五、ロビンからの手紙

1922年1月27日


親愛なるサミュエルへ


 クリスマスカードをありがとう。リトル・スワロウが、君から手紙が来るかもと報せてくれていたけれど、まさか本当に来るとは思っていなかった。いや、期待した末の絶望を恐れて、考えないようにしていた。封筒の裏書きに君の名を認めたときの、幸福な胸苦しさはとても書き表せない。本当にありがとう。


 君は今、お父上の会社で取締役に就いているそうだね。戦争中、対欧輸出が困難な時期にも東アジアに販路を開拓したり、製茶場には機械を導入して、労働改革を行ったり。君は、オークヴィル生だったころから、インディアの貧困を課題に据えていたね。初志貫徹、実に素晴らしい次期社長振りだ。

 インディア独立運動は、戦後の大弾圧を受けて、さらに加熱していると聞く。非暴力を打ち立てながらも、英国資本の農園や企業が襲撃されたとのニュースは途絶えない。君のところは無事だろうか。君の試みは、新たな英印関係として、つまりは、独立した国家および経済主体の互恵的関係として、規範となるはずだ。どうか、君の志がインディアの民の知るところとなり、共に発展していきますように。

 僕は君を本当に尊敬しているよ。


 君の今を知れたので、僕のことも書こう。

 未だ彫られない象牙の一本牙のような精神と評された僕も、今や割れて、屑の一片となった。決して愉快な話にはならないけれど、どうか最後まで聞いてほしい。


 僕は善い人間であろうと生きてきた。幼少期は、純粋な道徳心に基づいて──本質的には、周囲からの愛情獲得の方策として。君と別れてからは、高貴な生まれへの償いとして。

 開戦が報じられたあの夏の日、僕はケンブリッジ同窓生の幾人かとブライトン海岸に逗留していた。浜辺にて号外を手にした僕らは、海峡の向こう側を静かに眺めてから、誰ともなく荷物をまとめ、駅に向かった。先発はロンドン・ブリッジ駅行き、次発はヴィクトリア駅行き。ロンドン橋は落ちるからかなわぬ、勝利の女神ウィクトーリアへと降り立とう。そう言って、汽車を一本見送り、終点までの五十マイル、僕らは口数少なくも高揚していた。ついに活躍のときが来た。国家に忠誠を、戦士に栄光を!

 だけど、戦場は実際、どこまでも続く塹壕と有刺鉄線。右の部下は食中しょくあたりからの嘔吐で、左の部下は塹壕足からの壊疽えそで病院行きだ。なんとか二年を生き抜いて、連隊バタリオンを率いるまでになったけれど、結局、砲弾の破片に下顎を吹き飛ばされ、跳ね上がった砂利に左頬の皮膚と眼球を奪われて、僕の戦争は終わった。

 常によだれを垂れ流す隻眼せきがんの息子を見て、母は泣き崩れたきり、僕が別荘へ出立するときも見送りには出て来なかった。

 痛み止めにモルヒネが手放せなくなり、過剰投与による痙攣けいれん発作でベッドから落ちて、右脚までも不自由にした。言葉はしゃべれず、うめき声を挙げるだけ。手足はけて棒の如く、豊かだった金髪も薄汚い白髪と禿げが交じる。醜悪な姿に耐えられず、屋敷中の鏡を納戸に押し込み、ガラス戸には布を掛けさせて、一切の者と面会を拒絶した。

 勝手なもので、自ら交わりを絶ったくせに、婚約が破談となったときには、それは酷く荒れたよ。爵位も継げず、醜くなった僕は、愛する者たちから当然に棄てられるのだとね。写真と手紙、婚約指輪までも暖炉に投げ入れた。酒に溺れて、自死を画策した。そうして、モルヒネを続けざまに注射して、だけれど死にきれずに、絨毯の上で吐瀉物にまみれて目覚めたとき、ただ声を挙げて泣くしかできなかった。

 こんなはずではなかった。僕は自身の人生の決定者であったというのに、神は、僕を傷害ある無能力者となし、死さえも許さない。絶望のなかで、終戦を迎えた。

 ──こう書くと、君の同情を引こうとしているように見えるね。たしかに、絶望を見せつけることで、人生の奥行きを得たと君に思われたい、と企むところがないと言えば嘘になる。だけど、二十七歳のころの絶望を書かずしては、心境の変化を正しく伝えられないと思ったんだ。


