【四章】
一
さすがに残りの1週間は、邸の中でじっと時が過ぎるのを待つ日々だった。
ロフォーオゥも綾に付き合ってか、邸内で仕事をこなしていた。
(不謹慎、かな、やっぱり)
図書室で本の整理をしながら、綾は思う。
ヴェーレェンの言葉は、耳で聞くぶんには理解できるものの、文字となるとさっぱりお手上げだった。英語のような表音文字らしいが、綾にはただの記号にしか見えない。それでも判らないなりにも挑んでいるのは、なにかに熱中していたかったからだ。時が経つのをじっと自室で待つのは、苦痛だった。
書籍のひとつひとつを柔らかな羽根で埃を払い、1ページずつそっと開いてゆく。破損がないか、ページは癒着してはいないか、虫食いはないかを確認する。文字が読めないからできることといえばそのくらいだったが、綺麗に装丁された本や美しい挿絵に、つい魅了されてしまう。
そうやってぼんやりしてしまうと、思いだしてしまうのだ。あの夜の、ロフォーオゥとのことを。
頬に添えられた大きな手のひら。熱い想いのたぎった潤んだ眼差し。甘い唇の感触。
思いだすだけで胸がどきどきした。
リァーカムとの期限が刻一刻と近付く中、頭を占めるのはロフォーオゥのことばかり。もっとぴりぴりと緊張した日々になると思っていたのに、胸のときめきのほうが大きかった。
(だって、気になるんだもの)
ロフォーオゥはいつもと変わらない様子で仕事をして、いつものように綾と言葉を交わす。
いつもどおりだった。
それが、物足りなくて、気になってしまう。自分だけが、どきどきしているようで。
なんで普通でいられるの?
キス、してくれたんだよね?
わたしのこと、どう思ってるの?
思い返してみると、『好きだ』と言われたわけではない。ただ、キスをされただけ。それ以上には進まなかった。
もしかすると、雰囲気に流されただけなのかもしれない。
とは思うものの、よくよく観察すれば、キス以来、こちらを見つめる眼差しや表情は甘く穏やかになっている―――気がする。「アヤ」と呼ぶ声も、優しく包み込むような深みが増している―――気が、しないでもない、と思いたい。
(わたし、ロフォーオゥさんにとってどんな存在なんだろ?)
〝辺縁の姫君〟だけではない意味があるのだと、そう信じたいけれど。
「―――あ」
またページをめくる手が止まっていた。
ほうと吐息をつき、作業に戻る。
(やっぱり、不謹慎だよね)
本来だったら、来るべき時に対して神経質に構えるべきなのだろうが、どうしてもロフォーオゥのことが気になってしまう。
不安に思うのは、ロフォーオゥの気持ち。
あのキスを、信じてもいいのだろうか。
長く長くゆっくりと過ぎるばかりだった日々も、それでも時間は着実に流れてゆく。
そうして、悶々と重圧に満ちた最後の一日の夜が、静かに過ぎていった。
白い朝日が、カーテンを透かして部屋に差し込んでいた。
遠くから、鳥のさえずりが聞こえる。
朝が来ていた。
まぶたに注ぐ柔らかな朝の光に、緩やかな目覚めは清々しい。
もしかすると、この世界に落とされて初めての感覚かもしれない。
綾は、上掛けの中で背伸びをする。
シェルヴァーブルグにやって来て65日。
絆が消える日。
身体の感覚、意識の変化。―――どれも、おかしなところはない。
リァーカムを求める気持ちは、微塵もない。
どこにも、見当たらない。
宿命に勝ったという思いが次第にふつふつと湧き起り、あふれる解放感と歓喜に綾は震えた。身体中に絡みついていた見えない鎖が、音をたてて解かれてゆく。
嬉しさに何度も浸り、喜びの声を幾度もあげながら綾はいそいそと身支度をする。
気持ちも身体も、解き放たれたように軽い。
リュデュも呼ばず、心のまま部屋を飛びだした。
その廊下に、ロフォーオゥがいた。
「ロフォーオゥさん!」
たまらず、彼に抱きついた。
「わたし、逃げきれました!」
「ああ。よく頑張ったな」
飛び込んできた綾を胸に抱きとめ、その頭を撫でるロフォーオゥ。
「わたし、もう自由なんですよね。もう、もうなにも怖がらなくていいんですよね……!」
「ああ。よく堪えたな」
見上げた綾はふと気付いた。ロフォーオゥの目の下に、クマがある。どこか疲労も窺える。そして何故か上着を重ねた恰好。
もしかしてと、思った。
「ロフォーオゥさん、もしかして寝てないんじゃ、ないんですか?」
「どうして?」
「目の下にクマが。なんか疲れてる感じもするし」
「―――さすがにさ、眠れなくて、ここにいたんだ」
「ここって……ここ、ですか?」
足元の廊下を示すと、ロフォーオゥは小さく頷く。
「最後の最後まで気は抜けないだろ? なにかあっても、すぐに駆けつけられるようにさ、ここにいた」
