井戸の柊次郎 弐  白蛇抄第9話

井戸の柊二郎をふさぎこんだ二人は屋敷を見ていた。

「白銅のいうとおりでしたね」

ひのえは柊二郎と比佐のさまをいった。

「おもうよりはやかったの」

「ええ」

だが、これで井戸の柊二郎の諦念が定まることであろう。

「あきらめがつくかの?」

「つきましょう」

井戸の柊二郎は、他の男を知る女子を嫌った。

おそらく、あの最後の「由女」と、いう呟きもそうであろう。

本当は妻である由女をのぞんでいたのであろう。

が、どういう心情の絡みかは判らぬが、

井戸の柊二郎は自分とは他の男を知る由女をうとみ始めた。

兄の妻であったのだから、由女が生娘のわけはありはしない。

当り前の事であるのに、

いつのまにか由女への愛憎は鬱屈し、

井戸の柊二郎だけを知る由女に似た久を

心の糧にしようとしたのであろう。

だが、井戸の柊二郎の偏愛は由女によって潰えられた。

今の世でやっと見つけた久であった比佐は

今の世の柊二郎のものになった。

他の男を知らぬはずの比佐もやはり、由女と同じことである。

比佐が柊二郎に抱かれる事は

井戸の柊二郎に打撃を与えることになる。

他の男を知る女。

柊二郎の諦念は、深く己をうがち込ませてゆく。

「むごいことです」

諦めざるを得ない男と女のほむらを見るためだけに

柊二郎は塞ぎ込まれるのである。

「仕方あるまい。現世のことであるに。

柊二郎はもう、何年古のことであるか」

「そうですね」

柊二郎の執着がいくばくかずつ削られ、

諦めを覚えるまでもうしばしの時がいるだろう。

「そうですね」

其れまでは柊二郎をふさいで置くしかない。

「何か、いやなきぶんがするの」

「ええ」

頷くと、ひのえは白銅を促した。

もう、夜がしらみそうである。

「帰りましょう」

ひのえの言葉に白銅は

「そうだの」

と、頷いた。


だが、これで事は終えると思っていた二人の目算に

大きな手違いがあった。

其れは白銅からはじまってゆくのである。

ひのえが気が付くのはもう少し後になる。


家にたどり着くと、この前のように白銅は寝入るかとおもった。

が、

「ひのえ」

と、呼ぶ。

「どうなさいました」

「わしも、わしだけのひのえを確かめとうなった」

言うが早く白銅はひのえを捕まえた。

なんの遠慮も要らぬ夫婦になった二人である。

ひのえもまた白銅の腕に包まれながら、自ら帯を解いていった。

「ひのえ」

「はい」

ひのえが滴りを覚えるのも早い。

白銅もいちはやくそれに気付く。

「ほしかったかや?」

ひのえが白銅の問いに答えるより早く

白銅の物がひのえをつらぬいていた。

「白銅」

「お前は、わしだけのものじゃ」

白銅の体が大きく揺らめき、

ひのえの答えを嗚咽に変えさせていた。

「そうじゃろう?気持ちがよかろう?

ひのえを喘がせるは、

この白銅ただひとりにゆるされるものであろう?」

「ああ・・・はい」

ひのえに与える白銅の兆着はあまりにも甘美過ぎる。

夢の様な快感の狭間を何度も泳ぎ渡り、

ひのえは確かに白銅に研ぎ澄まされる女になった。

「白銅・・白銅・・・あああああああああ」

高いあくめに長く泳がされるひのえを

白銅は執拗にといかけていた。

「誰にあたえられておる?」

「あああああ・・はく・・どう」

ひのえの思念が、身体が白銅しか追えぬことが

確かに伝わると白銅はやっと自分の恍惚をゆるした。

「おまえはわしだけのものじゃろう?」

「ああ・・は・い」

「だからこそ、これがこころよかろう」

いっそう激しく白銅はひのえを責め始めた。

「あああああああああああ」

快い仕打ちはひのえをひれふさせていた。

抗う事もで衣白銅からの追従に

もはや声をあげる事しか出来ないひのえになっていた。

「あああ・・・ひのえええ」

白銅のきわまりがいとおしい。

「白銅、白銅」

何度も白銅の名を呼び応えながら、

ひのえは確かな白銅の脈動を感じていた。


それで、一層朝は早くやってくる。

うとうととまどろんだつもりであったが

体は熟睡を覚えたらしい。

すっきりとした目覚めがやけに心を爽がせる。

深く馴れ染めてゆく存在の確かさが、

ひのえの一層心を弾ませるのは無論のことである。

まだ、寝入る白銅の傍らを抜け出ると、ひのえはくどにたった。

雀が屋根を飛び歩く音がかさこそときこえる。

泣き声が甲高くなったのは、

えさを争ってのいさかいのせいであろう。

「しいい」

まだ、いとしい人はゆめのなかである。

ひのえは雀たちの静寂さえねがってみた。

が、

玄関から呼ばわる声がする。

慌ててひのえは表に向かった。


戸を開けると柊二郎が立っていた。

「くどの煙が見えたので、もう、おきてらっしゃると」

「はい」

「朝早くからぶしつけとは思ったのですが、

これを見つけたので、

其れとお礼を」

と、二つの品物を柊二郎は差し出した。

「はい」

受取った品物の一つは銭である。

陰陽ごとの報酬である。

もう一つは白銅の小束であった。

「ああ」

拾い上げるいとまなぞあるわけがない。

餓鬼の姿の柊二郎が消失すると

二人は直ぐ様に井戸の塞ぎにいって、そして今なのである。

「あのあと、変わった事はありませんでしたか?」

「ええ」

と、答えた柊二郎の口がくっとむすばれると、

「それが・・」

と、開きだした。

「じつは・・」

言葉が途切れる柊二郎である。

言い出しにくいのもむりのないことであろう。

ひのえは先に言葉を継いだ。

「井戸の柊二郎は成仏はできたわけでありません。

其れを解決するのは、

貴方が比佐さんとむすばれることがよいのですが」

「あ」

と、柊二郎は声を上げた。

「実は、其の事でもう一度相談にきたのです」

柊二郎はわが身を流した事をくやんでいた。

ひのえによって、其れが良いことなのだといわれると、

いくばくか安堵はした。

が、其れは井戸の柊二郎にとってよいことではあろうが、

比佐にとってはどうであろうか?

「実は、柊二郎を塞いでくださったすぐ後に

私は、比佐を抱いてしもうたのです。

小束を見つけたのは其の時なのです」

比佐の布団の中で享楽に溺れていた柊二郎は

足に当たる冷たい刃物にきがついたのである。

小束を布団の下に隠しこむと後は比佐を求めつくした。

朝の目覚めが柊二郎のしでかした事を

いやおうなしに見せ付けてくる。

裸身のままの比佐は満足しきった様子で

柊二郎に寄添い軽い寝息をたてていた。

柊二郎も無論下帯など取り払っているわけである。

其の一物のしたの柊二郎の太股には、

比佐の熱く柔らかい太ももがからみつけられている。

いくら、夢であろうと考えて見ようにも、

この様はいかにも、情欲を共有した男と女の姿でしかない。

「かまわぬことですよ」

と、ひのえは柊二郎に言った。

さらに

「其れが一番よい事だと私達はかんがえておりましたよ」

と、付け加えた。

「でも」

「比佐さんをおきらいですか?」

「いえ、とんでもない」

嫌いな女などを抱こうと思うほど色に狂う自分ではない。

「だったら・・よろしいじゃありませんか?」

「はあ・・しかし・・・」

世の中の常を考える柊二郎である。

それに。

「私はよし女にどういえばよい」

「なにを?」

「何をって、あなた。私はよし女の娘を・・・」

「いけないことですか?よし女さんは死んでしまっている。

よし女さんは貴方にどうしてやれる事も出来なくなって

むしろ他の誰でもない比佐さんが

貴方を受け止めてくれた事を

よろこんでいるのではないでしょうか?」

「そうなの・・ですか?」

疑わしそうな思いがひそんだ声ではある。

「だから、貴方がなさる事は

きちんと比佐さんを慈しんであげることではないですか?

