彼女は俺を甘やかしたい

蒼い湖

第1話 変わらない毎日

 某大手企業で働く会社員である"一条悠いちじょうゆう"は残業に打ち込んでいた。

 この会社に入社して6年が過ぎ、今は内部監査を担当する係に席を置いている。

 内部監査とは、簡単に言えば会社の各部署が適切に仕事をしているか、不適切な業務を行っていないかを確認、是正する係である。

 言ったらお堅い部署で、身内の粗を探すような仕事ということもあり、社内ではあまり好かれてはいない。

 真面目にそしてストイックに働いてきた甲斐もあり、悠は入社5年でそんな係の主任として抜擢された。

 日々の生活は、華はないものの仕事は充実していた。


「悠…じゃなくて一条主任。俺は終わったけどそっちはどう?」


 悠の左側に配置された席から声をかけてきた男は"中野陸なかのりく"。

 明るくコミュ力が高く、フランクな感じだが根は真面目で仕事もしっかりこなす奴だ。

 彼は俺の1年後のタイミングでこの部署に配属された同期であり部下であり、1番の友人でもあった。

 陸はこの部署では1番の新入りの1人だ。

 役職も悠は主任で陸は係員。

 悠は同期の中でも1番早く、ストレートで昇進したため、陸よりも一つ上の役職であった。

 その為、2人は上司と部下という関係でもあるのだ。


「おう。俺も今終わったとこ。今日はこれくらいにするか。」


「今日もデスクワーク長くて疲れたね〜」


「係長、本日の業務はまとまりました。こちらが書類になります。」


 悠は自席の右側に座る上司である係長に今日の業務が終了したことを報告し、書類を手渡す。


「うん。さすが一条主任。よくまとまってるし良い報告書だね。2人ともお疲れ様。今日はもう遅いから上がろう。」


 係長はそう言い、帰り支度を始める。

 長時間のデスクワークで固まった身体を伸ばしながら卓上の時計を見ると時刻は20時を過ぎた辺りだ。


「ありがとうございます。次の監査の準備は適宜進めて行きます。陸、次の準備はお前がメインでやってみな。」


「え?俺が?マジか〜出来るかな…」


「そうだね。中野くんもそろそろ仕事も覚えて来た頃だろうし、次の準備はやってみようか。」


 仕事は見てよりやって覚える。

 係長も悠もそれは分かっているからこそ陸に下命する。


「分かりました。やってみます。一条主任、サポートしてね?」


「サポートしてやる。主にやるのはお前だぞ?」


「ははは。一条主任は厳しいね〜」


 3人はそう笑ながら片付けを始める。


「係長、後はやりますので先に上がって下さい。」


「え?いいのかい?それじゃあ悪いけど先に上がらせてもらうね。あまり遅くなると妻がうるさくてね。」


「もちろんです。私は特に待っている人はいないので。」


「自分は彼女いるので、係長側でお願いしまーす。」


「陸…お前はやってけ。何なら全部やるか?」


「全く、相変わらず仲がいいね。さすが同期だよ。2人も早めに上がってね。お疲れ様〜」


 係長は一足先に退社する。

 島の片付けや明日の仕事の簡単な準備は1番下の陸の仕事だ。

 しかし、部下とはいえ同期の仲間を置いて帰るほど悠は薄情ではない。


「よし。片付けも終わったことだし、そろそろ帰ろう。」


「あ〜ごめん悠。もう少しで明日の準備終わるからちょっとだけ待ってくれる?」


「しゃーないな。んじゃ、煙草吸って来るわ」


 悠は陸が準備を終わらせるまでの暇つぶしで喫煙所に向かう。

 喫煙所にはこんな時間だと言うのに磨りガラス越しに人影が見える。

 喫煙所の中に入ると1人の女性と目が合う。


「あっ、監査係の…えーと、一条さん。お疲れ様です。まだ残ってるんですか?」


「お疲れ様です。もうそろそろ帰りますよ。部下が終わるの待っているだけです。それよりもどうして私の名前を?」


「ついこの間、経理部にも監査来たじゃないですか。一条さんは有名なんですから覚えてて当然です。」


 経理部の職員で名前はネームプレートを見たところ東雲しののめさんという女性。

 見た目は、少し茶色に染め、毛先をゆるくカールさせたショートの髪にスレンダーな体型でいかにもモデルのような感じの美人さんである。


 監査の時に1度話しただけだったが悠のことを覚えており、有名人だと言っている。


