第7話 腹ドンを終えて……

 ワルミちゃんとのキスを終えて。

 意識を失ったわけではないが、座り込んだままぼんやりしていた。


 すると。


「ねえ、大丈夫?」


 聞こえてきたのはワルミちゃんの声……ではない?

 顔を上げる。


「ワルミが急に引っ込んだみたいで、ちょっとなにが起きているのか分からないんだけど。えっと、私、優羽だよ」


「……優羽さん……?」


「うん、ナオ君、大丈夫?」


 優羽さんは俺の隣にしゃがみこみ、こちらの様子を窺っている。

 どうもワルミちゃんはキスをしたあとすぐに逃げたらしい。

 さっきのキスが俺のファーストキスだったのだが、強引に奪われてしまった。

 ただ……それが嫌ではない。

 むしろワルミちゃんの真っ直ぐな愛情を感じて嬉しかったぐらいだ。


 とはいえ俺もワルミちゃんと顔を合わせづらい。

 少し時間が欲しいので、彼女が逃げてくれて助かったかもしれない。


 そんなことを思いながら優羽さんの顔をぼんやりと眺めて。

 ふと、彼女の唇から目が離せないことに気付いた。


 ……ワルミちゃんと優羽さんの身体は一緒。

 それなら、俺は……。


 ――優羽さんともキスをしたことになるのだろうか?