其れがよし女さんにかえせることではないですか?」

「ほんとうに・・そう、なのですか?」

「ええ」

「はあ」

よし女への後ろめたさが取り払われると、

とたんに柊二郎の顔付きが変わった。

「かまわないのですよ」

「は・・・い」

柊二郎の心はまだ釈然とはしていない。

だが、比佐が柊二郎をかえてゆくことであろう。

生身の男と女が一つ屋根の下に暮らし、

既に男と女のことをかわしている。

柊二郎がこの先も二度三度と

比佐の欲情に引きずられる事は、既に明らかな事である。

身体を重ね合わせれば、他の女へとは違う特別な情が生じる。

独占欲といっても良い男の本能が、

逆に比佐を押してゆく事になる。

―井戸の柊二郎の事がなくても、

どの道、比佐と柊二郎は

男と女の一線をこえていたのかもしれない―

と、ひのえは思った。

玄関を立ち去った柊二郎の姿が門をくぐるのを見届けると

ひのえはくどに戻ることにした。

朝の用意がまだ途中であった。

くどに戻りかけたひのえは

寝間の気配が変わっているのに気が付いた。

「白銅?」

小さな声で白銅の目覚めを確かめてみると

「おう?」

と、返事があった。

襖を開けながら、

「おこしてしまいましたか?」

「なにや・・話し声がきこえたが?」

白銅の声はまだ眠たげであったが、

ひのえは襖を開き中に入った。

陰陽ごとの報酬を白銅に知らせたくもあった。

夫婦になって初めての陰陽ごとによる報酬である。

「柊二郎さんですよ。

貴方の小束を見つけたと持ってきてくださって

それと・・これ」

和紙に包まれた銭をひらいてみせると

「ほう?」

かなりの枚数のぜにである。

「ふううん。たっきの道になったかや」

と、銭を当て込んだわけでないが、

救いの法があっさりと銭礼になった事を白銅は素直に喜んだ。

「なんぞ・・いうておったか?」

昨日の妖艶の様が思い起こされたのか

白銅も柊二郎の心根が気にかかる。

「ええ」

比佐との事をやはりとがめてしまう柊二郎なのである。

其れは白銅が昨夜呟いたように、

これでは井戸の柊二郎も

今の柊二郎もおなじことではないか?と、いうことでもある。

井戸の柊二郎の代わりのように

比佐を抱いているようでもあろう。

井戸を出て己の形に変ええても

成す事は結局井戸の柊二郎と同じ事なのである。

まるで、井戸の柊二郎に操られている様であり、

傀儡の気分もないわけではなかろう。

が、そんな男のいじましさを

ましてや女のひのえに口にはしない。

「もがくだろうの」

と、ぽつりと白銅が漏らした言葉の意味こそが

白銅の狂いの初めであるとは

気が付くわけもなかった。


「でも、いずれ・・かわりましょう?」

柊二郎の後悔を言うのだとひのえは取った。

白銅は

「井戸のも、の」

と、つけくわえた。

手繰る必要もないことであるが、

井戸の中の執念はすさまじい嫉妬にもがかされている。

それも、いずれかわらざるをえない。

「どのみち、そうなっていたようなきがするがの」

と、白銅も柊二郎と比佐のことを言った。

だから、どの道遅かれ早かれ

井戸の柊二郎は諦めるしかなかったのであろうという。

「そうですね」

だが、ここでひのえは気が付くべきであったのかもしれない。

いずれそうなるものだったのであれば、

あたら井戸の柊二郎によって陵辱され尽くし

女を開花させられた比佐の身体を抱くという事が

男にとってどんなもがきをうむかということをである。

白銅が懸念したのはそのことでもあった。

井戸の柊二郎に女を知らされた比佐は、柊二郎を求める。

これは絵に書いた縮図のように明らかな事であった。

が、柊二郎はどうであろうか?

あくどいほどになぶりあげられた比佐の女の部分は

当の柊二郎が仕込んだものではない。

比佐を抱けば抱くほど、

井戸の柊二郎に教え込まれた女を知らされることになる。

自分が惚れ込めば惚れ込むほど、

他の男に開花された女がにくくなる。

同時に、先の男の影がつきまとう。

喘ぐ女が真に己の技量に満足しているのかどうか?

どこかで先の男と比べ、

本心ではつまらぬとおもっているのではないか?

この疑心暗鬼に囚われると、

女子を独占し尽くしている自分を確めても、確かめても

不安が心を覆う。

白銅が言うのはそのことであった。

が、白銅がそんな事を量れると言う所が

既におかしなことである。

つまり、白銅は塞ぎ込んではいたが、

己の中に柊二郎と通じる思いを

内包していたということである。

「ひのえ。そばにこや」

白銅がひのえをよんだ。

『白銅?』

先の情交からまだ間がない。

白銅の瞳が熱い。

まさかと思いながらひのえはそばに寄った。

途端。白銅がひのえの身体を押え付け、裾をわった。

「はくどう・・どうしました」

こんなに情欲にあざとい男ではなかったはずである。

「いやか?」

白銅の目が煽りの炎をたぎらせている。

「いえ・・そういう・・わけで・・・」

と、いいかけたひのえの口は白銅のくちにふさがれた。

後は執拗な愛撫が繰り返される。

抗う事が出来ぬほどに

なんども、ひのえの陰核を責めて来る白銅が、

ひのえのほとに指をすべりこませた。

「は・・く?」

恐ろしく執拗な愛撫は、いつもの白銅ではない。

ぬめりだす指の動きをゆるめようとせずに

「わしがほしいか?」

と白銅がたずねた。

ここまでならひのえもきがつかなかった。

「ああ・・は・・い」

己の快感が白銅のじつうをもとめだしている。

「ならば、いうてみせよ」

隠避な言葉をひのえに吐かせようとする白銅などしらない。

「あ、ええ」

戸惑うひのえに白銅は絡んだ瞳をみせた。

「要らぬか?わしでは・・ものたりぬか?」

『え?』

「夜毎日毎に日をあけぬかった白峰にあたわれたように

暇間なしにあえがされたいのだろう?」

「白銅?」

ひのえの反論を聞く白銅ではない。

きつく指をうごめかしたかと思うと

ひのえにかぶさってくる。

指とかわった白銅の実はひのえをうめかせた。

「そうであろう?ほしゅうてしょうがなかろう?」

白銅のいう事はどちらのことであるのだろう。

白峰の事を言うのか?

白銅のこのじつ・・うを・・・

「あ、ああ」

ひのえの感がまさってしまった。

「白峰はどうじゃった?え?

お前を、こがいな女にしたてあげるほどに」

嫉妬である。

あれほど心を重ねようと言った白銅が

体のことでいまさらに嫉妬をくすぶらせ、

およそいつもの白銅でないほどに

嫉妬という醜態を曝け出している。

「は・・く・・」

「このように、あやつの手のなかで・・・なんど、おちた?」

「は・・く・ど・・う」

嫉妬が己の通感をにぶらせ白銅の動きも

いつもならず、はげしくながい。

とうとう、ひのえがあくめのはざまにおちた。

「そうやって・・なんど・・やつの・・」

それでも、苦しい嫉妬をうませるひのえをはなさず、

ひのえのはてを見届けるかのように白銅はうごきつづけた。

眠り足りなかったひのえの身体は

気の遠くなりそうな快感の高みにおしあげられたあと、

いっきに眠りの谷へひのえをすべりこませた。


めざめると、交接そのままの姿態で

ひのえと白銅はねいっていると、きずかされた。

重なった白銅の身体は五体の力をぬけきらせており、

ひのえはその重さで目覚めを覚えさせられたとわかった。

「白銅・・重い」

「う・・」

身体をずらせた白銅であったが、

ひのえを貫き通している陽根はまだ、なえてはおらず

ひのえの身体を圧迫しない位置に身体をずらすと

ひのえを包むようにだいた。

「う・・・ん」

ひのえの存在を目で確めると白銅は再び寝息をたてはじめた。

ひどく、不安になっている白銅と覚ると

ひのえはそのままおとなしく白銅を受け入れたまま

白銅のそばでにいた。

『どうしたものだろう?』

白峰のことなぞ、すんだ事なぞ口に出す白銅ではなかった。

が、今は白銅の不穏をいさめてやるしかない。

井戸の柊二郎の事で白銅までも

不安に駆り立てられたのだろうか?

比佐を女に仕立て上げた井戸の柊二郎の後に

柊二郎が比佐を抱く。

比佐を抱いた柊二郎の胸の中には、

さっきいった白銅の思いと似たような嫉妬がわく。

白銅が「もがくだろうの」といったのは

柊二郎への懸念だったのだ。

そして、それはなによりも

白銅自身の中にあるもがきだったのである。

埋めさせた意識を白銅は柊二郎への懸念で揺り動かし、

消しされていなかった埋み火をほりおこさせたのだろう。

外気に晒された埋み火は赤くひをいこらせはじめたのだ。

『白銅の・・たわけもの』

なんで、ひのえは今こうして白銅と共にいると思う?

