前にすわったのだから、

よしにしておくしかない。

憎めない男はもさもさと飯をあさりだすと、

ぐいと汁椀をつきだす。

おかわりなのであるが、むっとした顔で白銅も

負けじとひのえに茶碗を突き出している。

『ああ・・しもうた』

人の女房をわが女房のようにして、当り前に、

無言で給仕を要求すれば夫たる白銅がおもしろくなくなる。

『素知らぬ顔をして見せて、こやつは妬くのだった』

この不知火にまで妬いて見せねばならぬほど惚れておるか

と、でてくる苦笑をかみころした。

が、不知火がしでかした迂闊は空気をよどませてしまった。

こうなると、勢い気まずさをごまかすしかない。

「そういえば・・あれから法祥はなんと?」

「ああ。八十姫の塚のことか?それとも、兵馬のことか?」

白銅がのってきた。

じっさい、不知火もきにしていたことであるから、

一石二鳥ということになる。

「どちらからでも」

きかせてくれというと、ひのえから渡された汁をすする。

「そうだの」

昨日、夜半に現れた兵馬からの事を

はなしておかねばならないだろう。

ゆえに法祥がみた水を噴出した塚のわけから

はなしてやらねばなるまい。

「塚のなかに八十姫の後ろに男がおったことに

きがつかなんだか?」

「おとこ?」

「おおよ」

「はて・・・」

男がいたとしたら、それは康輔であろうが・・・。

「いや、さっぱり」

かさねて、思いなおしても、

男の気配などかんじもしなかった不知火である。

「やはりの」

「なんだ?おまえだけ得心しおって、

わしには何のことやらわからぬでないか」

白銅は味噌汁の小松菜をはしにからめる。

「まあ、こういうものかの・・」

「なんだ?」

箸に絡んだ小松菜。

訝しげに考え込む不知火に

「つまり」

と、白銅は例えた事を あかしはじめた。

「まて、まて」

不知火も試されて判らぬは沽券にかかわる。

「簡単に言えば、わしにはひかからぬ

と、いいたいことであろう?」

「ああ」

それくらいは判る。

だが、何故に不知火には

男の気配さえ感ぜられなかったかということである。

腕を組む不知火になる。

「何で・・わしにはかんぜられなかったか」

短気を起こしそうになる。

だいたい向うの好き勝手であろう。

むこうの都合でしかないことで

己の法力の優劣を色分けされるようでクソ面白くない。

「だいだい、もともと、むこうのかってであろうが」

短気は長く考えさせられる事を阻む。

不知火も己にうだうだとけちをつけるほど、

意固地になれる男でも無い。

「不知火のいうとおりだ」

「・・・」

ひょうたんから駒か?

わかるものかと、ねをあげたとたん。

それでいいといわれた。

「ふ・・ん?」

「わしが思うに、塚の男は己の思いを託せられる者を

さがしていたのではないかとおもえる」

なるほど。ならばこの不知火。薄情ものである。

生きているわが身さえままならぬのに、

死んでも、まだ、生きている人間になんとかしてもらおう?

あまえたことよ。

そんな甘えた思い方だから死んでしまうのだ。

いきていきおおして、精一杯生き抜いたら

存念も執心ものこらぬ。

遣り残した物があるうちは人は死なぬ。

死んでもやりとげる。

誰かにたよったりはせぬ。

だれかにたよったら、出来ぬ自分こそ死人であり、

自分の代わりに事を成し遂げてくれる物が自分になる。

情けない。

自分が自分である以上、人にはなれぬ。

こと一つ成し遂げられず。

おのれはどこにいる?

生きてもいない自分を捜すのも仇であろう?

だから、この不知火にどうにかしてくれなぞ

と、

いう考えをおこすほうがおかしい。

不知火が言うのはむろん。

死んだ人間にたいしてである。

生きようとする人のたすきは

いくらでもしてやる不知火である。

八十姫の怨亡をしったときにも、

不知火がまず思った事は調伏か払いか塞ぎ。

これしかおもいつかなかった。

存念をどうにかしてやろうなぞという気はない。

生きておるうちに精一杯おのれをいかしてやらず、

死して存念を残す?

甘えるのもいいかげんにしろ。

自業自得さえかこつけられず、往生際悪く

生きている人間に頼ろうという思いはもってのほか。

ましてや、生きている人間の命にまでてをかける?

死者の驕りもいいとこである。

こんな不知火という、箸に小松菜はひかからぬ。

ひかけてやるきもない。

「で?」

自分の考えはこうであるが、

向こうはその考え通りにはうごかぬ。

「法祥が・・・かぶった」

「なるほど」

白銅の説明を待たなくても考え付く。

「法祥には、怨亡になったおなごがとりついておる」

「しっておる」

「八十姫はそれをつかうきでおるし、

塚の男は法祥のいわくにすがってゆく」

「からめられるだけであるの」

「兵馬がそれにきずいての」

「兵馬が?」

「何とかしてくれと、いうてきたわ」

不知火は首を振った。

「むりじゃろう」

「わしもそういうた」

「ふ・・む」

どうにもならぬ。

こうなると、八十姫を成仏させられるのは

法祥の女子だけであろう。

急いた八十姫が法祥の女子に目をつけたのは

よかったことかもしれない。

が、法祥の女子は法祥を護るためにも、

八十姫ごと成仏をもくろむ。

法祥が一人生き残るわけはない。

法祥は女子と共に死のう。

そして、八十姫も女子も塚の男も法祥も

綺麗にこの世からきえさる。

だが・・・。

そうなると。

兵馬はどうなる?

あれの存念こそ、兵馬自身は括弧と意識してないが、

八十姫との交接によって解脱させられるものである。

その八十姫がこの世からきえはてれば。

兵馬はずっと・・・さまよう?

「おい。おい」

不知火の考えをみぬいたのか、白銅も考え付いた事だったのか。

「そうなのだ」

と、うなづいたのである。

「よわったの」

兵馬の事も気に入らぬ死人のあまえではあるが、

かかわった不知火である。

乗りかかった舟が棹さして、動かぬ。

情に絡めば、棹が振れぬどころではない。

「その辺りに兵馬はきがついておるのか?」

「いや。法祥を死なせたくないばかりの兵馬だったから

たぶん」

きがついておらぬということか。

だが、いずれ、わかることである。


不知火は朝餉を食い終わり、茶をすすっている。

頭の中では、兵馬が右往左往している。

「ひのえ。おまえはどうおもう?」

ひのえは不知火の茶をつぎたしながら

「不知火がかんがえついているとおりにするしかないかと」

「そうか、おまえも・・そうか?」

白銅もだまってうなずいてみせた。

「そうだの」

考え付いた事は。

八十姫もろとも、女子を成仏させるためにも、

法祥が女子を抱く。

その刹那に兵馬が法祥の中に入り込む。

これしか考え付かなかった。

肉体のない兵馬を八十姫は求めはしない。

だが、逆の見方をすれば

兵馬は法祥の肉体を八十姫もろとも

えじきにするようなものである。

兵馬はその痛みにたえられるだろうか?

己の業の深さにいたたまれなくなれば

兵馬は成仏できはしない。

新たな悔いが存念になりかわる。

「できることだろうか」

「わかりません」

ひのえがこたえると、白銅は何か、口を開きかけたが、

く、と口を結んだ。

「なんだ?」

目ざとい男であるのは昔からだ。

「いや」

言い渋る白銅である。

「いうてみろ」

「う・」

「なんだ?」

白銅は

「どうかなとおもうただけであるがの」

と、前置きした。

「なんだという」

「兵馬がどうこうより先に、法祥が・・その」

「なんだ?」

「己と共に自分の女子を

他の男にだかせる気になろうかの?」

「あ」

白銅ならではこその、男心への危惧である。

「だが。兵馬が抱くのは八十姫であろうが?」

「そうだが」

見た目は法祥の女子なのだ。

思い一つでしかないことである。

が、ここに着た兵馬は茶飲一つもてなかった。

「思いを受ける気にならば、茶飲み一つとてつかめる。

それが判らぬ男が真に八十姫への思いだけで

八十姫をだけるかということだな?

法祥の体をかりて、法祥の女子を抱かれては

法祥もたまらぬわの。そういうことだの?」

「ああ。まあ・・そういうことだ」

「それならば、問題は兵馬が心底から

八十姫をだいてやるきになるということであろう?」

「ああ」

「己の成仏のためでない。心底八十姫を哀れと思い、

己の肉をくらわしてやりたい。このおもいだろう?

