第8話

「あっ、えっとその――ご、ごめんなさい! 今はその、そういうのは……」


「そうか……」


 なんとか冷静さを取り戻し、呼吸を整え、言葉を返した。

 そう。今の私はハルベルト侯爵様の妻。

 このような不貞を働くわけにはいかない。


 意外にもエヴァン殿下はあっさりと引き下がり、私からそっと手を離した。

 しかしさっきまでの覇気が薄れ、しょんぼりしているような様子を見せる。

 あれ? もしかして本気で落ち込んでいる?


 ……いや! 今はそれどころじゃない。

 そんな事……っていうのは失礼だけど、正直そんな事よりももっと優先しなきゃいけないことがある。


「申し訳ございません。エヴァン殿下。私、すぐグラムさんたちのところに戻らなきゃいけないんです。みんな重傷で、このままじゃ命が危ないんです!」


「なにっ……いや、よく考えれば当然だな。皆あのドラゴンにやられたんだ。無事なはずがない」


「そうなんです。でも絶対に自分よりも殿下を優先してくれと懇願されて、今は私はここにいます。必ず戻ると約束したので、申し訳ございませんが殿下も――」


「ああ、分かっている。オレとしたことが死の淵から蘇ったことで少々浮かれてしまったようだ。すぐに向かおう」


「その、殿下。傷は――」


「問題ない」


 ゆっくりと起き上がり、すぐ傍に転がっていた剣の柄を握るエヴァン殿下。

 正直大丈夫じゃないのは治療していた私が一番よく分かっている。

 この短時間でかつ補助道具もない個人治療では失った体力も含めて全てを元通りにするのは難しい。

 回復魔法はあくまで人体が持つ自己修復機能をサポートする魔法なので、傷が深ければ深いほど本人への負担は高まるんだ。

今のエヴァン殿下はその強靭な気力で体を無理矢理動かしているに過ぎない。


 本来ならば最低でも2週間は絶対安静と言いたいくらいだが、そんなことを言っている場合ではないので悪いけどここは無理にでも走ってもらうことにした。

 置いていくことも考えたが、ここは別に安全地帯でも何でもないので流石に放り出すのは憚られる。

 とてもじゃないけど殿下を抱えて走るなんて芸当私にはできそうにもないし……


「そうだ。せめて貴女の名前を教えていただくことは出来るだろうか」


「あっ、そうでした! 私ったら名乗りもせずに……私はルイナです。ルイナ・ハ――いや、ただのルイナです。流れの回復術師です」


「ルイナか。ありがとう。決して忘れぬよう、胸に刻み込んでおく」


 そんな大袈裟なと思ったけど、真剣そうだったので突っ込むのはやめた。

 そして敢えて姓は名乗らないでおいた。

 ハーキュリーもハルベルトも。どちらも王国の有力な貴族だ。

 ここで“貴族”の私が殿下を助けたことが広まったら面倒なことが起きるかもしれないから、ここは“流れの回復術師”を名乗ったほうが波風立たずに済むだろう。


 そんな訳で私とエヴァン殿下は急いできた道を引き返しているのだが、


「グラム、ロア、ファム、クリス。すまない。どうか無事でいてくれ」


(足はっやぁ……)


 5分前まで半分死んでいたとは思えないくらいエヴァン殿下の足は速かった。

 いくら私が運動不足でしかもヘトヘトとは言え、少しでも気を抜いたら視界から消えてしまいそうなくらいの速度で殿下は走っている。

 私を置いて先に行っても治療なんてできないでしょ!?

 って言いたいところだけど、彼らが心配なのは殿下も同じなのだから、ここは私も必死に走るしかない。

 これ終わったら向こう三日間は出歩けなさそう……


 そんなことを考えながらもなんとかグラムさんたちが倒れていた場所へと辿り着く。

 心臓バクバクだし息切れして気を抜いたら私が倒れてしまいそう……


「どこだ! どこにいるグラム! みんな!」


「えっ……?」


 だけどそこには誰もいなかった。

 複数の血痕が生々しく散っているから、ここに彼らがいたのは間違いないはず。

 それなのにその姿はどこにも見当たらない。

 そんな……動ける状態じゃなかったはずなのに。


 もしかしたら近くにいるのかもしれないと思い、周囲を探索する。

 しかし、影一つすら見当たらなかった。

 どうしようかなと考えていたその時、


「――っ! 誰だ!」


 エヴァン殿下が急に大声を出した。

 私はびっくりして慌てて振り向くと、エヴァン殿下が剣を抜いていた。

 その剣先には――一人の女性が片膝をついていた。


「あなたは――リーザ!? なんでこんなところに!」


 全身黒づくめの闇に紛れ込む装備と口元を隠すマスク。

 そして薄暗い森の中に溶け込むような艶のある紫色の髪。

 昔から私個人の護衛に付いてくれている数少ない従者の一人、リーザだった。


「申し訳ございませんルイナ様。いつものように陰に潜みルイナ様の後を付いておりましたが、彼らの容体が危険だったため許可をいただく前に私個人の判断で彼らを移動させました」


 ああ、そうだった。

リーザは代々我がハーキュリー家と強い繋がりを持つ“シノビ”の一族の生まれで、他の貴族に付く護衛とは違って護衛対象わたしにすら位置を悟られないよな場所から常に見守ってくれている優秀な私の影だ。


 もちろん何度か直接顔を合わせたことはあるし、最初に常に陰から護衛をさせていただきますと伝えられてはいた。

 しかしほとんどほとんど接触する機会はなく、もうそれが当たり前だと思っていたのもあって私の頭からすっかり抜け落ちてしまっていた。

 護衛中は基本的に絶対に私の前に姿は現さないし、何か私の障害になりそうなものがあったら私が気付く前に対処するか処理してくれているしね……

 

 私がいつも一人で出歩いても特に咎められなかったのはこれが理由だ。

 もちろん旦那様やメアさんたちもその存在は知っているはず。


「そっか。ありがとうリーザ。ごめんね、最初から呼んでれば良かったんだけど、緊急事態で頭が回ってなくて……」


「いえ、私も姿を晒す機会を見失い、勝手な行動を取ってしまったことをどうかお許しください」


 遠回しに存在を忘れていたと言っても彼女は怒るどころか謝る一方だ。


「ルイナ嬢。彼女は貴女の部下なのか?」


「えっと、はい。私の護衛に付いてくれている人です。どうやらグラムさんたちは彼女が保護してくれたみたいで……」


「挨拶が遅れてしまい申し訳ございません。お初にお目にかかります。エヴァン第三王子殿下。この姿を晒せぬ無礼な我が身をどうかお許しください」


「そういう事なら良い。それで、グラムたちはどこにいるんだ?」


「私一人では全員を運び出すのが難しかったため、教会の者に手伝っていただきました。今頃治療院へ移された頃かと……」


 それはきっと半分嘘だ。

 徹底的な訓練で鍛え抜かれた彼女リーザは、大の男数人をまとめて運ぶくらい造作もないはず。

 だけどそれでは本来ルイナの影であるはずの自分が表舞台に姿を晒さなくてはならないということで、敢えて教会の人たちに協力させることでせめて自分の露出を最低限に抑えよう、と言ったところだろう。


「ありがとうリーザ。それじゃあ案内してもらえる?」


「はい。お任せください」


 そう言って彼女は立ち上がり、私たち二人を誘導するように歩き出した。

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