第五話 獅子と溝鼠⑤

 ◆

 それからルッツは気が向くと『サンヴェロッチェ』のテントを訪れていた。王都での公演は二か月ほどだそうで、最初に訪れた野営地は相変わらず稽古に勤しむ団員で賑やかだった。


「今日は剣の稽古をしよう、ルッツ」


 ルッツが顔を出すと、すっかり懐いたロザリーはよく稽古の相手をしてくれとせがんできた。喧嘩はしょっちゅうしてきたルッツだが、武道はともかく演技の練習なんてやった事もない。ルッツはロザリーに振り回されながら彼女の相手をするようになった。何度も相手をするうちに何時しかロザリーの稽古相手として定着してしまったようで、他の団員たちにも声をかけられるようになった。

 最初気後れしていた『サンヴェロッチェ』の空気もいつしか心地いいものになっていた。ここにいると時間を忘れてしまう。皆明るくて和気あいあいとしていて、それでいてお互いに競い合いながら技術を高めていく。


「ここにいる皆は私の家族なんだ」


 ロザリーも誇らしげに団員たちを見据えた。


「家族?」

「うん。私たちは年中ずっと一緒に過ごして、色んな所に行くんだ。色んな街でお芝居をして、一緒にご飯を食べて眠る。それってもう家族だろ?」


 そう言えばエドヴィンも同じことを言っていた。血は繋がっていなくても彼らにとってお互いがそういう認識なのだろう。


「ルッツの家族は? どんな人たち?」

「……俺は」


 ルッツは言葉に詰まる。


「母親は小さい頃に死んだ。父親は、顔も知らない。だから俺には家族はいない」


 少し傷ついたようなロザリーの顔を目の当たりにして、ああ言わなきゃよかったと後悔した。家庭に恵まれなかった事を今更恨んだりはしない。ルッツはそうやってこの半生を生きてきた。でも、やっぱり幼い少女にしてみればショックな事なんだと痛感した。

 けれど、


「じゃあ私が家族になってあげる!」

「えっ」


 ロザリーはすぐに立ち直って胸を張った。予想外の反応でルッツは思わず目が点になる。


(いや、それより家族になってあげるって……)


 どういう意味が含まれているのかわからずルッツは困惑する。

 とはいえ相手はまだ幼い子供だ。どうせ「この劇団に入って一緒に旅をしよう」という意味に決まっている。さっき彼女も劇団の仲間が『家族』だとそう言ったじゃないか。


「ルッツと私が結婚してルッツが父さんの後を継いだら家族がいっぱいできるよ!」


 だがルッツの予想は良くも悪くも裏切られた。思わずのけ反ったルッツに少女は遠慮なく迫ってくる。


「な、それで解決だろ?」

「い、いや……、お前、自分が何言ってるのかわかってるのか……?」

「……? だって父さん言ってたよ。好きな人と家族になる方法は『けっこん』する事だって」

「好き⁉」

「うん。ルッツは稽古にも付き合ってくれるし、私の話いっぱい聞いてくれるから大好き!」


 ギュッと抱きついてくる少女。今まで感じた事もない柔らかな感触に動揺を抑えられず眩暈がした。


(い、いや! 子供だから!)


 これはただの餓鬼のたわむれ。親愛と恋愛の区別もついていない餓鬼に言われたところで本気にする方が――、


「……ルッツは、私と結婚するのいやなのか?」

「……!」


 上目遣いで見つめられるとルッツは何も言えなくなってしまった。こんな子供に求愛されたところでルッツが応えられるわけがない、でも邪険にするのも気が引けて、


「……そんなわけないだろ」


 ルッツはいったん咳払いをして落ち着きを払うと、腰をかがめ少女の目線に合わせる。


「わかった。ロザリー、俺と結婚しよう」

「ホントに⁉」

「ああ、……お前がもうちょい大きくなったらな」


 さすがに今のロザリーと結婚なんて言い出したら、周りから白い目で見られるに違いないし、あの父親が許すわけがない。

 だが少女はまた泣きそうな顔をして、


「今じゃだめなのか?」

「……いや、今すぐには無理だ。結婚ってそう簡単にはできないからさ」

「でも、私たちあと一か月くらいで王都を離れないといけないんだ。ルッツは劇団の人間じゃないから一緒に行けないって父さんが言ってた」


 ――ああ、そうか。ルッツはようやく合点がいった。ロザリーは本当に結婚したいとか、そんな風に思っているわけではなくて、


(俺と別れるのが寂しいのか)