が、ひのえが確かに白銅の物に成りきった安堵が、

瑣末な心を浮かび上がらせたのにすぎない。

『白銅』

心の中で呼びかけると、ひのえは白銅の腕に包まれたまま

白銅のひのえである確かな存在を誇示するかのように

寄添い続けていた。


どのくらい、そうしていたのか、

再び眠りの中に落ちていたひのえを呼び覚ます声がきこえた。

白銅から身体を離すと、

ひのえは聴こえてきた声の主の居る玄関をあけてみた。

戸を開けるとそこには、托鉢を求める鉢を差し出す僧都がいた。

「ああ。おまちなさい」

ひのえはくどにはいり、米びつを開け

三合ほどの米を布の袋にうつし

僧都の元に戻り鉢の中に入れてやった。

僧都は手をかざすと深い礼をひのえにささげながら

「亭主殿の悋気は厄介じゃの?要らぬ因をうまぬとよいがの」

と、いう。

白銅の様子はただならぬことがよびよせるぞと、

僧都には察する所があると言うのか?

僧都の妙な言葉に、

白銅の悋気が安堵のせいと高を括った事は、

当たっていなかったのかと、ひのえは考え始めた。

先行きを知らせる、はからいはいろいろな形をとる。

虫の知らせというものもある。

己自らが調べを起こす八卦もある。

人の思いの惑いは時に天地異変さえおこす。

陰陽師はたんにその順序が判っているから、

天地や気候の変異によって、元の因を手繰る事が出来る。

なってくる事には、全てもとがあるのである。

だから、この僧都の口の端をもってしてまで、

いわしめさせた白銅の様子は

異変であると悟るべきなのである。

ひのえは

「お言葉。確かに頂戴いたしました」

と、僧都に向かい深々と頭を下げた。

米三合の礼を知らせに変えた僧都だったのである。


悋気が生ずる因。

一つは白峰に由来する。

もうひとつは井戸の柊二郎。

比佐を手に入れた今の柊二郎へのくすぶった嫉妬は

どこに飛び火し、何に情念を移しこむかわからない。

それが、白銅であるという事とて、ありえるかもしれない。

白銅の白峰への嫉妬。

井戸の柊二郎の今の柊二郎への嫉妬が

白銅という同じ色の器にとびこむはたやすいことであろう。

が、腑に落ちない。

塞ぎ込んだ井戸の柊二郎の存念を白銅が拾うはずがない。

ましてや、井戸の柊二郎の存念は諦念に向かってゆく。

これから、落ちてゆく力にふりかざされる白銅ではない。

もっと、いえば、比佐は先に井戸の柊二郎のものであった。

いわば、白銅にひのえを奪われた白峰の立場である。

裏をかえせば、比佐に諦念してゆくしかないはずなのである。

そんな、柊二郎が存念を白銅に送り込めるわけがない。

ましてや。ふさぎは完璧なものである。

『ならば』

考えられる事はふさぐ前に

白銅が存念を拾ったということである。

「いつ?」

考えられる事は

たった一度井戸の柊二郎と相対した時しかない。

が、それは、まだ、

今の柊二郎が比佐を手中に収める前のことであり、

嫉妬という存念が井戸の柊二郎に生じる前である。

「あ?」

あの今わの際に、井戸の柊二郎は比佐でなく

由女の名をよんでいる。

比佐に対する執心でなく、

由女に対する執心が現れたのが不思議であったが、

比佐への執心が由女に由来する物であったのか?

『男というものはしまつにおけぬ』

と、想う女子への情念を果たさずおけない男の

やるせなさに白銅は己を重ねている。

井戸の柊二郎の本心が何であるかは見えぬ事ではある。

が、其の時確かに白銅は井戸の柊二郎に頷いたことになる。

これが一つに、白銅をして存念を拾わす事になったと

考えられる。

柊二郎の存念の奥底が

本来は由女に向けられるものであったとするならば、

つまり、嫉妬。悋気という物が

既に由女にむけられていたのなら、

既に存念が派生していたということになる。

そうなると、あの井戸の柊二郎の移し身を狩ったときに

白銅が柊二郎の存念を抱え込んだと、

考えられるのではないか?

『と、なると』

井戸の柊二郎の比佐への執心は

今の柊二郎が比佐を我が物とすることでふっきられる。

が、

白銅に移しこまれた存念は比佐への執心ではない。

「つまり」

このままでは、白銅は井戸の柊二郎の二の舞である。

ひのえはここにいたって初めてきがついたのである。

井戸の柊二郎は他の男を知る由女への嫉妬が元で

狂い始めたのだ。


其の様子を如実に白銅が語り始めている。

他の男を知る由女への井戸の柊二郎の嫉妬は

白峰を知るひのえへの白銅の底にあった嫉妬に

容易く入り込み、重なり白銅をとらえた。

今はひのえへの独占にかられ、

白銅はひのえだけを追っているが、

追えば追うほど白銅が柊二郎のように

白峰を知るひのえに苦しむ。

苦しんだ白銅もまた、他の女子に癒されようとする事であろう。

が、

白銅のことである。

己の醜さにもがき、ひのえを護れなかった己を責め・・・。

「ああ」

柊二郎の本心はそうであったに違いない。

由女を愛するがあまり嫉妬にさいなまれ、

自分を責めるあまりに均衡を崩し柊二郎の精神は崩壊した。

柊二郎が井戸にすもうた大元の存念が、

今、白銅をとらえ、白銅にとって、

いや、どんな男であっても些少はこだわらずに置けない

些細な嫉妬でしかないものを増幅させている。

「どうすればいい・・」

比佐は生きている。

今は柊二郎のものになって、

井戸の柊二郎に諦念を託たせてやれる。

が、由女は既にこの世の人ではない。

比佐のように今の世のよし女とすりかえてみようにも、

よし女も既にこの世の人ではない。

ましてや、柊二郎の本心とは裏腹に

嫉妬でしか、由女を見れなくなった柊二郎は

己のしでかした事が元といえど

由女に井戸に突き落とされて、死んでいるのだ。

簡単には己の本心に立ち返れるわけがない。

嫉妬と恐れと怨みと愛。

こんな思いが混然となっている柊二郎の存念を

どうやって、打ち破ってやれる?

己の本心さえ変形させ、娘だった久を犯すことで

由女への思いを昇華させることしか出来なかった

柊二郎をどうやって回向できる?


「ひのえ」

白銅の声にひのえははっとして、振り向いた。

―目覚めた横にひのえがいない―

白銅の猜疑を煽るにたる、

ひのえの行動がむしかえされたのであろう。

「わしの眼をあざむいて、どこにいっていた?」

「どこにも・・いっておりません」

「わしの目をぬすんで、白峰の所にいったことがあるに」

「あ・・・」

すんだことでしかない。

其の事とて、白銅は重々承知していた事である。

それがむしかえされるのは、井戸の柊二郎のせいである。

ひのえは

白銅が柊二郎の存念に差配されているとつげようとした。

「まだ、おもうておるのか?」

ひのえが言葉にする前に白銅の悋気が

ひのえを問いただし始めた。

「そんなことはありません。

其れを一番良く判っているのは白銅でしょうに?」

白銅の正気が悋気を払ってくれる事を祈りながら、

正気を引き戻すかのようにひのえは白銅に問い直した。

「想いは・・の」

白銅の応えることだろう事が見えると

ひのえの心は悲しく縮まるようであった。

白銅の次の言葉はあっさりとひのえの不安を肯定した。

「其の身体が白峰を覚えておろう?」

ひのえはかぶりを振るしかなかった。

白銅はひのえの悄然とした面持ちにも気が付かないばかりか、

「そして、わしと較べておろう?」

馬鹿なことを。

が、こんな馬鹿を言い出す白銅であるのは

間違いなく井戸の柊二郎の存念に

敷き詰められているせいである。

柊二郎の執念が白銅の底に住み

白銅の自制をかいくぐり、白銅の意識になだれ込んでゆく。

今の白銅は柊二郎そのものであるといって過言でない。

「白銅。しっかりしてください。貴方はそんな人ではない」

白銅自身に問いかけるひのえの言葉は

むなしく空を打つだけになった。

「女女しいというか?

こんな男をみておると、いっそう白峰がこいしくなるか?」

この言葉がまた柊二郎の心を縫う意識であるとするのなら、

いったいどういう自信のなさなのであろう。

白銅を通して心のかげりを表してくる柊二郎を

存念を

説き伏せるしかないのか?

白銅を救い出す術を思いつくままに、ひのえは口に出した。

「白銅。あなただけです。

ひのえの本意はあなたにしかありません」

「うそをいうな」

「白銅?」

「この身体が白峰を求めておるわ。

わしは白峰のかわりじゃ。

おまえは蛇になりとうなかっただけで、

おまえの本意は白峰にながれておる」

「ちがいます。白銅。ちがう」

やにわに白銅がひのえを抱きすくめた。

ひのえの胸元から手を差し込み

ひのえの乳房を弄ったかと思うと、

ひのえの項をなめつくす。

狂気のような餓えがある。

一瞬。

井戸の柊二郎に嬲られているのではないかという

怖気と錯覚がひのえを包んだ。

いっそ、白銅を振り払ってしまいたい怖気にひのえは耐えた。

今、其れをしたら、白銅は完璧に柊二郎に魂を貪られる。

細かく身体が震えてくる得体の知れない恐怖が

わきあがる。

―これは白銅でない―

白銅でないものに抱かれる恐怖がひのえを総気だたせている。

が、白銅なのである。

今は白銅の飢えをみたしてやることしかない。

自分の物で無いと思い込んだ白銅が

ひのえをもとむる事を余儀なくさせる飢えが

みたされるわけはない。

が、今はこの白銅に応えて見せることしかなかった。

日があけると白銅の狂いは確かに深くなり、

白銅の日常もひのえだけへの執心にかわっていった。

ほんのわずかでも、ひのえの姿が見えないと

白銅の猜疑心にひがついた。

どこにいっていた?