その思いに至れば、確かに兵馬も法祥の死を値にできる」

「そうだとは、おもうが・・」

「兵馬をかえるしかないということだの」

矢継ぎ早に話を畳み込むと不知火は立ち上がった。

『兵馬におうてみる』

ここからが、はじめである。

この始めをつけるしかない。

不知火を見送るひのえの瞳が痛い。

『お前をくるしむのはみとうない。

なんとかしてやりたいのだが・・』

兵馬が詰った、思いこそひのえをせめている。

法祥をいかせしめたい。

生きる気にしてやりたい。

生きる事を選ぶ法祥にしてやりたい。

これがひのえのくるしみであろう。

だが、法祥の心の闇は伊予を追う事でしかはらせないのだ。

『すまぬ・・どうにもしてやれぬ』

ひのえの痛みを庇う男に頭を下げると

不知火は外にとびだした。


兵馬がどこにおるか。

不知火は手繰った先にむかうことにした。

不知火が手繰った先が妙である。

兵馬がいる先は兵馬の木乃伊を安置したあの堂である。

「なるほど」

兵馬の考え付いた事に思い当たる不知火である。

法祥を救えぬか?

この思いから兵馬の思いつくことといえば。

『しかし・・・やはり・・・・阿呆じゃ』

堂の前に来て見れば、堂を遠巻きに人が耳をそばだてている。

朝早くから伝え聞いた木乃伊を見物しに来た者たちであろう。

堂の扉は錠をかけられていた。

扉の隙間から中を覗きこんでみた者達は

一様に驚愕の色をなす。

干からびた木乃伊が台に安置されていた。

誰かが白装束を夜具のように着せ掛けてやっていた。

それでも白装束から突き出た顔といい、

首筋といい、十分におぞましい様を呈していた。

「朝はようから物見だかいのものだの。」

物見高い人々が、堂を覗き込もうとせずに

遠巻きにして固唾をのんで堂を見詰ている。

皮肉った言葉を投げかけ、閑心ぶりを揶揄すると

「あ。不知火さん」

と、声をかけられた。

「つまらない者を眺めておると。

お前も八十姫にとりくらわれるぞ」

男はぶるぶるとくびをふると

「み・・木乃伊がうごきだしておるのです」

八十姫が事なぞは

とにかくは妙な女に触らねばすむことであろう?

ところが堂の中の木乃伊はうごきだしている。

幸い扉の施錠のお陰で木乃伊は外に出てこれない。

それをいい事に

気のせいだ。

動いている気がしただけだ

と、強気で確かめにいったものが皆、舌を振るわせた。

「うごうごうご・・うごき・・うごき・・」

先に見に行った者は頷くだけでよいが。

見ておらぬものは、自分も見に行くかどうかを考えてしまう。

見に行く勇気のない者は、木乃伊の動く気配と音に耳を傾け、木乃伊が動いている事を確証しようとする。

『よわったものだの・・人心をまどわすだけでないか』

兵馬に舌打ちをすると

「鍵をとってこぬか?」

誰ということなく声をかける。

「はあ?」

「不知火さん?どうなさるきで?」

「いけない。そりゃあ、いけない」

木乃伊が外に飛び出して人を襲い始めたらどうする?

勝手な推論と恐れで誰も動こうとはしない。

「あれは人をおそわぬ。あれはむしろ、己が襲われるために

木乃伊の中にもどったのじゃ」

「おそわれるって?八十姫にですか?」

さとりのよいことであるが、

言った男は不知火のうなづくのをみて、ふきだした。

そうであろう?

いくら八十姫がうえているといえ、

あんなおぞましい木乃伊なぞをくらうきになりはしまい。

「そうなのだがの」

だからこそ、役立たずの木乃伊を何とかしてやらねばならない。

「わかりました」

輪の端のほうから声が上がると男が一人はしりだした。

堂は領分の庄屋の直助老人がまもっている。

坊主がおらぬようになってからは、鍵も掛けずにおいておった。

時折、村の集会に使ったりする以外は旅人や托鉢僧、

時に村人の中でなれ初めおうた男女の逢引の場所に

使われるのを承知してあけはなっておいたのである。

「直助のところだぞ」

走り去る男に念のためにこえをかけた。

「わかっております」

在所の者なのであろう。

木乃伊をみにきたというより、

井戸掘りの続きにやってきたところであろう。

ところが、これが、また

木乃伊騒ぎとなったということであろう。

『だいたい、直助老人が鍵を掛けたのは

木乃伊のためではなかろうにの』

人の心の物見高さ。

他人の不幸を見物するあざとさを直助も嘆いたのであろう。


堂の鍵を開けると不知火は中にはいりこんだ。

木乃伊の中に入り込んだ兵馬が不知火をみるより先に

「あほう!」

不知火の一喝がとどろいた。

「ふやあ」

おそらく兵馬は「ひええ」と、声を漏らしたつもりであろう。

声帯も干からび、声が声のままに発音できもしない。

「ばか者!」

「ふぃい?」

なんで、馬鹿だの阿呆だのといわれねばならない?

だいたい、自分の身体に戻っただけでないか?

それだけでないか?

兵馬のどんよりしたまなこを覗き込んだ不知火である。

薄ら見っとも無い身体を隠すように白装束を

まといつけた兵馬は、不知火に叱りつけられ、

わけが判らぬとばかりに

目をぱちくりさせたい所であろうが

それさえも敵わず、まなこがよどんでいる。

哀れも無様も通り越しておかしくなってきた。

「ほんに・・おまえは・・あほうじゃ」

「られど」

こんな干からびた木乃伊の身体に戻るには

兵馬なりのわけがある。

「わかっておるわ。だからお前はあほうなんじゃ」

兵馬は法祥を救おうとおもっただけである。

そのため、八十姫をこちらにむけようとおもったのである。

「だから、おまえはあほうなんじゃ」

兵馬の心を見透かしながら、不知火は

「お前では、八十姫を成仏させることはできぬ」

「ふぃ―ー」

「法祥をすくうてやりたかったのであろう?」

ぎしぎしと木乃伊がうなづいた。

「八十姫が仮にお前を食うために

法祥の女子を解いたとして」

「・・・」

返事をするのも大儀な身体である。

「お前をくろうたら、また、法祥の女子のところに戻らぬか?」

「うえっ?」

「成仏できぬのだ。八十姫を成仏させる事ができるのは

いま、あの法祥の女子だけなのだ」

すると。やはり・・・。

法祥は伊予とともに八十姫を成仏させ

己もとりくろわれることになるのか。

だが。

それを八十姫もねがっておる?

姫の底にある一縷の正気が己を成仏させてくれる伊予を選び、すがろうさせる?

『わしではすくえんのか?』

兵馬の残念な呟きがきこえてくるようであった。

ぎしぎしと手が動き、

乾ききったまなこからでるわけもない涙を拭う兵馬であった。

不知火は兵馬の思いをたしかめる。

「お前が救いたいのは。法祥なのか?八十姫なのか?」

この身体も無駄と判り、喋る事もままならぬと

兵馬は木乃伊のなかからでてきた。

「どうなのだ?」

元の幽体に戻った兵馬は、かぶりをふった。

「私は、どちらも、すくいたかった」

法祥に康輔の思いになれといわれた。

康輔の思いになれば、八十姫も救えるのだとおもえた。

だが、それは所詮

己の思いをすくう手立てにすぎなかっただけである。

「そう、できぬのだ」

兵馬が考えた事は確かに兵馬をすくうだけのてだてである。

が、この思いが有らばこそ

八十姫が兵馬をもとめてくることではあった。

伊予に同体している八十姫を兵馬の思いで

ひっぱることはできたことであろう。

しかし、それだけでは八十姫は成仏できはしないのであるが。

『もっと、はよう。そう思えば、

八十姫の成仏如何に関らず、

法祥の事にも気が付かずにさっさと成仏できただろうに』

兵馬のお人よしの性格が、元の死因であるが、

上手く成仏できなかったのもこの性格のせいである。

「生きる事がへたくそな男は死ぬる事もへたくそか」

不知火の呟きがきこえたのだろうか。

兵馬はおいおい泣き出し始めた。

「私は自分さえ救えぬ大ばか者のくせに、

法祥さんを姫をすくおうなぞと・・・」

不知火は黙って兵馬の嘆きを聞いていた。

兵馬を成仏させる算段は白銅にはなしたとおりであるが、

不知火の算段が上手くいったとしても、

このままでは兵馬の法祥への存念が残りそうである。

死んだ人間が死んだ人間を悔いてこの世をさまよう。

『あの世で彷徨え』と、いいたいところであるが、

存念というものこそがこの世の所在なのである。

思いこそが基で人は生きているのである。

この世は思いで成り立った世界といって過言ではない。

あの世は執心無縁。

思いは無に帰す。

やはり、いずれにせよ兵馬はさまようことになるのか?

