第1話 負けヒロインと化した幼馴染

 『茜、私を幸せにしてくれてありがとう』


 純白の煌びやかな衣装を身に纏った彼女は、屈託のない笑顔を浮かべ微笑んだ。

 君の存在は、俺の誇りでかけがえのないもの。臭いようだが、君に出逢えたことは運命だったのだ。


 だから誓う。生涯君を幸せにすると。


 『涙腺、弱くなったね』


 込み上げた感情は涙腺を緩ませ、涙が零れ落ちる。

 そう呟く彼女は俺の頬に手を添えながら、彼女自身も涙を溢れさせた。


 『これからもずっと──』


 ──


 ────


 春風駘蕩、桜が舞う季節に終焉を告げるが如く、暗澹とした雨雲。雨は窓に打ち付けられるほど降り注ぐ。

 夕方になる時間帯にまで爆睡してしまった俺は、休日を無駄にしてしまった後悔に駆られる。

 夕食の支度でもするかと体を起こし、携帯を手に取ると、驚愕の通知に焦燥感を駆り出される。


 ──着信履歴114件。


 「やべぇ死んだわ、これ」


 着信履歴の名前は[お嬢]こと 和泉仙子いずみひさこお嬢様。世話になっている和泉組の組長、 和泉結弦いずみゆずるさんの娘だ。

 俺と彼女は同年代の間柄だが、俺は和泉家への尊敬の念と親しみを込めて彼女をお嬢と呼ぶ。


 お嬢は我儘気質な部分があり、少々独裁的で暴力を肯定する権威主義的思考を持つ。

 そんなお嬢の従順な下僕である鬼灯茜ほおずきあかねは、彼女からの要請には絶対服従であり、命令に反くことなど許されるはずがない。

 一般人からすれば電話に出れない状況など然程問題はないはずだが、お嬢は電話に出ない、それすなわち死を意味する。


 『私の電話ならワンコールで出なさい』と理不尽な要求をするお嬢は、現在劣化の如く地獄の劫火で焼き尽くすほど憤怒しているだろう。

 非常に死の危険に近い状況なのだが、比較的冷静な自分がいることに、何故か笑いそうになってしまう。

 とりあえず、自宅に突撃してくることは間違いないだろうし、一先ず熱りが冷めるまで居留守を……。


 すると、再度携帯に着信の通知が。

 相手はお嬢ではなく、結弦さんである。

 大方、娘の我儘に付き合ってあげてくれという、娘を愛でる父親のご依頼だろう。


 「はい、茜です。どうしましたか、結弦さん」


 『すまんな茜。……仙子が傘も持たずに急に飛び出してな、お前の家に来てないか?』


 この暴風雨を顧みず、俺を折檻しようとする猛烈な殺意に声が震える。

 刻一刻と迫る俺の人生の灯火。俺は夜逃げを決意する。


 「来ていませんが、何かありましたか?」


 『止める時には既に家を出ていてな……只事じゃない深刻そうな面してた。すまんが、どうして仙子がああなったのかは分からん、申し訳ないが面倒見てやってくれないか』


 結弦さんに迷惑をかけると一言詫びを入れられ、通話を終了させられる。

 後堪忍して下さいと言う暇もなく、俺は大変な事を押し付けられてしまった。


 一先ず俺は遺書を書こうと筆と紙を出し、辞世の句はどうしようかと悩み出す。

 ──いや、んなことをしている暇ではない。早急に夜逃げの支度を。


 ──ピンポーン。

 死を知らせる音が鳴り響いた。


 わりい、俺死んだわ。


 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。


 悪足掻きで居留守を続行。

 俺は息を殺し、身を潜める。


 ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン、ピピピピンポーン、ピンポーンピンポーンピピピピピピピピピピピピピンポーンピンポーンピピピンポーンピピンポーン。


