第8話 沈む


 夜八時、少年少女はまだ昼の熱気が抜けていない路上を歩いている。


「あの子があまりオレの下宿先から遠いところに住んでなくて助かった」


 また学生服姿の紺が隣で言う。

 ジーンズに七分袖シャツ姿の山内くんは、彼女に聞いた。


「君、門限後に無断で抜けだしてだいじょうぶなの?」


「だいじょうぶなわけあるか。幻惑術で身代わり置いてごまかしたけど、抜けだして町中歩いてると瀬知子さんにバレたらえらいことになるっつの」


 一度家に帰っていた紺はしかめっ面でぼやいた。


「でもしょーがねーじゃん、このオサキをさっさと鈴明ちゃんに返さないと」


 彼女が手のひらに乗せたはこを、山内くんは目をすがめて見た。

 大幅に力を増したかれの目が、匣の内側まで透かし見る。


「そうだね。……内側で暴れてるよ。遠からず匣を食い破りそうだ」


「げ。壊されちゃたまったもんじゃねーや。やっぱオレじゃ持っとけないな」


 いっそもう出しとこうかなと紺はぼやき、


「で、おまえのほうは調子どうなんだよ」とちょっと乱暴に聞いた。


「もう用はすんだしはやく戻りたいけど、べつに気分悪くはないよ」


 いちおう嘘ではない。

 体調が悪かったりはしないのだ。“向こう側の世界に片足をつっこんだ”いまの自分の状態に、頭の片隅で気持ち悪さを感じているだけだ。

 あらゆる他者の術が効かない状態なので、しばらくは再封印もできない。

 けれど、封印を解いた甲斐はあった。

 人の悪感情をかきたてていた「貧乏オサキ」を見つけられたのだから。


「ともかく、河辺さんが理不尽なほどに周りに憎まれる理由がわかってよかった。

 ……でもあの店員は、もとからあまりいい人じゃなかったみたいだけどね。彼女の幽霊にあれだけ恨まれてるのなら」


 山内くんは思い出して暗く、ぼそりとつぶやいた。


 夕方の話だった。

 山内くんの目の封印を解いたあと、パン屋の店員のもとに戻ったふたりは、『言うことを信じるから助けてくれ』といきなり泣きつかれたのである。

 人が飛び降りたときと同じ音が聞こえてくるのだとかれは言った。


『前の前の彼女、高層マンションに住んでたんだけど、別れたときそこから俺の目の前の道路に飛び降りてきてつぶれたトマトになりやがったんだよ! さっきからあのときの音が……水つめた袋を地面に叩きつけて割ったみたいな、だばっしゃああんって感じの音が店の窓の外でしてる、あれ止めてくれよう!』


「山内、あの霊に同情するな」紺は静かなくちぶりで止めた。「もとが痴情のもつれだろ。どっちが正しいかなんてわかんねーし、女の霊が抱いてるのは恨みじゃなくてあの男への執着かもしれない。男女の情念が絡むものには深入りはすんな。さいわい、オレの術のお膳立てがあってもメッセージを伝えるていどの力しかない霊だ。放置してもいまんとこ害はねーし」


「……たまに君はすごく乾いた態度だね」


呪禁師じゅごんし稼業だもん。おまえみたいに生きてる人死んでる人のへだてなく片っぱしから入れこんでたらもたねーんだよ」


 生者は生者、死者は死者――たとえどれだけ親しかった人でももう別の世界の存在なんだからさと、突き放しつつも紺はどこかさびしげだった。


「それととにかくいまのおまえは、感情を動かすな。人死にが出かねねーから」


 一言もなく山内くんが黙ったときだった。

 風ににおいを嗅いだ犬のように、とつぜん紺はぴたりと動きを止めた。

 その表情が愕然として、焦りをやどす。


「え。マジ?」


「……紺?」


「持たせたお守りがもう発動した……早すぎだろ」


 山内くんはその言葉の意味を考え、紺に劣らず青くなった。

 鈴明の身に、守護を必要とするなにかが起きたのだ。

 どちらからともなく駈け出した。


八代やしろの赤鹿神社の近くだっ!」


 伝わってくる力を読み取っているのか、走りながら紺が位置を口にする。タクシーを使えるならば躊躇なく使っていただろうが、あいにく通りかからず、五分ほどかけて走り着いた。