ひいひいと泣く兵馬をたたせると、

「この身体どうする?」

と、木乃伊を指した。

本来はひのえに尋ねることだったのであるが

不意に不知火の口をついて出た。

「みにくい・・ですな」

冷静になってみてみれば、

こんな醜く不味そうな木乃伊の思いに掛けて喰うよりは、

それは若い生々しい法祥の方が随分うまそうである。

「あほう」

「あははは」

なきわらいをみせた。

が、

「やくにたちませんよね?」

と、不知火にたずねかえした。

「おそらく」

人心をまどわすことしかできまい。

要らぬ僑心をおあるだけである。

「もやしましょう」

あっさりといいきった。

「よいのか?」

「本来なら、すでにないものでしょう?」

八十姫のにえにかかったばかりに

木乃伊になったからだである。

普通の死人なら既に骨しかないのではなかろうか?

「そうか」

せめて、身体だけでも成仏させるかと、いうところであろうか。

外に出ると、堂を遠巻きにしている連中にこえをかけた。

「木乃伊を陀部に付す。用意しろ」


赤々と燃える火を人々は見詰ている。

炎の真中の黒い物体は

いきなりぐーんと反り返ったかと思うと、

全身に火がつき体から炎を噴出した。

「よう・・もえますな」

「乾いた木よりよほど、脂もあるし」

「まさに業火のさまですな」

話の種が消えさるが、消え去る様もまた話の種になる。

「やれんのお」

面白半分に群がる姿、人の心。

今の兵馬には程遠い。

不知火も兵馬も幸せな人間の気楽さに

さむざむとさせられていた。

とにかく、人々には木乃伊は成仏したとおもいこませた。

「なんまんだぶ」

と、唱える人々の目の中の好奇は

念仏をおまじないにさせている。

回向に程遠い呟きを口に乗せ、

己の薄さへの微かな痛みをなだめている。

自分への念仏にしか過ぎない。

『どちらが、すくわれるべきことやら』

これが生きている事であるのかと思うと、

尚更に康輔の思いに習えといってくれた法祥が事が胸に響く。

『貴方こそ死を持って、すくわれてはならぬに』

その法祥が死を持っておのれをすくうとする。

孤高というか、崇高というか律儀というか。

『ほれるということは・・・そういうことですか』

伊予の元に旅立つ事が法祥にこそ、すくいなのであるか::。

一人孤独にこのよに残って、生きる法祥は

あの木乃伊のように哀れで無様なものなのかもしれない。


ぽつねんと立ち尽す兵馬をみていると、

百舌のはやにえにかかったとかげが

木の枝で干からびているのをおもいだされた。

はやにえといわれる百舌の行動はどうにもならぬ習性である。

勇んでにえを作るが冬に、

このにえの事をおもいださぬこともある。

風にひゅうひゅうとふきすさばられる木の枝に、

にえがゆらゆらうごめいているというのに、

百舌はきがつきもしない。

さきまでの兵馬がそうである。

捕食された運命を享受したあと、とかげは木からおちた。

くわれもせぬで、土の上でかびむし、

役にも立たぬ身体は消滅してゆく。

軽くしたうちをすると

不知火は兵馬を呼んだ。

「わしがところにこい」

情けない顔のまま兵馬は振り向いた。

「法祥が事はどうにもできぬ」

「は・・・い」

諦念を託つのもなれたものなのか。

己の非力、無力をさとりすぎたか。

声まで憔悴しきって、兵馬は不知火の後をついた。


荼毘に付された木乃伊を

堂の東南側のむくろ寿の木の根方に埋めてやるように

指図する不知火に

「それでおわりですか?」

と、男が尋ねた。

あまりにも粗末な祭りである。

「渇きを癒す明神になるだろうからの、

その場所に御手洗をつくってやれ」

「はあ」

「むくろ寿がこかげをつくってくれる。よい場所じゃ」

まだよく判らない。

「明神になるんですか?あの木乃伊が?」

「命をなげ与えて、八十姫の渇きを癒した木乃伊じゃ。

尊ぶ心で祭ってやらば必ずや護ってくれる」

「はああ。有難い者にかわるものですな」

半分は嘘である。

そうでも言っておかねば木乃伊が事を忌みだしかねない。

間抜けな木乃伊の話と語り継がれてしまっては、

兵馬の本性とかけはなれている。

まして、人の心を奢らす話を

咲かせる役に立たせるのもよくない。

一つ、裏を返さば、徳心を諭す、木乃伊の話になる。

この方がどれだけ、人の役に立つか。

「はああ。いやあ・・死んでありがたき木乃伊かな、ですな」

句をひねったつもりであるらしいが上句がない。

木乃伊につけた、ありえないことという有難きと、

尊いという有難きの掛詞がよくきいているのであるが。

「上句が出来たらおしえてくれ」

この句が気に入って上機嫌になっている男を軽くいなすと、

不知火はあるきだした。

人がおらぬようになると、ありがたい木乃伊になった兵馬が

「そうなんですか?」

いきなりそうなのかといわれても、なんのことやら。

「な、なんじゃ、藪から棒に」

「いえ、あの、ほれ・・明神に成るって」

「ああ」

いささか、あきれた。

こっちの僑心をほぐすつもりでいったことではない。

またも、あほうといいかけて不知火は黙った。

仮に兵馬が法祥への心残りで成仏できねば、

ここで明神になっておるのも一手かもしれない。

だが、その前に法祥とともに死出を行く事をえらぶかもしれぬ。

伊予に取り付いた八十姫を

抱けるだけの心根はみせてもらった。

あとは成仏する法をとかねばならない。

うんというだろうか?

見た目は法祥の女子である。

白銅の懸念することを法祥がうんといったところで、

兵馬がここまで法祥を思い始めている。

兵馬が法祥の男心を考えるだろう。

法祥より兵馬の方がうんといいはしない気がしてきた。

「どう・・さとすかの」

「はい?」

独り言が兵馬にもれたようである。


屋敷をくぐる前に不知火は庭に回ると、

咲き誇る沈丁花をきりつまんだ。

「なんです?」

出してきたはさみを板戸の端におくと

「かざるんじゃ」

と、兵馬にこたえた。

「へ?」

兵馬はしらぬが、この男は風流を解する。

茶も立てるし、花も活ける。

もさもさした風貌のどこにも

風流のふの字を匂わせないのであるが。

よく見れば、庭もよく手入れされている。

この男がてをいれているのである。

「はあ。ひとはみかけによらない」

不知火は花を手に持ったまま枯山水を

模倣する池のまえにたった。

兵馬もそばによってはみたものの。

不知火の沈黙がいたい。

なにをかんがえているのか。

尋ねてみるのもはばかれる顔つきをながめるしかなかった。

「兵馬。この池でなにをみるかしっているか?」

突然、口を開いた不知火が尋ねた事は、

また、沈丁花を持つ男と無関係すぎるきがした。

「池?花は?」

花を池にでも飾るきなのか?

面の丸い細石(さざれいし)を敷き詰められた池は

もの寂しくみえる。

こう、かんがえると池の中に見るのは

「寂しさですかな?」

「そうか」

不知火は頷くと

「池の形はの、心という字をかたどっておる。

池が見せるのは、心の様かの」

置石が心の字の点の場所に配置され

足元には心のしんにょうがなだらかな弧をえがいていた。

「なるほど」

たしかに、心という字を象ってある。

「まあ、はいろう」

表に回り屋敷の中に入り込むと、庭に面した座敷にあがる。

床の間にはすでに花が活けられている。

兵馬には何かわからないが白く小さな花弁が

枝いっぱいにつらなっている。

その隙間に沈丁花を投げ込むと、

白い花が一層沈丁花の薄赤紫に映えた。

不知火の手が僅かに形を整えると

いっそう可憐な白い花がにぎやかにみえた。

不知火は座卓の前に座ると兵馬に前に座れと手をこまねいた。

促され兵馬も座った。

静けさが脈をうつようである。

「寂しいというたの?」

やがて、不知火が発した言葉である。

「あ・・ええ」

池の事である。

「確かにいいました」

「なぜなのか、わかるの?」

心を映す池を寂しいととらえる裏側を

兵馬が一番わかっている。

「ええ」

早にえはその役目も果たさず、荼毘に付された。

あまつさえ、法祥の死をあがなう事をとめられもせぬ。

生きていても甲斐ない兵馬は死して後も甲斐ない。

宙ぶらりんの己の存在がうとましくさえある。

「成仏するきはないか?」

どうやって?

