異世界でほのぼの過ごす話

妄想の住民

第1話

 朝靄あさもやの中を、欠伸あくびをしつつ空のポリタンクを抱えて歩く。肌寒さにぶるりと身体を震わせながら大きく息を吐いて、今度は冷たい空気を肺に取り込む。内から身体の熱を奪われる感覚のおかげか、幾分いくぶんかこの冷たさに慣れたような心地になれた。

 もっと厚着をするべきかと頭の片隅かたすみで思うが、今のうちからこれ以上着込むとこれから先が思いやれるという懸念けねんも頭をよぎる。息をひとつ吐くと、しばらくはこのまま我慢することにした。空気の冷たさを感じるのも、季節感があって良い、ということにする。


 気怠けだるさと眠気を全身で表現しながら井戸の前まで行くと、竹で出来た冷たくすべすべした肌触りの井戸蓋を開けて釣瓶つるべを井戸の中に放り込む。滑車かっしゃがカラカラと乾いた音をたてながら釣瓶が井戸の底に消えて行くのを見送り、ぽちゃんと釣瓶が底に着いた音が鳴る。

 底にある釣瓶につながる縄を握ると、少しばかり気合を入れて引っ張っていく。先ほどよりもゆっくりとしたテンポで滑車が鳴るのを聞きながら、井戸の底から釣瓶を引き上げた。一旦いったん、水の入った釣瓶を地面に置くと、ポリタンクの蓋を開けてから釣瓶の中の冷たい井戸水をポリタンクに入れていく。そして、空になった釣瓶を再び井戸に放り込むと、何度も同じことを繰り返してポリタンクを水で満たしてしまう。満タンになったポリタンクの蓋を閉めると、井戸の蓋も戻してしまい、釣瓶を蓋の上の定位置に置く。

 井戸の周りに問題がないのを大雑把おおざっぱに確認してしまうと、来るときよりもかなり重くなったポリタンクを抱え上げて元来た道を歩いて戻る。自分で決めた作業とはいえ、早朝から重労働を行うのはいささか骨が折れる。もう少し体力を使わないような楽な作業にしようかとも思うが、楽をしようと思えばどこまでも楽を出来てしまうため、少しくらい大変な方が良い、と何度目になるかわからない結論を出す。

 ゆっくり生活するのは楽しいが、ただただ楽なだけの生活はそれはそれで虚しい。


「まぁ、お手伝いさんとかに身の回りのことを一切合財いっさいがっさいやってもらう生活にも憧れはあるけど……四六時中誰かに世話を焼かれるのもわずらわしそうだ」


 ポリタンクを抱えて歩きながら誰に言うわけでもなくつぶやく。人付き合いが苦手と自称する程誰かとの関わりが苦手なわけではなかった。しかし、このような森の中に住んでいるのも、何かと忙しい人たちの時間に合わせて行動するのが面倒くさいという思いがあったのは確かである。

 ぼうっとしたまま歩いているとすぐに家の前に到着していた。


「ただいま」


 扉を開けてから重いポリタンクを玄関に置き、靴を脱いで家の中に上がる。靴下越しでもいささか冷たいフローリングの廊下を通ってリビングへと入ると、ダイニングを抜けてキッチンに向かう。

 流し台で手を洗うと、まずは昨日の夕食の残りであるトマトスープが入ったプラスチックの保存容器を冷蔵庫から取り出して鍋に移し、温めるためにIHの電源を入れる。スープはこれで大丈夫だとして他はどうしたものかとキッチンマットの上に立って悩むが、そう言えば、と昨日取り寄せたことを思い出したパン切り包丁を収納から取り出す。作業台にまな板を用意し、その上にフランスパンを置くと、パン切り包丁を手に持ち、フランスパンにギザギザの刃を滑らせていく。


「切りやすい……のか?」


 まな板の上に積もるパンくずに首を傾げながら、確かに切りやすいような気がしないでもなかった。元々料理をあまりしていなかっただけに、この製品がどれ程優れているのかいまいちよく分からない。首を傾げながらも4切れのフランスパンを用意してしまうと、オーブントースターに並べて焼いていく。