なにか、とは、もちろんリァーカムがやって来ることだ。綾は知らなかったが、この数日、ロフォーオゥはずっと廊下で夜を明かしていた。
綾も、ここしばらくなかなか眠れなかった。いつかの夢のように、最後のどんでん返しでリァーカムに連れられてしまうのではという不安と怖れで、さすがに気持ちが落ち着かなかった。
「ありがとう、ございます」
まさかすぐそこの廊下にロフォーオゥがいたとは。
守られているという思いに、胸が熱くなる。あのキスは、やはり信じてもいいのかもしれない。
「これから、どうなるんですか?」
リァーカムとの期限は過ぎた。今後、どう動いていくのか、さっぱり想像もつかない。
ロフォーオゥは、難しい顔をする。
「正直言うと、判らないんだ。陛下がいまどういう状況にあるのかも判らないし。前例によれば、確か、王宮から使者がやって来る……んだったかな。それまでは、どうなるかはまったく判らないんだ」
こちらの世界にはネットがないから、知らないことや判らないことを気軽に調べることができない。情報の伝達量やそのスピードも、現代日本とは比較にならないほど劣っている。
ロフォーオゥが『判らない』と口にするのを、最初の頃こそ歯痒く感じていたが、それが現実であり、また彼の正直さの表れでもあるのだ。
「陛下の状況がどうであれ、その〝時〟は必ず近いうちに来る。こういう立場とはいえ、自分の国の王の生死を気にするというのは、気持ちいいものじゃないよな」
ロフォーオゥの腕の中で綾は思う。その〝時〟は、真の解放の時。そして、ロフォーオゥが王となる時だ。
(このひとに、わたし、血を吸われるようになるんだ……)
決して、リァーカムのように強引ではないだろう。怖れがないのかといえば、正直ある。けれど、ロフォーオゥになら血を吸われてもいい。そう思えた。
昼食後、綾は居間で図書室の書籍についてロフォーオゥと話をしていた。
図書室といっても、秋を過ごすだけの館だから、『他よりも書籍が多くある部屋』程度である。それでも古い聖書や童話、森の動物の変遷やら植物学や鉱物の本、狩りの記録やらキノコの専門書など数十冊もある。
それらの半分近くまでは確認作業は済んだのだが、まだまだ残っている。
「そうだな。すべてが解決したわけじゃないし、引き続き頼もうか」
残る書籍についても確認作業を完遂させたいと申し出た綾に、そうロフォーオゥは言った。
時間との戦いを忘れるための作業だったいままでとは違って、気持ちに余裕があるせいか、単調な作業ではあるがじっくりと取り組めそうだ。
「あと、ですけど」
「ん?」
「字を、教えて欲しいんです。せっかく本を見てるのに読めないのって、なんか切なくなってきて」
「切なく、か」
ほんのりとロフォーオゥは頬に笑みを浮かべる。ロフォーオゥも張り詰めたものがなくなったせいなのか、幾らか穏やかな顔つきになっている。
「なにか?」
「いや。悪い、別に揶揄したわけじゃなくて。学生だったんだよなと思っただけで。―――勉強、したいのか?」
「そういうわけじゃ、ないんですけど、読めないのは悔しいし、自分の名前くらい読み書きできるようになっていないと、不安な気もするし……」
詐欺に巻き込まれることなどこちらではまずないだろうが、書類に自分の名前があるかどうかも判らないのは、あまりにも心細い。
「そうだよな。判った。いつから始める? 今日からがいい?」
忙しいはずなのに、快くロフォーオゥは頷いてくれた。ぱっと綾の顔が輝く。
「いいんですか!? えっと、じゃあ」
「失礼いたします!」
綾の言葉に重なるように、強いノックとともに男の声が鋭く割り込んだ。現れたのはひとりの青年。ロフォーオゥの側近のひとり、オルブールだ。
彼の声の硬さと青い顔に、ロフォーオゥはなにかを感じたようだった。
「なにがあった」
険しい声で問うロフォーオゥ。
「陛下の装甲機竜部隊が、こちらに向かっているとの知らせがありました」
「!?」
部屋が凍りつく。
驚愕に息を呑むも、すぐに窓の外を確認するロフォーオゥ。長椅子に腰かけたまま、綾は衝撃に動けない。
頭は真っ白になってただただ呆然とするばかりで、ふたりの動きも目に入らなかった。
(どうして? なんで!?)
間違いに決まっている。65日が過ぎたのに、どうして王の部隊がやって来るのだ。
リァーカムとの絆は、いまだ続いていたのか。
それとも、新しい王となったロフォーオゥを迎えに来ただけなのか。
(嘘だ……)
窓の向こうに、装甲機竜の機影は確認できない。ロフォーオゥは綾を振り返る。その顔もまた、血の気を失くしている。
奈落の底に落ちる思いがした。
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