 バッと顔を伏せた。

 優羽さんを見ることが出来ない。


「あの、どうかした?」


 ……彼女の心配そうな声。

 この状況だとむしろ辛く感じる……。


「……ワルミが私の身体を使ってなにかしたかもしれないけど、ナオ君が気にすることはないよ。……あの、本当に結構なことをしてても、気にしなくていいからね」


「……うん、ありがとう」


 なんとかそう答えた。


 けれど、顔を上げることはできなかった。


 ◇◇◇◇◇


 部屋にはテレビの音声だけが響いている。

 俺も優羽さんも無言だ。


 優羽さんはベッドに腰掛けテレビを見ているようだった。

 俺は部屋の中央にある丸テーブルにもたれかかるように座った。

 テレビは格闘技を映していたようだが、内容は頭に入ってこない。


 ワルミちゃんとキスをしたという喜びを無邪気に味わえたのは一瞬だった。

 今は気まずさだけを感じている。


 優羽さんにそれとなく視線を向けるとぼんやりと自身の唇に触れていたので、俺とワルミちゃんがしたことは見当がついていたかもしれない。

 いや、そのあと目が合ったときの俺の動揺が凄かったので、間違いなくバレていただろう。

 それでも優羽さんは繰り返し「ナオ君は気にしなくていい」と言ってきた。


 その気持ちは勿論ありがたい。

 けれどどうしても気になってしまって、優羽さんとうまく話せない。


 もちろん悪いのはこちらだ。

 俺がキスをしたのはワルミちゃんなのに、身体が同じだからという理由で優羽さんを意識してしまった。

 優羽さんを見た途端に、ワルミちゃんとだけではなく優羽さんともキスをしていたような錯覚に陥ってしまったのだ。


 ……俺はどうしようもない奴だ。

 優羽さんにもワルミちゃんにも申し訳ない……。


 優羽さんの顔を見ないようにして、テレビを眺めていた。



「ただいまー! はー、重たい」


 玄関の方から、声が響いてきた。

 ユキさんだ。


「あれ、もう帰ってきたのかな」


 優羽さんはそう言いながらベッドから立ち上がった。

 出迎えに行くらしい。

 俺は彼女から遅れて部屋を出て、階段を降りる。

 一段一段ゆっくりと踏みしめた。


 階段の途中で、玄関にいる2人の姿が目に入った。

 なんだか眩しく感じるのは玄関の明かりのせいだろう。

 いつのまにか外が暗くなっていたようだ。


「お帰り。早かったね?」


「お客さんもいなくなったから、予定より早くお店を閉めたの」


 優羽さんとユキさんが話していた。

 足元にパンパンに膨らんだ買い物袋が置かれている。


「ユキさん、お帰りなさい」


 できるだけ明るい声を出した。

 ユキさんの前で暗い感情を見せたくない。

 無理やりにでも笑顔を作る。


 ユキさんも俺に気付いたようだ。

 こちらを見た。


「あ、ナオくん! ただいまー。今、おいしいごはん作ってあげるから、ちょっと待っててね」


 ユキさんが浮かべているキラキラした笑顔。

 そして温かい言葉。

 …………。


「はい! 正座して待ってます!!」


 一気にテンションが上がった俺は、元気に返事をしていた。



 晩御飯はユキさんが作ってくれた。


 ふわとろオムレツだ。

 喫茶店でも出している、彼女の得意メニューである。


「どう? 美味しい?」


 ダイニングテーブルを挟んで俺の目の前に座ったユキさんが聞いてくる。


「最っ高の味です! 今の俺より幸せな奴はいないと思います! 本当にこんなに幸せで良いのかって感じです!」


 つい先ほどまでの暗い気持ちは完全に消え失せ、今の俺は晴れやかな気分だ。

 この切り替えの早さに関しては、自分でもちょっとどうかとは思っている。

 けれど俺にはどうしようもないのだ。


 だってユキさんが俺に笑顔を向けてくれた。

 しかも手料理まで作ってくれたのだ。


 ユキさんの料理には彼女の真心と愛情がたっぷり詰まっている。

 子どもの頃本人がそう言うのを聞いたので、間違いない。

 この料理を一口食べるごとに俺の心の暗い部分が浄化されるのを感じる。

 晴れやかな気持ちにもなるというものだ。


 ちなみに今は優羽さん一家が揃っていた。

 父親の健治さんも先ほど会社から帰ってきて一緒に食卓を囲んでいる。

 なんの会社かは知らないが融通が利くようで、お昼時はふがふがの手伝いをしているそうだ。


 見た目は穏やかだが、なかなかにエネルギッシュな人だと思う。

 年齢は40半ばくらいだろうか、ユキさんよりはかなり年上に見えた。

 それでもユキさんの結婚相手なだけあって、さっぱりとした短髪にビシッとしたジャケットを着ていて、年相応のカッコよさというか渋さのようなものを感じる。


 俺が座っているのはキッチンに近い席で、健治さんは俺の斜め向かいに座っていた。

 普段は俺の真正面が健治さんの定位置だそうだ。

 けれど、今日に関しては違う。


 ユキさんが「お父さんのしかめっ面を見ながら食べるのは嫌でしょ?」と言いながら、俺の目の前に座ってくれたのだ。


 俺は嬉しさのあまり「はい! そうですね!」と元気に返事をしてしまったので、健治さんが「ひどいなあ」と笑っていた。


 申し訳ないとは思うが、仕方ないとも思う。

 「お父さんを見ながら食べるのは嫌でしょ?」と言いながら場所を代わった。

 これはつまり「私を見ながら食べるのは良いよね?」ということでもある。


 この『当然私のこと好きだよね』という感じがたまらない。

 ナチュラルに小悪魔なユキさんに、俺はもうメロメロだ。


 そんな小悪魔ユキさんは、天使のような笑顔を浮かべて俺の隣に座る優羽さんを見ていた。


「ねえ優羽、コーヒーはちゃんと淹れてあげられた?」


「うん。大丈夫だったよ。まあ、豆から挽くわけじゃないしね」


「そっかあ、良かったわね。聞いてよナオ君、優羽ったらナオ君においしいコーヒーを淹れてあげたいって言って、自分じゃ飲めないのに練習してたのよ。私に『これはどうしたらいいのー!』って何回も聞きに来て。健気だと思わない?」