不知火の言葉に寂しい笑顔をうかべてみせる。

己の存在を病んでくれる。

それだけがうれしくもある。

兵馬の左右に振られた顔が成仏をも

あきらめていることがみてとれた。

「お前はお前の事だけを考えぬか?」

不知火の言葉はありがたい。

法祥の事も、伊予の事も、八十姫の事も

何も考えず己の成仏だけをかんがえればいい。

「ありがとうございます」

自分を赦し、己だけを考えてやれば良い。

それでいいではないか。

心にひっかっかった者たちのことまでわずらうことはない。

ただ、執心無縁。

それだけに徹せればよいでないか?

「ありがとうございます」

兵馬はくりかえすしかない。

こんな瑣末な己の行く末を案じてくれる

不知火の心だにありがたい。

「それで・・の」

それでも、兵馬は涙が湧きそうに潤んだ瞳を不知火に向けた。

「お前が成仏できるてだてがある」

「はあ」

気がかりを残したまま成仏したいなぞという気にも

なりはしないだろうがという不知火の心が

躊躇いがちな言葉の中に見え隠れしている。

「だがな、要らぬ心配を掛けるのは事実であろう?」

飄々とおき楽にこの世を彷徨う兵馬の姿は、

見るものにはあわれなものである。

哀れと思う最先はあの法祥である事は無論であるが

ひのえ、白銅、いわんや、この不知火にとってもおなじである。

おればおるほど、兵馬の存在は負の容積をふやすだけである。

「成仏したのと皆を安心させろというのですな?」

ただ、彷徨っているだけならまだしも、

人の心に瑣末な思いを生じさせる役にしか立たぬ。

それなら、いっそ何の役にも立てぬ方がましなぐらいである。

「そうです・・ね」

寂しい・・・・。

あまりにも寂しい己の存在価値である。

「わたしは・・・」

兵馬の顔がくしゃくしゃになった。

「死んでおるのです・・よ・・ねえ」

死者にあるまじき己の姿である。

わかっているが・・・。

せめても死をあがなう価値さえ見出せず・・・犬死。

これ以上いきていること、

いや、ここに存在する事が既に仇になる。

「仰るとおりです。これは・・さ・・び・しい。

あまりにさびしい」

「兵馬・・すまぬ」

「いえ」

不知火が振れる唇をかんだ。

男不知火。こんなことでなきたくはない。

が、

兵馬が差し出した手に不知火の涙は落ちた。

「すまぬ・・兵馬」

不知火に聞かされた事を兵馬は何度も考えている。

役にも立たぬ存在が余計に人々の心を患わせる。

それはわかった。

いや、わかっている。

で、なければあの身体を燃やすきになれぬ。

あたら、悲しい実在の存在。

木乃伊が人の心をくるしめる。

人の心に起きる僑心ばかりが、問題でない。

思いを昇華しきれぬ姿は人々に

極楽往生はないものかと、おもわせるだけである。

だからこそ、兵馬は木乃伊をもやすことをえらんだ。

だが、己の存在自体もそうである。

極楽往生のない姿は人心をおとしめる。

成仏する。それだけが己の道である。

わかった。わかっている。わかったといっている。

だが、不知火から聞かされた成仏への法。

これが、兵馬をあしぶみさせている。

「八十姫をだくしかない」

不知火はいった。

だが、どうやって?

兵馬の問いが聴こえたかのように

「法祥が」

と、不知火は続けた。

「法祥が女子をだく」

八十姫と同化した女子を法祥が抱く時に、

兵馬が法祥の中に入り込んで同じに女子を抱けという。

「それで、お前は成仏できるはずだろう」

いわんや。

それでも、駄目なら、

死を持って飢えを充たした法祥への思いがのこるなら、

法祥の徳を思い、飢えを充たす明神になれ。

不知火の言葉が胸にささくれる。

できるわけがない。

法祥が思い一心。

死をかけて追う女子を、

法祥を、

汚し、利用する?

己の成仏のために?

役にも立てぬ男は、死ぬ事さえ

かくもあざといやり口でしか死をえらべぬものなのか?

溢れる涙が頬を伝う。

情けない存在はかくも情けない死にざまでしか

己の最後をあがなえないのか?