 フランスパンが焼かれている間に、フライパンをIHの上に乗せて電源を入れ、冷蔵庫から卵とベーコンを取り出した。フライパンに油を敷してベーコンを置き、少しだけ待ってから卵を割って入れる。皿を二つ用意して黄身が固まってしまうまで待つと、出来上がったベーコンエッグを皿へと移す。

 もう一つ、今度は半熟のベーコンエッグを用意し、同じように皿に移すと、そのままダイニングテーブルに並べる。チンと音が聞こえ、焼きあがったフランスパンも2切れずつ皿に乗せ、熱いうちに冷蔵庫からバターを取り出して切ってから乗せ、パンの香ばしい匂いに頬を緩ませてうなずく。十分に温まったトマトスープも器に入れてベーコンエッグの横に並べた。

 2人分の朝食を準備し終えると、ケトルの電源を入れてから廊下へと移動し、階段下から二階へと声をかける。


たちばなさーん。朝ご飯できたよー」


 二階から物音が聞こえ出したので、ダイニングに戻り、マグカップを2人分用意し、ケトルで沸かしたお湯を注いでドリップコーヒーをれる。スティックシュガーを戸棚から取り出したタイミングで、ダイニングの扉が開いた。


「おはよう……ございます」

「はい、おはようございます」


 長い金髪を揺らしながら眠たげな碧眼へきがんを携えた女性――橘がダイニングへと入ってくる。

 輝くような金髪と人工的な美術品のような顔立ち、純白の肌にすらりとした身体。少しばかりの身嗜みだしなみの乱れが目に入るが、それさえも彼女を引き立てるアクセントにしかなっていないように感じる。

 成人しかけという微妙に残る幼さを除けば、絶世の美女、と言っても過言ではなかった。

 そんな橘だが、眠たげな眼とその装いが寝巻ではなく部屋着なところを見るに、どうやら昨日は随分と夜更かしをしていたらしい。いつもの、という程ではないが、夜更かし自体は珍しいことではない。

 淹れたばかりのコーヒーをダイニングテーブルに並べると、橘は緩慢な動作で椅子へと腰かける。その向かいにこちらも腰かけると、それぞれ目の前で手を合わせる。


「いただきます」

「いただきます」


 淹れたばかりの熱々のコーヒーをそのまま飲む橘と対照的に、スティックシュガーを入れるとかき混ぜながら息を吹きかけ冷ましながら飲んでいく。橘に言わせれば、熱々の苦いコーヒーを飲むことで目が覚めるらしい。到底、真似する気は起きない。

 そのまま静かな朝食の時間が始まる。

 食事中に喋るのは行儀が良くないと思うが、禁止するほど嫌っているわけではない。時と場合によるが、食事は楽しい方が良いと思うからだ。モノを口に含んだまま喋らなければそれで良い。

 しかし、食事中、お互いに何の会話もしなかった。橘は昨日夜遅く、あるいは今日朝早くまで起きていたであろうため、おそらく眠気で頭が回っていないので食事をする以外の動作を出来ていない。そして、そんな橘相手に無理に話題を振るのも酷であるため、お互いに無言になっていた。

 箸を使う音だけがダイニングに響く。その静かさは特段苦痛ではなかった。


「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまでした」


 お互いに食事を終えると、未だ眠気が取れていなさそうな橘をダイニングからリビングのソファへと導く。そのまま寝転んで少々だらしのない体勢でソファに寝始めたのを見て、苦笑いを浮かべる。

 あまり余計な音は立てないように気をつつ、リビングに戻って朝食の後片付けをする。

 今日は天気も良くなりそうな気配だったので換気と掃除を行うつもりだったが、あの状態の橘がいるのに家の中でばたばたと掃除機を扱うのはさすがに可哀想だろう。それに、無理に今日やる理由もない。

 手洗いした食器を食洗機の中へと入れる。最近の食洗機は優れているらしく、最初から任せてしまってもどうやら綺麗になるようなのだが、完全に機械を信じきれないアナログ人間なため、一度洗ったものを仕上げるという用途に使ってしまう。橘のように上手く機械を扱いたいものであるが、中々難しい。

