長髪騎士と隻腕騎士の、ほっとミソスープ

長岡更紗

ミソスープ

 ──どうか。どうか、聖女フローレン様。


 サイラスは祈る。

 祈りは日を空ける事なく繰り返される日課であり、そしてそれは悲痛な叫びだ。


 ──どうか我が妻アイナに、聖女の祝福を……


 隣で眠る愛しい人。

 その最愛の人物の為に、サイラスは毎朝の祈りを欠かした事はない。


 祈りを終えるとサイラスはアイナの髪に手櫛を通し、彼女が目覚めるのを待つ。


「ん……サイラス?」

「おはよう、アイナさん」


 サイラスは目覚めたばかりのアイナに覆い被さるように、いつもの挨拶を交わす。

 この日も変わらぬ一日が始まり……そして、終わるはずだった。



 ***



「ううっ、寒くなってきたな〜」


 サイラスはブルリと身を震わせた。自身の長いライトブラウンの髪を、防寒がわりに垂らしておく。

 まだ冬にはなっていないが、終業の時刻を迎えてまだ間もないというのに、外にはすでに一番星が煌めいている。


「まだやってんのか、サイラス」

「あ、シェスカル様」


 サイラスは執務室に入って来た人物を見て立ち上がり、肩口に拳を当てて敬礼した。

 所属するディノークス騎士隊、ディノークス家の当主シェスカルだ。


「どんだけ時間掛かってんだよ、お前。隊長になってどんだけ経った?」

「一年とちょっと、だったかなぁ〜?」

「馬鹿野郎、一年と八ヶ月だ」


 そうシェスカルに突っ込まれる。分かっているんだったら聞く事ないんじゃないかとサイラスは思うも、口を尖らせただけで声にはしなかった。


「シェスカル様、執務だけセルクに任せるわけにいかないんですか〜?」

「分担したら、隊長が把握しなきゃいけねぇ事が分かんなくなっちまうだろ」

「ですよね〜」

「分かってんならさっさと終わらせろって!」

「無茶言わないでくださいよ〜」

「今日は全部終わるまで帰んなよ。溜まる一方だかんな」

「ええーーっ!!」


 溜まった書類を前に、無慈悲な言葉で刺されてサイラスは項垂れる。


「アイナさんが家で僕を待ってるって言うのに……」

「お前、結婚して何年経つ?」

「はーい、四年七ヶ月と十二日目でーす!」

「そう言う事だけはきっちり覚えてんのか」


 呆れ果てた様子のシェスカルはひとつ息を吐き、その後睨むように眉を吊り上げた。


「もう五年目ってんなら、いい加減新婚気分はやめろっ! お前の帰りが少々遅い所で、アイナは心配したりなんかしねぇよ」


 その言葉には流石のサイラスもムッとする。シェスカルは妻アイナの昔の男なので、余計にだ。


「僕とアイナさんの仲は特別なんですっ!」

「分かった分かった。アイナの所へは遅くなるって遣いを出しといてやるから、お前はさっさと仕事しろよ」

「遣い? 男はやめてくださいね?! 僕の可愛いアイナさんに何かあったら、一生恨みますよー!!」

「だったら定時で終われるように仕事をこなせっての!」


 尤もな意見に、サイラスはウッと言葉を詰まらせる。分かってはいる。分かってはいるのだが、執務だけはどうしても苦手だ。


「……シェスカル様もキアリカ前隊長も、本当にこれを全部一人でやってたんですか?」

「あったり前だろ? キアリカの奴もたまに残業するくらいで、ほぼ定時に終わらせてたぞ」

「……」


 歴代の隊長はこの仕事を当然のようにこなしていたのだ。これだけの量の執務を、隊の方の仕事をしながら。なんというバケモノ達であろうか。


「じゃあアイナに連絡は入れといてやるから、頑張れよ」


 シェスカルはそう言い残して去って行った。

 まだまだ時間が掛かりそうな書類を前に、サイラスは泣きそうな溜め息を漏らすしかなかった。



 ***



 サイラスが全ての仕事を終えて帰宅したのは、午後九時を回ってからである。

 フラフラしながら家に帰ると、愛しい人が迎えてくれた。


「おかえりサイラス。大変だったね」

「アイナさぁん! 大変だったよ〜」


 サイラスは甘えるようにアイナに抱きついてキスをする。「まったく」と耳元で漏れる声はするものの、アイナは身動ぎもせず受け入れてくれた。

 アイナに他の男の匂いが付いていないか確認したが、漂ってくるのは甘い石鹸の香りだけだ。


「アイナさん、もうお風呂入っちゃったの!?」

「ああ、すまない。サイラスが遅くなるって聞いたから、先に入っちゃったよ」

「ええー!! アイナさんの髪を洗うのは、僕の役目なのにーっ!」


 サイラスの楽しみがひとつ消えてしまい、口をへの字に曲げる。そんな姿を見てアイナは苦笑いしていた。


「髪を洗うくらい、一人で出来るんだよ。少し面倒なだけで」


 アイナには、右の腕がない。昔の戦闘でバッサリと斬られて無くなってしまったのだ。

 頑張り屋なのでアイナは何でも一人で出来るが、彼女の不便さを補うのも夫の仕事だとサイラスは考えている。まぁサイラスはただ単にアイナとのスキンシップを楽しみたいだけであったが。