わしから、離れたいか?

わしがうっとうしいか?

白峰のところに帰りたいか?

猜疑心は白銅を穿つ。

穿立たれた穴はそれを埋めさすように

ひのえを所かまわず求めさせることになる。

白峰がよいと言うに・・わしはそれでも、おまえがよい。

この思いがぬぐわれぬのか?

自分で思い込んだ猜疑をうたがうこともできず、

白銅は心の闇にのまれてゆく。

もはや、白銅の側を離れる事は無論、

一歩も外に出られない状態におちいると、

ひのえはかんがえあぐねた。

このまま、こんなことを繰り返していれば

白銅が本当の狂気に落ちる。

式神をとばして、仲間の陰陽師である、

九十九や不知火に事をしらせたいのであるが、

白銅の猜疑をあおるだけでしかない。

どうすればよい。

てだてが、おもいつかないひのえの頭の隅に

ふと、浮かぶひとがいる。

あの托鉢の僧都である。

あの僧都は既にこうなる事を見抜いていた。

この身動きの取れないひのえの状態を推測できる者も

あの僧都だけであろう。

あの僧都なら何らかの解決の法をもっているのではないか?

ひのえは思念を強めた。

言霊を送る事も、式神を送る事も

白銅をいらだたせるだけである。

ただ、ただ、思う。

あの知らせを見せてくるほどの僧であれば

ひのえの思いを拾うのではないか。

一縷の望みにかけると、ひのえは白銅をみつめた。

今は、ひのえが側におれば白銅の狂いは外に溢れてこない。

が、一旦身体を合わせ始めると

白銅の猜疑ははまえにまして、狂気を呈し始めている。

そう。これもそう。

ひのえは肩口をそっとおさえた。

「いたむか?」

ひのえが肩口を押さえるのを見た白銅は優しい声をかける。

己の物だという確かめがおわり、

白銅の神経は今は平静をたもっている。

「あ・・すこし」

「どれ・・みせてみろ」

「あ・・はい」

逆らわぬ方が良い。肩口をずらすひのえに白銅が覗き込んだ。

「う・・ん」

満足気な声があった。

ひのえの肩口には酷い傷がならび痣をともなっている。

昨夜。白銅がひのえの肩口をかんだ。

白峰はこうまでせぬかったじゃろう?

そういうと、白銅はひのえをかんだ。

鋭い痛みを肩口に与えたまま、

白銅はひのえへの躍動をくりかえした。

肩口を襲う痛みよりも白銅が与えられる快感がまさればいい。

其の白銅の感情は読めた。

痛みにさえ勝り、白銅の物に喘ぐひのえであらば

白峰のことなぞ、気に病むことでないと、

白銅は思いたいのである。

ひのえを痛めつけてまで

己の確証を得たい白銅などではなかったのに、

あえて、こうまでせねばならぬ程ひずみを呈している。

だが、ひずんだ確証はあっという間にひっくりかえるだろう。

そう、例えば白峰がひのえにそうしたらどうなっていたか?

今度は其の暗鬼にとらわれる。

暗鬼を持つ事の苦しさを解消させようとするにはどうするか。

白峰に同じ事をさせて、喘がないひのえを見るしかない。

狂気は思考を混濁させ、

喘がない白銅だけのひのえを見るために・・・。

『つまり、井戸の柊二郎が由女を浮浪者に抱かせたのも

こんな狂気のはて・・か』

己のひずみを埋める為だけの、一点しか見ない解決は

新たなひずみを生み出すだけである。

どうすれば、井戸の柊二郎を救える?

白銅を狂わす存念の元を救うしかないとは判っているが、

身動きがとれなくなったひのえである。

悋気を嫉妬を宥めるために、

白銅が次に起こす行動はみえている。

反対にひのえの嫉妬が己に向けられる事を

みようとするだろう。

白銅にとって狂おしい愛憎こそがひのえを思う証なのだ。

己が其れを判っているからこそ、

ひのえの前で白銅は他の女をだいてみせることになる。

ひのえの嫉妬を苦しさを悲しみを見定める事が

白銅の愛憎を宥める。

『ならぬ。他の女子まで巻き込ませるような事をしては』

ましてや、白銅がその後に正気を取り戻したらどうなる?

己のしでかした事を受け止められるわけがない。

再び狂気ににげるか?

餓鬼におつるか?

自らの命を絶つ?

ひのえを想う風に吹かれて見せる。

吹かれたまま死ぬ事さえいとわぬといった白銅であらば、

ひのえを想う風は白銅に自害をつかませることになる。

『救い出してみせる』

ひのえは再びほむらをあげてくる白銅の手に

身体を預けながら、あの僧都に思念を合わせていった。

「やれ・・」

托鉢に巡り歩いた村の外れの古ぼけたお堂に上がりこむと

法祥は托鉢の鉢の中を覗き込んだ。

確か、蔀葉に包んだ握り飯をくれたものがいたはずである。

はたして、鉢の中には、大きな蔀葉飯があった。

「かたじけなや」

直ぐに食せるものは其れはそれで、有り難い。

竹筒の水を確かめると法祥は握り飯にかぶりついた。

―しかし。あの陰陽師は今頃弱り果てておろうの―

托鉢に歩く村の中の屋敷に井戸がある。

其の中に、優しく悲しい存念があるのを法祥は気が付いていた。

―が、関るまい―

およそ僧とは考えられない法祥の思い方である。

が、この事に触れるのはあとにする。

さりとて、法祥とて

井戸の中の存在が気にならないわけではなかった。

村を訪れるようになって二年。

今日もあの存念は浮かびもやらずに居るのだろうと

井戸をうかがってみた。

優しい存念が得体の知れない悲しみと憤怒に色をかえている。

―浄化がしかれているか?―

井戸の近くほど、浄化の色が濃い。

法祥はその場に座り込むと思念を解放して浮かびを待った。

『陰陽師か?』

それも二人。

結界も濃い。

そして、それは精魂の理から発せられている。

「夫婦陰陽師か?」

で、なければ井戸の中の存念を

あっさり塗り替えられるわけがない。

「ふうむ?」

法祥は浮かび上がった陰陽師を手繰り始めた。

恐ろしく深い因縁をくぐりぬけてきたようである。

その通り抜けこそが、森羅万象、神までを

彼らの成す事に「その通り」とうなずかせるのである。

井戸のものを変転させる浄化のすさまじさは、

神々と自然の後ろ盾があるせいである。

「ふかいものじゃの」

男の陰陽師のほうの女を想う思いに驚かされた。

が、井戸の中の醜い存念のもがきの因の色が

男にすりかわって見え隠れする。

「さては、かぶったな」

井戸の存念など放っておけばよかったものを、

あたら手を差し延べたに違いない。

助きが助きになるとはかぎらない。

「くわばら。くわばら」

法祥はひとつの被りを知っている。

そして、被りの怖さが身にしみている。

あの世へと道行きを共にした女は

既にこの世におらず法祥一人命を永らえている。

結果的に女子に死を被せたのである。

だから、迂闊に関わるものではない。

「わし一人、いきながらえてしもうた。のう。伊予」

救う事なぞ、できるものでない。

なった事をそのままに諦念する。

さすれば

「おまえを死なせずにすんだ」

だから、近寄らぬ事だ。関わらぬ事だ。

と、考えている法祥の前に伊予が現れて、首を振った。

「え?」

ここしばらく、法祥の前に姿を現さなかった伊予の霊である。

よその男と一緒にさせるくらいなら、いっそわしがお前を殺す。

そういった法祥に伊予は頷いた。

共に死のう。死んであの世で添おう。

死出の道行きは伊予にとって花嫁道中であった。

その伊予が一人死して、

今も尚、法祥の悔いをいさめるのである。

其の方が伊予はしあわせでした。と。

「ふんん」

伊予は生きて、他の男に嫁ぐより死んだほうがよかったという。

そして、いとしい法祥が死なずにすんだのも・・・。

「つまり・・」

伊予はまた、他の女子のしあわせもそうだといっている。

あの女陰陽師の幸せもそうだといいたいのである。

亭主が狂うようなことになって、なんのしあわせがあります?

