第2章第6節「ゆるやかに水面を伝う嵐」
ラストリゾートの暗黒街は、その歴史の遺伝子に深く刻み込まれている。威厳ある大木の地中に深く巡らされた根の如く、暗黒街はラストリゾートの発展には欠かせないものだった。
物事には往々にして表と裏が存在するが、ラストリゾートにおいても通用する部分が多い。
それは深夜閉店した、ごくごく平凡なレストランにさえ垣間見ることができた。
「…………」
チャリン、というドアにかけられた鈴の音が暗いレストランに響く。閉店したレストランの二階でその音を聞いていたのは、月城財閥会長の秘書であった
レストランは既に閉店しているため、明かりをつけることはできない。少しでも光を確保しようと、瑛里子が座っているのは二階の窓際の席。
彼女は月と星雲の光に照らし出された席で、ひとり誰かを待っていたらしい。その最中に聞こえてきた鈴の音は、レストランに誰かが訪れたことを報せている。既に閉店した、誰も来るはずのない場所へ。
階段を上がって二階へやってきたのは、スレンダーな女性のようだ。彼女は窓際の席に人影を見つけると、迷いのない足取りで近づく。
「彼女の代理かしら?」
挨拶もなしに瑛里子の対面側に腰をかけると、少女はその気怠げな表情を光に晒した。
「葉月なら寝坊だよ。寝坊っていうか、もう寝ちゃったっていうか。まぁとにかく今日は来ない」
「別に構わないわ。同じ『クリアランス』のあなたなら話は分かるわよね。
妙に馴れ馴れしく接してくる少女の名は詩里雷奈。瑛里子は『クリアランス』と呼ばれる組織のリーダーと待ち合わせをしていたのだが、リーダーの代わりに雷奈が訪れてきた。
「早速だけど、始末はつけてきた?」
深夜に待ち合わせをしていたのにはもちろん理由がある。月城財閥の人間である瑛里子が、暗黒街の人間と接触するのは今回が初めてではない。
「リストにあった八人中八人。全員片付けたけど、ネクサスのおじさんは随分と躍起になってるみたいだね。あなたと殆ど変わらないブラックリストをよこしてきたよ」
雷奈が所属する『クリアランス』は、暗黒街に活動拠点を置く組織ではあるが実にグレーなラインにコネクションを持つ。暗黒街のグループでありながら、楽園政府ネクサスから汚れ仕事を請け負ういわゆる賞金稼ぎでもあるのだ。彼女たちを利用しているのは、月城財閥だけではない。
「ま、私らとしては同じ仕事で倍の懸賞金を頂戴できるから願ったり叶ったりって感じ。それに何人かは誰かに先を越されててさ。手柄を拾えてラッキーだったよ」
「あなた、それを当のクライアントに言う?」
黙っていれば良いことを嬉々として語る雷奈。一転して、彼女は頭を抱えて自らの失態を認めた。
「あちゃー……葉月の悪いクセが移ったかな。もしこれで金を返せなんて言われたら、口封じの手間が増えるってのに」
ネクサスからも報酬を受け取り、月城財閥からも報酬を受け取る。虫のいい話が世の中にあるわけがなく、どちらかから不満を言われても仕方のないことだ。
いざとなれば、不正の隠蔽のために実力行使も厭わない。あからさまに邪な口ぶりの雷奈だったが、それは杞憂のようだ。
「心配しないで。依頼がネクサスと被ったからといってお金を返してもらうようなことはしないわ。前金制度で助かったわね」
クリアランスがそうした不正に近い形で利益を上げられるのは、前金制度を採用しているからである。本来、指名手配犯の懸賞金というものはその首と交換で支払われるもの。事前に全額が支払われることは滅多にない。それでも、クリアランスのもとへ前金によってネクサスや月城財閥から依頼が出されるのは、信頼と実績があるからこそ。
「それにしても、一つ気になることがあるんだけど聞いてもいい?」
雷奈は表情一つ変えずに、瑛里子の瞳を見つめる。まるで綻びや弱点を見定めるような視線で。
どうぞ、と瑛里子もまた態度を崩さずに言う。言葉は時に人の心を切り裂く刃になるが、暗黒街では殊更武器になる。単なる世間話に見えても、互いの腹の探り合いに過ぎないのだ。
「どうして誰もポーラ・ケルベロスには触れたがらないの? 一応は指名手配犯でしょ」
雷奈の問いは、確かに痛いところを一突きにするものだった。ただどちらかと言えば、月城財閥にとってではなくネクサスにとって触れたくない話題と言える。
偶然か必然か、瑛里子は月城財閥の人間であると同時に楽園政府ネクサスの人間でもあった。
彼女はなるべく綻びを出さないように、選んだ言葉で答えを明かす。
「ケルベロスは魔法郷アルカディアの名門貴族の人間よ。今は没落したとはいえ、大きな問題にしたくはない。だからネクサスは、本当に切り捨ててもいいような人にしか依頼を出さないの。本物の汚れ仕事って、そういうものよ」
下手なことを話せば、自分の身を滅ぼすことになりかねない。
忘れてはいけないのが、目の前にいる少女は暗黒街の人間なのだ。いくら未成年だったとしても、背中を見せて刺される覚悟がなければ、容易に会うべきでない相手。
「金盞花が率いていた『コヨーテ』の残党狩りが公務だって言いたいの?」
対して、雷奈はおかしそうに聞き返す。瑛里子の素振りがおかしいのか、言動がおかしいのか。
