聖騎士ロザリーは、再び舞台に返り咲く

三木桜

プロローグ 華やかな舞台の幕引き

 ◆

 フォルテ王国、王都セントレア。ここはとある貴族の豪邸。

 今夜はここで盛大な舞踏会が開かれている。

 正面玄関の大きな正門の前には先ほどからひっきりなしに馬車が横付けされていた。馬車から降りてくるのはあでやかなナイトドレスに身を包んだ紳士淑女ばかり。皆今宵の宴のために己を着飾り、華々しい社交界に身を投じる者たちだ。


 たった今、また一台の馬車が門の前に横付けされた。慣れない足取りでぎこちなく降りてくるのはうるわしい少女だ。チュールレースで覆われた淡いピンクの三段のティアードスカートが華やかで、丁寧に結いあげられた髪にレースの髪飾りも愛らしい。

 可憐な容姿を持つ彼女の名前はフロレンツィア=エルメルト。王都でも有数の貴族、エルメルト侯爵の娘で歳は十七。今年社交界デビューを果たしたばかりの初々しい少女は薔薇色の頬を一層赤らめて、少し硬い表情をしながら邸宅の門をくぐるのだった。


「フロレンツィア、よそ見してはいけませんよ」

「はい、お母様」


 同行する母、セラス=エルメルトの堂々とした背中を追ってフロレンツィアは屋敷の中へと入っていく。

 屋敷の中は目を見張るほど豪勢で、フロレンツィアは思わずため息を漏らした。エントランスからメイン会場のダンスホールまで、着飾った紳士淑女たちが楽しそうに歓談している。天井を見上げるとガラスで出来た豪勢なシャンデリア。曇りのないガラス戸に掛けられたビロードのカーテンは金糸のタッセルで留められていて、外からわずかな月の光が差し込んでいる。


(まあ、なんて素敵なんでしょう)


 フロレンツィアは高揚を抑えられなかった。この王都のぜいを全て凝縮したような豪華絢爛な空間。侯爵家の娘であっても、こんな世界に身を投じる経験は滅多にない。

 母は時折すれ違う客たちと挨拶を交わしている。全く気後れの無いその姿に娘は尊敬の念を抱いた。

 ここに踏み込めるのは大人になった証。自分も母のように早くこの社交界を堂々と渡り歩ける人間になりたいと強く思った。

 けれども今日フロレンツィアがこの舞踏会に出席したのは明確な目的がある。近づいてくる運命の時にフロレンツィアの心臓は自然と高鳴った。


 百メートル四方の広いダンスホールでは交響楽団の奏でる甘美な音色をバックに麗しい男女が語らいあう。室内の装飾も、人も、音楽も、何もかもが今日のために用意された一級のものたち。美しい花の香りに香水の香り、そこに交じって水たばこのエキゾチックな香りが漂っていて、フロレンツィアはくらりと眩暈めまいがしそうになるが、


「ああ、お越しになったわ」


 母の声のトーンが少しばかり上がったのをフロレンツィアは聞き逃さなかった。思わず身体が強張こわばる。意気揚々と足を速める母の視線の先に、二人の男が立っているのが見えた。


「お久しぶりですわ、ベルクオーレン伯爵様」

「やあこれは、これは。セラス、今日も変らずお綺麗だ」


 二人の男の内の年老いた方が母に向かって会釈した。母の左手を取るとその甲にうやうやしく口付ける。

 彼はロドリゲス=ベルクオーレン伯爵。このフォルテ王国南部の広大な領地を有するベルクオーレン家の一族だ。整えられた白髪と白髭、塵一つないナイトコートと、同じく完璧に磨かれた靴は、気品の高さを惜しげもなく醸し出している。

 フロレンツィアは我知らずに唾をごくりと飲み込んでいた。喉が渇いた、何か飲み物が欲しい。けれども今ここで後退するわけにはいかない。フロレンツィアは逃げ出しそうになるのをぐっとえ、奥歯をかみしめた。


「伯爵様、本日は私の娘を連れて参りました」


 するとセラスが振り返りフロレンツィアの背を押した。緊張したフロレンツィアは絨毯に足を取られそうになりながら、なんとか踏みとどまり目の前の男に笑顔を向ける。


「おお、君がうちの甥の婚約相手か」

「……初めまして、ベルクオーレン卿。フロレンツィア=エルメルトと申します」


 フロレンツィアはスカートを持ち上げ練習した通りに美しいカーテシーをして見せた。伯爵がほうと感心のため息を漏らしたので、内心で胸をなでおろす。


「これは美しく、聡明なお嬢様だ。なあ、ルートヴィッヒ?」


 伯爵が含み笑いを向けたのは、彼の隣にいたもう一人の若い男。フロレンツィアが先ほどから出来るだけ目に入れないようにしていたその人物が、一歩前に進み出てきてフロレンツィアの前でお辞儀をする。


