二
「陛下は御存命なのか」
「陛下らしきひと影が確認されております」
眉根をきつく寄せ、唇を固く結ぶロフォーオゥ。緊迫した空気に押し潰され、綾は打ちのめされていた。
「わたし……、隠れます。どこかに、隠れてれば」
「いや。隠れていても逃げられはしない。おれのそばに」
「―――、はい……」
しっかりとしたロフォーオゥの口調は、綾の混乱を少なからず落ち着かせてくれた。
ロフォーオゥはオルブールに向き直る。
「常と変わらないでいろ。なにもやましいことはないのだから」
「了解しました」
オルブールが出ていくと、重い沈黙が部屋に降りた。
「震えているな」
長椅子で震える綾の隣に、ロフォーオゥは腰を下ろす。膝の上の彼女の手を、きゅっと握り締める。
「大丈夫だ。アヤはおれが守り抜く」
「もしも」
言葉にならないほどに、その声は震えていた。
「もしも神さまが、わたしたちの味方じゃなかったら?」
綾は怖れていた。もしリァーカムと顔を合わせてしまったら、どれだけ彼を拒絶しようと、意思とは関係なく彼へと足が向かうのではないか、と。
(いやだ。そんなのいや)
自分が自分でなくなってしまう瞬間が来るのは―――それがロフォーオゥの目の前で起こるだなんて、絶対に嫌だった。
あの男のもとになど絶対に戻りたくない。
「そのときは主と喧嘩を始めるまでさ。―――いいか、アヤ、聞いて」
綾の肩に手を置き、視線を合わせるロフォーオゥ。淡い色の瞳が、まっすぐに心の底を見つめる。
「これからおれたちが迎えるのは、別離じゃない。未来を拓く希望だ。希望を摑む〝時〟なんだ」
説きふせる彼の力強い言葉と眼差しは、目の前の不安に光となって眩しく差し込む。
「希望の……」
「ああ。2ヵ月前に装甲機竜から飛び降りたアヤの覚悟に、いま答えが出るんだ」
「答えが……」
綾の脳裏に、2ヵ月前の出来事がよみがえる。
ここで逃げなければ、永遠に閉じ込められ、いずれ殺されてしまう。その思いに、装甲機竜から飛び降りた。そうして65日、リァーカムへの焦燥感もなく過ごしてこれた。
生きるために逃げだした、その答えが、いま示される。
「おれは二度も、アヤを手放すつもりはない。主はおれたちのそばについてくれている。そう信じてる」
綾をまっすぐ見つめるその目は揺るぎない。魂の底からほとばしる強い言葉だった。
「アヤは、誰でもない、おれのもとに降りてきた。それが主の示した答えだ」
「―――ん……」
広大なリグールの北辺で空に飛びだした綾が、デュンヴァルト中央部に落ちた。次期国王でもあるロフォーオゥのもとに。ラディッカに運ばれたのは、偶然ではなく神の意思。既に答えは、出ているのだ。
そう頭では判っても、やはり不安は消えてくれない。
「そばにいろ、アヤ。おれのそばにいればいい」
涙が出てきた。
どうして助かったその日に、こんな仕打ちを神はするのだろう。味方でいるふりをここまでしておきながら、最後の最後で手のひらを返すだなんて。
「莫迦だな。これが別れじゃないんだから、泣くなよ」
綾の頭を、胸元に引き寄せるロフォーオゥ。
堪えきれない涙に呻き声が漏れると、彼は抱き寄せる腕に、優しく力をこめてくれた。
もしもリァーカムに捕まるのだとしても、せめてロフォーオゥだけは助かって欲しい。
彼は、なにも悪くない。なにも悪くないのだから。苦しめたくはなかった。
(神さま仏さま、ぽん太……お願い)
見捨てないで欲しい。
涙が、止まらなかった。
外の様子がざわめきだしている。
しばらくしてノックがあった。オルブールが慌ただしく入室する。綾を長椅子で抱き寄せるロフォーオゥを見ても表情ひとつ変えない。
「陛下がおいでになりました」
「判った。応接室にお通ししてくれ」
「了解しました」
短いやりとりに、綾はつい赤面する。ひと前でこうして抱き寄せられた経験など皆無だった。
(やっぱりわたし、不謹慎だ……)
こんな切羽詰まったときなのに、照れてしまうだなんて。
オルブールの背中を見送ったロフォーオゥは、ひとつ吐息をついた。
「陛下の御存命を呪わしく思うなんて、おれはなんとも罪深い男だ」
どこか諦観したようにロフォーオゥは小さく呟く。
「そんなこと。わたしだって、リァーカムさんのこと、すごく嫌いです」
「そうだったな」
ロフォーオゥの声は、どこか寂しげだった。
(どうしたの……?)