『伊予・・・なれど』

被りを払う事は、なかなか出来ない。

伊予が静かにほほえんだ。

近寄ってはならない。

そう思った法祥であるのに、

既に法祥はひのえに布施を求める振りをして近寄っていた。

「直ぐに気がつくことだ」

と、思うのだが法祥はひのえに警告をあたえずにおけなかった。

「つい、言葉をかけてしもうた。いらぬ縁をつくってしもうた」

後悔する法祥を伊予はじっと見詰ている。

「しかし。何故、口をつかされてしもうたのじゃろうの」

不思議な女子である。

が、手繰り寄せて考えるのはやめた。

深入りはしたくない。

男のほうを見ていても思う。

何時なんどきあのように手に余る因縁をかぶるか、

わかったものではない。

迂闊に手を出してよい場合と悪い場合がある。

それが、読み取れぬくせに恐ろしい法力がある。

その法力に慢心していたかとさえ思える。

「なにゆえ?手に負えぬ者にすくいをさしのべる?」

被るほど恐ろしい事はない。

己の因縁であらば、なってきたことにあきらめもつこう。

だが、この場合わざわざ澄んだことをかき回し

心の底に淀み沈んだ芥をかき回したとしかいえない

何故、上澄みを汲み、芥を放り捨てる時をまたなかったか?

それをわざわざ井戸の存念を拾い、

男は芥に湧かされ狂い果てかけている。

そこまでして、助くる必要があったか?

(何故?)

そう。自問自答になる。

悠久のときの狭間に伊予を落とし込み

我一人この世に生きながらえる?

なんで、あとをおってやらぬ?

伊予の姿が消えた。

(伊予?)

伊予を救う事もできず、かといって、

伊予の後を追えもしない者が、

他の何びとに何のすくいができる?

己の最愛の女子は成仏できずにいる。

そして、成仏してほしくない自分なのである。

この思いが伊予を霊にとどめさせ輪廻転生をはばんでいる。

(伊予)

伊予の消えたあたりを見詰ていた法祥である。

「おまえはわしにどうせよという?」

いや。考えてはならない。

思いは天駆ける。

相通ずるという。

あの女陰陽師に呼び寄せられてしまう。

「おそろしいことだ。あの男のかわりになぞなってやれぬぞ」

空恐ろしい被りを与えるほうにも

受けるほうにもなりたくない。

が、法祥の頭からひのえの事が離れないのである。

「どういう因果がわしとお前にあるという?」

前世のことか?

このさきのことか?

かかわりを恐れ避ける法祥であるのに

ひのえの存在が、憂いが手に伝わるようである。

どうにかしてやろうにも、男の方が女を離すまい。

これでは伝う手段もない。

迂闊に会いに行けば

もはや、あの男の狂いをあおり、悋気がふかくなるだけである。

(つまりは関らぬ事が上策)

諦めるだけである。

触らぬ神にたたりなしというものである。

が、

その神があらわれるのである。

「いつまでそうしておる気じゃ」

突然の声に法祥は辺りを見回した。

「げっ」

目の前に湧いて出てきたものに法祥の度肝は抜かれ、

大きく口を開けたまま

揺らめきあがる影を見詰るばかりであった。

「し・・・白、白峰大神?」

噂に聞く美しい姿態から蛇の性が揺らめき立っている。


「な・・?」

なんで?

「ひのえをすくえ。白銅をときはなて・・」

其の名が二人の陰陽師のものである事は法祥にもわかった。

なぜ、白峰大神が二人を護る?

大きな因縁の通り越しは読めた。

が、ひのえを奪われた白峰が

うらみこそすれ、助きを口にする?

「な、なにゆえ?」

白峰の冷たい目線が床を這い足元から登ると

法祥の瞳をとらえた。

「お前は、ほれた女子に命をかけた事がないか?

ほれた女子の幸せを願うてやれぬか?」

「わしは・・・」

いまもって、伊予を回向できずに

この世にとどめさせているのである。

一度は伊予と共に合い果てた命を永らえ

伊予一人が死んだとわかった時、法祥は後を追おうとした。

が、それをとめたのが伊予である。

伊予の霊は深々と頭を下げて法祥の前に現れた。

生きろというか?

法祥はそう思った。

だが、其れは本当に伊予の後を追うか?

と、試されたことだったのかもしれない。

試され法祥は生きながらえることを選んだ。

伊予が望むなら、そう法祥は決意した。

が、本当は死にたくないのが、法祥だったのかもしれない。

生きていたいと思うなら、

生きることを選んだなら

同時に伊予を回向してやるべきであるのに、

法祥は伊予を回向できなかった。

白峰に言われるまでもない。

これがほれた女子に命をかけたといえる男の姿であろうか?

ほれた女子の幸せをねごうている姿であろうか?

「己の執心しかないお前が

被りを拾うのを怖れるはずだわの」

「う・・・」

我心にとらわれる盲執が、法祥にある。

ひのえ達により何の因果のない者が被りを受けるのではない。

すでに法祥に被りを受ける因果があると白峰は明かした。

(ゆえに、近寄らずにおけなかったということか。

ゆえにかほどにきになるということか)

「因縁が因縁を呼ぶ。か・・・」

自嘲めいた笑いを口の端に浮かべる法祥の前に

白峰が座り込んだ。

「な?な?なにを?」

「そも、井戸の存念を拾わせる因を作ったのはわしじゃ。

このわしのせいでひのえが苦しんでおる。

また、其の因が元でお前もよびよせられておる」

へたりと頭をたれ床に手を着く白峰である。

「ひのえをすくうてくれ。あやつの男をすくうてくれ」

「あわわわわわわ・・・・」

身振りが宙を舞い、法祥はやっと言葉を成した。

「する。する。する。するから、頼むから頭をあげてくれ」

「・・・・」

白峰が訝しく法祥を見た。

「た、たまったもんじゃない。

滅多やたらと頭を下げるのはそっちの好き勝手であろうが、

うっかり神さまに頭を下げられ

頼まれた事を成しえなかった時にはこっちの命が危ない」

神たる者が己を低くして人間風情に頼みごとをすれば、

頼まれた人間の方は掟網に絡められる。

神との約束ごとを一方的であっても交されてしまうのである。

その約束を果たせなかったときは、どんな神罰がくだるか。

其れが帳合である。

そんな約束事を無理やり交わされてはたまったものでない。

無論約束を交わした以上、果たしきれば

何らかの良いほうの事での帳合ももらえる。

其れがなんであるか?

だが、出来る当てが付かない約束に褒章をもくろむ馬鹿はない。

白峰が頭を上げた。

「あやつらが、あのような存念に関る、

そもそもの因がわしの盲執じゃ。

お前が言うたように因縁が因縁を呼ぶ。

そして、因縁はどうしても同じ事を繰り返し、

巻き返し、人をからめとる」

白峰のひのえへの盲執が見える。

「それが元の因」

法祥は頷いた。

だが、それだけではない。

「少しはみえるようかの?」

「あ」

普通なら、読めるわけがない。

神が明かそうとする因縁であらば、法祥にも読める。

「千年の昔にわしは黒龍と人間の女子を争うた。

人々を苦しめる事もいとわず、

黒龍の想い者をかすめとろうとした。

この盲執が今も心に根をはりつづけておる」

千年?深すぎる盲執である。

「千年の長き時を、わしは繰り返し、繰り返し、

ひのえをのぞんだ」

(つまり・・転生したのちもということであるな)

「繰り返しひのえに寄せた盲執が

ひのえの魂に因縁としてきざみつけられておる。

いま、わしがひのえを諦め、ひのえを解放したところで

刻みつけられた因縁までは消えぬ」

「それが。井戸の存念を被るもとか・・・」

「わしもお前とおなじだ。

惚れた女子を回向できず己の我執にとらわれておる。

が、要らぬ因縁を呼び込ませ、惚れた女子がくるしんでおる」

二人の陰陽師は井戸の中の存念をすくうていたのではない。

知らずの内に己らの因縁をはらさせられる巡り合わせに

添うとしていたのである。

「お前が関ることもそうであろうの」

白峰は法祥の意識を読んだ。

けして、相手を助けてやろうなぞという事ではない。

己の魂と言う見えないものに刻まれた因を解く作業を

あたえられるのである。

助けるのではない。

己が助けられるのである。

「ふむ・・・」

井戸の中の盲執をすくう。

其れすなわち己の盲執を知らされることである。

{其れを救うという事は・・・・}

こやつは法祥が伊予を回向せぬことによって刻まれる因縁を

とりはろうてやるといっているのだ。

それが、この場合の褒章なのである。

「判った。わかったから・・どうすればよい?」

覚悟を決めさせられ

法祥は、存念からの解き放ちの法を白峰に尋ねた。


「わからぬのじゃ」

「え?」

ならば、どうすればよい?