 息を切らせながら紺が指差す。


「あの、マンションっ!」


 その集合住宅をみた瞬間、山内くんにもわかった。


「あそこの四階だ、紺!」


 山内くんには見えた。狼煙のろしが立ちのぼるかのように、紺のものである力が存在を示している。

 マンションのエントラスのドアは、オートロック式にもかかわらず不用心にも開きっぱなしだった。

 侵入にやましさを感じながらも非常事態につき駆けこむ――だんだんだんだんと二段飛ばしで非常階段を駆け上がる――


 四階に達する。

 なにかが起きた部屋は一目瞭然だった。玄関から蹴散らされた靴が外にはみ出ていて、扉が完全に閉まるのをさまたげている。


「河辺さん!」


 扉を開くと、白い湯気が廊下にただよっているのが見えた。


「な……なによ、あんた」


 顔をしかめて脚を引きずりながら、中年の女性が奥から現れた。

 山内くんは血相を変えて問い詰める。


「河辺鈴明さんになにも起きていませんか」


「あの餓鬼の知り合い?」


 不意に、ぞっとするような負の感情が女性から発せられた。害虫のことでも吐き捨てるかのようなその口ぶりで、山内くんは理解した。この女性が鈴明の言っていた、彼女を嫌う「久子おばさん」なのだと。


「知らないわよ」


「知らないって……あなたいま、あの餓鬼って言ったじゃないですか」


「言いまちがえたわ。もう知ったことじゃないわよ。たったいま出て行ったのよ。ちょっと叱ったら妹を連れて家出したの。あいつらはほんとうにどうしようもない人間の屑だわ。孤児だからってひきとるんじゃなかったわ。孤児なんてぜんぶそうなのかもしれないわね、根っこに問題があったからお天道さまにも見放されてそういう境遇になるのよ」


「…………」


 山内くんの内側で、くらい存在がぞろりと動いた。

 頭の裏で〈げえ〉とカラスの鳴き声がした。

 そのとき、紺が息を切らせながらかれの横に顔を出した。


「一足遅かったか。鈴明ちゃんたちが出て行った直後だからエントランスが開いていたんだな」


 彼女はそう言いながら、山内くんの腕をつかんでささやいた。


「山内。この人も、もとからこうだったわけじゃない。貧乏オサキが入ったせいで、オサキ憑きに対する憎しみで歪められてる。だから――」


 死んでもいいんじゃないかこんな人、と考えるのはよせ。紺はそう言った。


「うっかりおからす様を呼び出しそうな目してるぞ、おまえ」


「……やらないよ、だいじょうぶ。わかってる」


 封印を解いているあいだは、山内くんは人の命の価値にむとんちゃくになる。

 感情や倫理的な知識が消えるわけではない。だから、親しい人間を手にかけるようなことはしない。そんなことをすれば悲しいから。見ず知らずの普通の人を気ままに殺すようなこともしない。それは良くないことだから。


 一見してかれはなにも変わっていない。

 ただ、人を殺すことへの本能的な忌避感が、ごっそり抜け落ちてしまっているだけだ。


 通常は、人が殺人という禁忌に踏み切るためにはなにかの理由が必要だ。いまの山内くんにはそれがいらない。ひとたび相手を死ぬべき悪人だと認定すれば、ふとしたはずみになんの気負いもなく、蚊を叩くように殺してしまいかねない。それができる力もある。だからむしろ、だれも殺さないための理由を必要とする状態だった。