「なんで、俺が有名なんですか?監査で粗探ししてくる嫌なやつなんて触れ込みが回っています?」


「ふふっ、違いますよ〜。まだ若いのに1回で昇進試験を合格して監査部に抜擢。その上、監査部でも敏腕振るってるって。それに加えてイケメンなんですから。」


「買い被りすぎですね。私はそんな優秀な人間なんかじゃないですよ。本当に優秀な人間はこんな時間まで残業しません。それにイケメンでもないです。」


「ふふっ、謙遜もここまで来ると嫌味ですよ?少なくとも経理部の人は皆言ってます。それでは私は戻りますね。あっ、そうだ。今度お時間あればお食事でもどうでしょうか?」


 悠は東雲さんにいきなり食事を誘われたことに驚きながらも笑顔を向ける。


「そうですね。お時間が合えば是非。」


「その言葉、忘れないでくださいね?」



 東雲さんは笑いながら喫煙所を出ていく。そろそろ陸も準備が終わる頃だろう。

 悠がデスクに戻ると陸は帰る準備に取り掛かっていた。


「もう終わったか?んじゃ帰るか。」


「ごめんね〜。待たせて。」


 2人は会社を出て帰路につく。

 ようやく暑い夏が終わり、涼しい風が頬を撫でる10月の夜。

 彼らの通勤は車で、駐車場までは会社から50メートル程離れた場所にある。


「腹減ったな〜。陸、これから空いてるか?飯でも行く?」


「悪いっ!今日は香奈かなと飯食べることになってるからさ。飯はまた今度で頼むよ。」


 陸は同い年の彼女がいる。

 その彼女といったら週の半分は彼の家で過ごし、翌朝、陸が通勤の際に彼女を職場まで送るという半同棲のような生活を送っていた。


「はいはい。平常運転ね。羨ましいことで。」

「悠もそろそろ彼女作ったら?その気になれば彼女くらいすぐ出来るでしょ?」

「この年にもなるとそんなホイホイと出会いがある訳じゃないだろ?それに、まぁ今は仕事が充実してるし、別に無理に作らなくたっていいんだよ。」


 悠は見た目も良い方だし、人当たりも良い。

 おまけに仕事が出来て出世頭である。

 彼女が出来ても不思議ではないだろう。


「昔ほんの少しだけ付き合った彼女がいてな。仕事が忙しいのにかまけてたら浮気されたことあるんだよ。それ以来どうも積極的に行けん。まぁ…忙しいからと甘え過ぎてたんだろうな…」


 決して彼女を蔑ろにしていたつもりはないし当時は好きだったのだから、浮気されたことは素直にショックであった。

 

「気を悪くしないでほしいけど、それはその子が男を見る目が無かったんだと思うよ?まっ、気長に頑張って下さいよ。悠主任。」


 陸は慰めるように悠の肩をポンと叩き、自分の車に向かう。


「陸のくせに生意気だな。気つけて帰れよ。また明日な。」


「おう。また明日。おつかれさま〜。」


 悠は車を30分程走らせ、自宅に到着する。

 悠の住む家は、築3年のまだ新しい1LDKマンションで、室内はシックな家具で統一されており、一人暮らしには十分なものだった。


「今日も、帰ってコンビニ飯を食べて風呂に入って寝るだけ。いつも通り、なんとも変わり映えのない毎日だよなぁ。」


 悠は自嘲気味に笑いながら呟く。

 夕食と風呂を終えてから洗濯、軽く掃除をこなしていると時刻は23時を過ぎていた。

 仕事から帰っての家事は身体に堪える。

 悠は1人にしては少し広いセミダブルサイズのベッドに入り朝6時にアラームをセットする。


 本を読みながら、うとうとしているとスマホからRINEの着信音が鳴った。


「こんな時間に誰だよ〜。」


 スマホを開くと陸からの新着メッセージだ。

 メッセージを開くと、陸と彼女であろう女の子が2人で楽しそうに酒を飲む画像と"幸せのお裾分け。悠も来る?"とメッセージが送られて来ていた。


「まったくこんな遅くまで良くやるよ…2人でそんな楽しそうにしてるところ俺が割って入れるかって…」


 悠は、"もう寝るっての!明日遅れんなよ。"と適当に返信を送りスマホを閉じる。

 

「彼女ねぇ…そろそろ考えてみてもいいのかもな。まぁそんな簡単には行かないか。」

 

 そう呟きながら本を閉じて目を瞑り、眠りに堕ちる。


 近く、この男の生活を大きく変える出会いがあることなど思う訳もなく。。。

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