第2話 遺影
言葉を発することができない和子に代わって、人影は玄関の戸を叩いた。木造の扉は年月によって痩せ、ガラスを固定する枠にほんの少しの隙きがあることで、少しの風でも大きな音を立てる。
子供の軽い叩きであるにも関わらず、玄関はガタガタと大きな音を出す。音に和子は益々動揺した。
音にビクッとし、心臓が縮み上がる。
人影は言った。
小声で。
「ただいま」
と。
それは、家族だけが帰宅した時に使う挨拶。
喉の浅い部分で発声し、声の抑揚がある。子供特有の声だ。
「ねえ。お父さん、お母さん、お姉ちゃん。開けてよ」
人影は、家に向かって呼びかける。
その声に和子は、驚きのあまり声が出なかった。雨音と水音で聞こえづらかったが、たしかに聞き覚えるの声だ。
和子は、生まれ物心がついた時から人生の中でであった何百という人々の声から、たった一人を選別した。
「
和子の口から名前が出る。
もう一度名前が出た時は、人影への呼びかけだった。
「泉太」
玄関前の人影が和子の呼びかけに反応しているのが、ガラス越しでも伝わった。
「……ただいま。お母さん」
人影は、和子の声に応えた。
和子は、息が声が身体が震え始めた。
「そんな、どうして……」
驚愕している和子に、人影は呼びかけ玄関を叩く。
「お母さん開けてよ」
和子は、玄関へ一歩踏み出すと、突然誰かに口を塞がれ、羽交い締めにされた。
玄関の人物と、羽交い締めにされたことで、二重に驚いた和子は、目を皿のように広げて、口を塞いだ人物を見ると、義父であった。
「和子さん。ダメだ、入れちゃなんねえ」
義父は険しい表情と押し殺した声で、和子に言い聞かせる。
見れば、近くに義母もおり、震える身体で念仏を唱え始めていた。
夫もおり、娘を抱いて青ざめた表情で玄関の人影を見ていた。
和子は自分の口を封じる義父の手を両手で剥がすと、意見した。
「どうして。泉太が帰って来たんですよ。家に入れてあげないと。……そうだ、おやつ。あの子の好きなプリンを作ってあげないと。あの子、私の作ったプリンはお店のより美味しいって……」
和子は動揺しながら喜び、人影に声をかける。
「おかえり泉太」
「和子さん!」
義父は和子の口を塞ぐと、恐ろしい表情をしたまま家族全員に向かって家の奥に向かうよう指示をする。
和子は義父に引きずられながら、仏間へと移動していた。
義母は相変わらず念仏を唱え続け、夫は娘を抱きしめながら大丈夫大丈夫と呪文のように言い続けていた。
「どうしたの、みんな。こんな大雨の中を、泉太が帰ってきたのよ。どうして入れてあげないの」
和子が再び玄関へと向かおうとすると、義父がその前に立ち塞がった。
「和子さん。あれをよく見ろ」
義父は仏壇にある写真を指差した。
そこには、写真があった。
白黒の写真。
違う。
それは写真は写真でも、別の名がある。
遺影
子供の遺影があった。
和子の息子・泉太の遺影。
「……泉太は、死んだんだ。病気で」
和子は、思い出す。我が子を病気で失ったことを。
まだ6歳だった。
泉太が生まれた時、跡取りができたと義両親の喜びようは、お祭りどころではなかった。
親バカという言葉はあるが、孫バカとも言える程に、自分の孫を近所の人に自慢しては溺愛していた。
それが……。
和子は、その場に崩れた。
思い出す。
昨年のことを。
棺に入れた我が子を見たことを。
火葬される時に号泣したことを。
小さな骨を拾ったことを。
和子は義父に訴えかける。
「……じゃあ。あれは、何なんです。泉太の声ですよ」
「あれは泉太であって泉太じゃない。あれを家に入れたら、ワシらだけじゃない。知子も死ぬんだ」
和子は、怯えた表情で夫に抱かれている娘を見た。
不意に、仏間に面した雨戸が叩かれ、家族全員の目がそちらに向けられる。皆肝を潰したように目を剥く。
「おじいちゃん、おばあちゃん。居るんでしょ。開けてよ」
大雨で、いつ移動したのか分からなかったが、それは困った声をあげる。
「耳を貸すんじゃない。耳を塞いで、雨が止むのを、朝が来るのを待つんじゃ。大丈夫。入れなければ、みんな大丈夫だ」
義父は、皆に呼びかけると現実から目を背けるように目を閉じ耳を塞いで耐えることにした。
「開けてよ。みんな僕を、お家に入れてよ」
外では、未だに雨戸を叩く音と家族に呼びかける声が響いていた。
いつまでも。
いつまでも。
夜が空けるまで、それは続いた……。
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