親愛なる隣人の章
第5話 転校初日は何かと驚くことがある
同じ学校に同じ家から通うのだから一緒に登校するのは当然だと思うのだが、通学手段が運転手付きの高級車だとは思いもしなかった。いや、本当のことを言えばそうなんじゃないかなと感じてはいたのだが、俺だけじゃなく妹の璃々まで一緒に送ってくれるというのは嬉しい誤算だった。神谷さんの家でも学校に行かずにひきこもるのではないかと思っていたのだが、意外と内弁慶で人の目を気にする璃々が人様の家で登校拒否なんて出来るはずもないのだ。
「そう言えば、転校って試験とか無しでもいけるもんなんだな」
「お兄ちゃんは本当に変なこと言うよね。試験も受けずに転校なんて出来るわけないでしょ。そんなことが出来るなら受験する意味ってなくなっちゃうじゃない。これだから何も知らないお兄ちゃんは困るよね」
「でもさ、俺は試験とか受けた記憶が無いんだけど」
璃々は前よりも俺に対して辛く当たるようになっている気がするんだけど、そんな璃々の様子を綾乃さんはなぜか嬉しそうな笑みを浮かべて見ているのだ。
「お二人は本当に仲が良いのですね。私もお兄様とこんな風に喧嘩をしてみたかったです」
「そうだね。僕も綾乃と何か言い合ってみたくなっちゃったよ。でも、何を言えばいいかさっぱりわからないよ」
「私もですよ」
俺が見ている限りでは伸一さんも綾乃さんも人を悪く言うような感じには見えなかった。まだ付き合いも浅いのでわからないことだらけなのだが、この二人は誰かを疑うという事は知らないように思えるのだ。ちょっとした冗談を言ったとしてもソレを本気で受け止めて心配されたりもする。そんな真面目で、悪く言えば融通が利かないような感じなのだと思う。
結局、俺がどうして試験も受けずに転校出来たのかという答えはわからなかったのだが、これから会う先生にでも聞いてみればわかる事だろう。別に今この場で答えが欲しいわけではない俺は車列が続く道の先をじっと見つめていた。助手席に座っている璃々は俺には悪態をついてくるのだが伸一さんにも綾乃さんにも運転手さんにも迷惑はかけていないので良しとしよう。
てっきり校門の前で車から降りるのかと思っていたのだが、車はそのまま学校の敷地内へと入って行き、校舎のすぐ近くまで乗り入れていたのだ。
「こんな近くまで車で入ってもいいんだ」
「校門からも結構距離がありますからね。それに、学校の敷地外で何かあったら学校側も責任の取りようが無いですからね」
俺はミラー越しに目が合った運転手さんに挨拶をして車を降りたのだが、なぜか俺達と一緒に璃々も車を降りていたのだ。
「お前の頭が良いからって中学を飛ばして高校に入学したのか?」
「そんなわけないでしょ。ここは中学も高校も同じ校舎なのよ。自分の通う学校のことくらい少しは調べときなさいよね。いつでも璃々がお兄ちゃんに教えてあげられるわけじゃないんだからね」
「じゃあ、二人は僕が理事長室まで案内するね。綾乃は先に教室に行っていていいからね。綾乃が一緒だと遅刻しちゃうかもしれないからさ」
「もう、お兄様ったら意地悪ですね。私はそんなに足は遅くないですって」
「足は遅くないとは思うけど、よそ見が多いからね。今だって何か見つけてそれを見たいって思ってるでしょ」
何だろう。この二人は喧嘩はしないと思っていたのだけれど、意外とそうでもないのかもしれない。俺や璃々とは違って言葉遣いは上品なのだが、何となく意地悪ないい方のようにも思えてきた。でも、伸一さんはそんな皮肉めいた事を言うようには思えないのだけどな。
「じゃあ、さっそく向かうことにしようか。僕は挨拶だけしたらそのまま失礼させてもらうんで二人は先生方の言う事をちゃんと聞くんだよ」
何となくではあるが、伸一さんは俺が今まで見た人の中で一番人望があるのだと思う。すれ違う人すれ違う人がみんな伸一さんに挨拶をしているからという事もあるのだが、どんなタイプの人でも伸一さんに挨拶をする時はみんな程度の差はあれど笑顔なのである。どんなにいい人だって万人から笑顔で挨拶をされることなんて無いとは思うのだが、伸一さんに挨拶をする人はみんな笑顔で挨拶をしているのだ。伸一さんに笑顔で挨拶をすると何かいい事でもあるのではないかと思えるくらいみんな笑顔で挨拶をしていたのである。
「じゃあ、ここが理事長室だからね。僕はここで失礼させてもらうね。そうだ、璃々さんは何か部活動に参加するつもりはあるのかな?」
「え、私は特にそういうのは考えてないです」
「そうか。じゃあ、帰りは僕と一緒に帰ろうか。一人だと何かと心配だろうし、ちゃんと僕が家までエスコートしてあげるからさ。ちゃんと教室で待っててね。将浩君は綾乃と一緒に帰るといいよ」
伸一さんは笑顔でそう言うと足早に去っていったのだ。僕も璃々も何かを言おうとしたのだが、その言葉が出てこなかったのか黙って立ち尽くしていた。
僕は立ち尽くしている璃々の顔に大きな?が浮かんでいるのを感じ取ったのだが、おそらくそれは僕にも浮かんでいたのだろう。お互いにあっけにとられたままではあったが、ここに立っているわけにもいかないので理事長室の扉をノックしてみた。
中から帰ってきた声はどこかで聞いたことがあるような気がしたのだが、入室を促されたのでそんな事を考えることは出来ずに璃々と一緒に中へ入って行った。
「失礼します。神山将浩と神山璃々です」
「やあ、そんなにかしこまらなくても大丈夫だよ。今から君達の担任の先生を紹介するからね」