 世話係のメイドは、二、三人充てられていたが、皆すぐに辞めていった。ある者は、僕を見た途端に泣き出して、ある者は、薄暗くうみ臭い僕の部屋に耐えきれず。なんてね、ほとんどは僕がクビにしたり、物を投げるか杖で叩くかするからだよ。

 このころは、中毒からの耳鳴りと聴覚過敏が酷くて、少しでも音を立てられるたびに激昂していた。配膳のさいに、カトラリーが皿に触れたとかね。一番はおしゃべりと笑い声かな。当時は、扉の外での話し声が全て僕を嘲笑あざわらっているように聞こえた。

 実際に、彼らは僕を侮っていたんだ。知能は言葉にならないかぎり、無いものとされる。だから、僕は余計に、彼らの働きに少しでも過失があれば、杖で叱責を表した。折檻もした。恐れさせることでしか、己を主人と位置付けられなかった。次第にメイドの補充も途絶えがちになって、ついには、余計なおしゃべりをしないからと聾者ろうしゃの娘が送られてきた。

 このマーガレットは、聾学校を出たばかりの十七歳で、僕の視線の向き、指先の動きから、要求を読み解くことに非常に長けていた。筆談なしにも意思を伝えられる。それだけで、日々の欲求不満が減り、激昂することもなくなった。

 それは、新たな絶望でもあった。マーガレットは、ある種、僕の肉体の拡張だった。本を運んだり、カーテンを開けたり、働くたびに僕を覗き込んで、満足かと尋ねるように微笑まれる。僕はうなずくだけで、意地でも礼を表さなかった。近眼者は眼鏡に礼など言わない、とは傲慢な言い訳。聾の娘が不具に使役されていることも、また、こんな小娘に助けられなければ心理的な平穏を保てない自身も、哀れで惨めで、許せなかったのだ。

 この娘は、唖者あしゃではなかった。精神遅滞でもなく、むしろ、賢い方だと言ってよい。か細く拙い発話を手話で補いながら、絶え間なく僕に語りかけた。僕に手話を教え込み、使わせようともした。僕は、不具としての道具をこれ以上は持ちたくなかったが、レッスンは断りもなく毎日続いた。夜九時を過ぎてもベッドの脇に居座るので、うんざりしながら「終わり」だと手で示せば、彼女は拍手して喜び、「終わり、上手! さよなら、また明日」と残して、スキップに部屋を出て行った。

 四年ぶりの「会話」は、湯のように柔らかく胸に染みた。彼女の手話、その四単語を手の内に繰り返しながら、人は人との交わりの中でしか生きられないと思い知ったよ。

 春になり、マーガレットは僕を庭に連れ出した。ベンチに腰掛けて、「風」とか「気持ち良い」とか、簡単な手話で話し合っていると、側の柳にコマドリのつがいが留まり、高くさえずった。

 脳の奥まで突き刺さるような痛みに両耳を塞ぐと、間髪入れず、マーガレットが立ち上がり、勢い任せに柳の幹を蹴った。驚きに飛び立ったコマドリたちが、隣の柳の高い枝に留まれば、小石を投げて追いやる。彼らの警戒の鳴き声が、煉瓦レンガ塀の向こうに去るまで、小石を投げては走った。

 僕の前まで駆け戻ったマーガレットは、頬を上気させ、息を弾ませたまま、

「全部、消した。これで、いいか?」

と、僕を覗き込んで得意げに微笑んだ。

 まっすぐな目は、お行儀だとか、動物愛護だとか、そんなものを全て忘れさせた。僕が呆気に取られていると、彼女は眉根を痛切にも寄せて、

「聴こえる、ことは、大変な、ことだ」

と、心からの哀れみを示した。僕は声を挙げて笑い、それから、泣いた。どこにでも苦しみはあり、苦しみのなかにも安らぎはある。僕はまだ、この先の人生を生きていけると思った。

 彼女は僕を恐れず、あなどりもせず、ただ一個の人間として僕へと語りかけ、心に寄り添う。この娘の愛を前にしては、なんの取り繕いもいらなかった。ただ一個の隣人として、彼女を祝福したい、善なる心をもって愛したいと願ったのだ。