 後生だからホント勘弁してください。

 いないです。鬼灯茜はこの家にはいません。

 鳴り響く雨音と雷鳴が掻き消され、恐怖のドアホンと扉をこじ開けようとする音が鳴り響く。

 何分殺人鬼から身を隠していただろうか。やがて留守だと諦めたのか、無音になる。

 うっかり扉を施錠していなかったら俺の命運は尽きていた。これで死の危険から回避──。


 ガチャッ。


 ──そういや、お嬢に合鍵渡してたっけか。


 お嬢が近頃は不用心だからと俺の精一杯の抵抗も虚しく、合鍵を作っていたんだっけか。この家の家主も合鍵作成には賛成していたし。

 やれやれ、それが仇となったか。殺人鬼本人に合鍵持たせてどうすんだよ。


 いや、冷静に合鍵作成経緯を振り返っている場合ではない。この家からの脱出を──、


 死神から逃れることは出来なかった。

 とうとう俺の部屋にまで到達した彼女は、ドアノブを静かに傾けさせた。

 俺にも都合があったんです──俺は悪くねぇ──儂が悪いのではない、携帯が悪いのだ──と、無理のある言い訳と謎の弁明が思い浮かぶ。


 静かに開いた扉の先には全身ずぶ濡れのお嬢が立っている。冷め切った底底の人間を蔑むかのような視線、感情を削ぎ落とした能面のような表情。

 怒りを感じさせない面構えに、泡が吹き出そうになる。呼吸が乱れ心臓の鼓動が激しく波打つ。

 轟く雷鳴は彼女の怒りを体現させたかのようで、目の前に光が射し込まれる。


 「お嬢の怒りはよく理解しました……。どうでしょう、ここらで勘弁してくれませんか。俺を殺したところで結弦さんが悲しむだけってことです。何の利益も得も生み出さない……」


 俺は己の矜持を投げ捨て、土下座で命乞いを行った。

 水滴が垂れる音と共に一歩ずつ近付く足音。お嬢からは返事がなく沈黙が続く。


 「…………」


 「ま、ま、待ってください、お嬢! 指なら何本でも詰めますから! 金でも何でも捧げます! だからここは……!」


 兎に角、生命線を伸ばすため必死に釈明を行なっていると、ようやく彼女から言葉が発せられる。


 「茜……?」


 「は、はい! 貴女の忠実な従順な下僕たる、鬼灯茜です!」


 「…………」


 俺の一言を境にお嬢は口を噤む。

 頭を地に伏せ土下座を継続する俺だが、懲罰がないことに違和感を覚える。

 おかしい……普段のお嬢なら癇癪を起こしながら、平手打ちや足蹴りなどの暴力行為を振るうはずだが。

 静かに顔を上げると、そこには驚愕の姿があった。


 「茜……本当に、茜だぁ……! あ、ああぁ……!」


 涙腺を崩壊させ崩れ落ちかけるお嬢、すかさず俺は体を起こし彼女を受け止める。

 が、土下座を維持していたせいか体が痺れており、そのまま二人揃って床に倒れ込む。


 「ごめんなさい……! もうお願いだから、お願いだから……私の前からいなくならないで……!」


 「……いなくなりませんよ、俺は」


 俺の胸元に顔を押し付け、懺悔を繰り返すお嬢。普段と逆の立ち位置に新鮮味を感じながら、俺は彼女の背中を摩りあやし続けた。


 何秒、何分、いや何時間か、お嬢と触れ合うこと。

 ずぶ濡れの彼女を風呂に誘導させようとするが、何故か俺から一向に離れないので、俺はとりあえずタオルを持ち出し彼女の髪を拭く。

 そんな彼女の様子は心地良さそうに蕩けた表情を浮かべ、「ありがとう」とあるはずのない感謝の言葉を告げた。


 ──偽物か?


 有り得ない、普段のお嬢であれば緩んだ面を拝ませるはずはないし、感謝を伝えるわけがない。

 本物ならば機嫌の悪い面で『早くしなさい、遅い』とさも当然といった様子で文句を言ってくるはず。

 この豪雨と雷雨の中、道中で雷にでも当たり、記憶喪失にでもなったのだろうか。それはそれで結弦さんに何と申し上げればよいのか分からなくなる。


 「私貴方のこと、茜のことを愛しているわ。だから、私と結婚を前提に付き合ってくれないかしら」


 「……すいませんお嬢、今何と仰いましたか。ちょっと思考がおかしくなってるようです」


 「和泉仙子は鬼灯茜が好きで好きで大好きで、夜な夜な貴方との恋愛劇を妄想する程に愛しているわ。だから、貴方と付き合いたい、恋人になりたいの」


 唐突にお嬢からの告白を受けた俺は、彼女の髪を拭く作業を止め、状況を整理する。

 邪智暴虐なお嬢から制裁を受けると思いきや、唐突に愛を告げられる──そして沈黙に至る。


 「……駄目?」


 そうだ、これは夢なんだ。

 俺は今、夢を見ているのか。

 目が覚めた時、俺は従順な奴隷。

 起きたらお嬢の命令に反いたことに制裁を受け、しっかり自分自身の反省を行わなければならないんだ──。


 「とりあえず指は何本詰めればいいですか」


 「ちょ、き、聞いてた……? 私は一世一代の愛の告白を……」


 「今後の俺への処遇の話じゃないんですか」


 「だ、だから──もう。何度も言うわ、私こと和泉仙子は、鬼灯茜が大好き! 結婚を前提にお付き合いをして、恋人になってください!」


 事実を受け止めろと現実逃避から無理矢理解放させられる。

 有り得ないことなんて有り得ないが、やはり断言する。


 彼女は、和泉仙子ではない偽物だ──。

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