蒼茫の大地、異世界に召喚さるる
らっちぇぶむ
第1話 序章・転移前 異世界から来た御方
一
東京都は上野公園にて咲く夜桜は、すでに満開の盛りを終え葉桜に変わろうとしていた。かつては花見客でごったがえしていたこの場所も、東京都による浮浪者排除のあおりを受けて夜間の入場規制がかけられるようになってから、夜に人影を見ることもほとんどない。
そう、ほとんどない、であっていないわけではない。
街灯の明かりの影になるあたりには、耳にイヤホンを差したダークスーツ姿の男達が気配を消してたたずんでおり、周囲の空気を張り詰めさせたものにしている。男達は時々、襟にはさんだ小型マイクに向かって何かをささやいていて、彼らがなにがしかの理由をもってこの場につめていることがうかがえた。
上野の街の夜の喧騒がかすかに聞こえてくる中、公園ゲートが開放され数台のセダン車が場内に入ってくる。そして、こずえ茂る一角に面した路上で停車し、車中から複数のダークスーツを着用した男達が降り立ち油断なく周囲を確認した。周囲に脅威となる何物もないことを確認すると、ひと目で高級車と判る黒塗りの車の後席ドアを囲むように移動し、扉を開いた。
日本最大の、すなわち世界最大の乗用車メーカーが誇る貴賓専用車の中から降り立ったのは、水銀灯の薄明りでも映える霜銀の長髪を左右側頭部で紅い髪飾りにてまとめて垂らし、黒いベレー帽をのせたうら若き女性であった。年の頃は二十を挟んでいくらか前後するくらいであろうか。人工の輝きのもとでもわずかな瑕瑾とて無いのが判る白皙の美貌は人ならざる気配をすら発しており、切れ長の眼の中の紅玉のごとく煌めく双つの瞳には、外見年齢ににつかわぬ知性と悟性と威厳すら見て取れた。
麗人が降り立ったところで一人のダークスーツ姿の男が一歩前に出で、直立不動の姿勢となって腰を四十五度に曲げる皇族に対する礼をもって対した。
「ご苦労様でした」
無言で腰を折っている男に向かって彼女は、それが当然とでもいう風情で声をかけた。
「恐縮にございます、陛下。今宵は晴天の満月。「ご帰還」にはよろしい頃合いかと存じます」
「そうですね。相変わらずここはとても心地良い「魔力」に満ちていて。ふふ、次に訪れる時も皆さんよろしくお願いしますね」
「もったいないお言葉にございます」
鈴を転がすような声で笑う麗人の言葉に、男は直立不動の姿勢へと戻ると左手の中指でメタルフレームの眼鏡の位置を直し、一度周囲に視線を巡らせた。
と同時に男は右手でハンドサインを出し、するりと陛下と呼んだ女性をかばうように位置を変えた。
周囲の男達は一瞬で彼女の周囲に展開すると、左手でダークスーツのボタンを外し、右手をそのふところへとすべりこませてポリマーコーティングされた大型の軍用拳銃を取り出し、両手で銃把を握り右手人差し指を引金にあて、銃口を地面に向ける。その周囲に巡らされる視線には、何か異状があれば即座に暴力をふるうことにためらいのない、抜き身の刃を思わせる殺気がこめられていた。
ごく短い、だが息詰まる時間が過ぎ、メタルフレームの眼鏡をかけた男は右手を振って危険が無くなったことを皆に伝えた。
「……慮外者が無力化された事が確認されました。宸襟を騒がせたてまつり、まことに申し訳もございません。これにて「ご帰還」を妨げるものはございません。どうぞご安心を」
「ふふ。貴方のその「力」の冴え、変わっていないですね。嬉しいです」
「お褒めにあずかり恐縮にございます」
寸前の緊張がまるで無かったかのようにころころと笑った彼女は、ダークスーツの男の一人からキャリー付きのスーツケースを受け取ると、ごろごろとたいそう重たそうな音を立てるそれを引っ張りながら、インターロッキングの歩道から踏み固められた土の上へと茂みの中に入っていった。
彼女は、ある一点で足を止め右手を振りかざすと、何か楽器でも奏でるかのように指を躍らせはじめる。
すると彼女を囲むように、幾何学模様に記号めいた文字が配された光り輝く円盤が顕現し、一枚二枚三枚十枚と積み重なってゆく。
そして、その霜銀色の輝きが麗人を完全に覆ったかと思うと、ひときわ大きな輝きを発し消え去った。
公園の水銀灯の薄明りの影には、人影はもはや無く、その場に残された足跡だけがかの麗人がここにいた事を示すのみであった。
「サカキ08より全員へ。「エンプレス」は「帰還」した。撤収準備に入れ」
メタルフレームの眼鏡の位置を左手の中指で直した男は、ダークスーツの襟につけられた小型マイクに向かって指示を出すと、右手でスーツの中の無線機のチャンネルを変更し、新たな指示を発した。
「ツツジ班、端末を確認。上野広小路の指示する建物へ向かえ。屋上に狙撃犯とその協力者の死体がある。周囲の狙撃ポイントを確認。二人を射殺した第三者の痕跡を探せ。サカキ08終わり」