 かれを宿主にした禍津御座神まがつみくらのかみが、精神を変容させているのである。


 その冥い存在は、いずれはかれの理性や価値観をすらねじまげてくるだろう。さいわい、まだそこまで精神への侵食は進行していない。

 いつかはしっぺ返しが来るのかもしれないが、いまはまだ、その力を利用するだけですませることができる。


 山内くんは鈴明のおばさんをじっと見た。

 常軌を逸したくちぶりで、彼女はまだ河辺姉妹を罵っている。


「この人は、内側が小さなむしの巣みたいになってしまってる。悪意の渦だ」


「……ここまで集まってたら、オレにも見えるよ。黒い霧みてーだ。先にこの人に会っておきさえすれば、おまえの目使うまでもなかったな」


 ブヨかショウジョウバエのような、細かい黒い蟲たち。

 ひとつひとつは取るに足りない微粒子状のそれこそが、貧乏オサキの正体なのだろう。


「これを片づけるのは後回しだ、はやく行こうぜ。鈴明ちゃんを探さないと」


 せっつく紺に「待って」と言い、山内くんはその中年女性の喉元にするりと右手を伸ばした。片手で喉輪を締め付けるようにつかむ。とたん、ずぶりと首の肉に指が埋まり、鈴明のおばさんがあっと目を見開いた。


「山内!?」


 紺の焦った声が響く――そのときには山内くんはにぎった手を、のどから抜いていた。

 喉を押さえた鈴明のおばさんが後ろによろめいて咳き込む。

 山内くんは、彼女の肉体を透過してなにかをつかみとったこぶしを紺のほうに差し出した。


「捕まえたよ」


 そのままにぎり潰した。

 幾百もの粒がいちどきにぷちぷちと潰れる感覚があった。ハエの卵を潰したかのような不快感。

 山内くんがこぶしを開くと、いやな臭いを発する黒い水のようなものがフロアに滴り、コンクリートに染みこむように消えていった。


 立ち去るまぎわ、山内くんは最後にふりかえる。鈴明のおばさんは呆然と口を開けてかれらを見つめていた。


    ●   ●   ●   ●   ●


 姫路中央部は城を中心として、古い石垣や堀が散在している。

 清水地蔵尊の近く、夜の堀端ほりばたを、ふらふらと鈴明は歩いていた。人気はなく、樹木が鬱蒼うっそうとしげっている。

 右手では妹の手をひき、左手にはランドセルをつかんでいた。


(……わたし、なんでランドセルなんか持ってきてるんだろ?)


 さっぱり記憶には残っていないが、おばさんの家から逃げるとき、壁にかけてあったそれをとっさにつかんで出てきてしまったようだ。

 あの必死な瞬間になんでこんなものを持ちだしたのか、自分の心の動きがまったくわからない。


(あ、宿題まだやってなかったからかな)


 こっけいすぎて笑ってしまいそうだった。


(わたしそこまでまじめな子じゃないのにな。だって学校にももう行きたくないし)


 鈴明に対するいじめはどんどんエスカレートしている。三日前には教科書がなくなって探してみると、腐った牛乳に浸されてゴミ箱に突っ込まれていた。いじめの主導者は友人だった子だ。

 教師もいまでは鈴明に無関心で、あからさまないじめを知っているのになにもしてくれはしない。鈴明はその無関心を憎悪に変えないために、せめてまじめな学童でいなければならなかっただけだ。それすら、ほかの生徒には「先生に媚びようとしてる」と映ったようだったが。


 パジャマ姿の妹の春美が、横でぐずった。


「あし、いたい」


「あ、ごめんね……」


 逃げ出してきたため、ふたりとも靴をはいていない。鈴明自身も足の裏に痛みを覚えた。痛みに気づいても、それすらどうでもよかった。


「おねーちゃん、これからどこいくの」


「どこ、行こっか」


 自分のものとも思えない、うつろな声で答える。

 ごめん、ルミちゃん。おねえちゃんにもわかんないよ。口のなかでつぶやく。

 わかっていることはただひとつだけ。もうおばさんのところには戻れない。戻ればきっと殺される。

 でも――

 だからといって、どこに行けばいいのだろう? どこならまともに生きていけるだろう。

 施設に入っても、別の保護者を見つけても、きっとずっと同じだ。やってもいない罪でまわりに嫌われ、憎まれ、うつむいて耐えつづけるみじめな人生。


(これが何十年も続くなら、そんなに長く生きるのやだなあ)