「でも僕が洗ってあげたかったんだよ〜。っは! さてはアイナさん、僕がいない間に男を連れ込んで、その匂いを消すためにお風呂に入ったんじゃ!?」

「勘繰り過ぎだよ、サイラス」

「本当に?! 実はシェスカル様が来てまぐわってたとか……っ」


 サイラスはそれを想像して血の気が引いていく。しかしアイナは腰に手を当ててクッと笑っているだけだった。石鹸の香りと相まって、その腰のうねりが色っぽい。


「馬鹿だな。そんな事、ある訳ないだろ? 私が好きなのは、サイラスなんだから」

「……アイナさんっ」


 アイナはそう言うと今までしていたお姉さんポーズをやめ、まるで少女のように頬に熱を持たせながら目だけで見上げて来る。

 そんな姿にサイラスは堪らずアイナを抱きしめて、本日二度目のキスをした。

 いや、朝に何度もしているので、正確には何度目のキスかは分からなかったが。

 今度は少し身動ぎ、羞恥が伝わってくるアイナの熱が心地良い。いつまでも抱き締めていたい気分だったが、アイナが料理を気にし始めたので仕方なく少し距離を取った。


「ご飯出来てるよ。食べるだろ?」

「うん。全部任せちゃってごめんね」

「いつも手伝わせてるんだ。こういうときくらいは私だってするよ」


 男社会のアンゼルード帝国では、家事は女性がするのが当たり前となっている。しかしフロランス聖女国出身のサイラスは、男も当然のように家事をして育って来た。だからこんな風にアイナが申し訳なく思う必要などないのだ。女性上位の国に生まれたサイラスにとっては、むしろ家事をさせて申し訳ないのはこちらの方なのだから。


「今日のご飯は何?」

「サイラスのお母さんからミソが届いたから、ミソスープにしたよ」

「ホント!? 寒くなって来たし、ミソスープはいいよね〜」


 聖女国は東方の国と国交があって、ミソやショウユといったアンゼルードでは手に入らないものが普通に売られている。サイラスの母親がたまに送って来てくれるのだが、切らしてしまうと次に送られてくるのが待ち遠しくて仕方なかった。

 作りおきしていた料理を温め直してテーブルに並べるのを手伝う。アイナは二人分の用意をしていて、サイラスは目を広げた。


「アイナさん、まだ食べてなかったの?」

「ああ、サイラスと一緒に食べようと思って」

「そんな、お腹すいたでしょ!? 先に食べてくれて良かったのに……!」

「今日は久々のミソスープだったからな。サイラスと一緒が良かったんだ」


 そう言って、ほんの少し舌を覗かせるような仕草をされると、またも抱き締めたくなる。普段はクールなアイナの、こんな姿を見られるのは自分だけの特権だ。アイナは年上だが、時たま見せるこんな所が可愛くてたまらない。今日一日の疲れがヒューっと風に吹かれるようにどこかへと飛んで行った。

 食卓に乗せられたミソスープは、付き合い始めた当初によく作ってあげた物だ。アイナもこの味を気に入ってくれて、ミソのある時はいつもミソスープを作るほどになっている。

 本格的な冬が来る前に、またミソが届いて良かった。

 サイラスは食事の前に、いつものように母国フローレン教の祈りを捧げる。


「今日も糧をお与え下さった聖女フローレン様と、この糧を得るに至った全ての女性に感謝します。これより食を共にする妻アイナに聖女の祝福を。確かに」

「今日も糧をお与え下さった聖女フローレン様と、この糧を得るに至った全ての人に感謝します。これより食を共にする夫サイラスに聖女の祝福を。確かに」


 結婚をしてから、アイナはサイラスを真似てそう言ってくれるようになっていた。

 しかし母国の常識で言うと、このアイナの祈りはおかしい。

 本来のフローレン教なら、そもそも男に対して聖女の祝福をとは言わないのだ。祝福とは本来、女しか受けられないものなのだから。

 けれどもそれを伝えても、アイナは譲らずに祈り続けている。夫サイラスへの祝福を……と。

 もしここがフロランス聖女国だったなら、非難の嵐だった事だろう。しかしここは聖女国ではないし、アイナの気持ちが嬉しかったのもあって、サイラスは何も言わずに彼女の祈りを聞く事にしている。

