第53話 泣きたくなるほど美しい



橋の上でアレハンドロが眼下を見下ろせば、そこにあるのはあの日と同じ、ゆったりと流れる大きな水の流れで。


人もそれを取り巻く状況も変わっていくのに、ここだけは何も変わらない。


あの日、ミルッヒを呑み込んだ日と、そう、なに一つ。


相も変わらず、ここの景色は泣きたくなるほど美しいままだ。




「・・・結局、尾いて来たんだ?」



草木をかき分ける音がして振り向けば、家を出た当初は姿を見せなかった、例のストライダム家の影が姿を現した。


ナタリア救出よりも、アレハンドロの所在確認の方が任務として優先順位が上らしい。


振り返って声をかければ、男は肩を竦める。



「地面がまだ湿っているからな・・・多少離れたとて、後をつけるのは容易い」


「・・・ああ。そう言えばさっき、ちょこっと降ってたっけ」



地面がぬかるむほどではなくても、足跡は残ったのだろう。


なるほど、ならばここに追手が来るのも、もうじきか。



最後の景色もゆっくり味わわせてくれないとは生真面目も過ぎるが、ストライダム侯爵家の者なら当然とも言える。

前の時も、あそこには散々苦労させられた。


罠とか囮とか陽動とか、手段を選ばずに仕掛けてくる奴らで、お人好しのベアトリーチェと血が繋がっていると信じられないくらいの苛烈さだった。

父親もすごかったけど、あいつの兄貴も相当手強くて、レジェス商会うちの被害もなかなかに大きくて。



「・・・アレハンドロ。お前は何故ここに?」



考えに耽っていたアレハンドロに、男が尋ねた。



何故?

そう言えば何故だろう。


ああ、それは多分。



「・・・俺の、一番大事な場所・・・だからかな」



幼い頃の自分を慰めてくれた場所で、自分の大切な玩具宝物が奪われた場所。

そして、自分の無力さと愚かしさを思い知った場所。


アレハンドロが、世界の全てを厭うことを決意した場所でもある。


ああ、そうだった。ひとつ、たった一つだけ、この世で厭うていないものがあった。


自分に、世界の色を取り戻させてくれた俺の新しい玩具ナタリア。あいつだけ。



「・・・この場所で妹が死んだんだ。丁度ここから川に落ちて」



水流を見つめながら。

薄い笑みを浮かべながら、そう口にする。



そうだ。この雄大な水の流れに呑まれて、ミルッヒは死んだ。



皆が皆、アレハンドロとミルッヒを知る全員が、彼が犯人だと信じて疑わなかった。


蝶や鳥を殺すのと同じ感覚で、妹の命もまた捻り潰したのだろうと。


周りにいた誰もが、アレハンドロに恐怖の目を向けたのだ。


女の尻を追いかけることと金儲けのことしか頭にないあの父親は、あれきりアレハンドロと視線を合わせようとはしなくなって。

煩かった母親とは、最低限の接触すらなくなって。

下男も、下女も、俯いたまま顔も見ずにただ命じられた仕事をこなすだけで。



誰一人、アレハンドロに尋ねることはしなかった。


問い尋ねることなく、アレハンドロがミルッヒを殺したのだと確信していた。




「・・・まさか、お前・・・」



ストライダム家の影は、そこまで言って口を噤む。その先の台詞は、言わずもがなだ。



・・・ほら、やっぱり。



アレハンドロの口角が歪に上がる。



声を上げて、笑いだしたい気分だ。


きっと、自分は今、さぞや醜悪な顔をしていることだろう。




・・・ああ。会いたいな。

ミルッヒに、会いたい。



いつ如何なる時でも、真っ直ぐな瞳で自分の手を握ってくれた、俺の宝物ミルッヒに会いたい。



ミルッヒの傍では楽に息が出来たんだ。


でももうあの子はここに居なくて。

代わりの宝物になったナタリアには、さっき別れを告げた。



だから、もうないんだ。

自分が息を吸える場所は、もうこの世界のどこにもない。



「・・・あの家ストライダムが出て来なければ勝てたんだけどな。あそこはいつも俺の邪魔をする」



本当なら、あの男レオポルドがそれをすべきだった。ナタリアミルッヒを自分から奪うのなら当然だ。

ベアトリーチェ・ストライダム。お前は恋した男レオポルドに甘すぎる。



まあでも、もうそれもどうでもいい。



この世界に自分の居場所がないのなら、もう無理する必要はない、アレハンドロはそう思う。


だって、どうせ誰も自分の生を望んでいないのだ。



あの日の様に、橋の欄干に手をかける。



その時、別の場所から草木をかき分ける音がした。



追手か。



そう思い、欄干に座ってから振り返る。


そして、視線を向けた先には。




「・・・」



なぜ、お前が。



アレハンドロの脳裏に浮かんだその問いは、言葉にはならなかった。



ミルッヒが消え、欠けてしまったアレハンドロの世界を完璧なまでに埋めてくれた可愛くて愚かなナタリアが。

無知で無垢で疑うことを知らないナタリアが、そこにいた。



「・・・っ」


「アレ、ハンドロ」



ナタリアは、欄干の上に座るアレハンドロの姿を認め、安堵の表情を浮かべる。



「ご令嬢っ! 何故こちらに・・・っ、あのまま部屋で助けを待つようにと、あれほど・・・っ」



少し離れた場所にいた影が、焦った声で叫ぶ。



「・・・ああ」



アレハンドロは納得したとばかりに頷いた。



影がやけにあっさりこっちに来たと思ったら、そういうことか。


まあ、万が一もないようにっていうその行動は、普通ならば正解なんだろう。でも。



ナタリアとアレハンドロとの間にある繋がりを、その深さを、分かっていない。


攫われた被害者ならば、感謝して言われた通りにその場で助けを待つと、そう思ったのだろうが。



「・・・策士、策に溺れるって、こういう事かね?」



違うと分かっていて、敢えて口にする。


こんな結末、あいつらストライダムには理解不能だろう。



ああ、でも。

ベアトリーチェだけは分かってくれるかな。



ナタリアなら、アレハンドロを追いかける。

他の誰がしなくても、ナタリアは。



「断腸の思いで別れを告げたのに。いけない子だな、お前は」



アレハンドロは欄干の上に座ったまま、両手を広げ、優しく微笑む。



「アレハンドロ・・・」


「おいで・・・ナタリア」


「いけません、ご令嬢・・・っ!」



制止しようと動いた影の横をすり抜けて、ナタリアはアレハンドロのもとへと・・・駆けた。


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