 やくもないことを考えながら今度は脱衣所へ向かい、洗い終わった洗濯物をかごへと移す。最初こそ、橘の下着や私服を洗濯することに気を遣っていたが、今となっては慣れてきている。橘も汚れ物を肉親以外に洗われるのは多少の気恥ずかしさはあるように見えるが、それ以上に洗濯物をわざわざ別けることに不便さを覚えているようである。

 これをずぼらと言うべきか、効率的と言うべきか、悩みどころである。


「気を許してくれている、と考えるべきか」


 こっちで暮らし始めてからめっきりと増えた独り言をこぼしつつ、洗濯物をテラスへと運ぶ。

 森全体を間伐しているわけではないが、家の近場は日差しを取り入れ、野生生物が警戒してあまり近寄らないように木を間引いているため、森に囲まれた立地でもテラスの中にも十分な日差しが差し込む。

 スリッパを履いてテラスに出ると早朝の寒さは薄れ、立秋の風とも呼ぶべき涼風がほほを撫ぜる。

 早朝は冷え込みが激しく、昼間は夏の暑さが未だ残る状態ではあるが、心地の良い涼しい風に今日はテラスで読書をするのも良いかと思案する。幸いにも森の中でも虫を気にする必要はない。

 気になる本が特別あったわけではないが、目的が決まると楽しみになってしまうのが人情というものである。手早く、服をテラスに、下着類を外からは見えづらい縁側に干すと、空になった籠を脱衣所に戻す。

 橘を起こしてしまわないよう気をつけながらも、わずかに早足で二階の自室に行き、タブレット端末とブランケットを手に取ると、ついでにダイニングで熱々の砂糖入りコーヒーを準備する。

 テラスに戻り、ゴミや傷み一つない簡素な机にコーヒーを置き、イスに腰掛けてブランケットを膝に乗せる。涼しい風ではあるが、無暗に身体を冷やすことは避けたかった。風邪でもひいたら大事である。

 タブレットを構えると橘に習った操作を思い返しながら、購入していた小説の一つを画面に表示させた。


「完璧だ……」


 理想的、と言っても過言ではない。

 時折聞こえる鳥のさえずりに耳を傾けながら、小説と共にコーヒーを味わう。

 昔、映画で見た光景を思い出す。老夫婦が退職金で田舎に家を買い、日々をゆったりと過ごす。生活に目新しさがないわけではない。家庭菜園に挑戦したり、DIYに挑戦したり、たまに山登りをしたり。かと思えば、何もせず、ただ二人で時を過ごしたり。

 そういった自由な時間の使い方に憧れた。

 だからこそ、こんな風に時間を気にせず、日々を生きられることが何より幸福だった。


「急ぐことは無い。明日もまた来るのだから」


 その映画中で老夫婦の夫がDIYを始めたものの一向に完成しないことを妻に指摘された際に言った台詞である。なんてことはない、しかしどこか決め台詞っぽいこの台詞が気に入っていた。

 映画を思い出すのもそこそこに、タブレット端末を操作して小説を読み進める。




―――




 小説中に食事の描写が出てきたのが原因だろう。ふとお腹の具合が気になった。

 あの様子では橘が目覚めるのは昼過ぎだろう。その時間に合わせて少々遅めの昼食を食べて、夕食はどうしたものかと考え出すと文字を追う速度が遅くなる。

 午前中は涼しく過ごしやすかったテラスも、昼が近くなってくると陽が高くなり、暑さを感じるようになる。

 気になって時計を確認すると、現在時刻は正午を少し過ぎたあたりだった。どうやら思ったよりも読書に熱中していたようである。

 一口も飲まれていない、完全に冷たくなったコーヒーをあおると、ブランケットを抱えて日差しから逃げるように室内へ戻る。洗濯物はよく乾きそうだ。

 橘の様子を一応確認しておこうとリビングをのぞくが、ソファに居ないところを見るに眠い中、どうにか二階へと戻っていったようである。

 ダイニングに入り、昼食の準備が何もなされていないのを見て、どうやらかなり修羅場であることは理解できた。いつもであれば昼に起きたのなら何かしら昼食を作ろうとしてくれているからである。


