第三話 南部へ⑤

 フロレンツィアが深い寝息を立て始めた頃、ロザリーはなんとなく寝付けなくてフロレンツィアを起こさぬようそっとバルコニーに出た。バルコニーからは長閑のどかな街並みが一望でき、澄んだ空には真っ白な月がぽっかりと浮かんでいた。今は民も寝静まっているのか明かりは見当たらなかったが、収穫時期を迎えた豊かな小麦の田園や連なる農民たちの居住、遠くの牧草地などが月明りでよく見えた。


(この村にも、来た事があったのかもしれない)


 南部に行ったことがあると言ってもずいぶん昔の話で、ロザリーは小さすぎて覚えていなかった。でも父や仲間と一緒にキャラバンで野宿したり、教会や安い民宿にみんなで泊まったりした事はよく覚えている。夜になると皆で薪を囲んで、月がてっぺんに昇るまで飽きることなく語り合った。

 父が死んで仲間たちが去ってしまってからは、一人で月を見る事が普通になってしまったけれど、


「……あれ、なんだ。お前も眠れないのか?」


 手すりに寄りかかっていたら隣の部屋のバルコニーにも人がいて、こちらに声をかけてきた。誰かと思えばここの所ずっと顔を合わせているルートヴィッヒで。でもなんとなく違和感を覚えてその理由を探っていると、


「なんだよぼーっとして、寝ぼけてんのか?」

(あ、そっか)


 道中ロザリーはずっとフロレンツィアの側についていた。ルートヴィッヒはフロレンツィアの前では例の『貴族様』の猫を被り続けていたのでぶっきらぼうな物言いを聞くのが久しぶりだったのだ。


(それに王都を出てから、何か機嫌悪そうだったし)


 ロザリーが追っ手をかわすために無茶をしたことを怒ったルートヴィッヒは、しばらく不機嫌そうに眉を顰め、ロザリーに対してもなんだか剣のある様子だった。仕方のない事とは言え、そこまで根に持たずともとそろそろ抗議にかかろうと思っていたのだが、今の彼はそんな様子は微塵も感じられなかった。


「調子悪いのか?」

「そんな事ありませんよ。目がえて風にあたりに来ただけです」

「そっか、……じゃ俺と一緒だな」


 そう言って手すりにもたれ掛かるルートヴィッヒは、いつもの素よりもっとくだけた印象があった。肩の力が抜けて自然体で、ロザリーに微笑みかける瞳もいつもより柔らかくて不覚にもどきりとした。

(なんか、笑いかけられるのも久しぶりな気がする)


 それに今の笑顔は今までにも見たことがなかった。温厚な振りして猫被ったり、人を小馬鹿にして嘲笑あざわらったりするよりそっちの方が何倍もいいのに、なんて思ったがそんな事を言ったらどんな反撃が返ってくるかわからない。


「この村は王都とブラムヘンを行き来するときに度々お邪魔するんだが、長閑でいい町だろう? 屋敷の主人も気のいい人だしな」

「ええ、なんか昔巡業で訪れた村によく似てます」


 ルートヴィッヒが意外そうな顔をした。


「……なあ、お前さ。ガキの頃の事覚えてるのか?」

「ガキの頃、と言いますと?」

「ガキの頃はガキの頃だ」


 どうなんだ、とさらに強く尋ねられるのでロザリーは仕方なく答えを探した。


「全て思い出せるわけではないですけど、大体覚えてますよ。父さんたちと一緒に国内中を回って、芝居をして――。こういう地方の村にも結構お邪魔した事もあって」

「王都へ行った時の事は?」

「王都……? そりゃあ王都は何度も行きましたし、最初に私が主役を張った舞台も王都での公演だったし——」


 聞かれるままに答えると、何故だかルートヴィッヒは眉をひそめて固まる。


「どうかしましたか?」

「いや、なんでもない」


 一瞬だけ、彼はここ数日見続けた硬い表情に戻ったが、次に彼が顔を上げた瞬間そのもやは一瞬で取っ払われて、お得意のニヒルな表情に戻っている。


「ところで、お嬢様はもう寝たのか?」

「え? ……ええ、随分お疲れのようでぐっすり」

「そっか、悪いな。快適な旅をさせてやれなくて済まない。お嬢様にも謝っといてくれ」


 連日こんな邸宅で寝泊まりできているのだから十分快適だと思うが、と庶民感覚のロザリーは思いつつ、ふとその言い方に引っかかりを覚えた。


「謝っといてくれ、って。ご自分で言ったらいかがですか?」

「は? なんで」

「婚約者なんですからこういう時にポイント稼いで好感度上げるべきでしょ」


 出発してからずっと思っていた事だが、ルートヴィッヒはどうにも婚約者であるフロレンツィアと積極的に交流を図ろうとしない。別に邪険にしているわけではないし、十分良くしているとは思うのだが、婚約者として仲良くなろうという気概きがいをいまいち感じないのも事実だ。


