めぐり雨

kou

第1話 ただいま

 雨が降っていた。

 家の中でも、雨音が聞こえてくる。

 屋根を叩く。

 壁を叩く。

 窓を叩く。

 あまねく世界に雨は降り注ぐ。

 外出時に遭遇する雨は、傘を差し、身体や荷物が濡れないかと気になるので生活のしづらさがあるが、部屋の中で雨音を聞くのは、どことなく心地よい。

 シトシトと降る程よい雨音は、日常では聞くことのない音に包まれる。

 雨といえば良い天気とは言えないが、雨が降らなければ草木が枯れ、川や池で生きている動物も死んでいくことになる。

 しいては地球上にいる生物全て存亡に関わる重大な事態になっていく。

 人間も例外ではない。

 農作物が育たなくなり、穀物ができないので家畜の餌も育てられなくなる。ダムの貯水によって水不足に陥っても、いくらかは水をまかなえるが永久ではない。水不足は農業だけでなく日々の生活や、工業においても大量に水を使用するので、工場も稼働できなくなる。

 雨は、大地を潤し生物が生きていくために必要不可欠な自然現象。

 だが、薬も過ぎれば毒となる。

 という故事があるように、雨も度が過ぎれば害悪となり、土砂崩れ、洪水、浸水、鉄砲水など様々な水害を引き起こし、降り方次第では恐怖を感じるものとなる。

 今日は、それを感じるような大雨だ。

 叩きつける雨音がいつもよりも大きく、その些細な振動が伝わってくる。雨樋からは許容量を越える雨の量のために溢れ、道路は川のように見えた。

 日花和子ひばなかずこは、一家団欒の夕食を終え食器を片付けていた。

 8月も半ばになったが、まだまだ暑い。夕食を、そうめん、ざる蕎麦などにしようかと思ったが、今日は冷たい梅干し茶漬け、しじみの味噌汁、カボチャの煮物、ほうれん草ゴマ和え、ぬかみそ漬けにした。

 和食の基本と言われる一汁三菜だ。体に必要な「エネルギーになるもの」「体をつくるもの」「体の調子を整えるもの」という3つの栄養素を、バランスよく摂ることができる。

 麺類の献立では、おかずの品数が少なくなる傾向になる。夏だからと毎回の食事を単品の麺類で済ませていると、栄養不足からくる夏バテになる。暑いからこそ、栄養の偏りや消化管の不調などの原因にならないよう、義母と話し合った献立だ。

 義両親は風呂も済ませ、後は夫が上の女の子をお風呂に入れてくれる。娘も今年で小学4年生になったが、未だに父親と風呂に入りたがる。自分は娘の教育や学校の成績に厳しく、逆に夫は娘に甘く溺愛しているだけに娘は父親のことが好きなのだろう。歳を考えれば、もう父親と風呂に入るのは今年が最後だろうと思った。

 和子は25歳で日花家に嫁入りし、27歳の時に娘を産んだ。あの日から単純に10年も経つのだ。

 子の成長を願わない親はいない。

 成長していく娘の姿に、和子は喜びを感じていた。


 ――――喜び


 和子は、ふと考えて茶碗を洗う手が止まった。

家庭によっては違うが、日本の食卓には自分だけが使う食器・属人器という文化がある。家族一人一人に茶碗や箸があり、所によっては焼き魚を乗せる皿も違うということもある。

 色や素材感、テイストなどを似た雰囲気にあわせつつも、一人一人にあったサイズやデザインの食器を組み合わせることが多い。

 和子の家庭では、その属人器の文化があった。

 和子は、自分の茶碗を洗うと、水切りカゴに家族の茶碗が並んだ。

 義両親の2個。

 夫と和子の2個。

 そして、娘の1個。

 和子は食器棚を見る。

 そこには、子供サイズの小さな茶碗が1個あった。

 見つめていると和子は目に涙が滲んだ。胸が締め付けられる。思い出の深みに沈みそうになる。

 不意に、来訪者を告げるチャイムが鳴った。

 和子が、壁掛け時計を見ると時刻は、午後6時24分であった。決して遅い時間ではないが、さりとて来訪者が来るには、やや遅い時間でもある。

 しかも今日は、例年にない大雨の為にいつもよりも日が落ちるのが早く、すでに夜の帳が下りていた。

 暗く、大雨の時期に……。

 和子は、そう思いつつも寝間着を持って、風呂上がりの準備をしていた娘・知子ともこに声をかけた。

「ごめん知子。お母さん手が離せないの、玄関の方を見てきてくれる?」

「うん。分かった」

 知子は、食卓の上に寝間着を置くと、玄関へと向かった。

 和子は自治体の人が、大雨による見回りに来たのだろうと思った。和子の家から川は近いが、土地そのものは周囲より高い所にある。最寄りの公民館の土地よりも高いので、避難するよりも自宅の方が安全なのだ。

 実際、夫と義両親から地域が水害にあった時も、この家は水害を免れたことを教えてくれていた。水害で孤立することはあっても、床下浸水すらも心配することはなかった。

 洗い物を終えた和子がエプロンで手を拭いていると、知子が戻って来た。

「知子。誰だったの、自治会長の田所さん?」

 和子が尋ねると知子は、首を横に振った。感情を無くしたように、真顔で答える。

「……ただいま」

 知子は言った。

 言っている意味が分からず、和子は訊き返す。

「何を言ってるの? ただいまって……」

「……そう言ってるの。玄関に居る人が」

 知子は答えて、玄関の方を指差す。

 和子は娘が指差す方を見た。

 奇妙な事態に和子はスリッパを鳴らし、訝しながら玄関へと向かう。

「はい。どちら様ですか?」

 廊下を抜け玄関へとたどり着いた和子は、格子が入った玄関の磨りガラスに人影があるのを見た。玄関の軒先には玄関照明があり、夜でも人が居るのが分かるようになっている。

 人影を見た瞬間、和子はギョッとした。

 小さいのだ。

 人影が。

 大人の背丈ではなく、明らかに子供の背丈だ。それも小学生にもなっていない未就学児童くらいに。

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