春はあけぼの、とばかりにうららかな日の午後、東京都千代田区霞が関二丁目は中央合同庁舎二号館の警察庁が入っているフロアの一室の扉の前で、篠竹峻彰警視正は、一度左手の中指でメタルフレームの眼鏡の位置を直してから、上司である外事課長のオフィスの扉をノックした。
「篠竹です、入ります」
「おう、入れ」
再度左手の中指でメタルフレームの眼鏡の位置を直した篠竹は、上司の返事を確認するとオフィスに入った。
オフィスの中では、頬骨が目立つ眠たそうな眼の中年男性が、背広の上着を脱ぎネクタイを緩めたラフな格好で執務机に向かい、腰をずらしただらしのない恰好でチェアに座っていた。
「先日はご苦労さん。それで?」
「はい、現時点の捜査結果はこちらの報告書に。概要となりますが、4月11日午後10時37分、警護対象を狙ったと思われる狙撃犯の存在を確認、私が「対処」に入ろうとした瞬間に、未確認の第三者によって射殺されました」
その殺風景と言って間違いのないオフィスの中ほどで姿勢を正した篠竹は、右わきに抱えていた書類挟みを上司の座るデスクの上に静かに置いた。
「現場には、狙撃手と観測手と思われる二名の射殺死体が残されており、両名とも頭部と胸部に弾痕があり、体内に銃弾が残っておりました。死体と銃弾は上野署の鑑識に回しましたが、うちから二名貼り付けています」
「うん、この写真だね。……脳みそと心臓を見事に撃ち抜いてるねえ。この写真だと軍用の弾に見えるけど?」
「はい。現場から200メートルほど離れた雑居ビルの屋上に、殺害に使用された弾丸が収まっていたと思われる薬莢が、四個並べて残置されていました」
執務机の上で報告書や写真を広げて目を通している上司に向かって、篠竹峻彰警視正は先日の夜起きた事件について淡々と説明を続けてゆく。
それを聞いているのか聞き流しているのか、中年男はぼんやりとした表情で一枚の写真を手に取った。
「ふーん、この薬莢、豊原工廠の刻印入りか。やっぱり「北」の工作員かねえ?」
「断言はしかねます。実包は東側規格の7.62ミリ小銃弾です。世界各地で流通している物ですし入手は容易ですので」
「だよねえ。で、監視カメラの方は?」
「今うちの者を所轄のサイバー課に向かわせていますが、はかばかしくないと報告が。雑居ビルの出入り口、周辺の街灯や信号機、駅構内、どの監視カメラにもそれらしき人影は記録されていない、とのことです」
西暦2020年代に入った日本国では、防犯や犯罪の確実な捜査のために各種の監視カメラが普及している。特に都市部では街灯や信号機に監視カメラを仕込み、その映像データをAIで分析する事で、これまでは逮捕がむつかしかった軽犯罪犯や、ひき逃げ犯、振り込み詐欺犯などの逮捕率が格段に上昇していた。
当然警察は、軽微な犯罪の捜査のみならず、今回のような刑事事件での捜査にもそのシステムを積極的に活用し、犯罪検挙率の向上に活用している、事になっている。
「クラッキングによるデータ改竄の可能性は?」
「無くはないですが、極めて低いだろう、と」
「そうだろうねえ。わざわざ「自分がやりました」って痕跡を残していっているんだもの。犯人はもう高飛びしたあとかもねえ」
「はい。現在羽田空港と成田空港に照会中ですが、ならんかの情報が判明するまで数日はかかるかと思われます」
21世紀も20年が過ぎてAI技術が進歩しても、一瞬で怪しい人間を判別する事は不可能である。人工知能とはいってもしょせんはデータベースとその検索分析評価システムなわけであり、何を探すのかが明確でないのならば、条件を絞り込んでいって該当しそうなそれらしき存在につきあたるまでどうしても時間がかかる。
「……今回の「エンプレス」の「来訪」だけどさ、それについてらしい情報のやりとりが、北京と大使館との間で傍受されたんだと」
外事警察は、対外防諜機関として各種の情報収集手段を保有している。そのうちのひとつが、日本全国に配置されている自衛隊の電波受信施設などに間借りする形で置かれている電波電信情報収集組織である。
当然ネット経由でやりとりされる情報についても、秘密裏に収集しAIをもちいた暗号解読と分析評価をおこなっている。こんなところでもAI技術の発達による恩恵があらわれていた。
「豊原に動きは?」
「そっちは自衛隊さんの縄張りだからねえ。すぐに情報は回ってはこないでしょ。ただ、この件に関して官房長に説明を求められていてさ。これから報告に行くんだわ」
「……官邸が注目している、と」
警察庁長官付の官房長は、単なる事務方のトップというにとどまらず、直属のスタッフとしてそれぞれの部署間の調整を行い、諸々の案件について長官に助言できる立場にある。その官房長が昨日の今日で直々に興味を示したという事は、縦割りの弊害いちじるしい日本政府の官僚組織においては中々な珍事といっても過言ではない。
