第7話 破綻
世の中の人は思ったよりずっと、悪を憎む。自分たちが悪だとみなしたものを。
「たまごやき、おいしかった」
ふとんに入った妹の春美が、添い寝する鈴明に言う。
鈴明はほんのすこしほほえんだ。
「おねえちゃん、あしたはすてーきがいい」
「そうだね。ステーキにしようか」
ステーキは豆腐を焼いたもののこと。
鈴明が店で買う食材は、いつも卵ともやしとキャベツと豆腐だ。半額になっていても、肉や魚はほとんど買えない。
なにを作っても、春美はおいしいと言って食べてくれる。それがいじらしくて悲しい。
この世ではおたがいだけが味方なのだと、おそらく妹もわかっているのだろう。
「ほかに食べたいものはある、ルミちゃん?」
「どーなつ」
鈴明は息を止める。
一年前に亡くなった母親は、たまの休みにドーナツを揚げてくれた。
思い出さないようにしていた情景が胸のなかでふくらむ。
――スズちゃん。
――どんどん揚げるから、お砂糖とシナモンふっていって。
――ルミちゃんが手を伸ばしてやけどしないよう見ててね。
シナモンの香りが満ちた台所。
生地が揚がる音にまじり、母の癖だった口笛が響いている。口笛はおせじにもうまくはなくて、ときどきかすれたり途切れたりする。
(シナモンの甘いにおい、お母さんのへたな口笛)
妹だけでなく、鈴明もドーナツは好きだ。母の味。
母が死んで以来、お菓子どころではなくなって、もう長いこと口にできていないけれど。
「おねえちゃん、やっぱりいい」
哀しげな顔を妹に見せてしまっていたかもしれない。春美が小さな手をふとんから出し、てのひらを見せながら振った。
「ルミたち、ママといつかまたあえるでしょ。そうしたら、いっぱいつくってくれるとおもう。だから、いまはどーなつ、いらない」
鈴明はむりやり笑った。
「気をつかうんじゃないの。わたしも一個くらい買おうかなと思ってたんだよ」
あのパン屋で引き寄せてしまったのは、シナモンドーナツだ。
「こんど買ってきてあげる」
言ってから、作ったほうがずっと安いかもしれないと気づく。
調べてみようと思った。母の味を再現するという計画に、ほんとうに久しぶりに心が浮き立つ。
コンロを使うことまでは禁じられていない。まだ。
(砂糖、あるかな。確かめておかなくちゃ)
春美が寝ついたあと、鈴明は廊下にそっと出た。
体が固まった。
キッチンに通じる戸から明かりが漏れている。
(おばさん……いつも遅くまでお仕事なのに、今日はもう帰ってる)
身を返して寝室に逃げこみたい。その恐怖を殺してふみとどまる。
聞いてもらわねばならないことがあった。
(それに、あのお化けはもういない。だからだいじょうぶかも)
左手首にさげた小さな
(お化けがおばさんにわたしを嫌わせてたんだもの。だからいまならだいじょうぶかも……)
鈴明はおずおずキッチンの戸を開けた。
キャリアウーマンである久子おばさんは、いま帰ってきたところらしくスーツも脱いでいなかった。お茶を沸かしているのかコンロの前に立ち、西瓜ほどもある大きなやかんを火にかけている。
「おばさん、おかえりなさい」
思いきって鈴明は声をかけた。
「あの……お話ししたいことがあって」
おばさんは反応しない。
声が聞こえていないかのように身じろぎもせず、鈴明に背を向けている。
決意がはやくも折れそうになったが、鈴明はこらえた。
「生活費のことなんです」
おばさんがぴくりと動いたように鈴明には見えた。
勢いがつき、一気に口に出す。
「買わなければいけないものがあって、すこし増やしてほしいんです。むだづかいはしませんから」
おばさんはゆっくりと向き直った。
「ねえ、鈴明」
毒がしたたる刃のような視線で突き刺され、鈴明は悟った――話しかけたのは間違いだったと。
「ふざけないで。先に話すことがあるんじゃないの?
