三
ロフォーオゥはすぐに、エクハルトたちを呼んだ。彼らの前で血を吸うことによって、新王と承認されるのだ。ふたりきりの場所で勝手に吸うわけにはいかない。
「その〝時〟になりましたか」
寄り添い合うふたりの様子に、なにも言われなくともエクハルトには伝わったようだ。
頷いたロフォーオゥに、館に礼拝堂があるかを訊くエクハルト。
「礼拝室なら」
「では、そちらへお移りください」
新王の承認は、シムル月二度目の満月の夜に辺縁から落ちる姫君の血を吸い、その後レイ・スヴェンリンナの礼拝堂で再度吸血されて完了する。だが、今回ロフォーオゥは満月の夜の儀式を経ていないので、神へと聖別された場所で一度血を吸う必要があった。
神に異議がなければこのままレイ・スヴェンリンナに向かうことになるが、なにかあれば、なにかが起こるのだという。
「なにが起こるんだと思います?」
礼拝室へと廊下を歩きながら、綾は隣のロフォーオゥにそっと囁いた。小さく彼は吹きだした。
「笑うとこですか?」
ちょっとムッとなる綾。
「期待してるのか? なにか起こっては困るんじゃないの?」
「期待じゃないです。気になるじゃないですか」
「学生ってのは、探究心が強いんだな」
「そんなんじゃなくて」
「いかがされましたか?」
ふたりがこそこそ話していると、後ろを歩くザウアーが怪訝に近付いてきた。ザウアーはロフォーオゥと同じくらいの年齢だろうか。だからかレイ・スヴェンリンナから来た3人のなかでは、一番気さくなところがある。
「たいしたことじゃないんだ。気にしないでくれ」
「そう、ですか」
苦笑してこの場を収めようとするロフォーオゥに、ザウアーはどこか残念そうに一歩身を引く。
「訊かないんですか?」
「なにが起こるかを? そんなに知りたいのか?」
「だって、怖いじゃないですか。またいきなり空から落とされて血を吸われることになるのかもしれないし」
「なるほど」
同意してはくれたものの、ロフォーオゥが訊いてくれる様子はない。思いきって、綾は後ろを振り向いた。
「はい?」
関心を抱いてくれたことが嬉しかったのか、ザウアーの声が弾む。
「あの、……、神さまがロフォーオゥさんを認定しなかったら、なにが起こるんですか?」
「え?」
「神さまが異を唱えたらなにかが起こるって、エクハルトさんが言ってたから」
「ああ、そのことですか」
「そのことです」
「判りません」
あっさり返ってきた答えに、肩透かしを食らう綾。
「大丈夫ですよ。認定されなかったことは、いままで一度だってないんですから」
「ですけど、今回が最初になってしまったら」
「大丈夫です。ここにダーシュさまがいて、牙が完全に生えておいでの王位継承者がいる。それが答えです」
何気なく彼は言ったのかもしれない。だが、この自信たっぷりな言葉は綾の胸にするりと滑り込んで、あたたかな地盤のようなものを形作った。
「……ホント、ですか?」
「もちろんです。わたしは3人のなかで一番の若造ですが、史実に関しての知識はぴかいちです」
「心強い言葉だ。よかったな、アヤ」
彼の声には、余裕があった。
「ロフォーオゥさんは全然気にならないんですか?」
「アヤが血を吸っていいって言ってくれたろ。あなたにそう言わせておいて、主が撤回するわけがない」
「そう、なんですか?」
「なにも起ったことがないから、なにかが起こるかもしれないぞ、ってあらかじめ逃げ道を作ってるだけだよ」
「そうだったんですか……」
なんだ、と思う。
とはいえ、
「でも、逃げ道があるっていうことは、万が一ダメになることもあるかもしれないってことですよね? なにが起こるんだろう?」
ひとり呟く綾に、ロフォーオゥはザウアーと顔を見合わせ、肩をすくめた。
「―――きっとたぶん」
神妙に声を落としたロフォーオゥに、綾は不安な色を眼差しに乗せて、彼を見上げた。
「次の候補者に、牙が生えるんだよ」
「あぁあ……―――……? それって、でも、……なんにも起こらないってことなんじゃ……?」
「ばれたか」
「ちょ、もう、からかわないでくださいよ」
本人はやはり怖いのだから。
おかしげに笑うロフォーオゥと彼をぱしぱし叩く気配の綾に、前方を歩くエクハルトは小さく笑みを漏らす。
「エクハルト殿?」
ギーレンは微笑ましく思いながら、隣を歩く最年長のエクハルトを窺う。
「同じことを思っただけさ。我らの新しい王陛下は、余計な懸念を我々に抱かせるような方ではない。喜ばしいことだ」
「ええ。まったくです」
いまだ吸血という契約を結んでいないにもかかわらず、新王と辺縁の姫君には強く結ばれた絆を感じられる。
それは、信頼という名の絆。
ヴェーレェンは、新しい時代を迎えるのだ。
小さな祭壇の正面に、エクハルトが立っていた。その両側に、やや距離を置いてギーレンとザウアーがいる。後方には、前王の代理としてダーフィトの姿もあった。
礼拝室は、アルードの部屋の奥、館の1階の端に位置していた。こぢんまりとしていて、簡素な設えである。
エクハルトの前で、綾はロフォーオゥと向かい合っていた。
ただ言葉もなく立っているだけなのに、身が引き締まるほどに緊張する。
ロフォーオゥの手が、すっと首筋へと伸びる。ひんやりした指先が肌に触れ、鈍い痺れが走った。小さく息を呑んだ綾に一瞬ためらいを見せるロフォーオゥ。大丈夫ですと目で伝えると、彼は頷き、そっと首を傾けて綾の首筋に牙をたてた。
ぷすりとした感覚と、小さな痛みがあった。直後にやってくる貧血によるめまい。
(うう。このあと、すごく身体が痛く……、―――?)
