くすり、ほうたい、ばんそうこう
雪沢正音
第一章 隠した箱 I
薄暗い部屋の中、シャーペンを走らせる音だけが部屋に響く。少し開いたカーテンの隙間から覗く夜空は墨のようで、星は一つもまたたいていない。机の端にひっそりと置かれたオフホワイトの時計の針は、2時半を指している。机の上には乱雑に積み上げられた分厚い数学の参考書たち。壁に画鋲で打ち付けられたカレンダーの、6月12日の欄には「数学 小テスト」と書かれている。文字を書くたび、紙とシャーペンの先が擦れる音がだんだんと大きくなってきたように感じて、胸の圧迫感も強くなる。冷房はしっかり効いていて、温度計は23度を示しているというのに、彼女の額から一滴、頬を伝って汗がぽたりと垂れた。
平方完成して、グラフの頂点と軸を求める。X軸とY軸の直線を描き、それに合わせて滑らかな放物線を描く。凸で方向転換したところで、0.3ミリのシャー芯がポキリという軽やかな音を立てて折れる。
頭が、さあっと白くなった感じがした。
数式が書かれた紙と睨めっこしながら丸まっていた背中をピンと伸ばし、背もたれにもたれる。正面の壁を見つめ、何もない真っ白な世界に入って行った。彼女の瞳には無限の虚空が広がっているかのようだった。
机上の蛍光灯の電源をぱちりと切ると、
目を開いたまま、ぼんやりと白い天井を眺める。家の前を車が通ったぶおんという音を聞いて、涼香は目を瞑った。左の目尻から、すうっと涙が溢れた。
*
楽しそうな音楽で起こされる。
すっと目を開けると、カーテンの隙間からの明るい光が白い天井を一部だけ黄色くしている。廊下をトタトタ歩く音が聞こえて、私はあ、きた。と思った。
「涼香ー!そろそろ起きてね。浩太くん待たせちゃうよ」
母親が勢いよくドアを開けいう。
「うん」
ゆっくりと体を起こし、足先に神経を集中しておく。布団の中の温もりを少しでも溜めておこう。少ししてから布団から抜け出して、スリッパを履く。ネズミのキャラクターがにっこりとこちらをみて微笑んでいる。
顔を洗って、スキンケアをして、朝食を取って、着替えて、バレない程度にメイクをして、髪を整えて、家を出る。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母に手を振って、ドアを出る。エレベーターのボタンを押して、1、2、3、4と数字が大きくなっていく液晶を見て、エレベーターを待つ。エレベーターに乗り、1のボタンを押すと、浮遊感を少しでも軽減するためにエレベーターが動くのに合わせて背伸びをする。こうすると胃がブワってする感じが減るんだよね。なんでかわからないけど。浩太がそう言っていたのを思い出す。慣性の法則だよ。そういうと宏太はすご!と目を輝かせていたっけ。そんなことを考えながら、心が浮足立つ。
エレベーターを降りて、エントランスの重たい扉を開けたら、端の方で自転車から降りてスマホを見ている浩太の姿があった。
こちらの足音に気がついたのだろうか、彼は私を見ると
「おはよう」
と微笑んだ。
「おはよ。お待たせ」
私も笑顔で返す。
「全然待ってないよ」
自転車の鍵を開けて、またがる。その間に同じように自転車に跨いでいた浩太の隣に行き、自転車を漕ぐ。
「中間テストどうだった?」
浩太にその話題を振られ、ぎゅっと心臓が痛くなる。
「え、まあ…よくは、なかった」
「そうはいっても、どうせ涼香のことだからいいんだろうな」
ぎゅうう。
「いや、本当に。平均ないやつもあるし、あってもギリギリ」
「まあそういう時もあるよな。がんばろ」
「うん」
駅までのちょっとした坂が、いつもより急に思えた。
駅に着いて階段を上がり、電車を待つ。