今日ね、学校から電話があったわ、商店街で万引きしようとした女の子がいたって。『またおたくの子じゃあないですか』と馬鹿にされた口ぶりで言われたのよ。身に覚えがあるでしょ?」
足元から震えが走った。
もう遅かった――今日の放課後、パン屋に弁明にいったときには、すでに連絡されたあとだったのだ。
鈴明はけんめいに言いつのる。
「誤解なの! おばさん、聞いて。それは、パン屋さんもかんちがいしてて、」
「黙れ屑!」
怒号とともに包丁が鈴明に投げつけられた。
刃先は向いておらず、近くにあるものをつかんで投げつけたという感じではあったが……鈴明は声が出せなくなった。
鈴明の横の冷蔵庫にあたってはねかえった包丁は、床で回転している。
異様な雰囲気がキッチンに充満していた。
「さっき私がパン屋だなんて一言でも言った? やっぱり身に覚えがあったんじゃないか」
抑揚のない声でおばさんは言う。
「お金が欲しいだって? ふざけないで。
よおく聞いて、二度と言わせないで。最低限、食べていけるだけしかあんたには渡さない。遊ぶお金なんかぜったいにやらない」
あんたに渡すくらいならあの五千円も破り捨てたほうがましだと、渡すたびに思っているのよ。おばさんは呪詛を吐きかけるようにそう言う。
「ねえ、あれはおばさんが真っ当に働いて手にしたお金よ。うそつきの泥棒にその一部を渡さなければならないことが、おばさんをどれだけ苦しい気分にさせてるかわかる?」
「遊ぶんじゃないんです」
鈴明はこみあげそうになる涙をこらえ、主張した。
「ルミちゃんのおむつです。
おむつがもっと欲しいんです……最近は夜だけでなく、油断すると起きているときでもトイレに行くひまもなくおもらししてしまって。家にいるときなら布おむつでなんとかします、でも外では」
「信じられないわね。春美はもう三歳でしょ? それなのにトイレのしつけができていないの? それがほんとうなら動物以下じゃない。だいたいうちに来たころにはしてなかったじゃないの」
ストレスに満ちた環境は、幼児の尿失禁や夜尿症を呼び起こすことがある。
押し黙る鈴明の前でおばさんは顔をおおい、これみよがしにため息を深々ついた。
「あああ。帰ってくるなり、お金をせしめようとされるなんて。なんでこんな意地汚い子……こんな疫病神を養ってるんだろう、私」
嘆く声が少しずつたかぶってゆく。
さらなる興奮の前兆を感じ取り、鈴明は身をこわばらせた。
「わかってる? 私はね、『親戚の子を突き放して施設に入れたら世間体が悪い』というだけであんたたちを養おうとしたんじゃないのよ。かわいそうだと思ったからよ。だから……だから引き取ってやったんじゃないの!」
おばさんは手でおおっていた顔をゆっくりとあらわにした。
鬼というのはたぶんこういう顔をしているのだろうと、鈴明は恐怖からの逃避でぼんやり思った。
おばさんの目には煮えたぎる憎しみがあふれていた。
「こんな手癖が悪くてうそつきの子たちだと知ってたら引き取らなかったわよ! ねえ、恩をあだで返すのってどれだけ楽しいの? きっとよっぽど楽しいんでしょうねえ。まわりに迷惑ばかりかけて、そんなすました顔でのうのうと生きてられるんだから」
うそじゃない。盗んでない。うそなんかついてない。わたしは悪いものに憑かれてて、それがものを盗んでしまってたの。ほんとうだもの――
言ってもけっして、信じてもらえないだろう。
言葉をむりやり胸の奥にのみくだして鈴明はうつむく。
彼女はもうじゅうぶんに学んでいた。彼女の言うことをおばさんはぜったいに信じない。ヒステリックな憎悪の声がいつまでも終わらなくなるだけだと。
それに、と床の包丁を見つめる。
今日のおばさんは、いちだんとおかしい。どろりと黒いいやな予感がつきまとっていた。
コンロでは、沸いたやかんがぴーぴー鳴っていた。
針のような言葉が鈴明にぶつけられ続ける。
「だんまりしていればやりすごせると思ってるんじゃないでしょうね? なにか言いなさいよ、いつものように『やってない』って厚かましく言ってみなさいよ! 私も最初の何度かは信じこまされちゃったわよ、それをあんたは腹のなかで笑ってたんでしょ!?」
おばさんの声はどんどん大きくなっていく。
あらゆることをあげつらい始める。
「学校でも友達がいないっていうじゃない、聞いたときやっぱりねえと思ったのよ。あんたみたいな子と親しく付き合う子がいるわけない。この世は悪いやつを憎むようにできてんのよ!