 手足が重い。ひどく疲れていた。


(そっか。わたしに憑いてたお化けがいなくなっても、なにも変わらないんだ……)


 いちど抱いた希望が潰されたことで、より深いところから心が折れていた。

 これからのことをもう何も考えたくなかった。


 山内くんが姉妹を見ていれば、かれの目には見えただろう。鈴明の背には、久子おばさんの吐いた黒い霧がはりついている。

 常ならば憑いていた毛玉が排除していたそれは、防備を失った彼女たちに直接毒をしみこませはじめている。


 ふと鈴明は空虚なまなざしで道端を見る。

 石垣の下の、黒ぐろとした堀の水面が視界に入った。姫路城の堀はさほど深くなく、そこもいつもは浅い……が、数日前の大雨のためか、水かさがかなり増していた。


 黒い水が優しく呼んでいるように、鈴明には思えた。


「ルミちゃん」


 空虚な少女の口から、ぽとんと声がすべり落ちた。


「お母さんのとこ、行っちゃおうか」




 ランドセルの中身を捨てて、ふたりで小石や砂利をつめた。

 ずっしりと重くなったランドセルを背負い、春美を抱きかかえて、鈴明は堀のなかへとそろそろと下りた。


 ひんやりとした水に踏みこむ。

 ざぶざぶと、深い箇所へと近づいていく。


「向こうに行くの、思ってたより早くなっちゃうけど、お母さんにふたりで怒られようね」


 そう言うと腕のなかで、こっくりと春美がうなずいた。


「お母さん怒ると怖いけど、お父さんがとりなしてくれるかも。ルミちゃんはお父さんに会うのはじめてだよね。

 怒り終わったらきっとお母さん、ドーナツ揚げてくれるからね。だから、苦しくても、ちょっとだけがまんしててね」


 水に腰まで浸かりながら、鈴明は妹に語りかけつづける。

 春美は不安そうに姉に強くしがみつきながらも、またこくんとうなずく。

 ルミちゃんが聞き分けのいい子でよかった、と鈴明は思った。

 母が死んで以来春美はずっと、悲しくなるほど良い子だった。


 ――だめ

 ――ルミちゃんまで連れて行っちゃだめ


 さっきから自分の心の一部分が訴えている。

 うるさい、これしかないんだもの、と鈴明はぼんやりかすみがかった頭でそれに言い返す。


(だってルミちゃんをひとり残すのはかわいそうだもの)


 ――嘘。そんなきれいな理由じゃないくせに


 春美も両親のところに連れて行ってあげたい、その思いがあるのはほんとうだ。

 だがなによりも、鈴明自身がひとりで死にたくなかったのだ。


「おねえちゃんね、ルミちゃんがいたからいままでがんばれたよ」


 漏らした尿のにおいがする、あたたかく小さな体を抱きしめた。

 ルミちゃんはわたしの電池、と実感する。

 生きるエネルギーをくれていた電池。

 自分よりも幼く、弱く、自分を必要としてくれる妹の存在は、鈴明にとって重荷である一方、生きる意味だった。


(でも、おねえちゃん、もう無理になっちゃったから)嗚咽が漏れた。涙で濡れた頬を押し付けて、(ルミちゃん、死ぬ勇気もちょうだい。最後までいっしょにいて、いっしょに来て)


 思いきって鈴明は前方の深みへと踏み出した。

 そこだけ底がえぐれたようになっていた。たちまち姉妹の全身が沈む。泥が舞いあがる水中は濁って暗く、冷たかった。

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