「わしは・・・あほうじゃあ」

自分を責める言葉を何度繰り返してみたところで。

この幽体が、自然に消滅しはしない。

「わし・・には・・でき・ぬ」

死ぬ事も生きる事も罪である。

既に、ここにある事も罪である。

頭を抱え込む兵馬に

「執心無縁。それしかない。お前次第だ」

不知火が最後にいったことばである。

自分さえ執心無縁になる。

それだけを考えるしかない。

不知火の言葉は真実であろう。

だが。

できるわけ・・・が、ない。

伊予を通して八十姫を抱く己の心は、

欲望をあがなわれる事を望むだけの虫けらである。

あまりにも・・きたなすぎる。

そんな心が己の成仏の基程か。

法祥が伊予を思う心におのれを重ねる事さえいとわしい。

膝を抱き、兵馬は無言になった。

不知火は兵馬の決心を兵馬にゆだねるときめている。

ぽつねんと膝を抱く

兵馬は夢想の中に己をにがすことしかなかった。

「どうにも・・・ならぬのか?ほかに法はないのか?」

考え付かない事を考える事から、逃げ惑う兵馬は

叱られ神経を病んだ幼子のように

眠りの中ににげこんでいった。

眠りの中が自分の安らぎの場所である。

現実から逃避して、己に向かい合わない世界に

兵馬がにげこむしかなかった。

だが。

時はいやおうなく兵馬をおいかけてくるだろう。

不知火はだらしなく眠り込んだ兵馬に一瞥を渡すと

自分も兵馬を見張るがごとく

見守るがごとく兵馬の側に身体を横たえた。

遅くまで井戸を掘った疲れが不知火を襲い、

不知火が軽いいびきをたてはじめていたことに

不知火がきがつくわけもなかった。


兵馬だに救えない・・・。

寝苦しさが法祥をうがつ。

兵馬さえ救えない。

そんな己が何もかも振り捨て伊予を追う。

「兵馬・・が」

呟きは夢をさます。

だしぬけ。

起き上がると法祥は兵馬を探した。

どこに消えたか。兵馬は居ない。

「兵馬」

呼んでみたが、兵馬は現れなかった。

変わりにあらわれたのが伊予である。

「う・・」

伊予は法祥の前に現れるとしっかりとぬかずいた。

「もう、おわかりでしょう?」

「ああ」

伊予の想いはわかる。

伊予が八十姫にとらわれているのもわかる。

「そ、そ、それでいいのか?」

「貴方がおきずきなら」

伊予は法祥に抱(いだ)かれる事をのぞんでいる。

「お前はおらんようになるのだぞ」

「はい」

八十姫もろとも成仏させろという伊予である。

「わしへの思いものうなるのだぞ」

「はい」

「本当に、それでいいのか?」

頭(こうべ)を振りかけた伊予であるが、

しっかりと法祥をみすえた。

「わたくしは」

伊予の言葉が僅かにとまどうた。

「なん?」

「私はあの時」

伊予は語らう。

あの時とは弥勒池に身をとうじたときのことである。

「人が死ぬ時、この世の一生をかいまみるといいます」

伊予は身じろぎもしなかった。

「私の一生がみえました」

法祥は目をつぶる。

てて親に愛され、母親に愛され

美しい娘に成長した伊予が見える。

「貴方にめぐりあいました」

深く項垂れたまま伊予の話を聞く。

「ならぬ恋と知りながら、焦がれる心のまま・・・」

伊予は涙ぐんだ。

どんなに法祥を求めても心は充たされぬ。

「生きていても決して結ばれない」

求めれば求めるほど、共に生きられぬ運命が

二人を嘲笑うばかりであった。

「弥勒池に身を沈め、これで二人が結ばれる。

選んだ結末を褒めてやりたい私でした」

それなのに、法祥一人いきおおした。

「いえ」

伊予は悲しい手を組み合わせると

法祥に継げる言葉を選ぶようだった。

「私は私の一生を見るその時に貴方の先行きをも

みえてしまったのです」

既に死に遂げる二人でなかった。

伊予には見えていたことだという。

「貴方は私をなくし・・・」

彷徨うた。

いまでも、彷徨うている。

「悲しみを癒す時」

伊予が悲しく瞳を閉ざした。

「貴方はこの・・・」

伊予は自分の胸の中を指差した。

「こにおる八十姫にとりくらわれると・・・」

伊予のいう事は死の瞬間に法祥の定めを

みすえたということであろう。

伊予は法祥を見る。

「そんな事はこの伊予がゆるさない」

そうなのだ。

伊予は法祥を生かせ占めたい。

その心だけなのである。

「だから」

「わかっておる」

伊予は八十姫もろとも成仏する事で法祥を救おうと決めた。

だが。

「伊予」

求める心はあまりにもあわれである。

伊予を求めたい。この心は端からある。

だが、それをすれば伊予はおらぬようになる。

伊予がおる。

それだけのために法祥は己のいとしさを埋め去った。

求めつくしたい女子に触れもせず、心だに伊予を受け止める。

この寂しい逢瀬をどんなにか打ち破り

生きていたままに伊予をだきしめてしまいたいか。

いとしさが男根をどんなにいこらすか。

この身体でいかほどに伊予にいとしさを

さらけだしたかったか。

だが、それをすれば伊予が消える。

法祥に身体は欲を失うたかのように、

欲情を忘れる事に勤め上げた。

「わかっております」

「伊予」

抱いてしまいたい。いっそ、一思いにだいてしまいたい。

「だいてください」

「伊予?」

「よいのです。これで」

「伊予」

「思いをこめ伊予を・・」

いわれずとも。どんなにか、だきつくしたいおなごであろう。

膨れ上がった一つになりたいという思いを、

いかに欲情する女子が伊予しかおらぬという事を

しらせしめたいか。

「伊予・・・」

法祥は伊予をおう。

その心が定まると、ついと、いとしき女子に手をのばした。

「よう・・おぼえておけ」

命を掛けてだいてやる。

この男が伊予に与える喘ぎを、

いとしくてたまらぬこの所作に、喘ぎ見せて

その体に起こる甘やかな疼き、一つ一つが、

法祥が伊予に与えうる想いのすべてだと。

手を絡み付けてくる伊予を法祥は寄せ付けると、

生きていた頃のように最初にその口をすすった。

身体の力が抜け切り、法祥の女子である事を

見せつけるかのように伊予は

法祥の次を待つ女子になっていた。

優しい愛撫が伊予の裾を乱れさせてゆく。

指の形さえいつくしむかのように伊予のほとの肉は

法祥の愛撫に応え指にからみついてくる。

あの時の伊予そのままだった。

求め求め、求めつくし、いかに応え応え、応えつくす。

一つの欲望に解け合う美しい生き物は固まりになり、

想いは二人の喘ぎの頂点を目指す。

「きもち・・よ・・い」

伊予の喘ぎはせめてものさまを法祥にうったえる。

「伊予・・・わしも」

ふたりの思いが同じひとつの想いに溶け合いはじめる。

この瞬間が、違う肉体を具有する二人が

ひとつになるときである。

「あ、ああああ」

霞み行く自意識が快感になだれ込む瞬間。

「兵馬・・・こい・・・」

確かに法祥が兵馬を呼んだ。


きこえる。きこえる。

きこえた。

たしかにきこえた。

法祥が自分を呼んでいる。

兵馬は自分を呼ぶ法祥の声が何を意味するかわかっていた。

身体を揺さぶるように起こし兵馬は

声の聞こえたほうに心を傾けた。

伊予をかき抱く法祥の悲しい喜びがむねにつたう。

いとしい人と思い一つに結ばれる法祥がみえる。

思い一つしかないはずの法祥が兵馬をよんでいる。

この身体を使い今こそ八十姫への存念をはらせ。

法祥のせつなのどこに兵馬を哀れむ気持ちが

わいてくるのであろうか。

優しい男だけでない。

伊予を真に思う男は兵馬の中の八十姫への哀れみをも

十分すぎるほどに解していた。

真に女子に惚れる男はこんな男の劣情にまで思いをはせる。

「いいえ」

兵馬は頭をかきむしった。

くるしかろう。

想う女子の横顔を見るのはかなしかろう?

抱く事が女子を潰える。

兵馬はまだ、よい。

この自分がついえるのである。

胡散霧散するのはじぶんである。

法祥は伊予が潰える事を知って抱く。

その苦しさを八十姫が救うてくれる。

まだよいかもしれぬ。

だが、この兵馬は消し去る苦しみさえない。

死を選ぶ心に、ほどとおい、あまりに薄い哀しさである。

八十姫をだいて、おのれが救われる。

その先になにがある?

法祥と伊予の心の融合のかけらもない。

性をはたきこんだ頂点だけが己を満足させる。

そして、執心無縁?

何と言う不埒な心で法祥と伊予にもぐりこむ?

できぬ。それだけはできぬ。

法祥は伊予の自然をよしとする。

伊予の自然とは死んだ人間が誠に死ぬ。成仏を言う。

だから、この兵馬もまた自然に帰してやるというてくれている。

法祥が覚った事は兵馬のあるべき姿であろう。

だが、意識を持ちこの世を死人としていきぬいた

僅か三日が兵馬を変えた。

生きた価値がなかった己がせめて死ぬ価値になりたい。

それが八十姫を抱いて己の存念をはらすだけ?

伊予と法祥の結びを

道具にするだけ。

できぬ。

頭を抱え込む兵馬はおのれからにげまどっていた。

往生際が悪い。

ひとことでいえば、それでしかない兵馬の身体を

つかみたたせるものがいる。

「な?」

兵馬の身体をつかめる者がいるわけがない。

が、白くくすんだ光りのもやに包まれた存在が

実態を明らかにしながら兵馬の胸倉を掴み、

その頬をぴしゃりとならせあげた。

「あ・・え」

初め不知火かと想ったが違う。

もやが静まる中に立ち尽くした男が平手を返して叫んでいた。

「まだ、わからぬか?」

「あ、あああ」

噂に聞いた事がある。

冷たい瞳に漆黒の長い髪。

白絹をまとい、凍りつくような美貌。

その後ろに白蛇がまとわる影が出来る。

それが、白峰大神の姿なのである。

「え、ええええ」

なんで・・・。

「はよう、いけ」

白峰大神は兵馬の迷いをしっていた。

「今しかないのだぞ」

判っている。この機を逃せば

兵馬は永遠にこの世を彷徨い続ける事になる。

「けれど」

兵馬の心をどう言い表せばよい。

「不知火のいうとおりじゃ。お前は阿呆じゃ」

兵馬はぎょっとする。

不知火をも名指しで呼びつける。

だけでなく、

ここしばらくの兵馬と不知火の動静をも

みつめていたということである。

白峰大神。神と呼ばれる白蛇と玄武を護る陰陽師不知火。

このつながりも謎であるが、

白峰大神が姿をあらわしてまで、

いったい、どういう思いの果てにこの兵馬をうちすえる?

「まだ、わからぬか?」

「は・・?」

何を判れという?

「お前は今、わしにたたかれたではないか?」

「あ」

茶飲一つもてなかった兵馬に実体はない。

実体のない者は手を出される事も不可能。

法祥にも逆らいもした。

ところが、白峰大神は確かに兵馬をたたいた。

「兵馬。わしも実体がないのだぞ」

神ゆえの所作と考え始めている兵馬を白峰が否定する。

「あ」

実体の無い者が実体のない者をたたける?

「それでないか?」

「どういうことです?」

「兵馬。思いひとつなのだ」

「思いひとつ?」

思いが具象化する。

「お前が八十姫を抱こうと思いさえすれば

八十姫の思いをだける。お前の思いで八十姫をだく」

思いで抱く?