「なんだよポイント稼ぐとか……。そういうみみっちいのいいから」

「みみっちいって何ですか。大事な事でしょう?」

「そんな事する必要性が理解できない」

「……あのですね、フロレンツィア様はいずれ人生を共にする相手なんですから、ちゃんと親交を深めてお互いを理解しあって――」


 思わず説教口調になって抗議しようとすると、急に不機嫌になったルートヴィッヒが突然バルコニーの手すりに足をかけ、ロザリーのいた方のバルコニーに飛び移った。


「……⁉」


 ふちから縁までは一メートルほどの距離で、足の長いルートヴィッヒは危なげなくこちらに渡ってきて着地する。――という問題ではなくて、


「な、なんでこっちに……⁉」


 ルートヴィッヒが仏頂面ぶっちょうづらで迫ってくるので思わず後退するが、狭いバルコニーには逃げ場がないし、部屋に戻ったらフロレンツィアがいる。ロザリーは反射的に部屋に続く通路をふさいだ。


「まさかお嬢様に何かする気じゃないでしょうね! 親交を深めろってそういう事じゃ――」

「そっちじゃねえよ」


 ルートヴィッヒの機嫌はますます降下し、何故か部屋の方に向かうのではなくロザリーを壁際に追い詰めた。

 いつの間にか自分が退路を塞がれ身動きが取れなくなっている事に混乱する。


「……仲良くしろとか、お前に言われるとなんかむかつく」

「な、なんでですか! 従者として主と婚約者の仲を心配するのは当然でしょう⁉」

「あと敬語もうざい。普通に喋れ」

「は⁉ 何訳の分かんない事――!」

「お前のそういう態度、なんかイライラするんだよ。自分は従者だからとか、お嬢様のためだとか。いい子ぶってんのかよ」

「はぁ?」


 不躾ぶしつけな言い草にロザリーはカッと頭に血が上った。ここ最近の態度といい何故ロザリーばかりが責められなくてはいけないのか。


「従者として主人の心配をするのは当然だろ⁉ 大体いい子ぶってるってなんだ! お前にだけは言われたくない!」


 この際だからはっきり言いたい事を言ってしまおうとロザリーは目の前の男を睨み返す。


「お前だってフロレンツィア様や旦那様たちの前では猫被ってるくせに。何がよく見られなくていい、だよ。言ってることとやってることが違う!」


 フロレンツィアたちに紳士的な態度をとっているのは彼女に良く思われたいからだろうが、まさかフロレンツィアと結婚するまで今みたいなルートヴィッヒを隠し通すつもりではあるまい。

 眉間に皺を寄せたルートヴィッヒが、無言でまた距離を縮めた。身体と身体が触れ合うほどの距離で、堂々とロザリーに不満をぶつけてくることに理不尽さを感じると同時に、羞恥で顔がかあっと熱くなっていくのを感じた。


「それに……、婚約者がいるのに他の奴にこういう事するのは、……不誠実だ」


 ロザリーは至近距離にあるルートヴィッヒの顔に段々恥ずかしくなってきて目を反らした。その瞬間、不機嫌だったルートヴィッヒの様子が一変する。何故かルートヴィッヒが不自然に押し黙る。そして、


「ふーん」


 にやにやと憎らしい笑みを浮かべているので唖然あぜんとした。


「な、何が可笑おかしいんだ⁉」

「いや、お前でもそういう事思うんだな、と思って」


 言葉の意味が分からず呆然としていると、上機嫌なルートヴィッヒの顔が益々ますます近づいた。


(だから……っ、近い!)


 不誠実だからやめろと言っているのに、どうしてさらに上塗りするような真似をするのか。この男の真意が全く分からなくて頭が真っ白になって、身体が石になったみたいに動けない。そんなロザリーの反応にルートヴィッヒはとても嬉しそうな顔をして笑うので、腹が立つような恥ずかしいような、もうわけがわからなかった。何をされるのかわからない恐怖でぎゅっと目を閉じる。

 暗闇に落ちる沈黙。自分の心臓の音と、すぐ近くに感じるルートヴィッヒの体温だけがロザリーの感覚を支配し、


「……まあ、今回の事はこれで許してやろう」


 触れるか、触れないかのところで止まったルートヴィッヒが耳元でささやいた。

 体温はあっさりと離れていき、ロザリーは解放されたことに脱力して、そして、


「な……、お前一体何がしたいんだ!」


 また向こうのベランダに戻っていくルートヴィッヒの背中に向かって叫ぶ。だが、ルートヴィッヒはもうこちらを振り返ってはくれなくて、


「じゃまた明日な、――おやすみ」


 表情は全然わからなかったけど、最後の『おやすみ』が妙に優しくてロザリーは言葉に詰まる。


「ほんとに……、何なんだよ……」


 こうもあの男に振り回されて、ロザリーの情緒は滅茶苦茶だ。

 それなのに、あの男がいつも通り気負う事もなくロザリーに接してくれるだけで、なんだか安心した気持ちになるのはどうしてなんだろう。

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