MIX ミックス〜詩と音の物語
西川笑里
出会い
第1話 今のだれ!?
よく晴れた4月のある土曜日、どうせ着る予定もない服と靴を買った帰り、
雑居ビルの2階にある受付に行くと1人用のカラオケルームは満室で、30分ほど待たなければならないらしい。
時計をチラリとみる。
時間はたっぷりとある。待とうと決めて、詩は受付前のロビーにある自販で缶のカフェオレを買うと、近くの椅子に座りスマホを取り出してさっき注文したドレスの写真をもう一度確認した。
詩は高校1年生の女の子だ。小さい頃からピアノを習い、将来を期待される若手ピアニストのひとりと言われている。去年から背が伸びたので、再来月に都内で開催されるショパンピアノコンクール本戦で着るドレスを作りに銀座に出たついでに、高校生に人気ブランドの可愛いワンピースとショートブーツを一揃え買ったところだった。「着る予定のない」と言ったのは、このワンピースのことだ。
決してピアノやクラシック音楽が嫌いなわけではない。ショパンだってそうだ。自分がピアノを上手に弾くと大好きな両親が喜んでくれる。
そして予選通過を喜んでいる自分を——ママとパパのために——「演出」するために、新しい服をいつものように買ったのだ。
詩の家は代々商社を経営していて、業績はいたって順調だ。社長のママを専務のパパが支えていて、会社の業績通りのとても裕福な家庭に育った。だから誤解を恐れずに言うなら、自分は世間的にいう「お嬢様」だという自覚がある。服を買うのに、誰に相談することもないし、両親も咎めることもない。
私は恵まれている——
そこはちゃんとした自覚を持ってはいるが、ひとつだけ誰にも言えないことが詩にはあった。
実は、クラシックよりもポップな現代音楽が大好きだし、アイドルも大好きなのだ。テレビで踊る彼女らをみて、自分もあんな可愛いドレスを着て、歌って踊れたらどんなに素晴らしいか夢に見ない日はない——のだが。
とても、そう、本当にとても残念なことに、詩は声域が狭いうえに、しかも致命的に——なんというか野太い、つまり可愛い声ではないのだ。
わかってるわよ、そんなこと。
だからカラオケに友達と行くのが嫌だ。みんなと同じように歌えない自分にコンプレックスを抱えてる。だから時折ひとりカラオケで歌いまくってストレスを発散しているのだ。
やっと部屋が空いて散々歌って部屋から出ると、隣の部屋から羨ましくなるくらいの上手い声が聞こえる。自分の歌う声も部屋から音漏れがしているのは知ってるけど、そこは顔を見られてるわけじゃないからいい。
それにしても——
隣の部屋から聞こえる声は何て素敵なんだろう。それはまるで私の理想の声。いったいどんな
詩はその部屋の前で立ち止まった。
よし、どんな娘か確かめてやろう。どうせひとりカラオケだ。さすがに2時間も3時間も待つってこともないよね。
とりあえずカウンターで精算をして、詩は「憧れの声が聞こえる部屋」を張り込んだ。
端的に言うと、詩の目算は少しだけ外れた。憧れの声を持つ「彼女」を2時間も3時間も待つことはなかったが、おおかた50分ほど、おかげでジュース2本ほど追加で飲んで待つこととなった。
やっとその時は訪れた。そのルームの扉のノブがカチャリと下りる。
——今だ
詩はその開きかけた扉へ走り寄った。
50分待つ間に、彼女が出てきたら声をかけようと決めていたんだ。
あなたの声は私の理想なの。友達になって。
だが詩の想像に反して、意外なことが起きた。
扉がそっと開いて、中からうつむき加減に出てきたのは、彼女——ではなく、色気のないペラペラの白いTシャツにブルーのジーンズ、よく言えばマッシュルームのような、詩の見た目には女子のおかっぱのような髪型と、目まで隠れたようかという前髪に、今どき流行らない太い黒縁の眼鏡をかけた「彼」だったのだ。
詩があまりにも扉の近くに立っていたので、詩と「彼」は思わずぶつかりそうになり、彼が一歩下がった。
詩は驚いて頭が混乱した。そんなはずがない。きっともうひとり誰か、きっとこの彼の彼女がこの部屋にいるはずだ。
彼を押し除けるように部屋の中を覗いてみる。だが、ここは「ひとりカラオケルーム」だ。もうひとり、中にいるはずもないことに詩はやっと気がついた。
驚いたのは彼も同じだったらしい。それはそうだ。扉を開けたら人が立っていたら誰でも驚く。間違いない。
彼は顔を上げて詩を見て、慌てたように顔を伏せた。
あれっ、どこかで——
「上杉……くん、だよね」
彼はいつも教室でひとりで本を読んでいる、確か
「上杉君、今の誰」
詩は上杉君の肩を抑えるように扉に押し付けた。
一旦口を開きかけた上杉君は、何も言わずにまたキュッと口を固く閉めた。
「ねえ、今のは誰が歌ってたのよ」
ちゃんと答えるまで逃さないよ。
「ん? ねえ、答えてよ。今歌っていたのは誰なの?」
さらに少し強くドアに押し付けると、上目遣いに彼が顔を上げて言った。
「……わないで」
か細い声。
「誰にも言わないで。お願いだから」
その声は、間違いなく「可愛い女子の声」だった。
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