「見方を変えればね」
嫌な汗が背中に伝うのを気にせず、瑛里子は真っ当な意見を貫いた。
「あっははは。あなたって面白い」
笑い声は乾いていて、静かな店内にしっとりと響く。笑い声が聞こえてもおかしくない場所のはずなのに、そこで聞こえてはならない。そんな焦りにも似た感情を呼び起こされる。
当然ながら、閉店した店から料理がくることはない。ガランとして物寂しい机の上で手を遊ばせ、瑛里子は誤魔化すように微笑んだ。
少し前まで笑っていたはずの雷奈の目は、既に笑ってはいない。そのことに気づいた時には、「それで?」と彼女は言葉を発していた。
「世間話はこのくらいでいいよね。もう報酬は受け取ってるし、私を呼びつけた理由、そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」
ここは閉店したレストランの二階。招かれざる客である二人がいるのは、紛れもなくラストリゾートの暗黒街だ。
クリアランスは仕事の報酬を前金で受け取っている。そのため、基本的には事後にクライアントと会うことはない。あるとすれば、次の依頼の時。
瑛里子は既に博物館の魔装を取引するポーラ・ケルベロス以外のテロリストの始末を依頼している。まだ全てではないにしても、少なからず依頼した人物に関してはもうこの世にいないだろう。
そして、彼女は再びクリアランスと接触を図っている。それは単に世間話の相手が欲しかったわけではない。
「財閥の会長が失踪した話について、聞いたことはあるわよね」
先ほどよりも律した声色で、瑛里子は本題へと入る。
「月城時宗に繋がる情報が欲しいの。四年前、会長は忽然と姿を消した。彼に繋がる一切の可能性を断った上でね。たとえ僅かでも可能性が惜しいのよ」
月城財閥の目下の問題は、世界魔法史博物館から流出した魔装を回収すること。そして、失踪した財閥の会長である月城時宗を探し出すことだ。
瑛里子は財閥の秘書としてシャンデリアに駐在している。仕事のためという前提があるにしても、まず念頭に置いてあるのは失踪の手がかりを掴むことだった。ネクサスというラストリゾートの表側と、暗黒街というラストリゾートの裏側。彼女はあらゆる手段を講じて、時宗に繋がる可能性を模索している。
「可能性なんて見えない方がいいよ」
しかし、雷奈は真っ向から瑛里子の行為を否定して見せた。
「未来を変えるため、未来から逃げるため、くだらない望みをかけて死んでいった人間はたくさんいる。そんな苦しみを味わうくらいなら、成り行きに任せるのが一番だよ。いくら可能性が無限にあったところで、現実は一つだけなんだからさ」
雷奈にとって、瑛里子は仕事のクライアントに過ぎない。仕事以上の関係に踏み入る必要はなく、まして質問に答える義理などないに等しい。瑛里子自身も、答えを得られないことを前提に構えていた。
だが、雷奈ははっきりと答えた。残念なことにそれは否定であったが、彼女は自身の考えについて淡々と口にする。
「それに、いざって時は神様が助けてくれるよ。運命ってそういうもんだから」
身構えていた以上、瑛里子も大きな反応を見せない。たとえ意図の見えない否定だったとしても、そこには雷奈なりの考えがあるはず。
あくまでも冷静さを手放さず、瑛里子は一定の声のトーンで言った。
「強いんだね、あなたは。私はいつまでも受け入れたくない現実を遠ざけようと戦ってる。でも戦ってるのは強いからじゃなくて、弱いからよ」
雷奈の言動はかなり合理的だ。クリアランスが暗黒街に身を潜めながらネクサスや財閥に協力するのも、自分たちまで逮捕されかねない自殺行為。それでも前金という条件付きで動いているのは、彼女たちの考えが反映されている風にも思える。
表にいながら裏の人間と協力する意味では、瑛里子もさほど変わらない立ち位置にいる。だが気の持ちようは驚くほどに対照的だ。
「それもいいんじゃない? だって、それが生きるってことでしょ。予定調和の人生って、あなたが思ってるよりつまんないよ」
まるで全ての物事を達観したかのような口ぶり。言葉だけを拾えば滑稽に聞こえるかもしれないが、雷奈が紡ぐ声色には不思議と説得力があった。
彼女が暗黒街で生きる人間だからか、クリアランスの人間だからかは分からない。
否定も肯定もする雷奈の言動は、瑛里子には到底理解のできるものではなかった。
「いいわ。教える気はないってことね。あなたが何か知っているかは、そもそも別として」
答えを聞き出すのを諦める。最初からこうなるのは分かっていたはずだ。
瑛里子は背中を背もたれに預け、交渉の決裂を素直に受け入れた。
「悪いけど、私からは何も口外できない」
すると、雷奈は席から立ち上がった。これ以上の話は無意味になる。それはお互いが分かり切っていた。
「そういう契約だからね」
去り際、ポツリと言葉を残す。
その言葉が意味するところを、瑛里子は考えあぐねていた。
ただ、遠ざかる雷奈の足音のように、会長に繋がる手がかりだけが離れていった。
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