「お初にお目にかかります。フロレンツィア嬢。ルートヴィッヒ=ベルクオーレンと申します、お会いできて光栄です」


 フロレンツィアが顔をあげると、目の前に立つ男がにこやかに笑っていた。

 つやのある黒髪が揺れ、瑠璃色ラピスラズリの瞳が穏やかに細められた。すらりとした長身に精悍せいかんで上品な面立ちは育ちの良さがにじみ出ている。

 見目は悪くない。むしろ予想以上に、いい。


(この方が、私の婚約者……)


 自分の縁談相手が南部の辺境伯と聞かされ、正直どんな男が来るのかと不安に思っていたフロレンツィアであったが、彼の顔を見た瞬間そんな不安は一瞬にして消し飛んでしまった。柔らかで上品な、でも男らしさも滲ませる微笑びしょう御伽おとぎばなしで見た白馬の王子様みたいだ。


「あら、いやだわこの子ったら。早速辺境伯様に見惚みほれているわ」


 セラスが口元に手を当てて笑っているのを見て、フロレンツィアはルートヴィッヒの顔を凝視していた事に気づき、慌てて目を反らした。顔が熱くなっているのを隠すように手に持った扇で顔を隠す。


「初々しいお嬢さんだ。よかったなルートヴィッヒ、気に入ってもらえたようだぞ。これでベルクオーレン家も安泰だな」

「はは。叔父上、気が早いですよ」


 和やかな空気にフロレンツィアも少し肩の力が抜けたみたいにホッとした。

 思いの外人柄のよさそうな人で安心した。けれども――、


「……逆にやりにくいな」

「――? フロレンツィア嬢、何かおっしゃいましたか?」

「あっ、いいえ!」


 フロレンツィアは慌てて扇の下で笑顔を取り繕う。

 その時、楽団の奏でる音色が変わった。控えめなエチュードから荘厳で華やかなワルツへ。


「あら、ダンスの時間だわ」


 辺りを見回すと、好き好きに談笑していた客たちはホールの中央で二人一組になってダンスを踊り始めた。美しいドレスをまとった男女たちが優雅に踊り出す。ざわついていたホール内が一転して、神聖さすら感じさせる儀式の場に変わった。


「そうだ。ルートヴィッヒ、フロレンツィア嬢と一曲踊ってきたらどうだ?」

「あら、いいですわね。せっかくだしあとは若い二人で――」


 セラス達は示し合わせたようにフロレンツィアとルートヴィッヒの背中を押す。フロレンツィアたちは少し戸惑っていたが、


「……そうですね、お嬢様がよろしければ。――私と踊っていただけますか?」

「はい……」


 フロレンツィアは小さく頷くと目の前に差し出された大きな手を取る。その手に導かれフロレンツィアはホールの真ん中、皆が華々しく舞う空間に連れ出された。


「ダンスは得意ですか?」

「……実は、少し苦手で」

「では私に任せていてください」


 優しくとろけるような低い声、背中に添えられる温かい手。目の前にある大きな身体に身をゆだねる安定感。不思議な事に、フロレンツィアのたどたどしい幼稚なステップが目を見張るほど上品になる。するすると足が動いて、まるで自分のものではないみたい。

 ふと辺りに目を向けると、周囲の観覧客もこちらに羨望の目を向けている。女性客はうっとりとした顔をして、この目の前の男に見惚れていた。

 ルートヴィッヒ=ベルクオーレンという男性がどれほど魅力的か、フロレンツィアはそれを肌で直接感じる。


(――ああ、私ってなんて幸せなのかしら)


 フロレンツィアは今、とても幸福だった。華やかな社交界の舞台で、麗しい婚約者と夢の様なひと時を過ごす。


『この先この人と生きていける未来が約束されているなんて、私は幸せ者だわ』


 そんな幸福感に酔いしれて、フロレンツィアは愛しい人の腕の中で永遠の時を感じていた。



 ――と、



「……へぇ、お前ダンスが下手な振りが上手いな」



 甘やかな空気の中に、一筋の亀裂が走った。亀裂は一気に広がってフロレンツィアを包んでいた『幻想』を打ち砕く。

 音楽はまだ続いている、ダンスタイムはまだ終わっていない。なのに、


「礼儀作法も完璧だったし、エルメルト家に仕込まれたか?」

「――⁉」


 その声はすぐ側から降ってきた。冷たい、こちらをさげすむ硬い声。

 顔をあげると、柔らかな表情を浮かべていたはずのルートヴィッヒ=ベルクオーレンが、こちらを見下ろして嘲笑ちょうしょうを浮かべている。


「な、何の、事――」

「とぼけんなよ、俺が気づかねえとでも思ったか?」


 背中にまわされていたルートヴィッヒの手に力が込められた。その仕草はこちらをいたわるようなものではなく、荒々しい粗暴なもので。

 フロレンツィアはもはやステップを踏む余裕などなく、息すらまともに出来ずに立ち止まった。眼前に迫る冷たい目をした獣に恐怖し、全身から汗が噴き出す。


 ――まずい、これは。


「それで? 俺をあざむいてどうするつもりだったんだ? フロレンツィア嬢――いや、フロレンツィアの偽物さん」


 その瞬間、『侯爵令嬢フロレンツィア=エルメルト』の舞台は強制的に幕引きとなり、ロザリーは舞台から引きずり降ろされた。

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