理事長室にいたのは何と、神谷淳二さんだった。俺の父さんの雇い主で俺達に住む場所を提供してくれているご主人様だ。色々な仕事をしているとは聞いていたのだが、この学校の理事長をしているという事は初耳だった。俺は驚いて璃々の顔を見たのだが、璃々は何とも涼しげな顔をしていたのである。この女は明らかに淳二さんがこの学校の理事長だという事を知っていたに違いない。知っていて黙っているなんて嫌な奴だと思いながらも、学校案内のパンフレットには名前入りで写真が載っていたのを後で発見してしまい、璃々に文句を言うことも出来ずに、ただただ怠惰に過ごしてしまった己を呪うのであった。
「初めまして、神山君の担任の相内咲子です。担当科目は数学なんだけど数学以外で知りたいことがあったら何でも気軽に聞いていいからね。私のわからない事だったら他の先生に聞いてあげるからさ。この学校には優秀な先生がいっぱいいるから少しでも疑問に思ったことは何でも聞いていいからね。これから約三年間よろしくね」
「よろしくお願いします。何かあった時は頼りにさせていただきます」
「うん、素直でいい子だね。うちのクラスはみんないい子だからすぐに馴染めると思うよ」
相内先生は良く言えばとても若々しく見えるのだ。本当は大学生だと言われても違和感がないのだが、教師になって間もないのであればそれも納得だろう。
「相内先生はわが校でも特別優秀な教師であるから将浩君だけでなく璃々君も何かあった時には頼って大丈夫だからね。もちろん、璃々君の担任の土橋先生も優秀な教師であるからね。だが、同じ女性同士でしか打ち明けられない悩みなんかもあるだろうから、その時は綾乃を通して相内先生に相談するのもありだと思うよ」
璃々の担任の先生はベテランの教師と言った感じなのだが、何となく年齢の割には威厳を感じないように見えた。それは逆に偉そうにせず謙虚に生きてきた証なのかもしれないが、一目見ただけでそこまで読み取れるものでもないだろう。
俺と璃々はそれぞれの担任に案内されて教室へ向かったのだ。理事長室を背にして右側が高校の校舎で左側が中学の校舎になっている。窓の外の様子を眺めてみると、中学生らしき集団と高校生らしき集団が別々の玄関へと向かっているのが目に入った。俺達が入った玄関とは別に左右に玄関が用意されているようだ。
「神山君は神谷さん達と一緒に車で通学だったよね。徒歩で来る時はあんな風に中学と高校で入口が別れてるんだよ。車で来る生徒用の入口もあるんで玄関は三つあるように見えるけどさ、全部繋がってるから間違えても平気だからね」
「そうなんですね。そう言えば、やたらと広いなって思ってました」
「ところで、神山君のお父さんの料理って凄く美味しいんでしょ。金曜日に理事長からその話を聞かされてずっと羨ましいなって思ってたんだよ。その美味しい料理を私も食べたいなって思ってたんだけど、神谷さんのお屋敷のお抱え料理人になったって聞いてちょっとショックだったんだよね。どこかでお店でも開いてくれてたら行ってみるんだけどな」
「今すぐってわけではないですけど、そのうち父は自分の店を持ちたいって言ってましたよ。神谷さんの許可が無いと出来ないとは思いますけど、その時はよろしくお願いします」
「その日が来るのが待ち遠しいよ。でもさ、そんなに美味しいんだったら神谷さんは手ばなさそうだよね。それはそれで仕方ないことではあるんだけどね。それにしても、神山君のお父さんが凄いのか神山君自信が凄いのかわからないけど、神谷さんがここ一週間ずっと理事長室にいるのって珍しいんだよね。この学校の他にもいろいろな事業を行ってるから一か所に留まることなんて滅多にないんだけどね、それほど期待されてるって事なんじゃないかな。一週間以上学校に来てるのなんて伸一君が入学した時以来だって聞いたからね」
「淳二さんは忙しそうですもんね。朝食の時は一緒ですけど夜はほとんど姿を見かけないですからね。引っ越して挨拶してからほぼ朝にしか姿を見てないかもしれないですよ」
その後も軽く世間話をしながら教室まで連れて行ってもらったのだが、案内されて入った教室の中にいる生徒は十二人しかおらずそのうちの四人は俺の知っている顔であった。
「はい、先週話した通り今日から一緒に過ごす神山君です。神谷さん達はもう知っているかもしれませんが、他の子たちは君の事を何も知らないと思うので簡単に自己紹介よろしくね」
俺は綾乃さんと同じクラスになるのではないかと思ってはいたのだが、同じクラスにいたのは綾乃さんだけではなくメイドのフランソワーズさんとジェニファーさんとエイリアスさんも一緒だったのだ。何となく年齢は近いんじゃないかなと思ってはいたのだけれど、三人とも同い年だとは思わなかった。
「あ、将浩さんが固まってる。人前に立つのは苦手って感じはしなかったんだけど、意外と緊張しいなのかも。私が代わりに将浩さんの事を紹介してあげようか?」
俺はいつもより不自然なほど多く瞬きをして状況を理解しようとしていたのだが、そんな事をお構いなしにフランソワーズさんが俺の事を紹介し始めた。
どこで調べたんだろうというような秘密まで喋られてしまった俺ではあったが、別に恥ずかしい過去と言うわけではなかったので少しだけほっとしていたのである。
「大丈夫ですよ。人に言えないような事は誰にも言いませんから。もちろん、お嬢様にも言いませんからね」
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