第2話 漏出

 少年は、歩き始めた。

 一糸纏わぬ姿のまま、充てもなく森の中をよたよたと彷徨う。


 背丈は伸びても、ほんの数刻前生まれたばかりの子に、思考する力はあれど、その軸となる根幹は虚ろのままである。母親の遺物を持とうという発想すら出ないのも当然だった。

 何をすれば全く分からない彼に残されたのは、足を前へ交互に動かすこと──、その唯一行える行為を繰り返す他なかった。


 覚束ない足取りで、大地を踏みしめるように一歩一歩を進む。何度も転び、小石で肌を切り、体の至る所が泥と血で汚れていった。

 それでも構わず、明確な目的も意味も持たないまま、少年は歩み続け、

 三日の時が過ぎた。


 その間、水も食物も何も目にしていない。仮にそのようなものが目に留まったとしても、彼には様々な意味で、それを口に入れる判断が下せたのか怪しいものだった。

 足取りはふらついており、速度も当初より遅く、一風吹けば今にも倒れそうな程か弱い様子であり、明らかに衰弱していた。


 姿は一層増して汚れていき、遠目に見れば蓑虫が直立して移動しているかのように思える。

 そんな放浪も、段々と歩幅が狭まっていき、遂に体力が尽きたのか、膝をつく。

 前はもう見ていない。ひたすら続く代わり映えのない景色よりも、足元を常に注意したほうが有用と考えた為である。


 だが、今やそれも必要なくなった。心身共に限界を迎え、これ以上歩く事の意義を、少年は見出せない事に気付いたのだ。

 自然にゆっくりと、瞼を閉じた。


 諦めの感情が支配し、体を動かす気力は沸かない。

 このまま朽ち果ててしまおう──。


 少年の胸中を言葉に表せば、それに近い思考だった。

 そして時は更に流れ、


 『忌み子』の命は未だ果てる事なく、

 やがて聞こえたのは、人の声だった。


「おい……、生きてるか?」


 目を開けると、白髪が目立ち、日焼けした肌が特徴の男性が飛び込んだ。



「全く……驚いたぜ。あんな草木しか生えてない場所に子供がいたとは」


 自身が住む、カンラという町まで少年を背負い連れてきた、タオと名乗る男が呟いた。


「一体何があったのでしょうね……こんなに小さな子が……」


 タオの妻である壮年の女性、チュンが全身の泥を雑巾で拭き落としながら言った。

 カンラに辿り着き、少年が見たものは、立ち並ぶ木造の家屋、作物を育てる田畑、自分らに注目する人々。


 民衆は、少年とタオの事について幾ばくかの追及が続いたが、最終的に、ひとまずは第一目撃者であるタオが面倒を見るという結論で落ち着く事となった。

 泥を落とし終え、子供用の着物を着せてあげると、チュンはそっと抱きしめた。


「可哀そうに……辛かったわね。もう大丈夫、怖い思いはさせないから」

 タオは座り込み、少年と目線を合わせた。


「言葉もまだ分からんようだし、お互い不便はあるだろうが……、まあこれからゆっくり覚えていけばいい。よろしくな」



 その日から、名もなき少年にとって、初めての日常が訪れた。

 チュンはそれに伴って、最初に意思表示を覚えさせる事からとりかかる。

 首を縦と横に振る行為、頷く事と、かぶりを振る事を実際に行わせ、肯定と否定ができるように教えた。


「私は、チュン。わかる?」


 彼女は、自分を指で指して尋ねる。

 少年は首を縦に振り、それを見たチュンは、笑顔を浮かべて少年の頭を優しく撫でた。


「その通り! よくできました!」

 されるがままになっている少年も、自然と笑みが零れ、

「……ん……」

 徐々に様々な表情を見せるようになった。


 チュンとタオは、連日家事や仕事の合間を縫って少年の教育に力を注いだ。

 学習し、正しく理解した事への賞賛を惜しみなく受けた少年は、一層向上心と自意識を確立する。


 尋常ではない速さで物事を吸収し続け、その結果、僅か二週間程で日常会話が成立する基準にまで至り、夫婦は大いに驚嘆した。

 子供どころか、人間として見ても異常といえる智能だったが、三人が暮らす生活に支障はなく、その後も穏やかに日々を過ごしていった。


 揃って食卓を囲み、

 炊事や洗濯等の家事を手伝い、

 夜、両隣にいる二人を挟んで、布団に包まれ就寝につく。

 一日一日が充実しており、少年は、この上ない幸せを感じ取っていた。


 同時に、罪の意識も大きくなりつつあった。

 少年には、徐々に分かってきたのだ。


 母親が死んでしまったのは、自分が原因である事を。

 もし自分が普通の子として産まれていれば、この日常を、本来の母親と送れただろう。


 不安と後悔が心を押し寄せる。

 この気持ちに整理をつけるには、まだ時間が必要だった。


 そんなある日の夕暮れ時、タオ家に突然の来訪者が現れた。


「チュンおばさーん。お店の売上、忘れてってますよー」


 玄関の戸を開けた人物は、十歳程と見受けられる、かんざしで髪をまとめている一人の少女。着ている着物は裾や袖が短く、露出した手足から動きやすそうな印象を抱く。


「やだ、ごめんなさい。ありがとうね。ユーリイちゃん」


 急いでやってきたチュンは、差し出された布袋を受け取る。

 その際に、ユーリイと呼ばれた少女は、視界に入った少年の方へ向いた。


「あ、もしかしてタオさんが見つけて引き取ったっていう、あの?」


「そう。最近元気になってきてねえ」


 少年は、たどたどしく挨拶しようとする。見知らぬ人と会話をするのはこれが初めてだった。


「こ、こんにち、は……」


 ユーリイは、にこやかに笑う。


「こんにちは。たまにおばさんの店の手伝いやってまーす」


 チュンが、少女の両肩に手を置いた。


「しっかりした良い子でねえ。私だけじゃなくて、他の人達にも親切によくしてくれてるのよ」


 その後、思いついたように手を叩いた。


「そうだわ。もしユーリイちゃんがよかったら、今夜はうちでご飯食べていかないかしら? いい機会だから、その子と仲良くなってあげて」


「え、いいんですか? もちろん喜んで!」


 何かお手伝いする事ありますか、と楽しそうに談笑するユーリイを見た後、何となく気恥ずかしくなり、少年は奥の部屋へ移動し、障子を閉めた。

 そして彼は、人との出会いに、胸の内から気分が高まるのを感じていた。


 色んな話をしてみたい、仲良くなって、一緒に遊びたい、もっと、たくさんの人と触れ合ってみたい。

 期待で溢れた少年は、様々な想像を巡らせる。


 一通りの空想を終えて、自分も夕食の準備にとりかかろう、そう思った直後だった。

 何気なく下を見てしまい、

 思わず呟く。


「え……?」


 濃紺の霞が僅かに、自身の体から滲み出ていた。

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