第六話 十二年越しの婚約指輪③

 ◆

 頭が痛い、割れそうだ。頭だけじゃなくて全身がズキズキする。無意識に寝返りを打とうとして、頬に触れた固く冷たい感触がロザリーを強制的に覚醒させた。


「痛っ……!」


 ロザリーの目の前にあったのは、ごつごつした岩肌、表面は黒く湿っていてうっすらとこけが生えている。

 それから水のにおい。ぴちょん、ぴちょんと水滴の滴る音が反響し、かすかに流水音も聴こえる。


(――ここは、洞窟?)


 肌を刺すような寒さに身体が強張った。目の前に広がるのは薄暗い洞窟だ。湿った岩がごつごつと山積し、かび臭い空気が充満している。狭苦しく感じないのは入口に近いからだろうか、ロザリーの倒れこんでいる十メートルほど前方にぽっかりと空洞があってそこから外の光が差し込んでいた。

 一体何がどうなっているのかと身体をよじった瞬間、視界に大きな影が映りこむ。


「――⁉」


 熊か何かの大動物かと思ってロザリーは硬直した。熊、ではなかったがそれに匹敵するほどの巨躯きょくがロザリーの顔を覗き込んでおり、その見覚えのある顔に戦慄する。


「……っ!」


 それは以前王都の路地裏でロザリーの首を締めあげた大男だった。あまりの不意打ちにロザリーは悲鳴も上げられずに固まる。だがその男はロザリーの顔をじっと凝視するだけであの時の様に襲ってくる気配はない。すぐに距離を取ろうとしたがロザリーの身体が思うように動かない。そこでようやく、ロザリーの手足がロープで固く縛られていることに気が付いた。


(なんでこんな……)


 一体何がどうなってこんな状況におちいっているのか、ロザリーは理解が追い付かない。


「やあ、気が付いたかい? 聖騎士様」


 そんなロザリーに声をかけたのは大男の後方に立っていた男だった。じめじめした薄暗い洞窟の中には似つかわしくない貴族風の身なりをした男。だが、その立ち居振る舞いは明らかに高貴な人間のそれではない。そしてその憎らしい笑みには覚えがあった。


「お前……、路地裏にいた……!」

「はは、覚えていてくれて嬉しいよ」


 男は下品な笑いを浮かべロザリーを見下した。


「自己紹介がまだだったね、俺はヨハン=セルマン。リベルタ家に仕えていた」

「リベルタ、って……まさかリベルタ商会の……?」

「まあね」

「ここはどこだ? いったいどうして私を捕らえた?」


 毅然きぜんとした態度で質問をすると、ヨハンと名乗った男が静かにこちらに近づいてくる。動けずに固まっているロザリーの顎を無理やりつかんで顔を持ち上げた。


「ここはブラムヘンの町にほど近い洞窟だよ。まったく……、素直にあの屋敷で大人しくしておいてくれればいいものを。急に飛び出すからこんなところに連れてくる羽目になってしまったじゃないか」

「……? どういうことだ?」


 ロザリーはまだズキズキと痛む頭で必死に状況を整理する。ロザリーはこの男の指示で攫われた。リベルタの名を出すという事は恐らく例の脅迫の件と何か関連があるはず。フロレンツィアと間違われたか?


(いや、今の私の姿はどう見てもお嬢様には見えない)


 令嬢のドレスでもなければ、使用人の服でもない。質素な庶民の服を着たロザリーをフロレンツィアと誤認して誘拐する理由はないだろう。


「お前たちの目的はフロレンツィアお嬢様じゃないのか?」

「それはリベルタ家の標的だな。本質的な目的は同じだが、俺の標的はあのお嬢様じゃない」


 まだ理解ができない。ロザリーがここに連れてこられたのはどうしてだろう。


 ――いや待て。そもそもロザリーはどうやってこんなところに連れてこられたのだ?


 ロザリーは確か王都に向かって馬車に乗っていたはず。そこで夕食を食べているうちに気を失った。その時、一緒にいたのは――、


「俺の目的は最初からお前ひとりだ。そのために、弟にも協力してもらったんだから。――なあ、ハンゼ」


 ヨハンの後方に幽鬼ゆうきの如く立っていたのは気を失う前に共にいたハンゼだった。ハンゼはこちらを見ようともせず、苦しそうな顔で拳を握り締めている。


「ハンゼ……、弟って……」

「どうやら君は何も知らないみたいだから、せっかくだし教えてあげよう。なに、あいつが来るまでまだ少しばかり時間がある」


 ヨハンはロザリーから距離を置くと、傍の岩に躊躇ちゅうちょなく座った。足を組んでこちらを見下ろすと、「さて何から話そうか」と含み笑いを浮かべる。


「俺はハンゼの実の兄だ。大昔に家を出てリベルタ家の使用人として働いていた。ハンゼと仲の良かった君は知っているはずだ。ハンゼの横暴な父親をね」


 酒浸りで暴力をふるうハンゼの父。今はもう随分と覇気がなくなってしまったと言うが、今でもハンゼはその父親の存在に苦しめられている。


「俺はね、八つの頃あいつに反抗した結果、半殺しにされた挙句人買いに売られた。とある貴族に奴隷として買われ、地獄のような日々から逃れるために主人を殺し金を強奪して逃げ出した」


