第60話 たとえベアトリーチェの為でなくとも


ライナルファ侯爵邸へと入って行く背中を見送ってから、レンブラントは御者へと合図を送る。馬車はゆるゆると出発した。



レンブラントは溜息を吐くと背もたれに身体を預けた。



「一年につき金貨百枚、七年の時を巻き戻すのに金貨七百枚か・・・」



レンブラントは目を瞑る。



今回、ナタリアが攫われレオポルドが暴走しかけたのを止めた事への感謝と詫びの印に、本来の約束ではライナルファ侯爵家のものとなる筈だったアレハンドロの個人資産がレンブラントへと譲られた。


その額はざっと金貨五百五十枚。



いくら王国一の大商会の息子の資産とはいえ、平民上がりの男爵令息が持つにしては大きすぎる額である。



「・・・今から数年後には、それを更に上回る金額、金貨七百枚を一魔術師に惜しげもなく支払ったか・・・」



レンブラントは独り言ちてから頭を振る。



どれだけ考えても、アレハンドロの思考回路は理解出来ない。


あのナタリアという娘がそれほどまでに大切ならば、なぜ傷つけるのか。手元に引き寄せてから突き放し、泣けばまた引き寄せて慰めて。


ただの遊びかと思いきや、自分が首の骨を損傷してでも守ってみせたりもする。


そして誘拐拉致していた家では、砕けたペンダント以外には暴行などの痕跡はなく。


アレハンドロが見せたのは紛れもない執着。それでも男女の愛とは一線を画して見える。



レンブラントは幾らか思考を巡らせて、最後には考えるだけ無駄だと諦めた。



どうしたって分かり合えない人間はいる。理解の範囲を超えることも。



「・・・アレハンドロは、あの男は、トリーチェには良い方の顔しか見せなかったんだろうな」



だから妹の中では、あの男に関して良い思い出しか残っていないのだ。



きっと偽りの姿という訳でもなく、それもまた確かにアレハンドロの中にあった人格の一つだったのだろう。



「借りを作ってしまった気分だ。気に入らない・・・」



思考に耽るうちに馬車はストライダム侯爵家へと到着する。


王宮へと通う日にちを減らした為、屋敷の自室で片付けられる仕事は持ち帰ってある。故に机の上には書類が山積みだ。



レジェス商会の件がひと段落ついたとは言え、まだまだやるべき事は山ほどあった。



例の誘拐事件から既に十日。


あと一週間もすれば学園の夏季休暇は終わり、ベアトリーチェたちは再び学園に通い始めることになる。



意識も戻り、肩の脱臼による痛みも薄らいできたナタリアに対し、アレハンドロは未だ昏睡状態だ。



側から見ればただ事件に巻き込まれただけのナタリアだが、貴族令嬢が誘拐され一夜を婚約者でもない男と過ごしたとなればとんでもない醜聞。

公の事件にはなっていないものの、いつどこで漏れるとも限らない。


この一点に関してレオポルドは実父に激怒しており、未だ話し合いは平行線をたどっていた。






「お帰りなさい、お兄さま。難しい顔をなさってどうしたの?」



毎日出迎えが出来るほどに妹の体調が良くなってきたのは嬉しいが、お前が投げてよこした問題のせいでこんな顔になっているのだと言ってやりたい。



だが、言えばどういうことだと話が長くなるから、疲れている上に忙しいレンブラントは「別に」とスルーした。



「お疲れのようですね。あ、そうだ。体力の増強に良いお茶があるので、お持ちしますね」


「いらん」



即行で却下する。



「むぅ、どうしてですか。お兄さまの体調が心配だから言ったのに」


「親切心を装ってるが、俺は知ってるぞ。エドガーがドリエステから送ってきた例のやつだろ。お前が毎日飲まされて変な顔してるあのとんでも無く苦い薬草の」


「バレましたか。でも、効果はすごいんですよ?」


「それも知ってる。お前がこうして毎日倒れることもなくなったのは、その薬草茶のお陰だもんな」


「そうなんです! だからお兄さまもぜひ」


「いらん。そんなすごい効能のお茶は、お前が毎日せっせと飲め」


「・・・お兄さま。私を気遣ってる風を装ってますけど、本当は飲みたくないだけでしょう」


「それを言うならお前もだろ。少しでも自分の飲む量を減らしたいのバレバレだぞ」


「うぐ」



ベアトリーチェと軽口を叩きながら、レンブラントの口元が自然と緩む。



これはきっと、巻き戻り前には見られなかった筈の光景だと知っているから。



ベアトリーチェが生まれ、喜ぶ間もなく先天的な血液疾患があると知り、家族全員が絶望した。



それでも、何も知らない赤子はお腹が空けば泣き、あやせば笑う。



生まれたばかりで何も知らない小さな小さな妹がへにゃりと口元を緩めれば、それだけで涙が出そうになった。



やがて自我が芽生え、兄の姿を認識し、仏頂面のレンブラントに天使のような無邪気な微笑みを向ける。


よちよち歩きで追い縋り。

ご本を読んでと膝に乗って。



その度に胸が苦しくなった。



いつまで。


いつまでこの子は生きられるのだろう。


学園には通えるのだろうか。

大人にはなれるのだろうか。


人並みに恋は出来るのか、娘らしい時間を楽しめるか。


ああでもきっと、結婚は出来ないのかもな。



自分の健康な身体が申し訳なくて。

当たり前のように未来を描ける自分が、どうにもいたたまれなくて。



一度だけ、エドガーの前で泣いた。



だから、こんなのは只の自己満足だと分かっていても、結婚はベアトリーチェが生きているうちはしないと両親に言った。


将来が描けない妹の前で幸せな結婚生活なんて見せられない。見せたくない。

そして、もし幸せな姿を見せたくないのに妻を迎えるなら、それは妻となる人にも失礼だと、そう思ったから。



自分はいい。まだいくらでも時間がある。


でも妹は。トリーチェは。




「・・・もう。お兄さまは自分のことを大事にしなさすぎです」


「そんな事はない」


「そんな事あります。だから飲みましょう?」


「いいって」


「もう、頑固なんだから。じゃあ一緒に。一緒に飲みましょう。それならいいでしょ?」


「・・・仕方ないな。一杯だけだぞ」



ベアトリーチェの膨れっ面、おねだりする様な甘えた目つき、嬉しそうな笑顔。



こんなやり取りが出来ることすら、奇跡のようだとレンブラントは思う。




今回は間に合いそうで。

そう、きっと間に合う筈で。



だけど、前回は。


前回は、間に合わなかったと知った。



あいつが時を巻き戻す事に決めたのがベアトリーチェの為じゃなくても。

あの男がナタリアという娘のことしか考えていなかったとしても。


それでも。


あの時あいつがそれをしなかったら、今のこの笑顔を俺は見ることが出来なかった。



そう痛感する度に、思考が揺れる。

判断に迷いが出る。


あんな男に感謝してどうするのだと自分の中の自分が叫び、なぜ金貨七百枚を投じてそれをしたのが自分ではなかったのだと詮ないことを問い始めてしまうのだ。



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