二
リァーカムの遺体が部屋から運ばれてゆく。遺体といっても、残っているのは着ていた衣服と牙だけだ。
いつもきらびやかに着飾っていたリァーカム。溜息を禁じえないほど美しい顔をしていたリァーカム。それが、こんな最期を迎えるなんて。やるせない虚しさが、綾の胸を切なく締めつける。
牙はレイ・スヴェンリンナへと運ばれ、衣服は王妃クラーラのもとへ返されるという。
辺縁の姫君が逃げきったことで国王が命を落とすなどまずないことだったので、エクハルトたちも澄ました顔をしてはいるが、やはり内心はかなり混乱しているようだった。意味もなく部屋を行き来したり、指示を間違えたり、すれ違う際にぶつかったり。
ダーフィトや装甲機竜部隊の者たちも、手持無沙汰で所在なげだ。その一方で、中庭にせわしなく向かう者や怒鳴り合いながら敷地内をうろつく者たちの姿も見られた。
中庭にはリァーカムたちが騎乗していた装甲機竜が所狭しと並べられているが、綾のいる居室からは見えない。紅葉の始まった木々の間を行き来する兵たちが見受けられるくらいである。
窓の向こうを見下ろす綾の顔色は、いまだ青く、険しい。
干乾びていくリァーカムの顔。灰のように脆く崩れていった間延びした時間。全身全霊で綾を求める姿。そしてそれを拒絶した自分。
クラーラ、と最期に王妃の名を呼んだその声が、耳に残って離れてくれなかった。
「リァーカムさん、最期にクラーラさんの名前を呼んでた」
リァーカムの妃、クラーラ。臨月だからと王都に残っていた彼女は、もう二度と夫には会えないのだ。生まれた子供も、父親の顔を知らずに育ってゆくしかない。
「あんなひとでも、クラーラさんを求めてた……」
リァーカムはクラーラを本当に愛していた。妃を想うリァーカムを、何度も目にしている。綾にとっては忌むべき存在のリァーカムでも、ひとを愛するひとりの男だった。
最期にクラーラを呼ぶのは、卑怯だ。
彼らを、引き裂いてしまった。憎いリァーカムから逃れたかっただけなのに、それがもたらした現実は、残酷だ。
嬉しさに快哉を叫ぶかと思っていたのに、胸の底に、重たくわだかまるものがある。
せめて綾を呪う言葉を吐き捨てでもしてくれたら、こんな罪悪感は感じずにすんだだろうに。
窓についた手を強く握り締める。
そう。この胸の重たさは、罪悪感だ。
「わたし、浅はかだった……!」
嘆きが喉の奥からほとばしった。
「ロフォーオゥさんあんなにも『王の命』を気にしてたのに、わたし、わたし全然判ってなかった。リァーカムさんが死ぬってこと、うわべだけで全然判ってなかった」
「あんな死に方なんてな」
ロフォーオゥの声も重い。
「わたしのせいで。わたしのせいでリァーカムさん、死んじゃったんですよね? そういう、ことだったんですよね?」
どうして判らなかったのだろう。リァーカムから逃げきるというのは、畢竟その死を求めることだったと。辺縁の姫君の血を摂取することで100年の命を得るとは、逆に言えば摂取しなければ命を失うということだ。
自分の血が王の存在に深く関わっていると聞いていたのに、頭では判っていたのに、判っているつもりだったのに。
こういう結果が待っていたとは、思いもしなかった。
ロフォーオゥがさんざん、王の命、その生死を気にしていたというのに。彼がその話題を口にするとき寂しさをはらんでいたのは、こういう残酷な結果をはからずも期待することだったからだ。
なんて愚かなのか。
どうして気付かなかったのか、なんて莫迦だったんだろう。
(わたしが殺したんだ……!)
