美味しいだけではない。レーズンサンドからは甘い恋のメロディが届いてくる。

神崎 小太郎

第1話 武蔵野のとわの杜


 空が柿色に染まっていた。上司の冷たい視線を受け流し、秋ならではの黄昏たそがれを感じて職場を抜けだす。

 新宿駅を足早に歩く人に負けじと電車に乗り込んだ。これで二十分すれば、百合子に会えるはず。フッとため息をついた。


 このところハードワークとなり、今夜は一週間ぶりのデート。お詫びに初めて訪れるイタリアンのサプライズを用意する。満員電車のつり革に揺られ、彼女の喜ぶ姿を思い浮かべてゆく。


 俺は神崎 浩介かんざき こうすけ。広告代理店に勤めて三年目。今年二十五歳となる。百合子の大学卒業を待ち、来春に近くの教会で結婚式を挙げるつもりだ。

 ところが、人生なんてそう甘いものではない。義父から「まだ、結婚は早すぎる」と苦言を呈されている。もどかしさが頭の中でこだましていた。


 車窓からは高層ビルの夜景が通り過ぎてゆく。都会の喧騒の中、この静寂なひと時だけは好きである。


 ふと、窓ガラスの上にある写真に目がとまる。そこには「武蔵野のケヤキ並木続く永久とわもりにて眠りませんか? 陽春は沈丁花ちんちょうげ、仲夏は梔子くちなし。秋麗は金木犀きんもくせい六花りっか宿根草しゅっこんそう

 四季折々の心穏やかな香りで人々の訪れを待ち望む郷。このユートピアは……。」と書かれていた。

 

 なんだぁ、終活の宣伝か……。


 やっぱり、今夜の俺は変だ! けれど、二十代の半ばを過ぎたばかり。やりたいことは山ほどある。いくら何でも、百合子を残して過労死など冗談じゃない。


 一旦、その宣伝から目を離すが、今度は武蔵野という名称が気になってくる。

 そのエリアは、いったいどこから始まりどこまで続くのだろうか? ひとつの心象風景がおぼろげに浮かび上がる。


 ひょっとしたら、「むさし野」は人々が空想の世界に創りあげたユートピアなのかも知れない。そんな妄想に取り憑かれると、──

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る