第3話 優秀ではない兄とお嬢様

 あまりにも広すぎる部屋に対して俺の荷物はあまりにも少なすぎた。ここに引っ越す前までは狭い部屋は不便だなと思っていたのだが、ここまで広い部屋だと逆に物が無さ過ぎて悲しい気持ちになってしまうほどだった。ただ、これ以上何かを増やそうと思っても必要なモノなんて無いわけだし、あったとしても勉強道具が増えるだけだろう。

 そんな時、ノックもせずに入ってきたのは先程とは違うメイドさんで、僕が話しかけても何も答えずにニッコリとほほ笑むだけで会話にならず、部屋の隅々まで確認すると一礼して出て行った。

 一体何がしたかったのだろうと思って呆然としていると、次は控えめなノックの音が響いていた。僕はそれにどう反応していいのかわからずに立ち尽くしていたのだが、再びノックの音が聞こえると同時に聞いたことのない声が聞こえてきた。

「こんにちは、これからお部屋の中に入ってもよろしいでしょうか?」

「あ、はい。どうぞ」

 何の気なしに答えてしまったのだが、その声の主が誰なのか俺は理解していない。ゆっくりと開いた扉から見える姿はどこか上品でありながらも髪が少し跳ねていて無防備さも見せているように感じた女性だった。おそらく、璃々と同じくらいの年頃だと思うのだが、明らかに使用人と言った感じではなかったのだ。

「初めまして、私は神谷綾乃と申します。ご挨拶が遅れてしまいまして申し訳ございません」

「こちらこそご挨拶が遅れてすいません。神山将浩です。何かと至らない点があるかと思いますが、なるべくご迷惑をおかけしないように気を付けますのでよろしくお願いします」

「これはご丁寧にありがとうございます。いきなりで申し訳ないのですが、この部屋にはもう慣れましたか?」

「いや、この部屋は広すぎて全然慣れそうにないです。もしかしたら出すけど、前にみんなで棲んでた家よりも広いんじゃないかなって思って落ち着かないくらいですよ。綾乃さんの部屋ってここより広いんですよね?」

「私の部屋はここまで広くは無いですよ。半分も無いんじゃないかなって思いますよ。兄は広い部屋でも問題無いようなのですが、私と父はなるべく壁が近い方が落ち着くと言いますか、あまり広い空間は得意ではないのですよ。特に、一人でいると得も言われぬ恐怖を覚えてしまうのです。そんな事はさておき、将浩さんの私物ってそこにある箱に入っている物だけですか?」

 俺が持ってきたものは段ボールにして四箱だけしかなかった。あまり服を持っていない俺は璃々と違って荷物も少なく、これといった趣味も無いので必要のなさそうなものは引っ越しのタイミングで捨ててしまったのだ。多少の思いで何かはあったりしたけれど、本当に忘れたくないものだけを選別した結果がこの四箱だけなのである。

 これから整理しようと思っていたので箱は全部中途半端に開いてしまっているのだが、綾乃さんはそれを一つ一つ見ているので何となく気恥ずかしい思いをしてしまった。

「これって、スケッチブックですよね。中を見てもよろしいですか?」

 綾乃さんが手に取ったスケッチブックは俺が時々暇つぶしに描いていたクレヨン画が描かれているのだ。幼稚園の時からクレヨンで絵を描くのが好きだった俺は妹の璃々が使わなくなったクレヨンを勝手に使ったりもしていたのだが、小さい時はあんなに俺の絵を喜んでくれいていた璃々も俺の絵を見なくなり、いつしか絵ばかり描いていた俺を小馬鹿にするようになっていた。それでも、俺は絵を見て喜んでくれていた璃々の姿を思い浮かべながら今も時々クレヨンで絵を描いていたりしたのだ。

「将浩さんはクレヨンで絵を描くのが好きなんですか?」

「好きと言いますか、昔は俺が描く絵を見て妹の璃々が喜んでくれてたんですよ。それで、喜んでくれるのを見るのが好きで描いてたりもしてたんですが、いつからか絵を描いていることを馬鹿にされるようになりまして、今では暇つぶしに何か適当に描いてるって感じですね。と言っても、テレビで見た物を描いてるってだけなんですけどね」

「あの、もしよろしければなんですけど、これからは将浩さんが描いた絵を私に見せてもらうことは出来ないでしょうか?」

「それは別にいいですけど」

「ありがとうございます。ちなみになんですけど、将浩さんはこのキャラクターの事はどこまでご存知ですか?」

 ご存知ですかと聞かれても俺はこのキャラクターが何なのか理解はしていない。たまたま見ていたアニメのキャラクターってだけで実は名前も知らないのだ。

「何も知らないですね。本当にたまたま見たアニメに出てたってだけですから。それがどうかしたんですか?」

「たまたまですか。ですが、たまたま目に入っただけでここまで可愛らしさを表現できるなんてすばらしいです。ちなみに、何回くらいこの回をご覧になったんですか?」

「何回も見てないですよ。ご飯を食べながら見てた時のだと思いますね。何となく印象的なところだったので描いてみただけですよ」

 璃々が小さい時からずっと続いてるアニメのシリーズだったと思うのだが、なぜが璃々はこのシリーズだけは今も欠かさず見ているのだ。その時間だけはいくら話しかけても無視されるので黙って一緒に見ているのだが、天才ゆえの集中力を発揮しているような横顔が印象的なのである。

「という事は、録画して何度も見ているわけではなく、一度見ただけでこれだけの絵を描けるという事なんですね。素晴らしいです。天才です」

「いや、天才ではないと思いますよ。天才ってのは妹の璃々みたいなやつの事を言うんだと思いますけど」

「そんな事ないですよ。これだけの絵を描けるのも立派な才能ですわ。もしよろしければ、この絵を私のお兄様にも見せていいでしょうか?」

「別にいいですけど」

「ありがとうございます。あとでまたお話ししましょうね」

 俺のスケッチブックを嬉しそうに抱えて綾乃さんは部屋を出て行ったのだが、入ってきた時よりも深く頭を下げて出て行った姿はとても美しく俺の目に映っていた。

 スケッチブックがあればこの瞬間を描いていたかもしれない。

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