彼の寂しさは、なにか理由があるのだろうか。
「さあ。おれたちも応接室に」
優しくそう促され、綾はロフォーオゥとともに応接室に向かった。
そうして招かれざる客の到来を無言のままで待っていると、ややしてオルブールに案内された騒々しい一行が現れた。
リァーカムと、その側近たちだった。
リァーカムは、おぞましいほどに痩せこけていた。骨に皮が張りついているだけのような腕が袖口から伸びている。首も筋張り、美しかった顔は土気色にしおれ、生気がまったくなかった。側近に支えられなければ立っていられないほど憔悴している。
「オータァ」
綾を部屋に見つけたリァーカムは、掠れた声で吠えてその名を呼んだ。
「オータ。この薄汚い裏切り者がッ!」
綾に向かって腕を伸ばすリァーカム。悪魔の呼び声だった。綾は立ち上がって迎えたロフォーオゥの背に隠れ、身を縮ませる。
リァーカムに再会したら引き寄せられるのでは、という心配など杞憂だった。
あまりにもおぞましくて、吐く息すら凍りついた。できるものなら、いますぐにでも逃げだしたかった。
「血を吸わせろ、オータ! デュンヴァルト卿、なにをしている、オータを連れてこい」
干乾びた声で居丈高に命じるリァーカム。だが、ロフォーオゥは綾を背に庇ったまま動かない。
「なんのつもりだ、早く渡せェ!」
再度命じられるが、ロフォーオゥは綾を渡すどころか、更に背に庇う。
「お前ッ。玉座を簒奪する反逆者めが!」
「玉座が欲しいわけじゃない。おれは、好きな女を守っているだけだ」
落ち着いた彼の言葉に、綾の胸は熱くなった。
好きな女と、彼は確かに言った。
リァーカムは落ちくぼんだ目をぎらりと剥いた。
「好きな女だと? 莫迦ばかしい。オータに惚れるなど、所詮お前も下賤で穢れたモノか。さあ渡せ、早く渡すんだ!」
「お断りします、陛下。おれは悋気が強いたちでしてね。好きな女に、他の男が咬みつくのは我慢ならないんだ」
「ふざけるなぁッ!」
リァーカムの叫びに、その場が凍りつく。
叫んだリァーカムは腰に手をやり、そこに佩いた剣をすらりと抜―――くことが、できなかった。
剣の重さを身体は支えきれず、後ろに倒れるリァーカム。咄嗟に一行のひとりが支えたが、リァーカムの息はぜいぜいと荒く、再び剣を抜くことができない。
後ろからの支えを乱暴に振り払ったリァーカムは、
「生意気な!」
言って、ロフォーオゥに襲いかかった。すんでのところで綾は突き飛ばされ難を逃れたが、
「ロフォーオゥさん!!」
たたらを踏んで振り返ると、ロフォーオゥは長椅子の前で首を絞められていた。
血走った眼のリァーカムは、文字どおり全身全霊の力で、ロフォーオゥの首にかけた手に力をこめてゆく。
「ロフォーオゥさん!」
「お前がッ、お前が邪魔をするからッ! ダーフィト! オータを捕まえろ!」
「は……、はッ」
ダーフィトと呼ばれた青年が動いた。
「逃げろアヤ!」
顔を真っ赤にさせ、掠れた声でロフォーオゥが叫ぶ。
(でもッ)
ロフォーオゥが絶体絶命だ。このまま逃げることなんて、できない。
―――主はおれたちのそばについてくれている。
そう言ったロフォーオゥの言葉がよみがえる。
神は―――神が本当についてくれているのなら。自分たちのことを本当にちゃんと見てくれているのなら。
(わたしは、守られてる。神さまは裏切らない、味方でいてくれる!)
自分が捕まることは絶対にない。絶対に。
心の奥底から、強い思いが湧き起ってきた。
彼を―――。
(助けなきゃ……!)