 この日、僕はようやくキリストのもと、個人として歩み出すことができた。


 もう一度、聖書を学びなおした。幾冊かの本を読んだ。キルケゴール『愛について』では、僕が名指しで叱責されている気がした。


貴族として生まれた青年が、隣人愛を説く。貴族の特権的地位を非難するでも、民衆の中へと入っていくでもなく、階級的な隔たりを保ったままに、隣人なるものを語る。そうして、実際に目の前を通って行った人が隣人であったことを見逃してしまう。

では、彼の説く隣人愛とは、いったい何か。それは──

「彼はただ隣人を愛そうというキリスト的な感動を表わしてみたかっただけなのだ」


 僕は、貴族的な頽廃たいはいそのものだった。孤児院へ赴くとき、僕は彼らに隣人を見出してはいなかった。ただ高貴なる者の責務として、施しを与えていた。軍への志願もそうだ。これらは、全く善行とは言えない。

 賢明なる君は、この頽廃たいはいの危うさを忠告してくれていたというのに。僕は理解できないまま大人になり、戦場に命を奪られかけた。それでも理解できず、憐れまれるべき者と成り果てた運命を、神を、怨んだ。マーガレットに出会えなければ、再び自死を試みて、いずれ完遂しただろう。

 もし、十八歳の僕が君の忠告を理解していたら。僕はまだ、ウォルミンスター卿として家族に囲まれる幸いの日々を、将来に有していたかもしれない。

 後悔がない、とは言えない。しかし、世俗での地位と名誉に固執して生きるよりは、運命を受け入れて、神の愛を抱いて生きる方が、よほど豊かで幸せだと思う。

 と、思いながら、僕はなお、自身の負傷を名誉なものと信じていたかった。

 オークヴィル校の在校生および卒業生たちからは、六百余名の志願者があったという。我が国全体における戦死率が、10%とされるのに対して、我が校における割合は、22%。僕たちが高貴なる義務を遂行したとは、数字の上でも明らかだと思われた。

 ところが、ある日思い立って、かつてドゥラモンド家の孤児院にて収容していた男児たちのその後を調べてもらった。消息を得られたのは68人。64人は戦場に出ていた(というのも、兵士名簿以外からの追跡は困難であったからだ)。


徴兵  26人

(生還:17人、負傷:6人、戦死:3人)

 戦死率:11.5%


志願兵 38人

(生還:22人、負傷:11人、戦死:16人)

 戦死率:42%(!)


 志願率の高さにも驚いたが、その戦死率が42%とは、にわかには信じられなかった。入隊時期の多くは初年度の秋から翌年初めにかけてだったから、一兵卒として戦場にいた期間が長い分の割合なのだろう。

 哀れなことだ。彼らにも、当然に燃えるような愛国心はあっただろう。そこに疑いはない。しかし、どうだね。真冬近付く街にあって、官給のコートや給食、戦後の恩給は、彼らの入隊を後押ししたはずだ。貧窮の日々は、華々しい戦場を夢見させたはずだ。

 経済的徴兵ではないのか。ノブレス・オブリージュとは、本当に成立するものか。考えるほどに、疑いを深めざるをえない。


 リトル・スワロウは、この戦後社会を英国貴族の緩やかな死と表現していた。

 僕たちの世代は、この美しき国を守り、統べる者たれと育てられた、(そして、実際に従軍した)最後の世代になるのだろう。少年時代を、オークヴィル校の箱庭でロビンとして過ごせたことは、実に幸いなことであった。

 しかし、その幸いは無知と鈍感とに基づく仮初かりそめだ。君が討論会で訴えたように、構造的搾取に基づく繁栄だ。ならば、僕たちは貴族としての死を受け入れ、民衆のひとりとならねばなるまい。


 僕はまだ、屋敷の外に出る勇気を持てずにいる。だけれど、いつか必ず、君のように民衆の中へと入っていくよ。それは、貴族の世界から下賤の世界へと降りていくことではない。ただ、僕というひとりの人間が、この療養の別荘から出て行くだけのことだ。

 だから、サミュエルよ。どうかもう一度、君を隣人として愛する機会を与えてほしい。今度こそ、君と本当の友人になりたい。

 もし君が、寛大にも僕の申し出を許してくれるのならば、そのときはどうか、アーサーと呼んでおくれ。ロビンはもう、マーガレットが追い払ってしまったからね。


 改めて、クリスマスカードをありがとう。君に最上級の感謝と尊敬を表するよ。


神が我らと共にありますように


 アーサーより

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