❅2.いっそ残酷なほど美しい

片道の切符を通して電車に乗り込む。

扉の入り口脇。お気に入りの指定席。

最後尾の少し人の少ない場所。

この窓から切り取られた空を、景色を見るのが好きだった。

居場所を見つけて不意に彷徨った手が上着を掠めて疑問に思う。

「あ…。玄関閉めてきたっけ…。」

電車に揺られながらポケットに手を突っ込んで引っ掻き回してもそこにあるはずの金属は一向に指に触れない。

一度手を出して上から触ってみるがそれらしい塊は見当たらない。

「鍵がない。」

ため息を一つ落とす。

片道の切符とスマホと僅かな小銭。

帰りの代金にはきっと足りない。

でも、それでいい。

――帰るつもりなどさらさらないのだから。

「いや、帰るところなんてもうないんだっけ。」

静かに零れた寂しさを孕んだ自嘲は電車の走行音にかき消された。

遠ざかる景色。

切り取られた何処までも続く空は夕暮れだからか色づき始めている。

ゆっくりとその色を変える背景が丸い月を浮き彫りにしていく。

ニュースにまでなった珍しい月が今夜らしい。

みんな何処か浮足立っている。

通りすぎる知らない誰かの声。

道の端で立ち話に花を咲かせる笑い声。

大型の液晶から流れる宣伝の音声。

街の喧騒。

信号の音。

店の扉の開く音。

アスファルトを蹴る足音。

無機質なSE達。

喧騒。喧騒。喧騒。

ネオンの明かりは眩しすぎる。

その明かりと喧騒から早く、はやく逃げたい。

そうして僕は。

行きかう電車を乗り継ぐ。

都心から離れていけば段々とそれらは薄れていった。


それらを振り切って辿り着いた終点は誰もいない。

微かに鼻腔をくすぐる汐。

遠くに海が見えた。

ゆっくりゆっくりとそこに向かって歩く。

早くしないと夜になる、急がなくていいのかって?

大丈夫、まだまだ時間はあるんだから。

ふと坂道脇に明かりの灯った一軒家。

まるでつい先日までの僕の帰る場所みたいで足をとめた。

開け放たれた広い窓から見えたその中では温かい家族がおいしそうな夕食を囲んでいた。

にぎやかな談笑と絶えない笑顔。

子供を見る両親の顔はこれでもかと言うほど幸福に満ちて愛おしそう眼差し。

両親を見る子供はここに居れば何も怖いことなどないとでもいうような絶対の信頼感と愛されているという大きな幸福を感じている笑顔をしていた。

つい最近まで僕にもあったその幸福を今は浅ましく眺めている。

―――羨ましい。

当たり前でない幸福を永遠にはないと知りながらどこか他人事として見ないフリをしていた。

結果、突然それは奪われた。

揺らぐ視界。

溢れ出る雫を乱暴に拭って走る。

走って走って。

幸せから逃げた。

急に地面の硬さが変わったことで運動神経の鈍い砂に足を取られて転んだ。

砂浜は身を打ち付けたわりには痛みは来ない。

それよりも全力で走った足がじくじくと痛む。

みてみればどこで切ったのか紅い血が流れ出ている。

息もあがったまま肩が少しでも多く酸素を取り込もうと動く。

心臓だってどこにあるのかしっかりと分かるほど忙しなく動いている。

それなのに一人でいることが周りに誰もいないことが寂しい。

孤独が僕を侵食していく。

ふと目の前がきらっと光った。

鈍く煌めくルビーが落ちている。

「なんで持ってきちゃったんだろ…。」

その石を拾えば蘇る家族との記憶。

「なんで俺を置いて死んじゃったんだよ…」

「なんで連れて行ってくれなかったんだよ。」

「…俺独りぼっちじゃん。」

溢れ出る言葉と雫がその石を濡らす。


見ているのは空に浮かぶ星だけ。

宝石を握りしめながらまた一つ涙を零した。




気付けばもう辺りは真っ暗で。

空が藍紫に不気味に彩られていた。

その日は“月が紫色に光る”というとても珍しい夜。

つい最近、ストロベリームーンという紅い紅い月が訪れたばかりで大いに騒ぎ立てたばかりなのに世間は終わったものには目もくれず新しいものへと飛びついている。

随分前に通りすぎた喧騒には端々に零されるそれら。

ニュースでは、“何億年に一度の奇跡”とまで囃し立てていた。

それでもきっとこの現象も終われば忘れられていく。


そう、それは。

―――物も。

――――現象も。

―――――人でさえも。





ざりざりと足裏が砂浜を掻く。

さざなみはじっとりと獲物に狙いを定め息をひそめるように凪いでいる。

一つ大きく息を吸い込めばほのかな汐のかおり。

しけったそれが肺を満たす。

音はあるのに静寂。

人っ子一人いない薄暗い海はどこか寂しさを連れてくるのはなんでなんだろう。

今か今かと待ち望んでいる海に手を伸ばしたその時、辺りが薄らと明かりを帯びる。

水面の杜若かきつばた紺青こんじょう瑠璃青るりあおが薄紫とすみれの光を飲み込んでテラテラと含みを帯びて笑う。

伸ばした手はタイミングを逃し行く末を失ったまま空に浮いている。

ゆっくりと空を仰ぎ見れば恭しくそこに紫色に染まった月。

よく見れば奇妙に紫色の艶やかな光で恭しく街を照らしながらもその輪郭の傍には騒然とマゼンタが横たわっている。

薄花桜うすはなざくらが揺れる。

「あれじゃまるで紫の月というよりヴァイオレットマゼンタの月じゃないか。」

自分の感覚が正しいのか誰かの承認を求めて手元のスマホを眺めた。

世間は奇跡とうたっておきながら実際のその見た目に見たことがないからと気色悪いと暴言をはいている。

人間は本当に勝手な生き物だ。

「勝手だ…。…勝手過ぎる。

だけど…僕もその中の一人でしかない。」


手元の明かりを消した。

その明かりが凄く滑稽こっけいに思えて。


「ただそこにあるだけなのに。」

――そう、何も変わらずただそこにあるだけ。

勝手に期待して勝手に失望して振り回されて居るのは人間。


ゆっくりと

“紫色に染まる”

いっそ残酷なほど美しい。


「綺麗だ。」

僕にはあの月がとても魅力的に見える。

まるで僕をいざなうかのように紫とマゼンタを携えて揺ら揺らと僕を手招きしている。


「嗚呼、早く行かなきゃ。」

―――君のもとに。



少年は誘われるまま身をゆだねた。


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