短編・掌編
山奥一登
欠け番
誰もいない屋上は涼しい。閑散としていて、下を歩く人たちの声や走る車の音は全て違う世界の出来事のよう。
僕とあいつは番いだ。どちらかが壊れてしまえば、番いは使い物にならない。………処分するしかないのだ。
………申し訳ないとは思っている。心から。
僕と違って、あいつはいつも優秀だった。やることなすこと全て上手くいって、僕の努力なんてあっという間に超えていってしまう。
僕とあいつは生まれた時から一緒だった。常に一緒にいて、同じものを共有し続けた。けれど、徐々に差は開いていくことになる。
記憶に残っている限り、最初に差を感じたのは絵を描いた時だった。近所の見晴らしのいい公園の風景画だったと思う。まだ幼い頃で、互いに稚拙であったけどあいつの絵の方が上手いと感じた。当時はそんな言葉を知らなかったが、劣等感というものを抱いたのはそれが最初だったと思う。
けれど無邪気な子供時代のことだ。抱いたそれはただの悔しさで、次は負けないぞ!程度にしか考えていなかったと思う。そしてその件以来、僕はあいつに勝負を挑むようになった。今思えば僕は、勝った、という明確な結果が欲しかったのだろう。あいつも乗り気でそれに応じた。些細なことでも、どっちが上手くできるか、勝てるかを競うようになった。
この頃は努力をした分野では僕が勝ち越すことが多かった。楽しい日々だった。勝てたら当然嬉しい、負けても、その悔しさもバネにするように奮闘していた。誰かと切磋琢磨する、というのはああいうことなのだろう。力の拮抗する、ちょうど良いライバルがいて、追いつき追い越すために必死な、まるで漫画アニメの主人公になったような気持ちだったと思う。………幼い頃の話だ。
僕は少しずつではあるが、本格的に努力をするようになった。学校でテストが行われるようになったからだ。僕は当時から国語が得意だった。国語だけは、今でも勝つ自信がある。
僕は更に努力をするようになった。
しかし徐々に、勝てる回数は減っていった。
テストの教科でいうと、僕は国語などの文系科目、あいつは理数系の科目で結果を出していった。五分五分だったと思う。けれど何回も同じ科目、分野で勝負をしていくと、あいつはあっという間にコツを掴んでしまい、僕が負けることが増えていくことになった。段々と、勝てる分野が減っていった。喜びを味わえる回数は減り、悔しさが増える日々。次第に焦り始め、僕は必死に、(負けた分野での努力より)自分が勝てる分野を探すようになった。
僕は優等生だったと思う。普段から学習を絶やさず、反復をして知識を蓄え続けた。逆に反復しなければ覚えられなかったとも解釈できるが。それでも、常に60~70点をとるのが僕だった。
あいつは僕とは正反対だった。学習は最低限。反復を嫌い、それでも1、2回見たり聞いたりしただけで記憶を増やし続けた。その分雑でケアレスミスも多かったが、興味を持った分野にはとてつもない集中力を割き、確実に100点をとった。興味のない分野、知識のない分野も応用や独自の発想を使って切り抜け、ある程度の点数は取り続けた。学習要領がいいのだろうか。あいつは50点をとることもあったが、100点を獲ることもあった。努力をし続け60~70点しかとれない僕と、努力をしないで50~100点をとるあいつ。どちらが優れているかは明白だった。
僕は応用ができなかった。暗記したものをそのまま答えることしかできない。少しでも問題の形態が変化したり、複数のことを組み合わされるとお手上げだった。しかしあいつは、一つの分野で学習したことを他の分野でも応用することができた。その対応力は、どう努力して鍛えていいのか見当もつかなかった。同じ境遇で育ち、同じことを見て聞いてきているのに。何故差が生まれるのだろう。
その時から俺の中に、「才能」という言葉が重くのしかかるようになった。
勝ったり負けたりの楽しい日々は終わった。負け続ける日々。劣等感はそのまま惨めさに変換され、たまに勝っても「あいつは僕より努力をしていない」。その事実が、嬉しさを半減させ、また負けた時の惨めさを倍増させた。
僕はそのうち、勝敗を競うのをやめた。勝てないと悟ったからだ。いくら努力を重ねたところで、所詮才能の差であいつには勝てないのだと。努力もやめた。勝てないのに努力をして、何の意味があるのだろうか。僕にはもう理解できない。
あいつはすごいやつだった。どんなことにも一生懸命に取り組んで、毎日コツコツと勉強していた。俺には逆立ちしてもできないことだ。
生まれた時からずっと一緒だった。最初は協力して何かをすることが多かった。俺たちは本来そういう存在だ。お互いを補完し合い、より良い結果に結びつけるためのいわば『相棒』だ。けれどいつからか、どちらからともなく協力することはなくなった。全てのことを、完全に分けてするようになった。