窓を破りそうな勢いで拳に力を入れる綾。そんな綾の手を、背後から腕をまわしてロフォーオゥはそっと覆う。
「おれたちの国主としての時間はさ」
『おれたち』と、ロフォーオゥは複数形を使った。
「リァーカムさまの死から始まるんだ。恵まれた始まりではないな。呪わしく恨みに思う者もいよう。それでも、アヤが逃げきれたのは、主がおれたちを守ってくれていたってことだ」
ロフォーオゥの大きな手のひらが、綾の右手を優しく握る。
「主の意思はおれたちにあったんだ。おれは、アヤが無事で嬉しいよ。本当によかったと思ってる」
「だけどクラーラさんを」
「クラーラさまを想っているのなら、自分の感情に振りまわされずアヤに接するべきだったんだ。リァーカムさまは王以前に人間だ。ひととして、愛する者を悲しませる結果になるかもしれないと、己の行動に気を配るべきだったんだよ。そう思うしかない」
「―――ん……」
リァーカムは、辺縁の姫君を憎む母親の影響で、彼自身も辺縁の姫君である綾を虐げ続けた。これは、彼が招いた結果でもある。
確かにそうだが、やはり、胸は痛む。クラーラにはなんの落ち度もない。
愛する者を、悲しませてはならない。
痛いほど、胸に沁みた。
それをリァーカムが判っていたら、あんな最期ではなかっただろう。綾への態度も、もっとまるくなっていたかもしれない。
だが、もしリァーカムが綾を虐げていなかったら、ロフォーオゥと出逢うこともなかった―――。
「さっき……」
綾は、背後から抱く形になっているロフォーオゥにちらりと視線を上げた。彼の首に残る、締め上げられた痕が痛々しい。
「さっき、リァーカムさんに言ってたことなんですけど」
「ああ」
「『好きな女』って、……いうのなんですけど……」
ロフォーオゥがとっている綾との距離は、あのキス以来、近くなっているのは間違いない。
「言ったな、確かに」
窓の向こうを見遣っていた彼の視線が、綾へと留められる。厳しい表情の中に、ほんのりと柔らかな色が差している。
「おれは、アヤに惚れてる」
無防備な顔になってしまったと、綾は自分でも判った。
「たぶん、どうしようもないくらいに、あなたが好きだ」
(夢……じゃない、よね?)
少し照れたような顔になって、彼は続ける。
「玉座なんてさ、100年孤独にあたためるだけだと思ってたから、牙が生えて新王候補になって、本当は、迷惑でしかなかった。爵位を継いだばかりだったし流行病で領内もまだ混乱してる時期だったし、気が向いたときにアルードに向かうこともできなくなるんだろうし。嫌だなと」
そうして、綾も苦しんだように、家族も友人も仲間も、いずれ老いて寿命を迎えていなくなる。周囲の者たちは世代交代をしながらも、自分はひとり、愛する者たちを失いながら玉座を守り続けなければならない。辺縁の姫君もともに時間を止めて100年を生きてはくれるが、あくまで延命のためでしかない。
ひとり取り残される孤独な思いは、もう二度としたくなかった。
だけど、と、ロフォーオゥ。
「空を落ちてくるアヤを見たとき、そういうのが全部、吹き飛んだ。吸い寄せられたというか。結局、負けてしまったけどな。こっちに戻って毎日領内の立て直しで追われてるうち、〝辺縁の姫君〟は遠い存在にまた戻っていった。でも、アヤに再びめぐり逢った。手放したくなかった。失いたくなかったんだ。リァーカムさまのもとにお帰ししたら、途方もない孤独に落とされると思った。手放したことを必ず後悔すると。……そばにいてもらえる方法は、ひとつしかない」
「王さまに、なること……」
「ああ」
やや苦い顔をしながらも、頷くロフォーオゥ。
「アヤが一緒なら、100年だって寂しくない。一緒に、100年を生きていきたいって思った。ずっとそばにいて欲しいと。アヤが欲しいから玉座を受け入れたなんて国主としては危うい態度だけど、どうしても譲れなかった。―――誰にも秘密な」
「う、うん」
「40過ぎに見える男からの愛は、迷惑かな?」
「そ、そんなこと! そんなことないですッ。わたしだって、わたしもロフォーオゥさんのこと、好きですから」
「そうか」
ふんわりと甘く笑むロフォーオゥ。思わず綾は惚けてしまう。
「で、『そんなことない』っていうのは、おれの見た目のことも言ってくれてるの?」
「そ! ……れは、えっと、―――!?」
莫迦正直に戸惑っていると、いきなり唇が塞がれた。
(まっ、窓辺でッ、外から見えてる!)
