第18話 背の高い彼
最近会ったばかりの先輩たちに気づかれなかったら、第一関門突破——
詩から言われた言葉がふっと頭をよぎり、和音は体育館の入り口で、一度大きく深呼吸をした。横を見ると、壁に大きな鏡があって、自分の姿を映してみた。
初めてこの制服を着たときよりも、ぎこちなさもとれてだいぶ自然に動けるようになった。スカート丈も少し長くしてもらって、たぶん誰が見ても他の生徒と違和感は感じないはず。でも。
女子ってよく観察してるからね。気を緩めたら、気づかれるよ。
わかってるよ、詩ちゃん。和音は前髪を少し直し体育館に入った。
詩の作戦はこうだ。
和音は絶対に声のことを詩以外には知られたくない。でも、詩は、和音に歌って欲しい。だから、その両方を同時に成立させる必要がある。
それには、詩の演奏で歌うのはあくまでも音という女子でなければならない。もちろんそれは上杉和音であるわけだけど、バレてはいけない。他人には音という「聖華学園に在学するはず」の女子生徒が歌ったのだと認識させる作戦だ。
まず、今日の初回オリエンテーションに音が出席して、「しおん」のボーカリストである音という女子が存在していることを係員全員に認識させること。
詩のいう第一関門とはここだ。
女子というのは他人観察が好きな人種が多い。一度会った人のことをよく覚えているが、比べて男子は女子が化粧や髪型を変えただけで同一人物と認識できないアホな動物だ。だから、まあ詩の勝手な印象だが——
歩き方にも気をつけながら、和音はステージ係が作った受付場所へ向かった。
受付に座っている先輩と目が合ったが、たぶんまだ気づかれてないようだ。音はドキドキしながら、机を挟んで先輩の正面に立った。
「1年の『しおん』代表です」
和音がそう言うと、先輩が出場者名簿の上にペンを走らせながら、名前を探していたが、見つけて名簿にチェックを入れた。
「ああ、しおんって、西園寺さんと一緒にやる——」
先輩が名前などを確認しようとするタイミングで、
「そうなんですよ。私たち、まだ知り合ったばかりなんですけどね。じゃあ、こっちに座っててください」
と詩が横から先輩に話しかけ、和音は先に何人か来ていた各代表者の一番後ろに案内され、用意されたパイプ椅子に腰掛けた。
詩が言っていた。できるだけ、名前の印象も少なくしておきたいと。実際、実在していない生徒なので、もし何かあって探されても困ることになるのだ。
出演時間や順番で多少揉めたが、その他はおおむね順調に説明が終わった。あらかじめ創部の古い吹奏楽部、合唱部、演劇部だけが入れ替え含めて1時間を確保しておいたおかげで、進行に協力してもらえたのが大きい。
そんな中、頃合いを見計らって、和音はそっと会場から消えた。最初に顔だけ覚えてもらえれば、あとはできるだけ他の出演者や係員と絡まないと決めていたからだ。
そのまま体育館から学校を抜け出して、制服のままいつものカフェに行く。会議が終わった詩と、ここを待ち合わせ場所にしていたのだ。
実は、和音が女子の服を着てひとりで街を歩くのは初めてだった。だんだんスカートに慣れてきたとはいえ、今でも本当に自分は女子に見えているのかという不安は拭いきれないので、街を歩く時は必ずいつも詩が一緒にいるのだ。
詩を待っている間、この店のお気に入りのラテを飲みながらスマホをいじっていると、和音が肘をついているテーブルの上に人影が止まり、その気配に和音は顔を上げた。
「ひとり?」
体格のいい見たこともない男だ。誰だろう。大学生? もっと上?
「隣、座っていい?」
和音が戸惑って返事をするまもないまま、その男は躊躇いもせずに隣の椅子をわざわざ和音に寄せて座った。ややもすると肩が触れそうなくらい近い。
「それ、何飲んでるの?」
そして間髪を置かず、男はカップの底に少しだけ残ったラテを指差した。
「あ、はい。えっと、ラテですけど……」
男が右手を高く上げて、「ちょっと、ここラテふたつ追加ね」と、ちょうど通りがかったカフェのスタッフに声をかけた。
ポニーテールのスタッフが、店内に向かって「店長、ラテツー」と声をかけ、それから隣のテーブルを片付け始めた。
——タスケテ
和音はそのスタッフにチラリと視線を向けて必死に「念」を送ったが、スタッフはトレイに隣のテーブルの残骸を載せて、さっさと店内に消えていく。
「なんだよ、そんな怖い顔すんなよ。ねえ、ちょっと話そうよ」
男がニヤリと笑う。
思わずごくりと唾を飲んだ。はっきり言うと、和音は男が怖いと思った。自分も男として生まれたけど、和音はこれまで喧嘩などしたこともない。ましてやこんな体格のいい男に絶対勝てるなんて思えない。どうしよう——
「聖華だよね、この制服」
男が和音のブラウスの左袖を摘んで引っ張った。そして、今度は和音が着ているスカートの裾をほんの少しつまみ、1〜2センチほど和音の生白い太ももの上をずり上げて、すぐにその指を放した。
「は、はい。いえ、これは——」
僕は、男子なので。そう言葉にできない。必死に抑えようとしても、声が、肩が震えてしまっていた。
「そんなに怖がるなよ。俺、優しいよ?」
男が、俯いている和音を下から覗き込むように顔を近づけた。シャツの袖を捲り上げた男の筋肉質の太い右腕——和音の倍近くある——が和音の左腕にぴたりとくっついていた。
オネガイ。ダレカ、タスケテ——
「ごめん音ちゃん、待った?」
動けなくて震える和音に、「彼」——騎士——の低い声がしたのは、その時だった。
近寄ってくるのは、和音が羨むほどの背の高い——だ、誰?
「なんだよ。待ち合わせなら早く言えよ」
図々しい男は、「彼」に聞こえないほどの声で和音に凄んだかと思うと、素知らぬ顔で店を出て行き、入れ替わりにさっき注文したラテがテーブルに運ばれてきたのだった。
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