あいつはいつも隣にいてくれた。物心ついた時から負け続けていたけど、絵を描いた時に初めて、あいつより高い評価をもらえた。それがすごく嬉しかったのを覚えている。あいつはそれが悔しかったのだろう。それから、何でも勝敗を競うようになってきた。それも嬉しかった。年の離れたお兄ちゃんに構ってもらっているような気持ち。離されないように、負けないように張り切ったのも覚えている。
それからも毎日お互いに同じことをやり続けて、毎回のようにあいつすげえあいつすげえと思っていた。たまに俺が勝つこともあったけど、小さいときは大幅に負け越していたと思う。負けないように、考え続けた。ない知識を振り絞って、どうすれば勝てるのかを考えた。最初にあいつのマネをした。でもあいつみたいに興味のないことを熱心にやったり、毎日反復学習したりはできなかった。途中で嫌になって、中途半端なところで終わって結局負けてしまうことばかりだった。けれどたまにある興味のあることでは、これまでにないほど集中力を発揮できた。そういう分野ではあいつにも勝つことができた。
だから、興味のあることをバリバリ突き詰めることにした。それで、そういう分野から何かを応用できないかと探ったり、少ない時間でできる、効率の良い学習法を模索したりした。もちろん付け焼刃だ。上手くいかない時もあったけど、段々勝てる回数は増えていったし、勝てる分野も増えていった。
……国語だけはどう頑張っても勝てなかったな。
あいつはどんどん実力をつけていった。俺も効率の良い学習法をたくさん吸収して、国語以外でも、勝ったり負けたりが続いていた。その頃は若干俺の方が勝ち越しくらいだったと思う。けどいつからだろう。特に何か大きなことがあったわけじゃない。少しずつ少しずつ、ともすれば気付かないくらいの速度で変化が訪れた。やがてあいつは勝っても喜ばなくなった。そして負けると、世界の終わりかのような絶望を浮かべていた。
また負けた。あいつはいつかそう言った。その分野で俺が勝ったのは初めてだったと思う。その前の別の勝負でもあいつが勝っていた。一体何が「また」なのか分からなかった。
あいつの元気がなくなっていくのは気づいていた。あいつは疲れていたのかもしれない。責任感が強いし、頑張りすぎると視野が狭くなるきらいがあるから、負けのイメージばかり刷り込んでいるのかもしれない。良くない傾向だと思って、何度も声をかけた。けどあいつは聞く耳を持たなかった。無理もない。疲れている時、つらい時の同情は良くも悪くも沁みるものだ。少しすれば良くなるだろう。また、前みたいに楽しく競い合えるだろう。あいつはすごいやつだから。きっと今の悩みだって、コツコツと毎日向き合って、解決するだろう。
俺は再び来る対決の日に向けて、学習をやめなかった。
こんなことになるなんて、思ってもいなかった。俺の楽観的な考えが、こんな事態を引き起こしたのかもしれない。俺があいつみたいに色々考えるやつだったら。考え続けることができたなら。変わっていたのだろうか。
「もうそれしか残ってないのか?」
「ああ。僕はもう疲れた」
「……俺のせいだ」
「いや、僕が悪いんだ。お前を許容できない僕が」
「……どうして言ってくれなかった」
「何を言えばいい」
「悩んでいること」
「そんなこと言えるかよ!!!」
怒号が響く。あいつは、俺と話していても下しか見ていない。遥かな下。
「言ってくれよ!生まれた時から、ずっと一緒だったじゃないか!」
「だから嫌なんだよ!」
その言葉は刺さった。血が噴き出しそうだった。
「僕たちは生まれてから、そして死ぬまでずっと一緒だ。あと何年ある?もううんざりだ!お前とずっといたら、僕は壊れてしまう!……ああ、もう壊れてるな」
あいつは自嘲した。
ああ、そうか。俺が、そんなに負担になっていたのか。
「……悪いとは思ってる。巻き込んだこと。お前は何も悪くない。悪いのは、弱くて、バカな僕だ」
何も言えなかった。俺が言っても無駄だと分かった。こうなってしまったのは俺の責任だ。なら俺にできる責任の取り方は一つだろう。
右足が一歩前に出た。足は着地点を見つけることができずそのまま空中に放り出され、やがて体がバランスを崩した。そのまますうっと、体は宙に舞った。
初めての感覚だった。何にも繋がれず、ただ落ちていくのは気持ちがよかった。永遠にも思える時間で、生まれてから今日までの走馬灯を見た。どの場面にもこいつがいた。
「今までありがとな」
俺はそう呟いた。あいつは何も答えなかった。ただ、どこを見るでもなく、何を聞くでもなく、ただただ落ちていく先を見つめていた。これまでにない、満たされた表情だった。
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