其れを法祥自ら、かんがえろというのか?

「ただ、一つ思うところがある。其れが功を成すかどうか。

やってみねばわからぬことである」

こうなると、一縷の望みにかけるのは、

白峰も法祥もおなじである。

「それは?」

「うむ・・・」

井戸の存念の正体は先祖の柊二郎である。

その柊二郎は、次男にうまれた。

当然、立場的には世で言う冷や飯喰らいである。

おらぬ方が良いくらいなのに、役にも立たぬばかりか、生きている限りくわねばならぬわけである。

おらぬ方が良い存在。

と、なった柊二郎の心に、哀しいひがみが生じる。

なにかにつけ、兄の存在が柊二郎をさいなむ。

ところが、どうしたことか、

その兄は病魔に冒されるとあっけなくこの世を去った。

途端に手のひらを返したように

柊二郎の存在が重く尊く扱われ始めた。

このまま嫁さえもらえず、我が子を見る事もなく

一生をおえるか?と、思っていた柊二郎に、

兄の妻になったばかりの由女までもがあたわれた。

なんという。奇遇であろう。

兄の死を喜んではいけないことであろうが、

柊二郎の日陰の身は一遍に

ひのあたる場所におどりだされたのである。

柊二郎の喜びはこの上もないことであった。

弟を思う兄が、死してわざと家督をあたえてくれたのか?

と、までおもえた。

だが、柊二郎の喜びは長く続かなかった。

長年虐げられた境遇は幸せの最中においてこそ疑いを生む。

本当は、皆は兄が生きておったらよいと、思っているのだ。

充足をあたえられ、何一つ、己の元の思いを

振り替えらずにすむほどに

満ち足りた生活の主になってしまうと瑣末な心が生じる。

己の存在が価値のないものだと考える生い立ちは、

柊二郎にどうしても、己の存在をすり変えてくれた兄と

自分をならべくらべずにおけない。

すでに己が心に僻みを生じさせる事を

習いにしている柊二郎が、

初めから代を継ぐ尊き存在としてぐうせられた兄と

己を較べて勝てるような考えが出てくるわけがない。

由女に対しても、おなじである。

兄の代わりでしかないのではないか?

本当ならあの兄と

添い通して生きたかった由女ではないのか?

由女を抱くとき、ことさらに兄の存在が重くのしかかってきた。

喘ぐ由女をみると、由女に女を教えた兄がみえた。

だが、美しい兄嫁への憧憬が勝った。

勝っているうちは良かった。

柊二郎の均衡がくずれだしたのは、

由女が産んだ久の成長のせいであった。

物心が付いてきた娘に

特別な夫婦の結びつきを隠そうとするのは世の常である。

其れを避けられていると取る柊二郎だとは、

由女も思いはしない。

そのうえ、どうしたことか由女は

其の後、子を成すことがなかった。

子までも兄のものしかいらぬのか?

久は柊二郎の子か兄の子か。

定かではない。

だが、家長からすれば、どちらでもよいことである。

言える事はいずれにせよ。

血筋である。それだけなのである。

いや、柊二郎に由女をとらせても、あとの子がないのである。

そうなれば、自然と亡き長兄の胤と家長も考える。

若くして死んだ子の血が継がれているのは、

多少なりとも、無念さを薄らがせる。

それだけのことでしかないのだが、

其れも柊二郎には違って見えた。

わしは子を宿らせるだけの道具だったか?

それでも、男を成す事が出来ればよかったのに、

女子の子だけである。

家長は後がもう、ないと判ると

この子に婿を取ろうと目を細めた。

それでも、代を継がせる子を孕ませたのが、

柊二郎であるなら大手をふれる。

が、あれは兄の子であろう。

わしは道具にもなれぬか?

どこまでも歪んでゆく思いに歯止めはかからない。

そんな、ある日に柊二郎はした働きの清に言い募られた。

だんな様はかわいそうでございます。

ずきりとする胸の痛みを隠しながら清に問いただした。

「なにが・・かわいそうだという?」

「だんな様は本当におさみしい」

女の方から言い寄る手管とは知らず、

柊二郎は清のいう事に耳を傾けた。

(清にはだんな様の寂しいお気持ちがわかっております)

久のことを盾に睦事を断られた柊二郎に

もの寂しさがあふれってしまっていたのである。

ほたえをもてあます女にとって、

そんな時の男ほど手にいれやすいものはない。

(清がなぐさめてさしあげたい)

初めは其の言葉どおりに受け止め、

柊二郎は清こそが己の胸に巣食う寂しさを

埋めてくれる女だと思った。

だが、清も違えば己も違った。

ほとを酔わす道具が欲しいだけの女子であった。

が、柊二郎もさして、変わらない。

(由・・女・・)

果てる時の心地よさは、

どうしても由女に重ねたい柊二郎がいることをしらせた。

「しょせん。由女に惚れておる哀れな男でしかないか」

が、由女は結局兄のものでしかない。

今。柊二郎が何度清と身体をあわせようが

心底で由女を求むるように、

また由女の心底は兄をもとめるのだろう。

が、清との関係が何時までも

由女にしられぬ所にあるわけにはいかない。

とうとう、主従の立場を忘れ、

男と女の関係に慢心しのぼせ上がった清が由女に詰め寄った。

(こういっちゃなんですがね。

あたしは柊二郎さんの子をはらんでるんですよ)

だから、男も産めない、後も孕まぬ女は

もうでていっちゃどうです。

清のうそである。

が、由女は夫の浮気に顔色も変えず、

(男子をなしたればひきとります)

と、静かに言った。

由女には由女の自尊心がある。

謝りにくるならまだしも

こちらをおどして、出て行けという。

清の言う通りならいずれ清のお思惑どおりになるのであろう。

が、なってもみてない事で、

清の言葉に負けておめおめひきさがれるか。

男の遊び心。出来心。と、許し、

男の浮気は甲斐性と言い放つ

したたかなおかみ連さながらに

由女は精一杯の見得を切ったに過ぎない。

が、それは柊二郎の中の物が崩壊する兆しを呼ぶだけになった。

こうして、柊二郎に妬きもしない石女の情は

ひとかけらとて、柊二郎に向けられた物でなかったのだと

柊二郎を決定的に落とし込んでいった。

同時に清の心根のありようが柊二郎をさした。

柊二郎を欲情を晴らす道具にするだけならまだしも、

己の安泰な暮らしを由女から奪い取るためだけに

柊二郎を利用している。

どこまで、わしを物にあつかえばよい?

憤怒を抑えるより先に

己の存在がいかに取るに足らないものかを

証拠だてる清に対する憎しみより、

由女の態度が柊二郎をおちこませた。

妬きもせぬか?

くるしみもせぬか?

わしが何をしようが心を乱す事さえないか?

結句。柊二郎にとって、清の事は

大きな狂いを生じさせるきっかけにしかならなかった。


「ふーむ」

法祥は大きな溜息を付いた。

「どうおもう」

白峰に問われ法祥は

「なぜ、由女の事を信じてやれなかったのかとおもいます」

と、返した。

「あやつが井戸の中で存念をだかえるようになったのは、

其の由女に井戸に突き落とされ

命をおとしたせいではあるがの」

「あ?」

「信じようにも信じれなくなった女子の挙動が

何ゆえであったかなぞを

もう、考え及ぶ付く柊二郎ではなくなっている」

「由女の行動は何ゆえかは判りませぬが、

其の事で、柊二郎は成仏できぬ怨念にからめとられたと?」

「そういうことだろうの。

もともと、柊二郎という男の真意は由女にしかない。

裏切りも飢えも悲しみもひがみも

由女を心底わがものと思えぬ憔悴が

生み出した心の形に過ぎないとは、おもわぬか?」

(そうだろう)

と、法祥は思う。

己が心さえ見ておれるものなら、

伊予がどこにとつごうが、誰の物になろうが、

己の心にだけ殉ずれば良いものであるはずなのに、

伊予がどこかの男のものに成ることの方が

法祥の心を責めさいなんだ。

形に過ぎない事にこだわり、

伊予を我が物にするために死さえ選び取った。

が、伊予だけが死んだ。

これで、伊予が誰の者にもならないと判ると

法祥はもう、伊予の後を追えなかった。

既に伊予は我が物である。

己の心が伊予を追うのでなく、

伊予さえ誰にも取られなければそれでいいという事である。

じっと法祥の心を読んでいた白峰である。

「つまり、そのように己の心がどうであるべきかより、

形にこだわるものなのであろう?」

「たしかに・・・」

「ならば、井戸の柊二郎が

由女が我物だと、信じれた法はなんだったとおもう?」

法祥は首をかしげた。

「わしが思うに、もし、由女が柊二郎を

井戸に突き落としたすぐさまに、

柊二郎をおって由女も

後をおうたればよかったのではないか?」

「あ・・・」

柊二郎を真意に思うておれば、由女はそうしたであろう。

いや、そうするべきであった。

が、由女が後を追う事を阻ませたのは、

娘、久の存在のせいである。

実の父に手篭めにされた久の行く末を思うと

由女はどうしても、柊二郎の後を追えなかったのである。

が、

「それは・・・」

法祥もそうあるべきであろうという事でもある。

が、伊予は意気地のない生に執着する法祥を許し

あまつさえ法祥が生き残った事を喜んで見せた。

ひとつ、違えば伊予とて、

井戸の柊二郎のように悲しい恨みを残した

餓鬼になったのかもしれない。

なれど、

(わしは、いかに伊予におもわれておるかということか)

