第27話 その理由も知らず
「エドガーさま、隈がひどいわ。あまり寝ていないのではなくて?」
今まで三か月に一度はきっちりと顔を見に来ていたエドガーが、今回は三か月と二週間ほど経ってからストライダム家を訪れた。
目の周りにはひどい隈が、だが対照的にその表情は満面の笑みを浮かべている。
「ああ、ちょっと夢中になって作業してしまってね。大丈夫だよ、ここに来るまでの馬車の中で仮眠を取ったから」
それはあまり大丈夫とは言わない、そうベアトリーチェは思ったが、こういう時のエドガーがなかなかに頑固なのは知っている。議論するよりも早く話を終わらせて休ませてあげた方がいいだろう、そう考えて口を噤んだ。
「これをね、試してみてほしいんだ。これまでに効果が見られたものを組み合わせてみたんだけど」
ベアトリーチェの心配をよそに、エドガーはいそいそと鞄の中を漁る。
そして小瓶をテーブルの上に置いた。
濃い茶緑の、見るからに苦そうな色をした液体が入っている瓶だ。
薬は飲み慣れているベアトリーチェだが、それでも一瞬、その色に口元が歪みそうになる。寸前で堪えたが。
「ええと、エドガーさま。これ・・・新しい薬? もしかしてこの瓶の中身全部?」
蓋を開けて匂いを嗅いだベアトリーチェは、恐る恐るそう尋ねた。無臭なのが何気に怖い。
「そうだよ。それはアーティの分として持ってきたんだから」
対してエドガーは自信満々に頷いた。いつもならば慈愛に満ちたその笑顔に安心するところだが、今日ばかりは無情に映る。
断言できる、これは絶対にものすごく苦い、そう思ったベアトリーチェは泣きそうになった。だが、せっかくエドガーが隣国からひどい隈を作りながらも届けてくれたものなのだ、ここは何としても飲み干さねばと自分に言い聞かせ、ぐいっと一気に呷ってしまえと小瓶を口元に持って行った、その時。
「えっ、ちょっ、待って。アーティ・・・ッ!」
焦った声と共に瓶を持った手が抑えられ、口元は温かい何かで覆われる。
驚いて目を瞬かせれば、すぐ目の前には困惑したエドガーの顔があった。
「・・・っ!」
ベアトリーチェの口元を覆ったのは、エドガーの大きな手のひら。
彼の吐息が頬にかかる。焦ったせいなのか、少し息が荒かった。
その熱さに、ベアトリーチェは息を呑む。彼の手は、今もベアトリーチェの唇を覆ったままだ。
何がどうなってこうなったのか、訳が分からず、頬がじわじわと赤くなっていく。エドガーの顔が近すぎる。
そして、ベアトリーチェの口を塞いで、ほ、と安堵の息を吐いていたエドガーは、ここでようやく彼女が困惑している事に気づき、慌てて手を離す。早口で謝罪の言葉を口にしながら。
「ご、ごめん。言い方が悪くて・・・っ、その、薬は全部アーティの分なんだけど、一回に飲むのはスプーン一杯分でいいんだ。そのまま全部飲み干しそうな勢いだったから、僕も慌てちゃって・・・その、ごめん。口を塞いだりして」
いつもおっとりとした口調のエドガーが、ものすごい勢いでまくしたてる。見れば、エドガーの顔も真っ赤だった。
「突然口を抑えたりしたから驚いたよね。本当にごめん。あの、手とかちゃんと洗ってるから」
この人は何をそんなに心配しているのだろう、手が汚いとかそんな事をエドガーに思う筈がないのに、なぜか必死に謝っている。ベアトリーチェにはそれがなんだか不思議で。
でも、普段は落ち着き払って何事にも動じないエドガーばかり見ているせいだろうか、あわあわと焦る様子がとても新鮮で、そして。
とても可愛く見えた。
・・・三つも年上の男性を可愛いと思うなんて、私ったらなにを。
はっと我に帰ったベアトリーチェが、視線をあらぬ方向へ向けた。エドガーもまた、落ち着かなさそうにうろうろと視線を彷徨わせている。
二人の間に落ちた沈黙がどうにも居た堪れず、とにかく何か話をしなくては、とベアトリーチェはあれこれと考えて。
そうして思いついた話題が二日前の出来事だった。
「あ、あの、そう言えばね。実は二日前に」
共通の知り合いだし、話題にするのに丁度いい、そう思ったのだ。
「レオポルドさまがね、お兄さまと話をしにここにいらしたの。それで、二人で随分と長いこと話し合っていたわ」
この屋敷を訪問する理由として自分が仮病を使わされた事は内緒にするとしても、あの二人が顔を合わせるのは本当に珍しい。まあ話の内容が内容だから、二人きりで話すしかなかったのだけれど。
兄はベアトリーチェの巻き戻りについてエドガーにも伝えるつもりだと言っていた。だから恐らく彼ももうその事は知っている筈。
そう思って口にした。だが、エドガーの反応が予想とは違う。
「・・・レオとレンブラントが話を?」
エドガーの声音は、いつもより低く。
ベアトリーチェはあれ?と思う。
もしや、兄はまだエドガーには話をしていないのだろうか。
だがそんな筈はない。兄に打ち明けてから既に数カ月は経っている。そしてその間にも、エドガーはこの屋敷を二回ほど訪れているのだから。
「ええと、兄からレオポルドさまに大事な話があって」
「・・・そう」
匂わせるようにそう続けてみたものの,エドガーはそれ以上その話題について聞こうとはせず、結局、沈黙が再び落ちてくることになる。
先ほどまで確かに感じていた胸の鼓動も密やかな熱も、今は違う形の、不安を煽るようなものへと変わっていく。
なんとなく、なんとなくではあるが、エドガーは怒っている様に見えた。
その後、レオポルドの話題にエドガーが触れることはなかったものの、それ以外はいつもと変わらぬ穏やかな態度に戻り、ベアトリーチェの容体を確認して。
そしていつも通り、丸一日滞在してからドリエステに戻って行った。
エドガーが持ってきた苦い苦い薬はたいそう良く効いた為、その後しばらくの間、これまでにない体の軽さをベアトリーチェは感じることになったのだが、エドガーがその報告を聞いて喜ぶのは、手紙が届く二週間後となる。
そして、ベアトリーチェがエドガーを迎えたこの時は週末。
一昨日はレオポルドを呼ぶ理由となるべく仮病を使い学園を欠席した。
そんなベアトリーチェが学園に行くのは週明けの明日から。
そして今さらではあるが、ベアトリーチェとレオポルドは選択した科も学舎も異なる。
今はナタリアともある程度の距離を取っている。アレハンドロとは言わずもがなだ。
故に、ベアトリーチェがそれを知るのはかなり後になってから。そう、ひと月近く経ってからだった。
・・・レオポルドが、学園から姿を消していた。
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