ひとり焦る綾をよそに、ロフォーオゥはくちづけをやめようとしない。
恥ずかしさに胸の内で悲鳴をあげまくっていると、窓の外でなにかがぶつかったような重たい音が聞こえてきた。
「―――牙、当たってしまうね」
顔を離したロフォーオゥは、甘い顔で綾の唇をそっと指でなぞると、窓外を見遣る。
どうやら装甲機竜部隊のひとりが、外した装備を運んでいる最中に、別の荷物を運ぶ者とぶつかったらしい。互いに怒鳴り合いだし、摑み合いの喧嘩が始まってしまう。
(ああああ、びっくりした……)
どきどきする胸を押さえながら、綾は険しい顔になって外を見るロフォーオゥに目を戻した。
「……」
それは、気のせいかもしれないけれど、王者の眼差しだった。
ロフォーオゥは、既に王なのだ。キスしたときに強く唇に当たった牙も、それを物語っている。
「わたしの血……吸いたいん、ですよね?」
リァーカムは、血を吸う時期になると渇きを抑えられない目つきでこちらを見ていた。綾へのロフォーオゥの眼差しに、かすかにそんな色が窺える。
ぎくりと、ロフォーオゥは表情をこわばらせて綾を見る。
「さっき、『いまはだめ』って言ってくれたのって、わたしのこと気にしてくれたからなんですよね?」
「リァーカムさまが亡くなって『はいどうぞ』というのもね。おれ自身流されそうだったし、あの場ではさすがに不謹慎すぎる気もして。―――でも、怖いんだろう?」
血を吸われることに恐怖を抱いていることを、彼は知っている。自分の胸に問い返し、綾は小さく頷いた。
「わたしの血を吸わないと、今度はロフォーオゥさんが死んじゃうんでしょ?」
「そういうことになるな」
「そっちのほうが嫌です。そっちのほうが怖い。ロフォーオゥさんが、あんなふうに……リァーカムさんみたいに死んじゃうなんて、絶対にいやです。そんなことさせたくない」
それに―――、
「ロフォーオゥさんになら、わたし、血、吸われてもいいって、そうも思うし」
困った顔になるロフォーオゥ。綾の頭に手を乗せ、わしわしと乱暴に撫でる。
「無理してるだろ」
「……」
見透かされている。
いったん血を吸ってしまったら、ロフォーオゥもリァーカムのように虐げてくるかもしれない。リァーカムが冷酷だったのは、綾の血を吸ったせいかもしれないのだ。自分の血が彼を狂暴化させた。そんな怖れを、確かに感じてはいる。
黙り込んでしまった綾の頭を、ロフォーオゥは優しく叩く。
「気長に待つさ」
「え」
「―――と言いたいんだけど、ごめんな。アヤが大丈夫だと思えるときまで待つべきなんだけど、おれも、あんなふうには死にたくはない」
「ん」
「結局、アヤに無理強いする形で血を吸うことになりそうだ。ごめんな」
「ううん……」
「こんなにも、渇きが強いとは思わなかった―――」
綾に言うともなく口の中で呟き、窓の向こうに目を戻すロフォーオゥ。
窓の外の喧嘩は、騒ぎを聞きつけた他の兵士たちが集まってなんとか収まってはいたが、当事者ふたりはいまだ殴り足りなさそうだ。その場に転がった装甲機竜の装備を、駆けつけた兵士たちが文句を言いながら片付けている。
騒動がひと段落ついたことに、ロフォーオゥはほうと息を落とす。
その、大きな眼差しを綾は見る。
ロフォーオゥはもう、あの兵士たちを統率する立場にあるのだ。
彼なら、きっと立派な王になる。
血を欲する彼に、あとはただ、頷けばいい。
彼の意識が再びこちらに戻ったとき、所望されるだろう。
あなたの血が欲しいのだ、と。
―――だが、覚悟して待っていても、肝心の『血が欲しい』の言葉が降ってこない。
窺うと、渇望しているはずなのに、彼は黙って唇を引き結んで外を見ている。
いや、見ているけれど、見てはいない。
力のこめられた眉根。難しい表情。