 その男は淡々と想像も絶する過去を話し出した。ロザリーは衝撃で言葉が出ない、その間にも男は話し続ける。


「逃げ込んだのは王都の貧民街、国内で最も凄惨せいさんといわれる街で、俺は文字通り地べたを這いずって生きた。みじめでも必死で食らいついて生き延び続けた末、あいつと出会った。――ルッツだ」

「……!」

「あいつは戦争で母親を亡くし身寄りもなく王都に流れ着いて、俺と同じような生活を送っていた。今にして思えば傷の舐めあいだったのかもしれないが、俺たちは同じ世界の理不尽を呪う子供同士で結託し、仲間を集めてその町の覇者となった」

「それって――」

「ジャックドー。無知で無学な、何も持たない哀れな子供が集まった集団だよ」


 ヨハンは自虐的な笑みを浮かべた。


「あの頃は楽しかった。子供ながらに――いや、子供だからこそなしえた事だったな。世の中を知らない餓鬼だからこそ良かった。井の中のかわずとはまさにあの事だ。でも、俺たちにとってはあの世界が全てで、なんでもできると思っていた。

 そしてそんな世界を作り上げたのがルッツだ。あいつは誰よりも世界を憎んで、手が付けられないほどに狂暴だった。親友の俺ですら、あの苛烈かれつさが恐ろしかった。だがそれ以上に惹かれるものがあった。若いゆえの危うさが、何よりも俺たちの心を惹きつけて離さなかった。

 俺はあいつの傍であいつが作り出す世界を眺める事が何より嬉しかった。こいつとならこの国を、世界を変えられるなんて思っていた。……まあ今となっては若気の至りでしかなかったんだけどさ。でもあの時の俺は本当にそう思ってたんだよ。――なのに、」


 ヨハンを纏う空気が突如冷たくなる。ヨハンは急に立ち上がると、大股でロザリーに近づき容赦なくロザリーの胴を蹴り上げた。


「っ⁉」


 突然の衝撃に備える事すらできずロザリーは激痛に顔をゆがめる。


「十二年前のあの日……、あいつはお前らに会って一瞬で変わりやがった。突然現れたあの能天気な劇団の奴らに……!」

「……!」

「だから俺はぶち壊してやったんだ! 劇団も、あいつの人生も、そして――」


 ヨハンは息苦しさにあえぐロザリーの髪を掴んで持ち上げた。ロザリーの眼前に、憎悪に歪む男の顔が迫る。


「あいつを腑抜けにした最大の元凶であるお前を痛めつけてやったんだ」


 その瞬間、ロザリーの脳裏にあの朧気おぼろげだった陰惨いんさんな光景がフラッシュバックした。今まで一番強烈にあの時の事を思い出す。

 幼いロザリーは身体の自由を奪われ、大の男たちに囲われ暴行を受けた。泣き叫んでも、やめてくれと懇願しても終わらなかったあの地獄を思い出し、ロザリーは本能的にガタガタと震えだす。


「あの、時の、あれは、お前が――」

「本当は殺してやろうと思ったのに、思いのほかルッツが早く勘付いちまってな。でも重症のお前はそのまま衰弱死して、ルッツも軍の出動で逮捕されて死刑にされる。俺を裏切った連中を皆一網打尽に出来る。そういう手筈だったのに……!」


 ヨハンはロザリーの頭を勢いよく地面に叩きつけた。衝撃で一瞬意識が飛ぶ。視界がジワリと赤く滲む。


「あいつは無罪放免で釈放され、あろうことか公爵家の人間になった。ベルクオーレンの私生児だって⁉ ふざけるな!」


 罵声を浴びせられてロザリーは委縮し動けない。痛みと恐怖に必死に歯を食いしばると口の中に血の味が広がった。


「俺が滅茶苦茶にしようと思っていた連中は何もかも元通りだ! それどころかルッツはあれから辺境伯様になって勝ち組だ! 俺はどうだ? ジャックドーの全てを失ってあとに残されたのは惨めさだけ。畜生! なんで俺ばかりこんな目に合わなきゃいけないんだ!」


 ガンガンと頭を叩きつけられる衝撃に耐える。だが、何度も何度も打ち付けられるにつれ、ロザリーは逆に冷静になっていった。ひょっとしたら恐怖のあまり気が狂ってしまったのかもしれない。でも、


 ――今目の前にいるこの男よりも、私はずっとまともだ。


 ヨハンは息を荒げようやく手を離し、はは、と乾いた声を漏らす。


「……まあそれでも大人になってさすがに溜飲が下がったよ。それどころか、あの時は何て恐ろしいことをしてしまったんだと後悔もした。俺もあの後リベルタ家に拾われて当主には大層かわいがって貰えたからね」


 ロザリーの視界にぼんやりと映る男の目は濁りきっていて、どこか泣いているようにも見えた。その顔にどこか見覚えがある。

 後悔、贖罪しょくざい。そのたぐいに縛られた男の顔。


(ああ、あいつにそっくりだ)


 危険を冒したロザリーを責める顔、過去を打ち明けて拒絶された時の顔。


 ――ごめん、ごめんな。ロザリー。


 自分のせいで暴行を受けたのだと、ロザリーに必死に謝っていた苦しそうな顔。


 ああ、ようやく一つ思い出す事が出来た。


 一歩間違えれば目の前のヨハンの様になっていたのかもしれないルッツの姿を。ロザリーはようやく鮮明に頭の中に描く事が出来るようになったのだ。

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