 本当に真剣に、心を込めてアイナはそう祈ってくれるのだ。真っ直ぐで凛としたアイナの顔は、とても美しい。いや、サイラス以外の人物が見れば、そう美しい顔ではないのかもしれない。

 しかし彼女が自分の為にと祈る様を見ると、サイラスはいつも自分の心が洗われるような気持ちになった。

 食前の祈りを終えると、二人は同時にミソスープに手を伸ばす。出汁をしっかり取った、ミソの良い香りが鼻をくすぐった。


「……うん、美味しいね」


 一口飲んだアイナが、目を細めて言った。久々のミソスープは、最愛の人のこんな素敵な表情をプレゼントしてくれる。サイラスもその姿を見て、思わず自分も目を細めた。


「やっぱり、寒い時期にはこれが一番だよね〜」


 温かいスープが喉を下りていき、体をゆっくりと温めてくれる。

 これを飲んだ後は必ずほっと息が漏れるのだ。

 アイナも同じようにほっと息を吐いてから、困ったように少し笑った。


「毎日のペースで飲むと、またすぐになくなっちゃいそうだね。真冬の為に考えて作らないと」

「ミソがあるとつい作っちゃうんだよね〜。あ、そうだ。僕が騎士を引退したら、フロランスに移り住もうか? そうしたら毎日ミソスープが飲めるよ」


 聖女国は世界一女性に優しい国だ。老後はそっちの方が、アイナは暮らしやすいだろう。そう思って提案したのだが、アイナに首をふるふると振られてしまった。


「アイナさん?」

「ごめん、行きたくないんだ」

「……そっか」


 シェスカルのいるこの地を離れたくないというのが理由ではないかと、サイラスは気が気では無かった。

 二人の関係がいくら過去のものであるとは言え、引きずっていないとは言い切れない。特にシェスカルは地位といい、剣の腕も知性も金回りもバケモノ級に完璧な人物だ。サイラスはある種のコンプレックスを彼に抱いている為、つい勘繰ってしまうのは悪い癖だった。

 それをアイナに言うと、『シェスも結婚してるんだしあり得ない』といつもの答えが返ってくる。しかしこの場合、既婚者かどうかは関係ないだろう。結婚していようがいまいが、互いに惹かれ合うことはままある事なのだから。

 それは過去の事からも裏付けられた。シェスカルは実はバツイチで、前の奥さんとは離婚している。その離婚の理由が、アイナとの不逞だったのだ。

 サイラスはそれを知ってしまってから、いつかまたシェスカルがアイナを奪うのではないだろうかと心中穏やかではいられなくなった。

 アイナを前に、またいつものようにシェスカルの名前を出そうとしてグッと胸の中に押し込める。

 何故あんな完璧な男がアイナの昔の男だったのかと、気が狂いそうな時があった。もしも別の男だったなら。そんな奴より自分の方が優れていると言えるところもあっただろう。

 しかしシェスカル相手ではどれを取っても勝てる気がしない。アイナはこんな自分の、一体どこに惚れてくれたのだろうか。

 もし自分がシェスカルであったなら、聖女国行きへの提案を受け入れてくれていたかもしれない……そんな事まで考え始めてしまう。


「ごめんね、サイラス」

「……何が?」

「聖女国行きの話を断ってしまって」

「……理由、聞いても良い?」


 言うまい、と思っていたが、やはり気になって聞いてしまった。アイナはそっと視線を下げて、お腹に手を置いている。


「離れたく、ないんだ」


 離れたくない。まさか、シェスカルの事か。やはりそこまでアイナはシェスカルの事を思っているのだろうか。結婚して四年七ヶ月と十二日も経つというのに、やはりあの男には勝てないのか。

 悔し涙が溜まりそうになった時、アイナはふと顔を上げた。

 その少し紅潮した頬は、今までに見た事がないくらいに優しい。


「この子の成長した姿を、ずっと隣で見ていたいんだ」

「この……子……?」


 サイラスは思わずキョロキョロと周りを見回した。勿論この家にはサイラスとアイナ以外に誰も居はしない。結婚してからずっと二人で住んでいるのだから、当然だ。


「騎士引退後って事は、この子も大きくなって生活の基盤がここにあるはずだろう? だから、そんな遠くには行きたくないんだ」

「え? 誰の事?」


 そう問うと、アイナは嬉しそうに……そしてとても照れ臭そうに笑った。その笑顔は、キラキラと輝いてすら見える。サイラスはまさか、とアイナの手を確認した。その、位置は……。