「そういう事だろうねえ」
「……了解いたしました。それを念頭において情報を精査し直します」
「おう。じゃ、俺は出るからあとはよろしくね」
「はい」
篠竹は、腰を折って一例すると足早に外事課長のオフィスを退出した。
彼の頭の中では、すでにどこで何を重点的に調査し捜査するべきか、方針が素早く組み上げられていた。
篠竹峻彰警視正が「エンプレス」と呼んでいる麗人がこの地を去ってから、さらに数日が過ぎた。
中央合同庁舎は警察庁のとある会議室で、彼は部下達からの報告を受けていた。
「ガイシャの身元ですが、狙撃犯は李和則102歳、1917年生まれ。1947年にビルマからの復員中に復員船内から失踪、「エンプレス」によって保護され1983年に日本国に「帰還」、日本国籍のままであったため我が国で保護された、と記録に残っていました」
「そして「帰還者」向けの公営法人職員として今に至っていた、と」
部下が提出した報告書に目を通しながら篠竹は、表情をうかがわせない瞳のまま射殺された男の履歴を追ってゆく。
「ガイシャは、おととしの2018年ごろから風俗店通いが頻繁化し、経済的に逼迫していた形跡がみられます。そして、事件の翌日の羽田空港からマニラ行きの飛行便の切符を手配しておりました」
「同行予定者は?」
「確認されておりません。風俗店でガイシャがひいきにしていた嬢は、事件の三日前に成田空港からシンガポール行きの飛行便で出国しており、香港で足取りがつかめなくなっています」
「李和則の事件当日までの足取りを追っていますが、複数回中国大使館職員と接触していることが判明しています。ちなみに該当する職員は、事件前日に成田空港から北京に出国しており、足取りはつかめておりません」
篠竹は左手でメタルフレームの眼鏡の位置を直すふりをして、内心に浮かんだ感情を処理することで平静であるかのようにふるまった。
「もう一人のガイシャですが、指紋から香港籍の中華系と判明しています。入国時に成田空港で採取された指紋と一致しました。趙呈功36歳、三週間前に観光ビザでの入国とあります。なお本庁のデータベースに該当者の情報はありませんでした」
「安企部か解放軍か、どちらにせよ市ヶ谷に照会するしかないな。それは上に判断をあおぐ」
二人の写真に一度視線を落とすと、篠竹は別の部下に報告をうながした。
「ガイシャの持ち込んでいたライフルですが、ウインチェスターM700狩猟用銃です。シリアルナンバーな削られており入手先は判別できませんでした」
「ガイシャの死亡時間、事件現場から「エンプレス」を視認することは不可能な位置関係にあった。だが、ガイシャが「帰還者」だとすると、なにがしかの狙撃を成功させる手段を有していたと考えざるをえないな」
自分と同じように「エンプレス」によって異世界から日本に「帰還」することができたのに、助けてもらった恩を仇で返そうとは。
哀れみとも怒りともつかない感情を押し殺すために、篠竹は少なくない努力を必要とした。
「……これは報告書には書かなかったのですが」
「構わない。口頭でたのむ」
「はい。市ヶ谷の情報本部の人間から、「北」の軍人の名前を示唆されました」
「……それは?」
篠竹は、あまりにも楽しくない予想に目を細め、すぐに左手の中指でメタルフレームの眼鏡を直すふりをして表情を消した。
報告を求められた部下は、メモも手帳も見ずに内容を口にした。こうした業界でやってゆくには、記憶力の良さは必須となる。下手に記録を残すようでは、どこから情報がもれるからわかったものではないからだ。
「ええと、本多・亜希・ロズィームナ、日本人民共和国国防軍少佐、……参謀本部情報部所属、だそうです」
「……つまり」
「はい、本庁のデータベースにありました。1993年に「エンプレス」によって「帰還」、協定により「北」に引き渡された「帰還者」です」
「エンプレス」「エンプレス」「エンプレス」
篠竹は何度か口中でその名前を繰り返してから、苦いものを飲み込んだ。
あの麗人によって異世界に拉致された身を助けられ、この冷戦時代の終わらない極東の地に帰ってきた者たちが、今この時にまた「エンプレス」をめぐって交錯した。
それを偶然として思考し処理できるほど、篠竹は唯物論に傾倒しているつもりはなく、また状況証拠もあからさまに過ぎた。
「この件は上に相談の上、今後の捜査方針を決定する。以上だ、皆、ご苦労だった」
篠竹は、盛大な厄ネタの到来の予感に顔をしかめそうになるのをこらえ、部下達が会議室から退出するのを待ってから盛大に名前もしらない何かをののしった。
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