「由女は、またお前の姿であったともおもえぬか?」

「・・・・・」

そのとおりである。

伊予がうらみがましい思いをわかし

法祥の真偽を量る事になれば・・・・。

(正に己がそうならなかったことを喜ぶしかない)

「ならば、この因縁晴らす勤めがおまえにはあろう?」

自分なのである。

伊予の思いに支えられてはいるが

柊二郎の姿はいつ、成り代わるか判らぬ伊予の姿なのである。

「はい・・・」

「それで、わしがおもうに・・・」

「はい」

「おまえこそが、動かねばこの糸をきれぬとおもう」

「はい・・」

「それでの・・・」

白峰は首をかしげながら話し出した。

黙り込んだまま法祥は土をかいだしている。

法祥が今、やっている事は墓あばきである。

(神の成させることとはおもえぬわ)

法祥は白峰に一つの引導をわたされた。

己の生き様を考え直せという白峰の言葉は、

今までの法祥をあの世に送り出す事である。

伊予と共に死ねなかったあの法祥を

今度こそ黙させるのである。

「でき・・ぬ」

霊になって法祥の前に立つしかない伊予であるが、

それでも、未来永劫、伊予を失くす定めを受け入れられない。

(伊予)

せめても、伊予の悲しそうな顔を消し去りたい。

せめて、陰陽師の被りをとりのぞいてやろう。

だが、実際伊予はどうなのだろう?

この法祥に回向されたいのか?

回向されたくなくて、あのような悲しい顔をするのか?

それとも、二人が回向されるべき者と

回向するべき者との対峙でしかなくなった事にか?

(伊予・・・)

暴きあげてゆく手に骨があたると、法祥は頭陀袋に入れてゆく。

一つ残らず拾い集めよと言うていた、白峰の横顔に

法祥は問うた。

「あきらめきれるというのか?」

白峰に千年の確執を持たせた女子を、

あきらめきれるというのか?

白峰は首をふった。

「できるわけがなかろう?が・・・」

白峰の瞳がしっかりと空を見詰た。

「想いは自由であろう?」

「想うだけか?」

「其れをもなくしとうはない」

白峰の想いの丈を量る術はない。

(想うだけか・・・・)

そういってやりたい井戸の柊二郎は、

白峰の想いの女をくるしめてもいる。

が、白峰が柊二郎を憎もうともせず

成仏の境地にたたせてやろうと、

柊二郎を己の心の盲執から、解き放とうとしているのは、

また、ここにも白峰そのものがいるせいなのかもしれない。

己の姿の映すものへの哀悼なのであろう。


「ひとつに、由女が

柊二郎の後をおってやる事ができぬかとおもうておる」

と、白峰が言った。

「へ?」

「さすれば、柊二郎の思いは昇華するのではないかとおもう」

「て、由女は当の昔に死んで・・・・

この世の人でない?

どこかで、柊二郎のように存念になっておると?」

法祥の間の抜けた問いに白峰は微かに笑ったように見えた。

「柊二郎にとって、比佐が久であった様に、

よし女が由女なのであろう」

「よし女さんに後をおわせろと?

惚れた女子大事でとんでもないことを考えなさる?

だが、そのよし女さんもとうにこの世の人でない。

神とは名ばかりの・・・」

白峰への憤りが言葉をあらくさせてゆく。

「おまえは・・・おもうたより、あほうじゃな」

「な?」

「井戸の柊二郎がそう思えばよいのだろうに?」

「おもえばよい?」

よし女と由女が同じ者と思っている柊二郎なのである。

「都合の良い事はよし女がしんでおることだ」

「は・・・あ?」


そして、法祥は墓を暴く事になった。

良女の墓を暴き、骨を残らず集め

柊二郎の井戸に投げ与えてくれと白峰はいった。

「そう・・・うまく、いくものでしょうか?」

白峰の目論見がやっとつかめた法祥である。

「やってみねばわかるまい」

よし女の亡骸を与えられた柊二郎は

由女が柊二郎の後を追う真実を見せてきたと

おもうのではないか?

と、いうのである。

だが、骨なぞ見て・・・そう思えるものだろうか?

「今の世のよし女と

とうに死んだ由女との区別も付かぬのだ。

あやつは暗い井戸の中で由女に結びつくものだけを

さぐっていたのではないかの?」

「ふううむ・・・」

「事がならぬとて、もともとであろう?

やってみてくれぬか?」

(成る程。どうりで、

端から「やってみねば、わからぬ」というわけだ)

妙な事に得心しながら、法祥はうなづいた。

「わかった」

そして、この有様なのだ。

闇夜に紛れ手探りで土を起こし、変わらす手探りで骨をひろう。

骨でないものも頭陀袋の中に詰め込んでいるかもしれないがこのさい、いたしかたないことであろう。

夜が白む前に法祥はすっかり骨をさらい終え

土を元通りかぶせなおした。

が、どうせ、人の目にとまることであろう。

いらぬ心配をさせぬほうがよいか?

墓所の主であるよし女の亭主にだけは、

はなしておいたほうがよさそうにおもえたが、

まずは、この骨を井戸に投げおとさねばならぬ。

法祥は頭陀袋をかかえると、井戸に向かってはしりだした。


朝早くから戸をたたくものがいる。

白銅が、嫌な目つきでひのえをみたが、

その同じ眼で行ってみろと指図した。

良くない状況である。

ひのえに近寄る男にまで、

猜疑の目を向け始める白銅になっている。

が、その白銅がいってみろという。

その後が思いやられるのである。

おそらく、白銅はひのえをひどく、なぶることであろう。

嫉妬が、白銅をとらえるだけである。

どうぞ、男でなく、おかみ連の誰かである事を祈りながら、ひのえは戸口の錠を開いた。

「ああ。澄明さん」

柊二郎であった。

「たいへんなのです。よし女の墓が・・あらされ・・」

後ろからぬっと、顔を出した白銅のかおつきの変わりように

柊二郎は言葉をうしなった。

「あ・・・」

白銅に言ってなかった礼をあわてて、つげだした。

が、

「白銅さん?どうなさりました?」

尋ねずにおけなかった。

「なにが?」

「あ、いえ。なんぞ、くたびれていらっしゃる様で、

お顔の色がよくない」

「すぎたのじゃろう」

白銅の答えに、柊二郎はどう返せばいいか判らないまま、

黙るしかなかった。

すぎた。

つまり・・・男と女の事がである。

新婚ののろけとは思えぬ、妙に不穏な顔色で

そういわれては、これはおじゃまをしましたかな?

と、戯れた返答もできない。

澄明にいたっては、ぐっと、歯噛みした顔が

思いつめたように暗い。

なんぞあったのであろう。

が、陰陽師の相談にのれるわけもない。

見守るしかないのである。

ひのえの方は、白銅の悋気が理性を超え始めている事に

悄然としていたのである。

白銅は柊二郎にまで、暗にひのえが自分の女であることを

布告しているのである。

ひのえにはその白銅の狂いがわかる。

眼に見え出し狂いの巾が広がり始めている。

「それで?」

わざわざ、朝早くから尋ねてきた本来の目的を

白銅はうながした。

「あ。はい。それが、墓があらされており、

井戸の蓋も僅かにはずれておりました」

「墓?」

「はい。どうやら、よし女の骨をさらえておるようなのです」

それが、だれのしわざであるのか?

何のためであるのか?