近付くダーフィトを間近にしながら周囲を確かめる綾。窓際の椅子に、クッションがあった。
「失礼いたします、ダーシュさま」
警戒と抵抗に身構える綾をなだめるダーフィトの声と同時、綾は手にしたクッションを力いっぱいリァーカムに向けて投げつけた。
当のリァーカムは、ロフォーオゥの顔になにかを見たのか、愕然とその口元を凝視していた。そこへ、
「ぐはッ」
のけぞり、倒れ込むリァーカム。綾の投げたクッションが顔にぶつかったのだ。
「! 陛下!?」
ダーフィトがリァーカムを振り返った。隙をついてリァーカムの手から逃れ、綾のもとに駆け寄るロフォーオゥ。
「ロフォーオゥさん! だい大丈夫ですか!?」
「ああ。助かった。ありがとうアヤ」
強く抱き締めるロフォーオゥの首元に、リァーカムの手の痕が残っている。殺されそうになった彼に、底冷えがした。凄まじい力だ。もう少しで、彼を失うところだった。
「近寄るな」
綾を抱き締めながら、ロフォーオゥは厳しい声を飛ばす。王命により綾を捕らえようとするダーフィトが、ロフォーオゥの険しい眼光に動きを止める。
止めざるをえないほどに、彼の発する空気は厳しく、抗いがたいものだった。
「よくも……」
椅子にすがって起き上がるリァーカム。おぼつかない足元で、一歩、こちらへと近付く。
「オータァ! 血を寄こせ、寄こすんだ早く。王であるわたしが死んでもいいのか!」
獣の咆哮のような叫び―――悲鳴だった。その顔色は、来たときよりも更に黒ずんでいた。直視に堪えないほど、みすぼらしく干乾びている。
「そういうわけじゃ、……そういうわけじゃないけど」
「―――うッ」
頭上で、ロフォーオゥが突然呻き、口元に手をやった。
「ロフォーオゥさん!?」
もしや、首を絞められたことでなにかあったのでは。
「これ、は……?」
呆然と呟くロフォーオゥ。
口の違和感と、全身に広がった痛み。そうして、身体の底から湧き起こる、綾の血への強い渇望感。
なにが起きたのかと自問した瞬間、あるひとつのことに思い当たった。舌で、歯列をゆっくりとなぞり―――ひっかかるものが。
恐るおそる口を開き、指で触れてみる。
綾は、目の前の光景に息を呑んだ。
「ロ、フォー、オゥさん……、きば、牙が……」
八重歯の場所に、白い牙が生えていた。
リァーカムがロフォーオゥの口元に身を固くさせたのは、生えきっていない牙を見たせいだったのだ。
「おおお許さぬ……、許さぬ、オータ……」
リァーカムの声が、か細くなった。掠れてほとんど声になっていない。
ふらつくリァーカムに、音をたてて椅子が倒れた。よろめきながらも近付いて来る。
テーブルに手をつき身を支えるも、喘ぐ呼吸に肩は大きく上下し、肘は上半身の体重に負けて曲がってゆく。それを押しつけるようにして、更に一歩リァーカムは近付き、腕を伸ばす。
悲鳴のような眼差しが綾を射抜く。
「オータァ。もう時間が……時、間が、―――たりない」
もがくように腕をかきながら、一歩、リァーカムの足が進む。
目が、離せない。綾を抱き締めるロフォーオゥの腕に力がこもる。
「血をくれ、頼むオータ。お前の血が、ないと」
一歩、リァーカムが更に近付く。
「血がないと……」
次の一歩が差しだされたときだった。
リァーカムの肌が一気に白く変色した。瞬間、今度はくすんだ茶色へと変わり、干乾び落ちくぼんだ彼の顔が更にミイラのようにこけてゆく。
「ああぁ……、クラーラ……」
呟いた瞬間、身体は脆く灰のようにざっと音をたてて崩れた。そうして、真っ黒に変色した牙だけを残し、灰も消えた。
「―――」
突然のことに綾たちは言葉を失った。皆が皆、牙と衣服だけになったリァーカムの痕跡を、ただ見つめるしかなかった。
リァーカムが、死んだ?
死んだ?
一瞬で。
ダーフィトも、彼以外の側近たちも、その衝撃を受け止めきれずに立ちすくむ。
王が、死んだ。
辺縁の姫君が仕える王から逃げきることは、本当にありえたのだ。
―――リァーカムから逃れられた喜びなどより、綾は目の前で起きた彼の死に、意識を奪われていた。
生きて動いていたひとりの人間が、灰になって、消えた。
いま、ここで。
目の前で。
生きていたひとが、灰に。
リァーカムが最後に口にした王妃の名。
彼は王である前に、妻を愛するひとりの男でもあったのか―――。
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