第33話 閑話 静かな妹


※ アレハンドロの幼少期の話です。

愛人や虐待にまつわる表現があります。


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アレハンドロ・レジェスには五人の弟妹がいる。いや、今は四人だから『いた』と言う方が正確だろう。



弟妹のうち、同じ母から生まれたのは二つ下の妹ミルッヒだけ。



アレハンドロの父マッケイは国一番の商会を経営するだけあって、積極的で豪胆で行動力のある男だった。



その積極性は、商売のみならず女性に対しても如何なく発揮された様で、彼は正妻とは別に、愛人を三人ほど囲っている。


アレハンドロは、その愛人の一人、レガーラの息子だった。


正妻に子はいない。故に、長男のアレハンドロが後継ぎと定められた。



レガーラはマッケイの最初の愛人だった。


アレハンドロを身籠った時は、五年経っても正妻との子どもが授からなかったマッケイを大いに喜ばせた。しかも生まれたのは男の子だったのだ。



その後、ミルッヒが生まれ、マッケイは愛人の数を二人に増やした。二人目の愛人との間に子どもは生まれず、マッケイの愛人は三人になった。その三人目が、アレハンドロの残りの弟妹三人を生んだ。

アレハンドロより十歳下の妹と、十三歳下のもう一人の妹、そして十五歳離れた弟だ。



でも、本当は六人兄弟だったかもしれない。


あの時、あの子が無事に生まれていたら。



「・・・いたらどうだったかな。ミルッヒくらい可愛かったろうか」



生まれなかった赤子を思い、アレハンドロがぽつりと呟く。



アレハンドロには、六歳ほど離れた弟か妹がいた筈だった。


無事に生まれていれば。

あの日、レガーラが倒れたりしなければ。



そう、忘れもしないあの、ミルッヒが死んだ日に。








「ミルッヒ、おいで」



妹の名前を呼び、アレハンドロが手を差し出せば、ミルッヒは無表情のまま手を重ねる。


屋敷内で進んでミルッヒに声をかける人間は、アレハンドロひとりだった。



ミルッヒは生まれつき聴力に問題があった。

音がほとんど聞こえず、結果それが発声の問題へとつながった。



ほぼ聞こえず、ほぼ話せない。



長男であり跡継ぎであるアレハンドロを生んだ事で鼻高々だったレガーラは、ミルッヒの誕生後、娘の障害を知るとあからさまに落胆した。


事実、ミルッヒの存在が、夫マッケイの寵愛を脅かしたのだ。そのタイミングで、マッケイは二番目の愛人を囲い始めたのだから。



結果、レガーラはミルッヒの世話をすることを嫌い、使用人たちに任せきりになる。



逆に、アレハンドロのことは常に側に置く様になった。



「アレハンドロ、私の可愛い子。お前は旦那さまの商会を継ぐ大事な存在なのよ」



朝も昼も夜も。


レガーラが起きてから寝るまでの間、そのほとんどの時間を、息子アレハンドロは母親の側に居ることを望まれた。


と言っても、母親が何かをしてくれる訳でもない。ただ側に置いて、たまに気が向くと「あなたが大事よ」と囁きかける。それ以外は放置、あるいは無視だ。なのにアレハンドロがどこかへ行くことは許さない。


たった二歳の幼い男の子に、何もさせず、喋ることも、違う場所に行くことも許さず。

ただじっと母親のそばに居ることを命じた、そんな生活が一年続いた。



アレハンドロが三歳になり、マッケイは息子に家庭教師をつけた。これでアレハンドロは、母親から一日のうち数時間ほど離れることが可能になる。



勉強は嫌いではない。だが好きにもなれなかった。


嫌いじゃないのは、その間は母親から離れられるから。


好きになれないのは、この家庭教師の目当てが母だったから。






この頃のアレハンドロの世界は、全てのものが色褪せて見えた。


世界にあるもの全てが白か黒か、あるいはその濃淡。



このまま何かに押しつぶされてしまいそうで、それが怖くて、ある日アレハンドロは母親の目を盗んで庭に出て、そこで見つけた小さな虫を潰した。


すると、何故か心が軽くなった。


それをする前は確かにあった、胸の奥にあった重たくてドス黒いものが少し消えた気がした。


それに気づいてからは、ただ楽になりたくて、少しでも心を軽くしたくて、取り憑かれたかのように何かを傷つけ続けた。



綺麗な蝶々、道を這う蟻の群れ、池の中の魚、ねずみ取りにかかったねずみ。



その瞬間だけの解放だと分かっていても、それでも味わいたくて必死だった。



一度、メイドの一人にそうしている所を見られた事がある。


メイドは顔を真っ青にして、そんな事をしてはいけません、とすぐに家の中に連れていかれてしまう。



それからは、見つからないように更に注意するようにしたけれど。


ある日、罠にかけて捕まえた野鳥を始末している時、背後でパキリと枝を踏む音がした。


振り返れば、見知らぬ子どもが立っていた。


わずか四歳の自分よりも遥かに小さい。


アレハンドロと同じ琥珀色の眼、赤茶色の髪。



もしや、母が産んだあの赤子だろうか、とアレハンドロは訝しむ。


母親のもとに縛られていた子どもと、嫌われ遠ざけられていた子ども。ずっと会う機会もなく、気づけば二年以上が経っていた。



確か、名前は。



「・・・みるっひ」



アレハンドロの口から、その音がこぼれ落ちると、目の前の子どもの肩がぴくりと揺れた。



だが、目の前の妹は返事をしない。

それが出来ないことを、この時のアレハンドロは知らなかった。


いや、この時は話せないという以前に、アレハンドロの手の中にあったものが問題で。



鳥を始末した時の血がついたナイフを、まだ手に持ったままだった。



それに気づいたのは、ミルッヒの目に涙が浮かんだ時。


みるみる涙は溢れ出し、ぽろりぽろりとこぼれ落ちる。


陽の光を浴びて、その涙こぼれ落ちる涙は真珠のように煌めいていた。



大きな口を開けて、今にも大声を上げそうなのに。


なのに、その子の口から出てきた音は掠れた小さな呻き声だけ。



「みるっひ・・・?」



血のついたナイフを地面に投げ捨て、再度、妹の名前を呼ぶ。


だが、やはり返事はなかった。


でももう、そんな事も気にならなかった。



喋れないその子が溢し続ける涙は、まるで宗教画のように厳かで美しくて。



これまで何かの命を傷つけることで得られていた平安、そのどれよりも大きなものを、この時のアレハンドロは感じていた。



なんだろう、ゾクゾクする。それに・・・酷く安心する。



「みるっひ・・・おにいちゃんだよ」



アレハンドロは、そっと手を差し伸べた。



この日、アレハンドロは確かに宝物を見つけた。



わずか二年後に、この大事な宝を自らの手で永遠に失う事になるとも知らず。





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