第五話 獅子と溝鼠③

 ◆

 気が付けばルッツは孤独だった。

 戦争の最中さなか生まれたルッツは母親と二人で小さな村に暮らしていた。

 父親は知らない。生死はわからず、母も一度たりとも父親の話はしなかった。

 その母親も村が敗残兵に襲われた時、奴らの暴虐ぼうぎゃくに遭って無残に殺された。生き残った少年は一人故郷を離れ居場所を求めて国を彷徨さまよい、そして王都セントレアに辿り着いた。


 少年は世界を恨んでいた。金も学もない。仕事も出来ない。物乞ものごいをするか、盗みを働くことでしか生き延びるすべがない。こんな生き方しかできないのは、この世界が悪いのだとずっとずっと繰り返し唱え続けた。

 金を持った連中を襲って暴行を加えて、時にやり返されて。その中で同じ境遇の奴らと出会って、犯罪はますますエスカレートした。それはただのガキの反抗期みたいなもので、先の事など考えない若さゆえの暴走だったと今になって思う。

 でも、彼らにとってそれが何よりも心のよりどころになって、そして世界に復讐ふくしゅうをするのだと息巻いては悪行を積み重ねた。


 そしてルッツはいつしか彼らの頭になっていた。ルッツの周りに多くの仲間が集まって、他の不良集団と縄張りを巡って争った。話し合いの示談になる事もあれば、殴り合いで乱闘になる事もある。相手を容赦なく甚振いたぶって、顔面がぐちゃぐちゃになるくらい殴った。


 気が付けば母を殺した敗残兵と同じことをしていた。

 悪い事なんだと頭ではわかっていた。でも、そうしなければ生きられない事も理解していた。

 止める事が出来ない。それを止めた時、自分に訪れるのは死しかない。

 下町の溝鼠どぶねずみとはよく言ったものだ。地面に這いつくばって他人の残飯や排泄はいせつを食い荒らす。無様な姿がまさにそのものだ。

 そういう人生には失敗が付き物だ。一歩間違えば命を落とし、襤褸ぼろのように打ち捨てられる。


 ――今まさに、ルッツがそうであるように。


「頭痛てぇ……」


 狭い路地の隙間から見える雲一つない真っ青な空を目の前に、ルッツは愚痴をこぼした。他ギャングの奇襲に遭い、珍しく土をつけられた。その構成員から殴る蹴るの暴行を受けたルッツは地面に大の字に寝転がったまま空を眺める。

 正直どうして生きているのかわからない。四肢が無事なのか、顔がどれだけれているか、確認する気も起きなかった。


 腹の虫が盛大になった。ここ二、三日ろくなものを口にしていない。

 パンが食いたい。フカフカで焼き立ての小麦とバターの匂いのするパンが。

 ――そうちょうど今周囲に漂っているような甘い香りの。


「にいちゃん、なにしてるの?」


 空を見上げていたルッツの視界を何かが覆った。小麦色の柔らかそうな髪と、蜂蜜はちみつ色をした綺麗な瞳。少し日に焼けた肌は張りがあって瑞々みずみずしい。


 ――ああ、美味うまそうだな。


 焼き立てのパンを連想させる情景にルッツの腹がまた盛大になる。意識が朦朧もうろうとして答えられないルッツに、その少年は小さく眉を寄せた。


「いきだおれ?」


 少年は瑞々しい指でルッツの頬を突いた。くすぐったさと心地よさが同時に襲ってきてルッツが身をよじると、カサリと紙袋のこすれる音が耳をかすめる。

 少年が両腕いっぱいに紙袋を抱いていた。その中からほのかに香る芳醇ほうじゅんな香り。さっきから鼻腔びくうをくすぐるのはその中のパンだ。


(――パン!)


 生存本能がルッツを叩き起こした。目の前に美味そうなパンがある。しかも片手では抱えきれないほどの量の、焼き立ての――。


「父さんをよんでくるよ」


 パンの袋を抱えた少年は暢気のんきな顔で立ち上がるとその場を去ろうとした。極上の獲物が遠ざかる。あれが欲しい。あれを持っているのは、弱そうな少年だ。


「……っ!」


 ルッツは迷わなかった。そう、これは生存本能。人間が生きるために必要な事。

 自分が飢え死にするか、見ず知らずの幼い少年が痛めつけられるか。

 そんなもの天秤てんびんにかけずとも決まっている。

 ルッツは痛みと気怠けだるさで動かなかった身体を酷使し、遠ざかろうとするその少年の腕を強引に掴んで引き戻そうとして、


「――え?」


 世界が反転した。身体が変な方向に曲がって、足が地面から離れた。さっき見ていた青い空が弧を描いて飛んでいく。


 ――いや、飛んでいるのはルッツの方だ。


 そして一瞬だけ、視界の隅に少年の姿が映った。さっきとは打って変わって険しい目つきでルッツの方を睨んでいる。その蜂蜜色の瞳は獲物を目にした獅子のようにぎらついている。


(ああ、やばいのに出会ってしまった)