 それを理解した瞬間、ルッツは身体が熱くなった。『結婚してくれ』と言われるよりもその事実が何倍も嬉しい。

 でも所詮しょせん子供の戯れだ。大きくなれば彼女はきっと今日の事だって忘れてしまうだろう。永続的ではない感情、でも今の彼女にとっては切実な願い。ならそんな彼女のために何ができるのか、ルッツは必死に思案した。


「……じゃあ、『婚約』だな」

「こんやく?」

「将来結婚しますって約束する事。それならいいか?」

「約束……、うんっ」


 ロザリーは元気よく頷いた。けれども肝心の婚約の証となるものがここにはない。世間一般ならこういう時は銀の指輪を贈るところだが、浮浪児のルッツがそんなもの用意できるわけがない。


(――あ)


 ルッツはふと足元に目をやると小さな白い花が咲いているのが目に入った。少し考えてルッツはその花を手折ると、キョトンとこちらを見つめている少女の小さな手を取った。

 薬指に茎を巻きつけて緩く留める。不格好な花の指輪をつけた少女は、それを食い入るように見つめていた。


「これで婚約成立な」


 陳腐ちんぷな子供だましでしかないその指輪をはめた純真無垢な少女は、嬉しそうにはしゃいでいる。


「ありがとう!」


 こんなのままごとでしかないのに。きっと彼女が大きくなったら、ルッツの事なんて忘れてしまうかもしれないのに。


「約束だよ、ルッツ」

(でも、もし本当に大きくなってもこの子が変わらないでいてくれたら――)


 真っ当な地位も財産も持たない自分でも、誰かと幸せになる未来を望んでいいのだろうか。

 ルッツは今日初めて、このままではいけないと思った。


 変わりたい。

 この世界の理不尽を呪うのではなくて、まず自分が変わりたい。

 この子の隣に堂々と立てるように。そうしたら、いつかルッツは今度こそ本当にこの子の側にいられるのかもしれない。




 その日からルッツは目に見えて変わった。下町の工場で仕事を見つけて真っ当に働くようになった。仕事が終われば野営地に行ってロザリーの稽古に付き合って、団員と夕食を食べてねぐらに帰る。今までのルッツからすれば信じられない変貌だった。

 毎日毎日忙しい、でもその忙しさが何故か清々しさすら感じさせて、ルッツは毎日がとても充実していた。

 けれども、


「――ルッツ。街に行くのか?」


 いつもの路地を通ろうとした時、ヨハンに声をかけられて少し驚いた。


「ああ、そうだけど……」

「今日はジャックドーの会合の日だっただろ? お前最近滅多に顔出さなくなったじゃないか」


 少し刺々しい口調にルッツは心を痛めた。

 仕事を始めてから、ジャックドーの仲間とつるむ事が格段に減った。もはやここ数週間、彼らの顔を見ていなかった。親友で相棒のヨハンでさえも、なんだか懐かしいと思うくらいには。


「……悪い。今日も仕事なんだ」

「お前、変わったな。急に仕事を始めたのもそうだけど。なんだっけ……、劇団? あそこにも顔を出してるんだろ?」


 ルッツが王都のはずれの野営地に足を運んでいる事もヨハンは知っていた。なんだか責め立てられているように聞こえて、ルッツは不快感をあらわにする。


「悪いか?」

「……」


 ヨハンは何も言わずにこちらを睨む。ピリピリとした空気がよどんだ下町に流れていく。いつも明るい朗らかな笑顔を向けていた親友と、こんなやり取りをするなんて思ってもみなくて、


「――時間だ、もう行かないと」


 それでもルッツはおくすることなくヨハンを振り払って仕事へ向かった。

 ヨハンに対してこんな冷淡になれるなんて少し前の自分では考えられなかったが、それでも罪悪感は一切なかった。

 ルッツは振り返らずに路地を後にする。


「――お前だけ変われると思うなよ」


 ヨハンの呟きはルッツの耳に届く事はなく、澱んだ路地に吸い込まれて消えていった。

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