ロフォーオゥの隣で、どうして血を乞うてこないのだろうと窓の向こうを眺めながら考えていると、
(もしかしたら―――)
ひとつの考えが、浮かんだ。
彼は優しいから、たぶんこれは、間違ってはいない。
胸の内を静め、綾は呼吸を整え意を決した。
「―――血を吸ってください」
はっと振り返るロフォーオゥ。綾は彼の目を、まっすぐに見つめ返す。
ロフォーオゥは、怖いのかもしれない。
血を吸うことで綾を苦しめると怖れているのでは。大切に思ってくれているからこそ、ためらいから抜けだせずにいるのだ。
(わたしが、背中を押すべきだ……)
「わたしがロフォーオゥさんとこうして出逢ったのは、きっとロフォーオゥさんを王さまにするためだったんです。リァーカムさんのところから逃げだせたのも、そういう運命だったからなのかもしれない」
「でも」
「わたしは、ロフォーオゥさんを死なせてはならないんです。死なせない、絶対。神さまが反対しても、血を吸ってもらいたい」
「無理してでもか? 苦しむと判ってるのに?」
「わたしはロフォーオゥさんが死んでしまうほうが怖い。生きてくれるのなら、注射と思えば、全然たぶんきっとそんなに怖くない」
「チュウシャ?」
「えと、肌に針を刺す医療道具、かな」
「そうか」
辺縁の医療道具か、と、ロフォーオゥは小さく呟く。心ここにあらずといった態だったが。
しばらく考え込むように沈黙していたロフォーオゥ。重たく、口を開く。
「おれは……、リァーカムさまを死に追いやって、アヤに犠牲を強いさせる身勝手な道を選んだ。あなたを守りたいだけだったのに、苦しみしか与えてやれない」
「そんなこと」
苦しんでいるのはロフォーオゥのほうだ。彼は綾のために、玉座という途方もない苦悩を抱えてしまったのだから。
「後悔、してるか? おれのところに来たことを」
また、リァーカムのときのような地獄の日々が始まるかもしれない。血を吸われたときの強い痛みと激しい疲労が再び繰り返されるのかもしれない。
それでも、一歩をためらうロフォーオゥを助けたかった。力になりたかった。
「後悔なんてしてないです。わたしがロフォーオゥさんのそばにいたかったんです。これからもずっと、そばにいたい」
それに、と綾は続ける。
「ロフォーオゥさんじゃない。リァーカムさんを死なせたのは、わたしです」
「いやそれは」
「わたしが逃げたことでリァーカムさんは死んだんです。一秒だってあのひとのところにはいたくなかった。逃げなければ殺されるって本気で思った。わたしが、リァーカムさんを死なせたんです。でも、後悔していない。あんな酷い死に方だったけど、逃げたことは後悔してない」
―――そう。
「後悔してはいけないんです。それを背負っていかなくちゃ……。背負っていくんです」
言葉にしていくうち、リァーカムの死を目の当たりにしてぐちゃぐちゃになっていた自分の中が、整理されてゆく。
背負っていくという言葉に、胸にわだかまっていた重たさが、すっと軽くなった。
リァーカムの死から、目をそらしてはならないのだ。たとえそれが、不本意でのことだったとしても。
いつかのロフォーオゥの言葉がよみがえる。
『納得できなくても、受け入れるしかない運命もあったりする。受け入れることは苦しくてやりきれないけど、いつかは道が開ける。どこにも道がなくても、時がくれば切り拓くことができるようになる』
リァーカムの死を背負うことで、いま、綾は道を拓いたのだ。
もう一度、ロフォーオゥに伝える。
「血を吸ってください。王さまになってください」
襟元を開き、首筋を露わにさせる綾。ロフォーオゥは言葉を失ったまま、喘ぐように唇を震わせていた。
「―――ありがとう、アヤ」
泣きだしそうな声だった。
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