骸燭都市<東京>

伍藤潤

序:E(meth)-xtrapolation Point/あえてこそ

 観測開始。

 記述文法。そこは、■■■■ ■■■。

 座標基準。そこは■■^■の■■■■■。

 読込不良。

 ■■■■

 再度読込。

 目標地点。それは■■■■。

 再度読込。そいつは? ■■、■■■■、あるいは■■■。

 処理省略。そいつは、そいつは歩いていた。


 そいつは原野を歩いていた。

 ぎらぎらとした瑠璃色がどこまでもつづく冷たい平野を歩き、一歩としてとどまりはしない。足が棒切れ同然になった感覚はおろか、疲れ果てた心地だって、もうはるか遠くにおいてきた。

 その途方もない足どりを風が迎えた。行く手から、足許から、眼もくらむ色彩の砂塵を巻いては刃として砥ぎあげて、身体じゅうを切りつけた。地に伏した岩や砂利をかすめていく音吐は、死した老骨の唇に鳴るような嗄声させいで、瑠璃のつやが含む暗いあざけりを代弁した。おまえにはやすむ場とてない、と云うのだ。寄る辺なきままにすすり泣き、さまよい歩くのがお似合いだ、と。なのに、そいつは軽侮をものともしない。悄気しょげようともしない。よたついた拍子に踊りのような歩を踏み、風の音に負けない鼻歌や口笛まで響かせた。

 どうでもいい。

 だからなんだってんだ。

 そんなこたァ知らんプイだ、と心から思えた。

 なぜなら、地場なんて寄る辺としないからだ。心に焼きつけた愛すべき像、出合い、別れた人々の面影こそが寄る辺なのだ。男も女もどちらでもないのも、ともに歩んだ足音は鮮やかで、いまも隣にいてくれるように心強い。想い出の硝子細工は行く手にすり抜け、先を導くことだってあった。どこをめざしているかわからなくなろうと怖くなかった。

 そいつという主体がここにある。

 歩むかぎりは、あらゆる過去が実在として観測され、先をめざすためのよすがとなる。

 とはいえため息が洩れてしまうのは、道のりに終わりがみえてこないからだ。どこにいるのかも、いまがいつかも明らかではない。昨日は明日で、明日は昨日で、現在だけがただしく現在でありつづけた。

 時制の尺度なき時計の針は永遠のみを指す。

 昨日も今日もないなら定義すべきなのかもしれない。年を、月を、日を、時間を、いまこのときに当てはめてやればいいのかもしれない。

 そいつは少しだけ眼をとざした。

 すると猛烈な光の渦が、光あれ、と唱える原初はじめの声のように揺さぶった。

 輝きは一からはじまった。

 一からなる色なき光輝は幾千、幾万、幾億、幾京のきらめきに分裂して、近づいては尾を引いて遠ざかり、億の歩を踏むよりずっと早く、けれど魂が時の弓につがえられた矢となって駈けていくことを、そいつが自覚できるほどには長い時をかけて、遠く遠く、うつろな速度の帳のむこうまで光を増した。

 きらめきのひとつずつがことばであり、時のつぶてであり、また魂だった。

 次に眼をあけたとき、地平は一変していた。風の音はやわらかなまでの静けさで頬をなでつけ、そいつを呼ばい、転じた視軸のむこうでおおいなる渦がうねった。さわり、さわり、と踊りだす砂塵は清らかな回転が映え、生命の激流がごとき螺旋となった竜巻の頂点に、さみしげな蒼い球形を浮かべた。そこに息づくのは星だ。そう認めたとたんに劇しい風が吹いた。引っかかれた宙の書き割りが弾けて、彼方から色のない真空があふれた。

 知覚がいきなり飛躍していた。

 そこは駈け抜けた帳と似ていながらまったく違う。

 真空の高処たかみにて、じっと蒼を見下ろしていた。

 知りながら決して知り得ない撞着語法の蒼い星だった。西の大陸と東の果てに、それぞれ鈍い光点を見た。火の手を思わせるそれらが、誰にも聞こえない慟哭の声で呼んでいた。誰の耳にも意味をなさず、ただ一人、そいつのもとにだけ届く声だ。

 そいつはとよもす地の片一方を睨んだ。

 深々と巣構すく宿痾やまいが脈打つからだ。

 絶対的な力の渦が脈打つからだ。

 呪わしい熱量が脈打つからだ。

 あれこそは邪悪の市エンズヴィルなのだ。

 処女おとめの心腑からしたたる願いのように澄んだ理解がはりつめた。あそこが行きつく先だ、と瞬時にわかった。心に誓った。かならずやたどりつこう、と。

 蒼き星へ歩みだそうとして、はたと気づいた。そいつは完全に静止していた。かたちのない壁に遮られていると考えてはあがき、間もなく、おのれに形質かたちがないと気づいた。身体は透き通って、打ちのめしてやまない疲れや痛み、根本たる搏動さえすでに遊離して、境界線のない真空に魂だけが残された。どこでなにを間違えたものか。

 自由がきかないのにもがく。

 もがいたそばから余計に自由がきかなくなる。

 負荷に耐えるちからは、やすやすと底をついた。

 いまや魂までばらけていた。

 ぐるり、とひっくり返り、一面の黒また黒が、失くした五官の名残を苦痛に書き換える。

 それを無視して魂に祈りをはりつめさせたのは、聞こえた慟哭に応えるためだ。

 ありもしない手を伸ばした。

 声のほうをめざして伸ばした。

 やがて切れはしになってしまったけれど、だとしてもそいつはあがきつづけた。 

 一次元的な混迷へと飲まれ、かき消えようとしても、そいつは、決して諦めなかった。

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骸燭都市<東京> 伍藤潤 @bleeding_polaris

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