「お前は己ののうなった身体の変わりに

法祥の身体を使うと考えている」

「そ、そうで・・な・・い?」

まとまりだす考えの糸口がかすかにみえてきはじめている。

「法祥の中に入るのは、八十姫が伊予と同化しているから、

せざるを得ないかたちであろう?」

「そう・・ですが」

「お前は八十姫におうていながら、

伊予を想う法祥になるだけか?」

「え?」

わかってきている。だが、上手く見えない。

悟りがもやの中から浮いてきそうなのである。

「お前は、八十姫を想うてだいてやる。それだけで・・」

「・・・・」

「八十姫はお前の思いをくらうのではないか?」

そうなのか?

思い一つで、事を具象化できるのだ。

それをしらせたくて、

だから、白峰は兵馬を叩いてみせた。


単純に兵馬は悟った。

八十姫は兵馬の思いを喰らう。

兵馬も八十姫をだく。

この二つは想いの世界の中で起きる。

兵馬と八十姫のなかだけのことである。

身体という器に拘りすぎていた。

八十姫の思いがはたせるならば。

法祥が八十姫にくらわれることはない。

伊予は伊予でおそらく、八十姫もろとも成仏する。

兵馬もきえる。

あとは法祥が・・・ひとり。

いきてくれる。

伊予が、想いを、命をかけて護るのだ。

法祥は必ず生きてくれる。


兵馬の姿がふいに宙に浮かんだ。

いつかのように兵馬は時をこえ空間をこえ、

想い一つのかたまりになって、

法祥の元にとびこんでゆくのである。

兵馬が消えたあたりを眺めていた白峰である。

「きぜわしいおとこじゃ」

早とちりで、お人よし。

そのお陰でやっと行った。

兵馬には大きな勘違いがある。

八十姫の喰らいを自分に振り向ける事が

出来るのは事実である。

だが、それはあくまでも想いの世界の中。

事実は兵馬が伊予と交わる法祥の身体を借りるように、

八十姫が喰らうのは法祥の身体なのである。

「まあ・・よい」

白峰には白峰の策がある。

法祥の生死を伊予にかける気などもうとうない。

白峰大神と呼ばれる男が一か八かなどにかけはせぬ。

あとはなるようになる。

姿をくゆらせるかと想うた白峰がふと留まった。

べたりと床にひれ伏す不知火がいた。

白峰に気が付いた不知火は

事の成り行きを見守るしかなかった。

兵馬の想いを変えた白峰に、不知火が礼を示す姿だった。

「不知火。惚れた女子を泣かせとうなかったのは

わしがさきじゃ」

「はっ」

不知火がひのえをなかせとうないと、

思ったことを白峰は言っている。

「・・・」

だが、法祥は死ぬ。

ひのえの痛みを想う白峰への憐憫は不知火がことにでもある。

白峰は微かにわらってみせると、

すがたをくゆらせていった。

「同病相憐れむか」

白峰が消え行くをみおえると、

不知火は立ち上がった。

ひのえの元にいってやらねばならぬ。

事の成り行きを告げる。

そして、

白銅をまじえ、ひのえと共に

法祥のむくろを葬りに行ってやらねばなるまい。


不知火が来たわけが判るのだろう。

ひのえがうつむいている。

「白銅は?」

「荷車を借りにでております」

法祥の遺体を墓穴に運ぶにやくにたつ。

「てまわしがよいの?わかっておったのか?」

「いえ・・水を・・」

「ああ」

縁起でもないことに先回しをするわけがない。

ましてや、ひのえも一縷の望みを法祥の女子に託している。

八十姫が法祥を喰らう前に伊予が八十姫もろとも。

だが、喰らう前では結局八十姫の存念は残る。

喰ろうた。

伊予は八十姫の充たしの想いの瞬間をつかまねばならない。

「兵馬の想いを喰ろうた時に・・・」

八十姫の想いはみたされるだろう。

だが・・・。

その時はやはり既に法祥もくらわれている?

なにか・・・法はないか?

「白峰があらわれての」

「え?」

「兵馬が前に現れての。あれを行かせたのは白峰じゃ」

法祥に関った白峰であるが、兵馬の元にも現れるのが解せない。

「何をかんがえて・・・・」

「お前を泣かせとうなかったというておった」

「なかせとうなかった?」

ひのえが考えている事は井戸の柊二郎のときの白峰である。

このひのえを想い、護り、救うことしか念頭にない白峰である。

その白峰が、ひのえをなかせるしかないと

あっさりと諦めるのが妙でもある。

いや。

もっと、妙なのは不知火なぞに

弱い言葉をはいていることである。

はくわけがない。

神にあるまじき、因習をうちやぶり、

きのえの魂をふたつにわかたせ、

千年をかけた女子が泣くのを、どうにも出来ぬ自分である。

白峰の自尊心が口を裂けさせてもいわせはしない。

不知火に弱音を吐く暇(いとま)にさえ、

法祥の死ぬる間際まで、白峰は策を求むるだろう。

「たしかに・・・妙じゃな」

白峰が消ゆる時、微かに笑った。

不知火への憐憫と宥め。

女子を想う、果て無き男心のいじらしさに自嘲した

というわけではなかったというか?

「なにか・・ありますね」

すなわち、法祥を生かせるてだてがある?

瞳を塞ぎひのえは白峰をよみはじめた。

「ふう・・・ん」

不知火には読めぬ白峰である。

ひのえの浮かびをまつしかない。

だが、不知火も、井戸の柊二郎がことからの白峰を、

順おって考えてみれば判る事なのであるが。

不知火はひのえを待つ。

同時に法祥と兵馬をおもう。

今頃死体になりはてているのであろうか?

兵馬は成仏したか?

ひのえが策を探っている事が、

それはまだだといっていることだろう。

ひのえの姿は不知火に二人を読みすかす事をさけさせていた。


「あああ」

伊予の吐息がふかい。

法祥は伊予をみつめている。

最後の伊予はかぐわしい。

思い残す事もない。

「伊予」

八十姫が現れるときまで、存分に伊予を法祥にひたりこませる。

法祥の背に手を回す指先があらわしてくれる。

伊予の快さを知らせる法祥の背中の痛みさえ快い。

「伊予・・よいか?」

「ああ」

実を蠢かす動きは止むに止まれぬ恋情である。

「恋しい・・・こんなに・・恋しい」

慟哭に劈かれてしまいそうな。

狂おしい激情もこれで最後。

その刹那、兵馬を垣間見た。

『来や』

頷いた兵馬が確かに、法祥のなかにはいりこんだ。

『共にはてようぞ』

いとしい女子の中に命の息吹きをうめつくし

男は静かに眠ることができる。

「伊予・・・・・・・」

この時をどんなに長くあじわいつくしたいか。

果てそうになる肉欲をやりすごし、何度、兵馬を待ったか。

待つ事が堪えさせる。

快さに喘ぐ伊予は肩で息をし、

法祥の静をも、うけとめて共に兵馬を待った。

兵馬が事に想いを砕く法祥を解し

伊予も息を整えるだけのために息をついた。

生きとし生ける姿のままの伊予がいる。

情念は、生きた姿のまま、そのままの伊予を

法祥に与えつくしている。

『生きている』

伊予は今も生きている。

法祥への思いひとつで伊予はいきつづけている。

生きた姿のままの伊予を、法祥の思いがつつんでゆく。

「ああああああああああああああああ」

あくない、最後の高みにあえぐ女がいる。

法祥を包んだ伊予の肉がふるえだし、小刻みに法祥を揺るがす。

伊予のたかみは近い。

が。

「いとしゅうございましょう?」

己への愛心を確かめる八十姫が現れた。

うなづいて、己の快楽に身をゆだねれば、

そのあと、直ぐに八十姫が法祥をとりくろうてくれる。

「い・・と・・しい」

極みはもう直ぐそこまで来ていた。

だが、

法祥は伊予に先に与えつくしたい。

「伊予」

もう、ほんの少しで伊予も行き果てる。

「あ・あ・あ・あ」

間断される喘ぎは伊予の極みが

そこまで来ている事をかたっている。

「いまこそ」

現れた兵馬が八十姫をめがけていった。

ぐびぐびとほとをうねらす心地よさに八十姫がくるいはてる。

「ああ・・・ああ・・康輔」

くらわねばならぬ。

このいとおしさで康輔をくらう。

「ああ・・・ああ」

打ち放たれる精を受け止めるせつな。

八十姫は康輔をくろうた。

深すぎる高みは伊予の物である。

が、八十姫をも酔わせ、そのせつな。

伊予はきえた。

打ち放たれた精は確かに伊予にはなたれたというに・・・。

堂の中は静まり返り、

法祥・・・ひとり。

「い・・・伊予ぉ・・・なんで?」

なんで、八十姫を連れ去った。

法祥は、

この法祥は・・・またも・・・しにそこねた。


きらめく金色の光りが天井から降り注ぐ。

「?」

成仏してゆく者がみせるものか?