「え!? コーヒー飲めなかったの!?」


 言われてみれば、優羽さんはずいぶんと小さなカップで飲んでいた。

 おしゃれとしてではなく、苦手だったからなのか。


「も、もう、そんなこと言わなくていいのに」


 照れている優羽さんを見ながら、俺は喫茶ふがふがでのことを思い出していた。

 帰り際のユキさんのウインク。

 あれは俺にしたのではなく、優羽さんに向けていたのかもしれない。

 コーヒーをがんばって淹れるんだよという、ユキさんらしい応援の仕方だ。


「ふふふ、言っといたほうが良いのよ。好感度は勝手に上がるものじゃないの。ちゃんとアピールしなきゃ。ナオ君もそう思うでしょ?」


「はい、仰る通りです! 俺のために練習してくれた優羽さんの好感度がガッツリと上がりました!」


「あははっ、良かったわね、優羽」


「う、うん」


 優羽さんは頷くと、照れた表情のまま俺を見てきた。

 俺も彼女に笑顔を向ける。

 2度と優羽さんの顔をまともに見れないんじゃないかと思っていたが、問題は無さそうだ。

 もしかするとユキさんは俺たちのぎこちなさに気付いて、今の話をしてくれたのかもしれない。

 内心ユキさんの好感度もガッツリと上がるのを感じながら、食事を続けた。


 ◇◇◇◇◇


 和やかな雰囲気のまま食事を終えた俺は、とりあえず自分の部屋に戻ってきた。

 しかし、この部屋はやはり不気味すぎる。

 一応引越しのダンボールは部屋に持ってきて洋服だけ取り出し隅に重ねたが、生活感が増すにつれ、壁に貼られた写真の違和感も無視できなくなってきた。


 優羽さんの部屋に行こうかとぼんやり考える。

 そんなとき、ノックの音が聞こえた。


 優羽さんだろうか。

 それともユキさん?


「……ナオ、いる? さ、さっきのことで謝りたいんだけど……」


 来たのはワルミちゃんのようだ。

 彼女らしくない、しおらしい声になっている。


 とりあえず扉を開け、中に入ってもらった。


「なんで逃げちゃったの? 優羽さんも困ってたよ」


 扉を閉めてすぐ、単刀直入に聞く。

 ワルミちゃんは目を伏せ、おどおどとした態度だ。


「ごめん。ナオと顔を合わせるのが、恥ずかしくってさ……」


「あれ、俺のファーストキスだったんだ」


 ワルミちゃんはビクンと身体を強張らせた。

 怒られると思ったのだろうか。

 少しくらい意地悪しようかと思ったが、なんだか可哀想になった。

 素直に気持を伝えておこう。


「ちょっと強引だとは思うけど、嬉しかったよ。ただ、次からはちゃんとキスするっていってからにしてほしいな。腰が抜ける経験なんて何度もしたくないし……」


「うん、ごめん。ホントごめん。いつもみたいに抱きついて終わりにするつもりだったんだ。でもなんか久々にナオの顔見てると、我慢できなかった」


 ……。

 我慢できなかったのなら仕方がないと、俺は心の中で頷く。


 というかこの感じだと、またワルミちゃんとキスする機会がありそうだ。

 内心、小躍りしたいくらい嬉しい。


「……ちなみに私もファーストキスだから」


 ワルミちゃんの、小さな声での主張が可愛らしい。

 思わず微笑んでしまう。


「あと……優羽もそう」


 微笑む俺を上目遣いで見ながら、呟くように言ってきたワルミちゃん。

 彼女からそこに触れて来るとは思わなかった。

 もしかするとこの話をしにきたのだろうか。


「優羽さんも?」


「うん。ナオは結構気にしてたみたいだけど、優羽のほうは別になんとも思ってないっていうか、むしろ喜んでたっていうか。だから、ナオも気にする必要はないからな」


 やっぱり、そのフォローを入れに来たわけか。


「うん、わざわざありがとう」


 とりあえずお礼を言った。

 正直、完全に納得できたわけではないが、ワルミちゃんも優羽さんも気にしなくていいと言うのだ。

 キスに関して俺がウジウジ悩むのは筋違いだろう。


 ただ……。

 この状況ではワルミちゃんに告白がしづらい。

 正直ワルミちゃんと優羽さんの身体が同じだなんて思ってもいなかった。


 ワルミちゃんと両想いなのは確実だし焦る必要はないのだろうが、将来的なことを考えるとかなり障害が多い気がする。


 なにかいい案がないか考えたいところだが……。

 これ、解決策なんてあるか……?

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