 溝鼠の自分が百獣の王たる獅子に喧嘩を売ったのが間違いだったと悟った瞬間、ルッツは地面に不時着した。



 ◆

 遠くで男のがなり声が聞こえる。ルッツは怒鳴り声が嫌いだ。どうしても、抗争の時の事を思い出す。

 けれど今耳に届いている声はどうもそういうたぐいのものではない。恐る恐る目を開けると、ルッツのすぐ側に大きな背中があった。


「ったくよー、ロザリー。いくら正当防衛だからって男投げ飛ばす奴があるか」

「だからごめんって、父さん」

「だいたいあの辺りは追剥とか強盗とかあって危険だから近づくなって言っただろうが!」

「だから悪かったって! 道に迷ってたんだよ!」


 会話をしているのは男と子供の様だ。男は怒りの言葉を口にしているが、剣がある様子ではない。むしろ温かみを感じる情の深い声音だった。その男に対し、子供の方は悪びれながらも反抗の意を示している。声の主は誰だろうと、ルッツが身じろぎすると、その目の前の男がこちらを振り返った。


「お、起きたか。盗人未遂少年」


 一瞬熊が話しているのかと思ってルッツは思わずぎょっとした。大柄な体格に顎ひげを蓄えた無骨な形はまさに熊、としか言いようがない。動揺して言葉が出ないルッツに、その熊男は豪快な笑みを浮かべた。


「お前も運が悪いなぁ。襲おうとしたのがうちの娘じゃなきゃ今頃自分の家でパンにありつけただろうに」

「あ、……えっと」

「まあ本来なら町の憲兵に突き出してやるところだがな、うちの娘も大概の加減知らずだったから、今回はおあいこって事で大目に見てやるよ」


 男はその大きな手でルッツの頭をガシガシと撫でた。力が強すぎて頭を揺さぶられクラクラする。が、逆に意識を覚醒出来て自分がどこにいるのか把握することが出来た。

 ルッツは小さな簡易テントの中で寝かされていた。使い古された御座ござと小さな椅子くらいしかない狭い空間には、目の前の男と身体を縮こませて不貞腐ふてくされた顔をした少年がいる。

 ――気を失う前、ルッツがあった少年、いやさっき娘だと言ったから女の子だ。


「おら、ロザリー。お前もこいつになんか言う事あるだろ」

「……」


 大男が無理やりその少女をルッツの前に立たせると、少女は気恥ずかしそうにもじもじと身体をゆすりながらこちらを見た。


「……投げ飛ばしてごめんなさい」


 消え入りそうな声にルッツは面食らう。


「――あ、いや。俺の方こそ、パン盗ろうとして君を襲ったんだから、むしろ謝らないといけないのは俺の方で――」


 ルッツはどうしていいかわからずしどろもどろになって少女を見下ろす。自分の胸辺りしかない小さな少女が今にも泣きそうになってルッツに謝ってくるので、いたたまれなさ過ぎて冷や汗が出る。

 それ以上何と言っていいかわからずルッツは二の句が継げず固まった。そんな二人をはたから見ていた男がしびれを切らして、


「なんだお前ら! 辛気臭いな!」


 二人の頭を鷲掴わしづかみにして無理やり頭を下げさせた。またしても視界が揺さぶられくらくらと眩暈めまいがする。それは少女の方も同じだったようで、目を回して困り顔をしている少女がなんだか可愛くてルッツは思わず笑みを浮かべてしまった。


「よし、仲直りも出来たし飯にするか! ロザリー、先にみんなのところに行ってろ」

「はーい」


 少女はぱたぱたと駆けテントから出ていく。みんなという事は仲間がいるのだろう。そもそもここは一体どこなのだ。


「俺たちは流れの劇団やってんだよ。ここは王都から少し離れた野営地だ」


 ルッツの心を読むように男が答えてくれる。


「お前は下町の浮浪児か? その怪我、娘にやられただけじゃねえんだろ?」

「これは……」

「まああの界隈はそういうところだからな。盗みで生きていかなきゃいけねぇんだろ? 仕方ねえよ」


 男は静かにため息をついた。そしておもむろに立ち上がって、


「だからこそ、俺はそういう奴らにも夢と希望を与えてやりてえんだよ」

「夢?」

「そう。世知辛せちがらい世の中でもひと時の悦楽えつらくを。胸躍るような冒険と非日常をってな」


 男はルッツに手を差し伸べる。条件反射でその手を取ると、ルッツは男に手を引かれテントの外へとはい出した。

 途端、辺りの空気は一変する。広大な平野に集結した個性豊かな役者たち。一つの焚火を囲みながら、わいのわいのと騒いでいる。楽しそうにジョッキをかち合わせ、楽器をかき鳴らして歌って踊って、皆が思い思いにこの時を謳歌おうかする。

 呆然とするルッツの側に、二メートルを超える巨漢が近づいてきてぎょっとした。黙ったまま彼が差し出してきたのは、焼き立てのパンと肉の煮込み。食欲をそそる香りにルッツはまたしても眩暈がする。


「おう、ありがとうな。モディボ」


 礼を言われると大男は嬉しそうに会釈えしゃくをして離れて行った。


(ここには熊みたいな奴しかいないのか?)


 まるで異国にでも迷い込んでしまった気分だ。自分はあの薄暗い路地裏で溝鼠のように暮らしていたはず、死の際の夢にしても頓智とんちだ。

 だが頬を抓ってもその幻想は消えない。賑やかな笑い声も、轟々とたける焚火の明かりも、美味そうな料理の匂いも確かにある。


「なんで……?」

「言ったろ? 夢を与えてやりてえって。まあ、変人集団のおせっかいだと思ってありがたく受け取っておけ」


 そう言って熊のような男は実に優雅な動作でルッツにお辞儀をする。


「劇団『サンヴェロッチェ』にようこそ。歓迎するぞ、盗人少年」


 男の後方で、団員たちの乾杯の音頭おんどが高らかに鳴った。

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