「法祥さん」

兵馬の声が響いた。

「あなたは、よい。貴方には想いがのこる」

伊予が消え果て、法祥に残されるものは。

想いだけ。

声のしたあたりに、法祥は叫んだ。

「わしを、わしも・・つれていってくれ」

静まり返っているだけの無しか見えない。

もう、兵馬もいない?

「伊予?」

返事はない。

探ってみても、気配さえない。

「八十姫」

これさえない。

「伊予・・・伊予・・・伊予ぉーーーーーー」

いきろというか。

いきろというか。

「伊予ぉお」

号泣さえ、力ない。

「うわああああああああああああ」

床に突っ伏し今はなく事しかない。

「わああああああああ」

静まり返った堂の中、生をなげうつはずだった男の

泣き声だけがひびきわたった。


静かに溜息を付いたのはひのえである。

「な・・・・なんとでた?」

瞳を開げたひのえに気がつくやいなや不知火はとう。

「成仏しました」

ひのえが応えた事は白峰の事ではなかった。

「すると?」

ひのえは首を振った。

「法祥はいきております」

だが、哀しい淵にたっている。

「ふむ」

いきこしたか。

だが。どういう思いの果てがはたらいたか?

「要因はふたつ」

「ふたつ?」

法祥が死なぬかった訳をいっている。

「一つは伊予さんの策」

法祥の女子の名と直感した。

「伊予さんはおなごとして、法祥を受け止める刹那を

八十姫にわたしたのです」

「・・・・」

「八十姫はその刹那の深さに何もかもをわすれはて、

ひきずられていったのです」

ひのえの話は続く。

「兵馬を真にいとしい康輔とおもいこんだ。

そうでしょう?

八十姫はいとしいはずの康輔を喰らいつくす前に

命をたたれたのです。

おそらく康輔を喰らい尽くしたあとには、

正気にもどって、自害してでも、

康輔の思いに殉ずる筈だったのです」

ひのえは手を口元にあてると、小さな嗚咽を堪えた。

「けれど、康輔もろともつきころされ、

姫は正気をなくしたまま渇望の存念だけのこした」

「姫の底にあったのは、康輔を追う道行だったと言うか?」

「ええ」

「あわれなものよな」

「康輔を追い詰めたのが姫なら、姫を追い詰めたのも康輔」

「帳尻を取るに取られず・・・か」

「伊予さんは八十姫に康輔への思いをみせつけた。

その刹那に兵馬がとびこんだのです」

「・・・」

「実体のない兵馬をくらうことはできない。

でも、兵馬の想いは康輔そのもの。

康輔を喰らい尽くす事が己の誠とおもい込んでいる姫の

意識が康輔でもある実際の肉体。

つまり法祥をくらおうにも」

「なるほどの」

法祥が伊予に与えた快楽は深すぎた。

伊予が受取った喘ぎはたかすぎた。

女子の業の深さはすさまじい。

痙攣をおこしてゆくほとのうねりは

八十姫の意識を混濁させた。

八十姫が康輔と思い込んだ兵馬の想いは、

己を実体化させるかとおもうものになりかわってもいた。

八十姫の混濁と兵馬の思いの具象は思いの世界の中で、

八十姫が兵馬を食らうに十分だった。

真に喰らえぬと気が付くまで、兵馬はこんどこそ、

囮というにえの役をはたせるのである。

八十姫が兵馬に喰らい付いた。

その狭間を伊予は逃さなかった。

法祥から与えられた想いをだきとめきると、

八十姫を兵馬をもろともにこの世をさった。

これが伊予の策だった。

「それで、もうひとつは?」

「もう、一つこそが白峰です」

「なんと?」

「あれは。こうなる事をとうの昔にしっていたのでしょう」

「こうなることとは?」

「法祥が八十姫にくわれることです」

「だが、それをすくうたというのだな?

いったい、どうやって?」

「井戸の柊二郎のときに、白峰が法祥を使ったのは、

不知火にはなしましたね?」

「おお」

うなづいてみせて、不知火はひのえの言葉を待った。

「その折に。白峰は神の役に立ったと、

記証をあたえているのです」

「ふ。上手く行けば褒章で、失敗すれば帳合

点けられるという・・勝手な神約束か」

「ええ」

「で、なんと?」

「白峰は、法祥が伊予さんを回向せぬ事によって

刻まれる因縁をとりはらうてやると」

「な、なんと」

ならば、たとえ伊予が策が功をなさずとも、

法祥は八十姫にくわれることはなかったと、いうことである。

さらにいえば、白峰の理が伊予の目論見を

必ずや成功させる起因になってもいる。

「つまり」

あの白峰の科白は、ひのえをなかせとうないから、

先手を打っていると布告していたのだ。

「ふむ」

不知火がごときがひのえに懸想できるほどのたまではないわ。

わかっていることであるが。

白峰の嫉妬が言わせた言葉か。

呆れるほどひのえに焦点をあわせ、

ひのえを見詰ている白峰である。

「なるほど・・・それがふたつめか」

法祥をつまみ上げた、その時

すでにひのえをかなしませる、この男の宿命が見えた。

ひのえを救うためだけに動いた白峰が基だからこそ

事が成ったのかもしれない。

「いとしい女子をなかせとうない。

この想いがしきつめられておるのだ。

どの女も白峰の言霊に差配されるわけだ」

そうだろう?どの女も泣かずにすんでいるでないか?

「・・・」

「ちがうか?」

「そのとおりでしょう」

いまだ想いやまぬ白峰をみとめるのも、

周知のことではあるが

その想い女が自分である事がはばかられ、

ひのえはしぶしぶと小さくこたえた。

「ふうむ」

これは参った。

伊達に千年、想いをかこったわけでない。

井戸の柊二郎にせよ、法祥にせよ。

白峰がすくいあげているのだ。

そのもといがいじらしい。

ひのえをなかせとうない。

村の悪さのがき大将の恋のようである。

白峰の冷え冷えとする外見とはうらはらすぎる、

あまりにも幼い、ゆえに純真な想いが、事をならせる。

よくも、千年ひとりの女子を思えるものよと、わらえもしたが、

童のように、無垢だからこその白峰である。

白峰と競り合ってみても勝てるわけもない。

不知火が勝てるわけもない白峰を

あっさり打ち負かす男はどこをどうとっても、

平凡そのものである。

その白銅が帰ってきた。

「ひのえ。どこも水汲みにいそがしい。

たってのむりをいうてかりてきた。はよう・・みずを」

汲みにいく算段をせよといいかけた白銅が不知火にきずいた。

「不知火か?どう・・だ?」

やはり気になる事は兵馬であり、法祥がことである。

不知火がここに来るという事自体、

なにか事がおきたせいであろう?

「まあ・・よいわ。水をくんできてから」

ゆっくりはなそう。もうしまつはついておるのだ。

言いかけた不知火のことばがとまった。

言葉をとめる不知火に気が尽きてひのえも白銅もだまった。

耳を澄ますまでもない。

異様な音がする。

ごぼごぼと水が湧き上がる音がきこえてくるのである。

音がするのは裏手の井戸からである。

「そうか」

白銅のつぶやきがもれた。

水脈が元にもどったのである。

水脈が元に戻る。

すなわち、それは、康輔の想いが平らになったという事である。

「成仏・・したか」

「ああ」

不知火はこたえた。

「そうか」

皆、きえたか。

「いや。法祥はいきておる」

首を僅かに傾けた白銅に事の次第を説明しようとすると

「ああ!」

と、白銅が無念な叫び声をあげた。

肝をぬかれるような突然の声に

「ど、ど、どうした?」

不知火があわてた。

なにがある?

まだ、なにかあるというのか?

「すると」

ごくりとつばを飲み込んだ不知火である。

「す、すると、なんだ?」

「わしが荷車を借りてきたのはむだだった

と、いうことでないか?」

水脈がもとにもどったのである。そうなるでないか?