「出来ればダイニングで食べてほしいけど……まぁ、たまになら良いか」


 何かとせわしない橘だが、その生活を楽しんでいるようであるので、見ているこちらも楽しくなる。食事をダイニング以外でするのは行儀的にどうかと思うが、少しくらいなら罰は当たらないだろう。

 一度レシピ通りに作って簡単だと思ってその後レシピを確認していないため、作り方が合っているのかは最早わからないペペロンチーノを作ろう。橘がお腹を空かせているかはわからないが、ペペロンチーノなら食べられないことはないだろうし、最悪一人でも食べられる。

 にんにくを取り出しながら、女性ににんにく入りの料理をこちらから提供するのはどうかと思ったが、完全にペペロンチーノの口になったので橘には諦めてほしいと軽い謝意の念を送る。

 複雑な工程が存在しているわけでもなく、手早くペペロンチーノを作ってしまう。

 いつもは気にしない盛り付けに何となく少しこだわった後、橘の分を届けるためにペペロンチーノをトレイの上に乗せて二階へと上がった。

 二階には、橘の部屋と自分の部屋、あとは用途の決まっている部屋もいくつか存在しているが、それでもなおまだ空き部屋が存在している。無理に埋めるつもりもないため、そのままにしているが、勿体ないような気もしてしまう。

 最初に橘の部屋に向かうが、ノックをしても反応が無い。寝ているのだろうかとも思ったが、あの状態の橘がわざわざ起きて二階まで戻ったのだ。起きていないとは考えづらかった。

 こっちに居ないならあっちだろうと、用途が決まっている部屋の1つの前に行く。


「橘さん。お昼、持ってきたよ」

「あ、うぇっ、あ、ありがとうございます。今、開ける!」


 ノックをしてから声をかけると、即座に返事があり、慌てて出てきたのは朝食時の服から着替えた橘だった。いつの間にかお風呂に入っていたらしい。

 ペペロンチーノが乗ったトレイを手渡す際に扉の隙間から見えた範囲だと、どうやらまたパソコンに張り付いていたらしい。


「そうだ。夕飯、どうする? 橘さんの好きなものにする? カレー、また作ろうか?」

「だ、大丈夫! 大丈夫! 何でも良いから!」

「何でも良いが一番困るんだけど……わかったよ。じゃあ、パソコン、頑張ってね」


 慌てたように扉が閉められる。

 一瞬、反抗期の娘、という単語が頭を過ったが、橘は娘ではないし、他人の話を聞く限りでは反抗期というのはこんなに生温いものではなかった。

 理由はわからないが、タイミングが悪かったのだろう。たまにあることだ。

 階段を降りてダイニングに戻ると、自分のペペロンチーノを食べる。あまり食材を準備せずに食べられるという点では、料理素人には大変ありがたい料理である。

 ペペロンチーノを平らげた。我ながらいい出来だったと思う。

 食べ終えた食器を流し台に運びつつ、橘の食器も回収に行くべきかと迷ったが、あの様子では行くだけ迷惑だろう。大人しく自分の食器と使った調理器具だけを洗う。


「夕飯、どうしよう」


 カレーと言ったが、橘の反応は良くはなかった。

 以前は感涙するほど食べていたのに、と思わなくもないが、あのときとは状況も何もかもが違う。いつまでも同じものに同じように感動するわけではないだろう。

 しかし、あれほど苦労している様子の橘の姿を見て、食事くらい元気が湧くものにしたいと思ってしまう。


「よし。今夜はお寿司にしよう」


 以前、回らないお寿司がどうのこうのと言っていたのを耳にしている。たまの贅沢ぜいたくには良いだろう。

 そうと決まればやることは明白である。

 橘が居なくなったリビングに入ると、窓に手をかけて全開にする。


「掃除機かけよう」


 窓から空を飛ぶドラゴンの姿を見上げ、気合を入れる。

 やることとは、夕食のお寿司に向けてお腹を空かせるための運動である。






 その晩、橘と一緒に回らないお寿司を食べて、あまりの美味しさに二人してもだえることになった。

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