三話 謝霊と張慧明、事件の現場に立ち入ること

 結果、我々はかなり早くに警察署をあとにした。太陽はまだ天辺まで昇りきっておらず、昼食のあてを探すにも少し早いぐらいだ。私は紙束を持って謝霊のあとを歩きながら、次はどこに向かうのかと彼に尋ねた。


「劇場です。フォスター嬢が殺された現場を私も見ておきたいものでね」


 そう言った謝霊には答えも足取りも迷うところがない。しかし私はこの調査に意見したくてたまらなかった。


「しかし謝霊シエリン先生。マダム・フォスターが殺されたのは——」


「ああ、そうだ」


 謝霊は何かを思い出したように私の言葉を遮ると、右手の人差し指をピンと立てた——それにしてもこの男、世の女性の幾らかはこれだけで落とせそうなほど整った指をしている。


「その『先生』というのはやめてもらえますかな。私だって『慧明フェイミン兄』とお呼びしていることですし」


 私は謝霊を思いきり睨みつけた。この「なんとか兄」という呼称は我々漢人には馴染みのあるものだが、本来であれば親しい間柄で使われるはずのものだ。即ち私と彼のような、会って一日二日な上に仕事の上で付き合っているだけの間柄にはそぐわないのだ。その念を存分に込めて私は謝霊を睨みつけたのだった。おそらく彼には無視されるが、嫌そうな素振りを見せる暇はあってもいいはずだ。

 そして案の定、謝霊は人の良い笑みを浮かべて私の抗議を無視すると、マダム・フォスターの話を続けるよう促した。


「……マダム・フォスターが殺されたのは二か月前だ。現場はあらかた調べ尽くされて、見つからなかったものもすでに掃除されているのでは? 謝霊兄」


 私は最後の言葉とともに少しばかり謝霊を睨んでやった。謝霊は満足そうに頷いたが、突然すっと笑みを消して私に顔を寄せてきた。


「ですが今のところ警察の調査には穴がある。それを感じたからこそモリソン氏は私の助力を求めたのではないですか?」


 私は「まさか」と目を見開いた。謝霊が続けて言う。


「そのためにも、これから我々で例の楽屋にこもらせてもらうのですよ。警察の証言とフォスター嬢の記憶をすり合わせ、繋がらない部分の手がかりを劇場で探すのです」



 

 昼間の劇場には人の気配がない。裏口の守衛に話をつけて中に入った私たちは、「クリスティン・フォスター」のネームプレートが残ったままの楽屋に足を踏み入れた。始めのうちは警察の調査のためにネームプレートまで事件当時のままにしていたのだろう。しかし事件から二か月が経った今となっても楽屋が彼女のものとして残されているということは、マダム・フォスターの死は劇場関係者にとってよほどの衝撃で、この楽屋も今なお近付くことがはばかられる場として扱われているということだろう。

 私たちは楽屋に入ると扉を閉め、狭い室内を見回した。扉の位置から見て真正面にあるのは大ぶりな鏡台だ。向かって左には帽子掛けと腰の高さほどの台があり、台の上には一抱えはある壺が乗っていた。謝霊が軽々と持ち上げて逆さにすると、中から枯れた葉が一枚と花びらが数枚落ちてきた――どうやらこの壺は贈り物の花束を活けておくための花瓶として使われていたらしい。

 右側にあるのは天井まである衣装棚だ。姿見もすぐ傍に置いてあり、その前にだけぽっかりと空間が開いていた。きっとマダム・フォスターはここで衣装を身に着け、姿見に映して出来栄えを確かめていたのだろう。その隣には、クローゼットと姿見の間に押し込められるようにして一脚の肘掛け椅子が置いてあった。必要最小限のもので構成されたこの部屋の中で唯一浮いているものがあるとすれば、それはこの肘掛け椅子だ。劇場の裏方が使うはずはなく、また鏡台を使うマダム・フォスター自身にも必要はなかっただろう。謝霊もそれが気になったらしく、しばらく肘掛け椅子の前でなにやら思案していたが、やがて椅子を中央に引っ張り出してくるとストンと長い脚を組んで座った。


「では我々も始めるとしましょう。まずはその資料を見せてください、慧明フェイミン兄」

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