「その手紙」その④

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 景虎の父はウェルター級のプロボクサー、母は手芸家でハンドメイド教室の講師を勤めていた。

 景虎はその湊家みなとの長男として産まれ、三つ下には妹の明里がいた。

 

 湊家は決して裕福ではなかった。父は普段アルバイトをしながら生計を立て、ボクシングの試合があると勝ったり負けたり。たまに入るそのファイトマネーで家族に少しの贅沢をさせてくれる程度だ。

 母は雑誌に作品が載ったり、その作品が賞を取ったりとそれなりに業界では有名人だった。しかし、母はテレビなどの取材が苦手だったようで特別自分を広く認知させる事はしなかった。

 母の手芸教室は人気があり、何ヶ月も生徒が予約待ちをするほどだったが、収入自体はそれほど高くない。

 

 試合前の父を支え、息子と娘の学費や家族が生活するためのお金を考えるとあまり手元にも残らなかった。

 小学生の頃、景虎と明里の二人は聞いた事がある。「どうしてお母さんはテレビに出ないの?」と。テレビに出ればより広く認知されてもっと生徒が増えるだろう。ギャラも支払われるはずだ。細々と教室を続けるよりずっと稼ぎが良いはず。だが、母は笑って答えた。

 

「テレビに映るのはお父さんだけで充分よ。私が忙しくなったら二人が寂しいでしょ?」

 

母は景虎と明里によくそう言っていた。

 

 

 

 そんな湊家で育った景虎少年は、心優しく大人しい性格で正義感が強かった。そして何よりボクサーの父に憧れていた。

 

「火をつけろ、景虎」

 

これは父の口癖だった。父はアスリートを自称するくせに煙草が好きでよく吸っていた。幼い景虎にライターを持たせて火をつけさせるのが親子の交流の一つだ。

 今思えば、父は普段遅くまで肉体労働に働きに出て、ジムでトレーニングをし、試合があれば辛い減量と更なるトレーニング。そして殴り合いの試合。きっと辛くストレスの溜まる生活だったのだろう。

 だが、父は他に金の稼ぎ方を知らなかった。

 

 そんな父は自分に学が無いのを日頃、悔やんでいた。父の家は「複雑」な家庭で勉強できるような状況ではなかったらしい。結局は自分もグレてしまい暴れ回った末に辿り着いたのが格闘技、ボクシングの世界だった。

 父はきっと学ぶ事も、人との接し方も、何も知らず不器用だったと思う。戦う事でしか自分を表現出来ず、また父親の姿を見せてやる事ができなかったのだろう。それは自分が親にそうして貰えなかった為に、どうすれば良いのか知らなかったからだと今にして景虎は思う。


 幼い景虎に煙草の火を付けさせるのも、目の前で煙草を吸ってその間、付き合わせて話をするのも、もちろん良い事ではない。世間では父親失格だと言われるかも知れない。だがきっと父なりに不器用な照れ隠しと精一杯の交流だったのかも、と後になって気づいた。それでも父は景虎にとって、強くて格好いい憧れの男だったのだ。

 

 

 そして、景虎が八歳の時にその父は死んだ。

 

 原因は試合中の事故、という事らしい。父は典型的なインファイターで、相手が格上でも打たれ強さを発揮し試合がもつれ込む事も多かった。その時もそうだった。

 その試合は父の念願の日本タイトルへの挑戦。年齢的にも肉体的にもボクサーとしてのピークを過ぎていた父がやっとこぎ着けた夢の舞台でもあった。いつも以上に気合いの入ったトレーニングと減量で、おそらく父の選手生命で最も調子が良かった試合ではないだろうか。

 

 相手は父の七歳下の若手のホープ。父とは対照的なアウトボクサースタイルで華麗にリングを動き回り敵を翻弄するのが得意な選手だ。そして学生時代から天才と持て囃され鳴物入りでプロへ進出。天才の名に相応しい実力であっという間に日本チャンピオンになった男だった。

 何から何まで父と対照的。世間一般の評価は景虎の父の引退前の「記念試合」の様な扱いだった。

 だが、父はそれを覆した。

 

 第一ラウンドは相手の一方的な展開だった。しかし、第二ラウンド。父の一発のボディブローが相手を捉えた。そこで試合の流れが変わった。

 天才と持て囃され、ノリに乗っていた若手のホープは打たれ慣れていなかった。対する父はまさに不屈の男。じりじりと耐え、長年培われた技術と経験値、そしてその度胸で追い詰めていく。

 

「いけ、とうちゃん! いけえ!」

 

景虎は最善列の一番よく見える席でリング上の父の勇姿を最後まで見届けた。

 

         


         



          ◯

 試合は父の判定勝ちになった。父は夢の日本チャンピオンになったのだ。判定がくだり父の勝利が確定した時、リングの上で父に肩車をしてもらった。破れんばかりの歓声、父を祝福する声。嬉しそうな両親の顔。多分、その時が景虎にとって父との人生最良の瞬間であり、最後の幸せな交流だったかもしれない。