「まさか……子供が……?」

「ああ。私たちの赤ちゃんだよ」


 放たれたアイナの声は、いつもの数千倍は柔らかかった。

 そのとろけそうなほどの優しい音が耳に入り、サイラスの目からグッと何かが込み上げて来る。


 結婚して、四年七ヶ月と十二日。


 ずっとずっと待ち望んでいた赤ちゃんという存在。

 十歳年上のアイナは今年三十九歳という年齢で、妊娠率が低いと言われる年頃になってしまっている。子供が出来ない事に劣等感を感じていたアイナに、サイラスは何と言って良いか分からなかった。

 アイナはいつも自分の方が年上である事を気にして、ごめんと何度も謝っていた。若い奥さんだったなら、サイラスも子供が持てたはずだと自分を責め続けていたのだ。

 辛そうに、申し訳なさそうに見上げてくるアイナ。琥珀色した猫のような彼女の瞳は潤んでいて、綺麗だったが切なかった。

 アイナが頭を下げるたび、謝る事など何もないとサイラスは言った。

 そして子供が出来なくても、ずっと愛していると伝え続けた。

 だからもう、子供の事はほとんど諦めていたのだ。

 その諦めていたはずの子供が、今、アイナのお腹にいる。


「ほ、本当に……? アイナさん……っ」


 サイラスの問いかけに、広がる水の膜で瞳を煌めかせながら頷きで応えてくれるアイナ。

 視界が徐々にぼやける中、サイラスはアイナの元へと移動し、膝を折った。目の前にはまだ全く膨れていない、彼女のお腹がある。

 そこにそっと触れた瞬間に温かさが伝わり、サイラスの右目から涙が滑り落ちた。


「サイラス……」


 アイナの、妻の、驚きの声が頭上から聞こえた。


 嬉しい。


 そんな単純な感情が、ここまで人を泣かせるものだとは思いもしていなかった。

 一度決壊した堰からは、次々となだれ落ちるように雫が溢れて来る。


「聖女フローレン様……妻アイナへの祝福を……ありがとうございます……っ」


 サイラスは声を詰まらせながら、感謝の意を述べた。

 毎日の祈りは、無駄ではなかった。

 愛する妻を、母にしてあげられる。そして、自分も。

 長かった二人だけの生活。しかしこれからは、もう一人。

 サイラスは決意を胸に、ぐしっと涙を拭きあげた。


「アイナさん……僕、頑張るから……夫としても、父親としても……」


 そう宣言すると、アイナは慈愛の瞳をこちらに向けてくれる。

 聖女だ、とサイラスは思った。

 誰でもない、偶像なんかでもない、アイナこそが己の真の聖女なのだと。


「頼りにしてるよ、サイラス」


 愛しい人からの言葉にサイラスは立ち上がり、そっと母となる妻を抱き寄せる。

 ふわりと石鹸の香りが立ち上がり、鼻を掠めていく。


「ありがとう、アイナさん」

「私の方が、ありがとうだよ……」


 ひしと片腕で離すまいとしがみついてくるアイナ。子供が出来ない不安は、彼女の方が大きかったのだろう。もしかするとアイナは、子供が出来なかった時には別れた方が良いとでも思っていたのかもしれない。彼女の性格ならば、十分に考えられる話だ。

 一度抱擁を緩ませると、今度はゆっくり唇を落とした。アイナはそれを受け入れるように目を瞑り、サイラスの頬を睫毛でくすぐってくる。

 深く味わい尽くした後でそっと目を向けると、アイナは眉を下げながら、でも頬は紅潮させながら。クスクスと目を細めて笑っていた。


「もう、料理が冷めちゃうよ、サイラス」

「フフッ。今のキスは、ミソスープの味がしたよ〜」


 サイラスの言葉に、アイナは珍しくプッと吹き出した。「確かに」と同意しながら左手で口元を少し抑え、肩を揺らしている。

 そんな幸せに笑う妻を、じっくり見る事が出来る喜び。

 自分だけの聖女を独り占めに出来る喜びが、ここにはあった。


「アイナさん。子供にもミソスープ、食べさせてあげようね」


 サイラスがそう提案すると。

 アイナは瞳の色が分からなくなるくらいにニッコリ微笑み、深い頷きを返してくれる。


 食卓のミソスープは、二人をもっと温めてあげると言わんばかりに……

 柔らかな湯気をゆっくりと、高く立ちのぼらせていた。




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『素朴少女は騎士隊長に恋をする』

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『隻腕騎士は長髪騎士に惚れられる』

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