笑えない

そうざ

I can't Laugh at it

 居間の灯りを点けると、置時計が午前一時を回ろうとする瞬間だった。一家の長を出迎える者は居ない。が、別に構わない。いつもの事であるし、態々わざわざ起きて来られるのもむしろ鬱陶しい。女房の寝惚け眼を見ても疲労が増すだけだ。

 ネクタイを緩めながら取り敢えずテレビのスイッチを入れた。途端に素っ頓狂な声が流れ出し、寒々とした居間の空気を支配した。見た事もないタレントが大仰な動作で駆けずり回り、観客が引っ切りなしに笑い声を上げている。その賑やかさは、俺の虚しさに拍車を掛けるようにしか作用しなかった。

 夕飯は外で済ませて来たものの、何となく小腹が空いていた。台所へ行き、冷蔵庫を開ける。これと言って口にしたいものはない。仕方なく缶ビールを一本取り出し、居間のソファーに身を投げた。

 今から風呂に入るのも面倒だ。とは言え、直ぐに横になる気分でもない。俺は灯りを消し、テレビ画面の光だけを頼りにビールを飲み、ぼんやりとちゅうを見ていた。

 相変わらずタレントは馬鹿げた振る舞いをし、観客に

 俺はチャンネルを変えた。しかし、同じようなタレントが同じように騒ぎ、同じように。最後にNHKを選んだものの、自分と同年輩らしき評論家がぼそぼそと自説を語る映像を見せ付けられ、余計にうんざりしてしまった。疲れて帰って来た挙げ句に脂ぎったオジンの顔を延々と見ていられるものか。まだタレントの馬鹿さ加減を見下している方が増しだ。

 俺はチャンネルを民放に戻し、思考回路を切断したまま画面を眺め続けた。

 演芸なるものに興味はないが、目前で繰り広げられている芸が低レベルな事くらいは解かる。そもそも芸と呼べる程の内容を伴っているとは到底思えない。どうして社会風刺とか政治批判とか、もっと高尚な内容の芸が出来ないのだろうか。どいつもこいつもギャーギャーとわめき立て、乱暴な言葉遣いと破廉恥な態度で単に客に笑われているだけではないか。人と称するからには、庶民があっと驚く、思わず恐れ入ってしまう芸を見せて欲しいものだ。

 次から次へと知らない若いタレントが登場し、訳の解からない事柄を只管ひたすらがなっている。そして、タレントの言動にあおられるかのように、かしましい音楽や効果音や色取り取りの字幕が目紛しく垂れ流される。

 この時点まで、俺はクスリとも笑えないでいる。

 笑えないのは先ず、何をやっているのかがよく解からないからだ。解からない以上、面白いと思える筈がない。面白いと思えないものは当然詰まらない。詰まらないからには笑えない。全く持って悪循環だ。

 そこで不図ふと、考えた――何故、観客は笑っているんだ。

 声の雰囲気からして、観客のほとんどは若い女性のようだ。きっと俺の娘と同じくらいの箸が転がっても可笑しい年頃などと形容される年代だろう。若者、特に若い女の子が笑いさえすれば、それでもう一流の芸人として認められるという昨今の風潮は如何いかがなものか。娘もそうだが、若い女達は一様にして人生経験に乏しい。日々、狭い仲間内で交わされる他愛のない話題に終始している。人生の機微とか、確かな技術に裏打ちされた至極の芸とかを堪能出来る程の眼力があるとは思えない。そんな年端の行かない観客ばかりを相手にしているタレント連中は、さぞかし楽だろう。訳の解からない言動に徹していれば、相手は反射的に笑ってくれるのだ。

 しかし、そんな現状はタレントにとって良くないに決まっている。無知蒙昧な客の前では、腕を磨き、更に精進しようという意識も芽生えず、その結果、素人芸に毛の生えた子供騙しの茶番に終始するのが関の山に違いない。


 粗悪な演者は、粗悪な観客の出現を促がす。その粗悪な観客が、更に粗悪な演者の登場を許してしまう。このような反復のまにまに育った若者達がやがて社会の中核を担うようになる頃には、この国全体の文化水準は最低最悪となり、引いては経済の破綻、政治の腐敗、教育の荒廃、安全神話の崩壊、その他、数え切れない諸悪が混在する破滅的な終焉をもたらすだろう事は、火を見るよりも明らかだ。