 

 後日、家族でチャンピオン就任祝いに遊園地に行った。その日は丸一日遊んだ。湊家は裕福ではなかったが、景虎は、僕が一番幸福な少年なんじゃないかと錯覚してしまうほど楽しかった。

 

「何か甘いもの食べたいね」

 

「アカリも食べたいっ」

 

 一日遊んでもう夕日が差す時間になっていた。そろそろ帰ろうかと話になっていた時に母と明里がそう言った。確かに甘い物が食べたい。景虎は父と共に売店にチュロスを買いに行くことになった。

 

 夕日が差し、だいぶ人がまばらになった遊園地で景虎は父と手を繋ぎ歩いていた。

 

「とうちゃん、俺もプロボクサーになるよ。とうちゃんみたいに俺もチャンピオンになるんだ」

 

景虎が無邪気に言うと、父は意外にも渋い顔をした。

 

「いやいや、お前は普通に大学に行ってデカい会社に入ってくれ。いっぱい本読んで、いっぱい勉強して母さんを楽させてやれ」

 

「なんでさ、俺も戦いたいよ」

 

丁度、売店まで到着したところだった。父はそう言う景虎の頭を優しく撫でた。

 

「勉強しろ景虎。戦うな、守れ。プロボクサーの先輩からの有難い言葉だ。でもな、俺に憧れてボクサーを目指してくれるのは嬉しいぜ」

 

「ううん、そうだね。俺は勉強するし、まもるよ」

 

 景虎には父の言う事の意味が分からなかった。だが何か大切な事を伝えてくれているのは感じた。景虎はしっかりと父の意志をその時に受け取った。

 

「じゃあ、俺は疲れちゃったからベンチに座って待ってるよ。景虎、お前が四人分買ってこい」

 

「わかった!」

 

父に五千円札を持たされ、景虎はすぐに売店に行こうとした。だが、父が呼び止めて一言だけ言うのだった。

 

「景虎、ありがとうな」

 

父が微笑むと景虎は嬉しくなった。そして元気良くうなづくと、売店に走った。

 

 

 チュロスを家族分買って景虎が父の待つベンチに戻った時、父は眠っていた。夕日に照らされた父の表情は穏やかで、何か幸せな夢でも見ているかの様だった。

 

「とうちゃん?」

 

景虎が何度呼んでも父は応えなかった。もう起きては、くれなかった。

 

          

          


          

          ◯

 父の死因は試合中に受けた頭部への激しい打撃の後遺症らしかった。後半、激しい撃ち合いになり何度か危ない場面があった。しかし、父は持ち前の不屈の闘志と打たれ強さで倒れなかった。それが裏目に出たのだった。

 所属するジム側は父により詳細な精密検査を勧めていたらしい。しかし父は応じなかった。まずは家族と遊園地に行く、との一点張りだったのだ。今思えば自らの命の灯火が消えかかっているのを予期していたかのかも知れない。

 

 もっとしっかりと無理やりにでも検査を受けさせるべきだった。ジムの関係者が総出で湊家に謝罪に訪れた。ジムの会長はチンピラ同然だった父を息子の様に可愛がり、立派なボクサーに育てた人だ。彼は涙を流して母に何度も頭を下げた。

 しかし、母は責めなかった。ジム側も、会長も、対戦相手の選手も、母は最後まで誰も責める事はしなかった。

 

「あの人が戦い抜いた結果ですから。私は、それを尊重します」

 

母はそれだけ言葉を返すと、背後にいる息子と娘の事も忘れて玄関先で泣き出した。景虎にはその時、いつも大きく強く見えていた母がとても小さく見えた。

 

 

 そして父亡きその後も、家族で住んでいたアパートに住み続けた。母方の祖父母はすぐ近くに住んでいたので景虎と明里はよく預けられたりと、サポートが受けやすかったのは幸いだった。

 その間に母は、昼間は手芸教室の講師を掛け持ちし、夜はコンビニとビル管理のアルバイトを始めた。祖父母の支援はあるが、それでも女で一つ息子と娘を育てないといけない。母の覚悟は想像を絶するものだっただろう。だが、絶対に子供たちの前で弱音を吐く事はしなかった。

 

 景虎はというと、父のいたボクシングジムに通うようになっていた。ジムの人間は景虎を暖かく迎え入れ、手取り足取りボクシングを教えた。

 父の様に強くなりたかった。だが、ボクサーは目指していない。父との約束のためだ。

 

「勉強して、本を読んで、戦うんじゃなくて守る」

 

景虎は父に貰ったその言葉を自らの指針にして成長していった。

 

 日本チャンピオンが悲劇の死を迎えた。その話題は一時の間、湊家を巻き込んで騒ぎになったのだった。でもそれは時間と共に風化した。もう誰も父の事を話さない。

 

「構わないさ、俺が覚えてる」

 

景虎はその少年時代を父との別れで終えた。

 

 



────その⑤につづく

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