第55話 ただ、その為だけに
「ねえ、エドガーさま」
兄を見送った後、どうしても気になって何度も窓から外を確認していたベアトリーチェが、遠慮がちに口を開いた。
「なんだい、アーティ?」
「あの、あのね。お兄さまのお話を聞く限り、もう私の心配は要らないと思うの。もう私を護衛しなくても大丈夫だから」
「うん?」
「ほら、エドガーさまは本当は今日の午後にここを発つ予定だったでしょう? 今からでも用意すれば、夕方前にはここを出られるわ」
「駄目だよ、アーティ。ちゃんと事が収まるまでは、君の傍を離れない」
「エドガーさま。でも」
「アーティ」
エドガーがどれだけ多忙な生活を送っているのか、ベアトリーチェはよく知っている。
そして、その過酷なスケジュールがほぼベアトリーチェのせいであることも。
だから今、ただベアトリーチェを安心させるためだけにこの屋敷に留まるエドガーに申し訳なさを感じてしまう。
そんなベアトリーチェの心情などもちろん察しているエドガーだったが、ここで割り切って出発できるほど器用な性格をしていない。
そっとベアトリーチェの頭を撫でると、彼女の大好きな穏やかな笑みを浮かべた。
「今帰っても、きっとこっちの事が気になって仕事に集中出来ないと思うんだ。だったら、全て解決するまでここで見届けさせてもらうよ・・・それに」
一拍の間の後、思い切ったように言葉を継ぐ。
「僕がアーティの側にいたいんだ・・・本当は、たとえ研究のためであっても、君と離れたくないって、そう思ってるくらいなんだから」
「・・・へ」
ベアトリーチェの口から、ぽろりと呆けた声が溢れる。
「もう・・・さすがに気づかれちゃってると思うんだけど」
エドガーは、照れ臭そうに頬を掻く。
それでも視線は真っ直ぐにベアトリーチェを捉え、言葉を継いだ。
「その・・・僕は、アーティのことが、とても・・・とても好き、なんだ」
「・・・」
「子どもの頃から、ずっと・・・君の笑った顔が・・・好きだった。
いつか必ず、君を元気にしてみせるって、ずっと笑顔でいさせてやるんだって、そう思ってて。だから」
自分は、夢でも見ているのだろうか。
ベアトリーチェは、ぼんやりとそんなことを考えた。
エドガーは、子どもの頃からベアトリーチェに甘かった。
丈夫でないベアトリーチェは、いつも決まったように木陰の下で本を読んで、その隣には当たり前の様にエドガーがいて。
エドガーは、ベアトリーチェの体調の変化に気づくのがレンブラント並みに早く。
考えが読める能力でもあるのかと思うくらい、ベアトリーチェの感情の機微に聡かった。
優しくて、頼りになる、もう一人のお兄さん。
「・・・」
いや、違う。
それくらい安心していられた大切な人だ。
大切な、とても大切な人。
--- アーティのことが、とても・・・とても好きなんだ
「~~~~っ!」
「ア、アーティ?」
好き。好きって、私を好きってこと?
今、そう言ったみたいに聞こえたけど、もしかして体調が悪くなって幻聴が聞こえたとか?
だって、まさか。
エドガーさまが。
優しくて、頭が良くて、気が利いて、親切で、穏やかで、本の趣味が似ていて、いつも私のことばかり心配していて自分のことはそっちのけで。
そんな、そんな人が。
「・・・嘘・・・」
「嘘じゃないよ」
「じゃあ、空耳?」
「空耳でもない。僕の本心だ」
「本心・・・本当の本当に? エドガーさまが私を?」
「本当の本当だ。アーティ、君のことが大好きだ・・・子どもの頃からずっと、君だけが」
信じられないとばかりに口にした意味のない質問の連続に、エドガーは辛抱強く言葉を返す。
それでもまだ呆然としているベアトリーチェの頬を、エドガーは両手で包み込むように抑え、その澄んだ瞳で覗き込んだ。
「小さな頃から将来を諦めていた君を見ているのが辛かった。君と未来を共にしたくて堪らなかった。だけど、君に無責任に将来に思いを馳せろとは言えなくて」
「エドガー、さま」
「だったら、君の前にそんな未来を差し出せるような人間になろうと思った。君の病気を治す薬がないのなら、自分で作ればいいって。それでドリエステに留学することに決めたんだ」
頬を包むエドガーの手のひらが温かい。
彼の眼は、火を灯したかのように熱がこもっていた。
「薬が完成するまでは黙っているつもりだった。確実な未来を君に差し出したかったから。こんな風に先走って告白してしまったけど、薬が完成する目処は立った。
もうすぐ・・・いや、あと最低でも一年はかかると思うけど、必ず薬を完成させるから。だから・・・その時は」
エドガーが一瞬、口を噤む。
喉がこくりと鳴った。
「君さえ良ければ・・・僕との将来を考えてみてほしい」
「・・・っ!」
ベアトリーチェは、彼の少し変わった生き様に、この時初めて考えが及んだ。
エドガーには婚約者がいない。
彼は同じ侯爵家の三男で、兄二人とは随分と年が離れている。
穏やかで愛情深い家庭で育ち、性格も頭も良くて。
貴族の立場を確実に手にしたいのなら、普通は早いうちに貴族家の婿入り先を見つけるもので、優秀なエドガーなら容易にそれが出来た筈で。
今の彼は、二十二歳。
生まれは貴族でも、今の立場は平民。
だって彼は、どこの貴族の家にも婿に入らなかった。
婚約者すら、探さず。
全ては、ベアトリーチェのために。
ベアトリーチェの病を治すため、作れるかどうかも分からない薬を完成させるために。
・・・ただ、そのためにだけ。
前回は、そこまでしてもベアトリーチェは死んだ。彼は間に合わなかった。
その時二十六歳だったエドガーは、何を思っただろう。どれだけ絶望しただろう。
恋心を押し隠し、地位も家族も権力も求めず、ただひとつ求めた願いが叶わなかった時には。
「エドガー・・・さ、ま・・・」
なのに彼は、それでもまだ、こんな風にしか言わないのだ。
君さえ良ければ、と。
「あ、りがとう・・・ごめんな、さい。私、私に、こんな・・・」
「僕が勝手にやったことだから、負担に思わないで。ただ君に元気になってほしかった、それだけだから」
ぽろぽろと涙が溢れた。
包みこむような愛情がくすぐったくて、嬉しくて。
将来を思い描いたことなどなかった。
何かを、誰かを夢見ることも。
レオポルドが好きだった。
でも、だからどうしようとも思わなかった。結婚はおろか告白する気さえなく。
共に人生を歩む未来など、願ったとて叶うとも思わなかったから。
だから良いと思ったのだ。契約上の白い結婚でも。
嘘でも人並みに結婚生活を味わえるなら幸運だと。
でも、違う。
本当の恋は、本物の愛は、こんなにも温かいもので。
心臓をぎゅっと掴まれたみたいに苦しくて切なくて。
「エドガーさま」
「うん」
「・・・私は、将来を夢見てもいいのでしょうか・・・」
「夢見てもらわないと困る、かな」
エドガーの大きな手がするりと目元を撫で、涙を拭う。
「だって、僕はそのためだけにずっと頑張ってきたんだから」
そう言って彼は柔らかく微笑む。
真冬に見つけた陽だまりにも似たエドガーの穏やかな笑みは、知らずベアトリーチェの心をゆっくりと溶かしていた。
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