 俺は、激しく貧乏揺すりをしながら腕組みでテレビを睨んでいた。缶ビールはいつの間にかほぼ空だった。俺は最後の一滴をすすった。

 その時、背後で物音がした。びくっとして台所の方を振り返る。部屋着姿の娘が冷蔵庫の前でペットボトルをラッパ飲みしていた。同じ屋根の下で暮らしているのに、まともに娘の姿を見たのは久し振りだった。

 明日は祝日だが、だからと言ってこんな時間まで起きていて良い筈はない。何か言ってやろう――そう思ったが、娘は冷蔵庫を閉めると、まるで俺の姿が見えていないかのようにそそくさと階段の方へ行ってしまった。

 俺は堪らず声を掛けた。

「お帰りなさいの一言くらい言いなさい」

 娘は俺を一瞥いちべつした。今にも乱暴な言葉を吐き返しそうな面持ちだ。こんな顔立ちだったか――久し振りにまじまじと娘の顔を見た俺は、何故か二の句を次げなかった。見る見る喉が渇いて行く。既に空っぽの缶が恨めしい。

 ところが、娘は何故か表情を一変させ、無言のまま小走りに私の方へ近寄って来た。虚をかれた俺は、思わずソファーから立ち上がり、軽く退いた。冷め切っていた親子の想定外の和解、そんなシーンが脳裏をよぎった。

 ――が、娘は俺の事など眼中になく、テレビの真ん前にペタンとしゃがみ込み、そのまま画面に食い入ってしまった。どうやら、お気に入りのタレントが出演している事に気付いたらしい。

 俺は、突っ立ったままその様子を眺めていた。テレビ画面の明滅する光に、娘の笑い顔が照らされる。しばらく見ない内に思いの外、大人びたと思った。

「アッハハハハァ〜ッ、ウケるっ」

 しかし、素っ頓狂な独り言を吐きながら手を叩く様子で、直ぐに前言を撤回したくなった。俺の眼に映っているのは最早、娘という名の異生物だった。

「……どこが面白いんだ?」

 娘は何も答えない。タレントと観客との馬鹿騒ぎが静まり返った居間に響き渡る。

「もう遅いんだから寝なさ――」

 言い終わる前に、娘がテレビの音量を上げた。

 頭が一気に熱くなったが、疲労とアルコールとが入り混じり、瞼が重い。ちゃんと叱り飛ばす自信がない。俺は、体勢を取り直すべく浴室へ向かった。


「アハハ……ハハッ……」

 浴室の中にまで娘の笑い声が微かに聞こえて来る。だが、遠くに聞こえるからか、それ程には不快ではない。寧ろ、お湯の温かさや石鹸の香りと相俟って心地好い響きに感じられた。

 いつの間にか、俺は娘を羨ましく思っていた。

 余計な先入観を持たず、目の前で繰り広げられている光景に、ほとんど反射的に、素直に笑いというアクションを起こせる真っ当な瞬発力。あんな風に腹の底から大笑いが出来たら、どんなにすかっとするだろうか。

 それに引き換え、しかめっつらで小賢しい理屈を並べ立て、おのれに実害が及ばない外野から如何にも攻撃し易いタレントをさげすみ、そんな不毛な行為に勤しむ己自身に苛立ちを募らせる俺。ねたみやそねみ、ひがみを原動力にした繰り言の日々に、そもそも幸いなど見出せる訳がない。悪循環を選択しているのは、他でもない俺自身ではないか。

 俺は湯船から跳ね起き、そそくさと身体を拭きながら思った。冷蔵庫にもう一本ビールがあった筈だ。ビール片手に娘と一緒にテレビを観よう。一緒に腹の底から笑おう。今の俺に必要なのは、虚飾を脱ぎ去り、何も考えずに笑い転げる時間なのだ。

 俺は、空元気を振り絞って脱衣場のドアを開け放った。

「もう一杯、飲もうかな〜っ」

 居間には静寂が戻っていた。娘の姿はない。俺に娘なんて居ただろうか――そんな考えすらよぎった。

 俺は、冷蔵庫を開けるのも忘れ、黒いテレビ画面に薄っすら映り込んだ半裸の自分自身をぼんやりと見詰めた。そして、自然に笑いが込み上げた。娘のそれとは似て非なる、苦く冷たい、渇いた哄笑が深夜の空間に響き渡った。

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