砕ける積み木

鈴木無花果

砕ける積み木

 人間の拳で顔を殴られるのは心地がいい。

 ぼんやりとする視界の中で、キリシマさんが腕を引くのが見える。

 ゴ、ゴ、と面白味のない音を立てながら拳が振り下ろされていく。

 ジンジンと脳髄に響く快感に耐えきれず僕は身震いする。

 キリシマさんが優しく微笑んで、赤く汚れた手で僕の頭をなでた。


「ははぁ、積木くずしってやつやね」

 いつか、ベッドの上の僕にアイスバッグを渡しながら彼はヘラヘラと言った。


 ごくごく一般的な、幸せな家庭というパッケージで大事に育てられた僕は、しかしどうしてもその幸せの中にいられなかった。

 温かい家の中では、自分が生きているということを実感として確認することができなかった。

 自分は何のために生きているのか?

 そもそも生きてるってなんだ?僕は生きているのか?

 その答えを探すため、なんて理由ではないけれど、十七の秋、髪を金色に染めてピアスを開けて、夜の街に潜り込んだ。


「君、ええなぁ。金欲しない?」

 グレかたも分からなくて、路地裏で煙草をふかしている時に声をかけてきたのがキリシマさんだった。

 ごつごつとした身体に総柄の開襟シャツ。長髪を後ろにまとめて髭を生やした彼がまともな人間でないことはすぐ分かった。

 キリシマさんはアンダーグラウンドな性癖を持つ人のための映像を撮る仕事をしているとかで、提示された金額は、アルバイトも親に禁止されている僕にとって非常に魅力的なものだった。


 別に自分にもくっついているものをしゃぶるくらいなら、と思ったのだが、キリシマさんが僕に求めたのは性的なサーヴィスではなく、単純に多量の暴力を受け、それを録画されるということだった。

 そしてこのニーズに僕はピタリとはまり込んだ。

 僕は今まで家族という生温かい膜に包まれて、本当の生というものを感じていなかったのだと、一発目の拳で理解した。

 口の中に広がる血の味と熱を持つ身体。

 生まれて初めて、生きていることを実感する時間だった。


 腫れが引くのを待った朝方、家に帰ると父さんが鬼のような形相で僕を待っていて、僕を叱りつけた。

 その言葉の一つひとつが、僕を想って放たれているのだと今の僕なら理解が出来た。

 僕は呼吸困難になりそうなくらいに号泣して、父さんに泣きついた。

 ごめんなさい、ありがとうと叫びながら。

 

 そしてそう言いながら翌週も、キリシマさんに殴られるために街へ出た。

 僕が人生を理解するためにはキリシマさんの暴力が必要だったというだけの話だ。

 嬉しいとか、楽しいとか、殴られる程に僕は自分の人生を取り戻していける。

 殴られた皮膚の奥が心臓のリズムに合わせて痛みを跳ねさせる間だけ、僕は生きているのだ。



 キリシマさんと出会って半年が経つ頃だった。

 その日もいつも通り落ちあって、ホテルに向かって、ベッドに腰掛ける。

 ただ、何かがいつもと違った。

 キリシマさんはいつも通りなのに。

 いつもの通りにカメラがまわり、いつも通りにキリシマさんが拳を振りかぶる。

 いつも通りに拳が頬にめり込む。

 

「ぎゃあああああああああああ」

 痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 その時理解した。僕は本当に、全てを取り戻したのだ。

 今までの僕は、命を守るための機能が止まってしまっていたのだ。

 痛みは身体からの警告だ。このままでは死んでしまう、というシンプルな警告。その警告を受け入れる機能が今日まで壊れてしまっていただけだった。


 恐ろしい。自分に降りかかる暴力が。

 ゴ、と殴られた痛みにいつもの心地よさは一切ない。

 生の実感なんて全くない。よぎるのは死だけ。

 苦しい。ただ苦しい。ただ痛い。

 キリシマさんが恐ろしい。

 もうやめてくださいと何度叫んでも、キリシマさんはやめてはくれなかった。彼はあくまでいつも通りに僕を痛めつけ続けた。


「なぁ、暴力ってのは恐ろしいな」

 キリシマさんが優しく告げる。

「たまに君みたいな子がいるんよ。嬉しい嬉しい~言うてたのに、ある日突然怖い怖い言いよる。おいちゃんは元から怖いがな」

 はい、恐ろしいです。暴力はこわい。こわい。こわいこわいこわいこわいこわい。

「今頃思い出したか?もう知らん人についてったらあかんで」

 キリシマさんは今まで見せたことのないほど輝いた瞳で、また拳を振りかぶった。

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砕ける積み木 鈴木無花果 @suzuki_129

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