あんたの母親もどういう教育をしてたんだろう――兄さんと結婚したあのひとのことはそりゃあ気の毒だったわよ昔はね、うちの老害どもにいびられてると聞いてかわいそうにと同情してたわ。でもいま思えばあの親にしてこの子ありだったんでしょうねえ!」
危機感をつかのま忘れ、お母さんのことまで悪く言わないでと鈴明は声をあげそうになる。
こういうときほんのすこしでも言い返せば逆効果だと経験で知ってはいたが。
だが、
(ルミちゃんにまで矛先が向くかも)
浮かんだその恐怖が少女の口をつぐませる。
心の表面をがりがりと獣がかきむしる。
鈴明は心を閉ざして胸の奥のもっとも深いところを守る。
ほら、こうすればだいじょうぶ。人形になっていれば傷つかない。なににも期待しなければこれ以上傷つかない。お化けがいなくなって状況が良くなるかもなんて、たぶん期待するべきじゃなかったんだ。
麻痺した意識の片隅で、鈴明は(だいじょうぶ)と繰り返す。
わたしはだいじょうぶ。わたしはお人形。だからなにを言われたってだいじょうぶ――
「おねーちゃん」
この場にあってはならない声が、背後から聞こえた。
愕然として鈴明はふりかえった。
まくらを抱えた春美が無表情で立ち尽くしていた。精神に強い負荷をかける場面に直面して、貧乏ゆすりのように小さな体が震えている。
「ルミちゃん、こっちに来ちゃだめ」
部屋にもどって。鈴明がそう言う前に、春美は立ったまま漏らした。
「おねーちゃん……」
しょわしょわとパジャマのズボンが濡れていく。水たまりがフローリングの床にできていく。
その失禁が、急激な破綻を呼んだ。
「ああああ――汚い、汚い汚い!」
だしぬけに、おばさんの嫌悪のわめき声が鈴明の耳をつんざいた。
「なにをしているのよ、汚い汚い汚い汚い! ほんとうに嫌になるったらないわ!」
ぎぎっとおばさんの爪がシンクのへりに立てられる。
その音を、鈴明は恐怖に肌を粟立たせながら聞いた。
正気と狂気の境目の線が、いま越えられたのを感じた。
(あれ……)
幻だろうかと鈴明は涙の浮いた目をしばたたく。叫ぶおばさんの口の中が真っ黒だ。ショウジョウバエの群れが飛び出すように、黒い霧のようなものがあふれだしてくる。
「あんたも春美も汚い子供よ! あんたたちは病原菌よ、害虫よ、この家に入りこんだ汚らわしいモノよ! 出ていけ! 出て行ってのたれ死になさいよ、死んでちょうだい! 死ねよ、死ね、おねがいだから死んでよおお!」
「おばさん……」
「自分で死なないなら――」
消毒してやるとおばさんが言った
おばさんの手が沸き立ったヤカンの取っ手をつかむ
お湯が注ぎ口から一条こぼれて床でびちゃりと鳴る
彼女の足元からもうもうと湯気が立ちのぼる
(まるで地獄を見ているよう……)
時間がスローモーションで流れているかに思えた。
考えるひまもなく鈴明は、春美を抱きしめる形でおおいかぶさった。
瞬時の予想に反して、すさまじい苦痛は背中に襲ってこなかった。
かわりに、手首に下げていた巾着袋からいきなりなにかが飛び出した感覚があった。
続いておばさんの驚愕の声が聞こえた。肩越しに鈴明は見る。
十数匹もの赤い魚たちが、宙に浮いていた。
(金魚……?)
とつぜん現れた金魚たちに群がられ、顔にばしばし当たられて、おばさんが狼狽に腕をふりまわす。右手にさげたやかんから沸騰した湯がさらにこぼれた。それがびちゃりと脚にかかり、おばさんが苦痛に叫んでやかんを放り捨て、脚を押さえてうずくまる。
人の頭が転がるかのように床をごろんと一回転して、やかんのふたが外れる。沸騰した湯がどぱんとあふれでた。
白い湯気がいっそうたちこめるなか、鈴明は春美の手をひいて玄関のほうへ駆け出した。
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