「ほえ?」

なにかとおもえば。

ほっとすると、気が抜けた。

「あひょう」

あほうという不知火の言葉までまがぬけてしまっていた。

「まあ、よいわ」

呟きながら白銅がくどい。

「折角、ああまでくろうして、頼みに頼んでかりてきたのに」

「白銅、くろうでしたのに」

ひのえのせいではなかろうに、ひのえが白銅をなだめる。

いいかげんにしろといいたくなるのを

不知火はこらえさせられた。

そう、この男は兵馬が事も、法祥が事も二の次なのだ。

一番大切なのは、ひのえとの生活である。

ひのえが事が一番。

ひのえと暮らせる事が一番。

水がないは一番よわる。

白銅の命に根付いたひのえとの生活にかける思いこそが、

ひのえを一番の価値にしている。

なかせとうないどころでない。

この男の想い一つにささえられひのえは活きている。

だから、ひのえが白銅の言葉にほだされて、

なだめずにおけないのだ。

お前が一番。

おまえとくらしたい。

お前と一緒にいたい。

荷車一つを借りに行ったという心の底は、

結局、お前に惚れておるという証でしかない。

「ふ、ふ、ふ、ふ、は、は、はははははは」

たまらなくなって不知火は、笑い始めた。

きょとんとする白銅を見据えると、なお、おかしくなってくる。

大の男が、泣かせとうなかったのと競り合っている間に

この男は、ひのえを生かせている。

些細な心の顛末なぞより大切なひのえがごとの存在を包む。

「よいのお。お前を見ておると、

わしもそうまで思える女房がほしゅうなってきた」

「なんぞ?何を急にみょうなことをいいよる?」

ちっとも、判ってない白銅だったけれど、まあいい。

一番判るべき人がわかっているのだ。

ちらりとひのえをみた。

『恋女房か』

かわいい女である。

白銅の前ではいやでもつつましげにならざるを得なくなる、

かわいい女である。

「白銅。それでも、井戸の水が清んだら、それをつかえばよいでしょうに?」

そこからここまで?

どういう慰め方だ?

赤子をあやすように白銅の機嫌を結ぼうとする。

いじらしいを通り越してあほらしくなってきた。

むろん、あほらしいのは

夫婦の間の邪魔者にしかなってないおのれにたいしてである。

「わしはいぬぞ」

これ以上、ここにいてもしかたがない。

「不知火?」

法祥がことをきいておらぬ。

「ああ。もういいわ。詳しい事はひのえにきかせてもらえ」

豆腐の角に頭をぶつけぬうちに退散。退散。

つむじを掻き揚げて、ひょいひょいと

不知火は外にとびだしていった。


堂の中にうずくまった男がようやく身体を起こした。

端座して、想いを逸にする。

やがて、堂の中にいつ止むとも知れない静かな回向経が篭る。

後ろに現れた白峰に気が付いている法祥であるのに、

振り向くこともなかった。

気が済むまで法祥は回向経を唱えるだろう。

唱え終わるまで、白峰もじっと待つ気でいるのである。

膝を崩すことなく、白峰も座り続けていた。

日が翳り夕闇が堂の中まで入り込んでも、

まだ、法祥は唱えていた。

春冷えが夜鳴く鳥の声までふるわせている。

白峰の端座もまだ、つづいている。

―ほほう―

堂のやねにとまったか、ふくろうの声がやけに近い。

「法祥・・ほうほう、ほうと鳴け」

法祥は白峰の声をきいているのであろうか?

白峰は委細を構わずひとりでしゃべりはじめていた。

「しっておるか?ふくろうの鳴く声を・・」

法祥の回向経は止む事はない。

それでも、白峰は喋る。

「ふくろうは夫婦になると決めたら、

たとえ相手が死んでも、そいとげるそうな」

法祥の返事はない。回向経が低くこもるだけである。

「しっておるか?ほほうという一声は、一声ではない」

番になったふくろうの雄は「ほほ」と鳴く。

「ほほ」と鳴いた雄のあとに、

雌は間髪いれず「ほう」とこたえる。

これが人の耳には「ほほう」と一声にきこえるが、

事実は二羽のふくろうの重なりが

余りに間をいれないせいで、一声に聴こえるのである。

「雄がほほと鳴くとすぐさま雌がほうと応える」

―けちみゃくのいっさいをわれにあたうるとなりて、

ここにわれのけちみゃくをつぐとなる―

法祥の回向はつづく。

伊予は法祥の弟子になる。

つまりは、釈迦無二仏の弟子の縁を結ぶのである。

教えを知り、悟りを知り、極楽の在ることをしる。

―執心無縁。仏の心に在ならび、われをしりてや―

法祥の回向を止める気はない。

「夫婦はかくもありたいものであるがの」

ふとためいきがでそうである。

「片割れが先にしんでしまうとな」

ひのえの心は白峰にない。

かたわれをなくしたふくろうは、法祥だけでない。

「雄はもう、鳴かぬのだ」

―相空無縁。一切衆生しるところ、空即是色、色即是空、

これすなわち執心をときはなち―

「かたわれを失った雄はの、二度と鳴かぬ。

精一杯、胸の中でだけ、ほほ、ほほとさけぶという」

法祥の瞳から滂沱の雫がながれおちてゆく。

―虚空無縁。衆生無縁。紫檀居士。

御品(おんぴん)一切、無縁―

額づく法祥を見極めると白峰も深い呼吸をついた。

「わしも同じ、ほほ、ほほ、と鳴かせる想いは胸の中。

されど、どんなにくるしゅうても、

この思い、なくしとうはない」

手を合わせ、白峰に合掌する法祥であった。

「想うだけ。想うだけ。されど。この想いだになくしとうない」

へたりと頭を下げる法祥をしると、

白峰は姿をくらませていった。


「確かにわいておるの」

裏の井戸を覗き込んだ白銅であるが、

井戸をはなれるとついと空を仰いだ。

ぬける様な空の蒼さである。

「法祥は澄んだかの?」

井戸の水もやがて澄んでくる。

隣に立つひのえがうなずいた。

「きっと」

白峰がいる。

きっと、白峰が動く。

「そうだの」

白銅はひのえの手を探る。

つなぎあわせることができると、

ほうと、ためいきをついた。

「よかった。わしにはひのえがここでいきておる。

ここでこうしておる」

「はい」

白峰の諦念はさぞにつらかったことであろう。

白峰にはいまや、想いだけしかない。

その思いを捨て去る事もせず、枯渇な孤独にたえている。

それにくらべ、白銅には確かなひのえがある。

「法祥もくるしかろう」

なれど、思いを捨てる事はもっとつらい。

「いきおおすでしょう」

「想うて、想うて・・・いきぬくか?」

「ええ」

法祥は、伊予の法祥への思いを失くしたくなかった。

裏を返せば一人伊予を想い生きるこの世が

余りにさみしかった。

が、いま、伊予の思いもきえうせた。

のこるものはなんだろう?

残せるものはなんだろう?

いまになれば、伊予を想う法祥の気持ちだけが、

確かな二人の恋の実在である。

伊予の実在は法祥の思いの中にしかない。

思いこそが全て。

この単純な道理をしる、白峰が

法祥をいつくしむのは無理はない。

辛い恋を通った白峰だからこそ、

法祥を恋の浄土に導くであろう。

想いこそがすべて。

「ひのえ・・・なくな」

「はい」

「お前には、わしがおろう。ないてみせるな」

「は・・い」

片割れのおらぬ恋に心を砕いてみた所で

あまりに幸せすぎるひのえであろう。

「なれどな。想いて想う。これは片割れが

この世におろうとおるまいとおなじことだ」

「はい?」

まっすぐに白銅を見るひのえにいささか、てれた。

「なれどな」

「はい?」

「手を伸ばせばこうも簡単につかめれると」

「は・・?」

「もっと、想いをかけとうなるわの」

「はい」

いささかの赤面を抑えながら

やはりひのえも白銅と同じですとはいわずもがな。

白銅の握り締めてくる手を

しっかりと掴みなおすし、ひのえもぐっと力をこめてみせた。


朝があけると法祥は旅の支度を始めた。

「同行二人」

仏がいつも見守ってくれる行脚の旅をいう。

だが、法祥の仏は伊予である。

「伊予・・いくぞ」

声をかけると、法祥は堂の外にでた。

まばゆい朝の光が、さんざめく。

さみしゅうない。

伊予はこの胸の中に、確かに住んでいるから。

この胸に確実な重みがある。

想いこそがすべてだから。

この胸の高鳴りはきっと、伊予へのわが想いをこそ、

我が物にした喜びのせいなのだ。

「伊予・・いくぞ」

もう一度。

伊予を想うと法祥は足を踏み出していった。


                      (おわり)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る