目をぎゅっと閉じてやってくるはずの痛みに身構えていると、もうロフォーオゥが顔を離す気配があった。
身体はまだ痛みを訴えてはいない。怪訝に思い、恐るおそるまぶたを開けてみると、綾の両肩に手を添えた彼が心配そうな顔でじっとこちらを見つめていた。
「えと、終わったん……ですか?」
「ああ。大丈夫か? かなり吸ってしまったけど」
体調を気遣うロフォーオゥだったが、綾はただ驚くしかない。
ほとんど血を吸っていないのでは? リァーカムは失神してしまうほどの量を毎回吸っていたのに。身体の痛みも、ない。
(こんな、ホントに?)
信じられなかった。
しかも、かなり吸ったとも言った。
「めまいっぽいのがある気はしますけど、全然、大丈夫です。本当に血を吸ったんですか? 吸ったふりとかじゃなくて」
「もちろん。どうして?」
「だって、全然平気だもの。こんなのいままでなかったし」
「牙を拝見いたしますよ」
ふたりの会話に、エクハルトが入る。彼は口を開けたロフォーオゥの牙をじっと見つめ、綾の首筋の咬み痕を確認する。
頷いた。そして、ギーレンとザウアーに眼差しで合図を送る。
「新王陛下の御誕生を、お慶び申し上げます」
彼らは一同に膝をつき、頭を下げた。戸惑いながらも、ダーフィトも頭を下げる。
オルブールやシュイルフといったロフォーオゥの側近たちも一斉に頭を垂れてゆくその光景に、綾は息を呑んだ。
いま、この瞬間、ロフォーオゥは王になったのだ。
礼拝室が華やいだ空気に満たされてゆくのが肌で感じられた。
祝福されている。
胸がいっぱいになった。
「ロフォーオゥさん……」
「新しい時間の、始まりだ」
ロフォーオゥも感無量の笑顔を浮かべていた。
「はい」
「100年、一緒に生きていこう」
「はい……」
声に、涙が混じりだしていた。そんな綾に、ロフォーオゥはくちづけをする。
礼拝室、祭壇前でのキス。別の感動が、胸に湧き起こる。
「なんか、結婚式みたいです。わたしの世界の、結婚式」
「それもいいな」
言って、ロフォーオゥは綾を抱き寄せた。
「逃げられないようにしなくちゃな」
「逃げませんってば」
「逃がさないしね」
「でも、喧嘩したら家出するかもですよ?」
「アヤとの喧嘩か。楽しみだね、それは」
ふたりの世界に入り込んで言葉を交わし合う綾たちの耳に、無遠慮な咳ばらいが聞こえた。エクハルトだ。さすがに恥ずかしくなってロフォーオゥの腕から抜けだそうとするも、彼は綾を離そうとしなかった。
「一応訂正を」
エクハルトはふたりに言う。
「ダーシュさまは既に11年以上を前王に仕えていらっしゃったので、陛下にお仕えするのは約88年となります。陛下も前王の時間を引き継ぐ形となりますので、やはり在位は88年になります。ではこれから、レイ・スヴェンリンナに向かいます」
「教皇さまの前で、もう一度ロフォーオゥさんが血を吸うんですよね」
「さようにございます。教皇猊下の認可が必要ですので」
「―――あ。あぁ……、そっか、そういうことか」
妙に納得する綾に、ロフォーオゥは怪訝な顔になる。
「なにかあったのか?」
「いえ。あの、わたしの世界でも昔、教皇が王さまに帝冠を授けたことがあって。800年カールの戴冠。962年オットー一世の戴冠とか。こっちとは全然意味あいは違ってますけど、でも、そういうものなのかなと思って」
こんなところで世界史の知識が役立つとは。
ほほうと心底感心するロフォーオゥ。
「さすが学生、博識だな」
「……」
「どした?」
「いえ、なんか、みんなの前で褒められたのって、もうずっとなかったんで」
「ではこれからは100……じゃなくて88年、ずっと褒め続けよう」
「今度は」
再びふたりの世界に突入しそうな綾たちに、エクハルトは言葉を滑り込ませる。
「今度はちゃんと残りの88年を、陛下のもとでお願いしたいものです」
「もちろんです」
「でもまあ、さきほどのお言葉ではありませんが、家出程度で収めていただけるのなら、構いませんよ」
「え、そうなんですか? ホントに家出、いいんですか?」
「本気で家出するつもりだったのか?」
「前の前の辺縁の御方は、よく家出をなさっていたそうです。そのたびに当時の王陛下が平謝りして戻って来ていただいたそうですよ」
エクハルトの横でうんうんと頷いているザウアー。
「へぇぇ、王陛下が平謝りですかー」
いつの間にか近くにきていたダーフィトが話に乗ってきた。
「ロフォーオゥさまは、尻に敷かれるタイプですかね」
「表向きはおれさまを主張しつつも、ぽろぽろとボロが出てしまう、みたいな」
「ああ、そうそう、そんな感じ」
分析をしだすオルブールとシュイルフ。
「君たちね」
と呆れつつも、止めようとはしないロフォーオゥ。
礼拝室は、和やかな雑談であふれてゆく。
時代の転換を乗り越えたという安堵が、誰の顔にも浮かんでいた。
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