「そういえばさ、まだクラスの子に言われるんだよ。いつも登下校一緒のあの子って、彼女?って。4月に仲良くなった友達には言ってあるけど、最近喋るようになった人にはやっぱ聞かれる」
浩太が リュックの紐をくるくると丸めながらいう。
「あー。私も最初言われた」
「あのさ」
「ん」
「電車が参ります。黄色い線の内側でお待ちください」
カンカンカンカンカンカン
キューーーーーーーー
ピンロン、ピンロン
「ドアが開きます。ご注意ください」
「浩太、いこ」
「ん」
電車に乗り込み、ふと左の奥の方を見ると、同じクラスの友人、梨奈がいた。梨奈の隣には梨奈の中学からの友達もいた。目が合うと、梨奈は小さく手を振った。それに私も応える。
「そういえば浩太、さっき言おうとしてたことって何?」
「ああ、いや、忘れちゃった」
「ふふ。そっか。思い出したら教えて」
「うん」
「次はー、〇〇駅ー」
電車が大きく揺れる。それと同時に、私もよろけてしまった。
「わ」
浩太は私の肩を掴むと、少し微笑んで、
「大丈夫?」
と尋ねた。大丈夫、私は小さく答えた。
「涼香は危なっかしいから。ここに居なよ」
浩太が肩を掴んだまま優しく促し、終点まで開かない方のドアの横にもたれかからせた。
「ありがと」
ちらりと浩太を見た。ん、と答えた彼の瞳は日光に照らされてキラキラしていた。
終点につき、乗り換える。駅の階段を上がる時、いつも浩太は私の隣か後ろを歩く。
「それでさ、そしたら先生が…」
学校の最寄り駅につき、学校までの道を浩太と並んで歩く。浩太のクラスである二組の話は面白い。
あっという間に学校につき、教室に向かう。
「じゃ、今日は部活あるから。気をつけて帰ってね」
「うん。浩太は部活、がんばってね」
手をふり、教室に入る。
「涼香!」
先に教室についていた梨奈が駆け寄る。
「おはよ、梨奈」
「おはよ!やっぱりさ、山郷浩太絶対涼香のこと好きだよ!」
梨奈は私の机の横に立つとそういう。
「いや、ないない。何回も言ってるじゃん。浩太は去年同じクラスになって仲良くなっただけの、ただの友達だって」
リュックサックの中の荷物を片付けながら、私は否定する。
「でもさー、好きじゃなかったら受験の時も一緒にいこなんて誘わないし、わざわざ毎朝家まで迎えにこないよ」
梨奈は私の腕をぷらぷら揺らしながら、涼香にいう。
「お互い同じ中学校からここ受ける仲良い子がいなかっただけだし、そもそも一緒に行く人いないなら一緒に行ってくれない、って頼んだの私の方だし。家に迎えにきてくれるのも、私が前に自転車で電柱に突っ込んだことあったからだよ」
「なに、電柱に突っ込んだって。たしかに涼香、危なっかしいとこあるもんね」
私の話を聞いて梨奈はくすくすと笑う。あまりにもずっと笑っているので、私はムッとして、もう、と言った。
「でもさ、涼香はどうなの?」
目は優しいが、じっとこちらを見つめているので、本気で聞いているんだ,と思った。
「なにが?」
本当は、質問の内容はわかっていた。
「涼香は、浩太くんのことどう思ってるの?」
やっぱり。
口が渇いた感じがした。
「わからない……。好きだけど、それが恋愛の好きなのか友達の好きなのか、わかんない。でももしこれが恋愛の好きだとして、でも浩太は私のこと友達の好きだと思ってて、そしたら失恋になるから、だから…」
自分でも日本語がおかしくなっているのはわかっていた。でも梨奈は真剣に聞いてくれていた。
「失恋するの、こわい?」
私はこくりと頷いて、右手で左腕をぎゅっと掴んだ。
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