わからないまま、井戸の柊二郎が事が気になった。

柊二郎は塞ぎが甘かったのかと思えた。

仮に井戸の柊二郎が因の結ぶ甘さから外にぬけえたとして、

骨をさらえたのが井戸の柊二郎の仕業だとしても、

なぜ、よし女の骨を攫うのかが判らない。

いぶかりながらも井戸をうかがいにいけば、

はたして、僅かに蓋がずれているのである。

「井戸の柊二郎のしわざでしょうか?」

柊二郎は宙を睨むような白銅のまなざしに

思い当たる事があるのであろうと考えていた。

「でも、なんで。恐れていたよし女の骨なぞ拾う必要が・・・・、あるのでしょうか?」

「いってみるか」

当然、この期に至れば白銅はむろん、ひのえとて、

墓を暴いた男の存在は読めている。

其の後ろに白峰の存在があるということもである。

「奴は・・・何をかんがえておる?」

白銅の呟く奴は白峰のことである。

が、柊二郎は井戸の柊二郎のこととおもう。

「いったい・・どうなっているのか」

墓あばきでさえ、忌々しいことであるのに、

其れが井戸の柊二郎の仕業となると

この先ただではすまない不穏を感じ

柊二郎はぞくぞくする肩をすくめた。

引き詰まった顔の白銅が足早にあるいてゆく。


と、井戸の前である。

柊二郎の言ったとおり僅かに蓋が動いている。

が、塞ぎは完璧なものである。

「井戸の柊二郎はここから外にぬけだしてはおらぬの」

「それでは・・・骨をさらえたのは?」

誰であるかは判っている。

が、問題はそんな事ではない。

さらえられた骨が井戸の中に投げ込まれている。

骨を投げ込んだのがなんのためか?

そして骨を投げ込まれたとうの、

井戸の柊二郎はどう、しているのか?

「わからぬの」

あたりまえである。

向こう側からの塞ぎ。

裏記証をあたえているのである。

こちら側に這出た柊二郎がいれば気配におよびが付くが

塞ぎの向こう側は別の世界である。

「どうするかの?」

白銅はひのえに問いかけた。

白峰が関わっている事なぞ

白銅もみぬいていることであろう。

が、

どうしたことか、白銅には白峰の術界がわからないのである。

白銅の淀んだ眼には

白峰の真意がうつらなかったということである。

白峰の仕組んだ事がひのえには読める。

『何をたくらんでおる?ひのえを取り戻すつもりか?』

女々しくも婚礼の朝に挑戦的に

白銅の前に立った白峰の姿がおもいおこされる。

『いったい、井戸の柊二郎をどう利用するきだ?』

その柊二郎の様子を見るために塞ぎを解く事は

白峰の思う壺にはまるようにも思える。

が、このままでは柊二郎の様子は裏の世界の事であり、

みえることではないのである。

「どうするか・・・」

ひのえをねめつけるように見詰た白銅である。

白峰の図りがあるのなら、塞ぎを解けば見えてこよう。

ひのえの本意があかされることになろう。

傀儡を抱くようなむなしさをおぼえさせられるくらいなら、

いっそはっきりひのえの本意をみさだめてやろうではないか。

「奪えるものなら、奪ってみせろ。

いっそ、その方がこころよいわ」

くすぶった思いをねちねちと言い募った白峰を嘲ると

白銅は井戸の蓋を開け印綬をほどいた。


ひのえはこの時を待っていた。

「白銅・・・・。白峰の思いはまことです」

投げかけられた言葉に白銅の憎悪がほとばしった。

「なに?」

ひのえに言い募る言葉は

井戸の柊二郎の大きな叫び声にかきけされた。

「由女・・・由女・・・・由女ぉーーーー」

よし女の骨を抱く、井戸の柊二郎の存念がいる。

あれほど、己のものでなかった由女がいる。

柊二郎の後を追う由女がいる。

柊二郎に存念をはびこらせた、

たった一つの盲執のもとである由女は間違いなく

その死で柊二郎への誠をあがなった。

心がはれてゆく。

盲執が穿たされてゆく。

柊二郎の存念が消失していった。

とたんに、柊二郎の気配さえきえはてた。

白銅を湧き上がらせた存念も柊二郎の元に戻り、

共にきえはててゆく。

「なったの?」

白銅の声が聞こえた。

「ええ。仏になりました」

成仏したのである。

この世に残す思いはもう、無い。

「なったか」

「ええ」

深く頷くひのえである。

同時に白銅の狂いも終焉を迎えていた。

これも成ったのである。


「と、いうことは?」

井戸の側で事の成り行きを見詰ていた柊二郎であった。

「よし女さんが井戸の柊二郎をつれていったのですよ」

「え?」

「貴方と比佐さんの幸せをねがって、

よし女さんが一計を案じた」

「はあ?」

「よし女さんが、どこかの僧を遣って

井戸に骨をなげこませたのですよ」

「それで、井戸の柊二郎が浮かばれるとかんがえたのだろう。事実そのとおりになった」

白銅はひのえの言う所のよし女の案と言うのが

白峰のものであると気が付いていた。

「では・・・もう?」

「はい。井戸の柊二郎が現れる事はありません」

白銅はちらりとひのえを見る。

「よし女さんが比佐さんを託されたことを

よく、おはたしくだされ」

はいと答える柊二郎の顔が明るい。

「わしもじゃの」

と、小さく白銅がひのえにささやいた。

「あ」

白銅の中に狂いがあったことを

白銅はおぼえていないようであった。

が、白峰が二人に協賛してきた事だけはわかった。

身を引いた男は今も変わらず二人を守護するきでいる。

「あやつめ・・勝手に糸口をつけよってからに」

白峰の影での采配は柊二郎に伏せた。

よし女の望むところという事にしておけば、

柊二郎のなかにある、

よし女への引け目は昇華できることであろう。

「やれ、れいにいかねばならぬかの」

と、白銅はつぶやいた。白峰にである。

「ほうって、おきなさい。

式神の立場を逸脱して勝手をした白峰は

本来なら懲罰ものです」

胸の中で手を合わせるとひのえはあっさりと言い放った。

「やれ、てきびしいものじゃの」

「はい」

「その調子でわしが事も尻にしくか?」

「・・・」

「答えぬ所が・・・おそろしいの?」

答えぬひのえの背を叩くと白銅は

「この井戸もつかえるようにしてやらねばなるまい」

そのためにも井戸の祭りを始末せねばならない。

二人は後を片付け始めた。


座卓を挟んでひのえと白銅は茶をすする。

柊二郎は屋敷に戻って、

比佐とともにやはり茶でもすすっているのであろう。

「比佐さんにどういうのでしょうか?」

比佐もいずれには、墓が暴かれたことをしるであろう。

真実をはなそうにも、井戸の柊二郎の事を

比佐はなにひとつしらないのである。

知らせてはならないのである。

母親の墓が暴かれた事を比佐はおそれることであろう。

二人の交情を咎める知らせと考えはしないだろうか?

よし女が二人を許さぬ。

よし女のおる場所が無い。

怨んだ思いが墓を暴かせ、

安らかに墓所に眠れぬように成ったと、

暗示してきていると考えないか?

「なにか・・かんがえつこう」

柊二郎が何らかの手立てで

比佐の不安な疑念をふりはらってやるだろう。

「柊二郎に任せればよい」

自分の女子を護るのは、その女子の男である者の務めである。

「そうですね」

ひのえは白銅の湯飲みに茶を継ぎ足しながら

「柊二郎さんは、何もかも自分のしでかしたこと

全てを黙して、比佐さんを受け止める覚悟を

なされたようですね」

「そうだの」

注がれた茶をあらたに口に含む。

いくらか渋くなった茶は口の中で甘みを増す。

それかもしれないと、白銅は思った。

「わしは、どのみち、

井戸の柊二郎の事がなくてもあの二人は成った事だとおもう」

ひのえが思ったことでもあることを白銅も口にすると

「ただ、そうなるのは、もう少しさきであったろうとおもうし、

おそらく柊二郎の方がしかけてしもうただろうとおもう」

「は・・・い」

「今は、井戸の柊二郎に咲かされた仇花に

引きずられておるのだろうが、

いずれ、柊二郎の中できがつくことではなかろうかの?」

「はい?」

「本当の縁は良女でなく・・

比佐に結ばれるためにあったということにだ」

「あ」

ひのえの顔が満面に花を開いたようにほころんだ。

白銅は暗に白銅とひのえもそうであるというのだ。

「わしも、どこかで仇花に引きずられる己を

うとんでいたがの」

ひのえがもっとも、悔いを残す事実である。

白銅にとっても、心痛む事実であろう。

それでも、あえて、さらけ出してくる白銅の真意に

耳を傾けるひのえであった。

「やっと咲かせた花を掠め取られた白峰の思いが、

こたびのことでみえたきがしてな」

「え?」

「労せずに極上の仇花をもらいうけてしもうた」

「はい?」

「が、わしは、わしじゃ。

仇花にひきずられておるわけでない」

「はい?」

「あかしてみせようか?」

今頃は

白銅のうてなに身体をあずけるひのえが

白銅にひきずられているとしかいいようがないほど

喘がされている。

「白銅・・」

そのさまをいうのであると悟ると、

「あかしてください」

小さな声で答えるひのえが、

耳の付け根まで薄桃色にそまるのをみると、

白銅はついとひのえをひきよせた。

「はなれられのうなってもしらぬぞ」

白銅の囁きに

『望むところです』

ひのえは白銅の男の思いにうもれていく自分が

『女に生まれてよかった』

と、心底思えた。


                             終り

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